見た目は子供、頭脳は大人なんだから、かさちゃんってばまったくもう」
さきちゃんはそれを何故だか悪いことのように言った。
……今度赤い蝶ネクタイでもつけてこようか。もしかしたら推理力が上がるかもしれない。
ああ、そうだ。細かいことと言えば、
「あの掛け軸にも、梶原哲って名前が書いてありますけど、あれって哲さんが書いたんですか?」
私は「竜神」と書かれた掛け軸を指差しながら訊ねた。
すると哲さんは照れ臭そうに大きな手で頭を搔きながら答えた。
「まあな。下手の横好きってやつだが、ちょいと書道も齧っててな。
だが、あれは珍しく上手いこと書けたんだよ。この碁会所を開く少し前にな。
ついでに、そのまま店の名前にしたらどうだって千鶴子が言うもんだから記念に飾ってあんのさ。
ああ、千鶴子ってのはうちのかみさんだよ。この店は夫婦で営んでんだ。なあ、千鶴子?」
「うふふ、私はちょっと手伝ってるだけですよ。
囲碁も教えてもらったけれど、私にはさっぱりで」
カウンターの向こうから千鶴子さんはそう応えた。
なんとなく微笑ましいそのやり取りを見て、仲のいい夫婦なんだなと思った。
「俺の教え方が悪かったわけじゃねえと思うが、まあ人には向き不向きってもんがあるからな。
さて、さきちゃんとかさねちゃんはどうかねえ」
そう言いながら哲さんは盤の上のふたつの入れ物に手を伸ばし、それぞれ蓋を開けて手元に置いた。
その中にはそれぞれ黒石と白石が詰められていた。哲さんはまずこれらの道具について説明してくれた。
この盤のことは正確には碁盤と言い、入れ物は碁笥と言うらしい。
そして碁笥に詰められた黒石と白石。これだけあれば囲碁は打てるのだという。
「囲碁ってのは、それぞれ対局者がこの黒石と白石を交互に打っていくんだが、升目の中じゃなくて交点に打っていくんだ。
縦の線と横の線が交わってる点があるのが分かるかい?
こいつが交点で端っこや角っこも含めて縦横19×19の碁盤、つまり19路盤ってんだ。
さて、合計いくつの点があるか計算できるか?」
「か、かけ算はまだ習ってないです……」
「でも20×20が400だから、大体360くらいですか?」
「お、かさねちゃんは賢いねえ。正解は361だ。
ただ慣れないうちはもっと小さい碁盤で練習したほうがいいな。
9路盤から13路盤、それから19路盤って具合にステップアップしていくんだ。
とは言え、今はルールを教えるためだから19路盤を使うぜ。千鶴子、あとで9路盤を出してやりな」
「はいはい」
千鶴子さんはカウンターから私たちの様子を見守ってくれている。
彼女もこんな風に、哲さんに囲碁を教えてもらったんだろうか。何かを懐かしむような優しげな笑みを浮かべていた。
「それでそれでっ!? どうやったら勝ちになるの?」
さきちゃんは目を輝かせながら哲さんの説明を促した。
正直なところ、どうしてそこまで囲碁に興味を持っているのか、私には分からない。
何か感じ入ったことがあるのか、あるいは単に好奇心旺盛なだけなのだろうか。
「碁ってのは要は陣地取りよ。最後に相手より広い陣地を持ってたほうが勝ち。
あともうひとつ大事なルールがあって、完全に周りを囲んだ石は取れるんだ。
他にも細かいルールはあるが、これだけ覚えてりゃ誰でも打てる。
将棋みたいに駒の動きを覚えたり、麻雀みたいに役や点数計算を覚えたりする必要もない。
単純明快だが、無限の可能性があり奥深い。その深淵には未だ誰もたどり着いちゃいねえのさ」
「無限の可能性……」
さきちゃんの口からは感嘆のため息が漏れていた。……なるほど、きっと彼女は可能性という言葉が好きなのだ。
私は改めて碁盤を眺めてみたが、確かに将棋盤よりもはるかに広い空間がそこにはあった。
先程の話だとこの盤上には361個の交点がある。つまりそれは初手だけでも361通りの手があるということだ。
それが何十手、何百手と続いていけば、何通りの可能性があるのかはもはや計算不可能だ。
尤ももちろんその中には絶対に選択されない明らかな悪手もあるのだろうけれど、それでもこの盤上には宇宙のような広がりがあることに変わりはないだろう。
「さて、次は『石を取る』ってのがどういうことか、もう少し詳しく説明しねえとな。
じゃあ、まずは真ん中の星に黒石を置いてみるか」
「星? 盤の上に星があるの? 宇宙みたい!」
「ははは、いいたとえだな。さきちゃん、盤の上をよく見てごらん。
黒い点が9つあるだろう? それが星だ。
真ん中の星は天元とも言うが、まあそれは覚えてなくてもいい。
これらの星は目印以外の意味があるわけじゃないからな」
哲さんはそう言いながら、真ん中の星に黒石を置いた。……いや、打つと表現するべきなのだろうか。
その手首のしなりは如何にも年季が入っていて荘厳な雰囲気を感じるほどだった。
そして、真ん中に置かれた黒石からは四方八方を睨みつけているかのような威圧感を感じた。
「さあ、この黒石を取るにはどうすればいいと思う?
白石をいくつ使ってもいいから、上手く囲んで取ってごらん。
そうだな、まずはさきちゃんのほうから挑戦してみるか」
そう言われたさきちゃんは少し考えるような仕草をしてから、丸く囲むようにして白石を置いていってから黒石を取り上げた。
つまり盤上には8つの石を置いたことになる。文字通り八方塞がりといったところだろうか。
哲さんは感心したように頷きながらも、どこか不満げな表情で今度は私に挑戦してみるように言った。
「えっと、これでいいんですよね?」
私は哲さんの説明を思い出しながらさきちゃんの横から手を伸ばし、真ん中にぽつんと置き直された黒石の上下左右に白石を置いていった。
交点とは縦の線と横の線が交わっている点のことで、斜めには線はない。つまり繋がっていない。
だからこうやって四方に囲むだけで、この黒石は完全に囲まれたことになるはずだ。
「うん、かさねちゃんのほうが正解だ。
さきちゃんも間違いではないんだが、斜めに置かれた石は余分になっちまってる。
この真ん中の星と隣り合ってる交点は上下左右だけだから、このように四方を囲むだけでこの黒石は取れたことになるのさ」
「ほえー」
さきちゃんは大口を開けて呆然とした様子だ。はたしてちゃんと理解しているのか、ちょっと不安だ。
そういう私もまだ完璧に理解できたとは言えない気がする。
今回はひとつの石を囲っただけだったけど、もしこれがふたつ、みっつと増えていったらどうなるんだろう。
それを考えればルールそのものは単純でも、他に覚えなくちゃいけないことがまだまだあるようだ。
さきちゃんはしばしの沈黙のあと、はたと膝を打って黒石を取り上げながら訊ねた。
「じゃあさ、じゃあさ! 取った石は持って帰っていいの!?」
「いいわけないでしょ」
……哲さんが説明する前に思わずツッコミを入れてしまった。
さきちゃんの言う通り、お客さんがみんな取った石をおうちに持って帰っていったら、そのうちこのお店からは碁石がなくなってしまうだろう。
さきちゃんはそれを何故だか悪いことのように言った。
……今度赤い蝶ネクタイでもつけてこようか。もしかしたら推理力が上がるかもしれない。
ああ、そうだ。細かいことと言えば、
「あの掛け軸にも、梶原哲って名前が書いてありますけど、あれって哲さんが書いたんですか?」
私は「竜神」と書かれた掛け軸を指差しながら訊ねた。
すると哲さんは照れ臭そうに大きな手で頭を搔きながら答えた。
「まあな。下手の横好きってやつだが、ちょいと書道も齧っててな。
だが、あれは珍しく上手いこと書けたんだよ。この碁会所を開く少し前にな。
ついでに、そのまま店の名前にしたらどうだって千鶴子が言うもんだから記念に飾ってあんのさ。
ああ、千鶴子ってのはうちのかみさんだよ。この店は夫婦で営んでんだ。なあ、千鶴子?」
「うふふ、私はちょっと手伝ってるだけですよ。
囲碁も教えてもらったけれど、私にはさっぱりで」
カウンターの向こうから千鶴子さんはそう応えた。
なんとなく微笑ましいそのやり取りを見て、仲のいい夫婦なんだなと思った。
「俺の教え方が悪かったわけじゃねえと思うが、まあ人には向き不向きってもんがあるからな。
さて、さきちゃんとかさねちゃんはどうかねえ」
そう言いながら哲さんは盤の上のふたつの入れ物に手を伸ばし、それぞれ蓋を開けて手元に置いた。
その中にはそれぞれ黒石と白石が詰められていた。哲さんはまずこれらの道具について説明してくれた。
この盤のことは正確には碁盤と言い、入れ物は碁笥と言うらしい。
そして碁笥に詰められた黒石と白石。これだけあれば囲碁は打てるのだという。
「囲碁ってのは、それぞれ対局者がこの黒石と白石を交互に打っていくんだが、升目の中じゃなくて交点に打っていくんだ。
縦の線と横の線が交わってる点があるのが分かるかい?
こいつが交点で端っこや角っこも含めて縦横19×19の碁盤、つまり19路盤ってんだ。
さて、合計いくつの点があるか計算できるか?」
「か、かけ算はまだ習ってないです……」
「でも20×20が400だから、大体360くらいですか?」
「お、かさねちゃんは賢いねえ。正解は361だ。
ただ慣れないうちはもっと小さい碁盤で練習したほうがいいな。
9路盤から13路盤、それから19路盤って具合にステップアップしていくんだ。
とは言え、今はルールを教えるためだから19路盤を使うぜ。千鶴子、あとで9路盤を出してやりな」
「はいはい」
千鶴子さんはカウンターから私たちの様子を見守ってくれている。
彼女もこんな風に、哲さんに囲碁を教えてもらったんだろうか。何かを懐かしむような優しげな笑みを浮かべていた。
「それでそれでっ!? どうやったら勝ちになるの?」
さきちゃんは目を輝かせながら哲さんの説明を促した。
正直なところ、どうしてそこまで囲碁に興味を持っているのか、私には分からない。
何か感じ入ったことがあるのか、あるいは単に好奇心旺盛なだけなのだろうか。
「碁ってのは要は陣地取りよ。最後に相手より広い陣地を持ってたほうが勝ち。
あともうひとつ大事なルールがあって、完全に周りを囲んだ石は取れるんだ。
他にも細かいルールはあるが、これだけ覚えてりゃ誰でも打てる。
将棋みたいに駒の動きを覚えたり、麻雀みたいに役や点数計算を覚えたりする必要もない。
単純明快だが、無限の可能性があり奥深い。その深淵には未だ誰もたどり着いちゃいねえのさ」
「無限の可能性……」
さきちゃんの口からは感嘆のため息が漏れていた。……なるほど、きっと彼女は可能性という言葉が好きなのだ。
私は改めて碁盤を眺めてみたが、確かに将棋盤よりもはるかに広い空間がそこにはあった。
先程の話だとこの盤上には361個の交点がある。つまりそれは初手だけでも361通りの手があるということだ。
それが何十手、何百手と続いていけば、何通りの可能性があるのかはもはや計算不可能だ。
尤ももちろんその中には絶対に選択されない明らかな悪手もあるのだろうけれど、それでもこの盤上には宇宙のような広がりがあることに変わりはないだろう。
「さて、次は『石を取る』ってのがどういうことか、もう少し詳しく説明しねえとな。
じゃあ、まずは真ん中の星に黒石を置いてみるか」
「星? 盤の上に星があるの? 宇宙みたい!」
「ははは、いいたとえだな。さきちゃん、盤の上をよく見てごらん。
黒い点が9つあるだろう? それが星だ。
真ん中の星は天元とも言うが、まあそれは覚えてなくてもいい。
これらの星は目印以外の意味があるわけじゃないからな」
哲さんはそう言いながら、真ん中の星に黒石を置いた。……いや、打つと表現するべきなのだろうか。
その手首のしなりは如何にも年季が入っていて荘厳な雰囲気を感じるほどだった。
そして、真ん中に置かれた黒石からは四方八方を睨みつけているかのような威圧感を感じた。
「さあ、この黒石を取るにはどうすればいいと思う?
白石をいくつ使ってもいいから、上手く囲んで取ってごらん。
そうだな、まずはさきちゃんのほうから挑戦してみるか」
そう言われたさきちゃんは少し考えるような仕草をしてから、丸く囲むようにして白石を置いていってから黒石を取り上げた。
つまり盤上には8つの石を置いたことになる。文字通り八方塞がりといったところだろうか。
哲さんは感心したように頷きながらも、どこか不満げな表情で今度は私に挑戦してみるように言った。
「えっと、これでいいんですよね?」
私は哲さんの説明を思い出しながらさきちゃんの横から手を伸ばし、真ん中にぽつんと置き直された黒石の上下左右に白石を置いていった。
交点とは縦の線と横の線が交わっている点のことで、斜めには線はない。つまり繋がっていない。
だからこうやって四方に囲むだけで、この黒石は完全に囲まれたことになるはずだ。
「うん、かさねちゃんのほうが正解だ。
さきちゃんも間違いではないんだが、斜めに置かれた石は余分になっちまってる。
この真ん中の星と隣り合ってる交点は上下左右だけだから、このように四方を囲むだけでこの黒石は取れたことになるのさ」
「ほえー」
さきちゃんは大口を開けて呆然とした様子だ。はたしてちゃんと理解しているのか、ちょっと不安だ。
そういう私もまだ完璧に理解できたとは言えない気がする。
今回はひとつの石を囲っただけだったけど、もしこれがふたつ、みっつと増えていったらどうなるんだろう。
それを考えればルールそのものは単純でも、他に覚えなくちゃいけないことがまだまだあるようだ。
さきちゃんはしばしの沈黙のあと、はたと膝を打って黒石を取り上げながら訊ねた。
「じゃあさ、じゃあさ! 取った石は持って帰っていいの!?」
「いいわけないでしょ」
……哲さんが説明する前に思わずツッコミを入れてしまった。
さきちゃんの言う通り、お客さんがみんな取った石をおうちに持って帰っていったら、そのうちこのお店からは碁石がなくなってしまうだろう。