【登場人物紹介】
【雨宮かさね】
読書が好きな女の子。自分に自信がなく「すみません」が口癖。
【早川さき】
かさねの親友の女の子。天真爛漫でドッジボールが好き。
【梶原哲】
碁会所の席亭のおじいさん。アマチュア囲碁大会の県代表になったことがある。
【梶原千鶴子】
哲の妻。お団子頭で優しそうなおばあさん。
【大林学】
プロ棋士の男性。七段。細身で眼鏡をかけている。温和で誠実な性格。
【倉橋茂美】
院生Aクラスの女の子。軽薄な物言いをするが、内心不安を抱えている。
【横山矩夫】
プロ棋士の男性。八段。髭面で筋肉質。普段はおちゃらけているが兄貴肌。
「かさねちゃんって雨宮って名字だから雨が好きなのかと思った」
梅雨の時期になると、よくそう言われる。友達にも先生にも、しまいには名字の違う親戚にもだ。
だけど、そんなわけない。もしかしたら雨が好きな人もいるのかもしれないけど、少なくとも私はじめじめとした季節は嫌いだ。
「雨止みそうにないね、かさちゃん。
お天気のお姉さんは夜までは降らないって言ってたのに」
雑居ビルで雨宿りする私の隣でそう呟いたのは、同じクラスの早川さきちゃんだ。
彼女は私と同じ小学2年生で、クラスのムードメーカー的存在だ。
ある日の昼休みにひとりで読書していた私にも、明るく話しかけてくれた。
私の「雨宮」という名字もいい名前だって褒めてくれて嬉しかった。
それから近所に住んでることもあって、一緒に登下校をする友達になった。
1年生の頃にはなんの接点もなかったから、まだ2ヶ月程度の付き合いしかないけれど、私はすぐに彼女のことが大好きになった。
彼女と並んでコンクリートの階段に座っていた私はその横顔をそっと眺めた。
その表情は暇そうだったけど、どことなくこの状況を楽しんでいるようにも見えた。
雨は嫌いだけど、こうしてさきちゃんとのんびりお話しする時間ができたと思うと、ほんの少しだけ天の神様に感謝したくなった。
「にわか雨ってやつじゃないかな。多分すぐ止むよ」
私はそう応えたけれど、本音を言えばこのまましばらくさきちゃんと一緒にいたかった。
だけど、学校帰りに急にどしゃ降りの雨が降ってきたものだから、傘も持っていなかった私たちは全身ずぶ濡れになっていた。
お互いハンカチは持っていたけれど、そんなんじゃ全然拭き足りなくて、髪からは雨水がぽたぽたと滴っていた。
それにさきちゃんはボブカットで短い髪型だけど、私の髪はハーフアップでまとめているから余計に拭くのは大変だった。
早く身体を温めないと風邪をひいてしまいそうだ。今日に限ってお互いの両親も留守にしているから、迎えにも来てもらえない。
まさに万事休すというやつだ。本当についていなかった。
「うーん、でももうちょっと待って止みそうになかったら走って帰ったほうがよくない?
もうすっかり身体が冷えちゃって。早くおうちでお風呂に入りたいよ。……へっけちゅ!」
「え、今のくしゃみ……?」
さきちゃんのくしゃみは、なんだかへんてこだった。
ちょっとかわいらしかったけど、彼女の身体が心配になってしまう。
確かにさきちゃんの言う通り、あと少し待っても雨が止まないようなら、急いで帰るほうが正しい選択なのだろう。
そう思ったとき、階段の上のほうから声をかけられた。
「あらあら、大変。なんだかかわいらしい声が聞こえると思ったら」
振り返って見上げると、そこにはお団子頭の優しそうなおばあさんがいた。
背中は少し曲がっていて、髪もほとんど白髪だったから、私のおばあちゃんより少し年上のように見えた。
この雑居ビルには人は住んでない様子だったので、きっとどこかのお店の人なんだろうなと思った。
「あなたたち、この近くの学校の子かしら?」
「す、すみません……! こんなところにいたらお邪魔ですよね……!
ほら、もう行こうよ、さきちゃん!」
私はさきちゃんにそう促して慌てて立ち上がったけど、おばあさんは手を振って「いいのよ、いいのよ」と微笑んだ。
さきちゃんはぼーっとしたまま、そのおばあさんを見つめていた。
「それより、そんなずぶ濡れのまんまじゃ風邪をひいてしまうわ。
よかったら上がっていきなさい。タオルくらいは用意してあるから」
「え、でも……」
私は遠慮するような気持ちと、知らない大人についていってはいけないという警戒心で、その誘いを断るつもりだった。
だけど、さきちゃんは私と違って素直な反応だった。
「いいんですか!? それじゃあお邪魔します!」
こういうとき天真爛漫な彼女が傍にいてくれると助かる。
このおばあさんはきっと純粋に私たちのことを心配してくれているのだろうし、ここで断ってしまうほうが失礼に当たるような気がしたからだ。
私たちはおばあさんに招かれて2階への階段を上り、ガラス張りの扉の向こうに通された。
その瞬間、嫌な臭いと煙が漂ってくるのを感じた。
部屋の中には木製の長机がいくつか並べられており、その上には木の板のようなものが等間隔で並べられていた。
また、その木の板を挟むように向かい合ってパイプ椅子も並べられていた。
それにそこに座っているのはおじさん、あるいはおじいさんと言ってもいい人ばかりだった。
私は初め喫茶店に連れてこられたんだと思ったけれど、どうやらその読みは違っていたようだ。
「どうぞどうぞ、座ってちょうだい。
タバコ臭くて悪いけれど、そっちの隅っこなら換気扇も回っているから」
おばあさんはそう言って、カウンターの裏側の棚を開けてごそごそと何かを探し始めた。
私は濡れた身体のまま座っていいのだろうかと躊躇したが、悩んでいるうちにさきちゃんはすでにランドセルを床に置いて座っていたのでそれに倣うことにした。
……それにしても、目の前にあるこの木の板はなんだろうか。
よく見ると、上面にはいくつもの黒色の直線が方眼紙みたいに縦横に交わって描かれていた。
こういうのって「碁盤の目」って言うんだっけ。ああ、それが答えか。
さらにその盤の上にはふたつの木製の入れ物があったが、おそらくその中には黒石と白石がそれぞれ詰められているのだろう。
私はおじいちゃんの家に遊びに行ったとき、五目並べで遊んでもらったことを思い出していた。
本当はこの盤は「囲碁」というゲームをするためのものだとも教えてもらった。
しばらくしておばあさんがタオルを持ってきて、私たちの身体を頭から拭いてくれた。
私たちはそこまでしてもらうほど子供じゃないし、少し照れ臭かったけど、くしゃくしゃと心地よかったのでされるがままにしておいた。
「ほれ、これくらいでいいかね。温かいお茶も淹れてあげようかね。
お茶菓子もあるから、もう少しここで雨宿りしていきなさいな」
「あ、すみません……、お願いします」
「ありがとうございます!」
私はつい「すみません」と言ってしまう。本当はこういうときは、さきちゃんの言うように「ありがとう」のほうがいいんだろう。
分かっていても一度口癖になってしまった言葉遣いはなかなか直らないものだ。
おばあさんに淹れてもらったお茶(――多分緑茶だ)で一服すると、さきちゃんはすっかり元気になってお店の中を歩き回っていた。
私はと言うと座ったまま辺りを見回して、壁に掛け軸が掛けられていることに気が付いた。
そこには迫力のある筆文字で「竜神 梶原哲」と書かれていた。
……もしかして、ここ怖いお店だったりする? お父さんが観ていた映画の中で、借金の取り立て屋さんの事務所にこんな掛け軸があったような気がする。
急に不安になって、さきちゃんのほうを見ると、彼女は盤を挟んで向かい合っているおじいさんたちの様子を窺っていた。
私はおばあさんに置いてもらったお茶菓子に手もつけず立ち上がり、さきちゃんのもとへと向かった。
「うーむ……」
「てっちゃんの番だよ」
「分かっとるわい。今考え中だ」
さきちゃんの背中に隠れておじいさんたちの表情を窺うと、とても真剣な顔つきをしていた。
特に「てっちゃん」と呼ばれたほうの恰幅のいいおじいさんは、眉間に皺を寄せて深く考え込んでいるようだった。
石を持つ手とは反対の、左手に掴まれたタバコは今にも灰が落ちそうだった。その手元の灰皿には吸い殻が溢れていた。
てっちゃん、てっちゃん……、私は先程の呼び名を頭の中で咀嚼してみる。
……哲っちゃん? 先程見た掛け軸の「梶原哲」とは、このおじいさんのことなんだろうか。
盤面を覗き見る。石の並びを見ると五目並べではなさそうだった。
五目並べなら中央に石が固まることが多いけど、私の目には黒石と白石が盤全体を彩る光景が飛び込んできた。
これがきっと私のおじいちゃんが言っていた囲碁というゲームなのだろう。
「このあたりの白石が不安定な感じがする。多分守りの一手が必要」
――その一言は突然だった。さきちゃんが盤面を指差しながら、そう言ったのだ。
真剣な顔つきをしていたおじいさんたちの表情は驚きに変わっていた。
私はその表情の変化をさきちゃんが対局の邪魔をしてしまったせいだと思い、慌てて代わりに謝ろうとした。
「す、すみませ――」
「お嬢ちゃん、囲碁が分かるのかい?」
私が謝罪の言葉を口にするよりも早く、哲さん(?)はさきちゃんに問いかけた。
その声色は穏やかで別に怒っているわけではなさそうだった。
むしろ私のおじいちゃんがお小遣いをくれるときみたいな、弾んだ調子すら感じた。
「ううん。ただ、なんとなくそんな気がしただけ」
さきちゃんはなんてことないように答えた。
私の知る限りでも、彼女はこの手の知的遊戯よりも身体を動かす競技のほうが得意なはずだ。
私の家で遊んだテレビゲームの落ち物パズルだって、私のほうが上手く連鎖できたから途中からハンデをあげていたくらいだ。
その代わりかけっこでは一度も勝てたことはないのだけど、とにかく彼女はそういう子だ。
だから、きっと本当に思ったことをそのまま口にしただけのことなのだ。だけど、おじいさんたちはそれが甚く気に入ったらしい。
「はっはっは! なんとなくか、そりゃあいい!
するってぇと何かい? お嬢ちゃんは天性の勘でこの局面の急所を言い当てたと?」
「おいおい、哲っちゃん。これじゃ岡目八目だよ」
「何を言うか。俺ぁ、言われなくてもこのあたりに打つつもりだったんだよ。
だがな、次の一手を打つには先の先まで読まねえと――」
おじいさんたちが何をそんなに騒いでいるのか、私にはよく分からなかった。
「岡目八目」というのも初めて聞いた言葉だ。さきちゃんの言葉が助言になっているということだろうか。
ひとつ分かるのは、どうやらさきちゃんが褒められているということだけだった。
……生憎当の本人もきょとんとした顔をしているだけなのだけど。
今にも「私、何かやっちゃいましたか?」とでも言い出しそうだ。
「ほれほれ、あんた。なぁにを子供の前ではしゃいどるんね。ふたりとも困っとるがね」
「千鶴子、そうは言うがな、もしかしたらこいつはダイヤの原石を掘り当てちまったかもしれねえぜ?」
「はいはい。ふたりとも、この人の言うことは話半分に聞いとけばいいからね。
それより雨はもう上がったよ。また降り出さんうちに帰りなさいな」
おばあさん、――千鶴子さんはそう言って私たちの帰宅を促した。
お茶菓子、まだ食べてないんだけど。袋物くらいは貰ってランドセルにしまっておこうか。
言われるがままに帰り支度をする私とさきちゃんに哲さんは石を打つような仕草をして誘いかけた。
「おい、お嬢さん方。家はすぐ近くなんだろう?
席料は要らねぇから、また今度学校帰りにでもここに来な。
この俺がみっちりと囲碁を一から教えてやるよ」
その誘いを冗談だと思ったのは私だけだったらしい。さきちゃんはその言葉に目を輝かせていた。
翌日、私たちは再びその雑居ビルへ向かうことになった。さきちゃんは駆け足気味に歩道を進んでいく。
……というか、行く約束なんてしてなかったのに、学校の帰りの時間になった瞬間、「それじゃあ行こうか」だもんなあ。
正直なところびっくりしちゃったけれど、引っ込み思案な私にはさきちゃんくらいの強引さが必要なのかもしれない。
だけど、油断していると置いていかれそうだ。私は必死にさきちゃんのあとを追いかけていた。
ときどき息が切れそうになってしまったけれど、そのたびにさきちゃんは振り向いて立ち止まってくれた。
そうして雑居ビルに到着し、コンクリートの階段を上って扉の前まで歩いていったあたりで、私はあることに気が付いた。
扉のガラスにも掛け軸と同じ「竜神」という文字が書かれていたのだ。おそらくこれが店名なのだろう。
さきちゃんは物怖じもせず、近くにいた私が風を感じるほど勢いよくその扉を開け放った。
「こんにちはー!」
「こ、こんにちは……」
「お、来たかい。お嬢さん方。
とりあえずこっちに来て座りな」
哲さんは昨日私たちが座った換気扇の近くの席で待ち構えていた。
「どうも、いらっしゃい」
私たちはランドセルをカウンターにいた千鶴子さんに預けると、言われるがままにパイプ椅子に腰かけた。
さきちゃんは哲さんと向き合うように、私はそのさきちゃんの隣に座る形になった。
「今日は晴れてよかったねえ」
千鶴子さんはそう言いながらカウンターのほうから出てきて、空の灰皿をどかして代わりにお茶とお茶菓子を置いてくれた。
「ありがとうございます!」
「ありがとうございます……」
よかった。今日はちゃんと「ありがとう」って言えた。あとはもう少し元気よく、かな。
「さてと、まずは自己紹介しねえとな。
俺はこの碁会所の席亭で梶原哲ってんだ。よろしくな、お嬢さん方」
「よろしくお願いします。……碁会所? 席亭?」
「つまりこの囲碁を打つお店の店長さんってことじゃないかな、さきちゃん」
「店長さんはよして欲しいがな。哲さんでいいぜ。
みんな俺のこたぁ下の名前で呼ぶしな」
私は言われるまでもなく、心の中で哲さんと呼んでいたのだけど、どうやらそれで間違いなかったらしい。
続けて私たちも哲さんに自己紹介をした。
「私の名前は早川さきです。小学2年生です。
趣味はゲームとドッジボールです。勉強は、……ちょっと苦手です。
あとは、ええっと……」
「それくらいでいいんじゃない? 私は雨宮かさねです。
さきちゃんと同じクラスに通う小学2年生です。
趣味は読書で、特に宮部みゆきさんや東野圭吾さんの作品が好きです。よろしくお願いします」
「ほう、そんな難しい本が読めるのかい」
「児童書用にも何冊か出てるので、それならなんとか……」
「そういう本ばっか読んでるから細かいことにも気付いちゃうんだよ。
見た目は子供、頭脳は大人なんだから、かさちゃんってばまったくもう」
さきちゃんはそれを何故だか悪いことのように言った。
……今度赤い蝶ネクタイでもつけてこようか。もしかしたら推理力が上がるかもしれない。
ああ、そうだ。細かいことと言えば、
「あの掛け軸にも、梶原哲って名前が書いてありますけど、あれって哲さんが書いたんですか?」
私は「竜神」と書かれた掛け軸を指差しながら訊ねた。
すると哲さんは照れ臭そうに大きな手で頭を搔きながら答えた。
「まあな。下手の横好きってやつだが、ちょいと書道も齧っててな。
だが、あれは珍しく上手いこと書けたんだよ。この碁会所を開く少し前にな。
ついでに、そのまま店の名前にしたらどうだって千鶴子が言うもんだから記念に飾ってあんのさ。
ああ、千鶴子ってのはうちのかみさんだよ。この店は夫婦で営んでんだ。なあ、千鶴子?」
「うふふ、私はちょっと手伝ってるだけですよ。
囲碁も教えてもらったけれど、私にはさっぱりで」
カウンターの向こうから千鶴子さんはそう応えた。
なんとなく微笑ましいそのやり取りを見て、仲のいい夫婦なんだなと思った。
「俺の教え方が悪かったわけじゃねえと思うが、まあ人には向き不向きってもんがあるからな。
さて、さきちゃんとかさねちゃんはどうかねえ」
そう言いながら哲さんは盤の上のふたつの入れ物に手を伸ばし、それぞれ蓋を開けて手元に置いた。
その中にはそれぞれ黒石と白石が詰められていた。哲さんはまずこれらの道具について説明してくれた。
この盤のことは正確には碁盤と言い、入れ物は碁笥と言うらしい。
そして碁笥に詰められた黒石と白石。これだけあれば囲碁は打てるのだという。
「囲碁ってのは、それぞれ対局者がこの黒石と白石を交互に打っていくんだが、升目の中じゃなくて交点に打っていくんだ。
縦の線と横の線が交わってる点があるのが分かるかい?
こいつが交点で端っこや角っこも含めて縦横19×19の碁盤、つまり19路盤ってんだ。
さて、合計いくつの点があるか計算できるか?」
「か、かけ算はまだ習ってないです……」
「でも20×20が400だから、大体360くらいですか?」
「お、かさねちゃんは賢いねえ。正解は361だ。
ただ慣れないうちはもっと小さい碁盤で練習したほうがいいな。
9路盤から13路盤、それから19路盤って具合にステップアップしていくんだ。
とは言え、今はルールを教えるためだから19路盤を使うぜ。千鶴子、あとで9路盤を出してやりな」
「はいはい」
千鶴子さんはカウンターから私たちの様子を見守ってくれている。
彼女もこんな風に、哲さんに囲碁を教えてもらったんだろうか。何かを懐かしむような優しげな笑みを浮かべていた。
「それでそれでっ!? どうやったら勝ちになるの?」
さきちゃんは目を輝かせながら哲さんの説明を促した。
正直なところ、どうしてそこまで囲碁に興味を持っているのか、私には分からない。
何か感じ入ったことがあるのか、あるいは単に好奇心旺盛なだけなのだろうか。
「碁ってのは要は陣地取りよ。最後に相手より広い陣地を持ってたほうが勝ち。
あともうひとつ大事なルールがあって、完全に周りを囲んだ石は取れるんだ。
他にも細かいルールはあるが、これだけ覚えてりゃ誰でも打てる。
将棋みたいに駒の動きを覚えたり、麻雀みたいに役や点数計算を覚えたりする必要もない。
単純明快だが、無限の可能性があり奥深い。その深淵には未だ誰もたどり着いちゃいねえのさ」
「無限の可能性……」
さきちゃんの口からは感嘆のため息が漏れていた。……なるほど、きっと彼女は可能性という言葉が好きなのだ。
私は改めて碁盤を眺めてみたが、確かに将棋盤よりもはるかに広い空間がそこにはあった。
先程の話だとこの盤上には361個の交点がある。つまりそれは初手だけでも361通りの手があるということだ。
それが何十手、何百手と続いていけば、何通りの可能性があるのかはもはや計算不可能だ。
尤ももちろんその中には絶対に選択されない明らかな悪手もあるのだろうけれど、それでもこの盤上には宇宙のような広がりがあることに変わりはないだろう。
「さて、次は『石を取る』ってのがどういうことか、もう少し詳しく説明しねえとな。
じゃあ、まずは真ん中の星に黒石を置いてみるか」
「星? 盤の上に星があるの? 宇宙みたい!」
「ははは、いいたとえだな。さきちゃん、盤の上をよく見てごらん。
黒い点が9つあるだろう? それが星だ。
真ん中の星は天元とも言うが、まあそれは覚えてなくてもいい。
これらの星は目印以外の意味があるわけじゃないからな」
哲さんはそう言いながら、真ん中の星に黒石を置いた。……いや、打つと表現するべきなのだろうか。
その手首のしなりは如何にも年季が入っていて荘厳な雰囲気を感じるほどだった。
そして、真ん中に置かれた黒石からは四方八方を睨みつけているかのような威圧感を感じた。
「さあ、この黒石を取るにはどうすればいいと思う?
白石をいくつ使ってもいいから、上手く囲んで取ってごらん。
そうだな、まずはさきちゃんのほうから挑戦してみるか」
そう言われたさきちゃんは少し考えるような仕草をしてから、丸く囲むようにして白石を置いていってから黒石を取り上げた。
つまり盤上には8つの石を置いたことになる。文字通り八方塞がりといったところだろうか。
哲さんは感心したように頷きながらも、どこか不満げな表情で今度は私に挑戦してみるように言った。
「えっと、これでいいんですよね?」
私は哲さんの説明を思い出しながらさきちゃんの横から手を伸ばし、真ん中にぽつんと置き直された黒石の上下左右に白石を置いていった。
交点とは縦の線と横の線が交わっている点のことで、斜めには線はない。つまり繋がっていない。
だからこうやって四方に囲むだけで、この黒石は完全に囲まれたことになるはずだ。
「うん、かさねちゃんのほうが正解だ。
さきちゃんも間違いではないんだが、斜めに置かれた石は余分になっちまってる。
この真ん中の星と隣り合ってる交点は上下左右だけだから、このように四方を囲むだけでこの黒石は取れたことになるのさ」
「ほえー」
さきちゃんは大口を開けて呆然とした様子だ。はたしてちゃんと理解しているのか、ちょっと不安だ。
そういう私もまだ完璧に理解できたとは言えない気がする。
今回はひとつの石を囲っただけだったけど、もしこれがふたつ、みっつと増えていったらどうなるんだろう。
それを考えればルールそのものは単純でも、他に覚えなくちゃいけないことがまだまだあるようだ。
さきちゃんはしばしの沈黙のあと、はたと膝を打って黒石を取り上げながら訊ねた。
「じゃあさ、じゃあさ! 取った石は持って帰っていいの!?」
「いいわけないでしょ」
……哲さんが説明する前に思わずツッコミを入れてしまった。
さきちゃんの言う通り、お客さんがみんな取った石をおうちに持って帰っていったら、そのうちこのお店からは碁石がなくなってしまうだろう。
それに材料が何かは分からないけれど、少なくともこの石はプラスチックなんかじゃない。仮に補充するとしても結構な値段になるはずだ。
哲さんは笑いながら、さきちゃんの妄言を否定した。
「まあ、持って帰られちゃ困るが、こうして取り上げた石は終局時に相手の陣地を埋めるものになる。
それまでは碁笥の蓋の上に置いて大事にとっておくもんだ。
……とまあ、いろいろ説明したが、大人でもなかなか1回じゃ理解し切れないもんだ。
まずは9路盤で石取りゲームをしよう。陣地の広さじゃなくて、取った石の多さで勝ちが決まるルールだ。
もし途中で分からないことがあったら俺が教えてやるから、まずはさきちゃんとかさねちゃんで対局してごらん」
その言葉を受けて千鶴子さんが小さな碁盤を持ってきてくれた。これが9路盤というやつだろう。
それを19路の碁盤の上に置いてもらって、私とさきちゃんは向かい合うように座り直した。
それから私たちはその小さな碁盤で何度もゲームを繰り返した。
初めは分からないことばかりだったけど、哲さんが丁寧に教えてくれるおかげで、なんとかゲームは成立しているようだった。
勝敗はと言えば、勝ったり負けたりでどっちが強いのかはよく分からなかった。
だけど、私は勝ち負けよりもさきちゃんと一緒に遊べるのが何より嬉しかった。
それから次の日も、また次の日も、私たちは哲さんの碁会所に通い詰めた。
気が付けば囲碁というゲームのことについて学ぶ時間が日課のようになっていた。
学校のない日には一日中ずっと遊んでいることさえあったが、哲さんも千鶴子さんも、他のお客さんたちも温かく見守ってくれた。
さきちゃんなんか学校の授業中にも囲碁の本をこっそり読んでて、先生に叱られるくらい熱中していた。
しかし、それはとても穏やかでとても幸せな時間だった。ずっとずっとこんな風に過ごしていられたらいいのになと思った。
だけど、私は、――いや私たちは少しずつ異変に起きていることに気が付いた。
それは最初の一ヶ月で石取りゲームを卒業して本格的に囲碁を始めた頃から感じ始めた違和感だ。
私はたまたま調子が悪くて連敗しただけだと、自分に言い聞かせていた。
しかし、そんな"偶然"はいつまでも続いて、やがて"必然"になっていった。
そんな日々が2年も続いて小学4年生になった頃、違和感は隠しようがなくなった。
いつの間にか私はまるでさきちゃんに歯が立たなくなっていたのだ。そう、もはや認めざるを得ないだろう。
――早川さきは天才だった。哲さんが言うには彼女の実力はすでにアマチュアの高段者クラスになっているらしい。
一方で私も有段者クラスにはなっているらしいけど、なかなかその実感は持てない。
だって、さきちゃんは私よりもずっと強くなっているんだから。その差はもはや歴然だった。
だけど、私はだんだんとさきちゃんに勝てなくなっていった初めの頃には、置き石、――つまりハンデなしの勝負にこだわっていた。
同じタイミングで囲碁を覚えたさきちゃんにハンデをもらうだなんて私のプライドが許さなかった。
でも、ある日私はふと気が付いた。
私が落ちものパズルで勝ち続けて「ハンデをあげようか」と提案したとき、彼女は嫌な顔なんてひとつもしなかったってことに。
むしろ彼女は「かさちゃんは強いからなあ」って笑いながらそれを受け入れてくれた。
今にして思えば内心は嫌な気持ちだったのかもしれない。誰だって負けるのは悔しいし、情けをかけられたらもっと悔しい。
しかし、もしそうだとしても、それを表に出さない程度に彼女は大人だったのだ。
それに比べたら私は意地っ張りな子供だった。そのくせさきちゃんのほうが精神が幼いってどこかで見下していた。
そんな最低な気持ちが心の中にあると気付いたとき、私は吹っ切れた。変なプライドは捨てることにしたのだ。
それから私は彼女と打つときは置き石をもらうことにした。今じゃ私のほうが格下なのだから当然のことだった。
……いや、それは私だけのことじゃない。
碁会所の他のお客さんたちも、みんなさきちゃんには敵わなくなっていた。……唯一、哲さんを除いては。
そして今、さきちゃんは真剣な顔をして哲さんと碁を打っている。
いや、真剣な顔というのは私の想像だ。私は別のお客さんと碁を打っている最中で、彼女には背を向けているので、その表情を窺い知ることはできない。
だけど、彼女はいつだって真剣に碁を打っているから、きっと今もそんな様子だろうと思ったのだ。
「ふーむ、ここはどうしたもんかねえ……」
ときどき聞こえてくるぼやき声は哲さんのものでさきちゃんはずっと無言だった。
その代わり、哲さんが石を打つとすぐに別の大きな石音が聞こえてくる。さきちゃんが打つ石音は実に威勢が良かった。
それに彼女はとても早打ちだ。それにつられて哲さんも早打ちになるものだから、私が一局打ち終えるまでに彼女たちは二、三局打ち終えることもざらにあった。
「かさちゃんは長考派だねえ」
「あ、すみません! 打つのが遅くて……」
私は対局相手のおじさんに促されて、慌てて次の一手をぱちりと着手した。
普段から私は考え込みがちなほうだけど、さきちゃんの様子が気になっていたせいもあって余計に長い間おじさんを待たせてしまっていたようだ。
しかし、おじさんは申し訳なさそうに笑いながら、
「悪い、悪い。急かしたわけじゃないんだ。
かさちゃんくらいの年頃の子は早打ちが多いからね。しっかり時間を使って考えられるなんて立派なもんだと思ったんだよ」と褒めてくれた。
でも、遅くて弱いよりは早くて強いほうがいいんじゃないだろうか。それに考えてると言ったって、私の場合はただ悩んで手が止まっているだけだ。
――そのとき背後から「負けました」と呟く声がした。どうやらさきちゃんが本日二局目の碁を投了したらしい。
それは互先(ハンデなしの勝負)ではなく置き石ありの勝負だった。もちろん置き石を貰っているのはさきちゃんのほうだ。
置き石の数は三子、つまりさきちゃんは初めから盤面にみっつの黒石を置いた状態からスタートしたのである。
通常互先では黒番のほうが先に打ち始めるけど、置き碁の場合は先に打ち始めるのは白番と決まっている。つまり今回の場合哲さんのほうだ。
そして一子の価値は、段級位の差に置き換えると1段階の差ということになる。
つまり初段の人が三段の人と対局するなら、二子を置くのが適正なハンデということだ。級位者と段位者の対局だと少しややこしいけど、1級の人は二段の人に二子を置かせてもらうことになる。
それにしても、さきちゃんはすでに高段者、――アマ五段くらいの力はあるということだから、そんな彼女に勝った哲さんはアマ八段くらいの力があることになる。
現在の規定では、アマチュアの段級位は八段が最高位なので哲さんはアマのトップクラスの実力者ということだ。
いや、もっと厳密に言えばほとんどプロと変わらないくらいかもしれない。私はようやく哲さんの凄さを実感するようになってきた。
だけど、さきちゃんは全然納得いかないらしく、頭を掻きながら大声で叫んでいた。
「あーもう悔しいー!! どうして三子も置かせてもらってるのに勝てないの!?
悪い手なんか全然打ってないつもりなのに、毎回いつの間にか形勢が悪くなってる! なんで!?」
「がっはっは、そりゃあ俺がさきちゃんよりもずっと強いからよ。そう簡単に負けてたまるかい」
そんな様子に別のおじいさんが反応して、さきちゃんをフォローした。
「いやいや、さきちゃんのほうが勝つことだってあるだろう?
てっちゃん相手に三子で勝ち負けの碁を打ってるってだけでも大したもんさ。
俺たちじゃ、ほとんど誰も三子でてっちゃんには勝てないよ」
「それでも悔しいもんは悔しいの! 哲さん、もう一局お願いします!!」
さきちゃんと哲さんは盤上の石をささっと片付けると、また初めから三子の碁を打ち始めた。
打ち終えた碁を最初から並べ直して検討したほうが強くなる人もいるけど、さきちゃんの場合、そうやって対局を積み重ねたほうが強くなれるようだった。
きっと彼女は頭の中で先程の碁の悪かった点を考えながら、次はああしよう、こうしようと工夫を凝らして打っているのだろう。
哲さんもそれが分かっているので、さきちゃんが満足するまで付き合っているのだ。
30分後。結局、今日は三局とも哲さんの勝ちだったらしい。……私も勝てなかった。一局しか打ってないけど。
時刻はもう17時半前だった。碁会所は20時までやっているけれど、小学生の私たちにとってはもうタイムリミットだ。
私はさきちゃんの腕を引っ張って「そろそろ帰ろうか」と誘った。
「あともう一局だけ! 一手10秒の早碁なら――」
そんなことを言いながら、さきちゃんは奥の壁側の棚から対局時計を持ってきて弄り始めた。
これはデジタル式の時計だから、持ち時間制だけじゃなくて一手10秒といった設定もできる。
さきちゃんは元々早碁だから、あまり対局時計を使うこともないのだけど、こうやって駄々をこねるときだけ持ち出してくるのだ。
「こら、門限18時でしょ? いくら早碁でも打ってる暇ないって」
「そんなことないよ! 20分くらいで打ってダッシュで帰れば間に合うって!」
「おいおい、もし慌てて転んで怪我でもされちゃ親御さんに申し訳が立たねえよ。
それにこの前も時間ギリギリで心配した親御さんが迎えに来ただろ?
うちは基本的に年末年始以外は毎日やってるんだ。また明日リベンジしに来ればいいじゃねえか」
「むぅうううぅうう……」
さきちゃんは唸っているけど、どうやら一応諦めてくれたらしい。
「まあ、そうは言っても、俺は県代表になったこともあるんだぜ。まだまだふたりには負けねえよ」
その光景を見て千鶴子さんはカウンターから私たちのランドセルを持ってきてくれた。
「あらやだ。そんなの数十年も前の話でしょ。
それに県代表って言っても田舎の茨城県よ。東京とは参加者の層の厚さが違うんだから」
「県代表は県代表だろうがい。俺ぁ嘘も誤魔化しもしてねぇぞ」
……ちなみに私の知る限りで補足すると、哲さんは前職では茨城県で個人タクシーの運転手さんをしていたらしい。
哲さんはずっと仕事一筋の独身で、千鶴子さんは旦那さんを若くして亡くした未亡人だったそうだ。
そんなふたりはお互いまだ30代だった頃に出会った。ある日、千鶴子さんはその亡くなった旦那さんの何回忌だかの法要のために哲さんのタクシーに乗り込んだのだ。
そして、その用件を聞いた哲さんは運転しながら、千鶴子さんを不憫に思って話をしているうちに情が湧いてきて、その日以降も相談相手として連絡を取り合うようになったらしい。
……というのは正直なところ半分嘘だと思う。照れ臭そうに昔を懐かしむ哲さんの様子を見るに、おそらくは一目惚れしてナンパしたと言うほうが正確なのだろう。
それから千鶴子さんとの交際を始めた哲さんはいいところを見せたかったのか、今まであまり参加したことのない囲碁大会に参加して見事県代表の座を勝ち取った、……という話はこれまでも何度か聞かされてきた。
なんとも若々しい青春物語みたいなエピソードだ。
そして哲さんは数十年経ってタクシーの運転手さんを引退したあと、東京都に引っ越してこの碁会所『竜神』を開いたのだという。
閑話休題。
私たちはランドセルを背負って、ガラス張りの扉の前まで進んで哲さんと千鶴子さんに向かってお辞儀をした。
「それじゃ、失礼します!」
「失礼しまーす! 哲さん、明日は勝つからねー!」
さきちゃんはお辞儀のあとに、ぶんぶんと手を振って元気いっぱいだった。
それに対して哲さんも大きな手を振って見送ってくれた。
「おう、またな!」
通り抜けた扉の向こうから、そんな朗らかな声が聞こえた。
新鮮な空気の味を感じながら振り返ったとき、哲さんがポロシャツの胸ポケットからタバコとライターを取り出していたのが、何故か印象的だった。
――それからさらに2年後。小学6年生の春、ついにさきちゃんは哲さんに互先で勝利した。
その碁はさきちゃん好みの乱戦でお互いの大石が生きるか死ぬかの争いになっていた。
そのとき私はたまたま他に対局相手がいなくて、初めから観戦していたけれど、どちらが優勢なのかは最後の数手になるまで分からなかった。
ぱちり。さきちゃんの打つ石音が張り詰めた空気を震わせた。どうやらその手が決め手だったらしい。
さきちゃんが哲さんの大石を殺し、同時にさきちゃんの大石は生きが確定したのだ。
死ぬとか殺すとか、物騒な囲碁用語もその激しい戦いを見れば、決して誇張表現ではないと思った。
碁笥の上に置かれた哲さんの大きな手がぷるぷると震え出した。やがて哲さんはぽつりと呟くように言った。
「まいった。俺の負けだ」
「………………え?」
何が起きたか分からないといった様子で、さきちゃんはぽかんと口を開けていた。
哲さんもそれから俯いて何も言わなくなってしまったから、代わりに私がさきちゃんに勝敗を告げた。
「さきちゃん、勝ったんだよ。あなたが、哲さんに、互先で!」
「ほ、本当に……? 夢じゃないよね……? 信じられない……!
やったぁああああああぁぁああああ!!」
「うひゃあ!?」
さきちゃんは大喜びで立ち上がり、その勢いのまま私に抱きついてきた。
……こういうときって抱きつくのは私のほうじゃないのかな。でも、ぎゅっと抱き締められて悪い気はしなかった。
「がーはっはっは!! まいった、まいった!!」
哲さんは豪快に笑いながら、膨らみのあるお腹を叩いていた。
さきちゃんの棋力が哲さんに追い付いたのが余程嬉しかったんだろう。
そのまま立ち上がると私ごとさきちゃんを抱き抱えて、ぐるぐると振り回し始めた。
「うわあっ! なになに!? 目が回る~!!」
「ひぃやぁああああぁああ!!」
私たちはふらふらになるまで振り回され、哲さんの気が済む頃にはすっかり目を回してしまっていた。
それでも床に降ろすときはゆっくりと優しくしてくれた。
「ほれほれ、そのくらいで勘弁してやりなさいな」
カウンターからは千鶴子さんが呆れたようにこちらを見つめていた。
しばらくして落ち着いた頃、哲さんは「よくやったな、さきちゃん」と褒め言葉を口にしながらもこう続けた。
「けどよ、手の内を知り尽くした相手と打っているばかりじゃ、井の中の蛙ってもんだぜ。
さきちゃんやかさちゃんほどの実力があるなら、こんなちんけな碁会所だけじゃなく、もっと広い世界を見るべきだ」
「……私も、ですか?」
意外だった。そりゃ私も少しは強くなっていると思うけれど、今は哲さんやさきちゃんとは二子の置き碁で戦っている。
とてもじゃないけど、その差が埋まるようなビジョンは見えないし、ましてやこの碁会所以外の場所で通用するほどの力があるとは思えなかった。
「いやいや、そんな風に思ってしまうことこそ、広い世界を知らない証拠さ。
はっきり言おう。俺から見れば、さきちゃんもかさちゃんも同じくらいの天才だ。
自分では気付いてないかもしれないが、かさちゃんだってもうそんじょそこらのアマチュアには負けねえよ。
アマチュアの段位で言えば六、七段ってところか。たった4年でここまで強くなったのは紛れもない才能だ」
「……………………」
さすがに贔屓目が過ぎるのではないだろうか。
そうは思っても、この碁会所では今の私より強いお客さんはさきちゃん以外他にいないのだから、哲さんの言葉を信じるほかないだろう。
それに何より哲さんはお世辞で人を褒めるようなタイプじゃない。だからこそ、きっとその褒め言葉は真実なのだろう。
「――と同時にだ。ふたりとも真の強者と巡り会っちゃいねえ。
俺にはもうふたりに教えられることはほとんど残ってねえんだ。これ以上、ここで打っていても更なる成長は望めないだろう。
そこでだ。こんな大会があるんだが、ふたりとも参加してみねえか?」
そう言って哲さんは棚からチラシを取り出して私たちに見せてくれた。そこには「少年少女囲碁大会」と書かれていた。
「大会、ですか……?」と私は訊ねた。
「おっと、ただの大会じゃねえぞ。全国大会だ。
各都道府県から予選で勝ち抜いた小中学生たちがしのぎを削るのさ。
ふたりが参加するなら小学生の部だな。そこで優勝すりゃあ小学生名人の栄誉が手に入るのさ」
「んー、でも私はかさちゃんや碁会所のみんなと打ってるだけで幸せだから。
名人なんて別に興味ないかなあ……」
……それは私だってその通りだ。ここでみんなと、さきちゃんと哲さんと碁を打てれば他に何も要らない。
だけど、私は自分の力を試したい。ふたりに追い付くために勉強してきた結果がどこまで通用するのか知りたい。
「私はその大会に参加しようと思います。
私も優勝なんて興味ないし、そもそもそんな力はないと思うけど、私は大海を知りたいです!」
「そうか! よく言った、かさちゃん!」
哲さんは力強く私の背中を押してくれた。少し痛かったけど、その分だけ勇気をもらえた。
さきちゃんはじっと私の瞳を覗き込んでくる。……一緒に来てくれないだろうか。
私は黙ったままさきちゃんの瞳を見つめ返す。相手に甘えるような願いを口にできるほど、私は正直者じゃない。
だけど、私の想いが通じたかのように、さきちゃんは口を開いてくれた。
「大会だけに?」
「………………はい?」
「大会!! だけに!!!??」
「聞こえなかったわけじゃないから」
そして大海、……もとい大会の東京都予選の日がやってきた。
日本棋院という会場につくと、入り口には「少年少女囲碁大会」という看板が掲げてあり、そこを抜けるとすぐに受付があった。
……受付と言っても、申し込みは事前に済ませてあるし、名前を告げて名札や対局の組み合わせ表を受け取るだけだ。
そして階段を上り2階に到着すると、選手の子供や付き添いの大人たちが大勢集まっていた。
初めて来る場所だから迷わないか心配だったけど、それは全くの杞憂だったようだ。
「わあ、ここにいる子たち、みんな参加者なのかな?」
「どうかな。兄弟の付き添いとかもあると思うけど。
そういうさきちゃんだって別に付き添いだけでもよかったのに」
「つれないなあ。せっかく来たんだから私だって参加したいよ」
結局、さきちゃんも一緒に来てくれて、この大会に参加することになった。
なんだかんだ言って彼女もノリノリで楽しそうにしている。緊張とかしないのかな。
ちなみにもちろん、それぞれのお母さんも保護者としてついてきている。
お母さんが応援してくれてるのはありがたい。お父さんは大会に出るって言ったら、ちょっと渋い顔をしていたけれど。
……学校の成績が下がってるのを気にしているらしい。でも今は勉強よりも囲碁に打ち込みたいな。
そんなお母さんを横目で見ると、さきちゃんのお母さんと楽しそうに談笑していた。
対局開始まで、まだ時間はある。暇を持て余した私は視線を落として手に持った組み合わせ表を確認する。
小学生の部東京都予選では4人の代表者が本戦に進出できるらしい。
参加者がいくつかのリーグに分かれ、その結果により代表者が決まる。
なおリーグ戦全勝者が5人以上いた場合は、勝ち抜けの変則トーナメントで4人に絞られるようだ。
他にもいろいろ細かいルールが書いてあるけれど、いずれにせよ本戦に進むにはたった一敗でも命取りになりかねないということだ。
……さきちゃんとは少なくともリーグ戦では当たらない。上手くいけばふたりとも本戦出場の可能性もある。
さきちゃんにはとても勝てる気がしないというのもあるけれど、そんな夢を見られるというのが一番ありがたかった。
時間になると、審判長だというおじさんが現れて挨拶をした。緊張し過ぎて正直なところ何を話していたかはよく覚えていない。
気が付けば開始の合図があり、それぞれ指定された席に座って対局を始めることとなった。
対局の前に何か一言交わそうかとも思ったけど、さきちゃんの席は遠く離れていた。
でも近くにいたら気になっちゃうから、こっちのほうがいいかな。
私は名札に書かれた番号と机の上に置かれた紙に書かれた番号を見比べながら、指定の席に座る。
正面に座っている私の対局相手はちょっとスポーツ少年みたいな気が強そうな男の子だった。
学年は私と同じ6年生か、あるいは5年生だろう。名札にも組み合わせ表にも学年までは書かれていなかったから正確には分からない。
さきちゃん以外の同世代の子と打つのはこれが初めてだ。大丈夫かな、勝てるかな……。
――――――――。
ちっ、初戦の相手は女かよ。かさねって名前の時点でそうだとは思ったけどよ。
別に女だからって舐めてるわけじゃない。むしろその逆だ。
女でも強い奴は強いし、もしかしたら負けるかもしれない。油断したら駄目だ。
小学1年生の頃から囲碁を始めて2年前、つまり4年生の頃には都代表にもなったし、自分が強いという自信はある。
だからこそ、そんな俺がいきなり初戦で女に負けたらめちゃくちゃかっこ悪いじゃねえか。
もちろん負けていい対局なんてひとつもない。けど、ここは絶対に負けたくないな。
「よろしくお願いします……」
「よろしくお願いします」
お互い挨拶をすると手元に移動させた碁笥の中から、それぞれ石を握る。
そして相手に見えないようにしたまま握った手を盤の上に置く。
白石を握るほうはたくさん握り、黒石を握るほうは1個か2個握って、白石の数が奇数か偶数かを当てる。
たとえばもし白石が11個で黒石が1個なら、奇数であることを当てたことになり、そのまま黒番として打ち始めることになる。
逆に奇数か偶数かを外した場合は碁笥を交換して白番として打つことになる。それがニギリと呼ばれるルールだ。
俺は黒番のほうが勝率がいい。できれば黒を持ちたい。
女がたどたどしい手つきで白石を2個ずつ動かして数えていく。目線の動きもおどおどしてるように見える。
……なんだ? 置き碁ばかり打ってて互先に慣れてないのか? それとも久しぶりなのか?
なんにしても女の様子はどうにも自信なさげだった。
大した実力もないのに友達に誘われて仕方なく参加することになった、……そんなところだろうか。
「……8、……10、……12。……これで13個。奇数です」
わざわざ口に出す必要はないのに、女はそう宣言した。こっちも奇数、つまり俺のほうが黒番になることが決まった。
よし、運がいい。黒番ならいい感じで打てそうだ。
それにこんな不安そうにしてる女なら簡単に勝てるかもしれない。初戦で圧勝して一気に弾みをつけてやる!
「――どうだった、かさちゃん?」
対局のあと碁石と碁笥を片付け終わると、いつの間にかさきちゃんがうしろから覗き込んでいた。
男の子は片付け終わったあと、下唇を噛んだまますぐにどこかへ行ってしまった。だから私は遠慮なく結果と感想を伝えた。
「勝ったよ。でも正直相手がそんなに強くなかったかな。
もしかしたら囲碁を始めてそんなに日が経ってないのかも」
「ふーん、それならラッキーだね。相手が大したことなくて」
そう言いながら笑う彼女の結果は、聞くまでもないだろう。彼女ならどんな相手でもきっと負けない。
さきちゃんの棋力ならきっとあっさりと本戦出場を決めてしまうのだろう。
それを間近に見られるだけでも私がこの大会に参加した意味はあったのかもしれない……。
「――それで結局、ふたりとも都代表になって、本戦トーナメントの準決勝で争うことになるとはな。
それにこの大会でまた成長したんじゃねえか? 予選のときのままなら本戦ではいい成績は残せなかっただろう。
いやはや、すべて俺の見込んだ通りだが、ふたりともたいしたもんだ」
予選から約2ヶ月半後の本戦を終えた翌日、ふたりで碁会所に行って哲さんにその結果を報告した。
本戦は2日がかりで行われ、そこでもまたリーグ戦があり、その突破者がトーナメントに進出するという形式だった。
私は本戦トーナメントの準決勝でさきちゃんと当たって負けちゃったけど、その後の3位決定戦ではどうにか勝つことができた。
でも、さきちゃんも決勝の相手には敗れた。その相手は以前『院生』と呼ばれるプロ棋士の養成所に通っていたらしい。
負けたとは言え、そんな相手とほとんど互角の勝負をしていたのだから、やっぱりさきちゃんはすごかった。
そういう私も思ってた以上にいい成績を残すことができたけど、あまりにとんとん拍子過ぎて結局自分の力のほどはよく分からなかった。
「でも、できれば優勝したかったなー。惜しかったんだけどな。
あそこでキリじゃなくてノビを選択してれば……」
「さきちゃんはすぐ乱戦にしようとするから。
もう少しじっくりと打てば勝てたと思うな」
「そいつはどうかね。それぞれ棋風にあった打ち方をするのが一番よ。
無理に自分に合わない打ち方をしても勝てるようになるとは限らねえな」
囲碁の打ち方は人それぞれってことか。確かにそれは一理あるかもしれない。
それに普段と違う相手と戦うのも本当に勉強になった。
こちらの星打ちにカカリじゃなくて、いきなり三々に入ってくる子がいたのも驚いた。
あとでスマホで調べてみたら、最近流行しているAI流の打ち方で、中国のトップ棋士も採用して話題になったんだとか。
「写真を飾るのはこのあたりでいいかしら」
その声がするほうに目を向けると、千鶴子さんが何かの写真をフォトフレームに入れて奥の壁側の棚に飾ろうとしているところだった。
……って、あれは私とさきちゃんが表彰されたときの写真!?
あんまり目立つところに置かれるのは恥ずかしいな……。せめてカウンターの裏側の棚にしてくれないだろうか。
緊張してるせいもあって写真写りもあまりよくないし。でも哲さんも千鶴子さんも嬉しそうだし、我慢するしかないか。ぐぬぬ……。
それからまた数ヶ月のときが過ぎて新年を迎えることになった。
年末年始の間は哲さんの碁会所もお休みだったから、さきちゃんとはお互いの家に行って碁を打った。
ちなみに大会の会場だった日本棋院という囲碁の施設でもお客さん同士での対局ができるらしいけど、やっぱり年末年始はお休みだったので行くことはなかった。
いや、もし営業してたとしても、さきちゃんとふたりで打つだけならお互いの家でいいだろう。
どちらの家にも折り畳みの安い碁盤しかないけど、それで十分だった。
そして今日から正月明けで哲さんの碁会所もまた営業を始めているはずだ。
学校帰り、久しぶりの碁会所でウキウキなのか、さきちゃんはスキップしながらいつもの雑居ビルへと向かっていた。
「さきちゃん、危ないよ。
昨日雪が降ったばかりだし気を付けないと転んじゃうよ」
「平気だよ。私、運動神経いいもん。
かさちゃんと違ってね」
「む。なんでそんな意地悪言うの! 心配してあげてるのに」
「あはは、本当のことだもーん」
そんなじゃれ合いもいつものことだ。
来年度からは中学生になるけど、多分同じ中学に通うことになるし、このままずっとこんな関係が続けばいいな。
私はさきちゃんの悪ふざけに付き合って、やや早歩きで追いかけて捕まえようとする。
もちろん彼女はそう簡単には捕まらない。私だって本気で捕まえようとしているわけではないけれど。
そんな追いかけっこをしているうちに雑居ビルの前までたどり着いた。
しかし、コンクリートの階段を上って、ガラス張りの扉の前に立ったとき、私たちは異変に気が付いた。
「長期休暇……?」
先にそう呟いたのはさきちゃんのほうだった。
ガラス張りの扉に手書きの張り紙がしてあって、そこにはしばらく碁会所をお休みするというお知らせが書いてあったのだ。
しかも、どれくらいのお休みになるのかは分からないらしい。
理由も諸事情のためとあるだけで具体的なことは何も分からなかった。
「年末にも、そんなこと言ってなかったのに」
さきちゃんは私への問いかけなのか独り言なのか分からない声色でそう言った。
それは残念そうというよりも、突然のことで不思議に思っているような感じだった。
私たちは去年の最後の営業日まで哲さんの碁会所に通っていたけど、そのときは正月明けには営業を再開するような口振りだった。
何か急な用事でもできたんだろうか。あるいは、それとも――。
「さきちゃん、ここ見て」
「え、なあに?」
私は張り紙の下のほうを指差す。
そこには「急ぎの御用がある方はこちらまで」という文章とともに、連絡先の電話番号が書かれていた。
多分ここに電話をかければ哲さん、あるいは千鶴子さんが出るのだろう。
「一度この電話番号にかけてみない? 私たち他に連絡先なんて知らないし」
正確には碁会所の電話番号は調べれば分かるかもしれないけど、今ここに誰もいないのだからかけても仕方がない。
哲さんと千鶴子さんの家はここからそう遠くない場所にあるらしいけれど、その場所も知らない。
とにかく書かれてある通り、この電話番号にかけるのが手っ取り早いと思ったのだ。
「いいよ。それじゃ私が――」
私はそう言って、スマホを取り出そうとするさきちゃんを制止した。
「大丈夫。私がかけるよ。
電話は苦手だけど、知らない人が出るわけじゃないだろうし」
もちろんさきちゃんに任せてもいいのだけど、なんとなく不安な気持ちがあって私自身で確かめたかった。
電話越しでも声の調子で分かることもあるかもしれないし、自分でかけたほうがいいだろう。
私はスカートのポケットからスマホを取り出して、その張り紙に書かれた電話番号を入力していく。
そして通話ボタンを押すと呼び出し音が鳴って、やがて繋がった。
『はい、もしもし。梶原です』
その声は聞き覚えのある女性のものだった。
「あ、もしもし! 千鶴子さんですか?
雨宮かさねです。碁会所の前まで来たら張り紙がしてあって――」
『ああ、かさちゃん! さきちゃんも近くにいるのかしら?
ごめんなさいね、連絡先さえ分かればあなたたちにも連絡したんだけれど……』
「あ、ええっと、それは構わないんですけど。
それより何かあったんですか?」
急に休みになったことを責めたいわけじゃない。私は慌てて本題に入る。
そしたら千鶴子さんはなんでもないことのように応えてくれた。
『いえいえ、別に大したことじゃないのよ?
ただ私たちももう年だから。たまにはのんびりする時間も欲しくなって。
それで急なことだけど、お休みすることになったのよ。
再開する日が決まったらすぐに連絡するわね。連絡先は今かけてくれた電話番号でいいのでしょう?』
「あ、はい。すみません、お願いします……」
それからさきちゃんに電話を代わって、しばらく様子を見ていたけど、すぐにその通話は切れたらしい。
なんだか腑に落ちないところもあるけれど、千鶴子さんには特におかしな様子はなかった。
だから私はその言葉を信じて碁会所の再開を待つことにするのだった。
それまではさきちゃんと打ったり、本を読んで勉強する時間を増やしたりしよう。
そして春の訪れを感じる季節になったとき、千鶴子さんから碁会所再開の連絡があった。
長くても1ヶ月くらいだろうと思っていたので、3月になるまでお休みが続いたのには驚いた。
もしかしたらもう営業再開することはないんじゃないかという漠然とした不安も感じかけていたくらいだ。
でも哲さんは帰ってきた。千鶴子さんから連絡をもらったのは土曜日のことで、私はさきちゃんの家に向かう途中だった。
その連絡を受けた私は駆け足でさきちゃんの家へと向かい、予定を変更して急いでふたりで碁会所へ行くことにした。
……そこには確かに哲さんがいた。そして挨拶をしながら店へと入る私たちに明るく返事を返してくれた。
だけど、その姿は――。
「あれ、ちょっと痩せました?」
さきちゃんは遠慮もなしにそんなことを訊いた。
私も気になっていたことだ。前に会ったときよりも少しだけ頬がこけたように見える。
……痩せたというよりはやつれたといったほうが正確なんじゃないだろうか。どことなく顔色もよくない。
「お、分かるかい? 年甲斐もなくダイエットにハマっちまってよ。
休みの間はずっと筋トレしてたんだよ、筋トレ。
碁会所を開けるのも忘れるくらいにな! がっはっは!!」
その笑い方はいつも通りの哲さんのように思える。
だけど、私はその姿を見てもやっぱり漠然とした不安がかき消せないままだった。
カウンターにいる千鶴子さんの表情も暗く沈んでるように見えるのは気のせいだろうか。
「いいじゃないですか、いくつになっても運動は大事だもん!
うちのお父さんなんてお酒が好きなうえに運動不足で――」
「あの、哲さん! 私と打ってくれませんか!?」
さきちゃんの言葉を遮って、私はそう申し入れた。
哲さんもさきちゃんもきょとんとした顔をしている。いきなりどうしたんだと言わんばかりだ。
だけど、哲さんはすぐに笑顔を浮かべて快諾してくれた。
「おう、構わんぜ。
かさちゃんが俺と会わない間にどれだけ強くなったか試させてもらおうじゃねえか」
「はい。私は強くなりました。
その力を今ここで試させてください!」
「ははは! そちらが試す側かい?
いいねえ、その意気だぜ、かさちゃん」
そうして始まった碁は哲さんとは初めての互先だった。
置き石はなしにしても、せめて定先のほうがいいんじゃないかと言われたけれど、私はそれを固辞した。
囲碁は盤上では黒番のほうが有利な分、互先のとき白番は6目半(中国ルールでは7目半)の陣地を初めからもらうことになる。
そのルールをコミというが、コミなしで打つのが定先だ。これは段級位で言うと、1段階差の相手と打つときに適正なハンデとなる。
置き碁も定先も固辞したということはつまり、対等な条件で一局打つということだ。
……別にそれで勝つ自信があるわけじゃない。
だけど、ハンデをもらって打つのでは、私の力を十分に試したとは言えない気がしたのだ。
ニギリの結果、私が白番になった。もちろん哲さん相手に白で打つのは、これが初めてのことだ。
その一局は序盤は比較的穏やかな流れだった。お互い喧嘩もせず、着実に地を増やしていく。
三隅は哲さんに取られたが、その分私は辺で地を稼いでいるから互角の形勢だ。
途中厳しい打ち込みもあったが、軽やかにかわして互いに安定した形となった。
それはまるで社交ダンスのよう。互いの息を合わせてステップを踏んでいく。
しかし、中盤に差し掛かると哲さんの動きは激しくなり、私もそれに応えるように攻め立てていった。
こうなるとこれはもうダンスなんかじゃない。ボクシングの殴り合いだ。激しい応酬が続く。
とにかく攻めて攻めて攻めまくる。先に息切れしたほうが負けだ。
そして勝負は終盤に差し掛かる。激しい荒らし合いの中で、一瞬の隙をついて私は勢いよく石音を立てた。
――哲さんの顔色が明らかに変わった。その一手こそがこの碁の勝敗を分ける急所だったのだ。
そのまま終局し、整地をした結果、コミを入れて私の、――白の1目半勝ちだった。
私自身も哲さんも、隣で観戦していたさきちゃんも静まり返ったまま動けなかった。
言葉にならないというのはこのことか。息をするのも忘れてしまうほどに私は呆然としていた。