放課後、私はモヤモヤとした気持ちを抱えたまま、体育館に足を運んだ。名目はコートの使用状況調査だけど、それも谷川先輩が使用ルールを守っていなかったことを認めたから、あまり意味はなかった。
体育館に入ると、ちょうど男子バスケ部が女子バレー部にコートを明け渡しているところだった。おそらく、私が調査に来ることを知った上でのことだろう。その白々しいやりとりに、私は怒りしか感じなかった。
「監査委員会の花菜さん、ですよね?」
離れた場所でぼんやり練習を見ていたところに、やけにたどたどしい声で話しかけられた。
「あ、私、バレー部の副キャプテンをしている、山崎っていいます」
白い体操服姿の山崎先輩が、長身の体を深く曲げて頭を下げてきた。笹山先輩とは反対に、山崎先輩は大人しい感じの雰囲気をまとっている。僅かに緊張の色を滲ませた笑顔からも、思いきって私に声をかけたのがわかった。
「ちょっとだけ、時間いいですか?」
周りを見渡しながら、山崎先輩が体育館の外に出るように促してくる。何事かと思いつつ後ろをついていくと、体育館裏の人気のない場所で山崎先輩は足を止めた。
「た、単刀直入に聞きますね。男子バスケ部は、その、どうなりますか?」
本当に単刀直入な話だったせいで、私は言葉に詰まって口を開くことができなかった。
「ご、ごめんなさい。いきなり過ぎましたね」
私が固まっていると、山崎先輩は慌てふためきながら何度も頭を下げた。その仕草がおかしくて、私は吹き出して笑ってしまった。
「あ、すみません。いきなりで私もびっくりしてしまいました」
私が笑ったことに、目を丸くして固まった山崎先輩に慌てて頭を下げる。山崎先輩もつられてか、再び頭を下げてきた。
「男子バスケ部のことは調査中ですけど、近いうちになんらかの結果は出ると思います」
「そ、そうなんですね。それは、良かったです」
ぎこちない口調で語る山崎先輩が安堵の息を漏らす。一見したらなんともない仕草だったけど、なぜか妙なひっかかりを感じた。
「男子バスケ部の処分が気になりますか?」
「え? あ、いえ、気になるというか」
急に口ごもる山崎先輩だったけど、大きく深呼吸すると同時に、不安そうな表情を一変させて真剣な顔つきを私に向けてきた。
「私、どうしても全国大会に行って、その、笹山さんを試合に出させたいんです」
目を輝かせて語る山崎先輩。その背景には、個人的な事情があるのはすぐにわかった。
山崎先輩は小さい頃から引っ込み思案で、背の高さもコンプレックスになっていた。そのせいで不登校になっていたけど、そんな山崎先輩を無理矢理バレー部に引きずり込んだのが、笹山先輩だという。
「笹山さんのおかげで、私、毎日楽しく過ごせるようになりました。だから、笹山さんに恩返ししたくて」
顔を赤くしながらたどたどしく語る姿から、山崎先輩が笹山先輩を慕っているのが伝わってきた。
「だから、バレー部の為なら、私、なんでもするつもりなんです」
ほっこりした雰囲気に冷水をぶちまけるような一言に、私は息を飲んで山崎先輩を見つめた。
真っ直ぐに私を見つめ返してくる眼差し。その陰に、山崎先輩の並々ならぬ意思があるのがわかった。
――まさか、山崎先輩が?
脳裏に浮かぶ男子バスケ部の部費不正問題。関与を疑われる女子バレー部員は三人。その中の一人に、山崎先輩の名前があったのを思い出した。
「男子バスケ部のこと、ほ、本当に、よろしくお願いします」
再び深く頭を下げてきた山崎先輩に、私はもう笑えなくなっていた。山崎先輩は笹山先輩に深い恩がある。その想いが、凶行に走らせたのではないだろうか。
かける言葉が見つからずに黙っていると、遠くから笹山先輩の怒号が聞こえてきた。
「ご、ごめんなさい、もう行きますね」
笹山先輩に怒鳴られた山崎先輩が、背筋を伸ばして体育館へと戻っていく。突然つきつけられた現実に戸惑っていると、笹山先輩が意味深な笑みを浮かべて私の首に腕を巻きつけてきた。
「二人でなにしてたのかな?」
意地悪く笑いながら、笹山先輩が私を締め上げてくる。私は抵抗しながらも、なんとか当たり障りない言葉を並べ立てた。
「あの子はね、思い込むと激しいんだから」
笹山先輩がため息をつきながら呆れた表情を浮かべた。でも、その柔らかい瞳からは、山崎先輩を気遣っているのがわかった。
「今日、谷川先輩に会ってきました」
呼吸の乱れを整えながら、さりげなく話題を変える。ちょっと強引だったけど、笹山先輩は私の話に食いついてきた。
「谷川、どうだった?」
「最低な人でした」
思い出した瞬間に怒りがこみ上げてきた私は、谷川先輩とのやりとりを愚痴るように笹山先輩に伝えた。
「ま、確かに谷川は人を寄せつけないオーラがあるけど、そんなに悪い奴じゃないんだけどね」
笹山先輩が笑いながら谷川先輩の肩を持つ。その自然な話し方に、笹山先輩が谷川先輩を悪く思っていないことがよくわかった。
「谷川は強面顔で誤解されやすいけど、本当は気が弱い分みんなには優しくて、いいところも一杯あるよ。まあ、不器用な性格だから伝わらないのは仕方ないかな」
「そうなんですか? 私、あまりの身勝手な態度にキレてしまいましたよ」
私が反論すると、笹山先輩は再び笑いながら私の隣に並んで壁に背を預けた。
「私が泣かない女と言われているのは知ってる?」
「はい、田辺先輩から、彼氏の前でも泣かない気の強い人だとは聞かされました」
「なにそれ、なんか私がゴリラみたいじゃない」
突然の問いかけに慌てて答えると、笹山先輩は「後で田辺くんにお仕置きね」と頬を膨らませた。
「実はね、昔の私は泣き虫だったんだ」
笹山先輩が視線を前に向けて、ゆっくりと語りだした。
笹山先輩によれば、昔は嫌なことや辛いことがあると、一人でコートに残って泣いていたという。
「誰もいないと思って泣いてたら、谷川がいつの間にかコートにいて、私の隣で練習していたの」
最初は嫌がらせかと思ったけど、実際はそうではなかった。谷川先輩は、一人落ち込む笹山先輩を励ます為に、笹山先輩のそばにいたらしい。
「谷川は不器用だから、言葉にして励ますことはなかった。その代わり、谷川は私が泣き止むまで黙々と練習していた。その姿がね、泣く暇があったら練習しろって言ってるように見えたの」
谷川先輩の気遣いに気づいてからは、笹山先輩は泣くことを封印した。なにがあっても動じない谷川先輩の姿を真似て、強くなろうと決めたという。
「同じキャプテンとして、谷川なりのエールだったんだと思う。直接言葉を交わすことはあまりないんだけど、谷川からはたくさんのことを教えてもらったんだ」
「そうなんですね……」
ただの横暴な人かと思ったけど、実際は不器用な性格なりに笹山先輩を支えていたことがわかった。
「だからね、男子バスケ部を告発したことは後悔してるんだ」
笹山先輩の表情が暗く曇る。いくら苦肉の策とはいっても、告発して男子バスケ部を活動停止にしようとしたことを、笹山先輩は後悔しているみたいだった。
そんな姿を見て、私の中に膨らんでいた疑惑は急速に萎んでいった。いくら可能性があるといっても、笹山先輩の暗い表情を見る限り、男子バスケ部を陥れようとしているとは到底思えなかった。
そうなると、可能性に浮上するのは山崎先輩の単独犯説だ。異常といっても過言じゃないくらいに笹山先輩を慕っているみたいだから、笹山先輩の為にと暴走したとしてもおかしくはない。
色んな雑念がごちゃごちゃと頭を過っていく。どれも可能性の枠から出ない以上、どれもが決定打に欠けてぐるぐると頭の中を回っているだけだった。
「ごめんね、引きとめて」
不意に広がった沈黙に居心地の悪さを感じ始めたところで、物思いにふけっていた笹山先輩が我に返ったように小さく呟いた。
「いえ、お話できて楽しかったです」
さりげなく気遣ってくれる笹山先輩に、私は両手を振って素直な気持ちを伝えた。
またねと言葉を残して体育館に戻っていく笹山先輩の背中を見送りながら、なにかが見えそうな気がしながらも、いまだになにも掴めてないモヤモヤ感に、私は何度となくため息をつくしかなかった。
翌日の放課後、一触即発状態だった男子バスケ部と女子バレー部に、ついに事件が起きた。
その騒ぎが私の耳に入ったのは、監査委員会活動室へと向かっていた時だった。
――けんか?
確かに聞こえてきた声に、踵を返して体育館へと急ぐ。体育館の入り口には人だかりができていて、みんなが遠巻きに中の様子を伺っていた。
「ちょっと、すみません」
人垣を押し退けて中の様子を伺った瞬間、目の前に広がった光景に唖然として息を飲み込んだ。
体育館の中央で、谷川先輩と笹山先輩が睨み合っていた。その二人の背後には、部員たちが息を殺して固まっている。まるで今から殴り合いでもするかのような雰囲気が、緊張の高まる体育館に広がっていた。
「ちょっと、どうしたんですか?」
緊張で高鳴る鼓動と、ありえないくらいに口の渇きを感じながらも、よろよろと二人の間に入っていった。
「こいつがよ、いきなり胸ぐら掴んできたんだ」
「え?」
横目で私を睨みながら、谷川先輩が吐き捨てるように呟いた。よく見ると、谷川先輩も笹山先輩も紅潮していて、互いに頭に血が上っているのがわかった。
「そ、それは、あんたたちが、コートを明け渡さないから――」
「うるせえ!」
笹山先輩に並んで抗議を始めた山崎先輩を、谷川先輩が一喝して跳ね返す。やりとりの状況からして、コートの使用ルールを巡ってトラブルになったみたいだ。
「ちょっと、みなさん落ち着いてください」
戦闘モードの先輩たちに気後れしつつも、意を決して二人の間に突入した。
「笹山先輩、どうしたんですか?」
谷川先輩をきつく睨んだままの笹山先輩に声をかける。笹山先輩は怒りを露にしているけど、その表情にはどこかもの悲しい雰囲気があった。
「男子バスケ部がね、またコートを譲らなかったから、それで、谷川と話し合いをしようとしたの」
「なにが話し合いだ。胸ぐら掴んだくせによ」
「それはあんたが――」
「ちょっと、ストップです!」
再びぶつかり始めた二人を制止し、らちが明きそうにないので笹山先輩だけを連れてその場から離れた。
「話し合いって、どんな話し合いだったんですか?」
「ちゃんと使用ルールを守るようにお願いしたの。それでね、ちゃんと使用ルールを守るなら告発の件は取り下げるって話をしたの」
その場から離れたことで、落ち着きを僅かに取り戻した笹山先輩が状況を説明してくれた。
いつものようにコートの使用ルールを無視した男子バスケ部に対し、笹山先輩は抗議ではなく話し合いを谷川先輩に持ちかけた。その際に、告発の件は行き過ぎだったとして謝罪し、和解しようとお願いしたという。
「でも、あいつは全部受け入れてくれなかった。だから、つい頭にきて」
笹山先輩が肩を落としながら顔を伏せた。頭にきて胸ぐらを掴んだのは事実ということだった。
「私が馬鹿だった」
伏せていた顔を上げた笹山先輩の表情には、もはや怒りの色はなく、代わりに涙こそ見せないものの、悲しみの色で溢れていた。
「谷川なら、ちゃんと話し合えばわかってくれるって思ったの。ずっと、あいつのことは同じキャプテンとして尊敬してたからね。でも、それは間違いだった。あいつを信用した私が馬鹿だった」
微かに震える声で呟くと、笹山先輩が大きくため息をついた。どうやら喧嘩が大きくなった原因には、笹山先輩が谷川先輩に裏切られたという失意の怒りもあったみたいだ。
笹山先輩にわかりましたと告げ、今度は谷川先輩のもとへ足を運ぶ。谷川先輩は迷惑そうな顔をしていたけど、私は圧倒されないようになんとか心の中で踏み留まった。
「だいたいよ、コートを譲れっていうけど、そんな時間ぴったりに替われるかよ」
谷川先輩の言葉に、男子バスケ部員が追い風のように「そうだそうだ」と囃し立ててきた。
谷川先輩の言い分は、コートの使用ルールがおかしいということだった。練習内容によっては準備にも時間がかかるから、予定通りにはいかないと主張していた。
「替わるつもりだったんですか?」
「仕方ないだろ。お前らがうろついてるからな」
「う、嘘ですよ」
谷川先輩の言葉に、山崎先輩が体を震わせながら割って入ってきた。
「そ、そう言って、いっつも、替わってくれなかったじゃないですか」
「あ? だから今日は替わるつもりだったって言ってるだろ。なのによ、難癖つけてきやがって。なあ監査委員会のチビ、これっておかしいよな?」
「チビって、私には倉本花菜って名前があります」
「どうでもいいよ。それより――」
谷川先輩が何かを言いかけたところで、男子バスケ部員の一人が「活動停止だろ」と叫んだ。
一瞬、静まり返った後、怒涛の勢いで男子バスケ部員たちが一斉に騒ぎ始めた。
内容は、笹山先輩の胸ぐらを掴んだ行為は暴行だから、他の部活動を妨害したとして立派な活動停止処分の理由になるというものだった。
――ちょっ、そんなこと言われても
チビだと馬鹿にされた怒りはすぐに消え失せ、突きつけられた現実と迫ってくる男子バスケ部員に、私は完全に圧倒されてしまった。
――どうしよう……
話を聞く限りでは、男子バスケ部が悪いようにも思える。けど、手を出したのは笹山先輩だから、はっきりいって女子バレー部の方が分が悪かった。
口ごもっていると、さらに男子バスケ部が一丸となって騒ぎ立てた。痛いところを突かれているせいか、笹山先輩も女子バレー部員も上手く言い返せずに黙っている。こうなってしまったら、もう男子バスケ部を黙らせるのは難しかった。
言い返せない状況への悔しさに、私は力強く両手を握りしめた。悪いのはコートの使用ルールを守らない男子バスケ部だ。さらに、笹山先輩は谷川先輩を信じて和解しようとした。それを踏みにじったのは、他でもない、谷川先輩なのだ。
なのに、笹山先輩の怒りの行動が邪魔をして上手く反論できなかった。もちろん、笹山先輩は悪くない。ただ、それは内情を知ってるから言えることで、周りから見たら手を出した奴が悪いとしか思われないだろう。
対応に屈していると、さらに男子バスケ部が女子バレー部を活動停止にしろと囃し立ててきた。谷川先輩は黙ったままだけど、部員のヒートアップは止まりそうになかった。
完全に八方ふさがりだった。
どうしていいかわからず、ただ震えるしかできない自分が悔しくて、気がつくと視界が滲んでいた。
そんな絶体絶命に陥った、まさにその時だった。
「どうしたんだ?」
緊張で張り詰めた体育館に、明らかに場違いな間の抜けた声が響き渡った。
――田辺先輩!
まさに地獄に仏とばかりに、姿を現したのは寝起きの田辺先輩だった。寝起きのせいか多少不機嫌そうにしているけど、その鋭い眼差しは完全に状況を把握しているように見えた。
田辺先輩はゆっくりと谷川先輩に近くと、大きくあくびしながら谷川先輩を睨みつけた。
「なんでお前たちがここにいるんだ?」
「あ?」
「女子バレー部が使用する時間だろ? なんでお前らがここにいるのか聞いてんの」
強面顔の谷川先輩に詰め寄り、普段はめったに出さない冷めた口調で田辺先輩が攻め始めた。
「いや、それは――」
「言い訳は聞くつもりはない。邪魔だからさっさと明け渡して引っ込んでろ」
食い下がる谷川先輩をばっさり切り捨て、田辺先輩が笹山先輩にコートを使用するように促した。
ヒートアップしていた男子バスケ部も、さすがに田辺先輩の登場で水を打ったように静かになっていった。
そんな光景を、私はただ唖然として見るしかなかった。けど、遅れて聞こえてきた鼓動で我に返った。田辺先輩のすごさを目の当たりにして、私の胸は破裂しそうなほど高鳴っていた。
「ちょっと待てよ」
話は終わりとばかりに背を向けようとした田辺先輩を、谷川先輩が引きとめた。
「あいつらの件はどうなるんだ?」
谷川先輩が真顔で女子バレー部を一瞥する。どうやら今回の件がどうなるか、確認しようとしているみたいだ。
「お前、頭が悪いからってそんなこともわからないのか?」
「どういう意味だよ」
「お前らがコートにいる以上、なにかを言う権利はないし、聞くつもりもない」
田辺先輩が谷川先輩を睨みながら、冷たく突き放す。けど、谷川先輩はしつこく田辺先輩の手を掴んできた。
「お前、なにに焦っているんだ?」
「あ?」
「いや、なんでそんなに意地になっているんだ?」
「どういう意味――」
「お前らしくないって意味。固くなに女子バレー部との話し合いを拒否して、お前は一体なにをやってんだよ」
冷たく言い放った田辺先輩の態度に圧倒されたのか、谷川先輩は掴んでいた手をあっさり離した。
「さ、戻るぞ」
なにもできずに立ちつくしていた私に、田辺先輩が声をかけてきた。気づくと男子バスケ部はコートから姿を消し、代わりに女子バレー部が練習を始めていた。
現れてものの数分で事態を収めた田辺先輩。犬だったら高速でしっぽを振るような勢いで、私は体育館を出ていく田辺先輩を追いかけた。
「田辺先輩、助かりました」
緊張から解放された瞬間、私は宙に浮くような感覚の中、何度も田辺先輩に頭を下げた。
「ま、三年が相手だと限界があるからな。それでも、よくやった方だ」
田辺先輩があくびをしながら頭をかく。一瞬気づかなかったけど、褒められたとわかって体中が急激に熱くなっていった。
「で、調査の状況は?」
監査委員会活動室に戻り、いつものソファーに腰をおろした田辺先輩が尋ねてくる。嬉しくて舞い上がっていた私は、緩む頬を軽く叩いてこれまでの内容を報告した。
「あの谷川が、そんなことを言ったのか」
私の報告を聞いた田辺先輩が、意味深に呟いた。
「あの、笹山先輩も言ってたんですけど、谷川先輩って自分勝手な人じゃないんですか?」
田辺先輩の反応は、笹山先輩の反応と同じだった。谷川先輩に対する私のイメージと、田辺先輩の谷川先輩に対する評価は明らかに違うのが伝わってきた。
「自分勝手どころか、あいつほど周りに気を遣う奴はいないよ。人柄の良さでキャプテンになってきたようなもんだからな」
「でも、私には信じられないです。ただの横暴な人にしか思えません」
「全国大会が近いし、練習も思うようにできなくて苛立っているのかもな。チームを全国大会に導く責務もあるし、確かにいつものあいつじゃないかもしれない」
田辺先輩が膝の上で頬杖をつきながら、思案にふけり始めた。その横顔をドキドキしながら見つめていると、迷惑そうにジロリと睨み返された。
「気になるのは、山崎の発言だな」
小さくため息をついた田辺先輩が、私の報告に話を戻した。
「はい、山崎先輩は異常なほど笹山先輩を慕っています。あの様子なら、山崎先輩が一人で犯行に及んだとしても不思議じゃありません」
「笹山の線が消えたとしても、山崎がいる以上は女子バレー部の犯行という可能性は否定できないわけか」
「ただ、私には男子バスケ部の部費は不正に徴収されていたように思えてきました」
これまでの調査の結果からして、確かに女子バレー部員による犯行の可能性は否定できない。けど、それ以上に男子バスケ部員たちの態度を見ていると、ルール違反もなんとも思っていないように思えてきた。
「確かに、全国大会に行くとなると準備が大変だろうし、隠れて不正に徴収していた部は過去にいくらでもあったらしいからな」
「そうなると、またふりだしに戻ってしまいますね」
「うーん」
田辺先輩が頬杖をついたまま気の抜けた返事を漏らした。明らかに別のなにかを考えているみたいで、思考はここにないように見えた。
「なぜ風紀委員会の活動室に部費を置いたんだ?」
しばらく黙っていた田辺先輩が、鋭い眼差しのまま口を開いた。
「それは、監査委員会に出しても返却して終わりだって、田辺先輩が自分で言ってませんでした?」
「確かにそうだけど、でも、規則違反となると風紀委員会は管轄外になる。なのに、なぜ風紀委員会に不正を発覚させようとしたんだ?」
「それは――」
改めて問われると、私も上手く説明できなかった。
「ウチが動かない可能性があるのを知って保険をかけた。風紀委員会が絡んでいるとなると、さすがのウチも動かないわけにはいかないからな。そう考えて、先に風紀委員会が動くように仕向けた」
「どういうことですか?」
「つまり、ただの不正発覚が目的ならば、直接監査委員会に告発すればすむ。けど、そうしなかったのは、ウチが動かないとわかっていたからだろう。だから、わざわざ部費を盗んで盗難事件にした。盗難事件ならば風紀委員会の管轄だから、最終的に風紀委員会がウチを動かしてくれると期待したんだろう」
田辺先輩の説明を聞きながら、私はある言葉を思い出した。
「そういえば、笹山先輩が言ってました。コート使用問題について、田辺先輩に苦情を出したって」
「あ? そんなものあったっけ?」
田辺先輩が眉間に皺を寄せながら、過去の依頼書をめくり始めた。
「ああ、確かに。気づかなかったな」
「いつも見ないで印鑑押してるからでしょ」
悪びれる様子もなく依頼書に目を落とす田辺先輩に、私はそれとなくツッコミを入れておいた。
「なるほどね」
田辺先輩が低く唸りながら、依頼書を私に差し出してくる。受け取った私は、中身をすぐに確認した。
依頼書によると、コート使用ルールについては、当初はバスケ部とバレー部男女それぞれのキャプテンが話し合って合意していた。
けど、その合意を男子バスケ部だけが破っていた。合意から一週間の間に何度も話し合いがされたけど改善はされなかったため、監査委員会に苦情という形で依頼書が出されることになった。
「田辺先輩の読みが正しいとしたら、女子バレー部の犯行の可能性がますます高まることにますね」
「そうだな。状況証拠は全て揃ったことになるな」
田辺先輩が頭の後ろで手を組みながら、小さく呟いた。
女子バレー部には犯行の動機もあるし、犯行に及んでもおかしくない人物がいる。
さらに、田辺先輩の読みが加われば、女子バレー部は一度監査委員会が対応してくれないことを、身を持って知っている。
だから、今回はわざわざ風紀委員会が動くように仕向けた。
それは、裏を返せば監査委員会が動かないことを経験でわかった女子バレー部だからこそ、考えることができた策だったのかもしれない。
直接の証拠はないけど、状況証拠は全て女子バレー部の犯行を示唆している。田辺先輩もはっきりとは言わないけど、結論に達しているだろう。
気持ちとしては女子バレー部を疑いたくないけど、疑惑が大き過ぎて否定することができそうになかった。
「ただ、男子バスケ部の部費不正問題よりも、今日のはまずかったな」
「やっぱり、そう思いますか?」
私が不安に思っていることを、田辺先輩が口にした。男子バスケ部の部費に絡む問題は疑惑の段階だけど、今日の騒ぎは言い逃れができる状況ではなかった。
「となると、処分は避けられませんか?」
「仕方ないけどな。目撃者もいるし、ある意味現行犯だから、処分しないわけにはいかないだろう」
予想していたとはいえ、田辺先輩にはっきり言われると肩が重くなってくる。笹山先輩は故意にトラブルを起こしたわけではないから、それを処分するとなると気持ちが一気に沈んでいった。
「女子バレー部に対する疑惑はまだはっきりしていませんし、今日の件も理由がありますから、処分は軽い方向でいきますよね?」
祈る想いで田辺先輩に尋ねてみた。処分をどうするかは、監査委員長が決めることになっている。その後、生徒会に申し立てて受理されれば決定となるけど、よほどの事情がない限り、監査委員長が決めた処分がそのまま受理されることになっている。
「そうだな――」
処分の内容を口にしかけた田辺先輩だったけど、なにかを思いついたかのように、しきりに顎をさすりながら何度も頷き始めた。
「揺さぶってみるか」
「え? どういう意味ですか?」
田辺先輩がポツリと意味深に呟いた言葉。
その意味がわからなくて聞き返したけど、田辺先輩は答えることなく、やけに怪しい光を瞳に宿すだけだった。
翌日、学園に衝撃的なニュースが駆け巡った。きっかけとなったのは玄関脇にある掲示板で、そこには、監査委員会が女子バレー部に対し、無期限の活動停止にする仮処分の申請をした旨が告知されていた。
しかも、今日申請してその場で受理されている。あまりにも早すぎる展開だけど、受理された以上は仮処分とはいえ今日から女子バレー部は活動ができなくなってしまう。
――ちょっと、いくらなんでもおかしいでしょ!
掲示された内容を読んで、私は頭が真っ白になった。ある程度の処分は覚悟していたけど、まさか女子バレー部を活動停止に追い込むとは予想外だった。
しかも、処分内容が廃部の次に重い無期限の活動停止だったことに、愕然とするしかなかった。
――ひょっとして、部費の問題も絡めて処分を決めたのかな?
告知の内容に、処分理由がなかった。いくらなんでも、処分理由を明らかにしないまま重い処分を下すことは考えられなかった。
でも、田辺先輩は二番目に重い処分を決定した。
それはつまり、田辺先輩の中で女子バレー部の関与が確定し、部費の問題も含めて処分しようとしたのかもしれない。
異例の事態に、幽霊委員会がついに仕事をしたと学園中が騒ぎとなった。さらに、新聞部が悪ふざけで号外まで出す始末となり、私はいたたまれなくなって教室を抜け出し、放課後まで監査委員会活動室に引きこもる羽目になってしまった。
放課後になると、私は急いで体育館を目指した。私になにができるのかわからないけど、とにかく谷川先輩と笹山先輩に会わないといけない気がして落ちつかなかった。
体育館には、固唾を飲んで黙ったままの人だかりができていた。人垣をかき分けて中に入ると、怒り心頭の笹山先輩が田辺先輩を睨みつけているところだった。
「田辺先輩、あの仮処分はあんまりじゃないですか?」
笹山先輩の怒りにも涼しい顔であくびをする田辺先輩に、私は一気に詰めよった。
「女子バレー部が暴行したんだから仕方ないだろ。今からコートを男子バスケ部に明け渡すから、ちょっと手伝ってくれ」
「ちょっと待ってください。処分はわかりますけど、なぜ無期限の活動停止にする必要があるんですか!」
当たり前のように事を運んでいく田辺先輩の手を掴んで、私は混乱しながらも猛抗議することにした。
「仕方ないだろ、規則は規則なんだから。谷川、良かったな。今日からは女子バレー部の時間も練習できるぞ」
蝿を払うように私の抗議を門前払いにした田辺先輩が、笹山先輩の怒りも無視して谷川先輩に話しかける。谷川先輩は唖然としたまま固まっているだけで、私と同じく状況を上手く飲み込めないでいるみたいだった。
「どうした? 嬉しくないのか?」
田辺先輩の言葉に、谷川先輩が口を開こうとしたところで、いきなり山崎先輩が田辺先輩に体当たりしてきた。
突然のことによろめく田辺先輩だったけど、なんとか倒れずに踏み留まった。山崎先輩は肩で息をしながら、田辺先輩を赤い目で睨みつけていた。
「しょ、処分は、間違ってます。もし、バレー部を活動停止にするなら、わ、私を、退部処分にしてください!」
「山崎!」
抗議の体当たりの後、我に返ったかのように態度を翻した山崎先輩が繰り返し頭を下げる。その山崎先輩を制止するように、笹山先輩が松橋杖を捨てて山崎先輩に抱きついた。
「た、谷川さんに、暴力ふるったのは、わ、私にしてください。わ、私が、責任取ってバレー部を辞めますから。だ、だから、バレー部の活動停止は、なしにしてください」
抱きついた笹山先輩をふりはらって、山崎先輩が涙ながらに田辺先輩に直訴した。無茶苦茶な理論だったけど、山崎先輩の真剣な涙目に、私は喉を潰されたように言葉が出なかった。
「おい、お前らいい加減にしろよ。みっともないだろ」
「あんたは黙ってて!」
完全に固まっていた谷川先輩が、慌てて間に入ってきた。けど、笹山先輩の怒りの一喝が体育館に響き渡り、谷川先輩は困惑したまま再び固まってしまった。
「もとはと言えば、あんたたちがルールを守らないからでしょ。私たちはね、あんたたちの身勝手な行為をずっと我慢していたんだから」
「なに言ってんだよ。だいたい、女々しく泣いていたくせによ、黙ってしおらしくしてりゃよかったんだよ」
谷川先輩が不敵に笑いながら、笹山先輩のギブスに目を落とす。その瞬間、怒りが最高潮に達したかのように、笹山先輩の表情がきつくなった。
「最低。あんた、本当に最低よ!」
震える声で谷川先輩を非難しながら、笹山先輩が殴りかかろうとした。それを山崎先輩が羽交い締めにして制止した。
――もう、なんなのよ一体
目前に広がるカオスな現実。問題を解決するどころか、ますます混乱していく状況に、私はどうしていいかわからないまま震えていることしかできなくなっていた。
そんな状況を、眉一つ動かすことなく黙って見ていた田辺先輩だったけど、突然、いがみ合う二人の間に割り込んでいった。
「お前ら、なにやってんだよ」
静かに響く田辺先輩の声。けど、異常な冷たさが込められているせいか、谷川先輩と笹山先輩は争いを止めて田辺先輩に目を向けた。
「なにやってるんだって、聞いてるだろ!」
それまで能面だった表情を一変させて、田辺先輩がきつい口調で一喝する。その変貌ぶりに、私はもちろん、谷川先輩も笹山先輩も口を開けたまま動けなくなっていた。
「お前ら、今日まで同じ体育館で過ごしてきたキャプテン同士じゃないのかよ」
怒鳴ったかと思うと、今度は僅かに悲しげな雰囲気を滲ませた瞳で、田辺先輩が諭すように笹山先輩へ話しかけた。
「そうなんだけど――」
「だったら、わかるだろ?」
「え?」
「まだ気づかないのか?」
「気づかないって、なに言ってるの?」
「この状況こそ、谷川が一番望んでいなかったってことによ」
田辺先輩の言葉に、笹山先輩の表情が驚きに変わる。谷川先輩は、明らかに動揺した表情で狼狽し始めた。
「逆なんだよ」
田辺先輩がポツリと漏らすと、谷川先輩が慌てて田辺先輩の肩を掴んで止めさせようとした。
「谷川はな、お前の為に犠牲になろうとしたんだよ」
「どういう、こと?」
田辺先輩に諭すように言われ、笹山先輩が動揺した声を漏らしながら視線を谷川先輩に向けた。
「実は、仮処分は俺が生徒会に頼んで仕組んだ嘘なんだ」
またしても予想外の田辺先輩の言葉に、谷川先輩と笹山先輩が同時に驚きの声を上げた。
「お前らの本心がどこにあるかを探る為に、仮処分をでっち上げたんだ」
さらりととんでもないことを口にする田辺先輩に、私は昨日の言葉を思い出した。揺さぶると言った意味は、このことだったみたいだ。
「なんで、そんなことをしたの?」
「怒りで我を忘れてぶつかれば、本音が出ると思ったんだ。おかけで、お前らの問題がなにかよくわかった」
田辺先輩の突然の告白に、目が点になっていく二人。多分、私の目も点になっているだろう。
「男子バスケ部と女子バレー部の処分については、これから正式に決定して通達する。それまでは、ルールを守ってコートを使用するんだ」
田辺先輩が二人から離れて、黙って成り行きを見守っていた男子バスケ部員と女子バレー部員を見渡しながら、処分の予定を伝えていく。特に男子バスケ部員に対しては、釘を刺すかのように厳しい眼差しで睨みつけていた。
「ったく、何年お前は谷川の近くにいたんだよ。同じキャプテンとして、お前なら谷川の気持ちがわかるだろ」
田辺先輩の言葉に、笹山先輩が谷川先輩に改めて視線を向けた。谷川先輩は、どこかぎこちない感じに目をそらしていたけど、やがて肩を落として「すまない」と田辺先輩に頭を下げた。
「仲良くやれよ。お前らは、ずっとライバルでありながらも支え合ってきたキャプテンなんだからよ」
話は終わりとばかりに背を向けた田辺先輩。私にはなにがどうなったのかわからなかったけど、田辺先輩の言葉は谷川先輩と笹山先輩に向けられたエールだということだけは、なんとなくわかる気がした。
学園を駆け巡った監査委員会の処分も、翌日には全てが取り下げられた。さらに、男子バスケ部と女子バレー部に関する全ての問題に対して、一切を不問とする調査報告書を正式に公開した。
おかけで、盛り上がっていた騒ぎも一気に熱が冷めることになり、最後は、いつもの幽霊委員会の仕事だったと馬鹿にされて終わりを迎えることになった。
そんな非難もどこ吹く風で、田辺先輩は最後の通達を男子バスケ部と女子バレー部に告げている。今後は、互いのコートの使用時間を監査委員会に報告することを義務付けすることとし、仮にルールを破った場合は問答無用で活動停止処分にすることになった。
さすがの男子バスケ部も、監査委員会の管理下にあっては無茶もできないだろうから、お互い仲良くコートを使用していくことになるだろう。
全ての通達を伝え終わると、田辺先輩はあくびをしながらコートに背を向けた。その背中を追っていた私は、体育館の入り口で田辺先輩に声をかけた。
「田辺先輩、これで事件は解決なんですか?」
「まあな。今後はあいつらもいがみ合うことはないはずだ」
田辺先輩の返事に、私は一呼吸置いて抱えている疑問をぶつけることにした。
「すみません、私には事件の内容がよくわかりません。田辺先輩、結局今回の事件はなんだったんですか?」
目の前を理解できないまま過ぎていった今回の事件。田辺先輩だけは真相がわかったみたいだけど、私にはなにがどうなっているのか理解できなかった。
「まず、部費の不正疑惑についてはなにもなかった。男子バスケ部が不正に徴収していた事実もないし、女子バレー部が男子バスケ部を陥れようとしたわけでもない」
田辺先輩は面倒くさそうに頭をかいていたけど、説明してくれる気になったのか、壁に背を預けて両腕を組んで語り出した。
「じゃあ、誰が関与していたんですか?」
「誰も関与はしていない。なぜなら、部費の不正疑惑は谷川が作り出したでっち上げだったんだからな」
さりげなく語る田辺先輩の言葉に、私は驚きの声を上げて慌て口をふさいだ。
田辺先輩によれば、男子バスケ部の部費が盗まれて発覚した一連の事件は、全て谷川先輩の自演だった。部費が盗まれたようにしたのも、田辺先輩の目論見通り風紀委員会を動かす為で、谷川先輩の狙いは監査委員会に男子バスケ部を活動停止にしてもらうことだったという。
「なんでそんなことをしたんですか?」
「コート使用ルールのせいだろうな。谷川は、女子バレー部の練習時間を確保する為に、あえてバスケ部の活動を停止しようとしたんだ」
谷川先輩がバスケ部を活動停止にしようとした一番の理由は、ルールを守らない部員の存在だった。キャプテンとして部員をまとめる必要がありながら、谷川先輩は本来の性格が邪魔をしてなかなか部員に強く言えなかったらしい。
「女子バレー部には全国大会に出場しなければいけない理由がある。それは、隣にいた谷川が一番わかっていたはずだ。けど、自分のせいで女子バレー部に迷惑をかける事態になり、谷川も思い悩んで今回の事件を起こしたんだろう」
「でも、いくらなんでも部費を誤魔化したぐらいで上手くいきますか? 部員に聞き取りすれば、いくらなんでもおかしいと思いますよ」
「まあな。だから、谷川は芝居を演じたんだ。人柄の良さで知られる谷川が、横暴な態度に出ることで疑惑を大きくしようとしたんじゃないのか」
田辺先輩の言葉で、谷川先輩の姿が脳裏に甦る。確かに田辺先輩や笹山先輩の評価とは裏腹に、谷川先輩の態度は異常なくらいに横暴だった。
「でも、それだけで活動停止になると思うでしょうか?」
「わからない。ただ、谷川は賭けに出たんだと思う。この学園は、生徒のことは生徒が決めるだろ? 例え白であっても黒と決めることもできるんだ。だから、ウチが谷川を毛嫌いして黒と認定してくれることに賭けたんだと思う」
田辺先輩の眼差しに、僅かな悲しみの光が広がっていく。それは、無謀とも思える賭けに出た谷川先輩を想っているようにも見えた。
「谷川先輩の行動はわかりました。けど、本当にバスケ部を活動停止にしようと思うでしょうか。だって、全国を目指す強豪チームですよ。いくらなんでも――」
「谷川は、笹山が泣いているのを見たんだ」
更に深まっていく悲しみの色に比例するように、田辺先輩の声が低くなっていった。
「谷川と笹山が言い争っていた時、谷川は笹山が泣いていたと言った。ほら、笹山は人前では決して泣かない女として有名だろ? その笹山が泣いていたと谷川は言った。それで全てがつながったんだ。谷川は、笹山の涙を見ていたからこそ、こんな無謀とも言える賭けに出たんだろう」
田辺先輩の推理によると、笹山先輩は怪我をした辛さを誰にも見せずにいた。けど、谷川先輩に対してだけは、笹山先輩は悲しみと苦しみを晒すように涙を見せた。
その理由は、二人が積み重ねてきた年月によって築いた絆にあった。同じ青春の時間を体育館で過ごしてきた二人。互いにキャプテンとして、ライバルでありながらも支え合っていた。
その信頼関係が、谷川先輩に弱音を見せるきっかけになった。これまでも、笹山先輩は一人コートで泣いてきた。ただ、そばにはいつも物言わず支えてくれる谷川先輩がいた。
誰もいない体育館のコート。笹山先輩は、谷川先輩が相手だったからこそ、キャプテンでありながら高校最後の試合に出られなくなった悲しみを見せたのだろうということだった。
その涙を見た谷川先輩は、女子バレー部が全国大会に出場できれば笹山先輩にも出場のチャンスがあるとわかり、密かに女子バレー部を応援していた。
けど、そんな二人に訪れた悲劇。突然の体育館の使用制限は、谷川先輩のチームをまとめきれない弱さを露呈させることになった。
最初は、谷川先輩もコートの使用ルールに納得していたし、守るつもりだった。だから、コートの使用ルールに合意した。けど、谷川先輩の思惑とは裏腹に、部員たちはルールを守ることなく練習を続けていた。
その状況が、女子バレー部だけでなく谷川先輩をも苦しめた。なんとか女子バレー部の練習時間を確保してやりたいと思いながらも、全国を目指す部員たちに強くは言えなかった。
だから、谷川先輩は無謀な賭けに出た。例えそれが非難される内容だったとしても、女子バレー部の練習時間を確保する為に、さらには笹山先輩の試合出場のチャンスの為に。
そこには、私には想像できない谷川先輩の苦悩があっただろうし、バスケ部を犠牲にすることに対する葛藤もあったはず。
「それだけじゃない。谷川は盲目になっていたんだ」
「盲目、ですか?」
「ああ。恋は盲目って言うだろ」
「ええ!! それって――」
再び驚いて声を上げた私を、田辺先輩が睨みつけてきた。
「でも、笹山先輩には彼氏が――」
「そういうこと。谷川は、届かぬ想いの代わりに、せめて自ら犠牲になって女子バレー部の練習時間を増やそうとした。要するに、涙を見せた片想いの相手の為に、谷川は盲目になってしまっていたんだよ。まったく、不器用な奴なんだよあいつは」
田辺先輩が吐き捨てるように呟いた。けど、その口調には、谷川先輩を想う田辺先輩の温もりが感じられた。
「結局、二人とも互いを想いながらボタンを掛け違えただけだったんだ。体育館の使用制限がなかったら、二人とも互いに競いながら全国大会を目指す仲なんだからな」
田辺先輩がようやくいたずらっぽく笑った。その笑顔を見て、田辺先輩は最初から二人を応援していることが伝わってきた。
「でも、谷川先輩が自演しているなんて、よくわかりましたね?」
「部費がちょうど二倍になっていたことがちょっと気になっていたんだ。いくらなんでも、短時間で二倍にするには中身を知っていないと無理じゃないのかって思ったんだ」
田辺先輩が最初に気になると言っていたのは、部費の金額よりもきっちり二倍になっていた点とのことだった。確かに、言われてみると不自然な感じがしなくもなかった。
「それと、笹山が暴行を働いた時、谷川は俺の手を掴んでバレー部がどうなるか聞いてきた。俺が冷たく言い返すと、谷川はあっさり手を離した。その時、不思議に感じたんだ。本当に処分を求めているなら、もっと食い下がっていいはずなのに、やけにあっさり引き下がったからな」
「そういえば、男子バスケ部が騒いでた時、谷川先輩だけは黙ってました」
脳裏に騒ぎの光景が甦る。男子バスケ部が女子バレー部を責めていた時、谷川先輩は無言だった。
「怖かったんだろうな。まさか、本当に女子バレー部が活動停止になりはしないか、内心ハラハラしていたはずだ」
そんな谷川先輩の様子を不審に思った田辺先輩は、あえて女子バレー部を活動停止にするふりをした。
そうすることで、谷川先輩の本心を探ることにした。田辺先輩が言ってた揺さぶるということの本当の意味は、谷川先輩がどう反応するかを確かめることだった。
「まんまと田辺先輩の策に、谷川先輩はひっかかったわけなんですね」
「どんなに偽ったとしても、本心は隠しきれないものさ」
田辺先輩が鼻で笑った後、再び谷川先輩に視線を向ける。その眼差しには、田辺先輩の優しさが込められてるように見えた。
――だから、不問にしたんだ
男子バスケ部と女子バレー部を目を細めて見つめる田辺先輩の横顔を見て、田辺先輩なりの思いやりがあったことに気づいた。
谷川先輩のやったことも、笹山先輩の暴行事件も、普通なら許されることじゃない。然るべき処分を受けて当然だろう。
けど、田辺先輩は丸く収めることで決着をつけた。それは、ひょっとしたら田辺先輩なりの二人へのエールなのかもしれない。
さらに、コートの使用について監査委員会が正式に介入することになった。それも、チームをまとめきれないお人よしの谷川先輩の悩みを、少しでも解決してあげる為なんだろう。
おかけで、田辺先輩は繰り上げ委員長と再び陰口を叩かれることになった。
でも、田辺先輩は陰口叩かれることよりも、苦悩する谷川先輩に寄り添うことを優先した。
田辺先輩にとって、事件の真相解明は大切じゃなかった。大切なのは、そこにいる人たちの想いだったというわけだ。
またしても、田辺先輩のすごさをみんなに知らせることはできなかった。でも、それでもいいと思えたし、やっぱり私はそんな田辺先輩が好きなんだって改めて思った。
ふと気づくと、山崎先輩が私に頭を下げていた。
そんな山崎先輩を一喝した笹山先輩が、私の視線に気づいてウインクしてきた。
私は頬を緩めながら頭を下げて応える。このまま、女子バレー部が全国大会に行ってくれたらと強く願った。
女子バレー部と入れ替わりにコートへ姿を現した男子バスケ部。その真ん中で、不器用でお人よしなキャプテンがかけ声を上げ始めた。
体育館のコートに響くドリブルの音。
叶わぬ想いを振り切るように走り続けるその背中を見つめながら、私は誤解していたことを謝りつつ、そっと声援を送った。
――谷川先輩、ファイトです!
―キャプテンの盲目 了―
廊下の窓から吹き込む風が、すっかり夏色を帯びていた。放課後のグランドからは、夏の大会に向けた野球部やサッカー部たちの熱い声が響いてくる。いよいよ夏本番の気配に足どりが軽くなる私だったけど、監査委員会活動室のドアに貼られた紙を見て、すっかり浮かれた気持ちは沈んでいった。
――多忙中につき、一時受付停止?
貼り紙には、調査依頼が増えたことによって新規の受付を停止している旨が記されている。当然、そんな事実はないことを知っている私は、問答無用に貼り紙を破り捨ててドアを開けた。
――やっぱり寝てるだけじゃない
もはや予想するのも馬鹿らしいくらい予想通りソファーに寝転んでいる田辺先輩を見て、私は小さくため息をつく。バスケ部とバレー部の問題を解決して以来、活動らしい活動をしていない田辺先輩の体たらくぶりには私の我慢も限界を迎えていた。
――これはお仕置きが必要ね
最近ようやく導入されたクーラーを余すことなく利用している田辺先輩を見て、いたずら心に火がついていく。テーブルに置かれたリモコンを気づかれないように手に取り、設定を暖房に切り替えると、内心微笑みながら監査委員会活動室を出ていった。
――でも、本当によく寝ているよね
田辺先輩に天罰が下るまでの間、学食で暇を潰すことにした私は、それとなく田辺先輩のことを考えてみた。
田辺先輩は、はっきり言ってこんな普通レベルの高校にいるような人ではなく、むしろ超のつくような進学校にいても不思議ではない人だ。その証拠に、田辺先輩の学力はずば抜けていて、全国模試では常に上位で無双していた。
ただ、残念なことに田辺先輩にはその自覚がないみたいで、変に頭の良さでマウントとるような馬鹿なことをしない代わりに、徹底した体たらくぶりを極めている。その理由はわからないけど、あの息をするのも忘れるくらい目を奪ってくる眼差しを誰も知らないのは、やっぱりもったいない気がした。
――やっぱり、寝ている理由にはなにかあるのかな?
自販機で買ったイチゴジュースのストローに口をつけながら、以前聞いた噂を思い出してみる。田辺先輩には、どうやら寝ていることに秘密があるみたいで、それは中学時代になにか関係があるみたいだった。
ただ、その辺の詳しい事情を知る人は少なく、その上知っている人も口を閉ざしているから、真相を知りたい私にしたらこのモヤモヤは拭えない不安にもなっていた。
――誰か好きな人がいるとか?
考えるだけで胸が痛くなるけど、田辺先輩のよくわからない事情の裏には、見えない誰かがいるような気がしている。ただ、それはあくまでも気配程度であって、田辺先輩から女の子の影は感じられない。告白されることは度々あったみたいだけど、田辺先輩は誰とも恋人関係になることなく今日までナマケモノでいてくれている。
「あの、監査委員会の人ですよね?」
思考が田辺先輩で埋め尽くされたところで、急に声をかけられ背中が反り返りそうになった。慌てて声のしたほうに目を向けると、眼鏡をかけた髪の長い小柄な女性が驚いて固まっていた。
「ごめんなさい、急に声をかけてしまって」
私がびっくりしたことにすかさずフォローを入れてきた彼女は、人畜無害オーラ全開で頭を下げてきた。ジャージ姿に首にタオルを巻いている姿からして運動部系の人と察しがついた。
「あ、私は陸上部のマネージャーをしている赤坂奈美です」
礼儀正しく名乗った赤坂先輩は、童顔ながらも三年生だった。どうやら監査委員会に用があったけど、田辺先輩の迷惑な貼り紙のせいで仕方なく帰ろうとしたところで私を見つけて声をかけてきたとのことだった。
「はじめまして、私は倉本花菜です。あの貼り紙は気にしなくてかまいませんから。監査委員会に用があるのでしたら私が聞きますよ」
困惑する赤坂先輩の顔色に何かを感じとった私は、すかさず赤坂先輩を椅子に座らせる。マネージャーということから、陸上部内でなにかあっての相談だと読んだ私は、久しぶりの依頼に胸が高鳴るのを感じた。
「じゃあ、お願いしますね。実は、男子のことでちょっとトラブルが起きてるんです」
一瞬、目を伏せた赤坂先輩が力強い瞳を向けながら口を開いた。その眼差しからは、相当悩んだ上での覚悟が伝わってきた。
「今度の大会で四百メートルリレーに男子が参加するんですけど、メンバー内でいざこざが起きてまして」
一言ずつ噛みしめるように語る赤坂先輩から、ただならぬ雰囲気が伝わってくる。実際、赤坂が教えてくれた内容には頭が痛くなりそうになった。
今度の大会に参加するリレーのメンバーは全員三年生で、これまで一度もトラブルが起きることはなかった。けど、今回に限ってアンカーを誰が務めるのかを巡って対立が起きているとのことだった。
「今回のアンカーは津山君で決まりだったんですけど、突然、今になってキャプテンの島田君がアンカーをやると言い出したんです。それで、メンバー内でごたごたが起きてしまって」
簡潔に語ってはいるけど、赤坂先輩の口調からは根深い闇が見え隠れしていた。赤坂先輩によれば、キャプテンの島田先輩の決定は横暴に近いらしく、一部の部員からはパワハラと叩かれているとのことだった。
「今回は、ということは、これまで津山先輩はアンカーを務めてなかったんですか?」
「はい、今まではずっと島田君がアンカーを務めてました。ただ、今回はどうしても津山君にアンカーを務めてほしい想いがメンバーにあったんです」
「メンバーの想いですか? それはなんですか?」
「彼、津山君は今度の大会がラストランなんです」
わずかに声を震わせながら、赤坂先輩がぽつりと呟いた。その変化に、なにか重要な意味があることを私は痛感した。
「他のメンバーは大学で陸上を続けることが決まってるんですけど、津山君だけは進学しないことが決まってます。だから、公式の大会で走るのは今度が最後なんです。ですから、みんなで津山君の花道としてアンカーを務めてもらうように決めたんです」
赤坂先輩の話によると、リレーのメンバーは中学からの仲間であり、ライバルである西城学園に勝つことを目標に一致団結してきたという。
そうした背景もあり、苦楽を共にしてきた仲間の最後の花道を、アンカーという晴れ舞台に用意した。けど、そこに割って入ったのがキャプテンでもある島田先輩だった。
「なぜ島田先輩は今になってアンカーを務めると言い出したんですか?」
「それは、多分、西城学園に勝つためだと思います」
さらに声のトーンを落とした赤坂先輩が、一気に表情を固くした。
「これまで、西城学園に勝つためにあれこれ試してきたんですけど、一番よかったのはやっぱり島田君がアンカーを務めた時なんです。それを考えたら、西城学園に最後の大会で勝つには、島田君にアンカーを務めてもらうのが一番ということになるんです」
赤坂先輩の悲壮感が大きくなったところで、ようやく事情が見えてきた。対立構造としては、花道を用意してやりたいメンバーと、勝ちにこだわるキャプテンといったところだろう。そこにキャプテンという立場を利用して横暴さが加わったことで、事態はパワハラ問題に発展しているみたいだった。
「あの、それで肝心の津山先輩はなんと言ってるんですか?」
「津山君はあまり自分の意見を言わない人だから本心はわかりません。ただ、今のところは島田君に従う立場を表明して騒ぎをおさめてる感じです」
「なるほどですね」
赤坂先輩の説明で、対立構造に加えて立場関係も見えてきた。話を聞く限りでは、津山先輩の方が立場が弱いことで意見も言えないのだろう。傍から見れば、キャプテンに無理矢理決められたように感じるのも、対立に拍車をかけているのかもしれない。
「わかりました。どこまで扱えるかわかりませんが、みなさんに話を聞いてみますね」
暗い表情を落とす赤坂先輩を励ますように声をかける。部内のごたごたとはいえ、特に事件性はないと判断した私は、軽い気持ちで引き受けることにした。
そう、この時の私は本当になにも考えていなかった。
まさか、この後とんでもない一言を田辺先輩に言われて重荷を背負うことになるとは、夢にも思っていなかった。
さっそく、依頼を受けたことを田辺先輩に報告するために監査委員会活動室へと向かう。事件の内容は大したことではないから田辺先輩の活躍があるかはわからないけど、なにもしないよりマシだと言い聞かせて開きっぱなしのドアから中に入った。
「暑っ!」
中に入った瞬間、息苦しくなりそうな熱気が襲ってきた。よく見ると全ての窓が開いていて、吹き込む風がさらに部屋の熱気をかき回していた。
「かー、なー」
何事かと思っていたところに、地獄の底からの呻き声のような重い声が響き始める。恐る恐る確認すると、阿修羅と化した田辺先輩が怪しい光を両目から発してあぐらをかいていた。
「あーー!!」
すっかりエアコンのことを忘れていた私は、無意識に握っていたリモコンが汗で濡れるのを感じた。ほんの少ししたら戻るはずだったけど、赤坂先輩と話をしていたせいで監査委員会活動室は地獄に変わっていたらしい。
「リー、モー、コー、ンー」
まるで呪いをかけるように呟きながら手を差し出してくる田辺先輩に、王に献上するがごとくリモコンを渡す。てっきり説教されるかと思ったけど、意外にも田辺先輩は無言のままだった。
――やばっ、死ぬかと思った
田辺先輩の阿修羅オーラが消えていくのを感じ、ほっと胸をなでおろす。冷気が漂い始めたところで窓とドアを閉め、完全に田辺先輩が無気力になったのを確認して依頼の話を切り出した。
「その話、本当に引き受けたのか?」
「はい、困ってるみたいでしたから助けになればと思いまして」
「だとしたら、軽率だったな」
興味を示さないと予想していたけど、田辺先輩は意外にも食いついてきた。しかも、どういうわけか依頼を受けたことを本気でまずいと思っているみたいだった。
「どうしてですか?」
「花菜にはちゃんと教えてなかったかもしれないけど、監査委員会には自由裁量ができないケースがある」
「自由裁量?」
「まあ平たく言えば、好き勝手に処分していい権限のことだ。それが行使できないケースがあって、その一つにハラスメント系のトラブルがある」
田辺先輩によると、部活動に関する問題については大半が監査委員会の自由裁量に委ねられているけど、特定の個人に依存するような問題については、例外規定が設けられているという。
その代表的なものに、パワハラやセクハラといった問題があり、こうしたケースは部活動というよりも個人に焦点が置かれるため、厳格な処分が義務づけられているらしい。
「ということはですよ、今回の依頼が島田先輩のパワハラだと認定することになったら、処分はどうなるんですか?」
「処分は基本的に一つしかない。ハラスメント系は、認定された時点で一発アウトだ。つまり、島田はパワハラを認定されたら強制退部となる」
強制退部という言葉が、やけに胸にずしりと響いてきた。どのクラブも三年生にとっては夏の大会が最後となるから、その目前で強制退部となれば、そこに残る禍根は大きいものになるだろう。
「さらに言えば、ハラスメントを認定しなかった場合の調査報告も厳格な手続きになるんだ。万が一かばい立てしたなんて認められたら、花菜が監査委員会を強制解任させられることになる」
わずかに表情を曇らせた田辺先輩が、とんでもないことを口にした。強制解任となれば、当然監査委員会にはいられないから、田辺先輩との唯一のつながりが途切れてしまうことになる。
――私、とんでもない事案を引き受けた?
軽い気持ちで引き受けだけなのに、事態は一瞬で重い内容へと変化した。赤坂先輩の話を聞く限り、島田先輩のパワハラは五分五分、いや、八割近くは認定されるだろう。
そうなると、その認定を私がすることによって、私は島田先輩の最後の大会への出場権を奪ってしまうことになる。だからといって下手にかばい立てすれば、今度は私が窮地に追い込まれることになるかもしれなかった。
「まあ、そうはさせないけどな」
「え?」
一瞬、顔をそむけた田辺先輩がぽつりとこぼす。その言葉の意味が遅れて理解につながって瞬間、顔が火傷するくらいに熱くなっていった。
――ちょっと、今の言葉は私を強制解任させないってことよね?
田辺先輩の言葉を脳内で高速反芻しながら、思いがけない田辺先輩の気づかいにすっかり体は夏に負けないくらい熱くなっていった。
「それにしても、よりにもよってあの二人が問題になるとはな」
私の頭がお花畑になるのをよそに、田辺先輩が小さくため息をつく。その表情には、なにか思いつめる憂いが滲んでいた。
「あの二人って、津山先輩と島田先輩のことですよね? 二人にはなにかあるんですか?」
「津山と島田は、小学生の時からコンビを組む仲なんだよ。西城学園は中高一貫だから、中学から打倒西城を目指している仲間でありライバルでもあるんだ」
「そ、そうなんですね。でも、でしたらなぜ今回トラブルになったんでしょうか? 仲の良い二人なら話し合いすれば解決しそうですし、他のメンバーも納得しそうなんですけど」
「それは、島田の性格によるかな。島田は、短距離走では絶対王者と呼ばれ、県内では敵なしの実力者だ。だからこそ、個人戦だけでなく団体戦でも勝ちに徹したいんだろ」
田辺先輩がぶっきらぼうに説明しながら、今度は壮大にため息をついた。その様子から、田辺先輩は島田先輩の横暴さに苛立ちを感じているようにも見えた。
「島田先輩の実力はわかりましたけど、津山先輩はどうなんですか?」
「ああ、津山に関しては、記録なき二番走者って言われている。練習では島田に並ぶ実力を発揮するらしいけど、気弱な性格が災いしてか、本番では全く実力を発揮できないらしい」
田辺先輩によれば、津山先輩は小学生の時からそれなりの実力者だったらしい。けど、成長するにして気弱な性格が走りに影響し、今では目立った記録も出せていないという。
「いずれにしても、今度の大会が津山のラストランだ。できれば、嫌な思いで走ってほしくはないよな」
憂いを帯びた瞳を窓の外に向け、田辺先輩が小さくこぼす。その言葉は、やけに重く私の胸にのしかかってきた。
翌日の放課後、軽い緊張感を抱いたままグランドを訪れると、陸上選手らしく短髪ですらりとした高身長の島田先輩が出迎えてくれた。
「すみません、練習中なのにお邪魔しまして」
「いや、大丈夫だよ。ちょうど休憩しようとしてたからね」
額の汗を拭いながら、島田先輩が屈託のない笑みを浮かべる。パワハラの話を聞いてなかったらかなり印象がいい人に見えるだけに、私は雰囲気にのまれないように気持ちを引き締めた。
「では、単刀直入に失礼します。実は、赤坂先輩からパワハラの相談を受けてきました」
一度咳払いをした後、私は用件を伝えた。
「パワハラ?」
私の来訪理由が意外だったのか、島田先輩の顔に困惑の色が広がっていく。ただ、その様子が痛いところを突かれたというよりも、予想外な話に固まるという感じがしっくりきた。
――なんか、ちょっと変な感じがする
島田先輩は顔を曇らせたまま、言葉を発することなく考え込むように空を仰いでいる。今日私が来ることはわかっていたはずだから、パワハラの話がでることは予想できたはずなのに、島田先輩は初めて聞くかのような素振りをみせていた。
「そういうことか……」
やがて、たっぷりの間があった後に、島田先輩はぽつりと呟いた。
「そういうこととはどういう意味ですか?」
「あ、いや、なんでもない。それより、監査委員会はパワハラの調査で来たってことでいいんだよね?」
「はい、一応はそのつもりです」
「だったら、田辺もこの件に関わるのか?」
「田辺先輩も一応は関わるかと思います。それがどうかされましたか?」
変に田辺先輩を気にする素振りが気になった私は、それとなく島田さんに聞いてみた。けど、島田さんは「なんでもない」と引きつった笑みを浮かべて手を振り続けるだけだった。
「それより、一つ聞いてもいい?」
「なんですか?」
「君は、あの田辺と一年以上も同じ監査委員会の委員を務めてるよね? みんな田辺に嫌気がさして辞めてるのに、君だけ残ってるのは義務感からかな? それとも、田辺に恋してるとか?」
「な、なんですかいきなり」
なにを聞かれるかとかまえていたところに、まさかの質問だったことから私はうろたえてしまった。となると、当然のごとくしてやったりの顔になった島田先輩は、意味深ににやにやと笑いだした。
「べ、別に私は」
「大丈夫大丈夫、気にしなくていいから。田辺は、あんな性格だけど本当はすごい奴だからね。中学であんなことがなければ、もっと明るい奴だったし、近くにいたら好きになるのもわかるよ」
一人納得するかのようにうんうんうなずく島田先輩に、いじられる苛立ちよりも胸の奥がツンとした痛みを感じた。今の言葉はさらりと言ったけど、島田先輩は田辺先輩の過去を知っていることになる。
「知りたい?」
「え?」
「田辺の秘密。あいつはなんでいつも眠っているのか、なんで他人を寄せつけずに無気力を装っているのか、その秘密を知りたくない?」
「それは――」
明らかに挑発するような目で、島田先輩が悪魔の誘惑を仕掛けてくる。気づくとすっかり島田先輩のペースに巻き込まれていた。
「教えてやる条件は一つ」
なんと答えるか迷っている私に、かまわず島田先輩が人差し指を立てて近づいてきた。
「いよいよの時は、その、津山のことを助けてやってほしい。ほら、津山は今度の大会がラストランだし、あいつに悔いを残してもらいたくないからさ」
急に顔を赤くした島田先輩が、わざとらしく咳払いしながら頭をかいた。なにを言われたのか一瞬わからなかったけど、「頼んだぞ」と言い残して島田先輩はそそくさと練習に戻っていった。
――今のどういう意味?
走り去る島田先輩の背中を見ながら、島田先輩の言葉をゆっくりと考えてみる。意地悪ないたずら好きといった印象を島田先輩には抱いたけど、最後に見せた表情には島田先輩の津山先輩を思いやる優しさみたいなものがはっきり見てとれた。
――パワハラしてるようには思えなかったな
島田先輩に対する印象が決まりかけたところで、今度は小柄でちょっと幼さの残る顔をした津山先輩が警戒気味に近づいてきた。
「マネージャーから聞いたけど、僕になにか用?」
恐る恐るといった感じで津山先輩が切り出してくる。その瞳からは、なにかを恐れているような迷いに似た揺れが感じられた。
「あ、私、監査委員会の倉本といいます。今日は赤坂先輩から相談を受けた件で話を聞きにきました」
「赤坂の相談?」
「はい、今度の大会でリレーを走るメンバー間でトラブルがあるみたいで、それを赤坂先輩が心配されてましたので」
壮大なハテナマークを浮かべる津山先輩を見て、私は事の経緯を簡単に説明した。
「そんな、パワハラなんか島田君がするわけないよ。みんながなにを言ってるのかは知らないけど、これはみんなで決めたことだし」
「でも、みんなで決めたのは津山先輩がアンカーを務めることですよね?」
「そ、それは」
「せっかくみんなで決めたのに、今になって島田先輩がアンカーを主張していますよね? しかもかなり横暴に決めたと聞いてます。それが本当にみんなで決めたと言えるんですか?」
明らかに焦ってるように見える津山先輩に、私は努めて柔らかく矛盾を指摘していく。今の津山先輩の様子からは、島田先輩を悪く思っていないように見えるけど、ひょっとしたら島田先輩に言いくるめられている可能性もなくはなかった。
「たとえ島田君が横暴に見えたとしても、彼は西城学園に勝つために判断したことだし、それは間違ってないと思う」
「それはなぜですか?」
「大会がある競技場は、スタンドが二番走者のレーンの前にあるから、みんなが注目するというプレッシャーの中で走らないといけないんだ。しかも、西城学園は二番走者にエースをあててくるから、みんなの前で抜かれるという恥ずかしい思いもしないといけない。だから、チームで勝つことを考えたら、嫌な役目は僕が引き受けるのが当然だと思う。これまでも、そうしてきたしね」
これまでの弱気な雰囲気とは違い、津山先輩はまっすぐに私を見つめて断言してきた。聞けば、これまで津山先輩はずっと二番走者を務めていて、その度に西城学園に抜かされる汚名を背負ってきたらしい。
「君も聞いているかもしれないけど、僕は本番では勝てない奴って言われてる。自分の性格だし、もう諦めてるんだけどね、だから、そんな僕が勝敗を決するアンカーなんて務まるわけがないんだよ」
「でも、他のメンバーは津山先輩のラストランの花道として、アンカーを走ってほしいと思ってるのではないんですか?」
「みんなの気持ちは嬉しいけど、でも、やっぱり西城学園に勝つには島田君がアンカーを務めるのが一番なんだよ。これまで、みんなと一丸になって打倒西城学園を目指して頑張ってきたんた。今さら僕の個人的な理由で勝ちを諦めるのは、やっぱり違うと思うんだ」
わずかに声をふるわせて語りながら、津山先輩は高く雲が広がった空を見上げた。その表情には、ラストランに向けた自分なりの想いを必死に受け入れようとするあがきみたいなものが見えたような気がした。
「お話、ありがとうございました」
津山先輩の横顔を見て、これ以上の収穫は見込めないとさとった私は、津山先輩に頭を下げてグラウンドを後にした。
ラストランを控えた津山先輩をめぐるチームの想い。
西城学園に勝つことにこだわる島田先輩の想い。
その相反する二つの想いに触れた今、私は軽い気持ちで引き受けたことを少しずつ後悔するはめになってしまった。
翌日の放課後、田辺先輩に聞き取り内容を報告して食堂に向かった。田辺先輩はというと、窓辺に立って私の話を聞きながら黙って陸上部の練習を眺めているだけだった。
――それにしても……
食堂に向かう間、顔をのぞかせたのは島田先輩の言葉だった。島田先輩は、田辺先輩が中学時代になにかあったと言っていた。そのせいでやたらと眠ったり、無気力で他人を寄せつけないようになったみたいだから、私としては当然知りたい内容でしかなかった。
――でも、それを知るには津山先輩を助けるってどういうこと?
田島先輩の出した条件は、いよいよの時に津山先輩を助けることだった。私にはさっぱり意味がわからないし、田辺先輩にそれとなく聞いてみたけど、反応は「そうか」と呟くだけだった。
あれこれ考えが右往左往する中、食堂にいた赤坂先輩を見つけ、気持ちを切り替えつつ小走りで近寄っていった。
「すみません、時間を作ってもらいまして」
「いいんですよ、今はマネージャーの仕事もそんなに忙しくありませんから」
慌てて頭を下げる私に、赤坂先輩が柔らかな笑みで応えてくれた。
「それより、聞きたいことってなんですか?」
「はい、津山先輩のことなんです」
「津山君のこと?」
津山先輩の名前を出した瞬間、赤坂先輩の顔がわずかに緊張するのが見えた。
――やっぱり、赤坂先輩は津山先輩のこと好きなのかな?
赤坂先輩の今の表情を見て、直感的にそう思えてきた。となると、ここはうまく津山先輩のことを聞き出すチャンスととらえた。
「津山先輩は、小学生の時から陸上部を続けてますよね? 赤坂先輩から見て今の津山先輩はどう見えますか?」
「ごめんなさい、どうっていうのは?」
「あ、つまりですね、リレーで二番走者ばかりやっている津山先輩をどう思っているかという意味です。津山先輩に聞きましたけど、二番走者は結構大変な役割みたいで、私には好きでやってるのか、それともやらされてるだけなのかがいまいちわかりませんでした」
津山先輩との会話を引き出しながら、気になったことを聞いてみる。もともと津山先輩が嫌な役目をずっと押しつけられているとしたら、今回の島田先輩の横暴はパワハラになる可能性が否定できない可能性もあったからだ。
「リレーでの二番走者は、一番重要なポジションです。四百メートルリレーだからといって、全員が百メートルを分担するんじゃなくて、少しずつ距離が変わってくるんです。そのため、二番走者は一番距離が長くなるともいわれていて、だから西城学園はエースを二番走者に配置しているんです。そう考えたら、二番走者を任せられるのは名誉ではあるんですけどね」
説明を終えると、わずかに下を向いた赤坂先輩の声が詰まっていった。津山先輩の二番走者としての成績は、一番走者がリードを作っても他校に抜かれて終わりというものばかりだ。当然、心ないヤジも少なくなかったと思うと、スタンドで観ていた赤坂先輩の胸中は穏やかではなかったと簡単に想像できた。
「津山君がプレッシャーに弱いのはみんなわかってることなんです。だから、ラストランだけは津山君が実力を発揮できるようにとみんな考えたんだと思います。でも、島田君はそれを突然変更してしまうし、津山君も受け入れてしまったみたいですから、正直、私にはなぜそうなったのかはわかりません」
静かに声をふるわせた赤坂先輩の瞳から、一つ、また一つと涙がこぼれ落ちていく。赤坂先輩にしたら、好きな人の晴れ舞台を奪われたわけだから、納得したくても納得できないでいるのだろう。
「ずっと、小学生の頃から津山君の走っている姿を見てきました。かっこよくて、みんなの憧れだったのに、今はもうあの頃の面影はありません。だから、せめて、最後だけは、あの頃みたいに走ってもらえたらと思うんです」
すみませんと呟いた赤坂先輩が、両手で顔を隠して嗚咽をもらし始めた。きっと、赤坂先輩もずっと苦しかったのだろう。いつもそばで見てきた好きな人が、成績もふるわずラストランを迎えてしまい、その最後の花道さえ取り上げられたことに胸を痛めていたに違いない。
だから、今回、意を決して監査委員会に訴えてきた。島田先輩や津山先輩の様子からして、赤坂先輩の訴えが独断だったことは間違いない。そこまでする赤坂先輩からは、津山先輩を想う気持ちが強く感じられた。
「すみません、なんだか辛い気持ちにさせてしまいまして」
「いえ、いいんですよ。私も、誰かに聞いてもらいたかったんです。それに、倉本さんならわかってくれるかもと思って」
「私なら、ですか?」
「だって、たった一人で田辺君のそばにいるから、その理由は私でもわかりますよ」
泣きやんだ赤坂先輩が、今度はいたずらっぽい笑みを向けてきた。またしても不意をつかれた私は、なんと答えていいかわからずから笑いするしかなかった。
「倉本さん、頑張ってね。私にはできなかったけど、倉本さんならできると思うから」
「ちょっとまってください。頑張るって、なにを」
「倉本さんのライバルは、ある意味強敵だから、もう田辺君を押し倒す勢いでいけばいいと思うよ」
「ちょ、押し倒すって、私は別に」
耳の裏まで熱くなるのを感じながら、赤坂先輩の言葉に動揺をおさえきれなくなっていた。
「と、とりあえず調査はまだ続けますから」
もはやごまかすこともできないくらい狼狽していたけど、なんとかそれだけ告げて逃げるように席を立った。