翌日の放課後、田辺先輩に聞き取り内容を報告して食堂に向かった。田辺先輩はというと、窓辺に立って私の話を聞きながら黙って陸上部の練習を眺めているだけだった。
――それにしても……
食堂に向かう間、顔をのぞかせたのは島田先輩の言葉だった。島田先輩は、田辺先輩が中学時代になにかあったと言っていた。そのせいでやたらと眠ったり、無気力で他人を寄せつけないようになったみたいだから、私としては当然知りたい内容でしかなかった。
――でも、それを知るには津山先輩を助けるってどういうこと?
田島先輩の出した条件は、いよいよの時に津山先輩を助けることだった。私にはさっぱり意味がわからないし、田辺先輩にそれとなく聞いてみたけど、反応は「そうか」と呟くだけだった。
あれこれ考えが右往左往する中、食堂にいた赤坂先輩を見つけ、気持ちを切り替えつつ小走りで近寄っていった。
「すみません、時間を作ってもらいまして」
「いいんですよ、今はマネージャーの仕事もそんなに忙しくありませんから」
慌てて頭を下げる私に、赤坂先輩が柔らかな笑みで応えてくれた。
「それより、聞きたいことってなんですか?」
「はい、津山先輩のことなんです」
「津山君のこと?」
津山先輩の名前を出した瞬間、赤坂先輩の顔がわずかに緊張するのが見えた。
――やっぱり、赤坂先輩は津山先輩のこと好きなのかな?
赤坂先輩の今の表情を見て、直感的にそう思えてきた。となると、ここはうまく津山先輩のことを聞き出すチャンスととらえた。
「津山先輩は、小学生の時から陸上部を続けてますよね? 赤坂先輩から見て今の津山先輩はどう見えますか?」
「ごめんなさい、どうっていうのは?」
「あ、つまりですね、リレーで二番走者ばかりやっている津山先輩をどう思っているかという意味です。津山先輩に聞きましたけど、二番走者は結構大変な役割みたいで、私には好きでやってるのか、それともやらされてるだけなのかがいまいちわかりませんでした」
津山先輩との会話を引き出しながら、気になったことを聞いてみる。もともと津山先輩が嫌な役目をずっと押しつけられているとしたら、今回の島田先輩の横暴はパワハラになる可能性が否定できない可能性もあったからだ。
「リレーでの二番走者は、一番重要なポジションです。四百メートルリレーだからといって、全員が百メートルを分担するんじゃなくて、少しずつ距離が変わってくるんです。そのため、二番走者は一番距離が長くなるともいわれていて、だから西城学園はエースを二番走者に配置しているんです。そう考えたら、二番走者を任せられるのは名誉ではあるんですけどね」
説明を終えると、わずかに下を向いた赤坂先輩の声が詰まっていった。津山先輩の二番走者としての成績は、一番走者がリードを作っても他校に抜かれて終わりというものばかりだ。当然、心ないヤジも少なくなかったと思うと、スタンドで観ていた赤坂先輩の胸中は穏やかではなかったと簡単に想像できた。
「津山君がプレッシャーに弱いのはみんなわかってることなんです。だから、ラストランだけは津山君が実力を発揮できるようにとみんな考えたんだと思います。でも、島田君はそれを突然変更してしまうし、津山君も受け入れてしまったみたいですから、正直、私にはなぜそうなったのかはわかりません」
静かに声をふるわせた赤坂先輩の瞳から、一つ、また一つと涙がこぼれ落ちていく。赤坂先輩にしたら、好きな人の晴れ舞台を奪われたわけだから、納得したくても納得できないでいるのだろう。
「ずっと、小学生の頃から津山君の走っている姿を見てきました。かっこよくて、みんなの憧れだったのに、今はもうあの頃の面影はありません。だから、せめて、最後だけは、あの頃みたいに走ってもらえたらと思うんです」
すみませんと呟いた赤坂先輩が、両手で顔を隠して嗚咽をもらし始めた。きっと、赤坂先輩もずっと苦しかったのだろう。いつもそばで見てきた好きな人が、成績もふるわずラストランを迎えてしまい、その最後の花道さえ取り上げられたことに胸を痛めていたに違いない。
だから、今回、意を決して監査委員会に訴えてきた。島田先輩や津山先輩の様子からして、赤坂先輩の訴えが独断だったことは間違いない。そこまでする赤坂先輩からは、津山先輩を想う気持ちが強く感じられた。
「すみません、なんだか辛い気持ちにさせてしまいまして」
「いえ、いいんですよ。私も、誰かに聞いてもらいたかったんです。それに、倉本さんならわかってくれるかもと思って」
「私なら、ですか?」
「だって、たった一人で田辺君のそばにいるから、その理由は私でもわかりますよ」
泣きやんだ赤坂先輩が、今度はいたずらっぽい笑みを向けてきた。またしても不意をつかれた私は、なんと答えていいかわからずから笑いするしかなかった。
「倉本さん、頑張ってね。私にはできなかったけど、倉本さんならできると思うから」
「ちょっとまってください。頑張るって、なにを」
「倉本さんのライバルは、ある意味強敵だから、もう田辺君を押し倒す勢いでいけばいいと思うよ」
「ちょ、押し倒すって、私は別に」
耳の裏まで熱くなるのを感じながら、赤坂先輩の言葉に動揺をおさえきれなくなっていた。
「と、とりあえず調査はまだ続けますから」
もはやごまかすこともできないくらい狼狽していたけど、なんとかそれだけ告げて逃げるように席を立った。
監査委員会活動室に戻ると、案の定、田辺先輩は心地よく眠っていた。その寝顔は何度も見慣れているはずなのに、今日はなぜかいつも以上に胸が苦しくてしかたなかった。
――眠っている理由ってなんだろう……
田辺先輩の寝顔を前に、島田先輩や赤坂先輩の言葉が頭をよぎっていく。赤坂先輩は、強力なライバルがいるとも言っていた。だとしたら、田辺先輩には誰か関係を持つ女性がいるのかもしれない。
その謎を解く鍵は、きっと田辺先輩の中学時代にあるのだろう。私は田辺先輩とは違う中学だから全くわからないけど、もし今回の件がうまくいけば島田先輩に教えてもらえる可能性はあった。
――え? 今、名前を言わなかった
寝返りをうつ際に田辺先輩がなにかを口にしたように聞こえた。それは名前のように聞こえたけど、はっきりとはわからなかった。
「田辺先輩、私、田辺先輩のことが好きなんです」
遠くに蝉の音が聞こえるだけの中で、眠っている田辺先輩に小さく呟いてみる。絶対に田辺先輩が起きているときには言えないけど、私の気持ちは田辺先輩のすごさを知ったときから変わりはなかった。
でも、その気持ちを口にすることには抵抗を感じている。今は監査委員会という枠組みがあるから一緒にいられるだけで、きっと監査委員会という枠組みがなくなったら、田辺先輩が私といる理由はなくなるだろう。
それがわかるくらい、私と田辺先輩ではなにもかも住む世界が違っている。人としての力というか、とにかく私と田辺先輩が釣り合っていないことは、馬鹿な私でも実感していることだった。
――でもね、田辺先輩
それでも、私はいつかこの気持ちを伝えたいと思っている。たとえ強力なライバルがいるとしても、私は私にできることをやって、ちょっとでも田辺先輩と釣り合えるようになることが私の願いだった。
「なんで泣いているんだ?」
どうすることもできない想いに目頭が熱くなったときだった。不機嫌そうに起き上がった田辺先輩が、隠すことなく大きなあくびをくりかえしながら無造作に聞いてきた。
「あ、いえ、なんでもないです。私も眠くなってあくびしてたんです」
いきなりの田辺先輩の言葉に慌てて目をこすりながら、生あくびを無理矢理くりかえしてごまかした。そんな私を田辺先輩は不審そうに見ていたけど、すぐに興味を失ったかのようにまたソファーに寝転んだ。
――やば、聞かれたかと思ったよ
決して聞かれたくないひとりごとだっただけに、田辺先輩に聞かれたかとひやひやした。けど、どうやら田辺先輩は全く気づいていないみたいだった。
「ところで、赤坂の話はどうだった?」
寝転んだと思いきや、急に立ち上がった田辺先輩が窓際へと歩きだした。その背中を追っていくと、田辺先輩はグランドに集まっている陸上部を黙って見つめ始めていた。
「正直なところ、よくわからないです」
さっき赤坂先輩とやりとりした内容を伝えながら感想を添えると、田辺先輩は腕を組んだままなにかを考えるように黙り込んだ。
「俺も、リレーのメンバー全員に話を聞いてみた。それと、ランダムに他の部員にもあたってみたけど、結論から言えばパワハラではないような気がしている」
しばらくして口を開いた田辺先輩が、多少の迷いを含ませながらも結論を口にした。
「もしパワハラではないとしましたら、島田先輩の決定は横暴ではなかったってことですか?」
「いや、横暴だったことは間違いない。みんなで決めたことを島田が無理矢理変更したのも事実だ。ただ、それを部員はもちろん、リレーのメンバーも最初は横暴と思いはしたけど、どういうわけか今では抵抗なく受け入れてるといった感じだった」
「ということはですよ、パワハラは実際にあったけどみんなが認めてるから問題ないということですか?」
「部員の様子を見る限り、島田の横暴がパワハラだったと言えるかは微妙なところだな。ただ、問題は島田の横暴をどうにかしてパワハラにしたい奴がいるってことだ。既に部員同士で決着している問題だというなのに、どういうわけか監査委員会に依頼してでもパワハラ問題にしたい奴がいる」
「え、それって――」
田辺先輩の指摘に、すぐに浮かんだのはおとなしそうな赤坂先輩の顔だった。
「赤坂には、島田の横暴を許せない理由があるよな?」
問われて私は言葉に詰まってしまった。赤坂先輩の津山先輩に対する気持ちを、田辺先輩は気づいている。その上で田辺先輩が結論を出したということは、おそらく間違いないだろう。
「赤坂は、部員に相談することなく単独で監査委員会に相談するという行動にでた。それは、部員に相談しても意味がないとわかっていたからだろう。そう考えたら、島田の行動が部内では問題となっていなかった証明にもなる」
「田辺先輩の考えですと、今回の件は赤坂先輩の単独行動によるものなんですか?」
「おそらくな。津山のラストランを考えて、赤坂なりに思うところがあって一人で決断したんだろうな。ただ、それよりももう一つ気になることがある。結果的に島田の行動が部員に受け入れられたとはいえ、なぜ直前になって津山をアンカーから外したのかがはっきりしない」
すっと細目になった田辺先輩が、なにかを見通すかのように視線を空へと向ける。その横顔には、誰かを思って憂うような陰りが見えた。
「それは、西城学園に勝つためではないんですか?」
「表向きはな。ただ、そうだとしたら、最初の話し合いで決まっていたはずだ。だから、島田も納得した上で津山にアンカーを託したはず。なのに、それを今になって覆した理由がよくわからない」
まいったと言わんばかりに頭をかく田辺先輩の仕草に、私はなにかを見落としているような胸のざわめきを感じた。
田辺先輩の言う通り、リレーのメンバー内で話し合いの末に津山先輩がアンカーを務めることになったわけだから、その時点で、西城学園に勝つことと津山先輩のラストランの花道を飾ることは決着ついていたはずだろう。
なのに、島田先輩は西城学園に勝つためという理由でアンカーを交代した。はたして、本当にそれだが理由なんだろうか。
「私、ますますよくわからなくなりました」
「なにが?」
「島田先輩が交代した本当の理由についてです。島田先輩と話しをしてみて感じたんですけど、島田先輩と津山先輩の関係は悪くありません。むしろ、津山先輩のことを案じてさえいました。なのに、なぜ津山先輩のラストランの花道を奪うような真似をしないといけなくなったのか、私にはさっぱり理解できません」
「それは俺も同じだな。ひょっとしたら、今回の件はそこが一番の問題なのかもしれないな」
田辺先輩はそう締めくくると、再びあくびをしながらソファーへと移っていく。田辺先輩がいなくなったことで開けた窓の視界では、陸上部が一糸乱れぬ動きでバトンパスを繰り広げていた。
夏の大会がいよいよ目前に迫ったタイミングで、陸上部にとって最悪な事態が発生した。それは、活動停止中の新聞部がもたらしたもので、あろうことか、島田先輩のことをパワハラだとして学校側に訴えのが始まりだった。
当然ながら、この訴えは生徒間にもあっという間に広がっていき、今や陸上部内のごたごたは生徒たちのホットな話題にまでなっていた。
活動停止中の新聞部の訴えとはいえ、さすがに動かざるをえなくなったのか、放課後には生徒会長が直々に田辺先輩のもとを訪れていた。なにを話しているかはよくわからないけど、睡眠を妨害されたこともあってか、田辺先輩の表情は全く冴えていなかった。
長い話し合いが終わり、生徒会長が退室するのを見て、私はすぐに田辺先輩の対面に腰をおろした。
「生徒会長の話はどうでしたか?」
焦る気持ちをおさえきれず、単刀直入に田辺先輩に尋ねると、田辺先輩は右手をふって小さくため息をついた。
「早急に結果を報告するようにとの一点張りだった。あいつにしたら、陸上部の事情よりも火消しが優先ってことらしい」
忌々しくドアの外を見つめながら、田辺先輩が珍しく悪態をつく。生徒会長にしたら、任期中に余計なトラブルはごめんということらしい。このまま長引いて生徒会の名前に傷がつくことを恐れ、田辺先輩に圧力をかけたみたいだった。
「それにしてもですよ、いくらなんでも新聞部の行為は許せないと思います。活動停止中なのに、わざわざ学校側に訴えるなんて」
「なんでバレたんだ?」
憤りを口にしていたところで、田辺先輩が急に割り込んできた。
「え? それは――」
「今回の件は、赤坂が部員に相談せず一人でうちに訴えた案件だ。それに、部員たちの間で話はまとまっていたはず。だから、活動停止中の新聞部が知るよしはないはずなのに、どうやってかぎついたんだ?」
「それもそうですね。考えられるとしたら――」
結論を言いかけて、私は言葉に詰まった。今の状況だと、新聞部にリークしたのは赤坂先輩以外に考えられないからだ。
「いくら津山のためとはいえ、これはやりすぎだ。下手したら、島田をあらぬ疑いで退部に追い込むことになりかねないからな」
「でも、赤坂先輩にしたら、そうまでしてでも津山先輩にアンカーを務めてもらいたいということになりますね」
赤坂先輩の泣き顔がふと浮かび上がり、私は弱く言葉を吐いた。赤坂先輩の暴走は許されないことかもしれないけど、その動機が明らかに好きな人のためだとわかるからこそ、一方的に非難することもできなかった。
私の言葉に、田辺先輩が頭を抱えながら下を向いた。田辺先輩も、赤坂先輩の気持ちがわかるからこそ、今後のことを悩んでいるように見えた。
「田辺、なんだか陸上部がもめてるみたいだぞ」
急にドアが開き、戻ってきた生徒会長が開口一番にとんでもないことを口にした。反射的に窓際に移動してグランドに目を向けると、陸上部のメンバーが輪になってなにかを話し合っているように見えた。
「とにかく、これ以上事が大きくならないように頼むよ」
隣に立つ田辺先輩が小さく鼻でため息ついたところで、生徒会長が静かに告げる。口調は柔らかかったけど、猶予はないことを暗に告げている気配があった。
「とりあえず行ってみるか」
サラサラの髪をかきながら、田辺先輩が面倒くさげに吐き捨てる。けど、その目にはいつもの眠たげな雰囲気は一切感じられなかった。
○ ○ ○
夏本番を迎えたグランドには、日が落ち始めたとはいえまだまだ息苦しい熱気が漂っていた。けど、その一角にいる陸上部のメンバーからは、まるでお通夜のような悲壮感が漂っていた。
「で、なにがあったんだ?」
田辺先輩の登場に苦笑いを浮かべる島田先輩に、田辺先輩は単刀直入に攻め込んでいった。
「別に、と言いたいところなんだけど、まあ見ての通りだ」
困ったとばかりに手をふる島田先輩の横には、顔を伏せて涙する赤坂先輩の姿があった。どうやら部員の中で赤坂先輩をとがめる声が上がり、それを島田先輩と津山先輩がなだめていたものの、結局埒があかなくなったみたいだった。
「なあ田辺、むしのいい話かもしれないけどさ、今回の件は誰も悪くないんだ。赤坂も考えがあってやったことだし、そもそも俺が優柔不断でリレーの順番を決めきれずに直前になって変更したのが原因なんだよ。だから、もし処分が必要というのであれば、俺が責任もって部を辞めるよ」
島田先輩の迷いのない言葉に、部員たちにざわめきが広がっていく。特に赤坂先輩をかばうように立っていた津山先輩の表情は、はっきりと青ざめていた。
「そうか。だったら、アンカーは津山がやるんだよな?」
「え? あ、いや、そこはまだ決まってないけど」
あっさり島田先輩の提案を受け入れた田辺先輩がさり気なくついた言葉に、島田先輩が変な動揺をみせ始めた。
「なに言ってんだよ、お前が抜けたら当初の予定通り津山がアンカーを務めればいいじゃないか。今度の大会が津山のラストランなんだろ? みんなでその花道を作るつもりだったんだろ?」
「まあ、そうなんだけど」
田辺先輩の問いに、島田先輩の返答はあまりにも歯切れが悪かった。
――どういうこと? 島田先輩は西城学園に勝つためにアンカーを務めるんだったよね?
島田先輩の様子から、一気に違和感が膨らんでいく。仮に島田先輩が抜けるとしたら、アンカーを津山先輩が務めることに問題はないはず。むしろ、当初の予定通りラストランの花道として走ってもらうのが一番しっくりくるはずなのに、なぜか島田先輩はそれを否定し続けていた。
当然、その矛盾を田辺先輩が見逃すはずはなかった。いつの間にか胸がじんとくるような鋭い目つきになった田辺先輩が、小さく「そういうことか」と呟いた。
「島田、確かに今回の件で悪い奴はいないように見える。けどな、たった一人、そうはいかない奴がいる。そうだよな? 津山」
田辺先輩の冷たい言葉が響き、その視線がいきなり津山先輩へ向けられた。突然名指しされた津山先輩は、動揺したみたいに固まってしまった。
「今回の件、全てはお前の気の弱さが原因だってことはわかってるよな?」
「それは――」
「そのおかげで、島田は悪者になりかけたんだ。ただ、他のメンバーがお前と島田の気持ちに気づいたから、事は大きくならなかった。けど、赤坂だけは島田の気持ちに気づかなかったから、うちや新聞部に頼るはめになってしまったんだ。なあ島田、結局はそういうことなんだろ?」
不意にふられた島田先輩は、一瞬驚いた表情を浮かべたものの、なにかをさとったみたいに苦笑いを浮かべて頭をかきはじめた。
「津山、みんなお前のラストランのために色々とやってるんだ。なのに、主役のお前がそんな気弱でどうするんだよ!」
突然、語気を強めて津山先輩に詰め寄る田辺先輩に、陸上部のみんなは呆気にとられて固まってしまった。私も、なにが起きているのかいまいちピンとこないこともあって、ただ田辺先輩の言動を見届ける以外になかった。
「田辺君、ごめん」
「馬鹿、俺に謝る必要なんかない。いいか、今お前に必要なのは、自分で決めたラストランをどう走るか覚悟することじゃないのか?」
問い詰める口調から一転して優しく語りかける田辺先輩の言葉に、動揺していた津山先輩の表情が一気に引き締められていった。
「わかってる。今度の大会は僕のラストランだから、覚悟を決めて走るよ」
大きく頷きながら、はっきりとした口調で返した津山先輩。結局、問題がどう解決されたのかわからなかったけど、津山先輩の言葉に田辺先輩は満足そうに頷き返していた。
結局、田辺先輩は陸上部についてなにも処分することないまま大会当日を迎えた。その間、生徒会長はもちろん、生徒たちから非難や処分を求める声が続いたけど、田辺先輩は涼しい顔で惰眠を貪る始末だった。
大会当日、田辺先輩に誘われて陸上競技場にやってきた。なんでも、今になって急に赤坂先輩に処分を下すことにしたという。私には田辺先輩がなにを考えているのかさっぱりわからなかったから、もはや一種のデートだと思いこんで田辺先輩と二人の時間を楽しむことにした。
競技場のスタンドは応援にかけつけた人たちで溢れていて、朝から晴天の中で暑さに負けない歓声を響かせていた。
「花菜、悪いけど赤坂を探すぞ」
スタンド内を見渡していた田辺先輩が、時計を気にしながら指示してくる。とはいえ、赤坂先輩はあの騒ぎの後から陸上部に顔を出していないみたいで、今日も来ているかわからなかった。
「必ず来ているさ。でも、おそらくスタンドには来ないだろうから、ここに引っ張ってくるのが最後の仕事だ」
私の懸念を見透かすように、田辺先輩がまくし立ててきた。普段、慌てることとは無縁なだけに、ちょっとだけ焦ってる田辺先輩からは並ならぬ気迫みたいなものが伝わってきた。
場内アナウンスが進行を告げる中、競技場内を手分けして探し続けた結果、リレーが始まる十分前にスタンドの外に隠れるようにいた赤坂先輩を見つけることができた。
「赤坂先輩!」
一人顔を伏せた赤坂先輩に声をかけると、赤坂先輩は驚くと同時に深々と頭を下げてきた。
「田辺先輩が探してましたよ」
「田辺君が?」
「はい、なんでも処分としてスタンドに連れていきたいそうです」
私自身、田辺先輩がなにを考えているかわからなかったから、うまく説明ができなかった。それでも、赤坂先輩はなにかを感じとったらしく、小さく首を横にふり続けた。
「倉本さんには悪いけど、私にはみんなの前に顔を出す資格はないんです」
やはりというか、予想通りの答えが返ってきた。赤坂先輩のやったことを考えたら仕方ないし、実際にスタンドに足を運んでいない以上、赤坂先輩の決意は固そうに見えた。
「赤坂!」
どうしようかと迷っていたところに、田辺先輩の怒声が聞こえてきた。見ると、額に汗して息を切らした田辺先輩が鬼の形相で近づいてきていた。
――ちょっと、なんか怖いんですけど
見たことのない田辺先輩の表情に気後れしながらも、そこまで必死になっていることが逆に気になってきた。
「赤坂、行くぞ」
「ちょっと待って、田辺君、私にはみんなの前に出る資格はないよ」
「そんなことはどうでもいいんだ。とにかく、赤坂にはスタンドに来てもらわないと困る」
赤坂先輩の抵抗をはねのけるように、田辺先輩は赤坂先輩の手を掴んだ。
「今日は津山のラストランだ。お前がいなくてどうするんだよ」
田辺先輩の強行に抵抗しようとした赤坂先輩だったけど、田辺先輩の一言によってねじ伏せられていった。
――なんか、納得いかないんですけど
私の存在などないかのように、赤坂先輩の手を引いてスタンドに急ぐ田辺先輩に無性に腹が立ってきた。とはいえ、事情があることもわからなくはいから、少し離れた位置から鼻息を荒くして田辺先輩たちを追いかけていった。
スタンドに戻った時には、既にリレーのメンバーが配置についていた。泣いても笑ってもこれが津山先輩のラストランであり、西城学園との最後の勝負になるかと思うと、関係ない私でさえ急に緊張してきた。
――みなさん、とにかく頑張ってください!
心の中で力の限りに声援を送りながら、視線を津山先輩に向けてみる。津山先輩はこっちに視線を向けてきた後、なにか覚悟するように空を見上げていた。
「赤坂、始まるぞ。津山のラストラン、しっかり見届けてやれよ」
いまだ俯きっぱなしの赤坂先輩に、田辺先輩が声をかける。恐る恐るといった感じで赤坂先輩が顔を上げたところで、場内に号砲が響き渡った。
「よし、いいぞ」
スタートは大方の予想通り、星陵高校と西城学園が抜き出る形となった。両者の力関係は変わらないみたいだったけど、最後に星陵高校が先頭に立ったことでスタンドの応援は一気にヒートアップしていった。
――津山先輩、頑張ってください!
若干のリードを保ったまま、いよいよバトンが津山先輩に渡されていく。ついに始まった津山先輩のラストランは最高の形だったけど、相手は西城学園のエースなだけに、どうなるか私の不安も一気にピークへ達していった。
一糸乱れぬ流れでバトンを受けた津山先輩が、スタンドの前で一気に加速していく。その背後からは西城学園のエースが迫り、これまで通りならあっさり抜かされる展開が見えた時だった。
――え? 負けて、ない?
じりじりと差は詰まるものの、最後の一伸びを阻止するかのように、津山先輩が必死の走りで抵抗していた。その姿からは、聞いていた津山先輩の弱さは微塵も感じられず、むしろ西城学園のエースと互角に渡り合う強さが感じられた。
「津山君……」
いつの間にか両手を握りしめていた赤坂先輩が、弱く津山先輩の名前を口にする。その表情には、さっきまでの暗さはなく、必死に津山先輩を応援する輝きがあった。
「いけるぞ!」
「え?」
「このまま津山が踏ん張れば、西城学園に勝てる」
スタンドの熱気に影響されたのか、田辺先輩の声も弾んでいた。最初、田辺先輩の言ってる意味がわからなかったけど、その意味がわかった瞬間、私は津山先輩に声の限りに声援を送っていた。
結局、津山先輩は西城学園のエースを前に出すことなく第三走者へバトンを渡していった。その健闘にいつしか拍手が湧き、星陵高校を応援する声もさらに熱を帯びていった。
――このまま、このまま、お願い!
第三走者の戦いも接戦が続いていた。なんとか追い抜こうとする西城学園に対し、最後まで抵抗し続けた結果、ほぼ同時にバトンはアンカーへと託されていった。
「島田、いけ! 絶対王者の力を見せつけてやれ!」
完璧なタイミングでバトンを受けた島田先輩が、一気に加速してゴールを目指していく。その背中に、田辺先輩が声援を送っていた。
――お願い、お願い!
いつの間にか私も祈るように両手を握りしめていた。おそらく、みんな同じように祈るような思いで最終決戦の行方を見ていたと思う。
雲が高く広がった晴天の下、スタンドを揺るがすような声援を受けた島田先輩。その絶対王者の肩書通り、追い上げる西城学園をふりきって、今、打倒西城学園の想いをのせたバトンと共に一着でゴールをかけぬけていった。
夏休みを本格的に迎え、三年生に日毎受験の色が濃くなっていく中、相変わらず田辺先輩は定位置のソファーに寝転んでいた。
「田辺先輩、結局生徒会長は納得したんですか?」
ここ数日、田辺先輩と生徒会長のやりとりが気になっていた私は、惰眠に入る田辺先輩を阻止して聞いてみた。
「まあな。別に島田にパワハラ疑惑はなかったし、揉め事といっても大したことでもなかったから、適当にあしらって終わりにしたさ」
惰眠を阻止されたことに不満気だったけど、田辺先輩は起き上がって問題の行方を教えてくれた。
「それにしても、陸上部が優勝できてよかったですよね。あんなに感動したのは久しぶりでした」
とりあえず生徒会長との件は問題なさそうとわかり、私はもう一つ気になっていることを聞いてみたくて話題を陸上部に切り替えた。
「どうしても気になってたんですけど、島田先輩が直前になって津山先輩とアンカーを交代した理由はなんだったんですか?」
今回の件は、島田先輩が津山先輩とアンカーを交替するということから始まっていた。それは、西城学園に勝つためという名目だったけど、結局のところはそうではなかったみたいで、私はいまいち理解できていなかった。
「それは、島田が津山のラストランの花道はアンカーじゃないと気づいたからだ」
「どういうことですか?」
「そのままの意味だ。津山は、自分のラストランを最初から二番走者に決めていたんだ。けど、それをチームのメンバーが気をきかせてアンカーにしたわけだから、津山にしたら本音を言うに言えなかったんだろう。でも、津山の本心に島田が気づいたことで、あえて西城学園に勝つためという理由を建前にして交代したってわけさ」
田辺先輩によれば、津山先輩にはどうしても二番走者でなければいけない事情があった。でも、チームのみんなが自分のためにアンカー役を用意してくれたおかげで、本心を伝えることができなくなったらしい。
その津山先輩の苦悩に島田先輩が気づいたけど、津山先輩が二番走者でありたい理由がなかなか公にできないことから、島田先輩は横暴と言われながらも西城学園に勝つためというもっともらしい理由を利用することになった。
もちろん、チームのメンバーの反発はあったけど、すぐに島田先輩の考えに気づいたことで、チームのメンバーも理由を問うことなく島田先輩の話を受け入れることになったらしい。
「そういうことだったんですね。でも、どうして津山先輩は二番走者にこだわったんですか? これまで一度も結果は出せてなかったですし、みんなが用意してくれたアンカー役を捨ててまで二番走者にこだわる理由ってなんだったんですか?」
「それは、津山にとって本当のラストランの花道は、二番走者でないと走れなかったからだ」
半身を起こし、大きく伸びをした田辺先輩が目を細めていく。その眼差しには、面倒くさいオーラがある反面、どこか津山先輩を思っているようにも見えた。
「津山は小学生の時から陸上を続けてきた。そして、津山が走るそばにはいつも赤坂が見守っていた。だから、津山は考えたんだよ。自分のラストランは、一番近くで赤坂に見てもらいたいとな。だから、スタンドの前を走ることになる二番走者に津山はこだわったんだ。つまり、津山にとっての花道は、昔も今も変わらず赤坂の前だったってことなんだよ」
「そういうことだったんですね」
田辺先輩の説明で、ようやく謎が解けた気がした。津山先輩にとってなによりも重要なことは、赤坂先輩の前で走ることだった。そのため、たとえ結果を出し切れていなかったとしても、スタンドの前を走る二番走者を津山先輩はラストランの花道に選んだということだった。
「でも、よく気づきましたよね? 私にはちんぷんかんぷんでした」
「リレーは個々の能力よりも、チームの絆の力が試されるんだ。花菜も見ただろ? あの一糸乱れぬバトンパスは、仲違いしていたらできるものじゃないはずだ。たから思ったんだ。今回の件は、チームの中で決着ついているってな。となれば、後は簡単な話だ。それに、島田が辞めると言い出した時に津山をアンカーにしないって言ったことで確信したんだ」
津山先輩の説明を聞きながら、陸上部がもめている時のことを思い出す。あの時、田辺先輩は津山先輩に強く詰め寄っていた。それは、全てをさとった上で、気の弱い津山先輩を奮い立たせるための田辺先輩なりのエールだったのかもしれない。
――だから、あんなに必死になってたんだ
思い返せば、競技場での田辺先輩の焦りは異常事態だった。あの時田辺先輩が無理矢理赤坂先輩をスタンドに連れて行ったのは、津山先輩のラストランの花道に飾るためだったということだった。
――それに
素知らぬ顔で生徒会長や周りの声を無視し続けてなにも処分しなかったのも、赤坂先輩が少なくとも競技場には来れるようにするための配慮だったというわけだった。
結局、またしても田辺先輩のすごさをみんなに知らせることはできなかった。でも、こうして何食わぬ顔をしているけど、誰かを真剣に思える田辺先輩が私はやっぱり好きなんだと思った。
「それにしても、ラッキーだったよ。どさくさにまぎれて赤坂の手を握ったけど、柔らかくて温かったな」
「はい?」
改めて田辺先輩を見直していた矢先、突然、田辺先輩がとんでもないことを口にし始めた。
「赤坂はなかなかの人気女子だからな。津山には悪いけど、いい思いをさせてもらった」
満足気に右手を見つめながら、だらしなく顔を弛める田辺先輩に、私の尊敬の念は一瞬で怒りへと変わっていった。
「それはよかったですね」
怒りを顔に出さないように気をつけながら田辺先輩に近寄ると、完璧な作り笑顔を浮かべて田辺先輩の腕をつねり上げた。
「痛っ、て、なにするんだよ」
「職権濫用は罪が重いですよ? 監査委員会規則にもしっかりありますから」
つねられた腕をさすりながら睨んでくる田辺先輩に、一切の感情を殺して冷たく言い放つと、私はくるりと背を向けて窓際に向かった。
――ほんと、人の気も知らないで
私の言葉になおも抗議してくる田辺先輩を無視して、日が落ち始めたグラウンドに目を向ける。グラウンドでは、就職組のため受験から逃れた津山先輩が後輩の指導にあたっていた。
――なんか、うらやましいな
ラストランだからこそ、その最後の花道を赤坂先輩の前でと決めた津山先輩。想いは違っても、最後まで津山先輩の花道を案じていた赤坂先輩。きっと二人の間には、私なんかではわからない時間の積み重ねによる絆もあったんだろうと思うと、そんな関係に憧れを抱かずにはいられなかった。
――よし、私も負けてられないな
いつの間にかふて寝を決め込んだ田辺先輩を見て、私なりにまだまだ頑張ろうと改めて誓った。
蝉の音が響く中、再びグラウンドでは陸上部の部員たちが走り始めていく。その部員たちに声をかける記録なき二番走者の背中に、私はそっとねぎらいの言葉を送った。
津山先輩、十年間お疲れさまでした――。
―ラストラン〜記録なき二番走者の花道 了―
秋の色が徐々に深まっていく中、いつものように監査委員会活動室で惰眠を貪っている時だった。
息を切らしながら活動室に飛び込んできた倉本花菜が、「田辺先輩起きてください!」と急かすように声をかけてきた。しかも、ポニーテールの髪を揺らしながら近づいてきた小柄な顔には、意味深を匂わせる雰囲気があった。
「なんだよ? いきなり」
あからさまに苛立ちを声に含ませながら、しぶしぶ穴だらけのソファーから身を起こした。
「田辺先輩、生徒会長選挙の件ですが、この噂を知ってますか?」
花菜がまくし立てながら、スマホを差し出して画面を見せてくる。すぐに嫌な予感はしつつも、仕方なく画面に目を向けると、そこには学園の玄関にある掲示板が映し出されていた。
「どころで、噂ってなんだ?」
「はいはい、そうくると思ってましたよ。とりあえず、この掲示板に貼られた紙を読んでください」
呆れ顔になった花菜が画面を拡大させると、カラフルな案内用紙に挟まれたモノクロの紙がすぐに目についた。
『生徒会長立候補者の鈴原夏美は、常習万引き犯です。デパートSで夜の八時頃見かけます』
白紙に綴られていた文字はそれだけだった。せのせいか、味気ない以上に嫌な感情を誘ってきた。
反射的に、鼓動が波紋を広げるように高鳴り始めた。と同時に、胸の奥に沈めていた面影が顔を出そうとするのを、慌て無理矢理押さえ込んだ。
「この貼り紙がされたのはいつだ?」
花菜に動揺をさとられないように気を取り直し、とりあえず花菜に状況を確認してみる。花菜によれば、今月始まった生徒会長選挙の公示がされた日に、誰かが貼ったという。貼り紙はすぐに撤去されたらしいが、内容が噂となって一人歩きしていたらしい。
そこに、再び今朝、誰かによって同じ内容の貼り紙がされた。すぐに撤去はされたが、噂が再燃するには十分な人数の生徒が目撃したらしい。なにかあるかもしれないと思い、花菜は撤去される前にスマホに収めたという。
星陵高校では、生徒会長だけが十月に交代することが決まっており、今はその選挙期間真っ最中だった。しかも、既に終盤に差しかかっているから、この噂が事実だとしたら鈴原夏美が当選することはなくなるだろう。
「ところで、鈴原夏美って誰?」
「え、田辺先輩知らないんですか?」
花菜が驚いた顔と呆れた顔を器用に切り替えながら、小さくため息をつく。その眼差しは、呆れを通り越して哀れんでいるようにも見えた。
「今回の生徒会長立候補者の中で、当選確実の人ですよ」
「ふーん、で、どんな奴なんだ?」
「そうですね、みんなからは女王と呼ばれてます」
花菜が顎に手をあてて、黒曜石のような大きい瞳を忙しなく動かし始めた。
――女王?
花菜の言葉を聞きながら、もう一度スマホの画面に写る貼り紙を読み返した。
「私と同じ二組なんですけど、美人で頭も良くて、運動もできて、性格もいいし、優しいし、みんなから愛されてる存在ってところですね」
説明しながら、花菜が少しだけ顔をにやつかせた。同級生というよりは、憧れの人だといいたげな雰囲気だった。
――そんな奴が万引きとはね
評判とのギャップに、俺は小さく溜め息をついた。よりにもよって、万引きというものに再び出会うことになるとは思ってもいなかった。
「田辺先輩、どうしましょうか? 噂だとしても、監査に入ってみます?」
花菜の表情は、友達を想う気持ちとゴシップネタに対する興味で揺れ動いているように見えた。花菜は、もともとゴシップ好きで監査委員会に入ってきた経緯もある。花菜の心の中にある天秤は、大きく揺れていることだろう。
「この文面、ちょっと気になるな」
「え、どこですか?」
「ただの万引きじゃなく、常習って書いてあるよな? もし本当だとしたら、鈴原は以前から万引きを繰り返していて、それを知ってた奴がいることになる。そして、生徒会長選挙に合わせて暴露してきた。この構図をどう考える?」
俺の問いかけに、花菜は腕を組んで唸り始めた。
「あ、脅迫しようとしたとかですか?」
「だったら本人に直接かけ合うだろ?」
「ですよね~」
花菜はドヤ顔をひきつらせて、降参とばかりに両手を小さく上げた。
「直接かけ合って相手にされなかったから公表したとも考えられる。けど、そうだとすれば、掲示板に貼らずに別の方法を取ったほうが早い気がする。例えば、風紀委員会とかに直接訴えれば、きちんと対処してくれるはずだ」
俺は言葉を切って、再度文面を読み返した。
「そうしなかったことに、なにか別に理由があるはずだ。個人的な恨みか、あるいは鈴原が生徒会長に立候補すると困る奴がいるとか」
「困る人ですか? それなら他の候補者が怪しくなりますね」
花菜によれば候補者は他に三人いて、鈴原には劣るがそこそこの人気があるらしい。今では鈴原が当選確実とされているが、鈴原がいなければ誰が当選してもおかしくないという。
「とりあえず、監査に入ってみるか」
「え? 本気ですか?」
小さく唸っていた花菜が顔を上げ、口を半分開けて目を見開いていた。
「なにか問題でもあるのか?」
「あ、いえ、違うんです。田辺先輩が本当に監査に入るだなんて思いませんでしたから。あ、傘持ってくればよかったです」
失礼なことを口にしながら、花菜が茜色に染まる晴れ渡った空をあからさまに見上げた。
「どういう意味だ?」
「だって、監査委員会は田辺先輩のおかげでいまだに幽霊委員会って言われてるじゃないですか」
花菜の痛いところをついてくる言葉に、俺はボニーテールを引っ張って不満をぶつけてやった。
とはいえ、花菜のいうことに間違いはなかった。自主自立を校風にした星陵高校には、生徒のことは生徒で解決するという掟がある。
その校風を実現する為に、生徒会を筆頭に規律を取り締まる風紀委員会と、規則を取り締まる監査委員会がある。いずれも生徒会の両翼をなす重要な組織だが、俺が二年の時に監査委員会の委員長になってからは事情が変わっていた。
昨年上げた実績が新聞部を活動停止にしただけという体たらくで、今では全く動かないことから幽霊委員会と陰口叩かれるまでになっていた。
「まだ中間監査に入ってなかったよな? 明日、俺が鈴原陣営に入るから、花菜は他の所に入ってくれ」
俺の指示に、吉田が小さな胸を張って敬礼する。幽霊委員会の久しぶりの仕事が始まったとして、嬉しく思っているようだ。
「女王のアキレスだな」
「はい?」
「この貼り紙が真実だとしたら、鈴原は女王の地位を完全に失うことになる。だからこの貼り紙は、ある意味、女王のアキレスだ」
俺の説明に、花菜はわかったようなわからないような顔で、小さく「はぁ」と漏らして苦笑いを浮かべた。
――誰かが鈴原を陥れようとしているのか、あるいは、別の理由があるのか
胸の奥底で顔を出そうとしている面影を押さえながら、俺は一つ長いため息をついた。
翌日、ホームルームが終わって暫くした後、鈴原陣営がある教室へ向かった。鈴原陣営は、他の陣営と違って現役の生徒会長である原口が後援に入っている。その時点で、鈴原に対する扱いは他の陣営とは大きく違っていた。
教室に入ると、直ぐに原口が声をかけてきた。ぼさぼさの髪をかきつつひきつった笑顔を浮かべていたから、俺の来訪を毛嫌いしてるのはわかった。
「田辺、こっちへ監査に入る前に、他の所をやってくれよ。知ってるだろ? あいつらが時間外にも活動していたこと」
原口がため息混じりに詰め寄ってくる。確かに、他の陣営が規則違反である時間外活動をしていたことは知っていた。けど、その程度の違反ならわざわざ取り上げる程のことではないと無視していた。
「その件なら、後で注意しておくよ」
そう答えると、原口は不満を示すかのように俺を睨んできた。
「さすがは幽霊委員会だ。明確な規則違反に対して、口頭注意だけでなにもしないんだからな」
原口の非難を含んだ声に、周りから失笑がもれてきた。
「まあな。確かにお前が言う通り、俺はなにもしないさ。けど、考えてみろよ。他の陣営を叩けば、当然鈴原陣営のことも訴えてくるはずだ。他の陣営の違反は軽微なことだから大した処分にならない。けど、他の陣営が鈴原を訴えてきたときは、投票日まで派手に叩き続けてもいいんだぜ」
俺は極力声を抑えて、淡々と告げた。
「いいか、俺はあえて黙っているんだ。鈴原陣営も恩恵を受けたいなら、黙ってたほうがいい。それとも、醜い足の引っ張りあいをしたいのなら、俺が協力してやるよ。その代わり、どっちの陣営を派手に叩くことになっても文句は言うなよ」
原口を睨み付けて駄目押しを告げると、原口は一歩仰け反った後に視線を忙しなくさ迷わせた。おそらく、どうしたら一番利益になるかを計算しているのだろう。
「さすが、監査委員長さんですね」
原口が沈黙を決め込んだところで、背後から柔らかく伸びのある声が聞こえてきた。ふりかえると、女子にしては長身で、ゆったりとした雰囲気を纏った女子生徒が口に手をあてて笑っていた。
目が合った瞬間、俺はその瞳に釘付けになった。漆黒の長い髪は肩越しまで伸びていて、前髪は眉の上で綺麗に切り揃えられていた。非の打ち所がないような美の黄金比で彩られた顔立ちに、日向のような暖かい雰囲気があり、女性らしい流線型の体は、見るものを惹き付けてやまない魅力に溢れていた。
――似ている。いや、瓜二つだ
女子生徒の瞳を見た瞬間、反射的に胸の奥に封印していた面影が飛び出し、女子生徒の瞳と寸分狂わず重なっていった。
女子生徒の顔立ちや体躯は、飛びだした面影とは全く似ていない。けど、その瞳だけは、面影の主である浦田里沙の瞳と瓜二つに見えた。
声が出なかった。なにか言わなければと考えてみるけど、突然の瞳の再会に、俺の思考は停止寸前まで追い込まれていた。
「あれ? 田辺先輩どうしたんですか?」
霞みかけていた景色が色を取り戻すように、呑気な声が俺の意識を現実に引き戻してくれた。
「夏美ちゃん、調子どう?」
返事ができない俺を横目に、花菜が鈴原の胸に飛び込んでいった。花菜を受け止めた鈴原は、日だまりのような笑顔で花菜の頭をなで始めた。
「調子はまあまあだね。それより、さっきね、監査委員長さんの素晴らしい仕事が見れたんだよ」
鈴原の言葉に、顔を上げた花菜が細めた目を俺に向けてくる。鈴原の言った、素晴らしい仕事が花菜には胡散臭く聞こえたのだろう。
「ところで監査委員長さん、今頃になってどうして監査に入るようになったんですか?」
薄桜色の唇に笑みを作りながら、鈴原が核心を突いてくる。俺の目的に気づいたようにも、目的を探っているようにも見え、うまく返事ができなかった。
「内緒なんですか? それとも、キスしたら教えてくれますか?」
少しだけ首を傾げた鈴原に、俺は小さくため息をつきながら、花菜の頭を掴んで引き寄せた。さりげなく人を困らせるところも、里沙とそっくりだった。
「もう少し早くその言葉を聞いていたら、喜んで受けていたよ。けど、花菜に悪いから遠慮しておく」
花菜の頭を撫でながら、俺はひきつる頬を無理矢理笑みに変えた。
「それは惜しいことをしました」
鈴原が口に手をあてながら微笑んだと同時に、引き寄せた花菜が耳を真っ赤にしながらも抗議するように見上げてくる。今度は力強く頭を撫でて、花菜の反論を押さえこんだ。
花菜との関係を仄めかせ、鈴原との間に壁を作ったのは咄嗟の反応だった。無防備で鈴原の前に立つのが、やけに怖いと思えて仕方なかった。
一通りの監査を終えて、問題がないことを伝えた。もちろん、問題があったとしても最初から指摘するつもりはなかった。
ただ、鈴原夏美がどういう人物か把握できさえすればよかった。そして、把握できたことを激しく後悔した。
「ちょっと田辺先輩、さっきのはなんですか?」
教室を出たところで、花菜が戸惑いに満ちた目で食いついてきた。
「鈴原につけこまれそうな気がして、咄嗟に壁を作っただけだ。でも、花菜が相手なら俺は問題ないけどな」
フォローのつもりでついた言葉だったけど、花菜は真に受けたかのように耳を赤くして顔を伏せた。
「後は実際に現場を確認してみる。デパートSに行けば、貼り紙が事実かどうかわかるだろう」
「え? あ、わかりました。それで、もし貼り紙の通りだったらどうするんですか?」
花菜の問いに、瞼の裏に痛みが走る。長く閉じ込めていた里沙の面影が、鮮明な姿に変わろうとしていた。
――貼り紙が本当だったら
俺は小さく唇を噛み、考えるだけで亀裂を生むような頭痛に耐えた。
――その時は
すっかり色づいた里沙から目を背けるように、俺は汗ばんだ拳を強く握り直した。
その日の夜、俺は貼り紙にあったデパートSに向かい、午後八時前に店内へ入った。張り紙によれば、ここに鈴原が現れるらしいけど、人もまばらな店内にはまだ鈴原の姿は見当たらなかった。
とりあえず店内を一周し、フードコートに移動しようとしたまさにその時だった。
食料品売り場の出入口から入店してきた女性の姿を見て、俺は買ってきたジュースをその場に落としそうになった。
目についたのは、金髪の長いツインテールと頬にペイントされた日の丸の国旗で、よく見ると顔全体に派手な化粧が施してあった。将校をイメージしたような紺色の制服は、軍隊の威厳というよりは、アニメに出てくるミリタリーファッションの明るさを全面に出している感じだった。
その格好に目を奪われた瞬間、俺は固まってその場から動けなくなってしまった。
――鈴原?
一瞬重なった瞳は、昼間見た鈴原の瞳と瓜二つだった。慌て柱の陰に隠れて確かめてみたけど、やはり鈴原で間違いなかった。
――女子は化粧をすると変わるっていうが、これは変身と言ったほうがいいな
買い物籠を手にし、白のマイバックを肩にかけて歩く後ろ姿には、女王のイメージは欠片も残っていなかった。
「監査委員長がこんなとこでなにやってるんだ?」
不意に野太い声と同時に、肩に手を置かれた。ふり向くと、いかついニキビ面の高橋が薄気味悪い笑みを浮かべていた。
今の俺は高橋と同じ黒の上下ジャージ姿だが、高橋と違って一応は変装のつもりでサングラスをかけている。しかし、高橋は一発で俺だと見抜いて声をかけてきたようだ。
無意味だったと思いながらサングラスを外し、高橋と向かい合う。鼓動の乱れをさとられぬように、静かに長い息を繰り返した。
高橋は新聞部の部長であり、生徒のスキャンダルネタを面白おかしく書き立てることから、学校内では有名な嫌われ者でもある。
その高橋率いる新聞部を活動停止にしたのが俺だから、当然、高橋からは恨みを買われていた。顔を合わせる度に嫌味や恨み言を口にし、活動再開の許可前提である、監査委員会から生徒会への上申書を強く求めてくる厄介者でもあった。
「姉がここで働いているから、余り物をもらいに来ただけだ」
意識を集中させながら、当たり障りのない言葉を選んでいく。姉が働いているのは事実だけど、余り物などもらえるはずはなかった。嘘は多少の真実を混ぜて突き通すというのは、皮肉にも高橋のポリシーだった。
「それより、あの子を見てみろよ」
話題を変える為、俺は食料品売り場を歩く鈴原を顎で指した。
「あ? あんなコスプレなんか珍しくないだろ。ここは田舎でも、隣街まで行けばコスプレしてる奴なんて普通にいるだろうが」
高橋は鈴原を見ながら、吐き捨てるように呟いた。ギラついた瞳から、興味の色が消えていく。やはり高橋は、あれが鈴原だということに気づいていないようだ。
高橋が気づかないのも仕方ないだろう。俺も鈴原の瞳が里沙の瞳と同じだったから見抜けただけで、同じ瞳でなかったら気づかないまま家に帰っていたはずだ。
「高橋はなにをしているんだ?」
興味を失った高橋が上申書の話を持ち出そうとしてきたため、俺は慌て話題を変えた。
「誰かさんのおかげですることがなくなったから、時々、婆さんの手伝いをしてるんだ」
高橋が目を向けた先に、買い物を終えて袋詰めをしている老婆の姿があった。
「じゃ、もう行くけど、なにか面白いことがあったら教えてくれよ」
袋詰めを終えて店の外へと向かう老婆を一瞥して、高橋が皮肉めいた笑みを浮かべて去っていった。面白いことがあってもお前だけには言わないと心の中で毒づきながら、高橋の背中を見送った。
――さてと
一度は外したサングラスをかけ直し、俺は買い物籠を手にして食料品売り場へ入った。
鈴原は、奥の通路に立ち止まって談笑していた。ちょうど売り場の棚が死角になっているせいで相手は見えないけど、話している雰囲気から親しい相手だろうと予測できた。
その様子から、昔、このデパートで話題になっていた二人組のコスプレイヤーを思い出した。神出鬼没で、かつ、正体不明を売りにしていた二人組について、当時はその正体を巡って色んな噂が広まっていた。俺は興味がなかったから関わらなかったけど、ちょっとしたファンもいたという話は、そんな俺でも聞いたことがあった。
ただ、数年前に巨大なショッピングセンターが進出してきたおかげで、大半の中高生がショッピングセンターへ流れていってしまい、その話題はいつの間にか消えていた。
当時はわからなかったけど、二人組のうち一人はひょっとしたら鈴原かもしれないと思えた。だとしたら、談笑している相手はもう一人のコスプレイヤーということになるだろう。
そんな思案を巡らせているうちに、鈴原が再び歩き始めた。その背中を追って広い通路に出ると、俺の予想が外れるように、鈴原は一人で歩いていた。
その瞬間、奇妙な違和感に包まれた。鈴原を追いかけて行く間に、すれ違った人はいなかった。更に、鈴原が話をしていた場所の付近に視線を巡らせてみたけど、話相手となるような人影もなかった。
――誰と話していたんだ?
客は疎らにいるものの、該当するような人物はいなかった。けど、薄気味悪い空気が背中に流れ落ちたとき、話相手だったと思われる人物から、突然、『そこの君』と軽快な声をかけられた。
驚いてふりかえったけど、やはり人影はなかった。なにが起きているのか一瞬わからなくなったけど、再び話し声が聞こえたところで正体が判明した。
声の正体は、販促用のモニターに映る若手芸人だった。飲料コーナーの一角にある商品を宣伝する為に設置されたモニターの中で、商品説明を一方的に繰り返すだけの若手芸人こそが、鈴原の話相手だった。
そんな馬鹿な話があるわけがないと、寒気を感じながら頭をふった。しかし、それ以外に可能性は見当たらなかった。
視界の先で、再び鈴原が立ち止まって談笑し始めるのが見えた。疑心で浮わつく足取りのまま、一気に距離を詰めて答えを確認した。
結果、俺の考えは間違っていなかった。畜産コーナーに設置された販促用のモニターの前で、鈴原は本当に会話しているかのように、口に手をあてて笑っていた。
さっきよりも強い寒気が、そっと背中を滑り落ちていった。意を決し、鈴原のそばを歩いてみる。鈴原は俺の存在など目に映らないようで、いきいきとした表情のままモニターの中にいる人物と会話らしきものに興じていた。
――なにか変だな
一方的に商品説明を繰り返すモニターと会話していること自体が変だけど、感じる違和感は鈴原の話している姿にあった。楽しそうに笑ったかと思うと、突然涙ぐんだりと、情緒不安定な姿からして会話が成り立っていないように見えた。
とはいえ、その姿に俺は懐かしさを感じた。胸の奥に閉じ込めている里沙も、俺と話をしていた時は同じ状況になっていたからだ。情緒不安定なまま一方的に話していながら、本人にはその自覚が全くといっていいほどなかった。
そんな里沙と今の鈴原の姿は、形は違うけど同じように見えた。
しばらくして会話らしきものが終わり、それ以外は不審な行動もないまま、鈴原はレジへ向かっていった。
どうやら肝心の万引きについてはガセネタだったと判断しかけた時、急に鈴原が方向を変えて文房具コーナーへ歩いていった。
そこから先は、まるで夢を見ている感じだった。ボールペンを手にした鈴原は、俺がまばたきをする一瞬の間に、そのままボールペンをバックの中に入れていった。
目を凝らしていないと気づかない程の流れる手つきで、鈴原は次々に商品をバックに忍ばせていく。その行動は、欲しい物を盗んでいるのではなく、むしろ、盗むこと自体が目的であり、盗むものはなんでもいいといった感じに見えた。しかも、手慣れた様子からして日常的に行っているのは間違いなさそうだった。
手当たり次第の万引きを終えると、鈴原は籠の中にある商品だけを精算していく。その様子は、なにもかもが里沙と同じだった。
欲しい物が買えずに仕方なく盗むというわけではなく、ただ、盗むという行為に溺れるように万引きを繰り返していた里沙と、今の鈴原は全く同じだった。
目の奥に痛みが走り、軽い目眩に襲われた。ふらつく体に力を入れて、店を後にする鈴原の後ろ姿を追いかけた。
薄く広がった雲の切れ間から月明かりが照らす中、町を横断する川辺の道を濃くなった影を引きずりながら鈴原が歩いていく。やがて大きな橋に差しかかると、鈴原は土手を下りていった。
欄干の陰に隠れ、俺は鈴原の様子を凝視した。土手を下りた鈴原は、マイバックの中から盗品を取り出すと、次々に川の中へ投げ捨てていった。
月が薄く漂う水面に、小さな音と波紋が広がっていく。やがて、全ての盗品を捨て終わった鈴原は、両手で顔を覆い隠しながら崩れるようにその場に座り込んだ。
声をかけることができなかった。いや、声を出すことができなかった。おそらく、里沙と同じように泣いているはずの鈴原を前にして、俺は一歩も動けなかった。
女王のアキレス――。
それは、万引きの陰に潜む、鈴原の闇そのものに思えた。
「夏美ちゃんどうでした?」
翌日の放課後、監査委員会活動室に入った俺に、パソコンの前に座っていた花菜が待っていましたとばかりに尋ねてきた。
「貼り紙の内容通りだった」
花菜の質問に、俺は昨夜のことを話した。ただ、販促用のモニターと会話らしきやりとりをしていたことは伏せることにした。
それでも、花菜は信じられないといった表情で、半分口を開けたまま話を聞いていた。
「それより、他の陣営はどうだった? 貼り紙についてなにか言ってた奴はいたか?」
話題を変えるように問いかけると、花菜は呆けた顔を左右に小さく振って、一度だけ咳払いをした。
「それがですね、貼り紙自体はもちろん、噂すらよく知らないって返事ばかりでした」
「そうか」
花菜の返答に、俺はソファに座りながら小さくため息をついた。
あの貼り紙で得をするのは、今のところ他の陣営だけだ。だから、その線が薄れるとなると話はややこしくなってしまう。ただ、他の陣営が嘘をついているだけの可能性も否定できないから、もう少し様子を見たほうがよさそうな気もした。
「鈴原って、中学生の時もあんな感じだった?」
他の陣営はとりあえず後回しにして、俺は気になっていたことを花菜に聞いてみた。
あの万引きは、昨日今日始めてできるものではない。だから、ひょっとしたら女王と呼ばれるようになった理由と、昨夜の万引きにはなにか繋がりがあるような気がした。
「そうですね、中学生の時はどちらかといえば、大人しくて目立たない感じでした。ですから、今の夏美ちゃんは、変身したといったほうがいいかもしれません」
俺の質問に答えながら、花菜は顎に手を当て、空を見るように視線を空中にさ迷わせていた。
確かに、鈴原のあの姿は変身したといっていいかもしれない。けど、花菜のいう変身とは少し意味が違うようだった。
「中学生の時、千春ちゃんていう子がいたんですけど、千春ちゃんが今の夏美ちゃんみたいな存在でした」
花菜によれば、千春というリーダー的存在がいたらしく、夏美はその後ろをついて回るだけの存在だったらしい。
「二人は仲がよかった?」
「うーん、千春ちゃんは誰とでも仲良くしてましたから、夏美ちゃんと特別仲がよかったかどうかは微妙です。でも、時々二人してどこかに消えてました」
「消えていた?」
「そうです。放課後になると、二人してどこかに行ってました。それがですね、田辺先輩は聞いたことありますか? デパートにコスプレした二人組がいたこと」
問われて俺は、鈴原のコスプレ姿を思い出した。
「その二人組が、夏美ちゃんたちじゃないかって噂になって、みんなで確認に行きました。でも、結局はわからないまま終わってしまいました」
花菜の話を聞きながら、確かにあのコスプレだと気づかなくても仕方がない気がした。
「その千春って子、今も鈴原と仲がいいのか?」
「いえ、実は、千春ちゃん亡くなってるんです。二年生の時に交通事故で。それから、千春ちゃんのいたポジションに、夏美ちゃんが立つようになりました。勉強もスポーツもできなかったのに、いつの間にかできるようになったんです。多分、陰で相当努力したんだと思います」
花菜が語った事実に、俺は黙って頷くしかなかった。女王と呼ばれるようになった背景には、鈴原の想像を越えた努力があったことが嫌でも伝わってきた。
そうなると、鈴原はなぜ女王と呼ばれるほど努力したのかという疑問がでてくる。単に千春の後釜を狙っただけなのか、それとも、他に理由があったのだろうか。
花菜が知っていることは以上で終わりだったため、疑問を解消することはできなかった。
「今の鈴原に、変わった所はないか?」
「変わった所ですか?」
「そう、例えば、変な言動があったりしないか?」
俺の問いに、花菜は首を傾げながら聞き取り辛い声でぶつぶつ呟いた。
「そういえば、時々なに言ってるかわからない時があります。話が合わないといいますか、情緒不安定な感じを受ける時があります」
花菜は、上手く伝えきれないもどかしさを示すかのように、何度も眉間にシワをよせていた。
昨夜のことがあったから、俺には花菜が言おうとしていることは理解できた。そして、理解と同時に胸の中に広がる一抹の不安を感じた。
――胸に抱えているものが、表に出ようとしてるのかもしれないな
そうだとしたら、鈴原は里沙と同じ症状に陥っている可能性がある。昨夜のことも含めて考えると、鈴原が抱えている問題には根深いものがありそうだった。
俺は頭の後ろで手を組み、再びソファに寝転びながら、残像の鈴原に里沙の姿を重ねていった。