翌日の放課後、軽い緊張感を抱いたままグランドを訪れると、陸上選手らしく短髪ですらりとした高身長の島田先輩が出迎えてくれた。

「すみません、練習中なのにお邪魔しまして」

「いや、大丈夫だよ。ちょうど休憩しようとしてたからね」

 額の汗を拭いながら、島田先輩が屈託のない笑みを浮かべる。パワハラの話を聞いてなかったらかなり印象がいい人に見えるだけに、私は雰囲気にのまれないように気持ちを引き締めた。

「では、単刀直入に失礼します。実は、赤坂先輩からパワハラの相談を受けてきました」

 一度咳払いをした後、私は用件を伝えた。

「パワハラ?」

 私の来訪理由が意外だったのか、島田先輩の顔に困惑の色が広がっていく。ただ、その様子が痛いところを突かれたというよりも、予想外な話に固まるという感じがしっくりきた。

 ――なんか、ちょっと変な感じがする

 島田先輩は顔を曇らせたまま、言葉を発することなく考え込むように空を仰いでいる。今日私が来ることはわかっていたはずだから、パワハラの話がでることは予想できたはずなのに、島田先輩は初めて聞くかのような素振りをみせていた。

「そういうことか……」

 やがて、たっぷりの間があった後に、島田先輩はぽつりと呟いた。

「そういうこととはどういう意味ですか?」

「あ、いや、なんでもない。それより、監査委員会はパワハラの調査で来たってことでいいんだよね?」

「はい、一応はそのつもりです」

「だったら、田辺もこの件に関わるのか?」

「田辺先輩も一応は関わるかと思います。それがどうかされましたか?」

 変に田辺先輩を気にする素振りが気になった私は、それとなく島田さんに聞いてみた。けど、島田さんは「なんでもない」と引きつった笑みを浮かべて手を振り続けるだけだった。

「それより、一つ聞いてもいい?」

「なんですか?」

「君は、あの田辺と一年以上も同じ監査委員会の委員を務めてるよね? みんな田辺に嫌気がさして辞めてるのに、君だけ残ってるのは義務感からかな? それとも、田辺に恋してるとか?」

「な、なんですかいきなり」

 なにを聞かれるかとかまえていたところに、まさかの質問だったことから私はうろたえてしまった。となると、当然のごとくしてやったりの顔になった島田先輩は、意味深ににやにやと笑いだした。

「べ、別に私は」

「大丈夫大丈夫、気にしなくていいから。田辺は、あんな性格だけど本当はすごい奴だからね。中学であんなことがなければ、もっと明るい奴だったし、近くにいたら好きになるのもわかるよ」

 一人納得するかのようにうんうんうなずく島田先輩に、いじられる苛立ちよりも胸の奥がツンとした痛みを感じた。今の言葉はさらりと言ったけど、島田先輩は田辺先輩の過去を知っていることになる。

「知りたい?」

「え?」

「田辺の秘密。あいつはなんでいつも眠っているのか、なんで他人を寄せつけずに無気力を装っているのか、その秘密を知りたくない?」

「それは――」

 明らかに挑発するような目で、島田先輩が悪魔の誘惑を仕掛けてくる。気づくとすっかり島田先輩のペースに巻き込まれていた。

「教えてやる条件は一つ」

 なんと答えるか迷っている私に、かまわず島田先輩が人差し指を立てて近づいてきた。

「いよいよの時は、その、津山のことを助けてやってほしい。ほら、津山は今度の大会がラストランだし、あいつに悔いを残してもらいたくないからさ」

 急に顔を赤くした島田先輩が、わざとらしく咳払いしながら頭をかいた。なにを言われたのか一瞬わからなかったけど、「頼んだぞ」と言い残して島田先輩はそそくさと練習に戻っていった。

 ――今のどういう意味?

 走り去る島田先輩の背中を見ながら、島田先輩の言葉をゆっくりと考えてみる。意地悪ないたずら好きといった印象を島田先輩には抱いたけど、最後に見せた表情には島田先輩の津山先輩を思いやる優しさみたいなものがはっきり見てとれた。

 ――パワハラしてるようには思えなかったな

 島田先輩に対する印象が決まりかけたところで、今度は小柄でちょっと幼さの残る顔をした津山先輩が警戒気味に近づいてきた。

「マネージャーから聞いたけど、僕になにか用?」

 恐る恐るといった感じで津山先輩が切り出してくる。その瞳からは、なにかを恐れているような迷いに似た揺れが感じられた。

「あ、私、監査委員会の倉本といいます。今日は赤坂先輩から相談を受けた件で話を聞きにきました」

「赤坂の相談?」

「はい、今度の大会でリレーを走るメンバー間でトラブルがあるみたいで、それを赤坂先輩が心配されてましたので」

 壮大なハテナマークを浮かべる津山先輩を見て、私は事の経緯を簡単に説明した。

「そんな、パワハラなんか島田君がするわけないよ。みんながなにを言ってるのかは知らないけど、これはみんなで決めたことだし」

「でも、みんなで決めたのは津山先輩がアンカーを務めることですよね?」

「そ、それは」

「せっかくみんなで決めたのに、今になって島田先輩がアンカーを主張していますよね? しかもかなり横暴に決めたと聞いてます。それが本当にみんなで決めたと言えるんですか?」

 明らかに焦ってるように見える津山先輩に、私は努めて柔らかく矛盾を指摘していく。今の津山先輩の様子からは、島田先輩を悪く思っていないように見えるけど、ひょっとしたら島田先輩に言いくるめられている可能性もなくはなかった。

「たとえ島田君が横暴に見えたとしても、彼は西城学園に勝つために判断したことだし、それは間違ってないと思う」

「それはなぜですか?」

「大会がある競技場は、スタンドが二番走者のレーンの前にあるから、みんなが注目するというプレッシャーの中で走らないといけないんだ。しかも、西城学園は二番走者にエースをあててくるから、みんなの前で抜かれるという恥ずかしい思いもしないといけない。だから、チームで勝つことを考えたら、嫌な役目は僕が引き受けるのが当然だと思う。これまでも、そうしてきたしね」

 これまでの弱気な雰囲気とは違い、津山先輩はまっすぐに私を見つめて断言してきた。聞けば、これまで津山先輩はずっと二番走者を務めていて、その度に西城学園に抜かされる汚名を背負ってきたらしい。

「君も聞いているかもしれないけど、僕は本番では勝てない奴って言われてる。自分の性格だし、もう諦めてるんだけどね、だから、そんな僕が勝敗を決するアンカーなんて務まるわけがないんだよ」

「でも、他のメンバーは津山先輩のラストランの花道として、アンカーを走ってほしいと思ってるのではないんですか?」

「みんなの気持ちは嬉しいけど、でも、やっぱり西城学園に勝つには島田君がアンカーを務めるのが一番なんだよ。これまで、みんなと一丸になって打倒西城学園を目指して頑張ってきたんた。今さら僕の個人的な理由で勝ちを諦めるのは、やっぱり違うと思うんだ」

 わずかに声をふるわせて語りながら、津山先輩は高く雲が広がった空を見上げた。その表情には、ラストランに向けた自分なりの想いを必死に受け入れようとするあがきみたいなものが見えたような気がした。

「お話、ありがとうございました」

 津山先輩の横顔を見て、これ以上の収穫は見込めないとさとった私は、津山先輩に頭を下げてグラウンドを後にした。

 ラストランを控えた津山先輩をめぐるチームの想い。

 西城学園に勝つことにこだわる島田先輩の想い。

 その相反する二つの想いに触れた今、私は軽い気持ちで引き受けたことを少しずつ後悔するはめになってしまった。