17歳の真人の日記

「まさとバク転してくれよ」と親友の真偽が言った。
気のいい奴で、頭もいい。
おれは「楽勝、楽勝」と、後ろを確認して手の付く位置をイメージする。
地面をしっかり見て、両手を付き、あとは回転の力を使って着地。
「すげー、キレイなバク転だな」と感心してくれた。
その時だった。
「コラ、ソフトボールの体育中にバク転をするな」と先生が怒っている。
味方の攻撃のときは、打者が回ってこないから退屈だ。ついつい違うことをやりたくなる。
「すんません。次の回の準備アップです。ウィンドミルの回転とバク転の回転はにているんですよ」
「そんな訳あるか。次やったら反省文だからな」と、先生が言っている。
先生のこころの声が聞こえてしまった。
「怪我したら、オレが始末書を提出するからやめてくれ。」と、自分の損得の責任への圧力を感じる。
こころの声を聞くのはそんなに難しいことではない。
空気を読むことを極めた。その先にある。
その場には、その場の空気がある。
バラエティー番組には笑って良い雰囲気がある。
映画のクライマックスにも雰囲気がある。
相手の眉間の皺や表所の一つずつを見れば、自然と雰囲気が分かってくる。
子どもたちは、自然と大人の行動を見て真似る。
そこには声はいらない。
視線から自然とわかるものだ。
その能力を超越させた結果。
こころが読める。
苦痛を抱えている人は顔が歪み、幸せな人は幸せな顔をしている。
できないと思うからできないのだ。
何でもできると思えばできる。
もちろん、不可能なことはある。
「太陽を破壊しろ」と言われても当然できない。
できないと思うからできないのだ。
当たり前のことだ。
先生たちは、この事を授業で教えてくれない。
イメージから現実を創っている。それにもかかわらず、教えない。
大人になるとイメージが固まる。
同じイメージを永遠と繰り返す。
そのイメージが現実を作り、毎日同じ仕事場、仕事内容をする。
ロボットのような人間は、こころがない。
このことに気がついたのは、15歳の時だ。
目の前の打者の「三振を取ろう」ウィンドミルで投げる。
90km近くは出ているだろう。
「楽勝、楽勝」相手の打者は、かなり力が入っている。
「こんな早い玉、体育の授業で打てるわけないだろう。怖いからデットボールには当てないでくれよ」
相手打者のこころの声が聞こえる。
まったく、できないと思うからできないと言うのに。
先生が「ストライクバッターアウト」と言った。
試合にならないため「ピッチャー」交代と言った。
「おまえもっと打たしてやれよ。空気読め。空気を」と、先生が言う。
ライズボールで、先生の面に向って投げて顔にぶつけようと一瞬思ったが、反省文を書くのも癪だ。
やめておこう。
勉強ももちろん「楽勝、楽勝」
みんな自分が記憶力が悪いと思うから悪いのだ。
できないと思っているからできない。
勉強ができる人とできない人はこころに以下のような違いがあることがわかった。
できない人は、できない理由を沢山並べる。
・自分は、親が馬鹿だから
・テストで満点取ったことないから
・努力できないから
勉強できる人は、勉強できる理由をたくさん並べる。
・努力すれば点数が上げる
・自分は記憶力がいい
・親が頭いいから自分もできる
できると思えばでき、できないと思えばできないとはっきり分かるだろう。
中二病全開だと思うだろう。
ただし、受験戦争は椅子取りゲームだ。
スポーツ選手も椅子取りゲームだ。
定員数240人の高校に480人応募すれば、240人は必ずできないが生まれる。
240人の定員に200人になれば、椅子取りゲームは終わる。
だれもが、戦争を終わらせる事ができる。
こんな簡単な仕組みのために、大学まで行く人の平均の教養時間33,360時間(4%)8時間/日を使う。
ゲームついでだ。
記憶力の仕方を覚えれば、学校の教養を朝1時間で暗記できるようになる。
インパクトのあった出来事は、はっきりと覚えているだろう。
理由は簡単だ。人間にはそれだけの能力があるのだ。
記憶力を訓練することは、教えない。繰り返しやることばかりで努力が必要に思うだろう。
しかし、ぱらぱら教科書を見て文字を記憶すればいい。
そんなことできない?いや、できる。
絵描きは、チラッと見た景色でも模写できる。
それは、その風景を写真として思い出せるからだ。
まだ、わからないのか。
好きな女の子の顔と興味のない女の子。どちらの顔が覚えられる?
好きな女の子の顔だろう。
好きこそものの上手なれとは、この事を言う。
すべての有ることに興味を向けよう。
こころにも興味を向けよう。
そうすれば、記憶力の違いがわかる。
四六時中使っていると変人扱いされるうえ、消費が早い。
脳内の記憶をするお腹が空く。
1日のカロリー消費のHPが100だとすると、
一時間で10使う。
10時間の行動になり、14時間を睡眠に当てるロングスリーパーになる。
ロングスリーパーにならず、ハイにすることは良いが、HPが0で動くため肉体的負荷がかかり、故障がでる。
なので、朝に「1時間」教科書をめくって勉強を終わらせよう。
そして、日記に真心を込めるのだ。
記憶文章の創造は、記憶ではないのだ。
「できると思ったらできる」
これがわたしの信念だ。
信念ができたら、棚を創るように太陽も大地も創れる。
ただ、太陽や大地を創るためのコードをぼくはまだ持ち合わせていない。
地球にこれだけのエネルギーを伝達するフリーエネルギーも、細菌も、植物も、鉱物も、海の成分も調和できるまでに及ばない。
できないと思うから、できないのだ。
毎晩、星を見る。
天体観測をするのだ。
毎日、絶対同じ形の夜空はない。
雲の形も月の形も違っている。
ズレがある。
無限に広がる夜空は創れない。
だから、大好きだ。
ぼくは、ドバイのオンライン大学の専攻もしている。
本来、大学は何歳でも一定の水準の学力があり、行く場だ。
ドバイの講義は、時差で夜にディスカッションできる。
最高の学びの場だ。特にドワール先生の講義は群をぬいている。
明らかに日本の教育より個性に特化しており、進んでいる。
ぼくも悩みが無いかと言えばもちろんある。
できることとできないことの識別である。
空想と現実を理解するのは、難しい。
空想をできると思えば、歪んだ形でその姿は現れる。
幽霊が見える人は、空想を歪んだ形でその姿を現すのだ。
わたしは、寝て見る夢でこんな話を聞いた。
この夢の日記は、明日綴ろう。