17歳の真人の日記

誰もが一度は、夢を見たことがあるはずだ。
寝てみる夢ではなく、叶えたい願いの夢だ。
夢で、ぼくたちはできている。
夢をみなければ、飛行機を作らなかっただろう。
夢をみなければ、美味しいご飯を食べようと思わないだろう。
僕たちは、夢の世界にいるのだ。
しかし、夢を語ると笑われる。
僕は、夢を見て笑われたことがある。
夏休みの自由研究で、ピタゴラスイッチをしようとした。
おもちゃのプラレールとスーパーボールを使って、家で自信たっぷりの傑作だ。
しかし、「学校に持っていけない」という理由で、両親が自由研究を何やら創り出した。
画用紙に貼り付けて、僕はコメントを書く。
「ファーブル昆虫の自由研究」と大きな文字で書いてあった。
子供の字にみえるよう丸文字であった。
夏休みにキャンプに行った時にスマホで撮影したカブトムシやコガネムシの画像を印刷して貼り付けてあった。
ぼくのピタゴラスイッチは、陳腐な夢で終わってしまった。
大人たちは、子供の創造をぶち壊す。
これからは「創造性が大切だ」と言いながら、平然と手を出して創造性をぶち壊す。
創造性がなにか分かっていないから、ぶち壊す。
ぼくは、大人たちに対して憎悪感があることを理解していた。
そして、怖かった。
大人になるということは、創造性を殺すことだと思っていたからだ。
15歳を超えたころ、大人たちは「夢よりも現実を見ろ」という。
現実というは、良い大学や良い企業と言った意味で、自分たちが歩んできた安心、安全の分かっている道だ。
子どもたちは、絶対権力者の大人の言うことを聞くしかない。
他の道を知らない。
反抗できる勇者は、ごくわずか。
食糧を手に入れる術が無い子どもたちを餌食にした捕獲者だ。。
だから、ぼくは勉強するふりをする。
勉強するふりをして、日記を書くのだ。
自分の魂を震わせろ。
おれは信念が強いのだ。
創造性を繰り広げろ。
ぼくは、17歳になっても、子供の心を持っていた。
大人たちのこころの声が聞こえ続けていた。

先生の立ち振る舞いに、声のトーンからこころが分かるのだ。
その人の創造性の没落がフィナーレがクラス中に鳴り響く。
「おまえら、こんな点数じゃ。大学行けないぞ。もっと勉強しろ、勉強を」
こころではこう言っている。
「オレは勉強して先生になったんだ。おまえらも我慢して勉強すれば先生になれるぞ。カリキュラムをこなす先生に」
明らかに妥協した夢だ。

給料に満足して生き生きと生徒たちと触れ合うというよりも、自分の生活をするために選択した逃げの一手である。
こころの声を聞くせいで、僕は大人の毒が僕の胃の中に入り込み、消化不良を起こす。
嘔吐感は、日に日にましていく。
そんな先生をみると、無性に腹が立ち反抗したくなる。
人の絆は、こうして崩れていく。
先生は、気に入らない生徒を校則で拘束する。
拘束されるとイライラして反抗を試みる。
反抗の手段は、いじめをはじめあらゆる喧嘩や訴訟となる。
先生と生徒の関係性と同じように強いものから弱いものへの弱肉強食の世界がリトルクラスとしてできあがるのだ。
いじめをして一時的な鬱憤を晴らすことはできる。しかし、根本的にでるガスは放出されない。
我慢しすぎた人間は無気力だ。
大学に行きたくない。
社会に出たくない。
この悪循環だ。
未熟な発展途上の子供と大人の向かえる末路は、腐敗臭のするゴミだ。
いつから、僕はこころの声から消化不良を起こしたのか。
少年や少女だった頃は、何も考えず障害を乗り越えてきた。
大人なんて気にせずに、何も考えず障害を乗り越えてきた。
17歳の僕は、すでに大人たちの魔の手が侵食しているのだ。
つまらない消化不良を紹介したのには、わけがある。
これが、日本に蔓延するモンスターの正体だからだ。
鬼だ。
魔女だ。
地獄だ。
この事を目をそらさず見つめたのが、17歳の真人の青春だ。
逃げることをやめた剣を持った勇者は、モンスターも、鬼も、魔女も、地獄も、死も乗り越える。
何を隠そう。
こころの声を聞き、それでも立ち向かっている僕がいる。
17歳のまさとは、大人を認めた。
空しさで歪んだ顔の大人を認めたのだ。
憎悪もなくなり、大人は小さな赤子であった。