3
一週間後の午後。カレンダーの日付は八月十六日だ。朝から日差しは強く、夏が終盤に近付いているとは少しも信じられない過酷な暑さが街によどんでいる。
この日の打ち合せの会場は、シロヤナギ・ルカの自宅の庭ということになっていた。上層民区の北部市街に位置するシロヤナギ邸は市内でも屈指の豪邸として名前は知られていたが、サキがここを訪れるのは今日がはじめてだった。
「おれは今日が2回目だな。まあ、見たらビビるぜ。マジで広いから」
隣を歩くタカキは遊歩道の先を見ながらそう言った。上下幅の狭いシャープなデザインの眼鏡が、タカキの鼻の上で陽光を反射して白く光っている。今日のタカキはいつものプラチナグレーの制服ではなく、サイズの大きいだぶついたブラウン系のTシャツとベージュのハーフパンツというラフな姿だ。
いっぽうサキの方は、スカート部分にフリルギャザーの付いたホワイトのノースリーブ・ワンピース。地味そうに見えて同色ホワイトのさりげないステッチ装飾が各所についた相当に値段の張るハイブランド服のチョイスだったが、実際にその服をチョイスして買い与えたのは保護者のユノだ。サキ自身は与えられたその服をその朝クローゼットの中から適当に選び取ったに過ぎない。けれどもそういった家庭事情を知らない者が普通に見た場合、街路樹の影の色濃い街区の遊歩道をゆっくりと歩くサキの立ち姿は非常に清楚でまぶしく映っただろう。
街区の1区画すべてが邸宅というシロヤナギの住居を見たときにはサキもさすがにあきれた。屋敷の外周はすべて背の高い緑の垣根になっており、そのむこうには侵入防止の電磁ブロックをはりめぐらせたメタルウォールがのぞいていた。正面の門のところに守衛小屋があり、タカキが名前をつげると内線でシロヤナギに取りついだ。
しかし中に入るには身分証の提示と、手荷物検査ふくめたひととおりのボディチェックを受ける必要があります、と守衛の女性が簡単に説明した。
「な? なんか普通じゃないだろ、ここ?」
バッグのポケットから学生証を取り出して守衛に手渡しながら、タカキがサキにささやく。
「クラスメートの私邸に入るっていうよりは、軍事施設に侵入するみたいなノリだからな」
こらきみ、チェック中はあまり関係ない事項を話さないように。と注意を受けて、タカキはだまった。サキもバッグを開けて荷物チェック担当の職員に手渡した。2分ほどでチェックは終わり、メインゲートの横にある小さな通用ゲートから二人はシロヤナギ家の敷地に足を踏み入れた。
「ようこそ。でもちょっと遅かったね。」
シロヤナギが、庭園のプールサイドのリクライニングチェアから体を起こして言った。
シロヤナギは、体にぴったりしたマルーンレッドのタイトな長袖ドレスを身に着け、その下には体の線に沿った黒系のレギンスタイツ。真夏のプールサイドにはやや不釣り合いなウェアだと言えそうだが、微笑をふくんだ自信満々のシロヤナギがそこでそれを着ていると、なにかそれなりの説得力を持って自然になじんでしまうから不思議だ。
「退屈を持て余したわたしたちは、けっこう二人でもうとっくにいろいろ始めてしまっていたよ。二人でたっぷり濃厚接触、いい汗をかいた、よね?」
シロヤナギが甘い視線を送った先のチェアにはハルオミが寝そべっており、「え? 何? なんの話??」と言って体をおこした。
ハルオミはホワイトの制服シャツに、夏仕様のセミロングパンツという普段とほぼ変わりない地味な装いだ。実際、ハルオミのそばのミニテーブルに置かれたジュースグラスの氷はほぼ原形をたもったままで、ジュース自体もほぼ減っていない。それほど二人がここで長く待っていたようにはタカキの目からはあまり信じられなかった。
「おまえ、けど、それ暑くないのかよ?」
タカキがちらりとシロヤナギに視線を向ける。
「何? このドレスの何が問題?」
シロヤナギがふりむいて、意外そうに首を右に傾けた。
「どっちかって言うと秋とか冬モードっぽいぜ。おまえ体温調節くるってねーか?」
「失礼な。ここではこれでちょうどいいぐらいさ。それとも何? 君のそれは、もっと刺激的な水着か何かを期待していて、それが裏切られた腹いせのコメントと理解すべき?」
「あほ。お前の水着とかマジどうでもいい」
「嘘。本当は見たいんでしょう? わたしの生まれたままの素肌の白さを? ん?」
シロヤナギが右手を髪に、左手を腰にあててチープな妖艶ポーズをつくって微笑んだ。
「はいはい。妄言終了。じゃ、時間ねーからさっそくだけど始めようぜ。」
タカキが言って、ちょうど樹木の日陰になっているプールサイドの一角を選び、4つのチェアをそこに集めた。
「あれ?」
ミドルサイズのタブレット端末をバッグから取り出したタカキがまた、「あれ?」と戸惑った声を繰り返す。何度か指でタブレットをタップしていたが、どうやら電源が立ち上がってこないらしい。
「む、おかしいな。朝、ちゃんとフル充電で準備したつもりだったんだが」
「なにもおかしくはない。当然そうなるはずだよ」
シロヤナギがチェアを平行に近い角度までリクライニングさせ、そこに優雅に寝そべった。フロアに直接おいたドリンクのグラスを右手で取って、怠惰に無造作にストローを口に含ませ、果実のドリンクをひとくち吸った。
「うちの庭園はプールエリアを含め、すべてが電磁ガジェット無効化スペースだよ。だからこそここを会場に選んだわけで」
「はあ?? 無効化??」タカキが声のトーンを吊り上げた。「なんだそりゃ? 電磁ツール使えねえってこと? なんで??」
「いちおう秘密の会議だからね。親とか、そのほか外部干渉する第三者が情報を読むのはまずい。電波を拾われるとか、それだけでも計画が頓挫しかねない。安全優先さ。」
シロヤナギがふふっと鼻を鳴らして笑った。
「ここはね、もともとうちの祖父が、じっくり密談をするために作ったスペースでね。各種の盗聴ツールも機能しないから、ここだと怪しい贈賄の話などでも、当局にいっさい関知されずに心おきなく話し尽くせると。元来そういう場所だから」
「ったく。じゃあ、あれか。おれが徹夜であれだけ準備したデジタルベースの視覚資料とか、ぜんぶムダってわけかよ。ったく、マジで信じられねー」
タカキが言って、チェアの上にドサッと体重を投げ出した。バッグの中からホワイトのコットンシャツを取り出し、投げやりな感じでTシャツの上から肩にかける。
「じゃ、あれか? ビジュアル資料なしで、全部口頭で言えばいいのか? そういうこと?」
タカキが少しばかり恨めしそうにシロヤナギに声を向けた。
「そうでもない、かな?」
シロヤナギが何か視線だけでハルオミに合図を送る。送られたハルオミは、少し離れた植え込みのウォールに立てかけてあった、サイズのかさばる何かをこちらまで引っ張ってきた。4人のチェアから少しはなれた、プールサイドにその何かのツールをセットする。
「ホワイトボード、スタンド?」とタカキ。
「あとあれは、カラーマーカー、だね。」とサキ。「すごい。レトロ。今でもこんなの売ってるとこあるんだ」
「マジか。これでプレゼンしろと?」
「なに? これでは不十分?」
シロヤナギが、からかうような視線をタカキに投げた。
「その君の素敵な最新電磁ツールじゃないと説明できないほど、なにか精緻な作戦会議を今からしたかったのかな? ただちょっと、そこらのビーチに行く、それだけのために?」
「ばか。ちょっとそこらが、それなりにハードル高い。計画は慎重にビジュアルつきでやるもんだ」
「へえ。君にそういう繊細なところがあったとは。わたしには初めての発見かもしれないな」
「言ってろ。ま、いいわ。ここにある旧時代の原始ツールで、できる範囲でやる。ただし、説明がわかりにくいとか言っても泣いて文句はなしだぞ?」
「まず結論から言うと、70万だ。」
タカキがホワイトボードの中央にブルーのマーカーで7、0、0、0、0、0と数字を並べて書いた。
「まずここが最初でかつ最大の問題。ここをクリアできるかどうかに計画の成否はかかっている」
「えっと、質問」
ハルオミが横から手を挙げた。
「その70万は何? それが今回の遠征とどうつながるの?」
「金だよ、金。」タカキがマーカーの尻のところでボード上をトントン叩く。「70万クレジット。それが払えるかどうか。それがまず問題ってこと」
「すまない、わたしもまだよくわからないんだが」
シロヤナギがリクライニングチェアに肘をつき、横にねそべる姿勢でタカキにきいた。
「70万クレジット。まあわたしシロヤナギの手持ちの中から支払えない額ではないけれど。だが一学生の立場で問題にする金額としては、それほど小さくもないと思うんだ。」
「いや、普通に高いでしょ。70万」ハルオミがその横でつぶやいた。
「その費用は何? 何にその金額が必要と君は言ってるわけだろうか?」
シロヤナギのもっともな疑問に、サキとハルオミもそれぞれ無言で頷いた。
「いい質問だ。ってか、ほら、これ、プレゼンの入りとしては成功だろ?」
とタカキが笑う。
「成功?」とシロヤナギ。
「ああ。疑問満載のインパクトあるシンプルなキーワードで聴衆をまず引き込めっ、てな。文句なしに引き込まれたろ? プレゼンテーションのテクニックその1だ」
「くだらない。」シロヤナギがうんざりした表情で首を振った。「そんなテクニックを披露することをここで求めた覚えはないけれど。まあいい。続けて。とりあえずわたしは説明をきくことにしよう」
「じゃ、最初から説明するぜ。まず、最初にぶつかる問題としては、どのポイントから市街をとりまく分離壁を越えるのか、っていうな。そこの部分が当然あるわけだ。まず、地図を見て欲しいんだが、くそ、これ、書きにくいな、ったく」
ぶつぶつと不満を口にしながらも、タカキがボードの上にブルーのマーカーで次のように書きつけてゆく。
中央わずかに左部分に楕円形、そこには「学院の丘」
その右上の位置に「政庁舎の丘」
そこを起点に、タカキが街の概略図を簡単な図形で書きおとす。
政庁舎の上側に広がる「生産区」
学院の丘の左に広がるのは「上層民区」
そしてその右側に広がる「労働市街」
その下に帯状に広がる「環境調整区」および「変電区」
それらすべてをぐるりと取り巻く円形状の「分離壁」
そのあとタカキは、「分離壁」の左下の位置にマーカーで追加の書き込みをする。
複数の波線で表されたその図形は、ある種の滝、あるいは川の流れのようにも見えた。
「まずもってここな。ここの排水路が一本、半地下の暗渠の形で街の外に出ている」
タカキはマーカーのキャップをぱちんと閉じて、それから自分の右手の爪先でその波形のポイントをトントンと叩いた。
「えーと。じゃ、なに? つまり下水路に沿って街の外に出るってこと?」
サキが首を左にかたむけて、色の薄いグレーの瞳でまっすぐタカキを見た。
「いや。そうじゃない。実際おれも最初はそれを検討したんだが。結論としてはここはムリって判断になった」
「なぜ無理なんだい? 理由をききたいな」とシロヤナギ。
「水路の構造を調べてみたんだが、まずもってここは水深がかなりあって水流の中を歩くのはムリだ。そして気楽に歩ける側道のような構造もない。行くとすれば汚水の中を、本気で川下りすることになる。しかも、」
タカキがキャップを閉じたマーカーの先でコツコツとボードを叩いた。
「ここの、ここな。半地下の水路が分離壁の外に出るポイントで、金属製のメッシュ構造が2重で張られている。かなり強固なやつだ。つまり最低でも、何かのツールでそれを破壊することが必要。仮にボートなどを確保してそこに着いても、とびきりかぐわしい汚水流の中、基本は照明もない中で、溶接系の特殊ツールで効率よく破壊作業ができるかは怪しい。もし仮にそれができて、2重のメタルのメッシュを突破したとしても。その先の、そこより外部の水路構造の資料は、いま探せる範囲では手に入らない。まあそりゃ、じっさい何もなくて、その外はもう即、市街の外っていう可能性もある。かなり楽観的な想定としてな。でも、そうじゃない場合。何か、公開図面にない外装構造がもう1レイヤーあった場合。」
タカキはそこでいちど言葉を止め、3人の表情をうかがう。3人は無言。それぞれのチェア、それぞれの姿勢で、タカキの説明の続きを待っている。
「じっさいおれとしては、何かもう1層くらいは外部侵入をブロックするための水門なりグリッド構造なりがある方が可能性高いと思う。まったく何もないと楽観してそれに賭けるのはあまりにもリスクが高い。それほどこの市のインフラ設備はいい加減には設計されてないと。おれはそう思う。あときわめつけは、予想される落差だな」
「落差? それはどういう意味?」とサキがきく。
「おれが手に入れることができた排水路の経路図には、そこの部分は、はっきりとは書かれていない。けど、おれが予想するに、たぶん市街のエリアに排水を送るにあたって、水路が分離壁を出た時点で、ある程度の高さを確保してるんじゃないかな。最低でも数メートル。悪くすると20メートルとか。要するに、そこでは平面で川として水を外部に出してるんじゃなく、滝みたいな感じで、ある程度の高さをつけて垂直に落としているってこと。おれ個人が市街の高所から目視で見る限りでは、市街地内の地面と分離壁外部の地面の高低差は相当あるようだ。地下水路の末端から外の地面までも、おそらくかなりの高さがあるんじゃないかな。」
意味わかったか? とタカキがサキに視線で問い、わかった、とサキがそれに対して軽くうなずいた。
「だからまあ総合的に見て、この排水路ルートは却下。突破可能性が低い。というか、不確定要素が多すぎる。したがって失敗リスクが高い。はい。じゃ、ここまでで質問は?」
「む。まあ、その排水路ルートが非現実的という、そこの結論には異論はないよ。ただ疑問はある」
シロヤナギがチェアの上で上体をおこし、行儀わるくあぐらを組んだ姿勢でそこに座りなおした。
「いいぜ。どんな疑問? 言ってみなよ」とタカキが頷く。
「単純にほら、トンネルを掘るとかはムリなのか?」
シロヤナギが言った。いつになく神妙な表情で、少し首をかたむけてタカキに向けて問いかける。
「分離壁の総延長はかなりあるでしょう。どこか地面が掘りやすいポイントとか。そういう単純な突破ルートは考えられないのだろうか?」
「おまえなあ。頭よさそうな優等生の生徒会副会長が言うセリフかよ、それ?」
「何?」
「基本知識だぜ、そこは。ここの市街設計の。」
タカキが首を左右に振って否定する。
「分離壁の地下構造は、深度20メートル付近までずっと続く高密度コンクリートだ。万一の外部侵入を想定してそういう設計にしてる。って、都市構造のどの資料みても載ってるわけだ。掘れるのか? 深度20?」
「いや。ほら。だけどどういう設計構造物にも、例外や弱点はあるかもしれない。だろう?」
あくまでシロヤナギは引き下がらない。素朴な疑問として、もう少しこの説をつきつめてみたいと。そう考えているようだ。
「あのなあ。おれもそういうの、もちろん考えたよ。じっさい調べてもみた。けっこうな時間かけて、政庁の都市施設部の裏ファイルとかまで可能な範囲であさりながら、な」
少しうんざりした口調でタカキが答える。
「けど、ここまでのところ、そういう何かの設計の穴は、おれには見つけるのはムリだった。むしろあるなら教えて欲しい。どこが穴だ? どこのエリアの構造に欠陥や手抜きがある? どこのエリアからだと深度2M程度を掘るだけで簡単に分離壁の外部に出られるんだ? ん?」
「いや。そうだな。愚問だったかもしれないね。すまない。説明を続けてくれ」
シロヤナギが素直に負けを認めて、ひらひらと左手をふってタカキに話の先を促した。
「おお。今日はやけに素直だな?」
「今日も、と言ってほしいね。素直さにかけては、わたしより優れた資質を持つ誰かを見つけるほうが難しい」
「どうだかな? おれには疑問だが」
タカキはやれやれと肩をすくめてみせた。
「まあいい。おまえの素直さについては脇に置こう。じゃ、つづけて行くぜ。あ、あと言っとくと、分離壁の上を越えるパターンの攻略も最初の時点で排除しとく。そっちは24時間全自動でモニターされてるし、やばい電流は張ってるし、超えたとしても壁の外に降りるには最低でも十数メートルの落差をクリアしなきゃダメだ。そしてきわめつけには、分離壁付近の不審者は銃撃もされる。いちばん最低なオプションっつーか、まあ論外だから誰も検討もしないとは思うんだが。おれももちろん、上越えのパターンは最初に想定から外した。おまえらも、ここの部分の異論はないよな?」
「ない」「ないわ」
ハルオミとサキが短く同意した。シロヤナギも無言でうなずきながらタカキへの同意をアピールしている。
「よし。じゃ、続けるぜ。じっさい話はもう終わりに近づいてる。けっきょくのとこ、おれたちに取りうる可能なオプションは、たぶん実質、この今から言うオプションに限られてると思うわけだ」
タカキはホワイトボードに描いた市街の簡略図の右下の位置、排水・変電区に接した分離壁上のひとつのポイントをマーカーで指した。
「ここだ。ここにゲートがある。廃棄ゲート。市街北部エリアから回収した固形廃棄物を、週2回、ここのゲートから外に捨てる。」
タカキはマーカーのキャップをはずし、分離壁の上に重ねて、小さな長方形をふたつ並べて書き足した。いちおうそれが、ゲートの形のつもりなのだろう。
「月曜日と木曜日の早朝、毎回40台程度の特殊ダンプ車が、市街北部の生産区の工場エリアから排出されたマテリアル系の廃棄物を満載し、労働市街の一般道を経由して市街南東部に隣接した処分サイトにゴミを捨てにいく。そして廃棄ゲートを出たところにあるこの処分サイトは、実質的にはもう市街の外だ。ここの周囲は、簡易なメタルのフェンスでしか囲われていない。その構造もシンプルだ。高さも知れてる。おれの聞いた限りでは、そこのサイトの外周フェンスには電流によるブロック機構もない。よじ登って超えることも可能だし、ワイヤーカッターなどの工具でその一部を壊すことも、それほど難しくはなさそうだ。まあ多少、都市外のゴミ捨て場に外部侵入あったところで、それほど支障ないだろうっていう。そういう前提でつくった簡易フェンスなんだろう。」
「ふむ、それは興味深いな。」
シロヤナギが頷いた。
「でも、その情報源は? いま言ったマテリアル系のダンプ車の話や、処分サイトのフェンスに関する情報の正しさを、どのように君は担保する?」
「担保? 担保っつったか? 難しい言葉つかいやがるな。」
話をさえぎられて、タカキが少しむっとした表情でシロヤナギを見かえした。
「担保もなにも。直接の情報だ」
「直接?」
「ああ。おれの直接の知り合いが、この生産区の廃棄マテリアルの回収業務をやってる。週二回、自分でダンプ車両を運転し、いま言った行程の移動運搬を担当してるってやつがいて、おれはその男から、直接、話をきいた。そいつは今も現役のワーカーだ。そいつが現地で毎週目で見て知ってる情報ってことだから、まず手堅い最新情報だとおれは思うぜ」
「うーん。そうか。君のお父さんは、あれか。もともと労働者階級からの昇進組、だったっけ。なるほど、だからか。だから今でも君も労働市街側に、そういうコネクションがあると。そういうわけかい」
「まあな。って、こらおまえ、そこでさりげなくおれの出自をディスってるんじゃねーよ。悪かったな。どうせおれはシロヤナギ財閥みたいな特権市民様とは身分も出自もまるで違う元・底辺だからな」
「まあ君、そうつっかかるな。とくに悪意があって言ったわけじゃない。事実を指摘したまでだ。それからね、財閥、じゃない。財団だ。シロヤナギ財団。そういう基本的用語の区別を雑に語られる場合には、わたしとしてもね――」
「ちょっとシロ。今はそういうの、関係ないことで言い争うのやめようよ」
ハルオミがシロヤナギのコメントを遮った。
「ほら、タカキもさ。別にシロは、特に階級差別とかそういう話でいまの話をしたわけじゃない、でしょ?」
「ん。まあな。わりぃ、脱線したな」
タカキが何度か頷き、それからテーブルの上に手をのばして無炭酸レモネードのボトルを手に取り、キャップをあけて軽くあおった。
「じゃ、本題に戻るぜ」
「それで、だな。この廃棄物のダンプ業務っていうのが、聞けば意外にシステムが雑だ。たぶん初期には各車両ごとに積載物のチェックとかも厳しくやってたんだろうと想像するが。今だと、ダンプドライバーのライセンス証を2つのゲートでチェックする意外に、これという検問はない。ダンプ車内のゴミの中身については、スルーってわけだ。何でも捨て放題。」
「だから、こういう話だ。もしおれたちが、その、どれかのダンプに、事前に話をつけて、廃棄マテリアルにまぎれて乗り込める場合には。」
「分離壁街の、処分サイトに出るのは、それほど困難じゃない。つーか、ほぼノーチェックだから余裕だともいえる。だから問題は、その、ダンプ車両の内部にこっそり乗るにはどうすればいいのか、っていう。そういう現実的な交渉ないしは戦術の部分になる。で、」
「じっさいもう、交渉をしてみた。こっそり秘密裏に、夏のある朝、その朝の回収にあわせて、ダンプ車の1台の後部格納コンテナに4人で乗ることは―― 可能かどうか。可能な場合には、どういう条件でそれが可能か――」
「んでから、実際にその交渉も、昨日の夜の時点までにある程度はすませた。で。そこででてきた数字が70万だ。ほらな? これで最初のところに話がつながっただろ?」
「なるほど。理解した。つまり贈賄、だね?」
シロヤナギが大きくうなずいた。
「その回収運搬人に、金をつかませるわけか。そしてその金額が、」
「ビンゴ! そこで70万クレジット。それが料金だ。この計画の秘密の保持と、4人を外までゴミにまぎれて運搬し、また、帰着時には、その同じ車両で市内に4人を運搬する。その費用がつまり、その金額ってわけだ。それだけを即金で払う前提なら、その、おれの知り合いのそいつも、こっそり協力は惜しまないと。そういう話を、おれが何とか、昨夜の時点でとりつけることには成功したと。以上。さて。みんなはどう思う?」
「えっと。自分は、十六万クレジットまでなら、自分の貯金の中から払うことはできると思う。」
サキが最初に反応を返した。無表情に、タカキの顔をまっすぐ見つめて。
「でも、それ以上はどうかな。それだと保護者の人に、話をしないとダメになるから、じゃあそのお金は何に使うのか、っていう話になっちゃうと思うけど」
「自分は25万なら払えると思う。それ以上だと、ちょっとすぐには難しい、かもしれない」
ハルオミが視線をプールの方に向けてつぶやいた。何か頭の中で、引き出し可能な預金額の計算をしているらしい。
「ちなみにおれは。素敵なお金持ちのキセ・タカキとしては、6万とか、そんなもんだ。貧乏で悪いんだが、おれ個人の予算なんて、しょせんその程度だからな」
タカキが自虐的に笑って、サキのとなりのチェアに無造作に腰をおろした。
「で? あんたは?」
「まあむろん、わたしの方はそのレベルの金額ならば全額負担することも無理ではないよ、」
シロヤナギが言う。怠惰な半寝の姿勢でプールの水のきらめきを眺めながら。
「でも。その人物の信用性はどの程度だろう?」
「信用性?」
「仮にだが、裏切られた場合には?」
「裏切る?」
「ああ。その、協力を申し出たその廃棄物回収人が、こっそり当局に通報した場合。まあわたし個人に関して言うなら、シロヤナギの名前を出せばそれほど重い刑罰を受けることはないと思うけれど。しかし失敗した場合の、わたし以外の君たちが受ける刑罰の程度だよ。それをわたしは問題にしている」
「そりゃまあ、軽く学院からの除籍と。あとは条例の規定だと、罰則金600万クレジット。ないしは8年以下の懲役刑、ってなってるな。『光ケ丘市 環境保全および防疫に関する特別条例十九条の四。市街の汚染エリアに許可なく進出した場合。』」
タカキが言って、左手の指で眼鏡のフレームを正しい位置まで引き上げる。視線がいつになく真剣だ。厳しいと言ってもよいくらいに。
「八年…?」「そんなに…?」
ハルオミとサキが同時に言葉を発した。いっぽうシロヤナギは、特に何もコメントしない。怠惰な姿勢でチェアにもたれ、軽く腕を組んだまま上空に視線を向けている。
「ああ。おれも正直、調べてビビった」
タカキは自虐的に笑い、パチン、と音をたててマーカーのキャップを閉じた。
「だが実際、事実はそうだった。ちょっぴり考えが甘かったと言えば、まさにそのままなんだが。で。今おれが、お前らに訊いときたいのはここだ。そういったリアルなリスクをしょってまで、あえてまだおれたちは、市街の外の海に行きたいのか。まず大前提として、そこの確認の話になるよな。どれだけの覚悟で、おれたちは市外に出るのか。あるいはやはり、出ないのか――」
「異議。」
シロヤナギがチェアの上ですばやく体をおこし、右手をまっすぐ上に挙げた。
「異議ってなんだ、異議って」
タカキが笑う。
「まだおれ自身は、何の意見も言った覚えはないんだがな。…まあいい。何か意見あるなら言えよ。じっくり聞くぜ?」
タカキがにやりと唇をとがらせ、ブルーのボードマーカーをシロヤナギに投げた。
機敏にそれをキャッチしたシロヤナギが、チェアから降りて、プールサイドに立った。
そこに立つとシロヤナギの左半身は日陰の外に出る形になり、ふんだんな午後の光がたちまち彼女の髪と顔の一部を輝かす。
「わたしの結論はもう出ている。議論するまでもないことだ。刑罰? そんなのはドブに捨てろ。忘れろ。そんなものは、わたしの行動を縛らない。お子様の安全な夏休みは、もとより視野にない。少なくともわたしは行く。たとえひとで行くことになっても。」
シロヤナギが言った。それは3人の誰かに向けて言ったというよりも、空に向けて、あるいは真夏のプール付き庭園を構成するすべてにむけて孤独な独立宣言を行った、という感じだ。
「あらゆるリスクをわたしは許容する。そしてそのうえで、たとえひとりでもビーチを目指そう。それがわたしの覚悟だ」
「ちょ、ちょっとシロ。それ、本気なの?」
ハルオミがチェアの上で体を起こす。その動作の途中で右手がグラスに触れ、グラスがプールサイド上に転がって中の液体をまき散らす。
「あ、ごめん。やばいやばい、」
ハルオミがあわててグラスを回収し、ヒビが入っていいないかをすばやく点検した。
「おいおい、なんだか急に本気モードになったな。だがシロよ、おまえ、結論が早すぎないか?」
タカキが言って、そこにあるチェアに軽く腰を下ろした。
「実際あれだぞ。言い出しっぺのおれが言うのもあれなんだが―― 少し冷静になってリスク回避を考えるなら、焦らず、もうちょい堅い計画をたててだな。すぐにはムリなら最悪、来年とか。あるいは今年の冬くらいでも遅すぎはしない――」
「冬。そんな時まで、わたしが待てると。君は本気で思っているのかい?」
シロヤナギが、皮肉をふくんだ冷たい微笑をタカキに投げた。
「時間が惜しい。わたしには。」
シロヤナギが断言した。とてもシンプルに。
「待てないね。秋だの、来年などと、そのような永遠にも等しい未来単位を無責任に投げられてもな。まったく心に響いてこない。だって君、夏、なんだろう、今? この夏にやるべきことは、この夏のうちにやろう。君が最初に言い出したことだ。夏だから。夏じゃないと。って。君はあの夕暮れの屋上で、わたしや皆に向けてあれほど言ったのではなかったか?」
真剣な表情でまっすぐ見つめられ、タカキは少したじろいだ。
「いいかい。時間こそが大切だ。十六の夏は一度しか来ない。そしてその夏は、十五の夏とも十七の夏とも、根本から性質を異にする。わたしたちはいま、十六の夏を生きている。生きようじゃないか。なぜ今、この夏を生きない? その理由がわたしには見えないよ。そもそもわたしたちは――」
「…おまえなぁ。」
タカキがシロヤナギの演説をさえぎった。やれやれまいったなと、右手の指で右耳の上を掻きながら。
「まあ夏を生きる話は、言葉じたいは綺麗だとは思うけど。けど、あっさり失敗して刑罰くらうリスクをとことん冒してまで生きないといけない夏なのか、これは? わかんねーよ。なにをおまえ、そんなに生き急いでる? だいたいおまえは――」
「…おれには少し、わかる気がするよ」
今度はハルオミが、タカキの言葉をさえぎった。
「ん…。そうだよね。今の、この十六の夏は。シロにとっては特別な夏。そしてたぶん、おれにとってもそうだ。そう、だよね。いまここでしか、それは経験できないものだから」
「おいこらハルオミ! 急におまえまでそんな、ロマンチストな夏ぜリフを――」
「ねえ。言ってしまった方がいいんじゃないのかな、シロ? 今ここで、サキとタカキにも」
「…オミくん。しかし、わたしはその必要性を、それほど今は感じていないが」
「たぶん言った方がいいよ。じゃないと、タカキは納得しないし、たぶん、サキにも伝わらない」
「おいおい。なにを二人でぐだぐだ言ってる?」
タカキが怒りを含んだ視線を二人に向けた。
「いいかげん、少しはわかる人間の言葉をこっちに話せ」
「む。いいだろう。そこまでして隠蔽するほど高度な秘密、ということでもない。ただし、」
シロヤナギがチェアに浅くかけ、ある種ふてくされたような、ある種、あきらめたような。複雑な感情のまじった長い息をその場に吐いた。
「わたし自身の口からは、言いたい情報ではない。というか、あまりに滑稽だ。これを自分で言うとしたらね、だから――」
シロヤナギが視線を足元に落とし、しばらくそのまま沈黙していた。
「すまないが、オミくんから言ってくれ。ただし簡潔に。詳細は今ここで、言う必要もないだろう。」
「…わかった。手短に言うよ」
ハルオミが小さくうなずいた。それから視線を上げ、タカキとサキを交互にまっすぐ見つめた。二人の気持ちを、その視線であらかじめ確認するかのように。
「じゃあ、言うけど。つまりね、その、」
ハルオミが言葉をつむいだ。シロヤナギはうつむいている。そのシロヤナギの背後では、圧倒的な午後の日差しの下、プールの水面が銀色にさざめいている。
「シロの体はもう、たぶん、あまり長くはないんだ。」
「え?」「なが…く?」サキとタカキが絶句した。
「最悪、冬まで、持たないかもしれない。持つかもしれない。それは誰にもわからない。けど。いまひとつたしかなのは。シロの夏は―― シロにとっての夏は。もうたぶん、この、いまの、今年の夏がきっと、もう、おそらく最後なんだろう、って。だからさ。だから――」
一週間後の午後。カレンダーの日付は八月十六日だ。朝から日差しは強く、夏が終盤に近付いているとは少しも信じられない過酷な暑さが街によどんでいる。
この日の打ち合せの会場は、シロヤナギ・ルカの自宅の庭ということになっていた。上層民区の北部市街に位置するシロヤナギ邸は市内でも屈指の豪邸として名前は知られていたが、サキがここを訪れるのは今日がはじめてだった。
「おれは今日が2回目だな。まあ、見たらビビるぜ。マジで広いから」
隣を歩くタカキは遊歩道の先を見ながらそう言った。上下幅の狭いシャープなデザインの眼鏡が、タカキの鼻の上で陽光を反射して白く光っている。今日のタカキはいつものプラチナグレーの制服ではなく、サイズの大きいだぶついたブラウン系のTシャツとベージュのハーフパンツというラフな姿だ。
いっぽうサキの方は、スカート部分にフリルギャザーの付いたホワイトのノースリーブ・ワンピース。地味そうに見えて同色ホワイトのさりげないステッチ装飾が各所についた相当に値段の張るハイブランド服のチョイスだったが、実際にその服をチョイスして買い与えたのは保護者のユノだ。サキ自身は与えられたその服をその朝クローゼットの中から適当に選び取ったに過ぎない。けれどもそういった家庭事情を知らない者が普通に見た場合、街路樹の影の色濃い街区の遊歩道をゆっくりと歩くサキの立ち姿は非常に清楚でまぶしく映っただろう。
街区の1区画すべてが邸宅というシロヤナギの住居を見たときにはサキもさすがにあきれた。屋敷の外周はすべて背の高い緑の垣根になっており、そのむこうには侵入防止の電磁ブロックをはりめぐらせたメタルウォールがのぞいていた。正面の門のところに守衛小屋があり、タカキが名前をつげると内線でシロヤナギに取りついだ。
しかし中に入るには身分証の提示と、手荷物検査ふくめたひととおりのボディチェックを受ける必要があります、と守衛の女性が簡単に説明した。
「な? なんか普通じゃないだろ、ここ?」
バッグのポケットから学生証を取り出して守衛に手渡しながら、タカキがサキにささやく。
「クラスメートの私邸に入るっていうよりは、軍事施設に侵入するみたいなノリだからな」
こらきみ、チェック中はあまり関係ない事項を話さないように。と注意を受けて、タカキはだまった。サキもバッグを開けて荷物チェック担当の職員に手渡した。2分ほどでチェックは終わり、メインゲートの横にある小さな通用ゲートから二人はシロヤナギ家の敷地に足を踏み入れた。
「ようこそ。でもちょっと遅かったね。」
シロヤナギが、庭園のプールサイドのリクライニングチェアから体を起こして言った。
シロヤナギは、体にぴったりしたマルーンレッドのタイトな長袖ドレスを身に着け、その下には体の線に沿った黒系のレギンスタイツ。真夏のプールサイドにはやや不釣り合いなウェアだと言えそうだが、微笑をふくんだ自信満々のシロヤナギがそこでそれを着ていると、なにかそれなりの説得力を持って自然になじんでしまうから不思議だ。
「退屈を持て余したわたしたちは、けっこう二人でもうとっくにいろいろ始めてしまっていたよ。二人でたっぷり濃厚接触、いい汗をかいた、よね?」
シロヤナギが甘い視線を送った先のチェアにはハルオミが寝そべっており、「え? 何? なんの話??」と言って体をおこした。
ハルオミはホワイトの制服シャツに、夏仕様のセミロングパンツという普段とほぼ変わりない地味な装いだ。実際、ハルオミのそばのミニテーブルに置かれたジュースグラスの氷はほぼ原形をたもったままで、ジュース自体もほぼ減っていない。それほど二人がここで長く待っていたようにはタカキの目からはあまり信じられなかった。
「おまえ、けど、それ暑くないのかよ?」
タカキがちらりとシロヤナギに視線を向ける。
「何? このドレスの何が問題?」
シロヤナギがふりむいて、意外そうに首を右に傾けた。
「どっちかって言うと秋とか冬モードっぽいぜ。おまえ体温調節くるってねーか?」
「失礼な。ここではこれでちょうどいいぐらいさ。それとも何? 君のそれは、もっと刺激的な水着か何かを期待していて、それが裏切られた腹いせのコメントと理解すべき?」
「あほ。お前の水着とかマジどうでもいい」
「嘘。本当は見たいんでしょう? わたしの生まれたままの素肌の白さを? ん?」
シロヤナギが右手を髪に、左手を腰にあててチープな妖艶ポーズをつくって微笑んだ。
「はいはい。妄言終了。じゃ、時間ねーからさっそくだけど始めようぜ。」
タカキが言って、ちょうど樹木の日陰になっているプールサイドの一角を選び、4つのチェアをそこに集めた。
「あれ?」
ミドルサイズのタブレット端末をバッグから取り出したタカキがまた、「あれ?」と戸惑った声を繰り返す。何度か指でタブレットをタップしていたが、どうやら電源が立ち上がってこないらしい。
「む、おかしいな。朝、ちゃんとフル充電で準備したつもりだったんだが」
「なにもおかしくはない。当然そうなるはずだよ」
シロヤナギがチェアを平行に近い角度までリクライニングさせ、そこに優雅に寝そべった。フロアに直接おいたドリンクのグラスを右手で取って、怠惰に無造作にストローを口に含ませ、果実のドリンクをひとくち吸った。
「うちの庭園はプールエリアを含め、すべてが電磁ガジェット無効化スペースだよ。だからこそここを会場に選んだわけで」
「はあ?? 無効化??」タカキが声のトーンを吊り上げた。「なんだそりゃ? 電磁ツール使えねえってこと? なんで??」
「いちおう秘密の会議だからね。親とか、そのほか外部干渉する第三者が情報を読むのはまずい。電波を拾われるとか、それだけでも計画が頓挫しかねない。安全優先さ。」
シロヤナギがふふっと鼻を鳴らして笑った。
「ここはね、もともとうちの祖父が、じっくり密談をするために作ったスペースでね。各種の盗聴ツールも機能しないから、ここだと怪しい贈賄の話などでも、当局にいっさい関知されずに心おきなく話し尽くせると。元来そういう場所だから」
「ったく。じゃあ、あれか。おれが徹夜であれだけ準備したデジタルベースの視覚資料とか、ぜんぶムダってわけかよ。ったく、マジで信じられねー」
タカキが言って、チェアの上にドサッと体重を投げ出した。バッグの中からホワイトのコットンシャツを取り出し、投げやりな感じでTシャツの上から肩にかける。
「じゃ、あれか? ビジュアル資料なしで、全部口頭で言えばいいのか? そういうこと?」
タカキが少しばかり恨めしそうにシロヤナギに声を向けた。
「そうでもない、かな?」
シロヤナギが何か視線だけでハルオミに合図を送る。送られたハルオミは、少し離れた植え込みのウォールに立てかけてあった、サイズのかさばる何かをこちらまで引っ張ってきた。4人のチェアから少しはなれた、プールサイドにその何かのツールをセットする。
「ホワイトボード、スタンド?」とタカキ。
「あとあれは、カラーマーカー、だね。」とサキ。「すごい。レトロ。今でもこんなの売ってるとこあるんだ」
「マジか。これでプレゼンしろと?」
「なに? これでは不十分?」
シロヤナギが、からかうような視線をタカキに投げた。
「その君の素敵な最新電磁ツールじゃないと説明できないほど、なにか精緻な作戦会議を今からしたかったのかな? ただちょっと、そこらのビーチに行く、それだけのために?」
「ばか。ちょっとそこらが、それなりにハードル高い。計画は慎重にビジュアルつきでやるもんだ」
「へえ。君にそういう繊細なところがあったとは。わたしには初めての発見かもしれないな」
「言ってろ。ま、いいわ。ここにある旧時代の原始ツールで、できる範囲でやる。ただし、説明がわかりにくいとか言っても泣いて文句はなしだぞ?」
「まず結論から言うと、70万だ。」
タカキがホワイトボードの中央にブルーのマーカーで7、0、0、0、0、0と数字を並べて書いた。
「まずここが最初でかつ最大の問題。ここをクリアできるかどうかに計画の成否はかかっている」
「えっと、質問」
ハルオミが横から手を挙げた。
「その70万は何? それが今回の遠征とどうつながるの?」
「金だよ、金。」タカキがマーカーの尻のところでボード上をトントン叩く。「70万クレジット。それが払えるかどうか。それがまず問題ってこと」
「すまない、わたしもまだよくわからないんだが」
シロヤナギがリクライニングチェアに肘をつき、横にねそべる姿勢でタカキにきいた。
「70万クレジット。まあわたしシロヤナギの手持ちの中から支払えない額ではないけれど。だが一学生の立場で問題にする金額としては、それほど小さくもないと思うんだ。」
「いや、普通に高いでしょ。70万」ハルオミがその横でつぶやいた。
「その費用は何? 何にその金額が必要と君は言ってるわけだろうか?」
シロヤナギのもっともな疑問に、サキとハルオミもそれぞれ無言で頷いた。
「いい質問だ。ってか、ほら、これ、プレゼンの入りとしては成功だろ?」
とタカキが笑う。
「成功?」とシロヤナギ。
「ああ。疑問満載のインパクトあるシンプルなキーワードで聴衆をまず引き込めっ、てな。文句なしに引き込まれたろ? プレゼンテーションのテクニックその1だ」
「くだらない。」シロヤナギがうんざりした表情で首を振った。「そんなテクニックを披露することをここで求めた覚えはないけれど。まあいい。続けて。とりあえずわたしは説明をきくことにしよう」
「じゃ、最初から説明するぜ。まず、最初にぶつかる問題としては、どのポイントから市街をとりまく分離壁を越えるのか、っていうな。そこの部分が当然あるわけだ。まず、地図を見て欲しいんだが、くそ、これ、書きにくいな、ったく」
ぶつぶつと不満を口にしながらも、タカキがボードの上にブルーのマーカーで次のように書きつけてゆく。
中央わずかに左部分に楕円形、そこには「学院の丘」
その右上の位置に「政庁舎の丘」
そこを起点に、タカキが街の概略図を簡単な図形で書きおとす。
政庁舎の上側に広がる「生産区」
学院の丘の左に広がるのは「上層民区」
そしてその右側に広がる「労働市街」
その下に帯状に広がる「環境調整区」および「変電区」
それらすべてをぐるりと取り巻く円形状の「分離壁」
そのあとタカキは、「分離壁」の左下の位置にマーカーで追加の書き込みをする。
複数の波線で表されたその図形は、ある種の滝、あるいは川の流れのようにも見えた。
「まずもってここな。ここの排水路が一本、半地下の暗渠の形で街の外に出ている」
タカキはマーカーのキャップをぱちんと閉じて、それから自分の右手の爪先でその波形のポイントをトントンと叩いた。
「えーと。じゃ、なに? つまり下水路に沿って街の外に出るってこと?」
サキが首を左にかたむけて、色の薄いグレーの瞳でまっすぐタカキを見た。
「いや。そうじゃない。実際おれも最初はそれを検討したんだが。結論としてはここはムリって判断になった」
「なぜ無理なんだい? 理由をききたいな」とシロヤナギ。
「水路の構造を調べてみたんだが、まずもってここは水深がかなりあって水流の中を歩くのはムリだ。そして気楽に歩ける側道のような構造もない。行くとすれば汚水の中を、本気で川下りすることになる。しかも、」
タカキがキャップを閉じたマーカーの先でコツコツとボードを叩いた。
「ここの、ここな。半地下の水路が分離壁の外に出るポイントで、金属製のメッシュ構造が2重で張られている。かなり強固なやつだ。つまり最低でも、何かのツールでそれを破壊することが必要。仮にボートなどを確保してそこに着いても、とびきりかぐわしい汚水流の中、基本は照明もない中で、溶接系の特殊ツールで効率よく破壊作業ができるかは怪しい。もし仮にそれができて、2重のメタルのメッシュを突破したとしても。その先の、そこより外部の水路構造の資料は、いま探せる範囲では手に入らない。まあそりゃ、じっさい何もなくて、その外はもう即、市街の外っていう可能性もある。かなり楽観的な想定としてな。でも、そうじゃない場合。何か、公開図面にない外装構造がもう1レイヤーあった場合。」
タカキはそこでいちど言葉を止め、3人の表情をうかがう。3人は無言。それぞれのチェア、それぞれの姿勢で、タカキの説明の続きを待っている。
「じっさいおれとしては、何かもう1層くらいは外部侵入をブロックするための水門なりグリッド構造なりがある方が可能性高いと思う。まったく何もないと楽観してそれに賭けるのはあまりにもリスクが高い。それほどこの市のインフラ設備はいい加減には設計されてないと。おれはそう思う。あときわめつけは、予想される落差だな」
「落差? それはどういう意味?」とサキがきく。
「おれが手に入れることができた排水路の経路図には、そこの部分は、はっきりとは書かれていない。けど、おれが予想するに、たぶん市街のエリアに排水を送るにあたって、水路が分離壁を出た時点で、ある程度の高さを確保してるんじゃないかな。最低でも数メートル。悪くすると20メートルとか。要するに、そこでは平面で川として水を外部に出してるんじゃなく、滝みたいな感じで、ある程度の高さをつけて垂直に落としているってこと。おれ個人が市街の高所から目視で見る限りでは、市街地内の地面と分離壁外部の地面の高低差は相当あるようだ。地下水路の末端から外の地面までも、おそらくかなりの高さがあるんじゃないかな。」
意味わかったか? とタカキがサキに視線で問い、わかった、とサキがそれに対して軽くうなずいた。
「だからまあ総合的に見て、この排水路ルートは却下。突破可能性が低い。というか、不確定要素が多すぎる。したがって失敗リスクが高い。はい。じゃ、ここまでで質問は?」
「む。まあ、その排水路ルートが非現実的という、そこの結論には異論はないよ。ただ疑問はある」
シロヤナギがチェアの上で上体をおこし、行儀わるくあぐらを組んだ姿勢でそこに座りなおした。
「いいぜ。どんな疑問? 言ってみなよ」とタカキが頷く。
「単純にほら、トンネルを掘るとかはムリなのか?」
シロヤナギが言った。いつになく神妙な表情で、少し首をかたむけてタカキに向けて問いかける。
「分離壁の総延長はかなりあるでしょう。どこか地面が掘りやすいポイントとか。そういう単純な突破ルートは考えられないのだろうか?」
「おまえなあ。頭よさそうな優等生の生徒会副会長が言うセリフかよ、それ?」
「何?」
「基本知識だぜ、そこは。ここの市街設計の。」
タカキが首を左右に振って否定する。
「分離壁の地下構造は、深度20メートル付近までずっと続く高密度コンクリートだ。万一の外部侵入を想定してそういう設計にしてる。って、都市構造のどの資料みても載ってるわけだ。掘れるのか? 深度20?」
「いや。ほら。だけどどういう設計構造物にも、例外や弱点はあるかもしれない。だろう?」
あくまでシロヤナギは引き下がらない。素朴な疑問として、もう少しこの説をつきつめてみたいと。そう考えているようだ。
「あのなあ。おれもそういうの、もちろん考えたよ。じっさい調べてもみた。けっこうな時間かけて、政庁の都市施設部の裏ファイルとかまで可能な範囲であさりながら、な」
少しうんざりした口調でタカキが答える。
「けど、ここまでのところ、そういう何かの設計の穴は、おれには見つけるのはムリだった。むしろあるなら教えて欲しい。どこが穴だ? どこのエリアの構造に欠陥や手抜きがある? どこのエリアからだと深度2M程度を掘るだけで簡単に分離壁の外部に出られるんだ? ん?」
「いや。そうだな。愚問だったかもしれないね。すまない。説明を続けてくれ」
シロヤナギが素直に負けを認めて、ひらひらと左手をふってタカキに話の先を促した。
「おお。今日はやけに素直だな?」
「今日も、と言ってほしいね。素直さにかけては、わたしより優れた資質を持つ誰かを見つけるほうが難しい」
「どうだかな? おれには疑問だが」
タカキはやれやれと肩をすくめてみせた。
「まあいい。おまえの素直さについては脇に置こう。じゃ、つづけて行くぜ。あ、あと言っとくと、分離壁の上を越えるパターンの攻略も最初の時点で排除しとく。そっちは24時間全自動でモニターされてるし、やばい電流は張ってるし、超えたとしても壁の外に降りるには最低でも十数メートルの落差をクリアしなきゃダメだ。そしてきわめつけには、分離壁付近の不審者は銃撃もされる。いちばん最低なオプションっつーか、まあ論外だから誰も検討もしないとは思うんだが。おれももちろん、上越えのパターンは最初に想定から外した。おまえらも、ここの部分の異論はないよな?」
「ない」「ないわ」
ハルオミとサキが短く同意した。シロヤナギも無言でうなずきながらタカキへの同意をアピールしている。
「よし。じゃ、続けるぜ。じっさい話はもう終わりに近づいてる。けっきょくのとこ、おれたちに取りうる可能なオプションは、たぶん実質、この今から言うオプションに限られてると思うわけだ」
タカキはホワイトボードに描いた市街の簡略図の右下の位置、排水・変電区に接した分離壁上のひとつのポイントをマーカーで指した。
「ここだ。ここにゲートがある。廃棄ゲート。市街北部エリアから回収した固形廃棄物を、週2回、ここのゲートから外に捨てる。」
タカキはマーカーのキャップをはずし、分離壁の上に重ねて、小さな長方形をふたつ並べて書き足した。いちおうそれが、ゲートの形のつもりなのだろう。
「月曜日と木曜日の早朝、毎回40台程度の特殊ダンプ車が、市街北部の生産区の工場エリアから排出されたマテリアル系の廃棄物を満載し、労働市街の一般道を経由して市街南東部に隣接した処分サイトにゴミを捨てにいく。そして廃棄ゲートを出たところにあるこの処分サイトは、実質的にはもう市街の外だ。ここの周囲は、簡易なメタルのフェンスでしか囲われていない。その構造もシンプルだ。高さも知れてる。おれの聞いた限りでは、そこのサイトの外周フェンスには電流によるブロック機構もない。よじ登って超えることも可能だし、ワイヤーカッターなどの工具でその一部を壊すことも、それほど難しくはなさそうだ。まあ多少、都市外のゴミ捨て場に外部侵入あったところで、それほど支障ないだろうっていう。そういう前提でつくった簡易フェンスなんだろう。」
「ふむ、それは興味深いな。」
シロヤナギが頷いた。
「でも、その情報源は? いま言ったマテリアル系のダンプ車の話や、処分サイトのフェンスに関する情報の正しさを、どのように君は担保する?」
「担保? 担保っつったか? 難しい言葉つかいやがるな。」
話をさえぎられて、タカキが少しむっとした表情でシロヤナギを見かえした。
「担保もなにも。直接の情報だ」
「直接?」
「ああ。おれの直接の知り合いが、この生産区の廃棄マテリアルの回収業務をやってる。週二回、自分でダンプ車両を運転し、いま言った行程の移動運搬を担当してるってやつがいて、おれはその男から、直接、話をきいた。そいつは今も現役のワーカーだ。そいつが現地で毎週目で見て知ってる情報ってことだから、まず手堅い最新情報だとおれは思うぜ」
「うーん。そうか。君のお父さんは、あれか。もともと労働者階級からの昇進組、だったっけ。なるほど、だからか。だから今でも君も労働市街側に、そういうコネクションがあると。そういうわけかい」
「まあな。って、こらおまえ、そこでさりげなくおれの出自をディスってるんじゃねーよ。悪かったな。どうせおれはシロヤナギ財閥みたいな特権市民様とは身分も出自もまるで違う元・底辺だからな」
「まあ君、そうつっかかるな。とくに悪意があって言ったわけじゃない。事実を指摘したまでだ。それからね、財閥、じゃない。財団だ。シロヤナギ財団。そういう基本的用語の区別を雑に語られる場合には、わたしとしてもね――」
「ちょっとシロ。今はそういうの、関係ないことで言い争うのやめようよ」
ハルオミがシロヤナギのコメントを遮った。
「ほら、タカキもさ。別にシロは、特に階級差別とかそういう話でいまの話をしたわけじゃない、でしょ?」
「ん。まあな。わりぃ、脱線したな」
タカキが何度か頷き、それからテーブルの上に手をのばして無炭酸レモネードのボトルを手に取り、キャップをあけて軽くあおった。
「じゃ、本題に戻るぜ」
「それで、だな。この廃棄物のダンプ業務っていうのが、聞けば意外にシステムが雑だ。たぶん初期には各車両ごとに積載物のチェックとかも厳しくやってたんだろうと想像するが。今だと、ダンプドライバーのライセンス証を2つのゲートでチェックする意外に、これという検問はない。ダンプ車内のゴミの中身については、スルーってわけだ。何でも捨て放題。」
「だから、こういう話だ。もしおれたちが、その、どれかのダンプに、事前に話をつけて、廃棄マテリアルにまぎれて乗り込める場合には。」
「分離壁街の、処分サイトに出るのは、それほど困難じゃない。つーか、ほぼノーチェックだから余裕だともいえる。だから問題は、その、ダンプ車両の内部にこっそり乗るにはどうすればいいのか、っていう。そういう現実的な交渉ないしは戦術の部分になる。で、」
「じっさいもう、交渉をしてみた。こっそり秘密裏に、夏のある朝、その朝の回収にあわせて、ダンプ車の1台の後部格納コンテナに4人で乗ることは―― 可能かどうか。可能な場合には、どういう条件でそれが可能か――」
「んでから、実際にその交渉も、昨日の夜の時点までにある程度はすませた。で。そこででてきた数字が70万だ。ほらな? これで最初のところに話がつながっただろ?」
「なるほど。理解した。つまり贈賄、だね?」
シロヤナギが大きくうなずいた。
「その回収運搬人に、金をつかませるわけか。そしてその金額が、」
「ビンゴ! そこで70万クレジット。それが料金だ。この計画の秘密の保持と、4人を外までゴミにまぎれて運搬し、また、帰着時には、その同じ車両で市内に4人を運搬する。その費用がつまり、その金額ってわけだ。それだけを即金で払う前提なら、その、おれの知り合いのそいつも、こっそり協力は惜しまないと。そういう話を、おれが何とか、昨夜の時点でとりつけることには成功したと。以上。さて。みんなはどう思う?」
「えっと。自分は、十六万クレジットまでなら、自分の貯金の中から払うことはできると思う。」
サキが最初に反応を返した。無表情に、タカキの顔をまっすぐ見つめて。
「でも、それ以上はどうかな。それだと保護者の人に、話をしないとダメになるから、じゃあそのお金は何に使うのか、っていう話になっちゃうと思うけど」
「自分は25万なら払えると思う。それ以上だと、ちょっとすぐには難しい、かもしれない」
ハルオミが視線をプールの方に向けてつぶやいた。何か頭の中で、引き出し可能な預金額の計算をしているらしい。
「ちなみにおれは。素敵なお金持ちのキセ・タカキとしては、6万とか、そんなもんだ。貧乏で悪いんだが、おれ個人の予算なんて、しょせんその程度だからな」
タカキが自虐的に笑って、サキのとなりのチェアに無造作に腰をおろした。
「で? あんたは?」
「まあむろん、わたしの方はそのレベルの金額ならば全額負担することも無理ではないよ、」
シロヤナギが言う。怠惰な半寝の姿勢でプールの水のきらめきを眺めながら。
「でも。その人物の信用性はどの程度だろう?」
「信用性?」
「仮にだが、裏切られた場合には?」
「裏切る?」
「ああ。その、協力を申し出たその廃棄物回収人が、こっそり当局に通報した場合。まあわたし個人に関して言うなら、シロヤナギの名前を出せばそれほど重い刑罰を受けることはないと思うけれど。しかし失敗した場合の、わたし以外の君たちが受ける刑罰の程度だよ。それをわたしは問題にしている」
「そりゃまあ、軽く学院からの除籍と。あとは条例の規定だと、罰則金600万クレジット。ないしは8年以下の懲役刑、ってなってるな。『光ケ丘市 環境保全および防疫に関する特別条例十九条の四。市街の汚染エリアに許可なく進出した場合。』」
タカキが言って、左手の指で眼鏡のフレームを正しい位置まで引き上げる。視線がいつになく真剣だ。厳しいと言ってもよいくらいに。
「八年…?」「そんなに…?」
ハルオミとサキが同時に言葉を発した。いっぽうシロヤナギは、特に何もコメントしない。怠惰な姿勢でチェアにもたれ、軽く腕を組んだまま上空に視線を向けている。
「ああ。おれも正直、調べてビビった」
タカキは自虐的に笑い、パチン、と音をたててマーカーのキャップを閉じた。
「だが実際、事実はそうだった。ちょっぴり考えが甘かったと言えば、まさにそのままなんだが。で。今おれが、お前らに訊いときたいのはここだ。そういったリアルなリスクをしょってまで、あえてまだおれたちは、市街の外の海に行きたいのか。まず大前提として、そこの確認の話になるよな。どれだけの覚悟で、おれたちは市外に出るのか。あるいはやはり、出ないのか――」
「異議。」
シロヤナギがチェアの上ですばやく体をおこし、右手をまっすぐ上に挙げた。
「異議ってなんだ、異議って」
タカキが笑う。
「まだおれ自身は、何の意見も言った覚えはないんだがな。…まあいい。何か意見あるなら言えよ。じっくり聞くぜ?」
タカキがにやりと唇をとがらせ、ブルーのボードマーカーをシロヤナギに投げた。
機敏にそれをキャッチしたシロヤナギが、チェアから降りて、プールサイドに立った。
そこに立つとシロヤナギの左半身は日陰の外に出る形になり、ふんだんな午後の光がたちまち彼女の髪と顔の一部を輝かす。
「わたしの結論はもう出ている。議論するまでもないことだ。刑罰? そんなのはドブに捨てろ。忘れろ。そんなものは、わたしの行動を縛らない。お子様の安全な夏休みは、もとより視野にない。少なくともわたしは行く。たとえひとで行くことになっても。」
シロヤナギが言った。それは3人の誰かに向けて言ったというよりも、空に向けて、あるいは真夏のプール付き庭園を構成するすべてにむけて孤独な独立宣言を行った、という感じだ。
「あらゆるリスクをわたしは許容する。そしてそのうえで、たとえひとりでもビーチを目指そう。それがわたしの覚悟だ」
「ちょ、ちょっとシロ。それ、本気なの?」
ハルオミがチェアの上で体を起こす。その動作の途中で右手がグラスに触れ、グラスがプールサイド上に転がって中の液体をまき散らす。
「あ、ごめん。やばいやばい、」
ハルオミがあわててグラスを回収し、ヒビが入っていいないかをすばやく点検した。
「おいおい、なんだか急に本気モードになったな。だがシロよ、おまえ、結論が早すぎないか?」
タカキが言って、そこにあるチェアに軽く腰を下ろした。
「実際あれだぞ。言い出しっぺのおれが言うのもあれなんだが―― 少し冷静になってリスク回避を考えるなら、焦らず、もうちょい堅い計画をたててだな。すぐにはムリなら最悪、来年とか。あるいは今年の冬くらいでも遅すぎはしない――」
「冬。そんな時まで、わたしが待てると。君は本気で思っているのかい?」
シロヤナギが、皮肉をふくんだ冷たい微笑をタカキに投げた。
「時間が惜しい。わたしには。」
シロヤナギが断言した。とてもシンプルに。
「待てないね。秋だの、来年などと、そのような永遠にも等しい未来単位を無責任に投げられてもな。まったく心に響いてこない。だって君、夏、なんだろう、今? この夏にやるべきことは、この夏のうちにやろう。君が最初に言い出したことだ。夏だから。夏じゃないと。って。君はあの夕暮れの屋上で、わたしや皆に向けてあれほど言ったのではなかったか?」
真剣な表情でまっすぐ見つめられ、タカキは少したじろいだ。
「いいかい。時間こそが大切だ。十六の夏は一度しか来ない。そしてその夏は、十五の夏とも十七の夏とも、根本から性質を異にする。わたしたちはいま、十六の夏を生きている。生きようじゃないか。なぜ今、この夏を生きない? その理由がわたしには見えないよ。そもそもわたしたちは――」
「…おまえなぁ。」
タカキがシロヤナギの演説をさえぎった。やれやれまいったなと、右手の指で右耳の上を掻きながら。
「まあ夏を生きる話は、言葉じたいは綺麗だとは思うけど。けど、あっさり失敗して刑罰くらうリスクをとことん冒してまで生きないといけない夏なのか、これは? わかんねーよ。なにをおまえ、そんなに生き急いでる? だいたいおまえは――」
「…おれには少し、わかる気がするよ」
今度はハルオミが、タカキの言葉をさえぎった。
「ん…。そうだよね。今の、この十六の夏は。シロにとっては特別な夏。そしてたぶん、おれにとってもそうだ。そう、だよね。いまここでしか、それは経験できないものだから」
「おいこらハルオミ! 急におまえまでそんな、ロマンチストな夏ぜリフを――」
「ねえ。言ってしまった方がいいんじゃないのかな、シロ? 今ここで、サキとタカキにも」
「…オミくん。しかし、わたしはその必要性を、それほど今は感じていないが」
「たぶん言った方がいいよ。じゃないと、タカキは納得しないし、たぶん、サキにも伝わらない」
「おいおい。なにを二人でぐだぐだ言ってる?」
タカキが怒りを含んだ視線を二人に向けた。
「いいかげん、少しはわかる人間の言葉をこっちに話せ」
「む。いいだろう。そこまでして隠蔽するほど高度な秘密、ということでもない。ただし、」
シロヤナギがチェアに浅くかけ、ある種ふてくされたような、ある種、あきらめたような。複雑な感情のまじった長い息をその場に吐いた。
「わたし自身の口からは、言いたい情報ではない。というか、あまりに滑稽だ。これを自分で言うとしたらね、だから――」
シロヤナギが視線を足元に落とし、しばらくそのまま沈黙していた。
「すまないが、オミくんから言ってくれ。ただし簡潔に。詳細は今ここで、言う必要もないだろう。」
「…わかった。手短に言うよ」
ハルオミが小さくうなずいた。それから視線を上げ、タカキとサキを交互にまっすぐ見つめた。二人の気持ちを、その視線であらかじめ確認するかのように。
「じゃあ、言うけど。つまりね、その、」
ハルオミが言葉をつむいだ。シロヤナギはうつむいている。そのシロヤナギの背後では、圧倒的な午後の日差しの下、プールの水面が銀色にさざめいている。
「シロの体はもう、たぶん、あまり長くはないんだ。」
「え?」「なが…く?」サキとタカキが絶句した。
「最悪、冬まで、持たないかもしれない。持つかもしれない。それは誰にもわからない。けど。いまひとつたしかなのは。シロの夏は―― シロにとっての夏は。もうたぶん、この、いまの、今年の夏がきっと、もう、おそらく最後なんだろう、って。だからさ。だから――」