同じ日。
 午後の遅い時刻に講習は終わった。中央カフェテリアの中と外をのぞいてみたけれど、彼らがいそうな場所には彼らは見つからなかった。カフェテリア前のベンチに座り、サキはバッグからデータ端末を取り出し、チャットメッセージアプリで所在地確認してみた。
 旧校舎の屋上にドットがひとつでも点灯していたら行ってみようかと思ったのだけど、予想に反してそこにはドット表示はなかった。ハルオミを示すブルーのドットは上層民居住区の北部エリアをゆっくりと移動している。シロヤナギを示すピンクのドットはハルオミから600M程度の地点で固定されており、ハルオミがそちらに向かって接近中であることが見て取れた。

『いま講習おわった。なんか決まったことある?』とメッセージしたら、
『おつかれ。いろいろ決まったけどチャットでは書けないかな』とハルオミが返した。
『そっか。じゃ、明日とかに学院で話す?』
『だね。朝の講習おわったら会おうよ』
『うん。了解。じゃ明日、待っている』

 そこまでメッセージ交換をしてハルオミとのチャットを終えた。そのあとタカキの位置表示の黄色のドット捜そうとしたけれど、「位置非表示モード」の一覧の中にタカキのドットがあるのを見つけて、サキは小さくため息をついた。
 タカキはいつも位置情報をオープンにしたがらない。なにをそんなに気にするんだろうか、とサキは内心おもっている。だってこの小さな市内だ。いったいどこの誰に何を隠すというの、と。まあでもそれはサキ自身の考えであって、タカキの考えはまた別かもしれない。ひとまずサキはそれ以上考えずにデータ端末をクローズしてバッグに戻した。

 夏の西日が傾く中を、サキはひとりで学院の正門を出た。
 白度の高いシャイングラニットの大階段がゆるやかなカーブを描いて市街にむけて下っていた。サキの住んでいる上層民向けの居住ユニットは、ここから市街におりて都市メトロを2駅乗ったところにある。どうせいま戻っても、居住ユニットにはまだ誰も戻っていない。正確に言えばハウスメイドのタムラという女性がいるのだが、タムラはサキにとってはどちらかと言えば人よりも家具や家自体に近い存在だったため、サキはタムラが勤務中のその家を「誰かが待っている、誰かがいる」という認識では今のところ捉えていない。

 サキの保護者役を務めているワキサカ・ユノは母親と呼ぶには年が上すぎるがお祖母ちゃんと呼ぶには少し若すぎる。それでサキはいつもユノさんと呼んでいた。
「お母さん、と呼んでくれてもいいのよ?」
 ワキサカ・ユノは寂しそうに笑っていつも言う。だが、サキの中では母親と呼んで違和感がないのは、むかし短い期間だけ共に暮らした、今では顔もあまり明確に覚えていないあのやわらかい印象の小柄な女性だけだ。ユノには悪いなとは思ったけれど、まだ今まで一度もワキサカ・ユノのことを母さんと呼んだことはない。
 サキは、下層の労働市街の孤児施設の出身だ。そこを出て上層市民であるワキサカ家の養女になったのは今からもう10年以上前のこと。それ以前の記憶はひどくあいまいだ。だからサキ自身の中ではあまり自分が下層セクションの出身者だという劣等感は抱いていない。
 ただ、たまに学院内の誰や彼が、露骨な視線でこちらをバカにしているのを感じることはある。でもそういうときは自分を卑下する気持ちは1ミリたりとも湧いてこなくて、むしろ相手がバカだと思うサキだった。
 たまたまどこかに生まれたことで人間の優劣がつくわけじゃない。上層でもバカはいるし下層でも賢い人はいる。賢くなくても心のまっすぐな人がいるし、心のまっすぐさには上層も下層も関係ない。サキは空気のように素直に無意識に、そう考えていたのだ。
 友達と言えるほどの友人関係はあまり多くない気もした。けれど、嫌いと言うほど憎みたい敵対者もいなかった。ただなんとなく、無感動に日々を生きている。そういう自分が、何か少し異常というか、この感情の薄さには何か精神的な問題があるのだろうか、と疑うことも時々あった。けれど、その問題をどこまでも突き詰めてみたいとも、サキにはとくに思えなかった。

 サキの容姿はとても整っており、髪型や化粧に気を配れば間違いなく人目を引くだけの魅力は備えている。だが、自分のビジュアル自体にもさほど興味を持っていないサキは、いつも最低限のメイクのみで、髪のケアも適当、グレーがかった髪は肩の長さでばっさりカットし、そのまま自然に流している。特にそれが自分に似合っているかどうかを厳しく自問したこともなかった。
 表情にやや乏しいサキだった。目は人一倍大きく、瞳の色はこの街では珍しい、淡いグレー。その淡い視線でじっと見つめられると、見つめられた相手の側は感情の読めない怜悧な視線にたじろぐ。だが、サキの側では特に相手に何かを期待したり問い詰めたりするつもりはなかった。ただ、話しながら相手の目を、とくに意味もなくまっすぐ見てしまう。その癖があり、すべては無意識だった。

 ゆっくりと下る大階段には西日がふんだんに降り注ぐ。しかしそれでも、東から吹く乾いた風が、街の上に蓄積した夏の午後の熱気を少しずつ分解し、とりわけ暑かったその日の午後は確実に解消に向かって下降していた。一歩一歩、サキが足をふみだすごとに、街路樹の多い上層民居住区の風景が近づいてくる。

『…なあ、どっか遠くに行こう。旅行いこう。一緒につきあえよ。』

 きのう旧校舎の屋上でタカキが思いがけなく言ったあの言葉が、耳の奥によみがえる。
『…なんか今、やるべきことがあるんじゃねーの? この大切な十六の夏に?』
 やるべきこと、か。自分はこの夏、何をやるべきなのだろう。
 なぜ十六の夏に、何か特別なことをする必要があるのか。サキにはまったく説明はできない気がしたけれど。ただ、なんとなくそわそわした行き場のない乾いた焦燥感は、起伏の乏しいサキの心の表層にもたしかにある感情だった。だからきっとタカキはその感情をそのまま言葉にしたのだろう、とサキはサキなりに理解した。
 でも大胆だな、とサキは考える。市街を出るなど、自分は想像したこともなかった。市街の外には、いまだに感染症のリスクと隣り合わせの不潔で不毛な汚染エリアがどこまでも広がっている。市民たるもの、世界で唯一生き続けているこの避難都市と、過去に滅びた不浄の地とを厳重に隔てる「分離壁」の外に出ることは一歩たりとも不可能。市街への移動など、考えることすら難しい違法行為――
 と、サキは昨日まで漠然と思っていた。というか、そのような教育を単純に受けてきた。
 けれど。タカキの言葉を聞いたとたん、市街に出るというその行為自体が、それがそれほど不可能なことでは思えなくなったから不思議だ。ただ単に、それほど広いとも言えないこの街の外に出るだけだ。それだけのこと、かもしれない。だって夏だもの。少し遠くに行くくらいの小さな冒険は、普通にありうるのかもしれない。

 まもなく大階段を下りきり、学院下の大交差点にさしかかると、サキの心は沈んだ。毎日、大階段を踏みながら何かものを考えている時だけは、自分の心がはっきり見える気がしていた。でも、下ってここまで下りてくると、心はもう見えなくなる。
 サキはそれでもとりあえず足をすすめて最寄りのメトロの駅へと向かう。もうそのときには西日はだいぶ陰って一日の終わりの気配が街路に色濃くただよっていた。車通りはいつもの多さで、歩道を歩く人影の数も、いつもの夕方と同じだ。
 サキは一瞬だけ足を止め、光のかげりゆく夏空の奥に目を向けた。それからまた、いつもの感情に乏しい機械運動としての帰宅動作を継続することにした。サキの薄いグレーの瞳は、もう市街の何をも見てはいない。それはただ淡く、どこまでも灰色で。その色の中にはもう、一握りの熱量さえも見ることはできなかった。