わたしと海に行かないか?



 夜明け前に起きて、テントの外に出ると水音が涼しかった。
 サキは白い岩の上にすわり、裸足のかかとを渓流にひたす。切れるような水の感覚が頭のてっぺんまで駆け上がる。その鮮烈な感覚が、そこにあった眠気を一気に吹き飛ばす。
 ああこれはリアルだ、とサキはあらためてその事実を再確認した。これは夢じゃない。自分の夏の想像でもない。リアルだ。
 そのあと明るくなるまで川原を歩いて過ごした。斜面の針葉樹の暗がりで、何かの生き物が小さく鳴いていた。おそらくカエルとか、その手の小動物だろうとサキは想像したが、林の中に入って確かめることまではしなかった。あたりには湿った植物の匂いが色濃く満ちていた。その香りを肺に吸い込むと、ああ自分はここにリアルに生きているなと、またひとつ納得させられるものがあった。まぎれもない夏の朝だ、これは。
 しかしその直後に持ち上がったトラブルは、そんなサキの朝の爽快感を完全にかき消してしまった。

「…寒い。」

 テントから這い出してきたシロヤナギが、全身を震わせながら荒い息をしている。サキはシロヤナギのひたいに手をあてた。燃えるように熱い皮膚。とても人間の体温とは思えなかった。そのわりにシロヤナギの顔もむきだしの手足も蒼白と言っていいほど色がなく、ひとめでサキは、これは危険な状況だと判断した。

 タカキとサキとハルオミが、テントの中にシュラフを2枚敷き、その上にシロヤナギを寝かせ、ありったけの衣類やシートをかけて保温した。
「なんだ。大げさ…だな。ちょっと、熱が…出ただけ、だろう?」
 あえぎながらシロヤナギが皮肉っぽくつぶやいたが、その声にはいつもの精彩がない。
「解熱剤? 誰か持ってねーか?」
 タカキが緊迫した声で言う。ある、と答えたのはシロヤナギ。バッグの中にふだんから解熱剤のタブレットを常備しているとタカキに告げた。

「どう思う?」
 ボトルの水で解熱剤をのませ、テントの外で、タカキがサキにささやいた。
「ウィルス、なのか? 昨日あそこで、拾ったのか?」
「…わからない。けど、たぶん、違うと思う」
「なんで?」
「昨日の今朝で、それだと発症がはやすぎる。たぶん疲れて、もともと持ってた何かが、今このタイミングで出てきた、とか。そういうやつだと思うけど。それに、わたしやタカキ、ハルオミは平気でしょう? みんな同じ水の中を渡ってきたのに」
「けど。やっぱりあの、劇症熱炎っていう、あれの症状が――」
「ちょっとタカキ。しっかりして。あんなの嘘で都市伝説だって言ったのは、タカキだったじゃない。」
「けど。でも。今のこれは、ちょっと、普通の症状じゃ――」

「こら。二人。そこで何を争っている?」

 テントの中から這い出してきたシロヤナギが、ハルオミに肩を支えられながらそこに立った。
「心配には及ばない。いつものことだ。少し無茶をすると、すぐ、リバウンドがくる。これはわたしにとって、もう、おなじみの幼馴染の、ついて離れない悪友のようなものだ。今さらパニックになられると、わたしの方が気まずいだろう?」
「おまえそれ… 寝てろよ。立ち上がってる場合かよ?」
 タカキがシロヤナギを制止した。
「ほう? では言葉をそのまま返すぞ。寝ている場合か。立ち上がって歩け、と」
「…なんだと?」
「出発の時間だ。もう、予定ではとうにここを出発しているはずだろう? 何をぐずぐず、ここで時間をつぶしている? テントをたため。荷物をまとめろ。夏の朝は、いつまでもわたしたちを待ってはくれないぞ?」
 ハルオミに肩を支えられながら、シロヤナギがタカキとサキに命令した。その刺さるような強い視線に押されて、スローな挙動でテントの解体をはじめたサキだったが、タカキの方は、その場で下をむき、二つのこぶしを握りしめ、なにかをひとりで思考している。

「おい。本気でおまえ、行くつもりか?」
 タカキがきいた。真剣な眼で、シロヤナギをにらむ。シロヤナギは2枚のジャンパーをワンピースドレスの上に重ね着していたが、それでも寒いらしく、唇の色がほとんど無くなっている。そして呼吸が明らかに荒い。
「行かない選択肢は、ない。ここまで来たのだから。なに、あと少し。あと半日の行程だ。」
「…おまえ。死ぬかも、しれないぜ?」
「本望だな。それはなかなか美しい、潔い終わりと言えるかもしれない。が、まあ、心配するな、キセ・タカキ。まだ、この程度の熱で命を奪われるほど、シロヤナギ・ルカの魂は弱ってはいない。歩けるさ。そこまで。最後まで、この二つの足で。」
 その言葉はタカキに向けられた言葉というよりも、むしろ、明るさを増しゆく朝の山際の空にむけた断固たる宣言のように聞こえた。それは世界への挑戦、自分をとりまく世界に宛てた最後の宣戦布告、だったのかもしれない。


 とはいえ、午前中のペースはまったく上がらなかった。ハルオミに右肩を支えられ、片足をひきずるように荒い呼吸で線路上を歩くシロヤナギ。その足取りは遅く、重く、昨日のペースの半分、あるいはそれ以下のスピード。
 さらに悪いことには、ここから線路はゆるやかにカーブしながら徐々に登りに傾斜して、山の中へと入っていく。ふだんであれば気にならないようなゆるい傾斜角、なのだが、今朝のシロヤナギにとっては、一歩一歩が過酷だ。一歩一歩が鉛の重さで体力を奪う。しだいにハルオミによりかかる機会がふえていき、そのハルオミの方も、ペースがまったく上がらなくなった。
 見かねたタカキが、途中からハルオミに変わった。厚着に厚着を重ねたシロヤナギは、それだけ歩き続けても、汗をまったくかかず、むしろ肩を震わして寒がっている。タカキはところどころで足を止め、なかば命令するように、シロヤナギに給水をうながした。が、シロヤナギはわずかにボトルに口をつけるのみで、飲みたくない、飲むとさらに気分がよくない、と言ってすぐにボトルのキャップを閉じてしまった。


 その日の正午が来たとき、4人はまだ、2日目の行程予定の3分の1以下の地点で停滞していた。周囲をとりまく山なみはいよいよ深くなり、苔むした小トンネルや、崩れる手前の不安定な橋で渓流を渡るポイントが増えた。無音のまま着実に高度を上げた真夏の太陽は、もうすでに西方向に高度を下げる段階に入ろうとしていた。

「ねえ、ちょっと。待って。呼吸がおかしい。この人、ちょっと普通じゃない」

 そのときシロヤナギの肩をささえて歩いていたサキが、緊迫した声で前をゆくタカキとハルオミを呼び止めた。
 朽ちた線路上に急遽、シュラフと余分の衣類をかさねて即席のマットレスをつくり、そこにシロヤナギを横たえた。シロヤナギは熱にうかされて「大丈夫だ、問題ない、」と二つの言葉をうわごとのように連呼していたが、意識は朦朧として、ぜえ、ぜえ、と肺の深いところで不吉に荒い呼吸音が鳴っていた。

「ねえ、薬とかは? なにか、常備薬? なんかシロさん、持ってきてないの?」
 サキがシロヤナギの耳元でささやいた。蒼白なシロヤナギはかすかに半目を開け、「…ある。バッグの、中。ブルーのタッパー、ウェア、」と、消えそうな声で言い、かすかにサキに微笑した。
「えっと。どれだ。どれだ。どれだどれだどれだ」
 パニックを起こしたハルオミが、バッグの中身をすべてぶちまける勢いで中身のものを外に投げていく。
「おい。落ち着け、ハルオミ。ブルーの、って言ったろ。それじゃないのか。それ。」
 タカキがその小さな円筒形のタッパーウェアを拾い上げ、キャップをあけてシロヤナギの目の前に持っていく。
「これか? これで合ってるか?」
 耳のすぐそばでタカキが呼びかける。それだ。8錠だ、と。シロヤナギが片目だけ開けてわずかに唇を動かした。

 楕円形のライトブルーのタブレットをシロヤナギの唇に運ぶと、かろうじて彼女はそれを口の中に受け入れたが、水のボトルを自分で口に咥えることができず、ハルオミがボトルを近づけてなんとか口に流し込むしかなかった。
 が、水がのどに直接入ったらしく、ゲホッ、と大きくむせて、シロヤナギはタブレットごと、すべての水を吐き出してしまった。
「わたしがやる。」
 サキが、新たにタブレットを8錠、まずは自分の口にふくんでバリバリ奥歯でかみ砕き、ボトルの水も一気に含んで、うがいの要領で薬剤と水とを口の中でかき混ぜた。強引に混合したその口の中の苦い液体を、そのあと直接シロヤナギの唇へ。自分の唇を、シロヤナギに強く直接押し付ける形で。
 少しずつ、少しずつ。自分の舌で、確実に、シロヤナギの唇の内側へ。
 舌で、ゆっくりと、そこに少しずつ押し込んでいった。シロヤナギは最初おどろいたように目を見開き、ほぼ触れる距離に近接したサキの真剣な瞳を見返した。しかしサキの意図を理解したのか、シロヤナギはまもなく、こわばった体の力をゆるめ、あとはされるがままに、サキから届くそのぬるい液体をゆっくりと受け入れ、喉の奥に落としこんでいった。


 ずいぶん時間はかかったものの、薬は確かに効果を発揮した。
 シロヤナギの呼吸はさきほどよりも遅く安定したものになった。シロヤナギを寝かせた場所からほど近いレールの上に三人は並んで腰をおろし、さきほど浅い眠りに落ちたシロヤナギを、そこからそっと見守っていた。
「ねえ、どうする?」
 サキが、タカキの耳もとでささやく。
「さっきより、だいぶ、安定してるけど。ここから、どうやって、戻ればいいのか――」
「もうちょっと、今のまま、寝かしとくほうがいいな。呼吸が安定したのは何よりだ。しかし。どうだろう。はたしてこのまま――」
「おれが。おれがダメ、だったんだ。おれが止めるべきだった。無茶だって。それはムリな旅だろう、って。」
 ハルオミが両目から涙の粒をぽろぽろ落として、両手で自分の頭をぐしゃぐしゃと掻きむしった。そのあと右腕で涙をぬぐうと、涙と鼻水と唾液とでハルオミの顔もぐしゃぐしゃになった。普段なら笑ってからかい半分の言葉を投げつけるだろうタカキも、いまは横目でそれを見るだけで、特に何か言うことはなかった。



 ふんだんに降る午後の光の下を、6つの靴と6本の脚が苔むした山中の廃線軌道を踏んでゆく。
 ところどころ羊歯が茂って行く手を阻むシーンでは、先頭を歩くサキがグラスカッターを振るって道をつけた。ハルオミが背中にシロヤナギを背負い、その横でタカキは二人分の大きなバッグを背中と肩にかけ、不安定な足取りで線路のバラストを一歩一歩、踏んでゆく。
 タカキの計算では、当初の目的地である西岸の浜まで、あと5時間程度の行程とのこと。あと3時間ほどこのペースで進むとそこから線路は下りに転じ、その後まもなく山岳部を抜け、海岸にほど近いフラットな台地上を北進するルートに入るはずだった。

「だったら行こうぜ。不可能な距離じゃない。」

 タカキの提案に、二人は最終的にうなずいた。行くにせよ戻るにせよ、熱にうかされて脚のよわったシロヤナギを誰かが背負って歩くことは避けられない。そしていずれにせよ、今日の日没までには、また新たなポイントでキャンプを張る必要があることは明白だ。であれば、行こう。うす暗い山中の線路上にとどまってこのまま時間を浪費するよりは、視界の開けた海岸エリアまで到達してそこでキャンプするほうが賢明だろうと。
 そういう総合判断だったが、さらにここから歩行距離がのびることについては、サキは正直、不安だった。
 戻った方がいいのではないか。戻ろうよ、と。
 その言葉が喉のところまで出かかった。が、最終的には言わなかった。
 自分の心の半分は、今でも海が見たかった。その素直な気持ちと、引きかえすべきだという分別とを天秤にかけたとき、それでも絶対に戻るのが賢明とまでは、サキ自身の中でも言い切ることができなかった。サキは今でも迷っていた。

 ある程度まで先に進んでハルオミが疲労すると、今度はサキが、シロヤナギを背負った。「でも、こういうのを女の子にはまかせられないよ」と、何度もハルオミが渋るのを、サキは睨んで、
「こんなときに余計な男女の区別の話を持ち出さない。言っとくけど、体力だったらあんたには負けないつもりよ?」
 と、厳しく言ってサキは譲らなかった。しかし実際、その足場の不安定な廃線軌道の上をシロヤナギを背負って前進するというのは、当初のサキの想像よりもはるかに体力を使う作業だった。サキはたちまち汗にまみれた。
 背中に重みと、燃え立つようなシロヤナギの体温を感じる。呼吸は朝よりも安定していた。なかば眠りの中にいるシロヤナギは、うわごとのように途切れ途切れにサキの耳もとで何かを言おうとしていた。何を言っているか最初は聞き取れなかったが、どうやらシロヤナギは、「すまない」という言葉を、ずっと何度も言っているらしかった。ひどく熱い息を、サキは首の左に感じた。
「ねえ、お願いだから。大丈夫。もうそれは言わないで」
 サキはシロヤナギだけに聞こえるボリュームで、こっそりその耳に言って聞かせた。
「ぜんぜん、すまなくなんてない。これはみんなの旅だから。あなたひとりが、なにか誰かに迷惑かけてるとか。そういうことは思わないで。思う必要ない。だから。」
「すま… ない…」
 またシロヤナギがそれを言い、そのあと、サキの背中で眠りに落ちた。


 両側を緑の斜面に挟まれた切り通しの区画を過ぎると、線路はいちどゆるやかに右にカーブし、そこから傾斜が下りに転じた。もうすでに夕方が近く、切り通しの上の空には、透明感あるクリアなオレンジ系統のカラーが混じりはじめた。線路の左右の切り通しの部分には鮮やかな羊歯の葉がびっしりと茂り、その上を覆う夏空とのコントラストがとても綺麗だ。シロヤナギを背負う役割を交代しながら、口数少なくスローな歩行を続ける3人の横を、さわやかな山の風が吹き抜けていく。斜面の上の林の中ではセミたちが飽きずに午後の合唱をくりかえし、山の中に降る光は、時間がたつごとに、徐々に夕暮れのゴールドを深めていった。

「なあ、キセ・タカキ、」

 タカキの背中で、浅い眠りを彷徨っていたシロヤナギ。そのシロヤナギがあるポイントでふと目を覚まし、タカキの耳のすぐそばで、熱い吐息の混じった声で訊いた。
「ん?」
 タカキが首をわずかにまわし、その唇に耳を傾ける。
「すまない。ずいぶんな距離を、運ばせてしまった。どうだ、疲れたかい?」
「ああ。少しな。おまえは意外に体重がある。脚にくるな。なにげに」
「む。そこはすまない、と言っておこう」
 シロヤナギが弱弱しく笑い、深い息を、二度、三度、肺の奥から吐き出した。
「…君と少し、話をしてもいいかな?」
「いいぜ、別に。特に許可をとるほどでもない」
 タカキはドライに言い放つ。タカキは一定のペースで、ゆっくりと、しかし確実に、草に埋もれかけたスリーパーを一本一本、靴の底で踏んだ。

「君はなぜ、ここまで来ようと思った?」

「何? 来ようと?」
「この遠征だ。動機が見えない。ずっと不審に思っていた」
「なんだそれ。不審? 言ってること、よくわからん」
「だから。これだけのリスクを冒して、街の外に出た動機だ。夏だから、と。君は言う。もちろんそれは理解する。この夏は、わたしにとっては特別だ。だが、」
 シロヤナギは目を閉じて、タカキの首にまわした両腕に、さきほどよりも力をこめた。ギュッと体が、タカキの背中に密着する。その姿勢のまま、目を閉じたまま、シロヤナギが言葉を、タカキの耳に投げ入れた。
「君にとっては、そこまで賭けるべき夏、なのだろうか。何が君を、そこまで街の外へと駆り立てる? ちょっぴりサキとデートをするとか、その程度の軽微な動機なら、わざわざリスクを冒す必要もない。街の中でも、充分それは成立することだ。君にそこまで海を見たいと思わせる、何が本当にそこにある? その本当の動機を。少しわたしは、もし可能ならば。今ここで少し、聞いておきたい。今きける、この時に」

 タカキはすぐには、答えなかった。表情すらも、変わらなかった。
 そのあとしばらく、沈黙が降りた。タカキのシューズが、スリーパーの上に散らばったバラストを強く踏む。山の林でセミが鳴く。かすかな風が、頭上の樹木の枝を揺すぶっていく。

「…そんなもん、知ってどうする?」
「好奇心、だな。あくまで。言えないことなら、言う必要はない。ただちょっと、ね。この旅の途中から、わたしはすこし気になっていた。君が西へと歩く動機。何が君をそこまで駆るのか。よくわからない。なんだか少し不明瞭だ。まあしかし、その程度のものだ。知らずにいたら悶え死ぬ、というほどには―― そこまで強いてわたしに話せとまでは、ここではあえて言わないでおこう」
「…ったく。まわりくどいな。言い方。そのあたりがやはり、シロだな。死にかけても、基本はやはり同じってわけか」
「…ふふ。たぶん死んでも、同じだろうね」
「まあ、とは言え。さっきの質問な。言ってもとくに減るものじゃねーし、答えを言ってもそれほど、世界を揺るがすほどじゃない。平凡な話だ。つまらんおれの心の整理。でもそのつまらねーおれ個人の冴えない物語を、あえておまえが聞きたいと言うのなら。おれは別に、そこまで隠すつもりもない」
「ふむ。では、聞こう。聞かせてくれ。それはいったい、どのような冴えない物語だい?」

「まあ、じゃあ、言うが。おまえも知っての通り、おれの生まれは労働市街だ。親父はそこの地区に棲みついた、ひどく貧乏な技術屋で。北の街区の生産地区で、いろんな機械モノのシステムを組むのが仕事だった。おれも6歳までそこにいた。労働街区。よく覚えている。あそこの、旧時代の靴箱みたいな、しけた団地の十六階の狭いコンパートメントで。あそこの狭い、装飾を欠いた冴えない小部屋だけが、おれの世界のすべてだった。もちろん、当時の話だがな。ガキの頃の、思い出の中で」
「ガキだったおれは、そこでいつも想像してた。ここの外には、何があるんだ、と。子供心に思っていたよ。この、なんだか何もなさすぎる、この煤けた暗い街の外には、どんな世界があるのだろう。窓の外を見ても、そこにあるのは壁だけだ。向こうの棟の、日焼けした安い茶色のモルタルの壁。それしか見えない。そこが世界の果てだった。そこで世界は終わってた。あの、5歳の―― あるいはそれよりちびの、ガキだったおれの、その世界。そこの世界の、すべての端で――」
「だから親父が、労働民には破格の昇進で上層民区に呼ばれたときには、おれは本気で喜んだ。世界の果ての、その向こうに。おれは今から行くんだと。ガキだったおれは、大はしゃぎで車にのった。あの、当時の親父が乗ってたボロい灰色のセダン。あの車がおれを―― どこか輝く新世界へと。おれをそこまで届けてくれるんだ。おれをそこまで。」
「そして待ちに待った、新世界。着いた先の、世界の果てのその向こう―― 夢にまで見た上層民区は――」
「なんだこれは、って。おもったぜ、正直おれは。おれは世界の境界を越えて―― 世界の果ての、その向こうまで来たはずなのに。なのに――」
「そこにあるのは住宅だ。それほど小さくもないが大きくもない。部屋数だけは増えた。窓の外には街路樹も見える。昼間のテラスの日当たりもいい。だが。それだけだ。それ以外に―― おれには何も、違いが見えない。ただの街だ、そこは。世界の果てのワンダーランドに、おれは着いたはずなのに――」
「分離壁。そいつがおれらを閉じ込めている。しょせんはそこが、世界の終わりだ。何も違いはない。ちょっぴり家が、でかくなり。少しは公園が、でかくなり。飯がちょっぴり、良くなって。まわりで暮らすやつらの言葉が、ちょっぴり前より上品に、なったりはした。でも、それだけだ。それだけ――」
「今だから正直に言うが、おまえの家もな。あの屋敷」

「わたしの――家?」
 シロヤナギが、かすかに右目を見開いた。
「ああ。あれはおれを絶望させたよ。絶望。初めて行くときは期待した。なにしろ、市街でいちばんの金持ちだ。どんな綺麗な、どんな違った世界がその塀の向こうにあるのかと。六つのガキみたいに、おれは無邪気にドキドキしてた。けど、」

「けど…? 何だい? その続きは?」

「けど、なんだあれは。プール? 庭園? テニスコートに、ちょっぴりでかい、ハイセキュリティの別棟だと? すべてが想像の範疇だ。すべてが想像の範囲。驚く要素は何もない。これが世界の、いちばんの―― トップに立つやつらの、そいつらの世界か。この程度なのか。ほんとにそうなのか。ちょっとでかい、ただの家じゃないか。ただの家だろう、こんなもの。こんな普通の何かを勝ち取るために、おれは、おれたちは――」
「受験や、テストや、そのあと待ってる仕事の上でのいろんな努力の。その向こうで待ってる最高の栄冠ってのが、しょせんはこの程度かよ。ってな。おれは正直、絶望したよ。世界の天井を見た気がしたな。おっそろしく低くてショボい天井を。なんだよ、ここがてっぺんなのか。ここより上には、登れないのか、と」

「…それはなかなか、辛辣だ。わたしが暮らすあの家を、君はそういうふうに、評価していたのかい。ふふふ、それは確かに新鮮な意見だ。いろいろ羨ましがられることには慣れているが―― そこまでこき下ろされたのは初めてだ。いや、愉快だな、君は」

「まあ、おまえの個人の家を、とくに悪く言いたいわけじゃない。気に障ったら謝るよ。だが、おれが言いたいのは――」
「世界は、ほんとにこれだけなのか。もっと何か、だけど、ないのか。そこには。」
「意図せずおれの生まれ落ちた、おれがこれから生きなきゃならない、おれたちが暮らすこの世界ってやつは。その世界は、たったこれだけで終わるほど、そんなに小さい場所なのか。そんなちんけな場所なのか。そうなのか。そうなのか? 違うだろう。いや、違うと誰か言ってくれ。違っていてくれ。違ってなきゃ嘘だ。そうじゃない、と。もっと遠くに何かがあるんだと。それをおれは、誰かにはっきり、言葉で言って欲しかった。誰かに教えて欲しかった。世界はもっと、もっと先まで、どこまでも先へと続いている場所なんだと――」

「なるほど。それで理解した」
 シロヤナギが、ふたたび目を閉じて囁いた。
「そういう物語、だったのだな。世界の、広さを―― 知りたかった、か。だが、誰もそれを言ってくれない以上、自分でそれを知るしかない。確かめるしかない。だから自分で見てくると。そういうシンプルな――」
「ま、だから。そういう物語だ。終わり。どうだ。案外つまらなかったろ?」
「いや。そんなことはない。シンプルだが―― それはとても、苛烈な動機、なのかもしれないな。場合によっては―― とても純粋な―― わたしには、君を駆り立てた動機の底が、そこにある熱が、充分理解できたと思う」
「…そうか。まあ、まったくわからねぇ、よりは。だれかにちょっとでも、理解されるほうが、心はなごむ、な」
「キセ・タカキ、」
「ん?」

「キセ・タカキ。わたしは君が好きだと言ったら、君はあるいは混乱するかな?」

「…混乱、っつーか。意味がわからん。おまえの彼氏はハルオミだろ」
「いや。彼氏とか、そういうことでは、ないんだな。男女の性別は今は、忘れてもらおう。ひとりの人間として、だ。わたしは君を、好きになったぞ。今ここで。この場所で」
「…まあ、じゃ、あれだな。人間として、軽蔑されたり嫌いになられるよりは、ちょっとは気分は悪くないと。そう言って返しておこうか?」
「ふふ。君もいろいろ、素直じゃないな」
「おまえもいろいろ、挑発しすぎだ」
「挑発、ではない。素直な感慨だ」
「もういい。たわごとは終わりだ。病人は病人らしく、もう黙って寝てろ。しゃべりすぎだ、さっきから」
「わかった。では黙ろう。だが。」
 シロヤナギが微笑する。両目を閉じて。そのまま眠りに落ちるように。
「今言ったことは、本当だ。わたしは君が、大好きだ。否。君だけじゃない。わたしは、君たちが、とてもとても、大好きだ」
「…ったく。もういい。ふだんは誰も言わない言葉。さんざんいろいろ、言われすぎて、おれはちょっぴり疲れたぜ。あんまりおれの心を揺さぶるな。心臓に悪い」
「はは。すまない。もう黙るよ。わが親愛なる、キセ、タカキ――」
「ああ。もう寝てろ、シロヤナギ。起きたらそこで――」
 タカキがかすかに振りかえる。首だけを、わずかに右に動かして。
「なんだ。ほんとに寝たのか。極端なやつだな。ったく、」

 シロヤナギはもう、言葉をタカキに返さない。
 シロヤナギは眠りに落ちた。安らかな寝息が、そこにかすかにあるだけだ。
 タカキも言葉を話すのをやめた。脚だけをすすめる。前に。前に。確実に。
 西日が世界を浸している。透明なゴールドが、目に刺さるほどの輝度で視界のすべてを埋め尽くす。そして今もまだ途切れずに四人を導く旧時代の鉄道軌道。その二本のレールが、視界の先まで、混じりけのないゴールドに輝いている。


「おい。抜けたんじゃないのか、これ?」

 先頭で線路上の草を払っていたタカキが足を止めて振り向いた。
 そこからは左右の切り通しの斜面が急速に高さを減らし、ひたすらにまっすぐな線路がゆるやかに下り続けている。そして下りきった位置から先には、オリーブ色のカーペットのような、ひたすらにフラットな新たな地形が視界の大部分を埋めていた。その緑の大地に降る光線の中には、もうすでに1日の終わりを示唆する深いオレンジのカラーが浸透し、じりじりとその領域をさらに拡大しつつあった。
「ねえ。見えてる、シロ? 抜けたよ。山はここで終わりだ。たぶんもうすぐ、見えるはずだよ。もうたぶん、あの向こうは海だ。ねえ、シロ?」
 ハルオミがシロヤナギの耳元でささやく。ハルオミの首にしっかりと手をまわして、背中で眠るシロヤナギがかすかに左の目をひらき、「ありがとう、」と、どうやら言ったようだ。

 長い長い直線を最後の力をふりしぼって下りきり、4人は開けた台地の南端に達した。
 もうここからは山の影はなく、線路はさらに北へと直線的に緑の原野の中を延びている。線路の左に目を向けると、そこからはゆるやかな土手のような下りの斜面がずっと下まで延びていき、やがてその斜面が尽きるところに、松科の針葉樹がつくる木々の列があった。幹の細い、濃い緑の木々が、左から右へと帯のように視界の最後をさえぎっている。
 まだ見ることはできない。視界にそれは入ってこない。
 しかし。
 サキにもタカキにも、そしてシロヤナギを背負ったハルオミにも、そのことは痛いぐらいにわかっていた。

 あの向こうに、ある。
 あの向こうに、あるんだ。あの向こうに!

 海鳴りを、聞いた気がした。
 そしてそれはきっと4人の疲れた耳のつくる幻想ではなく。それはたぶん、無垢な砂の上によせる本物の波音、そのものだったのではないか。4人の鼓動が高鳴った。4人の鼓動が、さらにさらに高まっていく。

「…おろして、オミくん。ここからは自分の足で歩きたい。最後くらい、自分のこの足で歩かせてくれ。」

 シロヤナギが言って、ゆっくりとハルオミの背中をすべりおり、西日の色に染まった線路際のバラストを踏んだ。
「大丈夫か。歩けそうか?」
 タカキが言った。シロヤナギは疲労した二つの瞳にいつもの皮肉の色を溜めながら、
「ばかめ。わたしを誰だと思っている?」
 と言ってにやりと唇の端で笑った。


 落ちてゆく夕陽が真正面から4人の顔を照らす中、
 左の肩をハルオミ、右の肩をタカキに支えられ、シロヤナギの足が、一歩一歩、ゆるい斜面の夏草を踏んだ。草丈が高く歩行が困難な部分では、先頭をゆくサキが、グラスカッターを大きくふるって行く手を阻む草を薙ぎ払った。
 ザッ。ザッ。
 刃が刻むその音が、払われた草の葉が、夏草の斜面に大きく広がってゆく。
 終わりゆく太陽が圧倒的な深さと確かさでもって世界のすべてを鮮やかな赤の中にひたしていた。

 一歩ゆくごとに、潮の匂いが近づいてきた。一歩ゆくごとに、繰り返す波の響きが耳を大きく打った。誰も何も話さなかった。言葉はここでは、必要ではなかった。ただ、歩くのだ。歩くのだ。一歩一歩一歩一歩、そしてまた一歩と。
 世界はいま、4人の十六歳のものだ。世界のすべてが、いま、歩く4人だけのために存在している。だから歩け。歩け。歩こう。歩けるだろう。歩けるだろう? そうだ、歩けるとも。歩けないはずがない。だから歩け。歩け。命を懸けて歩いてゆけ。


 そして松林を抜けると、海が4人を待っていた。
 初めて見る海は、4人のそれまでのいかなる想像をも超えて、どこまでも広く、そしてどこまでも青かった。そこに待っていた海は、かつて4人が見てきたあらゆる夢や希望を超えて、どこまでも巨大で、どこまでも深く、そして何よりも純粋に青かった。
 海風が4人の髪を左右に上下に踊らせる。波音が高く大きく響きわたり、夕陽はもう、その青の果てに沈もうとしていた。海は、青と黄金の二色に輝いて、その色は4人の全身をそれと同じカラーと深さに染め抜いた。

「美しいな。美しい。これが本当の、海、なのだな。これが本物の、海、なのだな。」
 シロヤナギが言った。
 疲れた左の瞳から、ひとすじの涙が、まっすぐ頬を伝って静かに流れ落ちた。

 4人は肩と肩とをしっかりと横に組み、それぞれの体温と息遣いと汗のにおい、そしてそれぞれの心音をすべてひとつに感じながら。
 落ちてゆく夕陽を、いつまでもそこで目に焼き付けていた。
 潮騒。潮風。そして光が、若い彼らを祝福している。世界が彼らを抱きしめている。遠い遠い道のりの果てに、ついにこの場所の砂をその足で踏みしめた、4つの無垢なる魂の鼓動を。

もちろん、あらゆる物語には後日談というものがある。

 もうすでに終わった夏の時間のあとには、いっさいの説明は不要だと言う者もあるだろう。いや、必要だと言う者もあるだろう。ここではひとまず、必要と言う者のその必要を満たすため、最低限の事実の記述を羅列するにとどめておこう。必要でないと言う者は、読まずにここで終わりとしても良いだろう。いずれにしても、起こったことはもう起こったのだし、シロヤナギと3人の友人たちにとって、その夏の時間はたしかに存在した。それだけが重要で、それ以外のことはあまり問題ではない。それでは後日談。

 出発時に踏み越えた西岸の浜までの道のりを、4人はまた2日の時間をかけて正確に逆ルートをたどり、翌週月曜日の未明までには市街の付近に帰着する。体調を崩したシロヤナギはもうあまり自力で歩くことはなく、ほぼすべての行程を3人に支えられ、大部分は背負われて移動した。そのため、市街への帰着までには非常に過酷な移動の時間を要したのだが。その詳細はここでは書かない。必要があれば、それはまた別の機会に語られる。
 結果だけを言えば、4人は当初の帰着プランのタイムリミットをかろうじて超えない範囲で市街付属の廃棄物処分サイトにたどりつき、大きな問題を起こさずに、市街内部に人知れず回帰することに成功した、と。その結果だけをここには書いておく。

 次に、

 その旅の直後から顕著に体調を悪化させたシロヤナギは入院がちな秋の新学期を迎えることとなり、その秋のほとんどの時間を学院ではなく、北部地区の特殊病院内で過ごすこととなった。
 シロヤナギの容態悪化と死亡を知らせるチャットメッセージがタカキのもとに届いたのが12月3日の朝で、タカキはその足で学院の別校舎で授業を受けていたサキのもとにかけつけ、その時点でサキも、シロヤナギの早すぎる死を知ることとなる。

 シロヤナギの葬儀はその3日後、シロヤナギ邸の特設会場で千人以上を集めて盛大に行われた。タカキとハルオミの2人はプラチナグレーの制服ブレザー、サキも冬制服のオーバーコートを着込んでその葬列に参加し、棺の中に献花した。色とりどりの花々に包まれたシロヤナギの死に顔は透き通るほどに美しく、その唇は、いつものように皮肉な微笑を小さくたたえていた。
 黒塗りの葬儀車が後部にシロヤナギの棺をのせて会場を出て行くのを、サキとタカキはただそこに立って見守った。見上げる冬空は目に痛いほど青く、サキはその青を見ながら、そこで長い時間、声をたてずに涙だけを流していた。
 シロヤナギの公認の彼氏であるハルオミだけは親族の待遇を受け、その去っていく黒塗りの車の葬列に加わって市街北端にある埋葬地まで同行したのだが、これもまた別の物語として、ここでは省略しよう。

 そしてまた、

 時刻や季節は不明だが、市街のはるか西に横たわるタマナ丘陵のさらに北西側、いつか4人が踏んだあの西岸の浜に、一枚の写真が流れつく。誰かが近隣の浜に捨てたのか、あるいは海流にのって遠い別の場所から運ばれてきたのかはわからない。
 波打ち際の砂の上に打ち上げられたそのフォトカードは、市街で広く生徒たちに使われている、ありふれた廉価版のプラスチックフィルムに簡易プリントで出力したものだ。そこには長い艶のある髪を誇らしげに風に流したシロヤナギ・ルカが大きく写っている。胸より上の位置のみにフォーカスされているので、それを映した場所や時期は特定できない。あふれる光の印象からすると、あるいは真夏の野外かもしれない。
 ときおり波に洗われるそのフォトフレームの中で、シロヤナギ・ルカは、満面の笑みでこちらを見ている。誰に向けられた笑顔かはわからない。ただひとつわかるのは、そこにはいっさいの憂いの影はなく、彼女が抱いたあらゆる夢と明るい希望が、少女の大きな笑顔の上にそのまま輝いているということだ。
 シロヤナギは笑っている。そこでは波が鳴っている。波はそして、いつまでも、少女の笑顔に重なる永遠の和音として、いつまでもそこで、消えることなく鳴り続けている。

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