「おい。抜けたんじゃないのか、これ?」

 先頭で線路上の草を払っていたタカキが足を止めて振り向いた。
 そこからは左右の切り通しの斜面が急速に高さを減らし、ひたすらにまっすぐな線路がゆるやかに下り続けている。そして下りきった位置から先には、オリーブ色のカーペットのような、ひたすらにフラットな新たな地形が視界の大部分を埋めていた。その緑の大地に降る光線の中には、もうすでに1日の終わりを示唆する深いオレンジのカラーが浸透し、じりじりとその領域をさらに拡大しつつあった。
「ねえ。見えてる、シロ? 抜けたよ。山はここで終わりだ。たぶんもうすぐ、見えるはずだよ。もうたぶん、あの向こうは海だ。ねえ、シロ?」
 ハルオミがシロヤナギの耳元でささやく。ハルオミの首にしっかりと手をまわして、背中で眠るシロヤナギがかすかに左の目をひらき、「ありがとう、」と、どうやら言ったようだ。

 長い長い直線を最後の力をふりしぼって下りきり、4人は開けた台地の南端に達した。
 もうここからは山の影はなく、線路はさらに北へと直線的に緑の原野の中を延びている。線路の左に目を向けると、そこからはゆるやかな土手のような下りの斜面がずっと下まで延びていき、やがてその斜面が尽きるところに、松科の針葉樹がつくる木々の列があった。幹の細い、濃い緑の木々が、左から右へと帯のように視界の最後をさえぎっている。
 まだ見ることはできない。視界にそれは入ってこない。
 しかし。
 サキにもタカキにも、そしてシロヤナギを背負ったハルオミにも、そのことは痛いぐらいにわかっていた。

 あの向こうに、ある。
 あの向こうに、あるんだ。あの向こうに!

 海鳴りを、聞いた気がした。
 そしてそれはきっと4人の疲れた耳のつくる幻想ではなく。それはたぶん、無垢な砂の上によせる本物の波音、そのものだったのではないか。4人の鼓動が高鳴った。4人の鼓動が、さらにさらに高まっていく。

「…おろして、オミくん。ここからは自分の足で歩きたい。最後くらい、自分のこの足で歩かせてくれ。」

 シロヤナギが言って、ゆっくりとハルオミの背中をすべりおり、西日の色に染まった線路際のバラストを踏んだ。
「大丈夫か。歩けそうか?」
 タカキが言った。シロヤナギは疲労した二つの瞳にいつもの皮肉の色を溜めながら、
「ばかめ。わたしを誰だと思っている?」
 と言ってにやりと唇の端で笑った。


 落ちてゆく夕陽が真正面から4人の顔を照らす中、
 左の肩をハルオミ、右の肩をタカキに支えられ、シロヤナギの足が、一歩一歩、ゆるい斜面の夏草を踏んだ。草丈が高く歩行が困難な部分では、先頭をゆくサキが、グラスカッターを大きくふるって行く手を阻む草を薙ぎ払った。
 ザッ。ザッ。
 刃が刻むその音が、払われた草の葉が、夏草の斜面に大きく広がってゆく。
 終わりゆく太陽が圧倒的な深さと確かさでもって世界のすべてを鮮やかな赤の中にひたしていた。

 一歩ゆくごとに、潮の匂いが近づいてきた。一歩ゆくごとに、繰り返す波の響きが耳を大きく打った。誰も何も話さなかった。言葉はここでは、必要ではなかった。ただ、歩くのだ。歩くのだ。一歩一歩一歩一歩、そしてまた一歩と。
 世界はいま、4人の十六歳のものだ。世界のすべてが、いま、歩く4人だけのために存在している。だから歩け。歩け。歩こう。歩けるだろう。歩けるだろう? そうだ、歩けるとも。歩けないはずがない。だから歩け。歩け。命を懸けて歩いてゆけ。


 そして松林を抜けると、海が4人を待っていた。
 初めて見る海は、4人のそれまでのいかなる想像をも超えて、どこまでも広く、そしてどこまでも青かった。そこに待っていた海は、かつて4人が見てきたあらゆる夢や希望を超えて、どこまでも巨大で、どこまでも深く、そして何よりも純粋に青かった。
 海風が4人の髪を左右に上下に踊らせる。波音が高く大きく響きわたり、夕陽はもう、その青の果てに沈もうとしていた。海は、青と黄金の二色に輝いて、その色は4人の全身をそれと同じカラーと深さに染め抜いた。

「美しいな。美しい。これが本当の、海、なのだな。これが本物の、海、なのだな。」
 シロヤナギが言った。
 疲れた左の瞳から、ひとすじの涙が、まっすぐ頬を伝って静かに流れ落ちた。

 4人は肩と肩とをしっかりと横に組み、それぞれの体温と息遣いと汗のにおい、そしてそれぞれの心音をすべてひとつに感じながら。
 落ちてゆく夕陽を、いつまでもそこで目に焼き付けていた。
 潮騒。潮風。そして光が、若い彼らを祝福している。世界が彼らを抱きしめている。遠い遠い道のりの果てに、ついにこの場所の砂をその足で踏みしめた、4つの無垢なる魂の鼓動を。