ふんだんに降る午後の光の下を、6つの靴と6本の脚が苔むした山中の廃線軌道を踏んでゆく。
 ところどころ羊歯が茂って行く手を阻むシーンでは、先頭を歩くサキがグラスカッターを振るって道をつけた。ハルオミが背中にシロヤナギを背負い、その横でタカキは二人分の大きなバッグを背中と肩にかけ、不安定な足取りで線路のバラストを一歩一歩、踏んでゆく。
 タカキの計算では、当初の目的地である西岸の浜まで、あと5時間程度の行程とのこと。あと3時間ほどこのペースで進むとそこから線路は下りに転じ、その後まもなく山岳部を抜け、海岸にほど近いフラットな台地上を北進するルートに入るはずだった。

「だったら行こうぜ。不可能な距離じゃない。」

 タカキの提案に、二人は最終的にうなずいた。行くにせよ戻るにせよ、熱にうかされて脚のよわったシロヤナギを誰かが背負って歩くことは避けられない。そしていずれにせよ、今日の日没までには、また新たなポイントでキャンプを張る必要があることは明白だ。であれば、行こう。うす暗い山中の線路上にとどまってこのまま時間を浪費するよりは、視界の開けた海岸エリアまで到達してそこでキャンプするほうが賢明だろうと。
 そういう総合判断だったが、さらにここから歩行距離がのびることについては、サキは正直、不安だった。
 戻った方がいいのではないか。戻ろうよ、と。
 その言葉が喉のところまで出かかった。が、最終的には言わなかった。
 自分の心の半分は、今でも海が見たかった。その素直な気持ちと、引きかえすべきだという分別とを天秤にかけたとき、それでも絶対に戻るのが賢明とまでは、サキ自身の中でも言い切ることができなかった。サキは今でも迷っていた。

 ある程度まで先に進んでハルオミが疲労すると、今度はサキが、シロヤナギを背負った。「でも、こういうのを女の子にはまかせられないよ」と、何度もハルオミが渋るのを、サキは睨んで、
「こんなときに余計な男女の区別の話を持ち出さない。言っとくけど、体力だったらあんたには負けないつもりよ?」
 と、厳しく言ってサキは譲らなかった。しかし実際、その足場の不安定な廃線軌道の上をシロヤナギを背負って前進するというのは、当初のサキの想像よりもはるかに体力を使う作業だった。サキはたちまち汗にまみれた。
 背中に重みと、燃え立つようなシロヤナギの体温を感じる。呼吸は朝よりも安定していた。なかば眠りの中にいるシロヤナギは、うわごとのように途切れ途切れにサキの耳もとで何かを言おうとしていた。何を言っているか最初は聞き取れなかったが、どうやらシロヤナギは、「すまない」という言葉を、ずっと何度も言っているらしかった。ひどく熱い息を、サキは首の左に感じた。
「ねえ、お願いだから。大丈夫。もうそれは言わないで」
 サキはシロヤナギだけに聞こえるボリュームで、こっそりその耳に言って聞かせた。
「ぜんぜん、すまなくなんてない。これはみんなの旅だから。あなたひとりが、なにか誰かに迷惑かけてるとか。そういうことは思わないで。思う必要ない。だから。」
「すま… ない…」
 またシロヤナギがそれを言い、そのあと、サキの背中で眠りに落ちた。


 両側を緑の斜面に挟まれた切り通しの区画を過ぎると、線路はいちどゆるやかに右にカーブし、そこから傾斜が下りに転じた。もうすでに夕方が近く、切り通しの上の空には、透明感あるクリアなオレンジ系統のカラーが混じりはじめた。線路の左右の切り通しの部分には鮮やかな羊歯の葉がびっしりと茂り、その上を覆う夏空とのコントラストがとても綺麗だ。シロヤナギを背負う役割を交代しながら、口数少なくスローな歩行を続ける3人の横を、さわやかな山の風が吹き抜けていく。斜面の上の林の中ではセミたちが飽きずに午後の合唱をくりかえし、山の中に降る光は、時間がたつごとに、徐々に夕暮れのゴールドを深めていった。

「なあ、キセ・タカキ、」

 タカキの背中で、浅い眠りを彷徨っていたシロヤナギ。そのシロヤナギがあるポイントでふと目を覚まし、タカキの耳のすぐそばで、熱い吐息の混じった声で訊いた。
「ん?」
 タカキが首をわずかにまわし、その唇に耳を傾ける。
「すまない。ずいぶんな距離を、運ばせてしまった。どうだ、疲れたかい?」
「ああ。少しな。おまえは意外に体重がある。脚にくるな。なにげに」
「む。そこはすまない、と言っておこう」
 シロヤナギが弱弱しく笑い、深い息を、二度、三度、肺の奥から吐き出した。
「…君と少し、話をしてもいいかな?」
「いいぜ、別に。特に許可をとるほどでもない」
 タカキはドライに言い放つ。タカキは一定のペースで、ゆっくりと、しかし確実に、草に埋もれかけたスリーパーを一本一本、靴の底で踏んだ。

「君はなぜ、ここまで来ようと思った?」

「何? 来ようと?」
「この遠征だ。動機が見えない。ずっと不審に思っていた」
「なんだそれ。不審? 言ってること、よくわからん」
「だから。これだけのリスクを冒して、街の外に出た動機だ。夏だから、と。君は言う。もちろんそれは理解する。この夏は、わたしにとっては特別だ。だが、」
 シロヤナギは目を閉じて、タカキの首にまわした両腕に、さきほどよりも力をこめた。ギュッと体が、タカキの背中に密着する。その姿勢のまま、目を閉じたまま、シロヤナギが言葉を、タカキの耳に投げ入れた。
「君にとっては、そこまで賭けるべき夏、なのだろうか。何が君を、そこまで街の外へと駆り立てる? ちょっぴりサキとデートをするとか、その程度の軽微な動機なら、わざわざリスクを冒す必要もない。街の中でも、充分それは成立することだ。君にそこまで海を見たいと思わせる、何が本当にそこにある? その本当の動機を。少しわたしは、もし可能ならば。今ここで少し、聞いておきたい。今きける、この時に」

 タカキはすぐには、答えなかった。表情すらも、変わらなかった。
 そのあとしばらく、沈黙が降りた。タカキのシューズが、スリーパーの上に散らばったバラストを強く踏む。山の林でセミが鳴く。かすかな風が、頭上の樹木の枝を揺すぶっていく。

「…そんなもん、知ってどうする?」
「好奇心、だな。あくまで。言えないことなら、言う必要はない。ただちょっと、ね。この旅の途中から、わたしはすこし気になっていた。君が西へと歩く動機。何が君をそこまで駆るのか。よくわからない。なんだか少し不明瞭だ。まあしかし、その程度のものだ。知らずにいたら悶え死ぬ、というほどには―― そこまで強いてわたしに話せとまでは、ここではあえて言わないでおこう」
「…ったく。まわりくどいな。言い方。そのあたりがやはり、シロだな。死にかけても、基本はやはり同じってわけか」
「…ふふ。たぶん死んでも、同じだろうね」
「まあ、とは言え。さっきの質問な。言ってもとくに減るものじゃねーし、答えを言ってもそれほど、世界を揺るがすほどじゃない。平凡な話だ。つまらんおれの心の整理。でもそのつまらねーおれ個人の冴えない物語を、あえておまえが聞きたいと言うのなら。おれは別に、そこまで隠すつもりもない」
「ふむ。では、聞こう。聞かせてくれ。それはいったい、どのような冴えない物語だい?」

「まあ、じゃあ、言うが。おまえも知っての通り、おれの生まれは労働市街だ。親父はそこの地区に棲みついた、ひどく貧乏な技術屋で。北の街区の生産地区で、いろんな機械モノのシステムを組むのが仕事だった。おれも6歳までそこにいた。労働街区。よく覚えている。あそこの、旧時代の靴箱みたいな、しけた団地の十六階の狭いコンパートメントで。あそこの狭い、装飾を欠いた冴えない小部屋だけが、おれの世界のすべてだった。もちろん、当時の話だがな。ガキの頃の、思い出の中で」
「ガキだったおれは、そこでいつも想像してた。ここの外には、何があるんだ、と。子供心に思っていたよ。この、なんだか何もなさすぎる、この煤けた暗い街の外には、どんな世界があるのだろう。窓の外を見ても、そこにあるのは壁だけだ。向こうの棟の、日焼けした安い茶色のモルタルの壁。それしか見えない。そこが世界の果てだった。そこで世界は終わってた。あの、5歳の―― あるいはそれよりちびの、ガキだったおれの、その世界。そこの世界の、すべての端で――」
「だから親父が、労働民には破格の昇進で上層民区に呼ばれたときには、おれは本気で喜んだ。世界の果ての、その向こうに。おれは今から行くんだと。ガキだったおれは、大はしゃぎで車にのった。あの、当時の親父が乗ってたボロい灰色のセダン。あの車がおれを―― どこか輝く新世界へと。おれをそこまで届けてくれるんだ。おれをそこまで。」
「そして待ちに待った、新世界。着いた先の、世界の果てのその向こう―― 夢にまで見た上層民区は――」
「なんだこれは、って。おもったぜ、正直おれは。おれは世界の境界を越えて―― 世界の果ての、その向こうまで来たはずなのに。なのに――」
「そこにあるのは住宅だ。それほど小さくもないが大きくもない。部屋数だけは増えた。窓の外には街路樹も見える。昼間のテラスの日当たりもいい。だが。それだけだ。それ以外に―― おれには何も、違いが見えない。ただの街だ、そこは。世界の果てのワンダーランドに、おれは着いたはずなのに――」
「分離壁。そいつがおれらを閉じ込めている。しょせんはそこが、世界の終わりだ。何も違いはない。ちょっぴり家が、でかくなり。少しは公園が、でかくなり。飯がちょっぴり、良くなって。まわりで暮らすやつらの言葉が、ちょっぴり前より上品に、なったりはした。でも、それだけだ。それだけ――」
「今だから正直に言うが、おまえの家もな。あの屋敷」

「わたしの――家?」
 シロヤナギが、かすかに右目を見開いた。
「ああ。あれはおれを絶望させたよ。絶望。初めて行くときは期待した。なにしろ、市街でいちばんの金持ちだ。どんな綺麗な、どんな違った世界がその塀の向こうにあるのかと。六つのガキみたいに、おれは無邪気にドキドキしてた。けど、」

「けど…? 何だい? その続きは?」

「けど、なんだあれは。プール? 庭園? テニスコートに、ちょっぴりでかい、ハイセキュリティの別棟だと? すべてが想像の範疇だ。すべてが想像の範囲。驚く要素は何もない。これが世界の、いちばんの―― トップに立つやつらの、そいつらの世界か。この程度なのか。ほんとにそうなのか。ちょっとでかい、ただの家じゃないか。ただの家だろう、こんなもの。こんな普通の何かを勝ち取るために、おれは、おれたちは――」
「受験や、テストや、そのあと待ってる仕事の上でのいろんな努力の。その向こうで待ってる最高の栄冠ってのが、しょせんはこの程度かよ。ってな。おれは正直、絶望したよ。世界の天井を見た気がしたな。おっそろしく低くてショボい天井を。なんだよ、ここがてっぺんなのか。ここより上には、登れないのか、と」

「…それはなかなか、辛辣だ。わたしが暮らすあの家を、君はそういうふうに、評価していたのかい。ふふふ、それは確かに新鮮な意見だ。いろいろ羨ましがられることには慣れているが―― そこまでこき下ろされたのは初めてだ。いや、愉快だな、君は」

「まあ、おまえの個人の家を、とくに悪く言いたいわけじゃない。気に障ったら謝るよ。だが、おれが言いたいのは――」
「世界は、ほんとにこれだけなのか。もっと何か、だけど、ないのか。そこには。」
「意図せずおれの生まれ落ちた、おれがこれから生きなきゃならない、おれたちが暮らすこの世界ってやつは。その世界は、たったこれだけで終わるほど、そんなに小さい場所なのか。そんなちんけな場所なのか。そうなのか。そうなのか? 違うだろう。いや、違うと誰か言ってくれ。違っていてくれ。違ってなきゃ嘘だ。そうじゃない、と。もっと遠くに何かがあるんだと。それをおれは、誰かにはっきり、言葉で言って欲しかった。誰かに教えて欲しかった。世界はもっと、もっと先まで、どこまでも先へと続いている場所なんだと――」

「なるほど。それで理解した」
 シロヤナギが、ふたたび目を閉じて囁いた。
「そういう物語、だったのだな。世界の、広さを―― 知りたかった、か。だが、誰もそれを言ってくれない以上、自分でそれを知るしかない。確かめるしかない。だから自分で見てくると。そういうシンプルな――」
「ま、だから。そういう物語だ。終わり。どうだ。案外つまらなかったろ?」
「いや。そんなことはない。シンプルだが―― それはとても、苛烈な動機、なのかもしれないな。場合によっては―― とても純粋な―― わたしには、君を駆り立てた動機の底が、そこにある熱が、充分理解できたと思う」
「…そうか。まあ、まったくわからねぇ、よりは。だれかにちょっとでも、理解されるほうが、心はなごむ、な」
「キセ・タカキ、」
「ん?」

「キセ・タカキ。わたしは君が好きだと言ったら、君はあるいは混乱するかな?」

「…混乱、っつーか。意味がわからん。おまえの彼氏はハルオミだろ」
「いや。彼氏とか、そういうことでは、ないんだな。男女の性別は今は、忘れてもらおう。ひとりの人間として、だ。わたしは君を、好きになったぞ。今ここで。この場所で」
「…まあ、じゃ、あれだな。人間として、軽蔑されたり嫌いになられるよりは、ちょっとは気分は悪くないと。そう言って返しておこうか?」
「ふふ。君もいろいろ、素直じゃないな」
「おまえもいろいろ、挑発しすぎだ」
「挑発、ではない。素直な感慨だ」
「もういい。たわごとは終わりだ。病人は病人らしく、もう黙って寝てろ。しゃべりすぎだ、さっきから」
「わかった。では黙ろう。だが。」
 シロヤナギが微笑する。両目を閉じて。そのまま眠りに落ちるように。
「今言ったことは、本当だ。わたしは君が、大好きだ。否。君だけじゃない。わたしは、君たちが、とてもとても、大好きだ」
「…ったく。もういい。ふだんは誰も言わない言葉。さんざんいろいろ、言われすぎて、おれはちょっぴり疲れたぜ。あんまりおれの心を揺さぶるな。心臓に悪い」
「はは。すまない。もう黙るよ。わが親愛なる、キセ、タカキ――」
「ああ。もう寝てろ、シロヤナギ。起きたらそこで――」
 タカキがかすかに振りかえる。首だけを、わずかに右に動かして。
「なんだ。ほんとに寝たのか。極端なやつだな。ったく、」

 シロヤナギはもう、言葉をタカキに返さない。
 シロヤナギは眠りに落ちた。安らかな寝息が、そこにかすかにあるだけだ。
 タカキも言葉を話すのをやめた。脚だけをすすめる。前に。前に。確実に。
 西日が世界を浸している。透明なゴールドが、目に刺さるほどの輝度で視界のすべてを埋め尽くす。そして今もまだ途切れずに四人を導く旧時代の鉄道軌道。その二本のレールが、視界の先まで、混じりけのないゴールドに輝いている。