「まいったな。これは想定してなかったぞ。」
 タカキが険しい表情で前方に視線を走らせた。
 4人が足を止めた地点は、「病民区」と呼ばれる、旧時代の市街地廃墟の入り口の地点だ。壁や天井の崩落したコンクリートの建築物がたてこんだこの地区は、南北およそ5キロ、東西3キロあまりにわたって広がるエリアで、そのほぼ中央を、4人がここまで歩いてきた鉄道軌道がそのまま途切れずに南東から北西方向へ貫いている。当初の計画では、4人はこの軌道上をできる限りはやく寄り道せずにすばやく突破する、はずだった。ところがここに来て予期せぬ問題が待っていた。

 それは水だ。ここから視界に入る廃墟市街のほぼ全体が、理由はわからないが、冠水している。見える範囲に限って言えば水深はそれほどでもなく、せいぜい10センチ程度。
 水の透明度は非常に高く、水面は鏡のように静まりかえり、水流や水の動きなどは基本的にはない。歩いて突破することは、見える範囲に限ってはそれほど困難なミッションではないのかもしれない。4人がいま立っている廃線軌道は、ここから先、少し進んだポイントから水の下にもぐり、その先の冠水市街地へと4人を導こうとしている、のだが――

「正直、不安があるな。リスクがある。どこで急に水深が増すかもわからんし。見た感じは綺麗だが、この水にどんな有害物質が溶け込んでるとか、おれたちには知りようがない―― って、こら! シロ! おまえ! そこ、なにやってる!」
 タカキが怒鳴った。シロヤナギは水際の地面にしゃがみこみ、そこにある水を確かめるように左手を水の中にひたしていた。
「見たところ、安全な水のようだ。匂いもなし。」
 シロヤナギが真剣な表情で、自分の手の甲に鼻を近づけて水の匂いをかぎながら言った。
「大丈夫だ。おそらく水質に関しては問題ないだろう。」
「こら、大丈夫とか、なに勝手な―― お、おい! 待て、シロヤナギ!」
 タカキの制止に耳をかさず、一歩、二歩、三歩、シロヤナギが水の中にふみこんでいく。静まり返った浅い水の表面に、かすかな波紋が広がっていく。
「どうした? 行かないのか?」
 冠水が始まるポイントから数メートル先で、シロヤナギがふりかえり、怪訝そうに3人を見た。シロヤナギのブーツは、つま先が隠れる程度まで水につかっている。そこの地点での水深はごく浅いものであるらしい。
「おい。いちど戻れ、シロヤナギ」
 タカキが呼んだ。その声は少し固かった。
「先に進む前に、作戦会議だ。いいから戻ってこい」
 呼ばれたシロヤナギは肩をすくめて最初は抗議の姿勢を示したが、タカキに真剣な視線を感じたのか、「わかったよ。いま行く。」とひとこと言って、ばちゃばちゃと浅い水を踏んで3人が地点までゆっくりと戻ってきた。

「おれとしてはあまりこれは言いたくはないんだが、」
 タカキが3人の顔をひとりひとり見て、やや言いにくそうに、そのあとゆっくり言葉を継いだ。
「ここが、もしかしたら、引き際なのかもしれない」
「引き際?」
 ハルオミが、タカキの顔を見返した。
「ああ。これ以上、ここを進むのは、リスクがけっこうでかい、気がする。冠水自体は、見えてる範囲はではたいしたことないようだ。あるいはこのまま、歩いて抜けられる可能性もある。でも。そうじゃない場合。どこかで水深が急に増すとか。そういう可能性も否定はできない。なにしろ、旧地図を見る限りでは5キロ以上、ここを進まなきゃダメってことだから。そのあいだのすべての地点が、こういう浅い場所だけとは、想定しにくい。そうじゃない可能性の方が、おれには高い気がしてならないわけだ」
「心配性だな、君は。」シロヤナギが小さく笑いを漏らした。
「そこは慎重と言え。」タカキがシロヤナギをにらんだ。
「楽観してて危険な目にあうよりは、少しばかり悲観的に見ててケガしない方が総合的には賢い。」
「そうかな? 楽観しながら、結果としてケガもなく通過できる可能性も十分あるだろう。」
「じっさい、それがいちばんいいわけだ。だが。いろいろ不確定要素がある。ただでさえ、正直あまり通りたくもない病民区だ。できるだけ短時間での突破を想定してたところに、こういうネガティブな追加ファクターが目の前にある。この状況で、うん。行きましょう。安全です。とは、おれとしてはあまり簡単には言えないな」
「じっさい君は、どういった危険を想定してる? その、水深が増すこと以外で?」
「…いろいろある。ってか、ありすぎるよな。まず、その、何か未知のウィルスだか汚染物質だかが、この水に溶けている可能性。それから―― まあこれは、ないだろうとは思うわけだが。というか、願望として、あっては欲しくないことだが。ここに誰か、未知の危険な残存住民のような者が居住していて、それらと遭遇する可能性。あとは―― いや。言い出すとキリがない。今言った2つだけでも、それはそれなりのリスクだと思わないか?」

「あのさ、タカキ、」

 それまで黙っていたハルオミが口をひらいた。
「なんだ、ハルオミ?」
「単純にさ、迂回はできないの?」
「迂回?」
「うん。この、水没してる市街地をさ、まるごと迂回して、その外側を、ぐるっと歩いて向こう側にたどりつくっていうの。ちょっぴり距離はのびるかもしれないけど、それだと、比較的――」
「いや。だがそれは、『ちょっぴり』ってレベルの距離では、すまないだろ?」
「そう?」
「ああ。まずもって道がない。実際あるのかもしれんけど、おれたちの手持ちの旧地図じゃ、たどって歩ける市道だの外周道路のようなものは細かく載ってないし。もし仮に舗装道路があったとしても、どうせみんな草の下に埋もれてる。おまえハルオミ、今朝の出発のときを、ちょっと思い出してみろよ。あの水路沿い。歩けるように道をつけるだけで、かなりの時間を消費したろ。あともちろん、体力も。あれを、またここで、少なくとも5キロとか。いや。迂回だから、もっとか。その倍ちかい距離を、あの調子で今から進む、とか。可能か? それは? というか、やりたい、そういうの?」
「うーん。そう言われると、ちょっと無理な感じはしてきた」
「おれはムリだ。そういう気力ないし、だいいち地形も平坦とは限らないし。そこを道もわからず歩くとか。とてもじゃないが、賛成できない。」
「サキは? 君はどう思う?」
 シロがサキに話をふった。サキはじっと足元に視線を落としたまま、しばらく何も言わなかったが、やがて視線をわずかに上げ、よくわからない、と言った。
「…わからないけど。いま、3人の話してるのを聞いた限りでは、その、最初にタカキが言ったことが、たぶん、自分の感覚に近いかなって思う。ちょっと怖い感じはする。正直、この水がないとしても。ここをこれから―― この見えてる廃墟を通り抜けるとか、それ自体がけっこう、怖いなと思うところはあるし」

「なるほど。じゃあ、こうするか? 怖がりな君たちはここに残る。わたしは先に進む。」
 シロヤナギが皮肉な視線で3人をひとりひとり見た。
「で、慎重な君たちはここから賢明に引き返し、一足はやく出発地点の処分サイト付近に戻ってそこで安全に待機する。で、わたしはひとりで進んでこの先にある美しいビーチで最高の景色をひとりで独占し、またひとり戻って、そこで賢く待機する君たちと合流する。万一わたしが定刻までに戻らない場合には、君たちは3人だけで市街の中に帰還する――」
「おいこら。勝手なこと言いやがって。」
 タカキが首を左右に振り、長い息をひとつ吐く。
「んなこと、できるわけねーだろ。単独行動の妄想は捨てろ。おれたちの誰かひとりでも戻らなかった、あるいはケガをするとかした時点で、おれたち全員が詰む。ひとりでも脱落したらアウトだ。誰かが欠けた状態であっちに戻った場合には、とてもじゃないが、おれたちは無事には切り抜けられない」
「ほう。つまり誰かの安全を言い訳にして、結局は君自身の保身が大事だと。そういう理解でいいのかな?」
「ちょっとシロ。それは言い過ぎだよ。」
ハルオミが二人の議論に割って入った。
「タカキがいま言ったのは、この旅行のまとめ役として、言わなきゃダメな当たり前のことでしょう。」
「…オミくんは、タカキと同意見というわけかい。」
「というかさ、ほら、たとえば。いまここ、ここまでで、とりあえず満足してさ。ここでひとまず、終わりにするっていうのも、それはありなんじゃないかな?」
「…終わり、とは?」
「つまり。ここに来るまで、いろいろたくさん、これまでのおれたちの人生では一度も見たことなかったいろんな景色が見れたでしょう。けっこう歩いたし。ここまでだけでも、それはそれで充分に大きな冒険だったと。そう考えることも、ほら、あながち、間違いとは、えっと、その、」
 刺すようなシロヤナギの視線をそこに感じて、ハルオミが口をつぐんだ。
 シロヤナギは唇を噛み、うつむいて、なにかをじっと考えている。ほかの3人も、それ以上の言葉を見つけることはできず、ただ、次に誰かが言葉を発するのをそこでじっと待っていた。

「わたしは行きたい。見たいよ、海を。」

 シロヤナギが地面を見たままで言った。
「ここまで来たんだ。この、わずかな水深の水たまりを見ただけで臆してすべてを投げ出した場合、街に戻ったわたしは死ぬまで後悔するだろう。あそこで足を踏み出して、もう少しだけ先まで行けば、どうだったのか、と。死ぬ直前の人生回顧で、そんな後悔をかかえて泣く泣くこの世界から退場していくなんて。口惜しいじゃないか。なぜ今、トライしない。少しの勇気だ。それがなぜ、今、ここでムリなのか。なぜ、ここで終わらなければならないのか。わたしにはその理由が見えないよ。」

 シロヤナギのその静かなつぶやきは、そこに立つ3人それぞれの心にそれぞれの響き方でそれぞれの心を通り過ぎていった。
 そのときサキの脳裏には、このはるか先で待ち受ける黄金に輝く夕暮れの海の映像がひとつの音もなく通過し、そしてどこかに、しずかに消えていった。遠い波音を聞いた。サキの心がキュウっと小さく縮まり、でもやがて、またそれがほぐれてもとに戻ったとき。そこには先ほどとは少し違った景色があった。

「わたしも行ってみたい、かも。」

 サキが言った。とても静かな声で。
「見たい、気がする。ううん、『気がする』じゃない。見たいと思う。海を。そのビーチの白い砂を、自分の足で踏んでみたい。自分でその水に、触れてみたい。確かめてみたい。ほんとにそれが、塩の味がするのかどうか。」

「……わかった。妥協案だ。これならおまえら、納得するのか?」
 タカキがシロヤナギの隣のレール上にどさっと腰を下ろし、自分のスニーカーの紐をじっと見つめてつぶやいた。
「水質がどうのとか、そっちのリスクはひとまず看過しよう。シロはもう水に触れちまってるし、足までつけてる。今さらウィルスがどうのこうの言うのもばからしい。もしそこにあるなら、シロはもう汚染されてる。そしてじっさいシロの言う通り、ここにはとくに有害な何かはないのかもしれない。だから。ひとまずおれたちは先に進む。水の中を、ある程度まで。ただし、」
 タカキが右足のスニーカーの紐を解いて、それを再び、少し固く結びなおした。そのあと左側も、同じように紐のしめつけを微調整する。
「ただし。このレールの先で、どこか水深が深くなったり、あるいはレールが崩落してるとか。明らかに歩行が困難なシーンが出てきた場合には。そのときは潔く引き返す。それ以上、不用意に無策に奥まで踏み込まない。それが条件だ」
「……撤退の条件が、あれだな。やや、安易ではないかな。そして曖昧だ。その危険度を、誰が、どのような基準で判断する?」
 シロヤナギが親指の爪を噛みながら言った。視線は地面に固定したまま。
「よし。じゃ、目安としては、おまえの脚の長さを基準にしよう。」
 タカキが二回、自分自身を納得させるかのように小さく首をたてに振った。
「膝丈までの水深ならば引き続きGOだ。しかしそれを越えて太腿以上に達した場合、それは危険とみなして引き返す。じっさいその水深だと、何か予期せぬ危険があったときにも走って離脱がムリになる。だから膝丈の水深を上限に。どうだ? それなら明確か?」
「…そうだね。いや。こういう状況下で、瞬時にそういう具体的な基準を思いつける君の頭脳の回転の速さに、少しわたしは感銘をうけた。大満足とはいかないが、比較的、穏当な基準と言っておこうか。そうだな。そのレベルの取り決めが最初にあるのなら。わたしも、その折衷案に乗るのは、ま、やぶさかではない」
「…ったく。賛成なら賛成と、シンプルに言えよシンプルに。やぶさかとか、十六歳の誰かが言うのを初めてきいたぜ、おれは」
 タカキが笑って、それから機敏な動作で立ち上がる。アーミーバッグを腕で拾い上げ、背中の中央の位置にしっかりと固定し、補助用のウェストベルトもしっかりと締めた。
「よし。じゃ、ひとまずシロヤナギの賛成はとりつけた。あとの二人も、いいのか、それで? おれとこいつの無茶ぶりな水中歩行に、ちょっとはつきあおうかって。そういう気持ち、あったりするか?」
「うん。行こう。わたしも二人についていく」
 サキがうなずき、ラフィアハットを頭からはずして背中のバッグのベルトに紐でくくって固定した。水の上を歩くとき、うっかり落とす失敗を避けようという意図だろう。
「ハルオミは?」とタカキ。
「えっと。おれとしては、うん。行くのはいいけど。つきあうけど。でもさ、たとえば、」
「たとえば?」
 サキがハルオミをふりかえる。
「たとえばボートとか、何かを浮かべて、それにのって漕いで行く、みたいなことができたら? 多少の水深があったりしても、そこは簡単にクリアできるかもって。ちょっぴり思った。いま思いついた。むしろ歩くより安全で速いかもしれない」
「む、ボートか――」
 シロヤナギが爪を噛んだままでハルオミの言葉を吟味する。
「ハルオミよ、おまえいつもひらめきとか発想力はすげえなって。おれは正直感心するとこもあるけど、」
 タカキが言った。その目は柔らかに笑っている。
「けどな。素材はどこだ? どこにボートの材料がある? 廃墟の水たまりの中を、今からかけずりまわって拾いに行くのか? そういう不確かな材料集めに時間を消費するのは、あまり賢いとは思えんし、それに第一、四人が乗れるほどのちゃんとした構造をここで作れるのか? 短時間で? おれには疑問だな。つまりアイデアは優れてるけど、現実的な実行可能性に難あり、の評価だな。どうだ? 反論ある?」
「……うーん。反論って言うほどじゃないけれど、」
 ハルオミが、ちょっぴり困ったように小さく笑って視線を外した。 
「でも、じつは今もう、ここにボートありますとか。おれが言ったら、怒られる?」

 ハルオミが背中の大荷物を地面に下ろし、巨大なアーミーバッグの口をひろげて中から何かを引っ張り出した。円筒形に圧縮ロールされたそのモノ。色はビビッドイエローで、見た感じ、防水素材のテントのように見えたのだが――
「えっと。レジャー用のゴムボート。いちおう、最大五人乗りってなってるから、たぶんギリギリ、荷物を載せてもいけるんじゃないかな。」
「マジか! おまえ、なんでこんなの持ってきてるんだ??」
 タカキは地面に膝をつき、そのイエローの防水素材を両手で持ってラベルの部分に顔を近づけた。
「えっと。もともとは、着いた先のビーチで、これでちょっぴり遊ぼうとか。そういう軽いノリだったんだよね。まさか途中で水没区間があるとは想像もしてなかった。まあでも、これ、ひょっとしたらここで役に立つんじゃないのかな」
「でかした、オミくん! やはりわたしの夫になる男だ! その先見性には脱帽だ」
 シロヤナギがハルオミの肩に大きく腕をまわし、なんのためらいもなく左の頬にまっすぐ何度もキスをした。されたハルオミの方は、こういうシチュエーションに慣れているのか、あまり特に動揺もせず、「ちょっとシロ、やめてよ。人のいる前で」と抗議し、軽くシロヤナギの抱擁をふりほどいた。
「えっと。そしてこれが、圧縮エアのボンベ。これをここにコネクトして、ここのバルブをひらくと―― 一気にエアが出る仕組み。自分もまだ、じっさいやってみたことないけどね。でもたぶん、1分もかからずに展開する、はず。んでから、これがオール。まあ、これはわりとオモチャっぽいから、あんまり速くは漕げないと思うけど」