2
そのあと1時間あまり進んだ地点で、4人は昼食をかねた少し長めの休憩をとることにした。
時刻すでに正午を過ぎていた。はるか前方の山むこうの空には、むくむくとした積乱雲の峰が、あちこちで盛り上がりはじめている。
4人のいる場所から数百メートル先の左側には天井の崩落した工場のような建築物が一棟あり、からみついたツタや蔓性の植物が壁面をびっしりと覆っている。ちょうどそこのあたりを起点として、線路沿いに灌木が林のように連なって列をつくり、数百メートルにわたって線路上にささやかな日陰のエリアをつくっていた。
タカキが準備した計画地図上では、4人はいま、旧時代の放棄市街地である「病民区」と呼ばれるエリアの少し手前の地点にいる。そのエリアが近いせいか、さきほどからちらほら、半壊した納屋や、小さな住宅の廃墟など、明らかに人造とわかる構造物が線路の周囲にちらほら出現するようになっていた。その多くはほぼ屋根まで植物で覆われ、そこには特に動くものや最近人間の活動がその付近であったような形跡は特になにも見られなかった。風はなく、むっとした暑さが周囲を覆い、灌木の枝では多くのセミたちがさかんに鳴きあっていた。
熱をおびたレールの上に並んで腰を下ろし、4人はそれぞれバッグからサンドイッチやパンやおやつの品々を取り出して思い思いに口に運んだ。
「お? おまえそれ、お弁当? 自作か?」
タカキがシロヤナギの手元をのぞきこむ。シロヤナギは蛍光オレンジのタッパーウェアを開け、スプーンで中身をすくおうとしていた。
「ああ、これのことか。うむ。よかったら、少し分けてやってもいいいぞ。ほら、」
そういってスプーンいっぱいに乗せてタカキの口の前に差し出されたモノ――
「うお…? なんだこりゃ!!」
タカキがうしろにのけぞった。
シロヤナギが大きく笑って、そのモノを口いっぱいにほおばってバリバリと噛み砕く。
シロヤナギのタッパーの中には、見るもカラフルな各種の錠剤、カプセル、サプリメントのタブレット、それから正体不明のブルーとグリーンの顆粒状の物体などが、カオスに入り混じって詰め込んである。
「ははは。おどろいたか。まあでも、見た目はあれだが、味はけっこういけるぞ? カロリー計算も厳密にされている」
スプーン山盛りのタブレットを口の中にさらに投入し、うまそうに頬張りながらシロヤナギが目尻を細めた。
「お、おまえ。それ、人間の食べ物か…? マジそれ、おまえ、ほんとに人間か?」
タカキが腰がひけた声で言って、気味悪そうにシロヤナギを横目でうかがった。
「おいキミ。ひとの食べ物にケチをつける前に、まずは自分のカロリー補給をしっかり完了したらどうだ?」
シロヤナギが澄ました顔で淡々と「食事」を続けつつ、スプーンをひらひら振ってタカキの視線を追い払う。
「さっきから君、ぜんぜん何もまだ食べていないようだか? 仮に君がこの先カロリー切れで倒れても、わたしたちは見捨てて先に行くかもしれないぞ?」
「うるせー。食うよ、食う食う。」
タカキがハムとチーズをはさんだクロワッサン・サンドを少しやけくそ気味に頬張った。それからサキの方にこっそり視線を飛ばし、大げさにひとつ、肩をすくめてみせた。
そのあとはシロヤナギを先頭に、その横にサキ、少し離れたうしろにタカキとハルオミという構成で線路上の歩行を続けた。サキとしてはさっきと同様にタカキとのペアで会話の続きをしたかったのだが。タカキとハルオミがさきほどから何かゲームの話題でもりあがり、二人だけの世界で何かしきりに笑いあったり大げさな手ぶりで感想を言ったりしている。そのためゲームにまったく詳しくないサキとしては、そこに割って入るだけの話題も度胸も持ち合わせていなかったというわけだ。
自然とシロヤナギの横を歩く形になったサキ。無口に線路を歩くシロヤナギを横目に、肌を刺すような日差しを少し気にしながら、サキもしばらく無言で足を前にすすめた。
「で、サキとしてはどうなんだい?」
いきなり横から声が飛んできて、サキはとっさに反応できなかった。
「だから。サキとしてはどうなのか、と。わたしは訊いているわけさ」
シロヤナギは、サキの方を直接見ずに、視線は前に固定している。そこには表情はあまりなく、中立的、という言葉がサキの脳裏にうかんだ。ふだん笑ったり皮肉を言ったり、ころころと表情の変わるシロヤナギのイメージがあったので、そういう素面(しらふ)の横顔をこうして長く近くで眺めるのは何か少し不思議な感じだった。
「えっと。なんの話題、だったかな?」
「タカキだよ」
「え?」
「だから。どうなの。彼のことは? どう思ってる? 二人はこっそりつきあったりは、しているのかい?」
「なッ??」
一瞬思考が沸騰したサキは、うっかりレールを踏み外してよろめいてしまう。慌てて姿勢を立て直し、あらためてシロヤナギの横顔をおそるおそるうかがった。
「ふ。答えがちょっとわかったな。つまりつきあってはいない、のだね? そういう公式な関係には、まだふたりは到達していないというわけか。だね?」
「ちょ、ちょっとさっきから、なに言ってるかわからない。」
「そう? じゃ、たとえばわたしがだよ、」
「え?」
「わたしがタカキを、こっそり横から盗っちゃったりしても。君はとくには文句はないの?」
「と、盗るとか。そもそも意味がわからないし。」
「ふむ。わからない、か。いいよ。じゃ、わからない前提で話をしよう。」
シロヤナギがふっと視線を高い場所にとばして、しばらく空の何かを見ていた。太陽光線が直接シロヤナギの顔を叩いていたが、シロヤナギはまるでまぶしさを感じないように、目を細めることなくしっかりと視線を保持している。ふりそそぐ光が、シロヤナギの色素の薄い髪を透過し、それをまばゆい金色に輝かせている。
「そこにある気持ちは、早い時点で、言葉にして相手に伝えるほうがいい」
シロヤナギは言った。視線をふたたび前方に戻し、光の中で、一定のリズムで変わらず歩行を続ける。
「たとえば明日、君の命が尽きるとしたら。それとも逆に、明日にもタカキが、死ぬのだとしたら。君はそれでも、やはり何も伝えず、終わるのだろうか。いつもの変わらぬ日常、いつもの無言で、君はその日を迎えるのか?」
「…それは――」
「いや、もちろん言いたいことはわかる。そんな極端な仮定は、ありえないでしょうと。たぶん君はこう言いたい。しかしそれは仮定だろうか? その期間はあるいは1日ではないかもしれない。あるいはそれは、半年かもしれない。あるいはそれは1年。あるいは2年。あるいはそれより長いのか。」
「…………」
「だけど。死なない人間など、ひとりもどこにもいないのだ。会えなくなる。もう二度と会えなくなる。その日は確実にやってくる。そしてその瞬間が来たならば。もう君は、二度と彼には会えなくなる。泣いても怒ってもわめいても。誰も時間をもとには戻してくれないのだ。つまりそういうことさ。」
「でも、だからって、何。シロさんは何が言いたいの…?」
「わたしを見本にしろと言っている。」
「見本?」
「いい方の、じゃない。悪いほうのだ。あるいは踏み台にしろと言い換えてもいい。早々と世界から退場していく、このつまらないわたしを見ろ。やり残したことがありすぎる。言えなかったことが多すぎる。いや。もちろんわたしは、今、それを取り返すために、いまありったけの言葉でだれかれかまわずわたしの気持ちを伝えているよ。でも。足りないな。ぜんぜん足りない。時間がない。時間があまりに、なさすぎる。」
「シロ…、さん、」
「だからだ。わたしのように潤沢な時間の洪水をすべて取りこぼして最後に醜くあがくような。そういうことは良くないぞ、と。わたしなりに。友人として。君にはすこしは、ましな人生を歩んでほしいと。まあ、言えば、老婆心というやつかな? 去り行く敗者が、まだ輝ける無限の時間の中に立つまぶしい勝者たる君に、こっそり、忠告を、と。その程度のものだ。迷惑だったら聞き流してくれ。ちょっぴり声の大きなひとりごとと思って、そのまま忘れてくれてもいい。」
「シロさんは―― 本当に―― 死ぬの、ですか?」
「はは。敬語だね。どうした? しょせんは同級生だ。普通に気楽に話してくれたらいい。」
シロヤナギが笑い、それからちらりと視線をサキに向けた。その目はかすかに笑っている。
「答えは『はい。』だ。もうそれは確定事項だ。今さらそこから逃げることもできない。だからね、今日、そして明日、明後日。この旅のすべてが、わたしにとっての最後の生きた証、みたいなものだ。思い出づくり、などじゃない。思い出。そんなお遊戯ファンシーな甘い言葉は蹴り飛ばせ。そうじゃない。生きるんだよ、今を。時間を生きろ。時間で肺の奥まで満たせ。それは体験だ。それは経験だ。それは生きていることそのものだ。そこに立ち、それを見よ。触れよ。味わえ。抱け。そして必要ならば泣けばいい。叫んでもいい。総力戦だ。そこにある時間を全力で抱け。それが生るということだ。」
「重い話題、ですけど。うん。でも、」
サキが言葉を探す。いまシロヤナギが言った言葉の銃弾が頭の中でびゅんびゅん鳴り響く中で。
「うん。でも。シロさんが、言おうとしてることは。あまり頭のよくないわたしにも。ちょっとはわかると思います。うん。わかるよ。わかる。だから、」
「ほう? ではわたしの言った言葉の価値を、君はいま、その場で理解してくれたわけだ。」
「えっと。うん。一部は、わかったと思います。その。全部じゃないけど。言ってることの、だいたいは、わかったと思う。わかると思う。」
「なるほど。それは朗報だ。じゃ、ひとつ、君がいまわたしの言葉を理解したことを前提に。ひとつオープンに話をしようじゃないか。さっそく実践、応用だ。」
「…え?」
「おーい! キセ・タカキ!」
シロヤナギが大音量で名前を呼んだ。レールとレールの中央で大胆に姿勢をターンして、両手を腰左右の腰にあてて正面からタカキをにらんだ。10メートルほど後ろを歩くタカキがおどろいて顔を上げ、「なんだ? なんかあるのか?」と言って足を止めた。
「耳を澄ませて聴け。朗報だ。いまここにいるワキサカ・サキから、大事な話があるそうだ。サキのこれまでの人生史上、まれにみる重大トピックだそうだから、心して耳を――」
「ちょ、やめっ! やめなさい、シロ、ちょっと、冗談、」
サキがシロヤナギに飛びついて、全力でその口を塞ぎにかかる。
シロヤナギは大笑いしてサキの両手をふりはらい、「もちろん冗談だ。ははは。ずいぶん動揺したな?」と言って、また腹をかかえて大笑いした。
「なんだよ。何ふたりでじゃれてる? 意味がわかんねー。」
うしろでタカキが、右手を頭にやって困惑した表情をつくる。ハルオミもハルオミで、前方の線路上で取っ組み合うサキとシロヤナギを、不思議そうに交互に見比べている。
そのあと1時間あまり進んだ地点で、4人は昼食をかねた少し長めの休憩をとることにした。
時刻すでに正午を過ぎていた。はるか前方の山むこうの空には、むくむくとした積乱雲の峰が、あちこちで盛り上がりはじめている。
4人のいる場所から数百メートル先の左側には天井の崩落した工場のような建築物が一棟あり、からみついたツタや蔓性の植物が壁面をびっしりと覆っている。ちょうどそこのあたりを起点として、線路沿いに灌木が林のように連なって列をつくり、数百メートルにわたって線路上にささやかな日陰のエリアをつくっていた。
タカキが準備した計画地図上では、4人はいま、旧時代の放棄市街地である「病民区」と呼ばれるエリアの少し手前の地点にいる。そのエリアが近いせいか、さきほどからちらほら、半壊した納屋や、小さな住宅の廃墟など、明らかに人造とわかる構造物が線路の周囲にちらほら出現するようになっていた。その多くはほぼ屋根まで植物で覆われ、そこには特に動くものや最近人間の活動がその付近であったような形跡は特になにも見られなかった。風はなく、むっとした暑さが周囲を覆い、灌木の枝では多くのセミたちがさかんに鳴きあっていた。
熱をおびたレールの上に並んで腰を下ろし、4人はそれぞれバッグからサンドイッチやパンやおやつの品々を取り出して思い思いに口に運んだ。
「お? おまえそれ、お弁当? 自作か?」
タカキがシロヤナギの手元をのぞきこむ。シロヤナギは蛍光オレンジのタッパーウェアを開け、スプーンで中身をすくおうとしていた。
「ああ、これのことか。うむ。よかったら、少し分けてやってもいいいぞ。ほら、」
そういってスプーンいっぱいに乗せてタカキの口の前に差し出されたモノ――
「うお…? なんだこりゃ!!」
タカキがうしろにのけぞった。
シロヤナギが大きく笑って、そのモノを口いっぱいにほおばってバリバリと噛み砕く。
シロヤナギのタッパーの中には、見るもカラフルな各種の錠剤、カプセル、サプリメントのタブレット、それから正体不明のブルーとグリーンの顆粒状の物体などが、カオスに入り混じって詰め込んである。
「ははは。おどろいたか。まあでも、見た目はあれだが、味はけっこういけるぞ? カロリー計算も厳密にされている」
スプーン山盛りのタブレットを口の中にさらに投入し、うまそうに頬張りながらシロヤナギが目尻を細めた。
「お、おまえ。それ、人間の食べ物か…? マジそれ、おまえ、ほんとに人間か?」
タカキが腰がひけた声で言って、気味悪そうにシロヤナギを横目でうかがった。
「おいキミ。ひとの食べ物にケチをつける前に、まずは自分のカロリー補給をしっかり完了したらどうだ?」
シロヤナギが澄ました顔で淡々と「食事」を続けつつ、スプーンをひらひら振ってタカキの視線を追い払う。
「さっきから君、ぜんぜん何もまだ食べていないようだか? 仮に君がこの先カロリー切れで倒れても、わたしたちは見捨てて先に行くかもしれないぞ?」
「うるせー。食うよ、食う食う。」
タカキがハムとチーズをはさんだクロワッサン・サンドを少しやけくそ気味に頬張った。それからサキの方にこっそり視線を飛ばし、大げさにひとつ、肩をすくめてみせた。
そのあとはシロヤナギを先頭に、その横にサキ、少し離れたうしろにタカキとハルオミという構成で線路上の歩行を続けた。サキとしてはさっきと同様にタカキとのペアで会話の続きをしたかったのだが。タカキとハルオミがさきほどから何かゲームの話題でもりあがり、二人だけの世界で何かしきりに笑いあったり大げさな手ぶりで感想を言ったりしている。そのためゲームにまったく詳しくないサキとしては、そこに割って入るだけの話題も度胸も持ち合わせていなかったというわけだ。
自然とシロヤナギの横を歩く形になったサキ。無口に線路を歩くシロヤナギを横目に、肌を刺すような日差しを少し気にしながら、サキもしばらく無言で足を前にすすめた。
「で、サキとしてはどうなんだい?」
いきなり横から声が飛んできて、サキはとっさに反応できなかった。
「だから。サキとしてはどうなのか、と。わたしは訊いているわけさ」
シロヤナギは、サキの方を直接見ずに、視線は前に固定している。そこには表情はあまりなく、中立的、という言葉がサキの脳裏にうかんだ。ふだん笑ったり皮肉を言ったり、ころころと表情の変わるシロヤナギのイメージがあったので、そういう素面(しらふ)の横顔をこうして長く近くで眺めるのは何か少し不思議な感じだった。
「えっと。なんの話題、だったかな?」
「タカキだよ」
「え?」
「だから。どうなの。彼のことは? どう思ってる? 二人はこっそりつきあったりは、しているのかい?」
「なッ??」
一瞬思考が沸騰したサキは、うっかりレールを踏み外してよろめいてしまう。慌てて姿勢を立て直し、あらためてシロヤナギの横顔をおそるおそるうかがった。
「ふ。答えがちょっとわかったな。つまりつきあってはいない、のだね? そういう公式な関係には、まだふたりは到達していないというわけか。だね?」
「ちょ、ちょっとさっきから、なに言ってるかわからない。」
「そう? じゃ、たとえばわたしがだよ、」
「え?」
「わたしがタカキを、こっそり横から盗っちゃったりしても。君はとくには文句はないの?」
「と、盗るとか。そもそも意味がわからないし。」
「ふむ。わからない、か。いいよ。じゃ、わからない前提で話をしよう。」
シロヤナギがふっと視線を高い場所にとばして、しばらく空の何かを見ていた。太陽光線が直接シロヤナギの顔を叩いていたが、シロヤナギはまるでまぶしさを感じないように、目を細めることなくしっかりと視線を保持している。ふりそそぐ光が、シロヤナギの色素の薄い髪を透過し、それをまばゆい金色に輝かせている。
「そこにある気持ちは、早い時点で、言葉にして相手に伝えるほうがいい」
シロヤナギは言った。視線をふたたび前方に戻し、光の中で、一定のリズムで変わらず歩行を続ける。
「たとえば明日、君の命が尽きるとしたら。それとも逆に、明日にもタカキが、死ぬのだとしたら。君はそれでも、やはり何も伝えず、終わるのだろうか。いつもの変わらぬ日常、いつもの無言で、君はその日を迎えるのか?」
「…それは――」
「いや、もちろん言いたいことはわかる。そんな極端な仮定は、ありえないでしょうと。たぶん君はこう言いたい。しかしそれは仮定だろうか? その期間はあるいは1日ではないかもしれない。あるいはそれは、半年かもしれない。あるいはそれは1年。あるいは2年。あるいはそれより長いのか。」
「…………」
「だけど。死なない人間など、ひとりもどこにもいないのだ。会えなくなる。もう二度と会えなくなる。その日は確実にやってくる。そしてその瞬間が来たならば。もう君は、二度と彼には会えなくなる。泣いても怒ってもわめいても。誰も時間をもとには戻してくれないのだ。つまりそういうことさ。」
「でも、だからって、何。シロさんは何が言いたいの…?」
「わたしを見本にしろと言っている。」
「見本?」
「いい方の、じゃない。悪いほうのだ。あるいは踏み台にしろと言い換えてもいい。早々と世界から退場していく、このつまらないわたしを見ろ。やり残したことがありすぎる。言えなかったことが多すぎる。いや。もちろんわたしは、今、それを取り返すために、いまありったけの言葉でだれかれかまわずわたしの気持ちを伝えているよ。でも。足りないな。ぜんぜん足りない。時間がない。時間があまりに、なさすぎる。」
「シロ…、さん、」
「だからだ。わたしのように潤沢な時間の洪水をすべて取りこぼして最後に醜くあがくような。そういうことは良くないぞ、と。わたしなりに。友人として。君にはすこしは、ましな人生を歩んでほしいと。まあ、言えば、老婆心というやつかな? 去り行く敗者が、まだ輝ける無限の時間の中に立つまぶしい勝者たる君に、こっそり、忠告を、と。その程度のものだ。迷惑だったら聞き流してくれ。ちょっぴり声の大きなひとりごとと思って、そのまま忘れてくれてもいい。」
「シロさんは―― 本当に―― 死ぬの、ですか?」
「はは。敬語だね。どうした? しょせんは同級生だ。普通に気楽に話してくれたらいい。」
シロヤナギが笑い、それからちらりと視線をサキに向けた。その目はかすかに笑っている。
「答えは『はい。』だ。もうそれは確定事項だ。今さらそこから逃げることもできない。だからね、今日、そして明日、明後日。この旅のすべてが、わたしにとっての最後の生きた証、みたいなものだ。思い出づくり、などじゃない。思い出。そんなお遊戯ファンシーな甘い言葉は蹴り飛ばせ。そうじゃない。生きるんだよ、今を。時間を生きろ。時間で肺の奥まで満たせ。それは体験だ。それは経験だ。それは生きていることそのものだ。そこに立ち、それを見よ。触れよ。味わえ。抱け。そして必要ならば泣けばいい。叫んでもいい。総力戦だ。そこにある時間を全力で抱け。それが生るということだ。」
「重い話題、ですけど。うん。でも、」
サキが言葉を探す。いまシロヤナギが言った言葉の銃弾が頭の中でびゅんびゅん鳴り響く中で。
「うん。でも。シロさんが、言おうとしてることは。あまり頭のよくないわたしにも。ちょっとはわかると思います。うん。わかるよ。わかる。だから、」
「ほう? ではわたしの言った言葉の価値を、君はいま、その場で理解してくれたわけだ。」
「えっと。うん。一部は、わかったと思います。その。全部じゃないけど。言ってることの、だいたいは、わかったと思う。わかると思う。」
「なるほど。それは朗報だ。じゃ、ひとつ、君がいまわたしの言葉を理解したことを前提に。ひとつオープンに話をしようじゃないか。さっそく実践、応用だ。」
「…え?」
「おーい! キセ・タカキ!」
シロヤナギが大音量で名前を呼んだ。レールとレールの中央で大胆に姿勢をターンして、両手を腰左右の腰にあてて正面からタカキをにらんだ。10メートルほど後ろを歩くタカキがおどろいて顔を上げ、「なんだ? なんかあるのか?」と言って足を止めた。
「耳を澄ませて聴け。朗報だ。いまここにいるワキサカ・サキから、大事な話があるそうだ。サキのこれまでの人生史上、まれにみる重大トピックだそうだから、心して耳を――」
「ちょ、やめっ! やめなさい、シロ、ちょっと、冗談、」
サキがシロヤナギに飛びついて、全力でその口を塞ぎにかかる。
シロヤナギは大笑いしてサキの両手をふりはらい、「もちろん冗談だ。ははは。ずいぶん動揺したな?」と言って、また腹をかかえて大笑いした。
「なんだよ。何ふたりでじゃれてる? 意味がわかんねー。」
うしろでタカキが、右手を頭にやって困惑した表情をつくる。ハルオミもハルオミで、前方の線路上で取っ組み合うサキとシロヤナギを、不思議そうに交互に見比べている。