時刻は11時をまわり、太陽は見た目上ほぼ真上に近い角度でいっさいの手加減なしに真夏の熱を投下している。
 錆びたレールを踏んで歩くサキのくっきりとした影は、ほぼ足元にあってサキの歩行にあわせて同じ速度でついてきている。右側を歩くタカキは、等間隔にならんだコンクリート製のスリーパーの上を、タン、タン、とリズミカルな足音をたてて踏み進んでいる。ところどころ欠落した部分では、「よっ」とか声をあげてジャンプし、前方のスリーパーに着地する。どこか少し、ゲームを楽しんでいるような感覚だ。
 その二人から15メートルほど前を、シロヤナギが先陣をきって颯爽と歩いている。シロヤナギは少し前に黒のジャンパーを脱いで、ダークレッドのワンピースドレスのスカートを揺らしながら軽快にバラストの上をザクザク歩く。ところどころ雑草が遮る部分では、グラスカッターを大胆にふるって草をたちきる。シロヤナギの美しい長い髪が、その動作にあわせて大きく左右に踊る。
 そしてそのシロヤナギを追いかける形で、大きな荷物を背負ったハルオミがそのすぐ後ろを歩いている。オーバーサイズの赤のTシャツに白のバンダナを頭に巻いたハルオミは、シロヤナギの歩調にあわせてその位置をキープしているものの、ハルオミ自身としては少しオーバーペースらしい。小さく口をあけてハア、ハア、と荒い呼吸で、しきりにタオルで顔の汗をぬぐっている。
 ここから右手後方には、4人がさきほど後にしてきた光ケ丘市の市街が、なだらかな二つの丘を埋める形で夏の日差しの下で白く輝いている。街と外界とを隔てる分離壁のくっきりしたホワイトは、ここからでもはっきりと見ることができた。
 自分が数時間前までにはその向こう側の世界に属していたことが、今ではサキには少し信じられない。あそこに自分の生活のすべてが、過去十六年の自分のすべてがあったのだけど。でも。なんて小さい世界だったのだろう。なんと小さな場所に、自分はしばられていたのだろう。そしてここは、なんと広いのだろう。
 風がたつ草原は、なんと大きいのだろう。右手のはるか前方によこたわる緑の山並みは、なんと大きいのだろう。そして空は、なんと広いのだろう。世界はこんなにも広かったのか。世界はこんなにも、大きかったのか。
 不思議なシンプルな高揚感が、さきほどからサキの心に広がっていた。日差しは強く、サキのひたいには大きな汗の粒がいくつも浮かんでいたけれど―― テニスシューズの底を通して伝わるレールの熱さに、足裏がかすかに悲鳴を上げていたけれど―― 
 でも。自分はきっと、ここから何キロでも。あるいは何十キロでも。あるいはそれより長く。自分はきっと、どこまでも――

「なんかさ、おれらこのまま千キロでも、歩ける気がする、よな?」
 タカキが言って、サキに視線をやってちらりと笑った。
 その言葉があまりにサキの気持ちを代弁したものだったから、サキは灰色の瞳を見開いて、びっくりしたようにタカキを見返した。
「やっぱ来て、よかったなって。おれはもう、この時点でなんか思うぜ。やっぱ広いよ、世界は。こんな広かったんだな、ここは。けど、あのまま街で何もしないで賢くじっとしてたら、きっとおれたち、何もないまま、だったんじゃないかな? ん、なんかうまく言えねーけど、」
「ん、わかるよ。うまく言ってる。タカキの言ってること、わたしもすごくわかる」
「おお。わかってくれる?」
「うん。わかる。」
 サキは小さくうなずいて、それから錆びたレールの上を離れ、二歩ほどタカキに近づき、そこからはタカキと同じく硬いコンクリートのスリーパーの部分を、トン、トン、トン、とテニスシューズの底でリズミカルに踏んで歩いた。
「なんかさ、たとえばだけど、」
 タカキが視線を遠くに向けたまま、歩調もそのままで、サキにむかって話をつづける。
「どっかあそこの山の向こうとか。あるいはあそこの草原のどこかさ、まあ、どこだっていいんだが。どっか景色のいい場所に、おれらこのまま、ずっとずっと、そのままそこに住みついちゃってさ。そこで、ただシンプルに、自給自足でひたすら暮らし続けるとかさ。そういうことも、あるいは、ほんとは、できたりするんじゃないかって。なんか、今はなぜかそんな気分だな。なんかほら、楽しそうじゃねえか? そういうの?」
「…そういうの?」
「うん。そこではずっといつも夏が終わらない感じでさ。どっかにおれらで家たてて、そこでみんなで、ずっとそのまま暮らすんだ。キャンプみたいに。もうあっちの街には戻らずにさ。なにかのおとぎ話みたいに。」
「…みんなっていうのは、誰? そこにはわたしも、含まれているのかな?」
「えっと。まあ、そりゃ、その、特に特定の誰かを想定して、その、おれは言ってるわけじゃ… そう。ないん、だけどな。そこはな。あくまで仮定の、仮の話で」
 タカキがわずかに動揺し、視線を大きくサキからそらした。
「おほん。えっと、わりぃ、なんか意味、わかんないこと言ったなおれ。すまない。」
「…ん。意味は、けっこう、わかったよ。」
「…そ、そうか…?」
「うん。わたしもそういうの、もしできたら、素敵だと思う。永遠に続く夏休み、みたいなの。あったらいいなって思う。そういう小さな、シンプルな、でもどこまでも何にもしばられない自由な暮らし」
「…だよな。ちょっと憧れたりはするよな? そういうの?」
「うん。する。」
 そのあと二人は無言で、ただリズミカルに、コンクリートの足場を踏んで、踏んで、長い時間を歩いた。
 サキは自分の右にタカキの息遣いを感じ、二人はその近い距離で、でもひたすらに無言で、ただ相手の気配、その存在を感じながら。二人で同じ方向を目指して、黙々と足をすすめていく。
 なんかいいな、と。サキは思った。ずっとずっと、この時間が続けばいいのに。ずっとずっと。二人は一緒で。ずっと同じ方を見ながら。ずっと相手を、すぐそばに感じながら。

「だけどどう思う? 本当だと思うか?」
「え…?」
 不意に声をかけられて、サキの思考はあわてて現実に回帰してきた。
「シロヤナギ。ほんとに死ぬのか? 死にそうなのか? あいつ?」
 タカキが視線を前にやり、はりきった歩調で線路の先を行くシロヤナギの背中に合わせた。
「なんかぜんぜん、元気っぽくないか? あれじつは、全部嘘だったんじゃねーの?」
「嘘?」
「ああ。おれたちを一緒に遠征に付き合わすための演技っつーかさ。そうでも言わなきゃ、たぶんおれら、計画の時点でやっぱ中止ってことにも、なりかねなかったろ?」
 タカキがスポーツキャップを頭から取り、腕でひたいの汗を大胆にぬぐう。キャップを頭に戻し、背中のバッグのアウターポケットからドリンクのボトルを取ろうと手を後ろにまわしたが、その手はうまくボトルをつかむことができない。
 タカキが仕方なくいちど足を止め、バッグをいったん背中から下ろし、ドリンクボトルを手にとってごくごくと勢いよく喉を鳴らして飲んだ。サキもバラストの上で立ち止まり、タカキがそれを飲み終えるのを無言で待っていた。
「だいたい、何の病気だ? 癌? 白血病? 実際なんだか知らねーけどさ、もしそんなの体にかかえていたら、今頃、あんなに元気に外を歩くとか、もともと無理なんじゃねーのか?」
 ボトルのキャップを閉じながら、タカキが視線をサキに投げた。
「…どうかな。でも、なんか、」
 サキはうつむき、それからまた顔を上げて、だいぶ距離がはなれて遠くなったシロヤナギとハルオミの後姿を目で追った。
「焦ってる感じは、したかな。ほんとに時間が惜しいって。時間がない。時間がない。たぶんシロさんのその焦りは、それ自体は嘘じゃない感じは、わたしはしたかな。それが死につながるものなのか、それとも別の何かなのか。それはわたしは、よくわからない。けど、」
「けど?」
「やっぱりシロさん、ちょっと普通じゃない、と思う。だって、あの、今日の服も」
「服?」
「うん。この炎天下で、あのドレス。ちょっとその服が好きだからとか、そういうのでは、たぶんないでしょう。普通はできない。暑くて。2キロも歩けば、脱水症て倒れちゃうよ。でも、ぜんぜん、シロさんは暑そうにもしてない。汗もあまりかいてない。あれはちょっと普通じゃない。」
「…そういえば、な。あれはちょっと、おれも確かに季節まちがってるんじゃねーか、とは、おれもちらっとは思ってたけど」
「体温調節とか。そういうのが、ちょっと、普通じゃなくなってきてるとか。きっと何か、それは病気に関係してるんじゃないかな?」
「うーん、やっぱそうかなぁ…?」

「おーい! 何をしている! そこ二人!」
 線路の先でシロヤナギがふりかえり、二人に向けて大きく手を振った。
「早く来―い! 遅いぞ、ペースが!」

「行くってばよ! いま行く!」
 タカキが片手を高く上げ、シロヤナギに声を返した。
「ったく。偉そうだな。線路に入って道が良くなってから、いきなり先頭でリーダー張りはじめやがった」
「まあでも、行こう。あんまりここで止まってると… この先の予定、あるんでしょ?」
「まあ、だな。朝のあそこの草刈りでけっこう時間をロスしたから。今からちょっと、ペースを上げて取り返す方がいいってのは、確かにそれは、あるかもしれない。」
「じゃ、行きましょ。」
「ああ。行くか」
 タカキはバッグを背負いなおして、それからキャップを、さきほどより深めにしっかりとかぶりなおした。
 線路の下から風が吹き上げてコットンホワイトのワンピースのスカートの裾が巻き上がりそうになったのを、サキは片手でおさえて防ぎ、もう一方の手で頭の帽子が飛ばないようにしっかりと支えた。
 それからサキは、先ほどよりも幾分ペースを上げ、太陽に熱された硬い灰色のスリーパーの上を軽快な足取りで飛び飛びに足で蹴り、少しずつ少しずつ、先頭を歩くシロヤナギとの距離をつめていった。