わたしと海に行かないか?



 廃棄物サイトの外周フェンスを抜けた4人は、その後はまっすぐ西に延びる幅の狭い汚水路に沿って進んだ。その白くよどんだ水路は少し先で、南北方向に走る別の大きな水路に流れこんで終わっていた。
 4人はそこから進路を南にとる。事前に入手したタカキの情報では、この水路沿いに3キロほど南下した地点で、単線の旧鉄道軌道が水路をまたぐ形で走っている地点に達する、はずだった。そこが午前中のひとまずの小ゴールとなるはずだったが――

「くそ、草が予想以上だ。」

 4人の身長と同程度の高さまで伸びる、黄色い花を大量に咲かせた大量の茎植物が水路沿いのすべてをびっしりと壁のように埋めており、そこを歩くためにはまず植物を切り倒して道を確保しなければならなかった。
 先週ホームセンターで購入した小振りなグラスカッターをひたすらに振るい、タカキが目の前の草を立て続けに切っていく。が、その歩みはあまりにもスローだ。この水路沿いを南進する間にも、太陽はみるみる高度をあげ、少し前まであったはずの夜明けの涼やかな風も、いつのまにか消えていた。
 はやくも汗だくになったタカキが、グリーンの柄のグラスカッターをハルオミに手渡した。しかしそのハルオミも、ものの十分程度であえなく息を切らしはじめ、そのあとはサキがその作業を引き継いだ。ラクロスゲームの部活である程度まで体を鍛えてきたサキは、ハルオミよりも格段に要領よく疲労せずに道を作る作業をこなしていく。
 ザッ、ザッ。
 カッターを振るうたび、たしかな感触がそこにある。黄色の花弁が大量に飛散し、その花弁にまじって、名前も知らぬ無数の羽虫たちが小さな羽音を響かせてどこかに飛び去っていく。香ばしい草の液の匂いがあたりの空気を満たす。不思議となつかしいその匂いを肺の奥に吸い込みながら、一定のリズムで、サキがそこに道をつけていく。ゆっくりと、しかし着実に。

「おお。サキはあれだな。森の農夫とかそういう職業でも十分やっていけそうだよな」
 タカキが後ろで口笛を吹いた。
「ハルオミよりはるかにサマになってるぜ。なんてか、姿勢ってのか腰つきってのか、なんか動作が素人っぽくないんだよな」
「タカキはそれ、腰つきとか、意味わかってて言ってる?」
 サキがあきれて笑いながら、タカキに声を返した。その間にも動作は止めない。新たに刈られた草たちが、サキの右側下方の白くよどんだ水面に大量に舞い落ちてゆく。
「なんかでも、これ、楽しい。なんかのトレーニングみたい。修行っぽい感じ?」
「ははは。なんの修行だよ、それ?」タカキが笑ってサキの背中に言葉を投げた。
 しばらくしてサキが少し疲れると、今度はまたタカキに作業をスイッチした。そしてそのあとはまた、サキにスイッチ。ここではハルオミは、あまり戦力としてはカウントできず、そしてそれはシロヤナギについても同じだった。黙々と道を開拓しつづける二人のうしろで、シロヤナギは退屈そうに腕を組み、周囲に広がる荒れ地のどこか一点を、少し眠たげな表情でじっと見つめている。

 しかしその困難な歩行路開拓のミッションもやがては終わりを迎えた。
 目的とする廃線軌道が4人の視界の先に入ってきた。ただしそれは当初の到達予定時刻から50分以上も後のことで、タカキもサキも、この序盤にしてすでに相当、汗をかいて消耗していたのだが。

「よし。ここからだな」
 入念な水分補給をようやく終えたタカキが自分自身を鼓舞するようにつぶやいて、ひたすら北西方向へとのびる二つのレールの間に立って線路の先をみやった。午前の日差しはすでに「苛烈」の域に達しつつあり、線路の先にはゆらめく陽炎(かげろう)が立ちのぼっている。スリーパーとも呼ばれるコンクリート製の枕木はところどころ欠落し、茶褐色の石のバラストには草が生い茂り、ここから見える二本のレールの大部分は草の下に隠れて視界に捉えることはできない。最後の列車がここを通過してから何十年、あるいはそれ以上の年月が経過したことはおそらく間違いないと思われた。が、それだけの年月をへても、夏の草原を貫くたしかな1本の道としての鉄道軌道の基礎構造は、しっかりとまだ原形をとどめているようだ。
 サキは進行方向にむかって左側のレールの上に片足をのせ、その硬い感触を確かめるように視線を下に向けている。ハルオミとシロヤナギはタカキの右側に肩をならべ、ひたすらに続いていくその果てしない軌跡をじっと無言で見つめている。その上に広がる夏の空は明確な光に満ちあふれ、ところどころ、ホワイトのペイントブラシで今描いたばかりのような輪郭のはっきりした夏雲が、視界の左から右へとゆっくりと滑っていく。
「ここからは線路上をほぼ直線に約9キロ」
 タカキが視線を北西の地平に固定したままで言った。
「ひとまずそこを歩き切ったところが次の小ゴールだな。そこが――」
「たしかそこが、その先に広がる病民区の南端の地点、だね?」
 とシロヤナギが言った。おそらく今、出発前の行程の打ち合わせのときの会話を、自分の脳内で再生しているのだろう。
「念のため言っとくと、行かないって手も、まだ今の時点では残ってるぜ?」
「行かない?」「?」
 ハルオミとシロヤナギがタカキの顔を見返した。
「ああ。やっぱりやめて、今日はここらで適当にピクニックを楽しんで、適当な場所でキャンプして。まるまる数日をイージーな初心者モードのここの原っぱで遊んで終わり。っていうのも、今の時点では選べるってこと。それも俺としては決して悪くねー夏の思い出作りに――」
「バカな。底なしの愚問だ、それは」
 タカキの言葉を途中でさえぎってシロヤナギが苦笑し、やれやれと首を左右にふった。
「もう黙りたまえ。その選択肢は忘れろ。思い出づくり? そんな言葉は古井戸の底にでも沈めておけ。それよりも、行こう。今。そのためにわたしは。いや、わたしたちはここまで苦労してやってきたのだろう? 海を見よう。どこまでも歩け。わたしたちはまだ若い。夏の時間は、無限にここから伸びている。行かないという選択肢は、今ここにない」
「ふ、そう言うだろうと予想はしてた。わかってるよ。念のため、いちおう、礼儀として訊いてみただけだ」
 タカキが目を閉じて小さな笑いを漏らし、それから背中のアーミーバッグを右の肩の側に傾けて背負いなおした。
 いま四人は横一列に線路をふさぐ形でそこに立ち、それぞれの視線を、線路が地平の緑に溶け込むかなたの地点に同時に向けて固定した。風が立ち、周囲に広がる緑の草原を大きくざわつかせた。
「じゃ、行こうぜ。」
 風が去ったとき、静かにタカキが口をひらく。
「行こう。」とハルオミ。
「うん、」とサキ。
 シロヤナギは言葉は発せずに、ただ首を左に少し傾けて皮肉っぽく微笑した。





~ このパートは、西にむかって歩行を続ける4人の行動を中断する形で、無粋にこの場に挿入されている。あくまで4人の行動のみを純粋に追いたい読者におかれては、ここより数ページ分の補足パートを完全にとばして無視して頂いても支障はない。そのことで特段、物語の本質が損なわれることもない。 ~


 実際の難易度だけを問題にした場合、市街の外に出ること自体は、じつは4人にとっての最大課題ではなかった。
 街を出るにあたってのもっとも大きな現実課題は、「どのように4日の不在を偽るか?」という問題。つまり、4日間、時間にして96時間以上自宅を空けるというのは、4人のうち誰にとってもそれほど小さなイベントとは言えないわけで、そしてそれだけの時間を無言のままに姿をくらますというのは、現実的に誰にとっても不可能だった。
 まずもって保護者が疑う。学院の関係者から事務連絡が入ることもある。4人の生徒の4日間の不在は、発覚した場合にはまず、大きな騒ぎを巻き起こすことは間違いなかった。最悪、市警察に通報がいって全市で捜索が行われるような大問題にもなりかねない。

 いくつかの試案を検討し、最終的に4人が採用したのは、「セミナー合宿」というプランだった。
 毎年シロヤナギ邸では夏の終わりに学院の優秀生徒十数名を集めたプライベートなセミナー合宿が恒例となっており(実際にはそんなものはない。が、4人で急遽、そのコンセプトを捏造した。)、今年に関しては、ハルオミとタカキとサキの3人もその名誉ある優秀メンバーにノミネートされた―― 大雑把に言えば、そのようなストーリー。

 ほかならぬシロヤナギ財団の邸宅で開かれるというその勉強イベントだ。全市のトップに近い、将来を約束された優等学生しか参加が認められないというその名誉あるセミナーに招待されたと聞いて、サキとタカキの保護者らは単純に歓喜し、その場で参加の許可を出した。シロヤナギが一晩つかって周到に準備したという架空の日程スケジュールと、華々しい文言をちりばめた招待メッセージを見せつけられた二つの家庭の保護者らは、まさかそれが偽造された架空のイベントであるとは疑いもしなかった。
 ただし上院議員の肩書を持つハルオミの父親の反応は、それほど単純ではなかった。


「ふふん。子供だましだな。セミナーっていう名目の、単なるお泊りイベントだろう? 知っているぞ? そもそもおまえはそこまでトップの成績ではないわけで、だいたいが、そんなたいそうなエリート向けのサマーセミナーなど、シロヤナギの屋敷で企画されたことは過去に聞いたことがない。」
 そういって父親は皮肉っぽく笑ったのだが。まあしかし、ウエダ家とシロヤナギ家は家族ぐるみの長いつきあいで、息子のハルオミの正規の婚約者であるシロヤナギ家の令嬢ルカは重篤な病をかかえて予断を許さないという。そういう中で、息子がこの夏—— あるいはルカにとっての最後の夏に、そういった遊びのイベントでシロヤナギ家に数日滞在することそのものには、特に父親は反対しなかった。
「ま、ルカちゃんとゆっくりいい時間を過ごすことだ。ただし。戻ったら、怠けたぶんをしっかり取り戻すんだぞ。それがわたしの条件だ。」
 最終的に承認を与えたハルオミの父親は、もうその5分後には、次回の特別予算審議会の準備会合のうちあわせで奥の部屋に引きこもり、その日はもう、ウエダ家においてその話題が話されることはなかった。


 しかし最も調整が難しかったのは、ほかならぬシロヤナギ自身だ。
 自分の屋敷で開催される架空のセミナーは、その屋敷で生活を送るシロヤナギ本人にとっては、4日間、ないしはその前日の夜を含めた5日間もの逃避行の言い訳としては、完全に破綻した理由づけだ。そのままそれを使えるはずもない。
 悩んだ末に、最後はシロヤナギの提案で、シロヤナギ自身が最も信頼を置くという、1学年上の先輩、オガワ・シオンという女子生徒の助力を求めることになった。
 オガワ・シオンは学院の現役生徒会長を務めるきわめて優秀な人物だったが、その思考は柔軟で、何をもおそれぬ大胆な心を持っていた。シロヤナギから秘密の打ち明け話を持ち込まれたシオンは、さすがに最初は驚愕して反対の意見を唱えたが、シロヤナギの熱心な説得に折れ、一晩思案した後に、ささやかな協力を与えることに同意した。

 最終的な形としては、シロヤナギが、夏の最後の4日にわたり、オガワ家に勉強合宿にお邪魔するという設定だ。もちろん嘘なのだが、シロヤナギ家の保護者らに対する偽装工作としては、これはなかなかに有効だった。
 なにしろシオンの父親は、現役の教育大臣を務める有名政治家のオガワ・セイショウだ。今まであまりコネクションがなかった大臣ポストの重要政治家の娘と、シロヤナギの娘がなにやら友好関係にあるらしいと。その情報はシロヤナギの母親をたいそう喜ばせた。結果、それほど時間をかけずに、シロヤナギは夏の最後の数日にわたる外泊の許可をとることに成功する。
 そしてシロヤナギの両親たちとしても、もうあまり命の時間が長いとも思えないひとり娘のやりたいことは、いまできるうちにやらせてやろう、という。素朴な親心はそこに働いていただろう。しかも名目は勉強合宿だ。しかも相手は名門オガワ家の娘で、滞在場所としても特に申し分はない。

 そしてもうひとつ、シオンが協力を約束した重要な役割があった。
 それは、期間中に届くかもしれない、各家族からの問い合わせのメッセージにレスポンスすることだ。
 さすがに4日の間、保護者らが息子や娘といっさいメッセージ連絡とれない場合には問題が持ち上がる。それを防ぐため、送信者の位置情報を偽装したうえで、一括してシオンが4人になりかわって無難なメッセージ返信を担当し、家族らとの連絡調整を行う。万一、誰かの保護者から直接的なコールが来た場合には絶対にすぐには受信せず、「ネットワークの技術的問題で映像・音声コールはつながりにくい。でもテキストメッセージならつながる」という形を偽装する計画だ。

 そういった連絡偽装の技術的な部分はすべて、シオン個人の調整手腕にかかっていると言ってもよかったが、しかしシロヤナギに言わせると、他ならぬオガワ・シオンならば、すべてをそつなく完璧にやりとげるだろう、と。
そのような非常に高い期待値を示されたので、残りの3人としては、そこはもう、シロヤナギのその言葉を信じるほかなかったのだ。
 実際問題として、いまこの時点で歩行中の4人はまだそれを知らなかったのだが―― オガワ・シオンは3日をかけて4人それぞれの受信・送信メッセージの過去アーカイブをすべて通読し、想定される受信相手と、そこにある典型的な表現パターンをすべて把握しマスターしていた。つまり4人に成り代って自然なリプライを書く準備は、かなり万全に近かった。


 時刻は11時をまわり、太陽は見た目上ほぼ真上に近い角度でいっさいの手加減なしに真夏の熱を投下している。
 錆びたレールを踏んで歩くサキのくっきりとした影は、ほぼ足元にあってサキの歩行にあわせて同じ速度でついてきている。右側を歩くタカキは、等間隔にならんだコンクリート製のスリーパーの上を、タン、タン、とリズミカルな足音をたてて踏み進んでいる。ところどころ欠落した部分では、「よっ」とか声をあげてジャンプし、前方のスリーパーに着地する。どこか少し、ゲームを楽しんでいるような感覚だ。
 その二人から15メートルほど前を、シロヤナギが先陣をきって颯爽と歩いている。シロヤナギは少し前に黒のジャンパーを脱いで、ダークレッドのワンピースドレスのスカートを揺らしながら軽快にバラストの上をザクザク歩く。ところどころ雑草が遮る部分では、グラスカッターを大胆にふるって草をたちきる。シロヤナギの美しい長い髪が、その動作にあわせて大きく左右に踊る。
 そしてそのシロヤナギを追いかける形で、大きな荷物を背負ったハルオミがそのすぐ後ろを歩いている。オーバーサイズの赤のTシャツに白のバンダナを頭に巻いたハルオミは、シロヤナギの歩調にあわせてその位置をキープしているものの、ハルオミ自身としては少しオーバーペースらしい。小さく口をあけてハア、ハア、と荒い呼吸で、しきりにタオルで顔の汗をぬぐっている。
 ここから右手後方には、4人がさきほど後にしてきた光ケ丘市の市街が、なだらかな二つの丘を埋める形で夏の日差しの下で白く輝いている。街と外界とを隔てる分離壁のくっきりしたホワイトは、ここからでもはっきりと見ることができた。
 自分が数時間前までにはその向こう側の世界に属していたことが、今ではサキには少し信じられない。あそこに自分の生活のすべてが、過去十六年の自分のすべてがあったのだけど。でも。なんて小さい世界だったのだろう。なんと小さな場所に、自分はしばられていたのだろう。そしてここは、なんと広いのだろう。
 風がたつ草原は、なんと大きいのだろう。右手のはるか前方によこたわる緑の山並みは、なんと大きいのだろう。そして空は、なんと広いのだろう。世界はこんなにも広かったのか。世界はこんなにも、大きかったのか。
 不思議なシンプルな高揚感が、さきほどからサキの心に広がっていた。日差しは強く、サキのひたいには大きな汗の粒がいくつも浮かんでいたけれど―― テニスシューズの底を通して伝わるレールの熱さに、足裏がかすかに悲鳴を上げていたけれど―― 
 でも。自分はきっと、ここから何キロでも。あるいは何十キロでも。あるいはそれより長く。自分はきっと、どこまでも――

「なんかさ、おれらこのまま千キロでも、歩ける気がする、よな?」
 タカキが言って、サキに視線をやってちらりと笑った。
 その言葉があまりにサキの気持ちを代弁したものだったから、サキは灰色の瞳を見開いて、びっくりしたようにタカキを見返した。
「やっぱ来て、よかったなって。おれはもう、この時点でなんか思うぜ。やっぱ広いよ、世界は。こんな広かったんだな、ここは。けど、あのまま街で何もしないで賢くじっとしてたら、きっとおれたち、何もないまま、だったんじゃないかな? ん、なんかうまく言えねーけど、」
「ん、わかるよ。うまく言ってる。タカキの言ってること、わたしもすごくわかる」
「おお。わかってくれる?」
「うん。わかる。」
 サキは小さくうなずいて、それから錆びたレールの上を離れ、二歩ほどタカキに近づき、そこからはタカキと同じく硬いコンクリートのスリーパーの部分を、トン、トン、トン、とテニスシューズの底でリズミカルに踏んで歩いた。
「なんかさ、たとえばだけど、」
 タカキが視線を遠くに向けたまま、歩調もそのままで、サキにむかって話をつづける。
「どっかあそこの山の向こうとか。あるいはあそこの草原のどこかさ、まあ、どこだっていいんだが。どっか景色のいい場所に、おれらこのまま、ずっとずっと、そのままそこに住みついちゃってさ。そこで、ただシンプルに、自給自足でひたすら暮らし続けるとかさ。そういうことも、あるいは、ほんとは、できたりするんじゃないかって。なんか、今はなぜかそんな気分だな。なんかほら、楽しそうじゃねえか? そういうの?」
「…そういうの?」
「うん。そこではずっといつも夏が終わらない感じでさ。どっかにおれらで家たてて、そこでみんなで、ずっとそのまま暮らすんだ。キャンプみたいに。もうあっちの街には戻らずにさ。なにかのおとぎ話みたいに。」
「…みんなっていうのは、誰? そこにはわたしも、含まれているのかな?」
「えっと。まあ、そりゃ、その、特に特定の誰かを想定して、その、おれは言ってるわけじゃ… そう。ないん、だけどな。そこはな。あくまで仮定の、仮の話で」
 タカキがわずかに動揺し、視線を大きくサキからそらした。
「おほん。えっと、わりぃ、なんか意味、わかんないこと言ったなおれ。すまない。」
「…ん。意味は、けっこう、わかったよ。」
「…そ、そうか…?」
「うん。わたしもそういうの、もしできたら、素敵だと思う。永遠に続く夏休み、みたいなの。あったらいいなって思う。そういう小さな、シンプルな、でもどこまでも何にもしばられない自由な暮らし」
「…だよな。ちょっと憧れたりはするよな? そういうの?」
「うん。する。」
 そのあと二人は無言で、ただリズミカルに、コンクリートの足場を踏んで、踏んで、長い時間を歩いた。
 サキは自分の右にタカキの息遣いを感じ、二人はその近い距離で、でもひたすらに無言で、ただ相手の気配、その存在を感じながら。二人で同じ方向を目指して、黙々と足をすすめていく。
 なんかいいな、と。サキは思った。ずっとずっと、この時間が続けばいいのに。ずっとずっと。二人は一緒で。ずっと同じ方を見ながら。ずっと相手を、すぐそばに感じながら。

「だけどどう思う? 本当だと思うか?」
「え…?」
 不意に声をかけられて、サキの思考はあわてて現実に回帰してきた。
「シロヤナギ。ほんとに死ぬのか? 死にそうなのか? あいつ?」
 タカキが視線を前にやり、はりきった歩調で線路の先を行くシロヤナギの背中に合わせた。
「なんかぜんぜん、元気っぽくないか? あれじつは、全部嘘だったんじゃねーの?」
「嘘?」
「ああ。おれたちを一緒に遠征に付き合わすための演技っつーかさ。そうでも言わなきゃ、たぶんおれら、計画の時点でやっぱ中止ってことにも、なりかねなかったろ?」
 タカキがスポーツキャップを頭から取り、腕でひたいの汗を大胆にぬぐう。キャップを頭に戻し、背中のバッグのアウターポケットからドリンクのボトルを取ろうと手を後ろにまわしたが、その手はうまくボトルをつかむことができない。
 タカキが仕方なくいちど足を止め、バッグをいったん背中から下ろし、ドリンクボトルを手にとってごくごくと勢いよく喉を鳴らして飲んだ。サキもバラストの上で立ち止まり、タカキがそれを飲み終えるのを無言で待っていた。
「だいたい、何の病気だ? 癌? 白血病? 実際なんだか知らねーけどさ、もしそんなの体にかかえていたら、今頃、あんなに元気に外を歩くとか、もともと無理なんじゃねーのか?」
 ボトルのキャップを閉じながら、タカキが視線をサキに投げた。
「…どうかな。でも、なんか、」
 サキはうつむき、それからまた顔を上げて、だいぶ距離がはなれて遠くなったシロヤナギとハルオミの後姿を目で追った。
「焦ってる感じは、したかな。ほんとに時間が惜しいって。時間がない。時間がない。たぶんシロさんのその焦りは、それ自体は嘘じゃない感じは、わたしはしたかな。それが死につながるものなのか、それとも別の何かなのか。それはわたしは、よくわからない。けど、」
「けど?」
「やっぱりシロさん、ちょっと普通じゃない、と思う。だって、あの、今日の服も」
「服?」
「うん。この炎天下で、あのドレス。ちょっとその服が好きだからとか、そういうのでは、たぶんないでしょう。普通はできない。暑くて。2キロも歩けば、脱水症て倒れちゃうよ。でも、ぜんぜん、シロさんは暑そうにもしてない。汗もあまりかいてない。あれはちょっと普通じゃない。」
「…そういえば、な。あれはちょっと、おれも確かに季節まちがってるんじゃねーか、とは、おれもちらっとは思ってたけど」
「体温調節とか。そういうのが、ちょっと、普通じゃなくなってきてるとか。きっと何か、それは病気に関係してるんじゃないかな?」
「うーん、やっぱそうかなぁ…?」

「おーい! 何をしている! そこ二人!」
 線路の先でシロヤナギがふりかえり、二人に向けて大きく手を振った。
「早く来―い! 遅いぞ、ペースが!」

「行くってばよ! いま行く!」
 タカキが片手を高く上げ、シロヤナギに声を返した。
「ったく。偉そうだな。線路に入って道が良くなってから、いきなり先頭でリーダー張りはじめやがった」
「まあでも、行こう。あんまりここで止まってると… この先の予定、あるんでしょ?」
「まあ、だな。朝のあそこの草刈りでけっこう時間をロスしたから。今からちょっと、ペースを上げて取り返す方がいいってのは、確かにそれは、あるかもしれない。」
「じゃ、行きましょ。」
「ああ。行くか」
 タカキはバッグを背負いなおして、それからキャップを、さきほどより深めにしっかりとかぶりなおした。
 線路の下から風が吹き上げてコットンホワイトのワンピースのスカートの裾が巻き上がりそうになったのを、サキは片手でおさえて防ぎ、もう一方の手で頭の帽子が飛ばないようにしっかりと支えた。
 それからサキは、先ほどよりも幾分ペースを上げ、太陽に熱された硬い灰色のスリーパーの上を軽快な足取りで飛び飛びに足で蹴り、少しずつ少しずつ、先頭を歩くシロヤナギとの距離をつめていった。


 そのあと1時間あまり進んだ地点で、4人は昼食をかねた少し長めの休憩をとることにした。
 時刻すでに正午を過ぎていた。はるか前方の山むこうの空には、むくむくとした積乱雲の峰が、あちこちで盛り上がりはじめている。
 4人のいる場所から数百メートル先の左側には天井の崩落した工場のような建築物が一棟あり、からみついたツタや蔓性の植物が壁面をびっしりと覆っている。ちょうどそこのあたりを起点として、線路沿いに灌木が林のように連なって列をつくり、数百メートルにわたって線路上にささやかな日陰のエリアをつくっていた。
 タカキが準備した計画地図上では、4人はいま、旧時代の放棄市街地である「病民区」と呼ばれるエリアの少し手前の地点にいる。そのエリアが近いせいか、さきほどからちらほら、半壊した納屋や、小さな住宅の廃墟など、明らかに人造とわかる構造物が線路の周囲にちらほら出現するようになっていた。その多くはほぼ屋根まで植物で覆われ、そこには特に動くものや最近人間の活動がその付近であったような形跡は特になにも見られなかった。風はなく、むっとした暑さが周囲を覆い、灌木の枝では多くのセミたちがさかんに鳴きあっていた。

 熱をおびたレールの上に並んで腰を下ろし、4人はそれぞれバッグからサンドイッチやパンやおやつの品々を取り出して思い思いに口に運んだ。
「お? おまえそれ、お弁当? 自作か?」
 タカキがシロヤナギの手元をのぞきこむ。シロヤナギは蛍光オレンジのタッパーウェアを開け、スプーンで中身をすくおうとしていた。
「ああ、これのことか。うむ。よかったら、少し分けてやってもいいいぞ。ほら、」
 そういってスプーンいっぱいに乗せてタカキの口の前に差し出されたモノ――
「うお…? なんだこりゃ!!」
 タカキがうしろにのけぞった。
 シロヤナギが大きく笑って、そのモノを口いっぱいにほおばってバリバリと噛み砕く。
 シロヤナギのタッパーの中には、見るもカラフルな各種の錠剤、カプセル、サプリメントのタブレット、それから正体不明のブルーとグリーンの顆粒状の物体などが、カオスに入り混じって詰め込んである。
「ははは。おどろいたか。まあでも、見た目はあれだが、味はけっこういけるぞ? カロリー計算も厳密にされている」
 スプーン山盛りのタブレットを口の中にさらに投入し、うまそうに頬張りながらシロヤナギが目尻を細めた。
「お、おまえ。それ、人間の食べ物か…? マジそれ、おまえ、ほんとに人間か?」
 タカキが腰がひけた声で言って、気味悪そうにシロヤナギを横目でうかがった。
「おいキミ。ひとの食べ物にケチをつける前に、まずは自分のカロリー補給をしっかり完了したらどうだ?」
 シロヤナギが澄ました顔で淡々と「食事」を続けつつ、スプーンをひらひら振ってタカキの視線を追い払う。
「さっきから君、ぜんぜん何もまだ食べていないようだか? 仮に君がこの先カロリー切れで倒れても、わたしたちは見捨てて先に行くかもしれないぞ?」
「うるせー。食うよ、食う食う。」
 タカキがハムとチーズをはさんだクロワッサン・サンドを少しやけくそ気味に頬張った。それからサキの方にこっそり視線を飛ばし、大げさにひとつ、肩をすくめてみせた。


 そのあとはシロヤナギを先頭に、その横にサキ、少し離れたうしろにタカキとハルオミという構成で線路上の歩行を続けた。サキとしてはさっきと同様にタカキとのペアで会話の続きをしたかったのだが。タカキとハルオミがさきほどから何かゲームの話題でもりあがり、二人だけの世界で何かしきりに笑いあったり大げさな手ぶりで感想を言ったりしている。そのためゲームにまったく詳しくないサキとしては、そこに割って入るだけの話題も度胸も持ち合わせていなかったというわけだ。
 自然とシロヤナギの横を歩く形になったサキ。無口に線路を歩くシロヤナギを横目に、肌を刺すような日差しを少し気にしながら、サキもしばらく無言で足を前にすすめた。
「で、サキとしてはどうなんだい?」
 いきなり横から声が飛んできて、サキはとっさに反応できなかった。
「だから。サキとしてはどうなのか、と。わたしは訊いているわけさ」
 シロヤナギは、サキの方を直接見ずに、視線は前に固定している。そこには表情はあまりなく、中立的、という言葉がサキの脳裏にうかんだ。ふだん笑ったり皮肉を言ったり、ころころと表情の変わるシロヤナギのイメージがあったので、そういう素面(しらふ)の横顔をこうして長く近くで眺めるのは何か少し不思議な感じだった。
「えっと。なんの話題、だったかな?」
「タカキだよ」
「え?」
「だから。どうなの。彼のことは? どう思ってる? 二人はこっそりつきあったりは、しているのかい?」
「なッ??」
 一瞬思考が沸騰したサキは、うっかりレールを踏み外してよろめいてしまう。慌てて姿勢を立て直し、あらためてシロヤナギの横顔をおそるおそるうかがった。
「ふ。答えがちょっとわかったな。つまりつきあってはいない、のだね? そういう公式な関係には、まだふたりは到達していないというわけか。だね?」
「ちょ、ちょっとさっきから、なに言ってるかわからない。」
「そう? じゃ、たとえばわたしがだよ、」
「え?」
「わたしがタカキを、こっそり横から盗っちゃったりしても。君はとくには文句はないの?」
「と、盗るとか。そもそも意味がわからないし。」
「ふむ。わからない、か。いいよ。じゃ、わからない前提で話をしよう。」
 シロヤナギがふっと視線を高い場所にとばして、しばらく空の何かを見ていた。太陽光線が直接シロヤナギの顔を叩いていたが、シロヤナギはまるでまぶしさを感じないように、目を細めることなくしっかりと視線を保持している。ふりそそぐ光が、シロヤナギの色素の薄い髪を透過し、それをまばゆい金色に輝かせている。
「そこにある気持ちは、早い時点で、言葉にして相手に伝えるほうがいい」
 シロヤナギは言った。視線をふたたび前方に戻し、光の中で、一定のリズムで変わらず歩行を続ける。
「たとえば明日、君の命が尽きるとしたら。それとも逆に、明日にもタカキが、死ぬのだとしたら。君はそれでも、やはり何も伝えず、終わるのだろうか。いつもの変わらぬ日常、いつもの無言で、君はその日を迎えるのか?」
「…それは――」
「いや、もちろん言いたいことはわかる。そんな極端な仮定は、ありえないでしょうと。たぶん君はこう言いたい。しかしそれは仮定だろうか? その期間はあるいは1日ではないかもしれない。あるいはそれは、半年かもしれない。あるいはそれは1年。あるいは2年。あるいはそれより長いのか。」
「…………」
「だけど。死なない人間など、ひとりもどこにもいないのだ。会えなくなる。もう二度と会えなくなる。その日は確実にやってくる。そしてその瞬間が来たならば。もう君は、二度と彼には会えなくなる。泣いても怒ってもわめいても。誰も時間をもとには戻してくれないのだ。つまりそういうことさ。」
「でも、だからって、何。シロさんは何が言いたいの…?」
「わたしを見本にしろと言っている。」
「見本?」
「いい方の、じゃない。悪いほうのだ。あるいは踏み台にしろと言い換えてもいい。早々と世界から退場していく、このつまらないわたしを見ろ。やり残したことがありすぎる。言えなかったことが多すぎる。いや。もちろんわたしは、今、それを取り返すために、いまありったけの言葉でだれかれかまわずわたしの気持ちを伝えているよ。でも。足りないな。ぜんぜん足りない。時間がない。時間があまりに、なさすぎる。」
「シロ…、さん、」
「だからだ。わたしのように潤沢な時間の洪水をすべて取りこぼして最後に醜くあがくような。そういうことは良くないぞ、と。わたしなりに。友人として。君にはすこしは、ましな人生を歩んでほしいと。まあ、言えば、老婆心というやつかな? 去り行く敗者が、まだ輝ける無限の時間の中に立つまぶしい勝者たる君に、こっそり、忠告を、と。その程度のものだ。迷惑だったら聞き流してくれ。ちょっぴり声の大きなひとりごとと思って、そのまま忘れてくれてもいい。」
「シロさんは―― 本当に―― 死ぬの、ですか?」
「はは。敬語だね。どうした? しょせんは同級生だ。普通に気楽に話してくれたらいい。」
 シロヤナギが笑い、それからちらりと視線をサキに向けた。その目はかすかに笑っている。
「答えは『はい。』だ。もうそれは確定事項だ。今さらそこから逃げることもできない。だからね、今日、そして明日、明後日。この旅のすべてが、わたしにとっての最後の生きた証、みたいなものだ。思い出づくり、などじゃない。思い出。そんなお遊戯ファンシーな甘い言葉は蹴り飛ばせ。そうじゃない。生きるんだよ、今を。時間を生きろ。時間で肺の奥まで満たせ。それは体験だ。それは経験だ。それは生きていることそのものだ。そこに立ち、それを見よ。触れよ。味わえ。抱け。そして必要ならば泣けばいい。叫んでもいい。総力戦だ。そこにある時間を全力で抱け。それが生るということだ。」
「重い話題、ですけど。うん。でも、」
 サキが言葉を探す。いまシロヤナギが言った言葉の銃弾が頭の中でびゅんびゅん鳴り響く中で。
「うん。でも。シロさんが、言おうとしてることは。あまり頭のよくないわたしにも。ちょっとはわかると思います。うん。わかるよ。わかる。だから、」
「ほう? ではわたしの言った言葉の価値を、君はいま、その場で理解してくれたわけだ。」
「えっと。うん。一部は、わかったと思います。その。全部じゃないけど。言ってることの、だいたいは、わかったと思う。わかると思う。」
「なるほど。それは朗報だ。じゃ、ひとつ、君がいまわたしの言葉を理解したことを前提に。ひとつオープンに話をしようじゃないか。さっそく実践、応用だ。」
「…え?」

「おーい! キセ・タカキ!」

 シロヤナギが大音量で名前を呼んだ。レールとレールの中央で大胆に姿勢をターンして、両手を腰左右の腰にあてて正面からタカキをにらんだ。10メートルほど後ろを歩くタカキがおどろいて顔を上げ、「なんだ? なんかあるのか?」と言って足を止めた。
「耳を澄ませて聴け。朗報だ。いまここにいるワキサカ・サキから、大事な話があるそうだ。サキのこれまでの人生史上、まれにみる重大トピックだそうだから、心して耳を――」
「ちょ、やめっ! やめなさい、シロ、ちょっと、冗談、」 
 サキがシロヤナギに飛びついて、全力でその口を塞ぎにかかる。
 シロヤナギは大笑いしてサキの両手をふりはらい、「もちろん冗談だ。ははは。ずいぶん動揺したな?」と言って、また腹をかかえて大笑いした。
「なんだよ。何ふたりでじゃれてる? 意味がわかんねー。」
 うしろでタカキが、右手を頭にやって困惑した表情をつくる。ハルオミもハルオミで、前方の線路上で取っ組み合うサキとシロヤナギを、不思議そうに交互に見比べている。


「なんかじゃれあってるね、あのふたり。」 
「ああ。案外、仲がいいんだな、あいつら。ああやって二人だけで直接はしゃいでるの、おれは初めて見る気がするよ」
「サキは基本、はしゃがないものね。もともとの設定というか。デフォルト設定?」
「だな。実際、はしゃがなすぎて、サイボーグ入ってるかと思うときあるよ」
「サイボーグ・サキ。」
「ロボティック・サキ。」タカキが続けた。「きわめてよくできた新時代型ヒューマノイドだ。欲を言えば、ポジティブ系統のソフトな感情表現のバリエーションにもうすこし技術開発の余地がある」
 二人は同時に噴き出し、笑いの発作に包まれた。く、く、く、と。タカキは笑いを押さえるのに必死だ。ハルオミは腹をかかえて笑っている。
「で、実際どうなんだ。おまえらどこまで行ってる?」
 ようやく笑いがおさまったあとで、タカキが言った。スリーパーに積もった褐色の砂をシューズで蹴った。砂埃はすぐに、線路の土手から吹きあがる南風にさらわれて消えた。
「ん? 行ってるって、何?」
 ハルオミがタカキの方をふりかえり、まとまりの悪いカール気味の前髪を右手で左右に分けた。ハルオミは帽子のかわりに、白のタオルをバンダナのように広く頭全体に巻いている。巻き方のバランスが悪いのか、歩くたびに前髪がくずれてすぐにひたいに落ちてくるのだ。
 そのかぶりもののファッションは、タカキの認識ではおそらくはるか遠い大航海時代の海の男らの装束が起源であるはずだが、ハルオミがそれをかぶると七つの海を馳せる屈強な男のニュアンスはどこにもなく、むしろ保育園児のお遊戯衣装のような、どこかかわいらしいソフトな雰囲気を醸し出していた。汗っかきのハルオミは、まだそれほど歩いてもいない時点からハアハア口で息をして、しょっちゅうバッグからボトルをとってはごくごく飲んでいる。
「シロヤナギと、だよ。おまえら正直、もうやっちゃってるのか?」
「何。それってけっこう露骨な話題?」
「いや。露骨っていうかさ、まあほら、やっぱちょっとは気になるじゃん? 友人のおまえが、おれよりどれくらい最前線の経験値ためこんでるか、とかさ。純粋な好奇心、的な?」
「それってぜんぜん純粋じゃないし。ってか、これ、昼間にする話題なの? んでから、あそこに本人、歩いてますけど?」
 ハルオミがジュースのボトルで、二十メートルほど先をあるくシロヤナギの背中をちょいちょいと指した。
「いいじゃん。聞こえないよ。なに、おまえこういう話題ダメな人?」
 タカキが笑い、右足のアウトソールでからかうようにハルオミを蹴った。
「だめってことはないけど。まあ、そりゃさ、」
 ハルオミが言って、首を左右に振った。
「ん。まあ、言うとあれだけど、やることは全部もうすべてやっちゃってますよ。貧しいタカキくんの想像をこえるあらゆる最前線のあれらこれらをね。みっちりと。」
「おお。マジですか? そこのとこ、詳しく。詳細求む。」
「こらこら。食いつかない食いつかない。」
 ハルオミが左手でタカキの肩をばんばんと叩いた。
「って、嘘だよ。実際のとこ、何もないよ。今のところはね。まだね。たまにちょっとキスするくらい?」
「なに。キスだけ? それも逆にむしろ、嘘くさいぜ。ってか、だっておまえら幼馴染だろ? しかも両家族公認の、生まれながらのカップル、的な?」
「ん、それ自体は否定もしないけど。でもいま言ったのは、ほんとのことだから。」
 ハルオミが言って、足元のバラストを大きく蹴り散らした。
「なんてかさ、シロはさ、ちょっとおれには、綺麗すぎるんだよね。美人もあそこまで行くと、ちょっと遠慮する。公共財、っていうかさ。自分だけのものじゃなく、なんか、公共の福祉、じゃなく。なんか世の中ぜんぶの人のために存在する大事な女の子、っていうの?」
「公共財。自分の彼女に関してそんなこと言うやつ、おれは初めて見たな。マジで言ってるのかそれ?」
「まあね。でも、マジだよ。なんかマジメに、そういう感じしてさ。そうそうシロには、公共性の低いおれなんかが、それほど気軽に、なんか悪いことはできないよ。それにさ――」
 ハルオミが、しばらく口を閉ざし―― ワークブーツの底で熱をおびたバラストをざくざく踏みながら。足元に視線を下げ、なにか言葉を、しばらく探していた。
「シロも、ふだんはああ見えて、けっこうシャイなところある。」
「シャイ?? どこのどのへんが?? もっともその言葉から距離の遠いとこにいるヤツじゃないのか、シロの場合は??」
「タカキはまだシロの一面しか知らない」
 ハルオミが言った。感情の揺れのない、静かなトーンで。
「あいつは―― シロは。けっこうああ見えて、繊細だ。けっこういろいろ可愛いとこあるし、けっこういろいろ、真面目なとこもある。皮肉屋の大胆キャラやってるシロヤナギも。まああれも、たしかにシロの一部だけどさ。でも、そうじゃない、すごく繊細で傷つきやすいっていうか。とてもピュアで壊れやすいシロも、やっぱりそれはシロなんだよ。ってかさ、それ以前にさ、」
「む。なんだ。まだあるのか?」
 タカキが意外そうにハルオミに目をやり、さきほどまでの冗談めかしたトーン抜きで静かにきいた。タカキの眼鏡のフレームが、陽光を反射してギラリと光った。
「まあ、本音で言っちゃうとさ。シロとはずっと子供の頃から、ずっと一緒だったでしょう。だからなんか、恋人って言うよりは。家族、っていうか。なんかちょっと近い従妹、あるいは妹、みたいな。そんな感じするよ。」
「妹。…あいつがそういう、キャラだろうか。おれには疑問だが――」
「まあでも。だから。なんかそういう身近なシロに対してさ。あんまりそういう、露骨な願望みたいの、なんか、浮かばないわけじゃないけど。なんかそういうので、今までのシロとのいろんなことを変えちゃうのが、ちょっぴり怖い。そう。怖いんだと思う。ただでさえ繊細なとこある複雑な子だからさ。そういう自分のギラギラしたシンプルなもので、せっかくのいろんないい関係を、なんか、ありきたりな自分本位の衝動で汚すのが、嫌だ。っていうのかな。うん。たぶんわりと、そういう感じだと思う。あえて簡潔に言えば、臆病者のチキンですいません、ってとこ?」
「……けどさ。別に、好きで、一緒になりたいとか。それが別に、汚いことばかりでもないだろう。自然なことじゃないのか? 好きな子と、ずっとひとつになりたいとかって。肌に触れてみたいって。おれがうっかり思っちゃうのは、それは間違ったことなんだろか?」
「いや別に。間違いとかでは、ないと思う。まあでも。それがなくても、いろいろ、綺麗なことや、すごく相手の可愛いとこがちゃんと見えたりとか。そういうのは、女と男のべたべたした何かと別個に―― とか、えっと。なに語ってるんだ、自分。ほら、タカキがなんか話ふるから。妙なテンション、なっちゃっただろう。やめよう。よそう。話題転換」
「おれはむしろ、もうちょっとお前の語りを聴いてたいとこは、正直あるぞ」
「それよりタカキも、自分のこと話してよ」
「自分のこと? おれがか?」
 タカキが意外そうにハルオミの方に視線を振った。
「そうだよ。タカキはどうなの。誰かつきあってる子とかって。今、いたりするわけ?」
「…いや。今はとくに、ないな。」
「『今は』ってことは、前はいた?」
「ん。まあ、いたような、いなかったような」
「何だよ。自分のことになると、急にディフェンシブになるよね、タカキ?」
 ハルオミが皮肉っぽく笑い、バッグのポケットからボトルをとって、自分の口にもっていく。蛍光イエローのその液体は、もうボトルの底に近いところまで減っている。
「じゃ、別の質問。いま、好きな子とかはいないの?」
「む。厳しい質問だな」
「ぜんぜん厳しくないですから。普通の質問でしょ?」
 ハルオミが笑った。ボトルのキャップを閉じ、それをまた背中のバッグのサイドに戻す。
「っていうか。サキはどうなの?」
「あん?」
「サキのことは。けっこう好きとか、思っちゃってる?」
「…おい。具体的にくるな。けっこう、ボディーブロー的に?」
「この程度でダウンされると困りますね。っていうか。いまの返しは、けっこうあれだね。ちょっぴり答え、含んでました、的な?」
「いや。ぜんぜん答えは言ってないし」
「でもなんか、今朝とか、二人は、いい感じだったじゃない? なんか親密な二人の絵がそこにあった気がしたよ」
「今朝っていつだ。意味わからねぇよ」
 タカキが笑った。そしてそのあと、ちっ。まいったな、と。そう言って自分の短い髪を右手で掴んでガシガシこすった。
「…いや、訂正する。正直おまえ、鋭いとこあるよな、ハルオミよ」
「ほら。図星だった」
「む。まあ、完全に認めることもないわけだが。全否定もしねぇと。その程度で、いまはおまえに言っとくことにするよ」
「ははっ。なにそれ。けっこうなにげに照れ屋さん?」
「照れてはいねぇ。まあ、全否定でもないって。おれはそう言っただけだ」
 タカキは言って、それから唇の上に自虐的な笑みをつくった。
「まあ。そうだな。じっさい可愛いじゃん? あいつ?」
「あいつってサキ?」
「言わすな」
「むしろ言わせたいねぇ」
「バカやろう。やめだやめだ、この話題。それこそあっちに聞こえちまうよ。ここでうかつに自爆するとかは、おれの明るい近未来のオプションには入ってないからな。やめよう。なにかもっと別のこと話そう。ほら、ハルオミ。次の話題来い。」
「なにそれ。なんかせっかく盛り上がってきたのに。もう。照れ屋さん」
 ハルオミは言って、ワークブーツのサイドでタカキのふとももを軽く蹴った。蹴られたタカキは、「いいから! 終われっつってんだよ、この話題!」と言って、足元のバラストを思い切りハルオミの方に蹴り散らす。タカキはそのあと笑って、
「くそ。やられたな。誘導尋問的に。ったく、ハルオミめ。」
と左手で頭を掻いた。



「まいったな。これは想定してなかったぞ。」
 タカキが険しい表情で前方に視線を走らせた。
 4人が足を止めた地点は、「病民区」と呼ばれる、旧時代の市街地廃墟の入り口の地点だ。壁や天井の崩落したコンクリートの建築物がたてこんだこの地区は、南北およそ5キロ、東西3キロあまりにわたって広がるエリアで、そのほぼ中央を、4人がここまで歩いてきた鉄道軌道がそのまま途切れずに南東から北西方向へ貫いている。当初の計画では、4人はこの軌道上をできる限りはやく寄り道せずにすばやく突破する、はずだった。ところがここに来て予期せぬ問題が待っていた。

 それは水だ。ここから視界に入る廃墟市街のほぼ全体が、理由はわからないが、冠水している。見える範囲に限って言えば水深はそれほどでもなく、せいぜい10センチ程度。
 水の透明度は非常に高く、水面は鏡のように静まりかえり、水流や水の動きなどは基本的にはない。歩いて突破することは、見える範囲に限ってはそれほど困難なミッションではないのかもしれない。4人がいま立っている廃線軌道は、ここから先、少し進んだポイントから水の下にもぐり、その先の冠水市街地へと4人を導こうとしている、のだが――

「正直、不安があるな。リスクがある。どこで急に水深が増すかもわからんし。見た感じは綺麗だが、この水にどんな有害物質が溶け込んでるとか、おれたちには知りようがない―― って、こら! シロ! おまえ! そこ、なにやってる!」
 タカキが怒鳴った。シロヤナギは水際の地面にしゃがみこみ、そこにある水を確かめるように左手を水の中にひたしていた。
「見たところ、安全な水のようだ。匂いもなし。」
 シロヤナギが真剣な表情で、自分の手の甲に鼻を近づけて水の匂いをかぎながら言った。
「大丈夫だ。おそらく水質に関しては問題ないだろう。」
「こら、大丈夫とか、なに勝手な―― お、おい! 待て、シロヤナギ!」
 タカキの制止に耳をかさず、一歩、二歩、三歩、シロヤナギが水の中にふみこんでいく。静まり返った浅い水の表面に、かすかな波紋が広がっていく。
「どうした? 行かないのか?」
 冠水が始まるポイントから数メートル先で、シロヤナギがふりかえり、怪訝そうに3人を見た。シロヤナギのブーツは、つま先が隠れる程度まで水につかっている。そこの地点での水深はごく浅いものであるらしい。
「おい。いちど戻れ、シロヤナギ」
 タカキが呼んだ。その声は少し固かった。
「先に進む前に、作戦会議だ。いいから戻ってこい」
 呼ばれたシロヤナギは肩をすくめて最初は抗議の姿勢を示したが、タカキに真剣な視線を感じたのか、「わかったよ。いま行く。」とひとこと言って、ばちゃばちゃと浅い水を踏んで3人が地点までゆっくりと戻ってきた。

「おれとしてはあまりこれは言いたくはないんだが、」
 タカキが3人の顔をひとりひとり見て、やや言いにくそうに、そのあとゆっくり言葉を継いだ。
「ここが、もしかしたら、引き際なのかもしれない」
「引き際?」
 ハルオミが、タカキの顔を見返した。
「ああ。これ以上、ここを進むのは、リスクがけっこうでかい、気がする。冠水自体は、見えてる範囲はではたいしたことないようだ。あるいはこのまま、歩いて抜けられる可能性もある。でも。そうじゃない場合。どこかで水深が急に増すとか。そういう可能性も否定はできない。なにしろ、旧地図を見る限りでは5キロ以上、ここを進まなきゃダメってことだから。そのあいだのすべての地点が、こういう浅い場所だけとは、想定しにくい。そうじゃない可能性の方が、おれには高い気がしてならないわけだ」
「心配性だな、君は。」シロヤナギが小さく笑いを漏らした。
「そこは慎重と言え。」タカキがシロヤナギをにらんだ。
「楽観してて危険な目にあうよりは、少しばかり悲観的に見ててケガしない方が総合的には賢い。」
「そうかな? 楽観しながら、結果としてケガもなく通過できる可能性も十分あるだろう。」
「じっさい、それがいちばんいいわけだ。だが。いろいろ不確定要素がある。ただでさえ、正直あまり通りたくもない病民区だ。できるだけ短時間での突破を想定してたところに、こういうネガティブな追加ファクターが目の前にある。この状況で、うん。行きましょう。安全です。とは、おれとしてはあまり簡単には言えないな」
「じっさい君は、どういった危険を想定してる? その、水深が増すこと以外で?」
「…いろいろある。ってか、ありすぎるよな。まず、その、何か未知のウィルスだか汚染物質だかが、この水に溶けている可能性。それから―― まあこれは、ないだろうとは思うわけだが。というか、願望として、あっては欲しくないことだが。ここに誰か、未知の危険な残存住民のような者が居住していて、それらと遭遇する可能性。あとは―― いや。言い出すとキリがない。今言った2つだけでも、それはそれなりのリスクだと思わないか?」

「あのさ、タカキ、」

 それまで黙っていたハルオミが口をひらいた。
「なんだ、ハルオミ?」
「単純にさ、迂回はできないの?」
「迂回?」
「うん。この、水没してる市街地をさ、まるごと迂回して、その外側を、ぐるっと歩いて向こう側にたどりつくっていうの。ちょっぴり距離はのびるかもしれないけど、それだと、比較的――」
「いや。だがそれは、『ちょっぴり』ってレベルの距離では、すまないだろ?」
「そう?」
「ああ。まずもって道がない。実際あるのかもしれんけど、おれたちの手持ちの旧地図じゃ、たどって歩ける市道だの外周道路のようなものは細かく載ってないし。もし仮に舗装道路があったとしても、どうせみんな草の下に埋もれてる。おまえハルオミ、今朝の出発のときを、ちょっと思い出してみろよ。あの水路沿い。歩けるように道をつけるだけで、かなりの時間を消費したろ。あともちろん、体力も。あれを、またここで、少なくとも5キロとか。いや。迂回だから、もっとか。その倍ちかい距離を、あの調子で今から進む、とか。可能か? それは? というか、やりたい、そういうの?」
「うーん。そう言われると、ちょっと無理な感じはしてきた」
「おれはムリだ。そういう気力ないし、だいいち地形も平坦とは限らないし。そこを道もわからず歩くとか。とてもじゃないが、賛成できない。」
「サキは? 君はどう思う?」
 シロがサキに話をふった。サキはじっと足元に視線を落としたまま、しばらく何も言わなかったが、やがて視線をわずかに上げ、よくわからない、と言った。
「…わからないけど。いま、3人の話してるのを聞いた限りでは、その、最初にタカキが言ったことが、たぶん、自分の感覚に近いかなって思う。ちょっと怖い感じはする。正直、この水がないとしても。ここをこれから―― この見えてる廃墟を通り抜けるとか、それ自体がけっこう、怖いなと思うところはあるし」

「なるほど。じゃあ、こうするか? 怖がりな君たちはここに残る。わたしは先に進む。」
 シロヤナギが皮肉な視線で3人をひとりひとり見た。
「で、慎重な君たちはここから賢明に引き返し、一足はやく出発地点の処分サイト付近に戻ってそこで安全に待機する。で、わたしはひとりで進んでこの先にある美しいビーチで最高の景色をひとりで独占し、またひとり戻って、そこで賢く待機する君たちと合流する。万一わたしが定刻までに戻らない場合には、君たちは3人だけで市街の中に帰還する――」
「おいこら。勝手なこと言いやがって。」
 タカキが首を左右に振り、長い息をひとつ吐く。
「んなこと、できるわけねーだろ。単独行動の妄想は捨てろ。おれたちの誰かひとりでも戻らなかった、あるいはケガをするとかした時点で、おれたち全員が詰む。ひとりでも脱落したらアウトだ。誰かが欠けた状態であっちに戻った場合には、とてもじゃないが、おれたちは無事には切り抜けられない」
「ほう。つまり誰かの安全を言い訳にして、結局は君自身の保身が大事だと。そういう理解でいいのかな?」
「ちょっとシロ。それは言い過ぎだよ。」
ハルオミが二人の議論に割って入った。
「タカキがいま言ったのは、この旅行のまとめ役として、言わなきゃダメな当たり前のことでしょう。」
「…オミくんは、タカキと同意見というわけかい。」
「というかさ、ほら、たとえば。いまここ、ここまでで、とりあえず満足してさ。ここでひとまず、終わりにするっていうのも、それはありなんじゃないかな?」
「…終わり、とは?」
「つまり。ここに来るまで、いろいろたくさん、これまでのおれたちの人生では一度も見たことなかったいろんな景色が見れたでしょう。けっこう歩いたし。ここまでだけでも、それはそれで充分に大きな冒険だったと。そう考えることも、ほら、あながち、間違いとは、えっと、その、」
 刺すようなシロヤナギの視線をそこに感じて、ハルオミが口をつぐんだ。
 シロヤナギは唇を噛み、うつむいて、なにかをじっと考えている。ほかの3人も、それ以上の言葉を見つけることはできず、ただ、次に誰かが言葉を発するのをそこでじっと待っていた。

「わたしは行きたい。見たいよ、海を。」

 シロヤナギが地面を見たままで言った。
「ここまで来たんだ。この、わずかな水深の水たまりを見ただけで臆してすべてを投げ出した場合、街に戻ったわたしは死ぬまで後悔するだろう。あそこで足を踏み出して、もう少しだけ先まで行けば、どうだったのか、と。死ぬ直前の人生回顧で、そんな後悔をかかえて泣く泣くこの世界から退場していくなんて。口惜しいじゃないか。なぜ今、トライしない。少しの勇気だ。それがなぜ、今、ここでムリなのか。なぜ、ここで終わらなければならないのか。わたしにはその理由が見えないよ。」

 シロヤナギのその静かなつぶやきは、そこに立つ3人それぞれの心にそれぞれの響き方でそれぞれの心を通り過ぎていった。
 そのときサキの脳裏には、このはるか先で待ち受ける黄金に輝く夕暮れの海の映像がひとつの音もなく通過し、そしてどこかに、しずかに消えていった。遠い波音を聞いた。サキの心がキュウっと小さく縮まり、でもやがて、またそれがほぐれてもとに戻ったとき。そこには先ほどとは少し違った景色があった。

「わたしも行ってみたい、かも。」

 サキが言った。とても静かな声で。
「見たい、気がする。ううん、『気がする』じゃない。見たいと思う。海を。そのビーチの白い砂を、自分の足で踏んでみたい。自分でその水に、触れてみたい。確かめてみたい。ほんとにそれが、塩の味がするのかどうか。」

「……わかった。妥協案だ。これならおまえら、納得するのか?」
 タカキがシロヤナギの隣のレール上にどさっと腰を下ろし、自分のスニーカーの紐をじっと見つめてつぶやいた。
「水質がどうのとか、そっちのリスクはひとまず看過しよう。シロはもう水に触れちまってるし、足までつけてる。今さらウィルスがどうのこうの言うのもばからしい。もしそこにあるなら、シロはもう汚染されてる。そしてじっさいシロの言う通り、ここにはとくに有害な何かはないのかもしれない。だから。ひとまずおれたちは先に進む。水の中を、ある程度まで。ただし、」
 タカキが右足のスニーカーの紐を解いて、それを再び、少し固く結びなおした。そのあと左側も、同じように紐のしめつけを微調整する。
「ただし。このレールの先で、どこか水深が深くなったり、あるいはレールが崩落してるとか。明らかに歩行が困難なシーンが出てきた場合には。そのときは潔く引き返す。それ以上、不用意に無策に奥まで踏み込まない。それが条件だ」
「……撤退の条件が、あれだな。やや、安易ではないかな。そして曖昧だ。その危険度を、誰が、どのような基準で判断する?」
 シロヤナギが親指の爪を噛みながら言った。視線は地面に固定したまま。
「よし。じゃ、目安としては、おまえの脚の長さを基準にしよう。」
 タカキが二回、自分自身を納得させるかのように小さく首をたてに振った。
「膝丈までの水深ならば引き続きGOだ。しかしそれを越えて太腿以上に達した場合、それは危険とみなして引き返す。じっさいその水深だと、何か予期せぬ危険があったときにも走って離脱がムリになる。だから膝丈の水深を上限に。どうだ? それなら明確か?」
「…そうだね。いや。こういう状況下で、瞬時にそういう具体的な基準を思いつける君の頭脳の回転の速さに、少しわたしは感銘をうけた。大満足とはいかないが、比較的、穏当な基準と言っておこうか。そうだな。そのレベルの取り決めが最初にあるのなら。わたしも、その折衷案に乗るのは、ま、やぶさかではない」
「…ったく。賛成なら賛成と、シンプルに言えよシンプルに。やぶさかとか、十六歳の誰かが言うのを初めてきいたぜ、おれは」
 タカキが笑って、それから機敏な動作で立ち上がる。アーミーバッグを腕で拾い上げ、背中の中央の位置にしっかりと固定し、補助用のウェストベルトもしっかりと締めた。
「よし。じゃ、ひとまずシロヤナギの賛成はとりつけた。あとの二人も、いいのか、それで? おれとこいつの無茶ぶりな水中歩行に、ちょっとはつきあおうかって。そういう気持ち、あったりするか?」
「うん。行こう。わたしも二人についていく」
 サキがうなずき、ラフィアハットを頭からはずして背中のバッグのベルトに紐でくくって固定した。水の上を歩くとき、うっかり落とす失敗を避けようという意図だろう。
「ハルオミは?」とタカキ。
「えっと。おれとしては、うん。行くのはいいけど。つきあうけど。でもさ、たとえば、」
「たとえば?」
 サキがハルオミをふりかえる。
「たとえばボートとか、何かを浮かべて、それにのって漕いで行く、みたいなことができたら? 多少の水深があったりしても、そこは簡単にクリアできるかもって。ちょっぴり思った。いま思いついた。むしろ歩くより安全で速いかもしれない」
「む、ボートか――」
 シロヤナギが爪を噛んだままでハルオミの言葉を吟味する。
「ハルオミよ、おまえいつもひらめきとか発想力はすげえなって。おれは正直感心するとこもあるけど、」
 タカキが言った。その目は柔らかに笑っている。
「けどな。素材はどこだ? どこにボートの材料がある? 廃墟の水たまりの中を、今からかけずりまわって拾いに行くのか? そういう不確かな材料集めに時間を消費するのは、あまり賢いとは思えんし、それに第一、四人が乗れるほどのちゃんとした構造をここで作れるのか? 短時間で? おれには疑問だな。つまりアイデアは優れてるけど、現実的な実行可能性に難あり、の評価だな。どうだ? 反論ある?」
「……うーん。反論って言うほどじゃないけれど、」
 ハルオミが、ちょっぴり困ったように小さく笑って視線を外した。 
「でも、じつは今もう、ここにボートありますとか。おれが言ったら、怒られる?」

 ハルオミが背中の大荷物を地面に下ろし、巨大なアーミーバッグの口をひろげて中から何かを引っ張り出した。円筒形に圧縮ロールされたそのモノ。色はビビッドイエローで、見た感じ、防水素材のテントのように見えたのだが――
「えっと。レジャー用のゴムボート。いちおう、最大五人乗りってなってるから、たぶんギリギリ、荷物を載せてもいけるんじゃないかな。」
「マジか! おまえ、なんでこんなの持ってきてるんだ??」
 タカキは地面に膝をつき、そのイエローの防水素材を両手で持ってラベルの部分に顔を近づけた。
「えっと。もともとは、着いた先のビーチで、これでちょっぴり遊ぼうとか。そういう軽いノリだったんだよね。まさか途中で水没区間があるとは想像もしてなかった。まあでも、これ、ひょっとしたらここで役に立つんじゃないのかな」
「でかした、オミくん! やはりわたしの夫になる男だ! その先見性には脱帽だ」
 シロヤナギがハルオミの肩に大きく腕をまわし、なんのためらいもなく左の頬にまっすぐ何度もキスをした。されたハルオミの方は、こういうシチュエーションに慣れているのか、あまり特に動揺もせず、「ちょっとシロ、やめてよ。人のいる前で」と抗議し、軽くシロヤナギの抱擁をふりほどいた。
「えっと。そしてこれが、圧縮エアのボンベ。これをここにコネクトして、ここのバルブをひらくと―― 一気にエアが出る仕組み。自分もまだ、じっさいやってみたことないけどね。でもたぶん、1分もかからずに展開する、はず。んでから、これがオール。まあ、これはわりとオモチャっぽいから、あんまり速くは漕げないと思うけど」




 4人のプランが固まった。
 水深のごく浅い部分では、四人はレール上を歩いて進む。そこではボートは、最後尾をゆくハルオミが、うしろから手で押してゆく。水深が浅すぎると、少し誰かが乗っただけでもボートが底をこすって進めなくなるからだ。しかし、もし仮にどこか先で、水深が大きく増す地点があれば―― そこではボートを使って、4人は水上を移動する。

「あ。あと、そうだ。行く前にこれを」
 タカキがバッグから、何かふだんサキがあまり見ないツールを2個、無造作に取り出した。オフブラックのメタルで出来たその製品。タカキはひとつをシロヤナギに手渡し、もうひとつをサキの手に預けた。
「えっと。これってどう見ても、銃、だよね…?」
 温度の低いメタルが伝える硬質な感触を指に感じながら、サキがタカキの顔を見た。
「まあ、そりゃ、見た通りなわけだが」
 タカキが軽くうなずいた。
「いちおう護身用に、こういうのもいるかなと思って。こっそり用意してきた。ただし手持ちが二つしかないから、とりあえず女子二人に。おれにはグラスカッターがあるし、ハルオミはたしか、アーミーナイフあったろう」
「ふーむ。なかなか準備周到、と言いたいところだが」
 シロヤナギが言った。いま手渡されたその硬い物体を興味津々でもてあそびながら。
「しかし、射撃訓練などをまるで受けていないわたしなどが使っても、危なくはないのか? そもそもセーフティ・レバーの位置すらも、今ひとつ理解していないのだが」
「セーフティはそこだ。引き金の左手前。なんかバーがあるだろう。それのロックを親指で解除すると、普通に撃てる。ほら、こんな感じで」
 サキに手渡した一丁をいちど回収し、気軽な感じでそのレバーを上げるとカチッと小気味よい音がした。
「で、こんな感じで撃つ、と」
 タカキが右手をまっすぐのばして線路ぎわの灌木に狙いをつける。
 プシュ、と気が抜けた音がして、何かが発射された、らしい。
「と、まあ。要するにこれガス銃だから。ご期待のような破壊力はないし、せいぜい空き缶を貫通させる程度だ」
「なんだ。期待はずれだな」
 シロヤナギが露骨に肩をすくめた。
「わたしはてっきり実弾射撃ができるまたとない機会を得たと思って、内心小躍りしていたのだが。いまの落胆は相当だ。くそ。騙しだな、それは」
「バカ。そういう暗い破壊衝動は、ここじゃないどこかでこっそり消化しとけ。じっさいこれでも、手に入れるのにけっこう苦労したんだぜ。んでから言っとくと、ガスだからってバカにしてると、意外に威力あってケガする。なんなら自分の腕、撃ってみ。至近からだと、かるく皮膚を破って出血だらだらくらいの傷はかんたんにつく」
 タカキがセーフティを戻して、また銃をサキの手に戻した。
「あらかじめ言っとくと、装填してるのは12発分の高圧カートリッジ。12発撃つと、いちど外してガスをチャージする必要ある。今撃ったから、こいつはあと11。撃ち尽くしても、戦闘の佳境にのんきにチャージすることは事実上無理だ。まあ、予備はないと思って弾をムダにしないように。って、言ってるおれが、さっそく今、ひとつ無駄にしちまってたか。ったく世話ねぇな…」

 シロヤナギとタカキを先頭に、4人は浅い水を踏んで廃墟市街に足を踏み入れた。水温はそれほど高くもなく、低くもなく。快適な温度で4人の靴の周囲からたちまち侵入してソックスまでを濡らした。
おどろくほど透明度の高い水だった。4人が踏んでも、とくに泥が立ち上がったりすることはなく。4人は浅い水たまりの水を踏むのと似たような感覚で、水面下数センチ下に水没している金属レール部分を踏みながら、ゆっくりと前進を続けた。
 4人がたてる水音以外にここでは音はなく、セミの声も、ここでは聞こえなかった。
 4人の左右には、ひどく古いコンクリートの建造物がびっしりと立ち並んでいる。もっとも近いものは4人が歩くレール上から数メートル程度の距離にあり、視線をむけると、扉を失った入り口部分から中の構造を見ることができた。たいていの建物は線路上と同様に床一面を澄んだ水が静かに満たしており、中はがらんとして、崩落した天井や崩れた壁の部分から夏の光が降りこんでいた。
 廃墟の市街は思いのほかに明るく無音で、むしろなにか、清楚な光の、静謐な世界がそこにある。時間がここでは終わってしまって。もう過去のすべては遠い遠い記憶のかなたに過ぎ去って。あとには静かな、死だけが、ここで静かに眠っている。そういう、しずかな墓所に近い昼下がりの安息が街全体におりていた。

 先頭をゆくタカキの左手には、草刈り用のカッターが握られている。ブレードの切れ味も重量自体もそれほどでもないホームセンター購入のそのツールは、対人武器としての殺傷力はあまり期待できない。サキは先ほど支給された黒のハンドガンを手にしてはいるが、あくまで銃口は下にして、自分でもそれをあまり意識しないようにしている。いっぽうのシロヤナギは、サスペンス・ドラマでよく見るように玄人っぽい両手構えであちこちムダに狙いをつけて遊んでいたが、足元よくみろ、むやみにふりまわすな、とタカキに怒られて、それ以降はあまり銃を振らなくなった。
 三人から少し遅れて、ボートを伴ったハルオミがついてくる。最初はそれを押していたハルオミだが、途中から、押すより引く方が楽だと判断した。テント設営に使うファイバーケーブルをボートの前部にしばりつけ、それを肩にかつぐ要領で、ゆっくりボートを牽引する。レジャー使用の派手なイエローのゴムボートが、誰一人歓声を上げることもない、およそレジャーとは無縁の無機質な廃墟の水面を割って、かすかな波を立てながらゆっくりと前進してゆく。

「静か、ね。ほんとに。全部が眠っているみたい。」
 サキがはじめて、感想を口にした。
 タカキがちらりと振り返り、そうだな、と小さな声で同意した。
「ねえ、ここは、なぜ放棄されたのかな。どうして街の人は、みんないなくなってしまったんだろう?」
 ハルオミが視線を四方にめぐらせ、3人の誰にということもなく、素朴な感慨としてその疑問を口にした。
「…光ケ丘市が流布してる公式な歴史によるなら、もちろんそれはシアノ・ウィルス、ってことにはなってるけど、」
 タカキが応じた。歩調は止めず、視線も特にハルオミには向けずに。
「でもどうも、それだけでもない。ってのは、いまここでおれは理解した。いろいろ語られていない、知らない何かがここで起きたんだろう」
「知らない何か?」とハルオミ。
「ああ。ほら、たとえばあそこ。あの、4階建ての、大きな建物があるだろう。あれだ。壁が崩れて、鉄骨がむきだしてるやつ。」
 タカキが左手で、やや前方左に見える規模の大きな半壊の建造物を指さした。
「あそこの柱。全部が、横にひしゃげてるだろ? 四本。あれ。あの形は、側面からの大きな力が加わった感じだ。地震とかの振動で壁面のみが崩落したとか、超過加重で柱の一部が破断したとか、そういう崩れ方じゃない」
「どういうこと、つまり?」サキがきいた。
「なにかの力が、水平方向から働いたってことだ。横から何かが、叩きつけた。そういうタイプの破壊の跡だ、あれたぶん。」
「…なるほど。想定が容易なのは、たとえば爆風、のようなものだね?」
 シロヤナギが、なんどか小さくうなずいた。
「まあな。おれもイメージできるのは、爆発、とか。そっちの方だ。なにかきっと、攻撃受けたんじゃないかな。なにかの兵器で。単発のガス爆発とかにしては、あまりにも破壊が広域すぎるし。あとは、まあ、確率低いと思うけど、なんか隕石落下のインパクトあったとか。この微妙な地盤の沈下と冠水も、そのインパクトの影響、とか。まあいろいろ想像はふくらむ。けど、あくまで想像だ。まあしかし、少なくとも、単純にウィルス拡散で住民が逃げたから廃墟になりました、とか。それだけの説明では、ここの廃墟の破壊っぷりは説明できない」
「すごいねタカキは。ここをちょっと歩いただけで、それだけいろいろ、考えられるんだ」
 サキが素直にタカキを褒めた。タカキは照れて、よせよ。おだたても何も出ねぇぜ? と言って、サキの方にむけて右手をひらひら振って顔をそむけた。


 4人はそのあと、かなり規模の大きい駅の構内を通過した。そこでは線路が4つの路線に分岐し、かつてのプラットフォームの構造部分が、ある程度の屋根の構造を残したままでそこにとどまっていた。屋根のない部分から光の柱が何本も構内に降りこんで、あたりを神殿のような静けさで包んでいた。
「中央駅、みたいな感じか。当時はけっこう人の乗降はあったんだろうか?」
 タカキがつぶやき、プラットフォームの屋根を支える太い柱を遠目に眺めた。
「どうだろう。むしろこの構造は、どちらかというと物資の積み下ろしに特化した駅だったのじゃないかと。わたしにはそう見えるが」
 シロヤナギが周囲をみわたしてタカキの問いに応じた。
「ほう? 根拠は?」
「あそこだ。大型リフト。あと、あそこで錆びてる大きな物体は、あれはコンテナ運搬用の土台のパレットじゃないのか。少なくとも2つのプラットフォームは、重量物の積み下ろしに対応した設備を備えている。いや、『備えていた』のではないかな」
「なるほど。そうか。言われれば、あれだな。街の規模のわりに、基本が単線のわりに。この駅の規模だけはけっこうでかい。つまりあれかな。工場都市、的な。なにかそういう生産機能もった街だったのかもしれないな。それから――」
「ねえタカキ、ちょっとペース落ちてる。そういうさ、歴史や考古学の考察はいいから。はやく抜けようよ、ここ。危険ゾーンなんでしょ?」
 うしろから追いついたハルオミが、タカキに文句を言った。
「おお、わりぃ。なんか見るものすべてが珍しくてさ。こういうデカい廃墟とか、ゲーム以外で直接見るの、これが初めてだから。いろいろなんか、テンション上がった」
 タカキは唇をちょっぴり曲げて自虐的な笑みをつくり、その横でまだ構内設備の各所に視線をはせているシロヤナギの腕をつつき、なあ、行こうぜ、と言った。


 実際にボートを必要としたのは、結果としてはごく短い距離だった。距離にして、二百メートル程度。市街のその部分では建物の破壊がひときわ激しく、レールも大きく変形し、支えとなっている土台の部分が根本から崩れてしまっていた。ただし水深としてはそれほどでもない。もっとも深い部分で1メートル20程度。大半の部分はそれよりも浅かった。
 しかしその短い区間も、突破はそれほど簡単ではなかった。ボートの制御が、事前の四人の想像よりも、はるかに難しかったのだ。

「一、二、一、二、一、二、ってか、おいハルオミよ。これってどう見ても設計的にオール使う仕様じゃねぇだろ? なんでこんな使えねー小型オールを持ってきてんだよ?」
 ボートの右側で掛け声とともに水を掻きながら、タカキがハルオミに噛みついた。ボートは不安定に方向を変え、少しでも油断すると、レールの軌道からはずれて検討違いの方向に船首を向けてしまう。
「だって、しょうがないじゃん。まさか外部モーター持参で、ここまで歩くとかは無理でしょ。重量どれだけあると思ってんの?」
 左側のポジションから、オールを振ってハルオミが抗議した。
「ってか、ほら、手が止まってる止まってる。もうちょい、タイミング合わせないと。タカキはちょっと、力入れすぎ。さっきから左に寄りがちだから。もうちょい気楽にいこう」
「てか、そこはハルオミ、お前がもっと力強く漕げ」
「ほら。行くよ、タカキ。手を止めない。せーの、一、二、一、二、」
「オミくん、だめだめ。こんどは右に振れている。もう少し左に修正を。こら、キセ・タカキ。タイミングがずれてるぞ。もっとオミくんに合わせて」
「一、二、一、二、ってか、シロはおまえ、口ばっかりでイラつくな。ちょっとは漕ぐの手伝え」
「こらそこ。無駄口をたたくと、またそれでタイミングがずれる。タカキ、君はもっと集中したまえ。危険個所を渡っているのだろう? 緊張感を失うな」
「一、二、一、二、一、くそ、シロめ。偉そうに船長を気どりやがって。ってか、おい、ハルオミ。おまえそれ、方向、またやばい。ちょっと漕ぐのやめろ。おれの側で修正する」
「だからそこはさ、タカキがぶつぶつ言うからタイミングずれるんだよ。もう、ほんと嫌になるなぁ」

 しかしともかく、その水深のある破壊の区間はまもなく終わった。ふたたび水は足首程度の高さに退いた。四人のたどる鉄道軌道も、もとのしっかりとした構造を取り戻す。ボートを降りて、四人はまた、水没レールの上を最初と同じように踏んでゆく。
「ん? これは…?」
四人の先頭を進んでいたサキが、足元の水中に何かを見つけた。手をのばし、その物体を水の中から拾い上げた。
「なんだ、サキ? それ?」
 タカキが横からのぞきこむ。
 濡れたサキの手のひらの上には、淡いグリーンのなにかの造形物がのっている。素材はある種の軽量金属、あるいは特殊なセラミックスかもしれない。それは何かの動物をかたどったデザインで―― ワニなのか、あるいは架空のドラゴンをイメージしたのか―― その造形はリアリティを意識して本物に忠実に、という方向性とは真逆、デフォルメしてキャラクター化したような、どこか滑稽なニュアンスがあった。目がくりっとして、こっそりずるくたくらむように、牙のある大きな口が笑っている。
「おもちゃ? なのかな? なんかちょっと、可愛い」
「うーん。あれか。鼻のところの輪っか、これがヒンジっつーか、ここに紐をひっかけて、前から引っ張る構造、だったのかもな。なんかすごい原始的だけど―― たぶん下には、車輪とか。なんかそういう、地面に接して動く構造が、あったりしたのかも。」
「……子供がきっと、いたってことかな? ここには昔――」
「ああ。かもしれん。遊んでたんだな。こういう素朴なおもちゃで」
「誰かがここに、暮らしてたんだね。ここで、みんなで、遊んだり――」
 サキが言って、周囲の廃墟を、灰色の瞳でしばらく見つめていた。水につかった線路ぎわの広場で、無邪気に遊ぶ小さなこどもたちの声を、サキは遠くに聞いた気がした。その絵が少し、見えた気がした。その、夏の光の降る、もう今は何もなくなったその静かな場所で。
「どうした? また足が止まっているぞ?」
 シロヤナギが後ろから追いついた。最後尾のハルオミも、ボートを引いてもうそこまで来ている。
「行こうぜ、サキ。それは、またそこに、戻しとく方がいい。」
「そうだね。うん。」
 サキは言って、しずかにおもちゃを、浅い水の中に横たえた。夏の光の水の底で、そのグリーンの小さなおもちゃは、たちまち廃墟を構成する名もないピース、無もなき物体のひとつに戻った。


 水際の線路の、熱く乾いた茶色のバラストを今また踏んで、4人は無言で、いまここで通り過ぎてきた冠水市街をふりかえった。4人の足がつくった波紋が、わずかにいまも水上の揺らぎとしてそこには残っていたものの―― 死せる市街は、もう、すでに踏破した過去の領域として4人の後ろで夏の光を浴びている。ずっと遠くでセミたちが合唱を再開していた。
「なんかさ、びくびくしてたのが、バカみたいだったよね」
 ハルオミが、ボートを水から引き上げながら最初に感想を述べた。
「おれ、なんかむしろ、残念っていうか。もうちょっとあそこ、水の中を歩いて散策してたかった、みたいな? けっこういろいろあって面白かったよ。いい感じで、廃墟の冒険って感じした。ボートもなにげに楽しかったな」
「ん。まあ、そうだな。」
 タカキが認めた。さっきまで握りしめていたグラスカッターを、刃の部分をぱちんと折ってクローズし、それをバッグの中に戻した。
「悔しいけど、ここはシロヤナギの野生の勘が勝った感じか。じっさい水深も知れてた。ボートの区間も、それほどたいした距離はなかった。特に脅威を感じるイベントもなかった。むしろおれも、もうちょっと粘って、街が放棄された理由とか。そこでの当時の暮らしぶりとか。いろいろ調べて、確かめてみたい気持ちはあったかもな」
「ほう? 負けを認めるのかい? めずらしく素直じゃないか」
 シロヤナギが笑い、皮肉っぽく首を左に傾けてタカキに視線を流した。
「まあな。でも、ここはおれが負けてよかった場面だろう。おかげで抜けた。病民区。旅の計画時にいちばん懸念してたヤバそうな部分が、無事クリアできた。これなら帰りも、それほど心配しておどおどビクビクする必要もなさそうだ。むしろちょっぴりここで祝杯でも上げたい気分だが。だが、」
 タカキが唇を結び、線路の先をにらんだ。
 ここから線路はわずかに右側、北側の方向にゆるやかに湾曲しながら、建物の途切れた荒れた草原地帯を直線的に抜けていく。そのはるか先には、朝から見えていた山塊が、明瞭な質感をもった近景の一部として濃い緑のカラーで横たわっている。
「なんか達成感、あるのはあるけど。疲労もけっこうしてるけど。あんまりここでぐずぐずするのもあれだ。もうだいぶ、夕方に近い。あと少し進んで、あそこの山に近い地点まで行って、そこで安全なキャンプ地を探そう。まあ、またおれがビビりすぎだとか。言ってシロから非難を浴びそうだが。まあでも、キャンプの地点は、ここの放棄市街から、なるだけ遠い方がいい。夜にこういう、大きな構造物があるエリアで夜明かしするのは、おれはあまりやりたくない」
「ふふ。夜中に旧時代のゴーストたちが、ここから湧いて追いかけてくるとでも?」とシロヤナギ。
「ばか。さすがにそれはねーとは思うけど。まあでも。まあ気分の問題かもしれんが。おれはあまり、夜、こういう廃墟の近くのエリアでキャンプとか、しなくない。なんか警戒するじゃん? 夜、ぱっと目が覚めて、そこに廃墟があったりしたら? っつーか、おれはたぶん、安眠できない。」
「わたしもちょっと、あれかな。廃墟よりは、そうじゃない場所でキャンプしたい。そのほうが安心。わりとちょっぴり、疲れたし。早めにそこまで歩いて着いて、はやめにキャンプの準備すませて、ちょっと、今日はもう、終わりにしたいかな。いろいろなんか、精神的にも疲れた。」
 サキが言って、そこの乾いたレールの上に座った。レールは熱をおびて、コットンのスカートを通してもその熱がじんじんと肌につたわってくる。
「じゃ、行こうよ。善は急げ、だ。」
 ハルオミが同意した。
「はやくそこまで行って、なんか食べよう。キャンプだキャンプ。まあでも、行く前に、あれだね。またこれボートを圧縮しないと。けど、残念だなぁ。エアのボンベはあと一本しか残ってないし。帰りのことを考えると、着いたビーチでボート遊びは無理っぽいよね。」
「でも、だったら例えば、わざわざ圧縮しなくても、ここにボートを置いていくのはダメなの? 帰りにまた、ここを通るんしょ?」
 サキが言った。淡い灰色の瞳でハルオミを見つめて。
「リスクがあるな、それは」
 シロヤナギが腕を組んで言った。 
「雷雨とか、昼間の日射や、あるいは野生動物とか。何かでボートが破損したり、予期せぬ何かで見つからなくなってしまった場合、帰りの行程が厳しくなる。面倒でも、ここでいったん回収する方が賢明ではないか?」
「まあ、だろうな。おれもその点は同意する。」
 タカキが言って眼鏡を外す。ボトルの水でレンズの埃を洗い流し、そのあとシャツの裾でワイルドにぬぐった。それをまた、顔のもとの位置にかけ戻す。
「じゃ、ハルオミよ。さっさとやろう。おれも手伝う。ボートは手早く圧縮して、あと少しだけ移動、だな」

わたしと海に行かないか?

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