「パタパタと小さな尻尾を振りながら近寄ってきた仔犬のコマの頭を撫でながら、私はあの日の出会いに心の中でそっとお礼を告げる」

 パタリと冊子を閉じると、テーブルの向かいに座る木下さんはホクホクとした笑顔で余韻に浸るように目を閉じていた。部屋着替わりにしてるという陸上部のジャージを上下に身に纏ってリラックスモード。
 夏休みが終わったばかりの10月初旬の週末、3度目となる木下さんからの依頼は「癒される話」だった。就活が徐々に本格化してきてややお疲れらしく、そんな木下さんに雪乃さんが書いたのは仔犬を巡る話だった。
 元々はいがみ合っていた同級生の二人が受験が近づいてきた初詣の日に捨てられた仔犬を見つけ、こっそり育てていくうちに仲を深めていく。 二人が険悪になりそうになると仔犬が二人を振り回し、気がつけば二人はお互いを信用し合うようになる。

「よかったよ! なんて言うんだろ、萌えともキュンとも違うけど、なんかじんわりというかほっこりというか……温まる感じ」

 余韻を最後まで噛みしめるように手足を伸ばして小さくパタパタさせてから、木下さんは目を開けた。

「田野瀬くん、なんだか上手くなったね。聞いてるうちにふわっと温かい色が浮かぶ気がした」

 道尾さんの駅伝からしばらくすると、木下さんは僕のことを“後輩君”ではなく名字で呼ぶようになった。その理由を直接聞けてはいないけど、なんだか認めてもらえたような気がしている。

「道尾さんに朗読したときに胆力がついたのかもしれません」

「あー、あの頃の翔ピリピリしてたからね。普段はもうちょっと付き合いやすいと思うから、また絡んであげてよ。翔、陸上部以外の知り合い全然いないし」

 木下さんは口元に手を当てて楽しそうに笑い、それから柔らかい瞳で僕を見る。木下さんのこんな陽だまりのような温かさに道尾さんは惹かれたのかな、なんて不意に思い浮かんだ。

「田野瀬くんには借りが増えちゃったなあ。どこかでちゃんと返さないと」

「楽しみにしてますね」

「お、言うねー。まあ、任せといて」

 本当は仕事だから気にしないでと言うべきなのかもしれないけど、この仕事ではその言葉は少し素っ気ないような気がした。
 実際、僕の言葉に木下さんは勝気に笑いつつ、どこか満足げだった。

「あ、そうだ。田野瀬くんも上手くなったと思うけど、物語もこの前とはちょっと雰囲気が変わった気がする」

 不思議そうな表情を浮かべる木下さんの指摘に思わず息を呑む。

「物語書いてるの、あの時の鈴ちゃんだよね?」

「はい。あの……木下さん的にはどんなふうに変わったと感じますか?」

「どんなふうにって。言葉で表すの難しいなあ」

 そう言いながらも木下さんは顎に手を当ててじっと考え込む。

「そうだなあ。人の気持ちみたいなのがダイレクトに感じるようになったかも。だから、凄い温かさが染みてくる、みたいな……って、まだ3回しか聞いてない私がこんなこと言っても説得力ないよね。ごめんごめん」

「いえ、ありがとうございます」

 木下さんは小さく舌を出しておどけてみせるけど、正直鋭いなって舌を巻くような思いがした。雪乃さんの物語の何かが変わったことは僕も感じていたし、他の常連のお客さんからも程度の差はあれ似たような感想を貰うことがあった。

「あ、別に今の方がいいとか、昔の方がよかったとかって話じゃなくて。本当になんか変わったかなって感じがしただけだから、あまり気にしないでね」

 それは例えばスパイスを組み替えて作った二つのカレーみたいなものだろうか。味は違うけど両方とも美味しいことには違いなくて、どちらの方が美味しいと感じるかは人それぞれ好みの問題。そんな例えが浮かんでくるのも雪乃さんの物語の変化についてずっと考えていたからだ。
 恭太なんかからは、僕の例えはよくわからないっていつも言われるけど。

「っとと、あまり引き留めちゃ悪いよね。何か最近しんどいなーっていうのが積もってる感じだったけど、すごい楽になった」

「ありがとうございます。えっと、その。やっぱり就活って大変ですか?」

「うーん、まだ忙しいとかっていうのはそんなにないんだけどね。ただ、自己分析するとちょっと凹むっていうか。色々やってきたつもりだけど私って何もしてこなかったなとか、面接側から見れば有象無象の一人でしかないんだろうなって考えると、なんだかなあって。自分と向き合うって、こんなに大変なんだって初めて知ったかも」

 木下さんは苦笑を浮かべながら立ち上がる。知り合ったばかりの頃の木下さんだったら、全然大丈夫だよ!みたいに気丈に振る舞うんだろうなってふと思った。
 木下さん自身が変わったのか、僕のことを信頼してもらえているのかはわからないけど、この瞬間だけでもほっと肩の力を抜いてもらえるのなら、それだけで僕も報われる。
 僕も木下さんの動作に促されるように席を立ち、言い忘れていたことを思いだす。

「あ、そうだ。道尾さんによろしくお願いします」

 木下さんは不思議そうに首を傾げた。

「え? うん、わかったけど。じゃあ、田野瀬くんも夏希と鈴ちゃんによろしくね」

 ちょっと苦笑いが浮かぶのを自覚しながら頷いて、木下さんの部屋を出る。木下さんに限っては僕がいなくても傍で支えてくれる人がいると思うのだけど、もしかしたらそれはもう少しだけ先の話になるのかもしれない。



 すっかり見慣れた「片倉印刷」の看板を片目に砂利道を慎重に進みバイクを停める。このバイクの本来の所属である弁当屋の店主は先日退院したけど、まだ本調子とはいかず弁当屋の再開までは今しばらく時間がかかりそうだった。そういうわけでまだバイクを借りられているわけだけど、そろそろ弁当屋が再開した時のことも考えなければいけないのかもしれない。前の店主にはお世話になってたし弁当屋が再開したら戻りたい気持ちもあるけど、今の環境も捨てがたくなってしまっていた。
 ヘルメットをハンドルにかけつつため息をついてみる。考えてもキリがないし、もう少しだけ先送りしよう。

「お疲れ様ですー」

 言の葉デリバリーの事務所に戻ると、雪乃さんの定位置のノートパソコンのところで夏希さんが雪乃さんと何やら話し込んでいる。それ自体は珍しい光景ではないはずだけど、今日はどこかいつもと違う雰囲気がした。

「どうかしました?」

 パッと顔をあげた夏希さんはすっと駆け寄ってくると、僕の腕をとって雪乃さんの方へと連れていく。雪乃さんはいつも通りの表情だったけど、心なしか不服そうな感じがした。雪乃さんの目の前のノートパソコンには白紙の画面が広がっている。

「ねえ、悠人君。最近の鈴ちゃんのお話、どう思う?」

 夏希さんがおもむろにずいっと顔を近づけてきて思わずのけ反る。もしかして、二人の雰囲気が少し微妙な感じがしたのはその話をしていたのだろうか。仕事を終えてリラックスしていた心が一気に引き締まる。雪乃さんの物語は言の葉デリバリーの根幹だ。

「……僕がここで働き始めた頃から少し変わったと思います」

 僕を見る雪乃さんの瞳がゆらゆら揺れる。どう答えるのが正解かはわからない。今の僕にできるのは自分に正直に答えるだけだった。

「僕が入った頃は印象的なセリフとかシーンに向けて物語が展開していく感じだったと思います。緻密に組み立てられていって、クライマックスでグッと揺さぶられるというか……」

 慎重に言葉を探す。表現したいことは色々とあるのに、自分で言葉を選び出して伝えるのはとても難しい。それを更に物語に込めて毎日のように積み上げていく雪乃さんの凄さをこんな時に感じてしまう。

「最近の物語は人と人との関係に力が込められてる印象です。印象的なシーンの良さを残しながら、ふとした場面の登場人物のやり取りでハッと気づかされたり、ほっこりしたり、じんと来たり」

 今日の木下さんのところで朗読した物語もそうだった。すれ違っていた二人が仔犬を通じて仲良くなっていく過程のやり取りにも温もりがあり、おかしさがあり、ドキドキする場面があった。

「でも、僕はどっちも――」

「ほら」

 僕の言葉を雪乃さんの冷たい声が遮る。凛と通るその声はでもどこか震えていた。

「やっぱり、変わっちゃってる」

 雪乃さんは夏希さんの服を両手できつく握りしめる。声だけじゃない、その手が震えていた。夏希さんにすがるように震えるそんな雪乃さんの姿を見るのは初めてだった。僕の知る雪乃さんはいつも冷静で、僕よりずっと大人に見えて。

「私には物語しかないのに、変わっちゃった」

「鈴ちゃん……」

 夏希さんはそんな雪乃さんをギュッと抱き寄せると、その頭をゆっくりと撫でる。

「大丈夫。鈴ちゃんの物語は少し変わったかもしれないけど、悪いことじゃないと思う。それはきっと、鈴ちゃんの世界が広がったってことだから」

 雪乃さんは夏希さんの胸に顔をうずめたままかぶりを振る。僕はその二人のやり取りについていくことができなかった。ただ一つ分かったのは僕の答えが正解ではなかったこと。少なくとも雪乃さんが求めていたものではなかった。

「最近のお話、お客さんからも好評なんだよ。ね、悠人君?」

「は、はい。今日の木下さんもすごい喜んでました」

 雪乃さんは顔をあげない。夏希さんも僕も雪乃さんにかける言葉が見つからなくて、ただ黙って雪乃さんを見守る。

「でも」

 やがて、雪乃さんがポツリと言葉を漏らした。

「でもやっぱり、このままじゃ書けない。今のまま書き続けることは、私自身を否定することになるから」

 雪乃さんの声は空気を求めて喘ぐような苦しさがこもっていた。必死にもがくように言葉を吐き出す雪乃さんに僕の方まで息が苦しくなる。夏希さんは少しだけ逡巡するように目を閉じて、それからポンポンと軽く雪乃さんの背中を叩く。

「わかった。じゃあ、しばらくお休みしよっか」

 雪乃さんがハッと顔をあげる。そんな雪乃さんに夏希さんはいつものようにニッと勝気な笑みを浮かべてみせた。

「鈴ちゃん、夏の間働きづめだったでしょ。まずは一週間、一足遅い夏休みってことで」

「でも、その間宅配は」

「大丈夫。鈴ちゃんが書き溜めてくれたお話がまだちゃんと残ってるから。それで対応できる範囲だけお仕事を受けるようにする」

 夏希さんはそのまま両手で雪乃さんの頬を優しく包み込む。

「もしその一週間で何も変わらなかったらそのとき考えればいいからさ。まずは何も考えずに休んでみて、ね?」

 雪乃さんはじっと夏希さんの目を見つめて、やがて躊躇いながらもゆっくりと頷いた。夏希さんはそんな雪乃さんの頭をポンポンと撫でて、よし、と切り替えるように明るい声を出した。

「じゃ、今日はもう撤収しようか。今日は悠人君も送っていくから。」

「僕もですか?」

「うん。明日から暫くバイト休みにするから、ちょっとみんなで夜のドライブしよう」



 夏希さんの運転する車に雪乃さんと乗り込んで3人で帰ったけど、雪乃さんの家の近くに着くまで後部座席の雪乃さんは一言も話さなかった。その状況では迂闊に口を開くのもはばかられて、結局ほとんど無言のまま車は走り続けた。

「鈴ちゃん、ちゃんと休んでね」

 車から降りる雪乃さんを見送る夏希さんの言葉に、雪乃さんは朧気に頷いた。そのまま離れていく雪乃さんの背中をしばらくじっと見送った夏希さんはやがて重たげに息を吐き出して、ゆったりと車を走らせた。

「……悠人君、ごめんね」

「何に、ですか?」

「無理やり誘って。鈴ちゃんと二人きりで帰るの、今日はちょっとだけしんどそうだったから」

 夜のドライブなんて言って僕を誘ったのが、僕よりも夏希さん自身のためだということは途中から何となく気づいていた。後部座席で静かに座っているだけの雪乃さんからズキズキとした圧を感じた。こうなることがわかっていたとして、僕が夏希さんの立場でも同じことをしただろう。

「さっき悠人君が帰ってくる前ね。最近物語の組立てが変わってきたね、って鈴ちゃんに話したの。お客さんの感想をそのまま伝えたつもりだったけど、鈴ちゃん、最近ずっとそれを気にしてたみたいで」

 信号待ちで夏希さんはハンドルにもたれるように体を預ける。その視線は信号と何もない夜空を虚ろに行き来していた。

「悠人君が言の葉デリバリーに来てくれて、鈴ちゃんが少しずつ変わっていくのがわかって、悠人君を誘ったのは間違ってなかったって、私凄いワクワクしてた」

 信号が青に変わり、ワンテンポ遅れて車が走り出す。急発進で軽自動車がグラリと揺れた。

「私と二人だった時は自分から進んで誰かの話を聞きに行こうとか、私の助言で物語に手を加えるとかしたことなかったから。鈴ちゃんの世界が少しずつ広がっていくことが鈴ちゃんにとっていいことだって、勝手に信じ込んでたんだ」

 開けっ放しの助手席の窓から夏の気配を残す生ぬるい風が入り込んでくる。夏希さんがその風にため息を混ぜる音が聞こえてきた。

「……木下さんの依頼を初めて受けたとき、『軽々しく空っぽだなんて言わないで』って怒られたんです。雪乃さんが変化を拒絶するのと何か関係があるんでしょうか?」

 自分には物語しかないと雪乃さんは言っていた。雪乃さんにとっての物語が特別なものだというのはわかっていたつもりだったけど、それは僕の想像よりずっと大きなものだったのかもしれない。
 僕の問いに夏希さんは答えない。ただ物憂げに前を見ながら車を走らせていく。
 他の車のいない夜の道、車のエンジン音と虫の声だけが響いていた。気がつけば黙ったままずっと雪乃さんのことを考えていた。
 今の雪乃さんをつくりあげたのは一体何なのだろう。言の葉デリバリーでバイトを始めてからずっと考えてきたけど、これといって想像もできなかった。それくらい僕は雪乃さんを知らなさすぎる。

「……いくら悠人君でも、私から勝手に教えることはできないかな」

「知ってるんですね、雪乃さんに何があったか」

「一応、ね」

 夏希さんはそれ以上言わず、再び車内に沈黙が流れる。夏希さんが教えてくれないのなら、雪乃さんに直接聞くしかない。真正面から聞いても教えてくれることはないだろうけど。
 そもそも、言の葉デリバリーを休んでしまえば雪乃さんと話す機会があるかも怪しい。そんなことに今更気づいて、不意に吹き込んできた秋風に腕をさする。

「一つ、お願いがあるの」

 夏希さんが車を路肩に停める。ふと、僕が言の葉デリバリーに入った日のことを思いだした。じっと夏希さんを見ていると、夏希さんは弱々しい笑みを浮かべて僕を見返す。

「悠人君も明日から一週間夏休みってことで。それでね、鈴ちゃん、休んでる間も物語のことばかり考えちゃいそうだから。悠人君が気分転換させてあげて」

「僕が、ですか? 夏希さんじゃなく?」

「うん。私はちょっと……そういうことをするには知り過ぎちゃってるから。それに、言の葉デリバリーも完全休業するわけにはいかないし」

 夏希さんがポンと僕の頭の上に手を置く。でもそれは僕を励ますためではなく、夏希さんが落ち着くための儀式のように感じた。ぽんぽんと僕の頭の上でリズムを刻んだ夏希さんは、ようやくにっと笑みを浮かべる。少しだけ無理をしているような感じはあるけれど。

「自信持って、悠人君。悠人君が来てから鈴ちゃん、ずっとイキイキするようになったから。鈴ちゃんが変わることを怖がったとしても、それが悪いこととは限らないし。それにね」

 夏希さんがゆっくりと目を閉じる。その向こう側には街灯の乏しい街並みに星の光が降り注いで、夏希さんを幻想的に映し出していた。

「もし鈴ちゃんが変わらないことを選んだとしても、それは世界の広さを知った上での選択であってほしいから」



「悠人、飯食い行こうぜー。って、覇気のない顔してんな」

 言の葉デリバリーの夏休みを言い渡された翌日、午前中の講義が終わると、僕の後ろの方の席で講義を聞いていた恭太から呆れ気味の声が飛んできた。“地形を読み解く”という選択性の講義で、学部関係なく受講できるから工学部の僕と文学部の恭太で同じ講義をとっていた。今日の講義は水に関する地形の話で、分かったようなわかんないような、というのが正直なところなのだけど。

「恭太がキラキラしすぎなだけじゃない?」

 先月の駅伝がきっかけで躍進した恭太は月が替わっても調子がいいらしく、満ち満ちた顔が言外に「充実してます」というオーラを放っている。高校時代も調子がいい時はあったけど、最近の恭太はその頃とは比べ物にならないくらい躍動的だった。

「今すげえノッててさ。俺もタイム伸びてるんだけど、それだけじゃなくてさ」

 ガヤガヤと動き出した周囲の学生の波に乗るようにして学食に向かう。9月までは猛威を振るっていた太陽も10月になると落ち着きを取り戻していて、吹き抜ける風は心地よさを孕んでいる。小春日和ってこんな日のことを言うんだっけ。

「駅伝終わってから翔先輩がまた一緒に練習するようになってさ。戻ってきた時に『ただの一選手としてもう一度やり直す』って言ってたと思ったら、この半年の不調がなんだったんだってくらいガンガン皆を引っ張ってんだよ」

 ちょっと非難めいた声色を出しながらも恭太の笑顔はキラキラというよりはつい先月までの真夏の太陽のようにギラギラして見えた。傍にいるだけで熱さが広がってくる。

「切磋琢磨っていうのかな。翔先輩に負けない様にってみんな張り切ってて、すげえいい雰囲気で練習できてる。冬の駅伝がマジで楽しみなんだ」

 道尾さんとは朗読以降一度も会ってないけど、恭太の話を聞くと調子を取り戻しているようでホッとする。雪乃さんの物語が道尾さんを励まして、その道尾さんが陸上部を引っ張っていく。こんなつながりを見ると、雪乃さんの物語の持つ力を改めて実感する。

「それで。悠人は何でそんなしょげた顔してるんだ?」

 そんなにしょげた顔しているんだろうか。自覚はないけど少し頬の辺りを揉み込んでみる。

「バイトが今日から一週間休みになってさ」

「え、いいじゃん」

「それが……なんだろな。ずっと働いてたから、逆に張り合いなくなってさ」

「マジかよ。ワーカーホリックってやつ?」

 呆れと驚きを入り交ぜた声に僕は曖昧に頷く。雪乃さんのことを話すわけにもいかないってのはあるけど、今話した内容も嘘ではない。急に休みになったせいでぽっかりと日常に穴が開いたような気分になってしまって、言の葉デリバリーでの時間はすっかり日常に組み込まれてしまっていた。

「あー、でも。それで雪乃さんも元気なかったのか」

「え、雪乃さん?」

「ああ。一限目は外国文学っていう同じ講義とっててさ。なんか夏休み明けて雰囲気変わったなって思ってたけど、今日は何となく前期の頃を思い出した」

 そっか、恭太は雪乃さんと同じ文学部だった。ちゃんと大学には来てるということ安心が半分と、元気がないということに胸の辺りがひゅっと締められるような感じが半分。でも、それ以上に気なったのは。

「雪乃さんが変わったって、どんな風に?」

「どんな風って……前期も別に話とかしてたわけじゃないから本当にそんな感じがしたってだけだけどさ。なんだろう、こう……ふわっとした? 話しかけて見ようかなって思うくらいに柔らかくなった気がする」

 そういえばバイトを始めた頃に恭太から聞いた話では、雪乃さんのことを『雪女』なんて呼ぶ人もいるんだった。もし、恭太が受けた印象が雪解けを意味しているなら、それは雪乃さんに望ましい変化のように感じるけど。でも、雪乃さんがそう望んでいるとは限らない。

「というか、俺に聞くまでもなく一緒に働いてんだろ?」

「いや、まあ。周りの人から見たらどうなのかなって」

「そうは言っても、ほとんど話したことない俺の印象聞いてもしょうがないだろ」

 苦笑を浮かべた恭太がすぐに何か思いついたように笑みの種類を変える。なにか悪いことを思いついたときの恭太の顔。そんなことを考えていると、恭太がグッと肩を組んできた。

「というか、二人して暇ならどこか遊びにでも行けばいいじゃん。彼女持ちのやつに聞けばどっかいい場所の一つ二つ出てくるだろ」

 さっきまで眩しいオーラが出ていたはずなのに、一気に下世話な雰囲気を漂わせ始めた。ハイハイと聞き流してため息をついてみる。でも、案外悪くないのかもしれない。外出なんて気分転換の方法の際たるものだろうし、また違った方法で雪乃さんの世界を広げることができるかもしれない。

「それじゃ、そうしてみようかな」

「え、マジかよ」

 思わずといった様子で足を止める恭太に思わず吹き出してしまう。ずっと昨日の夜からもやもやしていたけど、ようやく笑えた気がする。やるべき方向性が見えてきた途端、不思議なくらい力が沸いてきた。



 今日の最後の講義である3限の講義が終わると、大学構内のカフェレストラン「ノースポール」へと向かう。既に待ち合わせの人物は既に中でコーヒーを口にしていた。店内に入ると待ち合わせの人物――リクルートスーツを纏った木下さんがパタパタと手を振る。

「すみません、お待たせしました」

「大丈夫だよ。一年生は取らなきゃいけない講義多いって身をもって知ってるし」

 恭太の言うところの彼女持ち――ではなく元彼氏持ちだけど、木下さんならこの辺りの観光スポットに詳しいんじゃないかと思って昼休みの間に電話をしたところ、3限の終了後なら時間が取れると言ってくれた。それで前回同様ノースポールで待ち合わせたのだけど。

「よう」

 木下さんの隣にはウィンドブレーカー姿の道尾さんがいた。恭太から話は聞いていたけど、確かに朗読の時に最後に会った時よりずっと元気そうに見える。ただ、オシャレなカフェレストランにリクルートスーツとウィンドブレーカーの二人が並んで座っていることで異質な空間を作り出してしまっているけど。
 とりあえず二人に向かい合う位置に座ってコーヒーを頼む。顔見知りとはいえ2つ上の先輩二人を正面にすると少し緊張する。

「勝手に翔を呼んじゃってごめんね。でも、田野瀬君の相談にきっと役立つと思うから」

 木下さんの言葉に僕は曖昧に頷く。木下さんには大学周辺の観光スポットを教えてほしいということだけ予め伝えていたけど、道尾さんは陸上一筋な大学生活を過ごしてきた分、その辺りに詳しいイメージはなかった。
 道尾さんはおもむろにテーブルの真ん中にタブレットを置く。その画面には地図が表示されていて、ここ長部田大学を中心として放射状に色のついた線が伸びている。

「えっと、これは……?」

「ランニングアプリなんだけどさ、長い距離走る時は大体目的地を決めて往復したり、バスとかが通ってる場所なら片道だけ走ったりしてるんだ」

「走ったりって、これ、片道20kmくらいある場所もありますけど」

 道尾さんは当然のような顔で頷いた。僕が走れと言われれば絶望しそうな程の距離だけど、道尾さんには日常側の距離らしい。そんな人が不調に陥るなんてよっぽどのことだったんだろうなあと木下さんのことを見てみるけど、不思議そうに首を傾げられてしまった。

「それで、どんなところに行きたいとかあるのか?」

「バイトがしばらく休みになったんで気分転換したいなって思って」

「遠出したい理由なんてだいたい気分転換だろ。そうじゃなくてさ」

 確かにそうか。まあ、僕は恭太に言われるまで出かけるという案も思い浮かばなかったのだけど。だけど、どういうところがいいんだろう。まさか本人に聞くわけにもいかないし、想像するしかないけど。
 忘れたいことがある? うーん、違うな。元気になれる場所、というのも漠然とし過ぎてる気がする。あれこれ考えているうちに道尾さんの顔には怪訝そうな表情が浮かんでいた。

「自分が行きたいってわけじゃなくて、連れていきたい奴でもいるのか?」

「えっと、まあ、はい」

 道尾さんの図星の指摘に頷くと、隣の木下さんの目がキラリと光った気がした。

「もしかして、鈴ちゃん!?」

 グッと身を乗り出してきた木下さんにコクコクと頷くと、わあっと木下さんは息を零す。
 一方、話についていけない道尾さんは呆れがちにそんな木下さんを眺めている。

「誰それ?」

「言の葉デリバリーで物語を書いてる可愛い女の子」

 木下さんが雪乃さんと会ったのは一回だけだし、和気あいあいとした雰囲気ではなかったけどそんなふうに評してくれるのは何だか嬉しかった。
 ふうん、と頷いた道尾さんは少し考え込んでから、タブレットの一部を拡大する。そこは大学から少し離れた山の中だった。

「特にいい場所が思い浮かばないなら、ここでどうだ?」

 地図には小さく「白竜滝」と書かれていた。スマホで調べてみると想像していたより規模の大きい滝の写真が出てくる。こんな場所が近くにあるなんて知らなかった。

「バス停から少しハイキングする必要はあるけど、その分人は少ないし現地の景色は保証するぜ」

 雪乃さんを連れていくなら人が多いところよりも静かなところの方がいいと思う。道尾さんの提案はすぐに考えられる中でこれ以上ないだろう。

「いいですね。ここ、使わせてもらいます」

「翔、やったじゃん!」

 さっきまで前のめりになっていた木下さんは今度はグッと道尾さんの肩に腕を回す。

「翔がさ、どうしても田野瀬君にお礼がしたいって言ってたから。役に立てたみたいでよかったね!」

「あ、おい、照乃。その話は……」

 ワタワタとする道尾さんを木下さんがしっかりと抑え込む。やっぱり道尾さんは木下さんは強く出られないようで、丁々発止なやりとりをしつつも木下さんに上手く言い込められているようだ。二人のやり取りを見ているとなんだかほっこりしてしまう。

「ありがとうございます。木下さん、道尾さん」

 声をかけると二人は顔を見合わせ、揃って僕の方を見ると二人して不思議そうな顔をして頷いた。



 善は急げ、ということでノースポールを出てからすぐにスマホを手に取る。だけど、雪乃鈴と書かれたアドレス帳の番号を押す前に指が止まった。配達先で何かあった時の為にということでバイトを始めてすぐに電話番号を交換していたけど、かかってきたことはもちろんかけたことは一度もない。大体、僕が電話をかけたとして今の雪乃さんは出てくれるんだろうか。言の葉デリバリーの僕や夏希さんと距離を置いた方がいいと思われていたら。
 一度画面から視線を外し、深呼吸。

――ブー、ブー、ブー。

 その時着信が入ってスマホが震える。何を躊躇っているんだろうと思いながらホッとしている自分もいて、なんだか情けなくなってくる。
 夏希さんあたりからかなと思って画面を見ると、そこには「雪乃鈴」の文字。

「ちょっ、まっ、はっ!?」

 思わず声が出てしまう。バクバクと心臓が飛び跳ねる。なんで、雪乃さんから。じゃなくて、このままじゃ切れてしまう。二回くらいタップを失敗してから電話に出る。

「もしもし、田野瀬です」

「……こんにちは」

 少しか細いけど確かに雪乃さんの声だった。僕が電話しようとしていたときに雪乃さんから電話がかかってきたことに顔が熱っぽくなる。

「珍しいね。どうかした?」

「暇してるなら電話でもかけてみろって、夏希が」

 盛り上がりかけていた気持ちがしゅるしゅると萎んでいく。なんだか僕が雪乃さんに連絡する踏ん切りがつかないのを夏希さんに見抜かれていた気がした。というか、雪乃さんもそれで僕に電話かけてくれるんだ。

「雪乃さん、暇してるんだ?」

「特にやることないから」

 それは急にバイトが夏休みになった僕も同じだ。とにもかくにもきっかけをくれたことに心の中で夏希さんに感謝する。

「ちょうどよかった」

「え?」

「今度の週末。よかったら、少し、出かけない?」

 できる限り自然に誘ってみたつもりが緊張で途切れ途切れになってしまう。そういえば、こんな風に人を誘うのなんて久しぶりだし、女の子相手なんてなおさらだった。
 ハッと息を呑む声。それから少しバタバタと音がして、電話の向こう側が静かになる。静かな時間に不安と緊張があおられていく。

「……夏希に言われたの? 私を励ませ、みたいな」

 返事ではなく質問が返ってきた。それもあまり聞かれたくない類の。

 でも、夏希さんに電話をかけろと言われてかけてみたら、その相手から誘われるなんて出来過ぎか。物語を書く雪乃さんがその裏側を思い浮かべるなんて造作もないことなのかも。

「そうだね。夏希さんからそう言われた」

「そう」

 だから、雪乃さんの質問を否定しない。ここで嘘をついても雪乃さんを誤魔化し続けられるとは思えない。それでも雪乃さんの声の温度がスッと下がって胃の辺りが冷やりとする。

「それなら別に――」

「でも、それだけじゃない」

 何かを言いかけた雪乃さんを遮る。夏希さんから言われただけで、木下さん達に助けを求めたわけじゃない。それだけだったら恭太と話して方針が見えたときにあんなに気分が上がることはなかったはずだ。

「僕自身が、そうしたいと思ったから」

「私なんかと出かけても貴方にとって何もない」

「それは僕が勝手に決めることだから」

 雪乃さんからすぐに返事はない。じっと考えこんでいる息遣いだけが電話の向こうから聞こえてくる。

「よく考えたら僕は雪乃さんのこと、全然知らないから。雪乃さんのことがわかったら、もっと雪乃さんの物語のことを理解できるかもしれないし、朗読だって上手くできるようになるかもしれない。雪乃さんの物語に……一番合う色を付けられるようになれるかもしれない」

「作者の情報なんて物語には余計なノイズでしかない。特に、それが私の場合には」

「そうだとしても、僕は物語を書く以外の雪乃さんの姿を知りたい。理屈じゃなくて、ただのワガママかもしれないけど」

 言の葉デリバリーで働き始めて、何度も考えてきた。この物語を書く雪乃さんとはどんな人なのだろうかと。だけど、僕が知っている雪乃さんの姿は言の葉デリバリーの事務所にいる姿くらいだ。

「だから、僕が雪乃さんを励ますとかじゃなくてさ。雪乃さんにちょっと僕のワガママに付き合ってほしいんだ」

 またしばらく電話からは沈黙だけが返ってきた。これで断られてしまったらこれ以上雪乃さんを誘う言葉は残ってないし、そもそも来週から雪乃さんとどんな顔をして会えばいいのかもわからなくなってしまう。じっと待ち続けると、やがてため息にも似た音が聞こえてきた。

「……わかった」

 ポツリと零れるような雪乃さんの言葉にほっと息が漏れる。本番は当日だというのはわかっていたけど、雪乃さんが僕の誘いに応じてくれたというそれだけで、大きな前進のような気がした。



 道尾さんから紹介してもらった白竜滝傍というバス停で降りると、結構な傾斜の山道が目の前から伸びていた。道尾さんはハイキングと称していたけど、これはどちらかといえば登山だろう。平気で20km走るような人を基準にしてはいけないようだ。

「雪乃さん、大丈夫そう?」

「行く」

 僕に続いてバスを降りた雪乃さんは山道を見てスッと目を細めるけど、小さく頷くとスタスタと歩き始めた。濃紺のフリースにカーキ色のクライミングパンツ、アウトドア用の服装の雪乃さんを見るのは当然初めてで、これも知らない姿の一つになるんだろうかと思いながら後を追う。

 白竜滝までは山道を40分少し歩いていくことになる。バスを降りたのは僕たちだけで山道もきちんと整備されているけど人の気配はしなかった。小さく息をついてスマホを取り出す。バスに乗っている間、実家の母親から何度か着信が入っていた。バスを降りてから折り返そうかと思っていたけど、そうしている間にも雪乃さんは歩いていってるし、スマホをポケットに押し込んで雪乃さんの後を追う。

 しばらく進んでも人の気配は全然しない。僕らの息遣いと足音以外に聞こえてくるのは秋風に吹かれて葉が踊る音とか、虫の囀りとかばかりだ。元々僕らが住んでいる辺りは街というよりは田舎に近い場所だけど、ここまでどっぷりと自然に浸かるのは久しぶりだった。
 そんなことを考えながら少し後ろを振り返る。雪乃さんの顔色は最後に会った時よりはよくなっていたけど、一足早い冬のような冷たく透明さを感じる瞳の色をしていた。
 20分近く歩いてきて、殆ど会話という会話をしていない。自然を満喫しているならそれでもいいのだけどそんな雰囲気でもないし、このままだと滝を往復して終わってしまいそうだ。だけど、何を話して何を聞けばいいのか全然思い浮かばない。そんなこと事前に考えとけよって自分でも思うけど、事前に考えても全く決められなくて、結局現地に着いたときの自分に全て丸投げすることにしてしまっていた。

――夏希さん。僕にも誰かを励ましたり勇気づけたり、そんなことができるようになれますか?

 言の葉デリバリーで働き始める日に夏希さんに尋ねた言葉。僕はあの日の夏希さんの言葉に答えられているだろうか。
 グルグルと考え込んでしまって、ため息が溢れてくる。言の葉デリバリーで働き始めて何か変わった気がしていたけど、根っこの部分では何も変われていないんじゃないか。

「きゃっ――!」

 後ろから聞こえてきた小さな悲鳴に振り返ると、雪乃さんが足を登山道の外側へと滑らせていた。慌ててその腕を掴む。細い身体を片腕でどうにか支えてホッと息をつく。もしそのまま倒れ込んでいたら、そのまま山の下の方に滑り落ちていたかもしれない。

「大丈夫、雪乃さん?」

「……ありがと」

 雪乃さんはお礼を言いながらもつっと視線をそらしてしまう。その息が小さく乱れていた。よく考えれば20分以上登り坂を休みなく登ってきた。普段あまり運動しないなら息切れしてもおかしくないだろう。

「あそこの少し広くなってるところでちょっと休憩しようか」

 雪乃さんは少し視線をさ迷わせて迷うようなそぶりを見せたけど、そのまま小さく頷いた。
 少しだけ登ったところは小さな広間のようになっていて、少し古ぼけたベンチが据えられていた。そこに雪乃さんと並んで腰を掛けて荷物を下ろす。雪乃さんの額には薄らと汗がにじんでいた。

「疲れてるの、気づけなくてごめん。考え事に夢中になってた」

「別に平気。でも、慣れてるのね」

「兄貴が山登り好きでさ。就職して家を出るまではよく付き合わされたから」

 雪乃さんから返事はなかったけど、視線はじっと僕の方に向けられている。どの部分にかはわからないけど興味を持ってくれたようだった。あまり人に話すようなものでもないけど、会話のきっかけになるなら。

「兄貴っていっても6歳離れてるんだけどさ。兄貴が10歳の時、2年間山村留学で山間の村で暮らしてて、そこで登山の楽しさに目覚めたらしくて、よく巻き込まれたよ」

 どちらかといえばスポーツマンというよりは優男という見た目だし、球技とかはてんで苦手な兄だったけど、しょっちゅう山に登っていたせいか体力はかなりあった。
 そんな兄に小学校の頃から連れまわされたおかげか、僕も体力だけは人並み以上についたと思う。

「仲いいのね」

「それは、どうなんだろ……」

 雪乃さんが怪訝そうに眉を顰める。

「兄貴が山村留学に行った理由ってさ、僕なんだ」

 その頃のことはよく覚えていない。兄が10歳で僕は4歳だった。
 熱っぽい頭で見上げていた天井が思い出せる数少ない記憶だ。

「小さい頃、僕は体が弱くて。両親とも働いてて、近くに頼れる人もいないしで色々いっぱいいっぱいだったみたいで。それで、兄貴は2年間山村留学に行くことになったんだ」

 山村留学に行けば知らない土地で知らない人たちと暮らすことになる。当時の兄は泣いて嫌がったらしい。ぼんやりとだけど、熱を出して寝ている部屋から聞いた兄の声を覚えている。そしてそれは僕らの家族の中で今も罪悪感という形で居座り続けていた。

「兄貴は戻ってきた時、なんていうか凄い大人になってた。大人にならざるを得なかったんだなってわかったのはだいぶ後になってからだったけど」

 小学校に上がる頃には僕も殆ど体調を崩さなくなって、両親の仕事も落ち着いてきて、平穏な家族の姿になった。でもそれは構造的な話であって、家の中にはひずみがずっと残っていた。両親は兄に何かと気をつかうようになって、そのことにどことなく寂しさを感じながらもその原因が自分だと思うと寂しいなんて言い出すこともできなくて。

「兄貴が僕を山に連れてってたのも単に趣味に巻き込んでるだけじゃなくてさ。体が弱かった頃のことがあるから体力つけようっていうのもあったんだろうし。それにさ、両親が忙しかったから兄貴がよく料理を作ってくれて、大学に入ってからは弁当屋でバイトし出したらドンドン腕も上がってた」

 小さく深呼吸をして空を見上げる。常緑樹の緑の隙間から見える青空はどこまでも透き通っているように見えた。山に登って休憩するといつもこうやって空を見ていた。その透明な世界に少しだけ救われる気がしたから。
 あ、そうだ。念のためカバンに入れてきた一口チョコを取り出して雪乃さんに差し出す。不思議そうな顔をしつつ雪乃さんはそれを受け取ってくれた。

「兄貴もこうやって休憩中にチョコとか色々くれてさ。負い目は色々感じてたけど、兄貴と山に行くのは楽しかったなあ」

 自分の分のチョコも取り出して口の中に放り込む。あの頃の甘さと何も変わらず、動かしてきた身体にゆっくり染みる。
 兄は優しかったけど、家の中の歪は息苦しかった。それで、逃げるように大学は実家から離れた遠方のところを選んだ。

「背を向けるんじゃなくて痛くても向き合えば、もう少しマシな選択もできたのかもしれないとは思ってる。だけど、僕は今も背を向けていて、ずっと変われないんだ」

 自分の中の思考に沈んでいて、じっと僕を見ている雪乃さんにようやく気付いた。雪乃さんのことを知りたいとか、雪乃さんを励ましたいとか言っておいて結局自分語りをしてしまっていた恥ずかしさで慌てて立ち上がる。

「なんて、休憩中にする話じゃなかったね。そろそろ行こうか」

 雪乃さんのから若干何か言いたそうな気配を感じたけど、こんな時でも僕は逃げるように背を向ける。その間際、雪乃さんが僕の渡したチョコを口に含むのが見えた。



 一体なんて話をしてしまったんだろうと思っていたけど、考えうる限り最も相当この場にそぐわない話をしたせいで、良くも悪くもその後は会話がしやすくなった。バツの悪さを誤魔化したいのもあって、バイト以外で何をしているのかであったり、雪乃さんが受けてる講義の内容だったり思いついた物から尋ねていく。
 雪乃さんの答え振りはいつもと変わらずイエスノーみたいなものが多かったけど、それでも仕事以外の話という意味では言の葉デリバリーで働き出してから一番話したと思う。
 話しながらだったからか、途中から聞こえてきたざあざあという滝の音に導かれてか、残り半分は体感的にはあっという間だった。

「おおっ……」

 目の前に広がる光景に無意識のうちに息を呑んだ。
 落差のある崖の上から水が霧散したり集まったりしながら流れ落ちてきている。水量が多いわけじゃないけど、せり出した岩に沿いながら常に形を変えながら描かれる情景に無意識に魅入ってしまう。
 崖の上に描かれた白い水の流れはまさに白竜滝の名にふさわしかった。勇壮な竜が常に体を揺らしながら崖を登って天に向かっているようだった。

「こんな風に、ずっと変わり続けることができれば……なあ」

 思わずそんな言葉が溢れていた。滝の水は微妙な流れや風の違いで絶えずその形を変えてる。それでいて竜のようなその姿はその存在感を力強く誇示し続けている。軸がありつつ、周りの環境に合わせて形を変える。こんな風でありたいなんて感傷的に思ってしまうのは、多分家族の話をしたせいだ。

「変わることがいいこととは限らない」

 隣に並んで滝を見つめる雪乃さんがスッと目を細める。それはじっと滝を睨みつけているようにも、あるいはどこか遠くを見ているようにも見えた。

「私にはある時から家族の思い出がない。法律的に家族と呼ばれる存在はいるけど、それだけ」

 雪乃さんがゆっくりと僕の方を見る。透明な瞳が真っすぐと僕を見据える。

「こんなところで話すような話じゃないけど、それでも聞きたい?」

 しっかりと雪乃さんの目を見ながら頷く。一瞬雪乃さんの瞳が不安げに揺れて、それからふっと息を吐くと雪乃さんは視線を滝の方に戻した。

「小学生の頃、父親がいなくなった。便宜上母親と呼ぶ人によると、私のせいで出ていったらしい」

 淡々とした口調で話すには重い内容だった。悩みの重さに上下があるとは思わないけど、その時点で既に僕の零した内容よりどっしりとした重さを孕んでいるように感じる。

「それまでは毎日が楽しかった記憶があるけど、その日から私の世界は無になった。母親は私に直接何かすることはなかったけど、最低限の世話以外は私がいないものとして扱い続けた」

 幼き日の雪乃さんの姿を想像するだけで胸がギュッと苦しくなる。途端に息苦しくなって、喘ぐように息を吸う。

「父親が出ていった理由も、母親が私の扱いを変えた理由もわからなかった。当時の私はそれを本に求めた。目についた小説を片っ端から読んでいって、感情の変化の理由を知ろうとした」

 雪乃さんが目を閉じる。その目を開けたとき、瞳に帯びているのは憂いを纏った暗い蒼だった。小学生の女の子がひたすらに本を読み続ける。その先に消えてしまった両親からの愛情があると信じて。そんな場面を思い浮かべて、今度は針に刺されるような痛みに襲われた。

「本を読んで読んで読み続けて。でも、結局理由が分かったのは母親が父親と電話している声が聞こえたときだった。単純に、二人とも私が邪魔だったって」

 雪乃さんの声はどこか投げやりなのに凍てつくように冷たい。触れてしまえば傷ついてしまいそうな程鋭くて痛々しい。

「その時から、人の気持ちが一層わからなくなった。だからそれからも私は本を読み続けて人の感情を理解しようとして――いつしか私にとって感情は感じるものではなく読み解くものになっていた」

 人の感情を物語を参考に読み解こうとする。そのために雪乃さんはどれだけの本を読んできたのだろう。今の雪乃さんが描く物語はそうして積み上げられてきたものの上に成り立っているのか。雪乃さんが物語を書ける理由を知りたいと思っていたけど、気安くそれに触れようとしていた自分に後悔する。人の気持ちを読み解く形でしか理解できない。それがどういうことなのかは上手く想像ができなかった。

「そんな子どもだったから、友達もどんどん減っていって。気がつけば私の傍には物語しかなかった。大学に入って夏希と知り合って、物語を書いてみないかと言われるまで家でも学校でも他人との接点なんて全然なかった」

 夏希さんの名前が出てきて、少しだけ雪乃さんの頬の力が抜ける。

「夏希と知り合ったのは入学式の部活勧誘で。実家の印刷会社の宣伝の為に物語を書ける人を探してたんだって急に声かけてきて。私を見てピンと来たって言いだしたまま殆ど無理やり印刷会社に連れていかれて」

 その流れは似たような思い出があってつい苦笑が浮かんでしまう。そういえば、夏希さんが言の葉デリバリーを始めた理由は雪乃さんの物語を読んで救われたことがきっかけと言っていた。でも、今の雪乃さんの話だと、夏希さんが雪乃さんの物語を読んだタイミングと雪乃さんを言の葉デリバリーに誘ったタイミングは逆のような気がするけど。

「それでいきなり物語を書いてみろって。それまで物語なんて書いたこともなかったし、何を書けばいいのかわからなかったからリクエストを聞いてとにかく書いてみた。それを読んだ夏希が急にボロボロ泣き出して。そのとき初めて自分が思っている以上に人の気持ちを読み解けることを知った」

 雪乃さんは基本的に依頼の悩みを聞いて物語を書き上げる。それは人と人との表情ではなく、悩みの内容から必要なものを読み解いていたということなのか。相談される内容は抽象的な物や断片的なものも少なくないのに、雪乃さんにはそれができる。

「それで、夏希は言の葉デリバリーを思いついた。印刷会社の宣伝をしながら、私の物語を他の人たちにも広く届けたいって。正直、初めは全然乗り気じゃなかった。だけど、物語しかない私にできた唯一の居場所だって思ったら、もう二度とこんな機会ないんだって。だから、私はこの場所を守り続けたいと思ってる」

 ずっと滝を見ていた雪乃さんが改めて僕の方に向き直る。

「大学に入るまで、私に起きてきた変化は全部最低だった。父親が出て行って母親に無視されて、友達はいなくなっていった。私は人の気持ちを読み解くことしかできなくなって、そんな私でも物語を通じて唯一の居場所ができた。それでも変化はいいものだって、貴方は言えるの?」

 突きつけられた言葉は鋭くて、すぐには答えが思い浮かばなかった。
 雪乃さんが経験してきたことを思えば何を言っても嘘っぽくなってしまいそうだった。
 それでも、変わることがいけないことだとも思えなかった。ここ最近の雪乃さんの変化は悪いことだとは思えなかったから。物語を聞いた人が好意的に受け止めて、恭太は温かくなったと言っていた。そのどちらも僕も同じように感じている。

「変化がいいものとは言い切れないけど、変化を否定することも違うと思う」

「どうして?」

 雪乃さんの視線にひるみそうになるけど、ぐっとこらえる。

「今の雪乃さんの変化を否定することは、雪乃さんが言の葉デリバリーでやってきたことを否定することだと思うから」

 雪乃さんが変わってきた理由。それは、雪乃さんの世界が物語だけではなくなったからじゃないだろうか。
 雪乃さんの物語は誰かの悩みを解きほぐすと同時に、雪乃さん自体に小さな変化を積み重ねていった。その積み重ねが最近みんなの目にわかるほど大きくなっていった。

「雪乃さんが物語を通じて築いてきたものとか。僕や夏希さんがどれだけ雪乃さんを信頼してるかとか。それで雪乃さんが変わることが、過去の雪乃さんを変えてしまった状況と同じだとは思えない」

「それは、そうだけど」

 雪乃さんの瞳が揺らぐ。変わってはいけないという思いに迷いが生じている。
 僕はそんな雪乃さんに手を伸ばす。今できる精一杯の笑みを浮かべてみせる。

「それに、雪乃さんがちょっと変わったくらいで、僕や夏希さんが雪乃さんから離れていくと思ってるの?」

「そんなことない。そんなことない、けどっ!」

 揺れる瞳から涙が溢れる。濡れた瞳を雪乃さんは真っすぐと僕にぶつける。僕の手に向かって伸ばされかけた手がすっと引っ込められた。その手をギュッと握りしめ、雪乃さんはきつく目を閉じる。

「だけど、怖いの! また誰もいなくなったら、今度こそ私は耐えられない!」

「大丈夫」

 手を伸ばし、雪乃さんが引っ込めた手を握りしめる。ハッと見開かれた雪乃さんの目にしっかりと頷いて見せる。

「この滝なんて常に形を変えてるのにずっとここにあるみたいにさ。僕は雪乃さんの傍にいる。雪乃さんの物語がどんなふうに変わるか楽しみだし、それを通じて僕も変われたらいいなって」

「その例えは、ちょっとよくわからないけどっ……!」

 滝のように零れ落ちる涙を拭うこともせず、雪乃さんは重なった僕たちの手を見つめている。雪乃さんはその手に恐る恐るもう片方の手を重ねた。雪乃さんの手は震えていて、その手をもう一度しっかりと握りしめる。

「どんな私になっても、私はここにいていいの?」

「僕は変わりたいと思ってるのに変われないからさ。雪乃さんがどうなっても変わることなくここにいる」

 迷いながらも一歩踏み出した雪乃さんを、そのままぐっと抱き寄せる。
 堰を切ったように僕の胸元で雪乃さんは声をあげて泣いた。今までずっと溜め込んできたものを吐き出すかのようにずっとずっと泣き続けた。
 そんな雪乃さんの背を優しく叩く。今まで雪乃さんが渇望しながら得られなかったものを、少しだけでも雪乃さんが感じ取ってくれたらいいなと思いながら、雪乃さんの涙が枯れるまで僕らはずっと傍にいた。



 大学の2ヶ月の夏休み明けは特に何も感じなかったのに、言の葉デリバリーの一週間の夏休みはそれ以上に大きな穴が開いたように感じた。昨日いっぱいで言の葉デリバリーの夏休みも終わり、小学生の夏休み明けみたいに少しソワソワしながら事務所に顔を出す。

「お疲れ様でーす」

 扉を開けて中を覗き込むと、既に夏希さんも雪乃さんも来ているようだった。雪乃さんとも滝を見に行ってから初めて会う。何かちょっと気恥しいなとも思っていたけど。
 僕が入ってきたことに気づいた夏希さんの顔がぶわりと歪む。次の瞬間、夏希さんが駆け寄ってくる。

「悠人くーん、会いたかったー!」

 そのまま夏希さんにぎゅっと抱き寄せられる。突然のこと過ぎて思考がついていかない。ただ、また雪乃さんから冷たい視線を浴びせられるのではないかと夏希さん越しに様子を見ると、雪乃さんの瞳に帯びているのは同情だった。
 ああ、そうか。これ、雪乃さんもやられたのか。

「寂しかったよお。やっぱり一週間は長すぎたよう……」

 こんな夏希さんを見るのは初めてだった。でも、よく考えれば夏希さんはこの言の葉デリバリーでいつも僕や雪乃さんと一緒にいた。もしかしたら、夏希さんはとても寂しがり屋で、それでも雪乃さんの為に夏休みを作ってくれたのかもしれない。
 そう思うと無下に引き剥がすこともできず、夏希さんにされるがまま頷く。でも、ずっとこのままでいるわけにもいかない。さて、どうすればいいんだろう。

「夏希、そろそろ宅配の時間」

「うぇっ。ちょっとくらい遅れても……」

「夏希」

 雪乃さんの少しドスの利いた声に夏希さんが首をすくめる。名残惜しそうな表情を残しながら夏希さんは伝票と冊子を持って事務所から出かけて行った。久しぶりに会うと本当に夏の嵐みたいな人だな。
 夏希さんが宅配に行って事務所が静かになると、定位置に座る雪乃さんのノートパソコンからカタカタと音がする。いつもと同じように目にもとまらぬ速さで雪乃さんは白紙に物語を描いていく。

「また、書けるようになったんだ」

「……悠人君のせいだから」

 辛うじて聞こえるくらいの小さな雪乃さんの声。え、今、名前で。
 雪乃さんはこちらを見る事無く、ただノートパソコンの画面を見つめている。だけど、その頬が心なしか赤い。

「もし私の書く物語が変わってしまって、ワケわかんないことになっても悠人君のせい。だから、その時は朗読の方でどうにかして」

 じわじわと胸の奥が温かくなる。その温かさにじんわりと瞳も熱くなって。

「任せといてよ。さ、僕も早く勘を取り戻さないと」

 休み中朗読の練習をサボっていたわけじゃないけど、このまま雪乃さんを見ていると本当に泣いてしまいそうで、手近な冊子をとりながら雪乃さんに背を向ける。
 くんっと、背中から上着を引かれる。上着越しに雪乃さんの指の気配をハッキリと感じた。

「こっち見ないで」

 振り返ろうとしていた首が雪乃さんの声でストンと止まる。

「もし、また私が迷っても。変わらずにここにいてくれる?」

 その答えは迷わない。

「もちろん。どれだけ雪乃さんが変わっても、僕はそう簡単に変わらないから」