夏だった。
生きてきた数十年の中で一等穏やかな夏の日に、自室で妻と息子と、義娘ぎじょう、孫に囲まれて自室の寝台の上に居た。
「父上、お気を確かに」
息子の声がする。よく出来た一人息子だ。男の子は女親に似るという。妻によく似た顔立ちで、その目と髪が自分によく似た大層優秀な自慢の息子である。
早くから帝王学を学び、誠実で臣下からの信頼も厚いこの息子に玉座を譲って早数年。まだ若いと思っていた息子は立派な王としてこの国の采配を揮っている。
その息子の妻、元は公爵家の長女だった義娘も同じように優秀で真面目な令嬢だった。まだ抱き上げられるような年頃からツンとすまして貴族たろうとする姿が愛らしいと、先立った公爵とはよく話をしたものだ。
孫2人も、いまや立派な成人である。王太子として、王女として、自分も抱えたその重責を投げ出すことなく良くやっている。この2人の結婚までは、生きていたかったと思うくらいには。
「あなた」
妻は
妻はその息子たちより、遥かに素晴らしい女性だった。何度迷惑をかけただろう、何度泣かせてきたことだろう。若い自分の過ちを、どうにか噛み砕いて今日まで寄り添ってくれたこの国の母である。
幸せな人生、だったのだと思う。
波乱もなく、戦争や身内の暗殺などもない、とても穏やかな一生だったのだろう。きっとそれは沢山の人々が望む生活であり、今もまた望む終わり方なのだろう。
それでも
若かりしあの日、まだ婚約者だった妻を放り捨ててでも手に入れたい女性が居た。
リリア。
しがない男爵令嬢だった彼女との恋路に立ちはだかるのは壁などという生易しいものではない。苦難に肉を付けたような壮絶な道しか用意されないそれ。王にも王妃にもなれない、王族ですらいられなくなるであろうその選択をしかけた自分の手を取ってくれたのは自分が冷たくあしらい続けていた婚約者だった。
「オフィーリア」
「よくお眠りになってね」
結婚するまでの道のりが遠かったのを、今もまだ鮮明に覚えている。
あの頃、私も私の友人たちも、リリアの天真爛漫さに夢中だった。重責から一時的に解き放たれる友人たちとのひと時が美しい思い出として私の生涯の支えになってくれたのだ。
だからこそ泣いて訴えるリリアの言葉を信じた。彼女を虐げたのがオフィーリアであると疑わなかった。
冷静であればそのときすぐ気づけたであろうことも、学生時代という夢に身を落としていた「私」にそんな判断力はなかった。王族として恥ずべきことだが、オフィーリアの断罪劇の場を用意するつもりでさえいた。
私の選択は、というより私を支えてくれた彼女の選択が、間違っていなかったのだと終わりを前にして強く思う。
ああ、私の今生はなんと美しかったのだろう。
「兄上!」
息を切らせて部屋に入ってきたその男は、いつもは澄ました顔で私を陛下と呼んでいた。
私の手を引いてくれたもう一人のかけがえのない弟だ。
「ああ、兄上」
息子と、義娘。二人の孫に、実の弟。
そして最愛の妻。
「あなた」
声にならないかすれた音しか出せない喉をうらめしく思う。
泣きそうな息子たち、言葉にできない表情の弟。ああ、私は今日、ここで死ぬのだと受け入れるには充分であった。
最後に見たのは妻のこの上なく幸せそうな微笑みであった。
それはなんの前触れもなく訪れた。
「オフィーリア・シュテイン、今日この場を以てお前との婚約破棄を宣言し、私はこのリリア・エメルードを妻に迎える」
この場は王家主催のシーズンの始まりを告げる夜会であった。
王太子とその周囲がエメルードの小娘にぞっこんであったのは把握していた。だからこそそれとなく殿下を誘導し、エメルードと距離を置くよう画策していた。だがどうやら失敗した、ないしは間に合わなかったようである。まあ間に合わせる気もなかったのだが。
玉座に目線を小さく投げると、陛下も妃殿下も顔面蒼白、いまにも倒れそうな様子で力なくうなだれていた。私を見つめて唇を薄く開き、首を横に振る。安っぽい三文芝居の大根役者でももう少しましな舞台に立っているだろうとどこか冷めた気持ちでその場面を見た。
私は失敗した。けれどそれは私の責にはなるまい。
そう思うとひどく安心した。王族と言う枷から逃れることができるのだ。こんな自由なことはない。
私の二度目のこの夢は、どうやら私の望む未来に舵をとっている。
「ご命令とあらば、謹んで」
一度目の私は、それはそれは優秀だった。
この小娘を排除し、婚約者としてエドウィン殿下の手を引いた。そうして彼が玉座に就くのをどうにか支えることが自分の仕事であると信じて疑わなかったから。
弟、第二王子であるセシル殿下と一緒にエドウィン殿下に声をかけ続けた。そうしているうちに生まれたセシル殿下への感情に名前のないものだと蓋をして投げ捨てた。そうでなければ耐えられなかったからだ。
一度目の人生は、表面上の筋書きではうまくいったのだろう。
エメルードを排し、秘密裡に彼女を処刑し、彼女の家ごと取り潰した。婚約者のいる王族、しかも王太子に粉をかけ、その婚約者の行いを詐称しようとしたのだから当然だ。王室の影がいればすぐわかることである。
エドウィン殿下はそれを知らない。どうやら王都にいられなくなった、という報告に寂しそうに頷いたが自身の立場を思い出し公務に励み、その後彼女を探さなかった。
だが私はどうだ。
そのすべてを裏で片づけて、あまつさえあらぬ疑いをかけられていた。そこまでして尽くしているのに待っている王妃の椅子は、果たしてそんなに良いものなのだろうか。
答えは否である。なにがいいものか。いいことなどあるものか。重責に押しつぶされそうになりながら私は微笑み続けなければならなかった。
世継ぎは必要だ、わかっている。息子にはなんの罪もない、愛している。だがもう無理だ。うんざりだ。あれに抱かれるなどまだ磔にされたほうがマシだと本気で思った。
息子を産んだあと、高熱で寝込んだ……ということにした。そして二度と子を儲けられなくなった、ということにした。医者には望むだけの手当てを施した。
幸い、燻りながら慕い続けたセシル殿下が後継者争いの火種になるからと生涯独身を貫いていたことだけが救いだった。おしどり夫婦と言われる政で見せる王妃の顔はすべて作り物で、私の心はいつまでもセシル殿下にあったのだ。
「わたくしは、いち臣下にすぎませぬ。王太子殿下の決定に異を唱えるはずもございません、お二人の婚姻に尽力するのが臣下の務めでございます」
あの夏の日。私の一度目の夢の中で、いっとう穏やかな夏の日に、国王エドウィンは息を引き取った。
あの日ほど安堵した日はなかった。終わったのだと、もうこの男の顔を見ることはないのだと、寡婦になった私はなにに気遣うこともなく、心でセシル様を慕っていいのだと、あの地獄のような夢の中で、一番幸せだったあの日。
お互い歳をとってしまったわね、と国王の葬式のあとに二人で話をした。
そこで知った。彼もまた私を愛してくれていたことを。
どうにもならなかったし、するつもりもなかった。
私は王太后であり、私も彼ももう年を重ねすぎていた。
来世があったら、良いものね、とそれっきりであった。
それがどうだ、目が覚めた私は十五歳であり、同じ日常をやり直した。違ったのは私が一度目ほど勤勉ではなかったということだ。だってそう、私が王妃にならなければ、たとえ平民に落とされたとしても、そのほうが貧しく辛くても、心の自由が約束される。
私はただ、声に出して、セシル様を慕っていると一言言えればよかったのだ。
「お待ちください」
すぐ隣で声がした。名前を呼ばれ顔を上げれば、今も昔も変わらぬその相貌に深いため息が出る。
美しい。愛おしい。私はこんなにもあなたを愛しています。
「シュテイン嬢は、王家のことを知りすぎています。簡単に婚約破棄をしてよいものではありません。幸い私はまだ一人です。ですからどうか、どうかオフィーリア。今度は私の手をとってくださいませんか」
既視感、というにはあまりに些細なものであった。
ああ、でも、そうだ、彼はあの夏も同じように言ったのだ。出来ないと言ったのは私のほうで。
「もしかして、セシル殿下も、二度目の夢を見ておられるのですか」
「……ええ、きっと。あなたにとっても二度目であれば、同じ夢を」
だとしたらその手を取ることに、なんのためらいがあるだろう。
唖然としたエドウィン殿下と、陛下たち、そして参加者の貴族たち。きっとセシル様を狙っていたご令嬢もたくさんいたのでしょうけれど、あいにくと二度目の私たちになりふり構っている余裕はない。
なんせ待っていた。一度目の八十年と、二度目の十七年間。ずっとずっとあなただけを、あなたと結ばれる結末だけを。
一度目の私が賢明にエドウィン殿下の手を引いたのはエメルードの小娘との行く末が予想できていたからでもある。
遅かれ早かれ破綻するその関係のために、あちこち引っ掻き回すくらいなら私がどうにか殿下の手を引いていれば最小限のダメージで事なきを得られるだろうと踏んでいたし、実際そうなった。
手も目も心も離した二度目の夢で、エメルードが生きているこの世界でエドウィンと、その周囲が破滅するのは存外早かった。
どうやら妊娠が発覚したというのが約七か月前。生まれてきた子は双子で、一人は宰相の息子に、一人は騎士団長の息子に似ていた。
そして驚くことに婚約を済ませられたはよかったものの。エドウィン殿下とエメルードの小娘は清い関係であったことが発覚し、友人二人は廃嫡、エメルードは処刑、それを受けたエドウィン殿下はお心を壊されたとかで廃人同然。
平民になるのがせいぜいかと思っていたがそれよりももっと悲惨であったので同情したが、これもひとつの運命なのだろう。
結局、あの人の思う良き人生というのは私の犠牲の上にあったのだと言われたようで余計に腹が立った。
一度目の夢と二度目の夢のエドウィンは別人かもしれない。それでも結局行き着く先は同じだったのだ。私が、彼の選択肢の一つとならなかっただけ。
「ねえセシル様、あなたいつからここが二度目だと知っていたのです」
「さあ、でもずっと。オフィーリアを手に入れた後のことは正直考えていませんでした。きっと平民に落とされたとしても、今度はあなたを、私の選択肢に入れる必要がありました」
彼の腕に抱かれた男の子は私にそっくりな顔をして、その目と髪はセシル様と同じだった。
エドウィン様と同じその色なのに、どうしてこうも違って見えるのだろう。
「この夢が、夢だと気が付かないまま終わってくれればいいのにと思います」
「それは違いますね」
ゆりかごに赤ん坊を寝かせ、彼は私の手を取った。
「ここから先は、二度目の夢ではなく、あなたと私の未来です。そうでしょう?」
王位継承権までは剥奪されなかったが、エドウィン殿下の療養はこれから先も続くのだろう。そう判断した国王陛下によって、戴冠式を来月に控えている。
ああ、そうか。未来か。
腑に落ちた、という表現は果たして正しいのか。それでも私は今日という日を、ずっとずっと待ち焦がれていたのだと思う。
「私たちは、二度、人生という結末の夢を見るのですね」
「ええ。でも、そのどちらの夢でも、私はあなただけを想っています」
ああ、神様。どうかこの夢から覚まさないで、私たちの夢がここで終わりますように。