ようこそ皆様こんにちは。
わたくし、この世界の案内人。
名等はございませんが、お好きに呼んでくださいな。
さてさて、それではわたくしの話など切り上げて、さっそく物語の舞台に参りましょう。
それでは開幕。これは小さな小さな1つの物語。
ここは雪が深く積もる雪の世界。
音も無く、色も無い。寂しい世界に一人の少年が立っておりました。
少年の目の前には雪が積もった大きな建物が一つあるだけです。
名前は悟。何の変哲もないごく普通の少年でございます。
悟は一人この白銀世界に立っていて、はてさてと、首をかしげていました。
と言うのも、彼はつい先ほどまで自宅にいたからでございます。
彼はそれはもうごく普通の学生で、今日もいつも通り学校へ行く筈でした。
そんな彼がどうしてこんな白銀の世界に立っているか、さっぱりこれっぽっちも思い出せません。
ただ、家を飛び出した時、何か大きなものにひかれたような?
彼が覚えているのはたったそれだけの事です。
気が付けばこの通り、見たこともない場所に立っていたのです。
悟は首をかしげながらあたりを見渡します。
目に入るのは雪の積もった枯れ木の森。なんとも寂しい場所です。
首を傾け、上を見上げれば、大きな古い建物がポツリ。
他には何も見当たりません。
取り敢えず、寒くてたまらず
この家の住人に助けを求めてみようかと、大きな扉を叩いてみようかと思い始めた頃でございます。
――ぎぃ……。
と、目の前の扉が突然に音を立てて開き始めたのは。
勿論悟は驚きました。大いに驚きました。
そして、彼に目に入ったのは、
微かに開いた扉から飛び出してきたのは、
――ぴょこん…と飛びだしてきたのは、
なんとまぁ、大きな可愛らしい狐の耳。
同時に扉の隙間から白い細い手が伸びてきて、
大きな扉を「よいしょよいしょ」と開けたのでございます。
建付けの悪い扉を必死に開けて、中からでき来たのは一人の少女。
夕焼け色の髪に夕焼け色の大きな狐の耳をぴょこんと立てて、ふわふわのしっぽを揺らめかしながら、悟に深々とお辞儀をするのです。
驚く悟に少女は、お辞儀をしたまま口を開きました。
「ようこそ!宿屋『子ぎつね亭』へ。私、女将の小雪と申します。たった一日の短い時間ですが、これから異世界に向かう貴方の為に精神真心で名一杯、頑張らせて頂きます!」
そう言って、寒さで赤くなった顔を上げて、太陽の様な笑顔を浮かべるのです。
◇
「さぁさぁ。こちらにどうぞ!お部屋の準備は出来ています!」
こんこん、こんろろと狐のお宿。
悟は手を引かれるまま宿の中に入りました。
手を引かれながら、ついつい目が行くのは少女の姿。
桜色の着物に身を包み、楽しそうに前を歩く小雪の姿です。
もっと詳しく言えば、彼女の頭の上の狐耳。
それもふわふわ尻尾もついているので、ついつい見てしまします。
「さぁ。こちらがお客様のお部屋となります」
ついつい耳と尻尾に気を取られていると
小雪は一つの部屋の前で止まりました。
中をのぞき込めば、6畳ほどの和室が一部屋。
隅々まで綺麗に掃除され、ピカピカの和式机が目に入ります。
部屋の中を見て、改めて悟はあたりを見渡しました。
わたってきた長い廊下、大きな窓、窓から見えるは雪の積もった小さな庭。
まるで、まさに、そこは綺麗な旅館そのものでございました。
少しして悟は目の前の少女に「ここはどこか」と尋ねました。
ようやく、こんがらがった頭が追い付いてきた所です。
少女は微笑みます。
「ここは、狐のお宿。異世界に行くお客様が時たまに迷い込む迷い宿。これから巻き込まれる大変な行く末の前に、ほっと一休みの為のお宿です!」
少女の言葉に悟は考えました。
少し考えて、長く考えて、彼女の耳と尻尾を再び見つめて。
恐る恐ると口を開いたのは数十秒後――。
――つまりは異世界…?
ぽつりと結論を出したのでした。
はいはい。驚くことなかれ。
悟の結論は正解でございます。
ここは狐のお宿。
とある理由から異世界へと呼ばれた者たちが
何の因果か迷い込む異世界のお宿。
転生、転移。どちらでもようございますが。
呼ばれた世界に行きつく前の。
たった一日だけの、一休みの為の異世界のお宿となります。
小雪はその宿屋の女主人なのです。――えっへん!
あまりに唐突であり得ない現象に愕然とする悟に小雪は頭を下げます。
「驚くことはございましょうが。私に出来る事があれば何なりと!お食事まではまだまだ時間はかかりますが、冷えた身体を温めるなら温泉はどうでしょう!自慢ではありませんが我が宿屋の温泉は源泉かけ流し!ひとたびは入れば身体もぽかぽか。疲労も吹っ飛びますよ!それになんと今日はアヒル風呂!楽しいこと間違いなし!」
なんて。また、えっへん。
笑顔を浮かべて、小雪は楽しそうに尻尾を揺らすのです。
◇
あれから数分。
悟は温泉にいました。
呆然としているうちに背中を押され、あれよあれよと温泉に入る事になったのです。
服を脱いで、体を洗って、温泉へ。
温かな心地よいお湯が身体に染み渡ります。
白く濁ったお湯には、ぷかぷかと沢山のそれは沢山のアヒルのおもちゃが浮いていて、アヒル風呂とはこの事でございました。
悟は思わず笑みを浮かべてしまいます。
先ほどまで突然のことに戸惑い頭が真っ白になっていましたが、状況を整理しつつありました。
まず、分かったことは、ここは異世界だと言う事。
二つ目に、それも辿り着く筈であった異世界とは別の異世界、と言う事。
信じられない事でありますが、自分は異世界転移してしまったと言う事を理解したのでございます。
いいえ。悟は思います。
自分の最後の記憶は自宅から出て何か大きな物に『ぶつかった』と言う事。
何となくですが、アレは、あの時に、自分は死んでしまったのだろう。
そう、判断しました。
つまりは、コレは異世界転生。
何故だか悟の中にその事実がすとんと落ちてきました。
あまり驚きません。恐怖もありません。
あの時感じた筈の痛みは一切なく、こうして温泉に入りゆっくりと温まっているのですから、不思議なことに事実を受け入れることが出来てしまったのです。
何よりも先ほどの少女。
彼女の様に獣耳の人間なんて見たこと無いし、彼女の温もりをしっかり感じ取れて、自分はまだ生きているのだと思えるようになったのです。
そして、ついつい思ってしまいます。
――さっきの小雪ちゃん…可愛かったなぁ。
まぁ、仕方がない事です。思春期の男の子ですから。
「失礼いたします!」
そんな悟の思考と同時、小雪の元気の良い声が響き、悟は仰天する事となりました。
慌てて振り返れば、さらに仰天。
着物の裾を肩まで上げて、白い二の腕を出した小雪がニコニコと微笑んで温泉の入口に座っているのです。
小雪は笑顔ですが、悟からすればたまったものじゃございません。
反射的に隠れるようにお湯に肩まで浸かります。
「お客様。お背中流しに来ました!」
悟が今どんな気持ちか気づく様子もなく、小雪は笑顔で問いかけてきました。
――いや、いや、いや。無理です。悟には無理です。
悟は大きく首を横に振りました。
ついさっき自分で洗ったから十分だと、顔を真っ赤にさせて慌てました。
小雪は笑顔のまま「失礼しました」と頭を下げます。
そのまま下がってくれれば良かったのですが、小雪は心配そうに悟を見つめました。
「お客様?顔が赤いようですが大丈夫ですか?」
小雪の問いに悟は先ほどよりも激しく首を横に振ります。
「温泉に入っているから!」なんて動揺しまくった様子で首を振ります。
小雪はまだ心配そうでしたが頭を下げました。
「そうですか。のぼせない様。湯あたりしない様にお気を付け下さいませ!」
元気いっぱいに言い切って、小雪はようやく温泉からできていきました。
彼女が出ていったのを確認して、悟は一息つきます。
温泉で同い年ぐらいの女の子に「背中を流します」
なんて言われたのは初めてです。
顔が火照って仕方がありゃしません。
大慌てで断ってしまいましたが、少し残念。
洗って貰えばよかったかな。
なんて頭の隅で思ってしまうのは、それも仕方がない事でございましょう。
考えていると頭に血が上っていくのを感じ取れました。このままでは本当にのぼせてしましそうだと、悟は温泉を上がります。
温泉から上がり、脱衣所に向かうと、かごの中にタオルと青い浴衣が入っているのを見つけました。先ほどまで入っていた制服は何処にもありません。
代わりに一枚。
「お召し物は洗濯して、明日お返ししますね」
そう、愛らしい文字で書かれたメモが置いてあるのでした。
◇
悟は窓の外を見つめます。
しんしんと空から降り注ぐ雪を見つめます。
温泉から上がって、部屋に戻る途中の事です。
悟からして、雪なんてめったに見られないものでした。
住んで居た処は都会であったし、季節は冬も終わり桜の咲く季節であったからです。
だから彼にとって、こうも降り注ぐ雪は初めてでした。
ですが、初めてなだけ。
その光景は特別な物には見えませんでした。
異世界と言いますが、悟の世界と変わらない風景でした。
「お客様?如何なさいました?」
ぼうっ―と外を見ていると隣から声がします。
小雪です。
大きな青い瞳がぱちくりと悟を見つめています。
ふわふわな尻尾を揺らめかしながら、ニコニコにっこり笑顔を浮かべて顔をのぞき込んできます。
「お腹がすきましたか?軽食でもお持ちましょうか?」
そんな小雪に、悟は困ってしまいました。
お腹は別にすいてはいません。
すいてはいないのですが。
彼女を見ると、そう、なんだかとても胸が締め付けられるのです。
ただ、それがどうしてか分かりません。
笑顔を浮かべて親身に接してくれる小雪を邪険に扱う訳にもいかず。
だから、悟は困ったように「なんでもないよ」と小さく笑みを浮かべるしかないのです。
悟の様子を見て、小雪はやっぱり頭を下げました。
「そうですか…」
彼女が頭を下げて数十秒。悟は首をかしげました。
中々小雪が頭を上げないのです、ただ手ももじもじさせて、耳をピクピク動かして、尻尾をゆらゆら揺らめかします。まるで何かを悟に言いたいような…。まさにそんな感じ。
不思議そうに彼女を見つめ、少しの間。
「どうかしたの」と問いかけようとした時でございます。
小雪が勢いよく顔を上げたのは。
あまりの勢いに悟とぶつかりそうに成る程。
驚く悟に小雪は言ったのです。
「あ、あのお客様!何かありましたら、なんでも私に言いつけてくださいね!力及ばないかもしれませんが!私も精一杯精進させて頂きますから!少しでも力になりたいのです!」
眉をキリっとあげて、顔を真っ赤にして、それはもう精一杯と言う様子で。
――少しの間。
悟はそんな小雪を見てクスリと笑ってしまいました。
何せ彼女があまりにもフンスっと一生懸命で、あまりにも愛らしかったので、思わず笑ってしまったのでございます。
笑う悟を小雪はキョトンと見つめます。
何か笑われるようなことをしてしまったのだろうか。彼女は気づいておりません。
何か顔に泥でも付いていただろうか。思わず袖で顔を拭います。
そんな様子もあまりにも愛らしくて、あまりに普通の少女らしくて、悟は声を上げて笑うのです。
「お客様…?」
少しして、不安そうに小雪が悟を見上げます。
そんな少女を見て、悟は謝りながら目にたまる涙を無ぐいます。
そして「ごめんごめん」と謝りながら彼女に一つの頼みごとをするのです。
――なんでも聞いてくれるのなら、俺と少し話をしてほしい…っと。
小雪は再びキョトンとして、そして太陽の様に笑うのです。
「はい!勿論です!」
◇
宿屋の悟に割り当てられた六畳の間。
小雪は悟の前にお茶とお菓子を置きました。
とても可愛らしい金平糖と茶柱が立った緑茶。
「こんなものしかないけれど、お話のお供にしてください」
そう小さく笑って、小雪は机を挟んで悟の前に座ります。
ニコニコ微笑みながら、
「さてさてお話は何ですか?」
と、問いかけるのです。
悟はそんな彼女を見て、少し悩んでから口を開きます。
まず、この小雪について、聞かせてほしい。そう頼みます。
小雪は少し驚き、そして。首をかしげます。
「私の事ですか?」
問いかけると、悟は首を縦に動かします。
「そういわれましても…」
小雪は少し戸惑いました。何を彼に伝えればいいのか、悩みます。
「ええっと。改めて、私はこの宿屋の女将、小雪です」
悟は「小雪ちゃんね」と頷きます。
「ええと。歳は…じゅ、16になります!」
悟は少し驚きました。自分と同い年で、あったからです。
「ええと…。得意なことはお料理とお裁縫です!」
えへんと胸を張る小雪に悟は、はにかみました。
ここまで胸を張って料理が得意と言う少女は初めて出会いましたから。
少し彼女の作った食事が楽しみになりました。
そして、少しだけ、少しだけ思い出します。
ああ、母さんの料理もおいしかったな…なんて。
「お客様?」
ふと、小雪が顔をのぞき込ませておりました。
愛らしく整った顔が目に映ります。
悟は慌てたように「なんでもない」とはにかみます。
「他には?」と問うと、小雪はうーん。と少し頭を悩ましました。
そして、耳をぴくん。
「私は人間じゃありません!」
またまた、えへんとドヤ顔。
「知っている」と悟ははにかみました。
当たり前でしょう。狐の耳と尻尾を持った人間なんていやしませんから。
小雪が何かに気づいて慌てだしたのは直ぐ後。
「ああ、でもこの姿は本当の姿なんですよ!狐が化けた姿ではないのです!べつに変化が下手で耳と尻尾が消えなかったわけではないのです!」
「本当ですよ!」と何故か慌てふためいたように小雪は言いました。その様子はやはり愛らしい。その一言です。
悟は「分かった分かった」と彼女を宥めました。
どうやら彼女は年の割に精神的には少し幼い所があるようです。
彼女に対して微笑みながら、悟は口を噤みました。
少しだけ考えて、間を開けて、彼は次を問いかけます。
次は、この世界について教えて欲しい――と。
慌てていた小雪は、その問いに目をキョトンとさせました。
キョトンとさせて。
「お任せあれ!」
ニコリと、そう笑うのです。
ええと。と間をおいて、小雪は改めてこの宿屋について話し始めました。
「この宿屋はお客様からすれば異世界です」
それは聞いた、と悟。
「ここは、春が訪れない雪の世界でございます」
悟は首をかしげました。春が訪れないとは?
「……そんな世界なのです。魔法や、私の様なモノが存在するだけで、特別特殊なことはありません。」
魔法や獣耳人間がいるだけで、悟には特別に思えます。
彼の世界には魔法もありませんし、ただの“人間”しかいませんから。
「ああ、でも魔法って言ってもこれぐらいですよ!」
そんな悟の視線に気づいたからでしょうか。
小雪は慌てたように手を胸元に出すと、ポンっと音と共に赤い炎を掌に出しました。
ゆらゆら揺らめく炎は、それは魔法と言うより。
彼女が使うと、それはどちらかと言うと狐火――。
残念ながら魔法には見えません。悟は苦笑いを浮かべました。
まぁ、それぐらいでも悟にとっては特別でございましたが。
小雪は苦笑いを浮かべる悟を前に笑顔を浮かべました。
自信たっぷりに悟に言います。
「大丈夫です!お客様!お客様はこれからもっと凄い力がわんさかな世界に行きますから!」
あまりに彼女が自信たっぷりに言うので悟は少し戸惑います。
すこし口を噤み、悟は思い切って小春に問いかけました。
異世界に行き、自分はどうなるのか?
生まれ変わるのか?
それとも、この姿のまま転生するのか?
小雪は酷く困った表情を浮かべました。
「…ごめんなさい。それは分かりません…」
耳をぺたんと下げて、心から申し訳なさそうに呟きました。
彼女からすれば異世界の話です。分からないのは当然です。
しかし、これから自分が行く世界は、どんな世界なのか、不安になるのも仕方が有りません。
「ごめんなさいお客様。私はお客様がどのような世界に行き、どのような力を授かるかは分からないのです」
彼女の答えに悟は少し残念に思いました。
「分からない」と言われましたが、彼女なら自分の転生先の世界も分かるのではないかと心のどこかで願っていましたから。
そんな悟に小雪は少し慌てて、顔を上げ、自身の胸を叩きました。
「けれど、きっと、いえ。とっても良い世界なのは分かります!」
自信満々に胸を叩き彼女は悟を真っすぐに見つめます。
「きっと魔法も沢山使えて、特別な力もあって、大変だけれど楽しい事に間違いはありません!私が保証します!」
この先、悟がどのような人生を送るか分からにと言うのに。
彼女は「それだけは確かです」と真剣な顔で言いました。
悟は思わず笑います。
そうだな、そうなったらどうしよう。冒険者にでもなろうかな。――なんて。
この先について笑いながら思い浮かべます。
これから悟が転生し、どのような人生を送る事になるか想像します。
出来る事なら、出来る事なら魔法がある世界で、冒険できる世界で。
そして――前世の前の記憶もなく、新しい人生を送りたい。
そう、心のどこかで願ってしまうのです。
「お客様」
ふと、小雪の声が響きました。
彼女を見ると此方を見つめる少女の姿が映ります。
小雪は悟を真っすぐと見つめていました。
真っすぐと見つめて、優しく微笑むのです。
「今度はお客様のお話もお聞かせください」
自分の話?
悟は首をかしげました。
彼からすれば、彼女とこの世界の話について聞きたかっただけであったからです。
だから、小雪から自身の事を問われるとは思ってもいませんでした。
今度は悟が悩んでしまう番でございます。
何を話せばよいのか、ニコニコ微笑む小雪を前に口を噤みます。
少しして、悟は口を開きました。
まずは自分の名です。悟です。と告げると小雪は頷きました。
「さとる、さまですね!素敵な名前です。どのような文字なのですか?」
微笑む彼女を前に思えば、彼女に名前を名乗ったのは初めてであることに気づきました。
悟は机に指で自身の名をかきます。
小雪はそれを物珍しそうに見つめ、大きく頷きました。
「さとるさま、悟さま。はい、覚えました!では、悟さまはおいくつですか?」
小雪の次の問いに悟は照れたように「16」と口にしました。
「……同い年ですね!」
少しの間、小雪は微笑みます。
「では、学生様ですね」
微笑みながら彼女は言いました。
これには悟は少しだけ驚きました。
普通であるなら驚きませんが、ここは異世界。
「学生」という単語がある事に少しだけ驚いたのです。
「学生の方は良く来られますから」
小雪は続けます。
別にです。この世界に学生がある訳ではないのです。
この宿屋には学生も良く訪れるから彼女は知っていた。それだけです。
悟も事実に気が付きました。
「学生様は学校と言うところに行かれるのでしょう?ここに来られる学生様は皆さん大体良く似たお召し物を着ています。学校は楽しいと聞きます。悟さまは如何でしたか?」
小雪は問いかけました。
悟は少し悩みました。
別に楽しくなかったわけではないのです。
ただ、あまりに普通な学校生活であったから、どう話してよいか分からなかったのです。
それでも、少しして悟は学校の生活について話し始めました。
自分は高校に通っていたこと。
今年で2年生になって、クラスは2組で会った事。
保育園から一緒の親友がいて、同じ学校、クラスで会った事。
それから友達の事。すこし気になっていた女の子がいた事。
部活は野球部に入っていて、毎日の練習が大変だった事。
取り留めない毎日の日々を、一つ一つ話していきました。
悟の話を小雪は楽しそうに聞いていました。
ニコニコ微笑みながら、時折疑問に思ったことを聞き返しながら。
真剣に、心から楽しそうに聞いてくれました。
そんな彼女を見つめながら、自身の話をしながら、悟は気が付きます。
自身も楽しそうに笑みを浮かべている事に気が付きます。
悟は知りました。
自分の人生はあまりに普通であったけれど、
それでも楽しい物であったことに気が付きます。
一つ一つが掛け替えのない物で、
どれも大切であったことに気が付きます。
学校だけではありません。
家族も、そう。
父親がいて、母親がいて、弟がいて。
団地暮らしであったし、父は厳しくて、母は口うるさくて、弟は生意気で、うっとうしいと思った事もあるけれど。
取り留めも無い普通の家族だったけれど、思い出すのは楽しい思い出ばかり。
幼かった日の思い出も、家族みんなで行った旅行も、進路で悩んで親と喧嘩したことも、ただ皆でテレビを見て笑いあった事も、つまらない事なんて一つも無かった。
悟は最後の朝を思い出します。
何時もの朝。
寝坊して、母親に叩き起こされて、慌てて家から飛び出た朝の事。
呆れる父親と、生意気にからかう弟。
母は急いでいると言うのに、口うるさく「ご飯を食べていきなさい」と怒るのです。
玄関の前でお弁当を押し付けてくる母の姿を思い出します。
笑顔で送ってくれる家族を思い出します。
いつもと変わらない日常で、温かな毎日。
それを思い出して、小さく笑みを浮かべてから、理解するのです。
――その毎日はもう二度とやってこないのだと。
……ぽつり。
悟のきつく握りしめた拳に雫が落ちました。
最初は、それが何だか悟には分かりませんでした。
それでも雫はポツリポツリと落ちています。
頬を伝って、静かに流れていきます。
流れる雫に、自分の目元に触れて、悟は気が付きました。
それが自分の涙である事に。
悟自身はまだ気が付いていません。
どうして、自分が泣いているか。
気づきたく、ありません。
それでも涙は溢れてくるのです。
何度も何度も目をこすっても、止めどなく溢れ出てくるのです。
「…悟さま」
そんな、悟に小雪の静かな声が駆けられました。
気が付けば、小雪は悟の隣に座っています。
悲しそうに微笑んで、それでも悟を見つめています。
悟は彼女から視線を外し、何度も謝りながら涙をぬぐいました。
こんな姿を見せるはずは無かった。
必死に頭で理解しようとするのに涙は止まりはしません。
どうしようもなく、酷く自分が情けなく。
それでも、せめて彼女には泣いている姿は見せたくなくて
部屋を出て行ってくれとお願いしようとした時の事でした。
小雪は静かに泣いている悟に対して大きく手を広げたのです。
「悟さま。どうぞ私の膝をお使いください」
小雪の言葉に悟は顔を上げました。
小雪は続けます。
「…悟さま。一人で抱え込まないでください。こんな時こそ一人にならないでください。情けなくなんてありません。何かを恋しいと想うとき、大切な家族を想うとき、我慢はしないで、誰かの膝を借りて思う存分、どうか涙を流してください。どうか貴方の為に泣いてください」
小雪は何処までも優しく、悲しく、微笑んでいました。
その頬笑みは、ぽかぽかと、まるで温かな木漏れ日の様で、
だから、その温かみに、溢れ出した涙はもう止まらなくて、止めようも無くて。
縋るように、幼い子供の様に、悟は彼女の膝に顔を埋めて泣いたのです。
異世界に来た時、初めは理解が追い付きませんでした。
彼女に温泉に案内され、そこでようやく、自分が死んだと頭で分かって、それでも理解したくなくて。
宿屋の外で、しんしんと降り注ぐ雪を見て、その様子があまりにも異世界だとは感じられなくて、あまりに自分が住んで居た世界と似ていたから、本当は夢ではないかと何度も思いました。
けれども小雪の姿を見て、彼女と会話をして、彼女の確かな温もりを思い出して、そのささやかな願いは砕かれました。
ここは異世界で、
自分は死んだのだと、
家族の元には帰れないのだと、
だったらせめて、今までの思い出……
家族の事なんて忘れてしまいたいと思いました。
死んで、転生するのなら。新しい人生で、新しい気持ちのまま、生きたいと。
家族を思い出したくなかったから、大事な思い出を前に泣きたくなかったから。
けれど本当は、そう。本当は。
――家族の事は忘れたくない。
忘れたくなんか無いのです。
もっと、もっと、あの温かな家族の傍で生きていたかった――。
だから、悟は泣きました。
大きな声で泣きました。
2度と戻れない大切な思い出を想い出しながら、枯れる事のない涙を流し続けました。
その温かな膝の温もりに縋るように、もう二度と会えない家族を想って泣くのです。
小雪は何も言いはしません。
ただ、優しく、優しく、悟の頭をなでるのです。
彼が泣き止むまでずっと、ずっと――。
◇
……薄暗い、薄暗い、朝のひかり。
鳥の鳴き声も響かない寂しい朝の中。
悟は自室に有った鏡の前で、制服姿の自身を見つめておりました。
鏡に映るのは何時もと変わらない、そして最後となる悟という少年の姿。
もう二度と見る事も出来ない可能性が高い、自身の姿を悟は目に焼き付けたのでございます。
――悟はこれから、異世界へと旅立つのです。
まだ、思うところは勿論あります。
けれど、ああ、けれど。
悟の心は昨晩と違って晴れ晴れとしておりました。
宿屋の女将の膝を借りて、幼い子供の様に沢山、沢山泣いて。
会えることもなくなった家族を想って、名一杯泣いて、沢山後悔も出来たから。
悟は今、こうして自分の運命を受け入れることが出来たのです。
「悟さま、ご用意出来ましたか?」
部屋の外で、小雪の声が聞こえます。
声を掛けると、彼女は障子をあけて悟を目にして、笑顔を浮かべました。
「とってもお似合いです。悟さま!」
相変わらず、裏も表も無い無邪気な笑顔。
悟も思わず、笑みを浮かべました。
小雪を見て思い出すのは昨晩の事です。
「それでは悟さま。ご案内させて頂きます。」
……古い、古い宿屋。
その軋む床を悟は小雪の後ろに続いて歩いていました。
宿屋に来た時と違って、心は穏やかに、静かにあたりを見渡します。
古くもきれいに掃除された大きな旅館。
窓の外は今日も今日とて白い雪が降り注ぎ、世界を白く染め上げ、音を取り上げます。
最初こそ寂しさを感じましたが、今はただ美しい風景だと悟は見つめていました。
昨日の今日だと言うのに、酷く懐かしくすら感じられる宿屋を見つめています。
「悟さま。到着いたしまいた。」
――と、前を歩いていた 小雪が立ち止まりました。
彼女が立ち止まった先、彼女が指を差し示す先には、来た時と変わらない、大きな宿屋の門が建っていました。
「この先、あの門をくぐると悟さまの、貴方の新しい世界です。」
小雪が言います。
悟は門を見上げました。
白い雪が積もった、大きな扉。
ここを通れば、小雪とも、自分ともお別れです。
とても悲しいです。とても寂しいです。
けれど、覚悟はもう決まっています。
もう、泣くことはありません。
悟はゆっくりと門の扉に手を掛けました。
扉は相変わらず、大きな音をたてて開きます。
来たときは、この扉の先は寂しい雪の積もる枯れ木が並ぶ森でした。
ああ、けれど。
悟が開いた扉の先に森はありませんでした。
ただ、眩しい程の光だけが永遠と続いていました。
「悟さま。」
眩しい程の光を見つめていると、ふと小雪が声を掛けてきました。
振り向けば、変わらず微笑む少女の姿があります。
狐の耳をぴくぴく動かして、静かに悟を見つめています。
「一夜だけでしたが、私のおもてなしはどうでしたか?満足いただけましたか?」
小雪は尋ねました。
悟は笑みを浮かべ僅かながらの彼女のことを思い出します。
彼女が宿屋に出迎えてくれたことも、「お背中御流しします」と風呂場に入って来て慌てたことも。甘い甘い金平糖を出してくれたことも。
勿論、彼女の前で子供の様に泣いたことも。
その後、彼女が最後のおもてなしだと言って、沢山のご馳走を用意してくれたこともです。
泣き続けて目が真っ赤になった悟の前に、とても一人では食べきれないような豪勢な食事が並べられて。
食べたいとお願いした『すき焼き』迄用意してくれて。
その料理がどれもこれも、あまりにほっぺが落ちてしまいそうなほどおいしくて、無我夢中でお腹に掻き込みました。
なんどもお代わりをしたせいか、今朝の朝ご飯もかなりの大盛りでした。
そんな些細な一夜を思い出し
悟は笑って「とっても」と彼女にお礼を言うのです。
悟の言葉に小雪は嬉しそうに笑いました。
――……ああ、もうお別れの時間です。
悟は再び前を向きます。
「……悟さま。後で調べさせて頂きました。」
最後の最後の事でございました。悟は振り向きます。温かな光を浴び、体が吸い込まれていくのを感じながら、彼女を見ます。
「――悟。この字には『貴方の心を守る。迷いを退ける』……そう言った意味があると知りました。……本当に、良い名前を貰いましたね」
――最後に見たのは太陽の笑顔。
悟は、温かな光の中で笑顔を浮かべました。
また、泣きたくなったけれど、彼女の言葉が何故かとても嬉しくて嬉しくて。
「ありがとう」
それだけを小雪に伝えるのです。
眩しい温かな光の中で、悟は最後に想い、願いました。
出来る事なら、異世界へ行ったとしても。
――……『悟』としての記憶は無くなりませんように――と。
「行ってらっしゃいませ!」
そんな小雪の声が遠くで聞こえました。
◇
……ここで、少し昔話でもしましょうか。
昔、昔の事であります。
この世界には神さんが一人おられました。
大層愛らしい神さんで、
何よりも人間が大好きで、
人の役に立つことが何より大好きな神さんでございました。
神さんが微笑むと春が来ます。
神さんが笑うと夏が来ます。
神さんが誰かを想うと秋が来ます。
神さんが悲しむと冬が来ます。
彼女の周りは四季と笑顔で満ちておりました。
そんな神さんを人間がほうっておく筈ございません。
神さんの周りには沢山に人間が集まりました。
人間は神さんに大きなお屋敷を立ててあげて、毎日沢山の貢物を送りました。
その、見返りにちょっとした我儘を神さんに叶えて貰っていたのでございます。
アレが欲しい、コレが欲しい。
ああして欲しい、こうして欲しい。
神さんは、そんな人間たちの願いを叶えていきました。
にこにこ笑顔で叶えていきました。
彼らが浮かべる笑顔が何よりも愛おしく、たまらなかったからでございます。
神さんの周りは、いつも笑顔で満ち足りておりました。
ある日の事です。
一人の男が、神さんに願いました。
肌寒い地域で生きていく彼は、寒さが辛くて「温かな春が欲しい」と願ったのです。
神さんは自分から春をあげました。
世界から春が消えました。
ある日のとこです。
一人の男が、神さんに願いました。
海が大好きであった彼はいつも海と共にありたくて「暑い夏が欲しい」と願ったのです。
神さんは自分から夏をあげました。
世界から夏が消えました。
ある日の事です。
一人の男が、神さんに願いました。
彼は何時もお腹が減っていて「実りの秋が欲しい」と願ったのです。
神さんは自分から秋をあげました。
世界から秋が消えました。
神さんに残ったのは冬だけ。
白くて静かで、
寒くて辛くて、
何にもない終わりの季節だけ。
世界はただ白いだけの、そんな世界になってしまったのです。
人間は寒くてたまらず、何時ものように神さんに願いました。
心地よい春が欲しい。
暑く活力がみなぎる夏が欲しい。
恵の秋が欲しい。
けれども神さんには、もう何一つ残っていません。
寒い寒い冬しか残っていません。
だから人間たちは、
残念がって、
恐ろしがって、
憎しみをもって、
一人一人と神さんから離れていきました。
いつしか神さんは一人ぼっちになっていました。
人間が大好きだった、だれからも愛される神さんは誰からも嫌われる存在となりました。
もう彼女に近づく者は誰一人いません。
悍ましがって近づこうともしません。
神さんは泣きました。
一人ぼっちになって泣きました。
神さんは人間が大好きなのです。
人間たちを苦しめて、悲しませてしまった事実に泣きました。
だから神さんは願いました。
自分の力に願いました。
短い時間で良い。
すぐにお別れが来てもいい。
あの頃と同じように、誰かの笑顔を傍で見ていたい。
――そう、心から願ったのでございます。
コレはきっと奇跡。
だから神さんは、ここに訪れた彼らを心から精一杯に持て成すのです。
だって神さんにとって彼らは、
一人ぼっちの悲しさを無くしてくれる大切なお客様ですから…。
◇
悟が消えていった。
誰もいなくなった扉の先を神さんは微笑みながら見つめていました。
涙をこらえて、また一人ぼっちになる事を我慢しながら見送りました。
彼はこの先いったいどんな世界に行って、どんな人生を送るのか、小雪にはさっぱりこれっぽっちも分かりません。
彼女が出来るのは、ここに訪れたお客様を持て成して笑顔で見送る事だけですから。
小雪は自分自身をとても我儘に思います。
本当は異世界で幸せに暮らすはずの彼らの貴重な一日を奪っておきながら、そんな一日が楽しくてたまらない小雪は、やはり何よりも化け物と思います。
それでも小雪は、いつ訪れるかも分からない。
そんな細やかな一日に笑顔で向き合うのです。
太陽の様な笑顔で、精一杯に短い一日を心から楽しむのです。
これは、一人ぼっちが嫌いな神さんの唯一の願いですから……。
◇
これはある異世界のお話。
異世界に行く、誰かが迷い込む宿屋の一夜限りのお話。
――こんこん、こんろろと狐のお宿。
一人ぼっちの女将がお迎えする神のお宿。
ささやかなおもてなししか出来ませんが、皆様も一泊如何ですか――?
どうぞ皆様。お元気でしょうか?
こんこん、こんろろと狐のお宿。
お宿の女主人、小雪は今日もあせくせ働いております。
長い長い廊下を掃除して、大きなお風呂を掃除して、門前の雪かきも忘れはしません。
だって、今日は新しいお客様が来る日でございますから、名一杯綺麗にするのです。
「ふう!」
掃除が終わった様子で、小雪は漸く顔を上げました。
最後の掃除はお客様がお使いになるお部屋。何処よりもピカピカに仕上げて綺麗にします。
目標より綺麗に仕上がりましたから、小雪も満足げに笑って額の汗を拭うのです。
そんな時でございます。
――こんこんと、戸を叩く音が聞こえたのは。
小雪は狐の耳をピクリ。
慌てた表情を浮かべます。
なんてことございません、お客様が来られたのです。
ですが小雪からすれば大慌てです。
思っていたより、早いお付きでございましたから。
頭には頭巾、白い割烹着。
今まで掃除をしていて、汚れている小雪には大慌ての文字しか浮かびません。
それでもお客様をお待たせする事だけはいけない事ですから。
慌てながらも、割烹着を脱いで、髪を手櫛で整えながら玄関へと走るのです。
玄関へ着きますと、外から戸を叩く音がします。
小雪は顔を白くさせました。
本当は門前迄お迎えに出なければいけないのに、お掃除に気を盗られていてお客様が、屋敷前まで来ていたことに気が付かないなんて。
女将として失格です。
此処から挽回しなければ!
――なんて思いで、草履をはいて笑顔を浮かべて戸を開けるのです。
「お、お待たせいたしました、お客様!」
戸を開ければ、大きな影がおひとつ。
ダボダボな洋服に、ふくよかなお体。
険しいお顔の、ずんぐりと太った殿方が御一人立っていました。
その見慣れない服装は間違いありません。彼が今宵の客様。
小雪は、もう一度笑顔を一つ。
「ようこそ、『子ぎつね亭』へ!お待ちしておりました!」
何時ものように深々とあたまを下げるのです。
◇
「さあ、さあお客様!此方がお客様のお部屋となります!」
小雪は何時もの通り、お客様を案内いたします。
障子の扉を開けて、綺麗にしたばかりのお部屋に案内しました。
お客様は終始無言。
何も言わないままに、部屋へと入っていきます。
そのまま、無言なままに座布団にお座りになったお客様に、小雪は笑顔を向けます。
「お夕食には、まだまだ時間があります。露天などもございます。如何ですか?」
お客様はなんにも言いやしません。
「なんと今日のお風呂は、椿風呂!お庭の椿を浮かべてみたのです!」
お客様はなんにも言いやしません。
「お風呂上りには、搾りたてのミルクはどうですか?我が家の桃子のミルクは天下一品でございます!」
お客様はなんにも言いやしません。
桃子とは、宿屋で飼っている牝牛の事です。
「では、軽い軽食は如何ですか?おにぎりでもお作りしましょうか?」
お客様はなんにも言いやしません。
「ご、ご夕食は如何しますか?ご希望があれば仰ってください!」
あまりにお客様が俯くだけでなんにも言いやしないので
小雪は口を閉ざし、頭を下げました。
このお客様は、あまりお話がしたくない方だと判断したのでございます。
頭を下げたまま、小雪は鈴を差し出しながら口を開きました。
「では、何かございましたら此方でお呼びください!」
――お客様はやはり最後まで何も言いませんでした。
扉を閉めて、部屋から少し離れて。
小雪は耳をピクピク動かしながら溜息を零しました。
此度のお客様、おしゃべりが苦手なお客様。
こちらの世界について簡単に説明した際も彼は何もしゃべりは致しませんでした。
見た感じは御納得していた様には感じられますが、しかし。
話すのが苦手と判断致したのは良いものの。
はてさて、このお客様にはどのようにおもてなしすればいいのか。
小雪は困ってしまったのでございます。
御用があれば呼んでくださいと言ったものの、せっかくのお客様を放っておくわけには行きません。
彼に何かできないものかと、悩んでしまうのです。
小雪は考えました。
ですが、思いついた事と言えば、自分のおやつにと用意していた牡丹餅が頭に浮かぶぐらいでございます。
――辛い選択でございますが、致し方がありません。
小雪は自分の部屋へと向かいました。
◇
「お客様、失礼いたします!ささやかな物ですが、軽いお食事をお持ちしました!」
部屋の淵で小雪が頭を下げます。
お盆にはきなこと小豆の牡丹餅が二つ。
そして淹れ立てのお茶が入った湯呑が一つ。
暫く頭を下げていましたが、お客様はやはり何も言いません。
顔を上げても、チラリとも此方を見ようともしませんので、小雪は尻尾を下げるしかありません。
「し、失礼してもよろしいでしょうか?」
おずおずと聞けば、少し間。
お客様は小さく頷いてはくれました。一安心でございます。
小雪は客間に入りますと、机の側へ。
お盆の上の牡丹餅と入ったお皿と湯呑をお客様の前へとおきました。
「手作りの牡丹餅になります!」
お客様は何も言いません。
いいえ、僅かながらに、はじめて、お客様は反応を露わにしました。
ちらりと視線を上げて、机の上の牡丹餅を見つめます。
長い沈黙、お客様は口を開きました。
――ケーキとか無いの……?と。
小雪は困ります。あわあわと慌てます。
ケーキと言う存在はしていますが、今は無いからです。
「も、申し訳ございません!きょ、今日は牡丹餅しか用意しておらず!」
あわあわとしていますと、お客様はただ小さく「そう」と呟いたのち、黙り込んでしまいました。
また何もしゃべらなくなってしまったお客様。小雪は頭を悩まします。
お客様は牡丹餅に手を伸ばそうとは致しません。
ただ俯いて無言のままです。
つまらなさそうに、此方を見向きもしません。
このままではおもてなし失格にございます。
だから小雪、決心いたしました。
「お客様!少々お時間を貰ってもよろしいでございましょうか!」
声を高らかに立ち上がった小雪。
お客様は流石に唖然として、その迫力に頷くしかないのでございます。
小雪は深々と頭を下げると慌ただしく部屋を出ました。
向かう先は台所です。
寒い床下から卵とミルクを取り出して、棚からは小麦粉と砂糖を。
器に茶筅。目の細かい笊を机に置いて。
石造りの竈に薪を入れて火を熾して、取り敢えずは準備完了でございます。
ここからは体力勝負にございましょう。
なにせほら、バターから作らなくてはいけませんから。
◇
――あれから、2時間ほどでございましょうか。
小雪は速足で客間に急ぎます。
客間の障子を前に、膝を付いて小雪は声を上げます。
「お客様、遅くなりました!今お時間宜しいでしょうか?」
声を掛けると暫く、中から「ああ」と小さな声が聞こえてきました。
小雪は笑顔を浮かべて障子を開けます。
障子を開けますと、変わらずお客様が座布団の上に座っています。
机の上の牡丹餅は変わらず置いてあるままです。
小雪は頭を下げます。
「お待たせしました。簡単な物でございますが、ケーキを用意いたしました!」
そう言って、お盆に乗せたシフォンケーキと紅茶の入った急須を差し出すのです。
頭を下げる小雪を前に、お客様は無言のままでした。
それでもめげずに、小雪は客間の中へ。
机の上にケーキが乗った皿をのせて、急須で紅茶を入れるのです。
呆然としているお客様を前に小雪は微笑みます。
「そちらのお皿、おさげしましょうか?」
お客様は小さく頷きます。
小雪は牡丹餅が乗ったお皿と、冷め切った湯呑をお盆に乗せます。
もったいないので、この牡丹餅は後で小雪のおやつになりましょう。
お盆を下げて、小雪はお客様に太陽みたいに笑顔を見せます。
「どうぞ、お召し上がりください!」
そんな小雪を前にお客様は無言のままでした。
すこしして、彼がゆっくり口を開きます。
自分の一言で、あんな我儘の為にコレを作ってくれたのか。
そう問いかけて来ます。
小雪は一度首を傾げて首を縦に振りました。
「牡丹餅しか用意していなかったのは此方の不手際ですから!これぐらい当然です!」
小雪の言葉を聞いて、お客様は口を閉ざします。
酷く眉を顰めて、もう一度小雪を舐めまわすような視線で見ます。
暫くして、彼はもう一度口を開きました。
こちらの要望は何でも叶えるつもりなのか、問いかけて来ます。
小雪は、その視線を理解できません。
だから笑顔で頷くしかありません。
「はい、出来る限りのご要望は叶えようと努力する次第です!」
そんな小雪を前に、お客様はまた俯きました。
だったら、と一間を開けて。彼が言います。
ゲームを用意して欲しい、そう要望を出すのです。
これに困ったのは小雪です。
ゲーム、それはしています。どんなものかも知っています。
此処は様々な異世界のお客人が訪れますから、どのようなものかは知っているのです。
だからこそ困るのです。
「申し訳ございません。――おそらくお客様のご所望のものは用意できません……」
ですので小雪は正直に言いました。
此方はどんなに頑張っても小雪には用意できないモノです。
逆立ちしたって出やしません。
だからコレばかりは正直に頭を下げるしか出来ないのです。
小雪を前にお客様は言いました。
どうしてもゲームがしたい。どんなゲームでも良い。身体を使ってでも用意しろ。
――ここまでゲームを望むお客様は小雪にとっても初めてにございました。
ですか、やはり困ります。
ゲームなんてモノ。
直ぐに用意できるものなんて、けん玉やお手玉、羽板ぐらい。
今まではコレで切り抜いて来ましたが。此処までゲームがしたいとねだるお客様。
お客様は「どんなゲームでも」と仰って下さいますが、そんなもの出されてもがっかりするでしょう。
困り切り、耳を下げる小雪を前にお客様は立ち上がります。
風呂に入ってくると言った彼に小雪も慌てて立ち上がりました。
彼を脱衣所まで案内しなくてはいけませんから。
こちらですと声をお掛けして、露天までご案内しましたが、小雪はゲームの事で頭がいっぱいでした。
脱衣所の前でお客様が言います。
風呂から上がるまでに用意しておけ、と。
ですがやっぱり小雪は耳を下げたまま。悩まし気な表情を浮かべ続けるのです。
――いいえ、ここまで望まれたなら仕方がありません。
「分かりました!小雪は精一杯頑張らせて頂きます!」
もうこうなればヤケにございます。
小雪は吹っ切れた様子で顔を上げて、一度深々と頭を下げますと元気いっぱいに駆けだして行くのです。
◇
小雪は一人部屋で、鋏をチョキチョキ鳴らしておりました。
足元には様々な色の色紙が散在。
机の上には小さな折り鶴が複数用意され。
木で出来た小さな四角のおもちゃが一つ。
次に頬を墨で汚しながら、必死に大きな和紙に筆を走らせるのです。
最後は、この和紙を糊を使って用意しておいた木の板に張り付ければ、それで完了――。
そんな時にございました。
部屋の外から小さく声を掛けられたのは。
小雪は耳をぴくん。肩を震わせます。
顔を向ければ、障子の向こうに人影が一つ。間違いなくお客様です。
どうやら、いつの間にかお風呂を上がり、彼方から声を掛けてきたようでございます。
小雪は大慌てで障子をあけました。
目の前には先と変わらず、シャツを着たお客さまが立っておられます。
小雪は部屋の隅に目を投げました。そこには用意していた浴衣が一着。
これはお客様がお風呂を楽しんでいる間に、用意して置かなくてはいけないものです。
その間に元々のお客様のお召し物は洗わなくてはいけない筈なのに、お客様の服装は先と変わらないままです。
そもそも、背中を流すと言う行動も忘れていました。これは手痛い失敗でしかありません。
小雪は深々と頭を下げました。
「申し訳ございません。私ったら、夢中で!探し回りましたか!?」
お客様は小さく頷きます。
彼の手には渡しておいた鈴があります。
何度も鳴らしたのでしょうか。
其処まで気が付かないなんて。小雪はもう一度頭を下げます。
良い、とお客様は許してくださいました。
小雪はホッと致します。
ありがとうございますと、頭を下げます。
お客様は口元を吊り上げました。
それよりも、『ゲーム』は用意できたか。
そう言って、小雪に近づいて、震えながら彼女に手を伸ばすのです。
小雪は何故彼が笑っているか分かりません。
何故彼が震えて、自分に手を伸ばしているか分かりません。
だって小雪は人間の欲なんて知りやしませんから。
そんな事より小雪はお客様である彼に見せるモノがありますから。
彼が今どんな事を考えているかなんて関係ないのです。
ゲームは用意できたか。そう問われた小雪は笑います。
「はい!お粗末ながら『ゲーム』用意させて頂きました!」
心から楽しそうに、太陽に笑って。
小雪は、罪悪感と恐怖から、肩を震わせたお客様に今作った物を嬉しそうに見せるのでございます。
大きな和紙に描いた、沢山のマスが描かれたゲーム。
「スタート」と「ゴール」だけが、妙に大きく描かれたゲーム盤を一つ。
「『人生ゲーム』を作ってみました!」
そう、えっへんと自信満々に胸を振り、尻尾を振りながら。
しかしですが、お客様。黙ってしまいます。
小雪がゲームをしっかり用意できていたからではありません。
もう一度言いましょう。
大きな和紙に沢山のマスと、「スタート」と「ゴール」だけが妙に大きく書かれたゲーム盤――と。
コレのどこが『人生ゲーム』なのでしょうか、すごろくにだってなりやしません。
ですが、目の前の小雪は自信たっぷりに言い張っていますので、固まってしまうのも仕方がありません。
しかもです。一番肝心のゲーム盤がこんなにも適当なのに対して。
机を見れば、ちゃんと『お札』やら『駒』やら『サイコロ』はしっかり作られていますので。
まあ、確かに、彼女は『人生ゲーム』を作ってはいたようなのでございます。
それは『人生ゲーム』では、無いかな。
お客様が重たい口を開いたのはそれから一分後の事にございます。
小雪はキョトンとしました。
じぃっとお客様とゲームを交互に見つめて、数回。
小雪の顔は見る見るうちに困惑したモノへと変貌していったのでございます。
「も、もも、申し訳ございません!ち、ちち、違いますか!?こちらは!!」
お客様は頷きます。
もう小雪は大慌てです。
だって、小雪、前に別のお客様から『人生ゲーム』なるモノを聞いていましたから。
でも、中途半端に聞いただけでございましたし。
どんな『ゲーム』かも知りもしませんでしたから、コレが正しいと自信満々に作ったと言うのに、蓋を開けてみれば此方です。
残念ながら。小雪のそれは『人生ゲーム』では到底無いのです。
小雪は慌てふためきました。
せわしなくあたりを見渡して、しょんぼり耳を下げてしまうのです。
その様子を見て、お客様は大きくため息を零されました。
仕方が無さそうに、小雪から和紙を受け取ると、机の反対側に座って筆を手に取ります。
そして、『人生ゲーム』とはどんなものか、ソレを説明しながら、小雪の描いた無駄に大きなマスの中に文字を書いていくのです。
ひとつひとつ丁寧に、彼が生前から知っている『人生ゲーム』を思い出しながら。
良い出来事も、悪い出来事も、分け隔てなく。
その様子を小雪は物珍し気に見つめておりました。
お客様から説明を受け、小雪はようやく『すごろく』へと結びつく事が出来ました。
しかしと、疑問に首を傾けます。
「お客様、その…10万失うとか、宜しいのですか?もっと前向きな、もう全部のマスが良い事じゃ駄目なんですか?」
お客様は呆れかえります。
それが人生と言うものだろう、と当たり前の事を口にします。
良い事も起きる、悪い事も起きる。それが当たり前の『人生』だろう。そう言われて漸く小雪もはっと我に返りました。
「なるほど!たしかにそれは『人生ゲーム』ですね!」
笑顔で、当たり前のことを、しみじみに気が付いて納得したように頷くのです。
そうなれば小雪も手伝えます。
なにせ無駄に大きな和紙ですから。お客様の半分を小雪が書けば手間も省けるという訳です。
小雪はタンスの中から筆をもう一本取りだすと
「うーん、えーと」と考えながら文字を書いていくのでございます。
「お客様!こちら側はお任せください!取り敢えず、『一千万貰える』と『二千万失う』で宜しいでしょうか!」
――ちょっと、半分側から人生の山と谷が激し過ぎます。
3桁ほど多い。
お客様はそう苦笑いを浮かべて、最後にふと彼は思い至るのです。
『お客様』なんて呼びにくいだろうと。
そう考えて、小さい声で自身の名が「浜崎尊」である事を伝えれば、小雪は笑顔を浮かべるのです。
「分かりました尊様!はやく仕上げて『ゲーム』をいたしましょう!!」
「うわあん!負けましたぁ!!」
小雪の部屋の中、机に覆いかぶさるように小雪は泣きました。
その様子に尊は勝ち誇った笑みを浮かべています。
理由は明白にございます。
2人の前には『人生ゲーム』
ゴールをした駒と、その手前で止まっている駒が一つ。
尊の手元には沢山の『お札』と小雪の前には僅かな『お札』に『借金の札』
この『人生ゲーム』……小雪は負けたのです。
小雪はがっくりと肩を落としました。
ただサイコロを転がすだけのゲームと思って挑戦すれば、ぼろ負けです。
流石にここから挽回でいる程、こちらの『人生ゲーム』甘くはありやしません。
ゴール一歩手前のマスには一番良い事が書いてありますが、小雪がそのマスに止まっても到底勝てないでしょう。
此処は負けを認めるしか無いのです。
小雪は不貞腐れたように、手元にあった小皿から金平糖を一つ取り出して尊に差し出しました
「もう『人生ゲーム』はこりごりです!『トランプ』に戻りましょう!」
そして、名案と言わんばかりに一言。
手作りのトランプを尊に差し出すのでございます。
――こちら、『人生ゲーム』を作った後に、更に尊から聞いて一緒に作った物となります。
流石に小雪には分からなかったので。
尊がトランプに必要な物を和紙に描き、その和紙を尊が補強の為に厚手の紙に貼ったものとなります。
普通のトランプより多少分厚いですが、遊ぶには十二分です。
さて、そんな小話はさて置き、トランプを差し出された尊は苦笑を浮かべました。
なにせ実は『人生ゲーム』より前に、先にトランプで何回か勝負をしているからにございます。
そして、そのゲーム全てに小雪は負けているのです。
それは尊の金平糖の数が何よりの証拠。
別に賭け勝負では無かったのですが。
「何回勝ったか、分かりやすくしよう」
と小雪が言い出したのです。
結果は御覧の通り。
小雪は自分で自分の首を絞めてしまったわけです。
いいえ、そもそも小雪が弱すぎるのです。
『ババ抜き』をすれば、小雪は素直に顔に出ます。
『七並べ』をすれば、小雪は素直に顔に出します。
仕方が無く『スピード』をすれば、小雪は慌てふためくばかりです。
こうして三連敗をしてから『人生ゲーム』に変わったのですが、御覧の通りにございます。
3回勝負……いえ、最終的に6回勝負になりましたが。
このままだと尊の全勝でしょう。
だから尊は苦笑を浮かべるしかないのでございます。
尊は仕方が無さそうに考えて、次のゲームは『ジジ抜き』に決めました。
『ババ抜き』よりは良いでしょう。ただ、小雪はコレでも負けてしまいそうですが。
その時はアレです。『豚のしっぽ』までランクを下げましょう。
そんな事を頭に浮かべながら、慣れない手つきで分厚いトランプを混ぜて、小雪に配るのです。
小雪は、そんな尊の様子に笑いました。
尊がどうしたのかと問えば小雪は微笑みます。
「ゲームをしている尊様はとても楽しそうにございましたから!」
この言葉に、尊が得意だからと冗談を籠めて少しだけ自信ありげに言いますと、小雪は首を縦に振って続けます。
「そうですね、でも尊様はゲームを作っているときも楽しそうでしたから。本当にゲームがお好きなんですね!」
続けられたこの言葉に、尊は少し考えて頷きました。
そうかもしれないと。
自分で作ったトランプを見てしみじみと思うのです。
ですが、尊は小雪を見ました。
尊はゲームが好きです。ソレが生きがいでしたし、ゲームであるならどんなものでも好きです。
それは子供のころから。子供の頃は自分でゲームを作っていたほどでした。
それを妹と一緒に遊んで。自分で考えたゲームで遊ぶ妹を見るのは、とても喜ばしい物にございました。
――だから、今回も同じ。
『人生ゲーム』を作り終え、嬉しそうに楽しみだと面白そうだと笑う小雪に。
彼女の姿が、尊にとって一番喜ばしく、楽しい物であったのです。
ただ、これは言いません。
そんなこと言われても小雪はきっと気持ち悪がるだけだと思ったのです。
だから、尊は苦笑を浮かべます。苦笑を浮かべて冗談を零します。
自分が、ゲームが好きである事を肯定して、次の世界。
自分向かうと言う異世界で、この知識を生かして設けてみようかな、なんて。
「いいですね、それは!」
尊の言葉に小雪は賛成しました。
ただ、小雪は悲しげな表情を浮かべます。
尊は苦笑を浮かべたまま、自身の言葉を否定します。
嘘であると、
この『ゲーム』は自分で考えたモノでない。
そんな盗んで、騙すようなことは出来ない。
小雪は少し固まって首を傾げました。
「そう、ですね。でも、尊様はゲームを作っているとき、本当に楽しそうでしたよ?――私の顔を見て本当に楽しそうに笑っておられました。勝手ながら思ったのですが、尊さまは楽しそうな私の顔を見て、そんな顔を成されたのではないでしょうか?」
尊は小雪の言葉に驚きます。
其処まで、気付かれていたことに驚きます。
小雪は微笑んだまま続けました。
「確かに異世界に無かったものだと知って、まるで自分が考えたモノだと言い張るのは何か思う所があるかも知れません。でも、尊様のように誰かを想って作るのであれば、私はそれで良いと思うのです。自分の利益の為じゃなくて、自分も含めて、みんなで楽しみたいからゲームを作った。素晴らしい事です」
それは今の私が保証します。
小雪は胸を張って答えました。
呆然とする尊を前に、小雪は最後に「ソレに」と言葉を零します。
「異世界では全て手作りになるでしょう?『人生ゲーム』も『トランプ』も私は大変でした!尊様がいないと数時間で完成なんて到底無理です!その努力は買われても良いものかと!」
あまりにも、あまりにも真剣に小雪は言い放つのでございます。
これには呆然と小雪の言葉を聞いていた尊も、だんだん笑えて来ます。
――それも、そうだと。
手元にある歪なトランプを見て納得してしまうのです。
初めて声を上げて笑う尊を前に小雪は笑いながら、しかし僅かに曇った表情を見せます。
「で、ですが。その……申し訳ない事に、私は尊様がコレから向かう世界の事は何も分からないのです。転生なのか転移なのかも分かりませんし、結果記憶を引き継ぐかも私には分かりません……」
あまりに申し訳ないと言う表情で言うのですから、先程の小雪が曇った表情を見せた理由が尊にも分かりました。
この言葉に尊は笑います。
尊は知っています。
少なくとも、自分が『転生』することは、知っているのです。
それを踏まえて尊は首元を擦りながら、大丈夫と笑います。
好きな物の事は、そんなに簡単に忘れることは無いから。
そう、最後は悲しげな顔をして言うのです。
続けて、尊は『ゲーム』で褒められたことに礼を言います。
なにせ趣味で褒められたことは久しぶりでしたから。
母が連れて来た男に、気持ち悪い趣味と罵られたあの日から褒められたことはありませんでしたから。
『尊』と言う名が原因で学校でも馬鹿にされて、いつからか妹にまで気持ち悪いと拒絶されて、ずっと引きこもっていましたから。
誰かに褒められたのは本当に久しぶりであったのです。
それに、迷いもなく『尊』と言う名を呼んでくれる事にも感謝しました。
本当は、一番やりたくて、得意な事を、やりたかった。
顔と名前があっていないと馬鹿にされた、この『尊』と言う名。
死んだ父が必死に考えて付けてくれたというこの名を、呼んでくれて。
「誰かに尊ばれる人となりなさい。人を尊べる人となりなさい」
その想いによって付けられたこの名前を、呼んでくれて。
――長い間、尊はゆっくりと小雪の側に来ました。
首を傾げる彼女を前に、尊は手を付き、頭を下げるのです。
涙を噛みしめて、こころから謝罪を彼女に送るのです。
尊は自分が、仕出かそうとしていた事を包み隠さず言いました。
その結果小雪が気持ち悪いと拒絶しても、
それが罪悪感からの綺麗事だと気づいていても、
自分が犯そうとしていた欲を包み隠さず口に出して、頭を下げたのです。
小雪は尊の告白を呆然と聞いていました。
最初は驚いた様子で、しかし徐々に困ったような表情で。
しかし口を出すことは無く、最後まで全てを聞いたのです。
暫くして、尊は口を閉ざします。彼の手が震えているのが分かります。
小雪はそんな彼に口を開きます。
「――私にそのような行為を所望する方は、何人かおられます。ソレを踏まえて言いますと、私には人の欲と言うのもが分かりません……。今この時、あなたの告白を受けても、どう答えれば良いのか分かりません」
その言葉は拒絶ではありませんが、肯定や、慰みの言葉でもありませんでした。
でもそれは仕方が無いと尊は噛みしめます。
本当は心の何処かで小雪なら肯定の言葉を掛けてくれると……。
でも、そんな望みこそ浅はかで、気持ちが悪い。
尊がもう一度謝罪の言葉を口にしようとした時。
小雪は続けるように言いました。
「でも、思い止まってくれて良かった。私は、欲は知りません……。でも、怖い、嫌という気持ちはあります。――いままで私を襲った方々を私は、傷、つけてしまいましたから…」
あまりに酷く心苦しそうに小雪は言いました。
小雪は震える彼を前に、真っすぐに尊を見つめるのです。
「尊様。今の気持ちを決して忘れないでください。決してです。人を傷つける前に、同じように踏みとどまってください。――これからの人生は、自分で自分が尊いと思える、誰からも尊敬される。そう、胸を張れる人生を送ってください」
小雪の言葉に、尊はただ黙って数滴の雫を零しました。
そして、震える声で「はい」と答え、拳を強く握りしめるのです。
小雪はそんな尊を前に、微笑みます。
「では、尊様、ゲームの続きを……ああ!!」
彼女が声を荒げたのは、その時にございます。
小雪は慌てたように、部屋から出て廊下に出ました。
そして、真っ暗になった空を見上げるのです。
こちらに時計なるモノはありません。
ですが、大体の時間は分かります。
どう考えでも、今現在の時間は夜中を回っているのです。
つまりは、夕食の時間はとっくに過ぎていると言う事。
むしろ準備も何もしていないと言う事。これには小雪も顔を青ざめさせるしかありやしません。
小雪は慌てたように尊の側に駆け寄ると
『ごん』と音を立てて頭を下げました。
「も、申し訳ありません尊様!お、お食事の時間をすっかり私、忘れていました!!そ、それにこんな遅い時間まで!!身体も冷めた事でしょう!!い、今からになりますがお食事に致しましょう!!何か食べたいものはございますか!!?」
今までの尊よりも小雪は深々と頭を下げます。
目元を拭いながら、尊は思います。
そもそも食事の準備をすると言った小雪に1人じゃできないゲームだからと誘ったのは尊です。
そこまで謝られることでは無いですし、楽しいひと時を過ごせたのは違いないですから、小雪が謝る必要が無いのです。
しかし、気が付きました。
ここで彼女を気遣ったら逆効果ではないかと。
それに、言われてみればお腹がすいているのは確かです。
だから、少し考えます。何か、食べたい物。
小雪の手を煩わせない程度で、お腹にたまる物。
必死な思いで考えて、思いついたのは一つ。
『オムライス』でした。
それも本当に何となく。
しかし小雪は「ぱぁ」と顔を上げました。
「分かりました!!オムライスですね!ふわとろですか?それとも昔ながらの?」
この問いには「昔ながら、ケチャップの」と答えました。
何となくですが、しっかり答えなければ小雪からは質問攻めに合いそうだったからです。小雪は笑顔で頷きます。
「分かりました!――その間、尊様はもう一度お風呂で身体を温め直してくださいませ!」
そう言って、元から用意してあった浴衣を手渡すのです。
尊は困ります。風呂に入り直すのは良いのですが、別に浴衣は。
しかし小雪は首を振りました。
「明日は尊様の新たな門出にございます、――で、あるからこそ、洗い立ての綺麗なお召し物で、自分らしく胸を張って出立すべきです!洗濯はお任せください、アイロンをかけて明日までには準備いたしますから」
そう、はっきりと笑顔で、之には尊も折れるしかありませんでした。
浴衣を受け取って、彼女にかける言葉を探します。
いえ、掛ける言葉は一つだけです。
尊は「ありがとう」と――
言葉を、笑顔を浮かべて、彼女に送るのでした。
◇
夜が明けて、尊は宿屋の扉の前に立ちます。
昨日と同じダボダボの、けれど綺麗に洗われたシャツを着て。
この宿屋を出ていくために扉の前に立ちます。
小雪は彼の旅路を後ろで静かに見守っています。
来た時と変わらない笑顔で見届けてくれるのです。
そんな小雪を見て、尊は昨日の事を思い出して、僅かに笑いました。
昨日、お風呂上り。
自室に戻ると特大のオムライスが用意されていた事。
それを前に、冗談半分で『ゲーム』の罰ゲームとしてケチャップで「魔法の言葉」を本当に出来心と冗談でお願いしたら、何故か妙に慣れた手つきでしてくれたこと。
なんでも、お願いしてくれるお客様は多いとの事とか。
それもあまりにも似合っていたので、思い出して思わずと笑ってしまったのです。
小雪は理解できずに首を傾げているところが、また、何とも。
流石にと、尊は助言するしかありません。
お風呂で背中を流すとか、
素で当たり前に「そんな事」をするのは控えた方が良い、なんて。
ついつい、彼女の今後を考えて口にしてしまったのです。
小雪はソレらを仕事と言いますが、そこまで尽くす必要はない。
特に男は気を付けて欲しい。
そう、心からの助言を零したのです。
小雪が尊の言葉を少しでも理解してくれれば良いのですが。
――輝かしい出口の前で尊は思いました。
この先の人生、不安はありますが、
酷い後悔もありますが、受け入れている自分が居ます。
落ちぶれて、笑顔で出迎えてくれた彼女に見向きもしないで。
最低な事を考えて。幼いころの思い出すらも忘れていた昨日の自分。
前向きなんて捨てていた筈の、昨日の自分。
それは変わりません。
こんな簡単に人が変わるはずないと分かっていますから。
だから、今日のこの前向きな輝きは、小雪から与えられた僅かな光でしかありません。
ですか、いいえ、だからこそ。
この気持ちのままに、この気持ちを忘れないままに旅に出るのです。
ただ、今度は、そう。
今度は自分の本当に好きな事を、自分から進んでしよう。
他人から文句を言われても、拒絶されても。
誰かの為になって自分も楽しいと思えるのなら、胸を張って生きてみよう、と願いながら。
尊には、その可能性が与えられているのですから。
最後に尊は小雪を見ました。
彼女に最後の言葉を送ります。
どうか、自分達で作ったあの『ゲーム』
あれを大切に使って欲しい。
それは感謝を込めた願い。
尊である自分からの最後の願いなのです。
尊の願いを小雪は受け止めます。
そして、心から名一杯の笑顔を1つ。
「はい、もちろん!ここに来るお客様と一緒に、大切に遊ばせて頂きます」
小雪の言葉に尊は同じように心から、本当に小さく微笑んで。
あの、間違いを仕出かさなくて本当に良かったと、安堵して、感謝をして。
大きく手を振って、光の中へと足を踏み出すのです――。
「尊様、良い旅路を。いってらっしゃいませ!」
深々雪降る、狐のお宿。
皆様こんにちは。今日もちょいっと一休みしていきやせんか?
さて、今日は早速ですが、狐のお宿にお客様がお越しになっております。
スーツに身を包み、しっかりメイクを施した女性のお客様。
名前は日向五月。此度のお客様にございます。
五月はスマホを片手に当たりを見渡しんした。
此処がさっぱり何処だかさっぱりわかりゃしやせん。
そもそも自分はさっきまで電車の中にいた筈であると、頭をかしげます。
たしか、スマホが急に光って。それで。それで。
それで、気が付きゃ、雪積もる古びた門の前。
漸く肌に耐えようのない寒さが襲って、五月は身を抱え込むように震える事となりました。
丁度のタイミングで、門がぎぃと開きます。
出てくるのは長い髪の着物姿の女将が一人、狐の女将小雪です。
「ようこそいらっしゃいました。此処は宿屋『子ぎつね亭』!私此方の宿屋の――」
ここまで言って、小雪は「はっ」と顔を上げます。
慌てたように門の中に引っ込んで、慌て急ぎ足。玄関へひとっ飛び。
五月が怪訝そうに見つめていますと、狐耳の少女は古い半纏を手に戻ってきました。
「どうぞ、お客様!お寒いでしょう?此方を着れば、たちまちポカポカにございます!」
真っ赤な顔で、赤い手で差し出してくるのもですから、五月は小さく声を漏らして、受け取るしかございませんでした。
◇
「こちらが、今夜のお客様のお部屋になります!何か御用があればお呼びください!」
きれいに掃除された部屋まで案内された、五月は半纏で包まりながら呆然と小雪の話を聞いておりました。
一応ですが、此処が異世界である事。
自分は異世界転生か異世界転移させられた事。
そして此処は、その自分が出向く筈の異世界とは更に別の異世界の
小雪と言う少女が経営する宿屋の事。
あらかし説明を受けましたが、着いて行けないのは当然にございます。
しかしと、いいますか、みんな同じと言いますか。
視線を上げれば、小雪。
正確には彼女のふわふわの耳と尻尾に目が行ってしまう訳です。
「お客様?あ、寒いのでしたらストーブを用意いたしましょうか?それとも、囲炉裏がある部屋に案内いたしましょうか?」
そう言って、小雪は耳をピクピク動かします。
おもわずさつきは指をさします。本物か気になったのです。
「ああ、私の耳ですね。はい!本物ですよ?触ってみますか?」
そう、また耳をピクピク。
さつきは悩みましたが、恐る恐ると小雪の耳へと手を伸ばしました。
ワンタンの様な感触と見事なまでに、ふわふわな毛。
それは実家で飼っていましたミーコ(犬)の耳の感触と良く似たさわり心地で、本物にございました。
五月は漸くと言いましょうか、自身の頬をつねります。
痛いです。もう一度強くつねります。痛いです。
それで理解するのです。これは、現実であると。
異世界転生?私は死んだの?嘘でしょ?
叫びをあげるのは死極まっとうにございましょう。
さつきを前に小雪は慌てました。
「し、しんだ…転生とは限りません!ここは異世界への旅路へ向かうお客様が迷い込む一夜限りのお宿。一晩明けますと、お客様は本来行くはずであった世界へと行くでしょう?でも、転生とは限りません!転移の方もたくさんいらっしゃいますから!」
擁護をしてくれたのでしょう。五月は自分が行く世界の事を問いました。
小雪は耳を下げてしまいます。
「も、申し訳ありません。私には其処までは分からないのです。他の世界との交流は原則禁止ですので。一晩だけが精一杯ですし」
ありえない、つかえない。思わず、その言葉が口から洩れそうになりましたが、五月はぐっと我慢致しました。小雪は頭を下げます。
「ですが、お客様の向かう世界はきっと素晴らしいものでいっぱいですよ!沢山の魔法や、冒険が待っていて」
ここで五月が遮ります。べつに冒険なんて興味も無いですから。魔法は興味が無いとなれば嘘になりますが、あったら便利ぐらいしか考えておりません。
半纏に包まりながら、五月は溜息を零しました。
人生最悪……と
仕事はつらい、
婚活は上手くいかない、
親からの孫コールがうっとうしい、
どんなに頑張っても報われない。
そんなつまらない人生だったけれど、ここで更に異世界行きとか、ご勘弁。
――いいえ。五月の頭に一つの可能性が浮かびました。
なにも、冒険を強制される危険な世界だけが異世界じゃないと。
さつきの世界で流行っている、令嬢に転生して美形の殿方に囲まれて贅沢三昧出来る、そんな漫画や小説。
そんな世界もある意味異世界ではないかと。
そこで五月がなりますのは、『主人公』か『悪役令嬢』。
どっちに転がり込んでも美味しい役どころに違いないのです。
それなら良いなと、五月は口元を吊り上げました。
「あ、あのお客様?」
心配そうに此方を見上げる小雪に五月は我に返ります。
なんでもないと言いますと、小雪は胸を撫でおろし、もう一度五月を見上げるのです。
「それではお客様、如何なさいましょうか?今日は一段と冷えますから、ストーブを!ああ、でも、お風呂もありますよ!我が宿の温泉は天下一品。ひとたび入れば身体もぽかぽかです!」
五月は僅かに表情を変えます。
異世界へ行く。これは何とか受け入れました。
ですが問題は今です。
いまこの世界もまた『異世界』だとか、そんな複雑な問題で悩んでいる訳ではございません。
小雪からは説明を受けましたので、あれです、今までのご褒美で異世界に行く前に一泊の休みを貰えた。そう考える事にしたのです。
なんとも前向きな女性にございます。
ならば、何が問題か?
五月は手元を見ます。今、自分の手元には使えなくなったスマホしかありません。
あったはずの鞄が無いのです。
つまり、女の必需品『メイク用品』が何一つとしてないのでございます。
五月は苦虫を噛み潰したような表情を見せますと、首を振りました。
温泉アレルギーなのだと適当なごまかしを入れます。
この言葉を小雪はすとんと受け入れます。
慌てふためいて、深々と頭を下げます。
「こ、これは失礼いたしました!でしたら、何か別に暖かくなるモノを御用致しましょう!」
あまりに小雪が頭を下げますので、五月も流石に居心地が悪くなります。
別に小雪が悪い訳じゃありませんから。
何と声を掛けるべきか、迷っていますと、小雪が顔を上げました。
五月は改めて、まじまじと小雪を目に映す事となり言葉を失います。
柔らかそうな夕焼け色の髪。
真っ白で染み一つない透き通った肌。
卵型の顔には鼻筋が通った形が良い鼻と、ふっくらと柔らかそうな唇。
青色の瞳は大きく蒼天のように輝いて、まつげも長く、眉毛も長く形が良い。
女の五月から見ても、小雪はまごうこと無き美少女にございましたから。
よく見れば体つきも。今にも折れてしまいそうな細い身体、そのくせ着物を着ていても隠し切れないと分かる胸部。
だのに小柄で、誰からも守ってもらえそうな。
むしろです、今まで見て来た芸能人の誰と比べても、これ程の美女はいないと思えるほどに。
大柄の五月とは正反対にございました。
――五月の心の中に影が落ちたのは、当時にございます。
五月は小雪から目を逸らしました。温泉に入れないなら別のを用意して。
寒くてたまらないから。
とても冷たく放ちました。
小雪はきょとん。知ったこっちゃない彼女は満面の笑顔を浮かべるのございます。
◇
「如何ですかお客様!」
部屋の外、大きな庭の先でせっせと火を熾す小雪が五月に声を掛けます。
五月は身を丸め、小さくくしゃみ。
普通に寒い。そう声を荒げました。
あれから五月は掘りこたつと、ストーブが用意された部屋に案内されました。
ただ、この堀こたつ、古い物でして。
炭を焚いて温めると言うもので、ストーブも同じ。
所謂石炭ストーブ。
最初こそ寒かったのですが、だんだん暖かくなってきたかと思えば。
小雪、唐突に部屋の扉を全部開けてしまったのでございます。
なので、結局は寒いに逆戻り。
五月は半纏をきつく握って、こたつに潜り込むしかありません。
「申し訳ありません。何分古い物でして、換気をこまめにしなければ。問題が……」
小雪の説明は納得がいきますとも。危険なことぐらい五月にだってわかります。
ですが、寒い物は寒いです。――それに。五月は小雪を見ます。
割烹着を着て、必死に火おこしをしている小雪。
彼女の前にはドラム缶が一つ。
まさか、まさかと思いますが。アレに入れと…?
そう思うのは仕方が無い事にございましょう。
こんな雪が積もった寒い中。
裸になって、あの小さな入れ物に入れと。
理解できずにいます。
田舎暮らしてもドラム缶風呂なんてもう珍しいですから、一応田舎から上京してきた五月ですが勿論彼女も入った事なぞありません。――無理です。
気持ちのままに素直に叫びますと、小雪は驚いた表情を浮かべました。
そして耳をぺたんと下げるのです。
「ど、ドラム缶風呂……。嫌でしたか」
見て分る通りにしょんぼり致します。五月の罪悪感が深まります。
なにせ、五月の我儘で小雪はドラム缶風呂を用意してくれたわけですから。
ですが、そもそも、お風呂には入る気が無いので、勝手に用意した彼女が悪いのです。
別に五月はお風呂に入りたいなんて言っていませんから。
しょんぼりした様子で、焚火を見ている小雪が悪いのです。言い聞かせました。
「…分かりました!でしたら、焚火を致しましょう!」
五月が目を逸らした時にございます。
小雪が「ぽん」と手を叩いて名案と言わんばかりに笑いました。
ドラム缶風呂は無駄になりましたが、焚火はまだ使えます。
呆然とする五月を前に、小雪は身体を向けます。
「それでは、準備をいたしますので少々お待ちください!」
そう、胸元でぐっと手を握りしめて。意気揚々と準備を始めるのです。
うんしょ、うんしょとドラム缶を何とか退かして、焚火にさらに薪をくべます。
そのまま走って、暫く。
沢山の芋やら鍋やら持ってきて、焚火に準備をし始めるのです。
五月は頼んでないのですが。
声を掛ける間に椅子やらなんやら用意するので止めに止められません。
そんなこんなで準備は完了。
小雪は五月へニコリと微笑みんした。
「さあ、お客様!準備完了です!思う存分楽しんでいってくださいませ!」
◇
「いかがでございますか、お客様!」
焚火の前で小雪が笑顔で五月に声を掛けます。
額の汗を拭って、焼き芋の調子を見ながら、チーズを焼いております。
コレも全てお客様の為。
しかし、当の五月は溜った物ではありゃしやせん。
焚火の前で、半纏を上から被って布団を被って、手渡された焼きチーズを頬張りますが寒くて、寒くてそれ何処じゃないのです。
「もう少しお待ちください!焼き芋が出来上がりますから!」
そんな五月に、やはり気付きもせず。小雪はせっせと働きます。
こうなれば必死に働いている小雪の方が熱そうです。
寒い!!!と……
五月が、もう我慢できずに口に零したのはそれからしばらくの事でございます。
小雪はぱっと顔を上げました。
「お、お寒いですか!?た、焚火じゃ、足りませんか!?」
勿論だと五月は頷きます。
事実に漸く気が付いた小雪は慌てたように頭を下げんした。
「も、申し訳ございません!お客様の気持ちにも気づかず私ったら!は、早くお部屋へ!今すぐ暖かい物をお持ちしますから!」
引っ張り出されるように外に出された五月は、今度はぐいぐい押されるように部屋の中へ。
小雪は慌てたように五月をコタツの中へ押し入れて、もう一度頭を下げると部屋の中から出て行きました。
一人になった五月は考えます。今まで寒くて何も考えられなかったけれど、体が温まったからこそ思考が戻ってきたようでございます。
五月は思いました。何故自分がこんな目に合うのだろうと。
何でもかんでも小雪と言う少女は押し付けが激し過ぎます。
そう思うと、心底苛立って仕方が無くなってきました。
そこへタイミング悪く戻って来たのが小雪です。
「お客様!ホットミルクをお持ちしました!」
声を掛けられますが、五月はそっぽを向いて断ります。
障子の向こうで小雪が慌てているのが分かりますが、今は彼女の顔も見たくございません。
放っておいて欲しい、と強い口調で言いますれば、小雪は耳をたらんと下げて去って行きました。
悪いなんて思いはしません。
元から小雪が悪いのでございます。
五月はそう判断して、こたつに潜り込むのです。
しかし、ほんの少し、またまた障子に狐耳の陰が映ります。
今度はなんだ。
そう呆れて、もう一度強い口調で放っておいてくれと頼みましたが。
どうも様子がおかしいです。
五月が声を掛け終わる前に、小雪の姿が障子から消えてしまったのです。
いいえ、消えたかと思えば、また映って、また消えて。
その繰り返しでございました。
流石にこうなると、五月も気になります。
半纏に丸まりながら、そろそろと、障子へ近づいて小さなスキマを一つ。
そうやって、外をのぞき込んで、五月は少しばかり驚いてしまいました。
「――はぁぁ…。はぁぁ…。あつ、あつつ」
小雪が焚火の前で、まだちょこまかと働いているではありゃしやせんか。
真っ赤になってかじかんだ手に何度も息を吹きかけながら、焚火から焼き芋の確認をしています。
側にはまな板に包丁。
大根、ニンジン、ゴボウに玉ねぎと、お肉が少し。
鍋の前で、待っているのです。
頭には既に白い雪が積もっていますし、身体はカタカタ震えております。
それでも小雪は仕事を止めようとは致しません。
必死になって、料理を続けるのです。
五月は静かに障子を閉めました。
なんでございましょうか、小雪のあの姿を見て苛立ちが募っていきます。
元はと言えば小雪が悪いのに、之では彼女を突き放して一人で仕事を押し付けているような気分にございます。
此方は別に、頼んでも無いのに。
何故でしょうか。
そんなの、いつも通りだと言うのに、こうも良心が痛むのは。
可笑しな考えが浮かぶのは。
頼んでないのに?
いいえ、違います。
小雪は自分に迷惑をかけたので、償いとして、働くべきです。
そもそも、此処は宿屋にございますし、五月はお客様です。
お客様は足を延ばしてのんびりと待っていれば良いだけです。
わがまま言い放題です。
だから小雪は働くべき、で当たり前なのですが。
雪が積もった小雪を五月は無言で見つめました。
「?如何なされましたか。お客様」
小雪が顔を上げます。目の前には五月が佇んでおりました。
半纏を纏いながら、寒さで顔を赤く染め上げながら、五月はポツリと言います。
なにか手伝うことは無いか。とても暇なので手伝わせて欲しい――なんて。
きょとんと見つめる小雪の橙色の瞳に五月は目を逸らします。
コレは罪悪感からではありません。
これから五月は異世界へ『主人公』か『悪役令嬢』になって頑張る訳ですから。
今までの様に我儘し放題のわけには行かないのです。
そんな『主人公』は、最後は真の主人公に糾弾されておしまいにございますから。
それは『悪役令嬢』としては最高のポジションにございましょうが、結果処刑とか勘弁にございますし、其れでしたら今のうちに良い子を学んでおくのも良いと――。
そんな事をぶつぶつ呟きながら五月はもう一度、手伝えることは無いかと尋ねました。
五月の言っている意味は半分以上小雪には分かりませんでした。
それに五月はお客様ですので、お手伝いなんてしなくても良いのです。
でも今ここで彼女の厚意を無下にすることは何よりいけない事だと、小雪は理解し微笑むのです。
五月は半纏に更には手編みの帽子と、長靴にマフラーと最大の防寒対策を施し。
小雪のお手伝いとして、目の前の野菜を切っていきます。
大根の皮を剥いて、いちょう切りに。ニンジンの皮だって綺麗に向けます。
小雪はゴボウを「ささがき」する五月を見て、目をぱちくり。
「お客様、包丁のあつかいが上手いのですね!」
当然だと五月は胸を張ります。
結婚の為に五月は調理を必死になって勉強してきましたから。
大抵の料理は簡単に作れるのです。
ましてや「豚汁」なんて朝飯前。
そう自信満々に野菜を切っていくのでございます。
本当はお洒落なイタリア料理やフランス料理の方が好物で特技なのでございますが、ただ、何故かこの特技。
あまり男性受けは宜しくありません。
なので、最近は総菜に頼りっぱなしでございましたが。
世の中には包丁すら持てない娘もいると言うのに、何故自分はモテないのか。
少しだけ悩みましたが、五月はもう関係ないのだと振り払いました。
そんな百面相を見せる五月に、小雪は微笑みます。
「お客様は表情がコロコロ御代りになって、とても愛らしいです!」
それは褒めているのか、と疑問に思いましたが、小雪の顔を見るに本音であると嫌でも分かりました。
それも心からの賛美であるようです。僅かに悩みましたが、五月はお礼を口にしました。
「思った事が直ぐに顔に出てしまうのでしょうね。お客様はとても素直な方ではありませんか?」
今度の小雪の言葉には五月は口を噤みます。ソレは見当外れも良いものです。
だって、五月はいつも作った笑みしか浮かべていませんでしたから。
本当の表情に戻るのは家の中だけ。
しかも、いつもしかめ面でスマホを見てばかりでしたので、ここ最近は笑った記憶もありゃしません。
五月は、小雪にそんなに自分は表情が変わるかと問いかけました。
小雪は微笑み頷きます。
「はい、お客様は此処に来てから悩んだり、眉を顰めたり、笑ったり、大変そうでしたよ?」
――それは、全て小雪のせいです。
五月は思わず笑みを浮かべました。
ふと、その笑みに気が付きます。
今、自分は笑ったのかと。
それは思わずにございました。
小雪の一言がクスリと笑えて。
小雪の様子に、心底呆れて。
それはもしかしたら苦笑と呼ばれるものかもしれません。
それでも、にございます。
たった今自分が心から笑えて事に驚いて、そしてどこか安堵をしたのです。
自分はまだ心から笑えるんだ、なんて。
「ほら!今もお客様はニコニコです!」
小雪が笑顔で指摘します。
五月は少しだけ固まって、頬に手を伸ばして、またクスリ。
ああ、本当だと笑うのです。
◇
「さあ、お客様。たんとお食べ下さいませ!」
暫くして豚汁は出来上がりました。
五月の目の前、こたつの上には出来立ての豚汁と焼き芋が一つ。
側には淹れ立ての緑茶が置いてあります。
にこにこ微笑む小雪の前で、五月は手を合わせました。
豚汁なんて久しぶりです。
田舎で食べた以来ですから彼此10年以上食べておりません。
茶碗を手に持って「ふーふー」と息を吹きかければ、豚汁から立ち上がる湯気がゆらゆら揺れました。
そのまま一口。
昆布だしの優しい味噌味が身体の端々迄染み渡り、五月は小さく息を付きました。
野菜から、お肉から出汁がしみだしていてとてもおいしいのです。
次は大根をパクリ、味が染みわたっていて此方もまた大変おいしゅうございます。
味付けは小雪が行ったのですが。
五月は、貴女もなかなかねと笑いました。
「ありがとうございます!」
五月の賛美に素直に頭を下げる小雪。
その様子を見つめながら、五月は次に焼き芋に手を伸ばしました。
こちらもまた出来立てのほやほやにございます。
一口サイズに割って、口に放り込めば「あつあつ」で「はふはふ」
お菓子の様に甘い、サツマイモの味が口いっぱいに広がるのです。
豚汁が10年前なら焼き芋は更に昔。
もうかれこれ20年も食べてはおりません。
いえ、サツマイモなんて最近はお菓子にされた芋しか食べていませんでしたから、サツマイモはこんなに甘いのかと驚いたぐらいにございます。
いつも食べているお惣菜よりも、見栄を張って何回も本を見ながら作ったお洒落な料理よりも美味しく感じるのは気のせいなのでしょうか?
幸せそうに豚汁と焼き芋を頬張る五月を前に、小雪は微笑みました。
「そうだお客様、夕食の方は如何なさいますか?食べたいものがあれば仰って下さい」
夕食?そう思い、五月は思わず開かれた障子の向こう、外を見上げます。
かなり時間が立っていたと思いましたが、気が付けば外はまだ明るいです。
小雪が言います。
「今は3時を過ぎたぐらいになります。お客様はお着きが早かったので、本当は昼食もしっかり用意しておくべきだと思ったのですが……」
考えてみれば。五月は朝、この異世界に飛ばされたことに気が付きました。
此処でも同じ時間だとすれば、それは確かに、まだ空が明るいのにも納得が出来ます。
いいえ、むしろそんなに時間が立っていたと驚いたぐらいです。
少しして五月は首を振りました。
昼食であるなら、この豚汁で十分です。
そして、夕食ですが。
五月は豚汁を見て考えました。
そして願うのです。
夜はこの豚汁に合うおかずを数品用意して欲しい。
そして、ついでにサツマイモのお菓子も。
砂糖を使わないで、なんて少しだけ無理を言って。
五月の頼みに小雪は笑います。
「はい、お任せくださいませ!」
そう笑って、今夜の夕食の事を考えるのです。
五月は夕食が楽しみになりました。
そして、此処まで来れば欲も出てきます。
何分先ほどまで焚火の前で調理していましたので、寒いと言っても汗をかいてしまった訳で。
そうなると思ってしまうのでございます。お風呂に入りたい――と。
「ええ!?それは温泉の事でしょうか?でもお客様は、アレルギーでして……!い、今からドラム缶風呂をご用意いたしますね!!」
五月の言葉に小雪は大慌てです。
この様子だと本当にドラム缶風呂を用意しかねない勢い。
五月は自分が付いた嘘でありますから、苦笑を浮かべて首を振りました。
本当はアレルギーなんて無い事を素直に話したのです。
五月の話を聞きまして小雪は僅かな間、満面の笑みを浮かべます。
「そうだったのですね!ではご案内しましょう。今日はミルク風呂!どうぞ、ごゆるりと思う存分身体を温めて行ってくださいませ!」
◇
真っ白な温泉から上がった五月は、自分の部屋でホッと一息。
用意されていた鮮やかな浴衣を着て、これまた部屋に用意されていた牛乳を飲んでリラックス。
心の中でこれは確かに極楽である、等と思ってしまいました。
「しつれいします、お客様!」
くつろいでいますと、外から小雪の声が。
五月は僅かに慌てます。
ほら、メイクはとうに落ちてしまっていますから。
しかし、此処は女同士。
それにもう腹は既に決めてあります。
五月は小雪が入る事を許しました。
障子の扉が開きます。
小雪は驚くだろうな、と案じていた五月でしたがそれは全く。
眉毛が無くなり、糸のように細くなった目の五月を前にしても小雪は、ちっとも表情を変えません。
「お湯加減は如何でしたか?」
変わらず笑顔で接してくれる小雪に、五月も笑みを浮かべました。
「そうですか、それは良かった。――あの、お客様、宜しければ此方をお使いくださいませ」
五月の答えに満足そうに頷いてから、小雪は小瓶を一つ差し出します。
中には白い液体が入っております。
「これはお米のとぎ汁なのですが、化粧水として女性のお客様にお出ししているのです。化粧水は流石に私は作れませんし、お肌が弱い方も沢山いますので。これぐらいしか用意出来ず申し訳ありませんが…」
五月が何かと問いかける前に小雪が聞かせてくれます。
これには五月も驚きです。
確かに米汁は美容に良いと昔から伝えられていましたから。
いいえ、まさか化粧水が用意されているとは思いもしていなかったのでございます。
それで十分と五月は小雪から化粧水を受け取りました。
化粧水を貰って、少し、おずおずと言った様子で五月は小雪に聞きます。
化粧品とかありませんか――と。
少しの間、小雪は小さく頭を下げました。
「少々お待ちください」
◇
「こちら、お客様が置いて行ったものです。どうぞ好きな物をお使いください!」
暫くして五月の前に沢山の化粧品が並びました。
ファンデーションにマスカラ、アイライナーからリップグロスやアイシャドーまで。
いつも使っているモノとは勿論違いますが、必要な物はそろっております。
五月は礼を言います。
そして、つい小雪に使わないのかと聞いてしまいました。
小雪は首を横に振ります。
当たり前だと五月は思ってしまいました。
使わなくても十分に小雪は愛らしいのですから。
「――い、一度つかってみたのですが……。ば、化け物と言われてしまいまして」
しかしです、小雪の返答は斜め上の物にございました。
でも一度しか使ったことが無いのなら納得です。
なにせ五月も初めは同じでしたから。
だからこそ、想像が出来て笑ってしまうのです。
「ううう…。でもあれです、紅ぐらいなら、させますから」
そう言って、小雪は懐から綺麗な模様の入った貝殻で出来た口紅を取り出しました。
ずっと思っていたのですが、小雪は中々に昔のお人。
これにも五月は笑ってしまいました。
でも、五月は小雪には化粧は似合わないと言います。
綺麗だから必要が無いと正直に褒めました。
褒められた小雪は僅かに頬を染めて、嬉しそうに耳と尻尾を動かしながら五月を見ました。
「それでしたら、お客様も十分、お綺麗ですよ!」
この言葉に五月は眉を顰めました。
ソレは無い。
そんな事は絶対にありえない。
それは腹立たしい嫌味にしか聞こえない。
綺麗になりたいから化粧をしている。
美人には分からない。
素直に怒りを露にしました。小雪は慌てます。
「いえ、あの、お化粧を馬鹿にしている訳では無いのです。一度お化粧をしたことがあるので、どれだけ大変化も分かっています。皆様がどれだけ苦労して綺麗になろうとしているかも十分に理解できます。自分の顔が嫌いだと言うお客様は沢山おいでです。そんなお客様の言葉もお気持ちも否定するつもりもありません!」
小雪の言葉は心から籠ったモノがありました。
口を噤んだ五月に、小雪は続けます。
「努力を積み重ねる姿はとても美しいです。輝いています。でも、コレを言うと怒る方もいますが、でも私は其れでも思うのです。そんな努力をなさってきた沢山のお客様を見てきて――」
前置きして、小雪は真っすぐに言いました。
「醜いと言う方は、この世のどこにも存在しないのだと」
五月は何も言いません。
小雪の目があまりにも真っすぐで、柔らかな物であったからでしょうか。
思わずと、手が自分の頬にのびました。
いつもメイクをしなければ自信も産まれず、外にも出られない自分の顔。
――私も同じか。
思わずと問いただしますと、小雪は大きく頷きました。
「もちろんです。お客様はとても愛らしい顔立ちだと私は思います。お客様はお肌がお綺麗ですし、手入れを頑張っているのが目に見えて良く分かります!」
五月は僅かな笑みを湛えました。
どれだけ褒められたって、顔立ちに関しては、胸は張れません。
でも後者に関しては当たり前です。
五月は努力してお肌の手入れは頑張ってきましたから。
必死に調べて、何度も試して、自分に何があっているか。
苦労して苦労して今までを過ごしてきたわけですから。
産まれ持った顔に負けないように。
綺麗だと言われるように。誰よりも努力してきていると。
自負して言い聞かせて来ましたから。
だから、当然なのです。
でも、こんなに真正面から。
裏表のない満面の笑みで褒められるなんて、余りに初めての出来事であったから。
心から、嬉しいと感じる事が出来たのです。
目元に感じる熱い物を指でふき取りながら、五月は笑みを浮かべます。
自信たっぷりに。今まで一番飛び切りの綺麗な笑顔で、お礼を。
そして、そんなの当然だと、胸を張って言ってのけるのです――。
◇
夜も明けて次の朝。
五月は部屋に置かれた鏡の前で、自分の顔を見ていました。
昨日と同じ、メイクで綺麗に決めた顔。
違うメイク用品でしたが、代用には十二分にございました。
ただ、昨日と違うと言えば。
五月は鏡の前で、笑顔を浮かべます。
まずは何時ものように無理やり口元を吊り上げて、醜く。
次に自然に昨日の事を思い出しつつ、自然に心からの笑顔を。
その差に五月は自身で笑ってしまいました。
コレは確かに酷い。最低な、嫌われ者だと。
こんな顔で仕事を押し付けられたらそりゃ断れないし、
男も近寄って来ないと。心から笑います。
まだ顔に自身なんて微塵も無いけど、メイク用品だって手放せないけど。
昨日より晴れ晴れと、とても明るく優しい気持ちにはなれたのです。
五月はこれから、また別の世界に行きます。
主人公で、悪役令嬢。
――多分自分は転移なので有り得ないと分かっていましたが。
今に思えば随分ありがちで。
なんて都合の良い思い込みの激しい願望をもっていたのだろう。
――なんて自身で呆れかえってしまいました。
いいえ、もし例え、そんなゲームの世界に飛んでも。
主人公のように幸せをつかみ取る事は無かったな、と今度は苦笑を一つ。
でも、今は違います。
先ほどの嫌な五月は『昨日までの自分』
でも『今日からの五月』は別物なのです。
別物で在ろうと、在りたいと決めたのですから。
彼女は鏡の前で笑顔を浮かべ。
コレからの人生を新しく一歩踏み出す彼女は。
誰の目からでも分かるほどに、それはとても綺麗でございました。
「五月様、出立の準備が出来ました!」
後ろから五月を呼ぶ小雪の声がします。
五月は鏡の前で一度小さく頷いて。
昨日と同じぐらい、いいえ。
――昨日より綺麗な笑顔を浮かべて振り返るのです。
皆様こんにちは。お久しぶりです。
わたくしこの世界の案内人。唯の語り部にございます。
さて、さて今日も小雪のお宿。子ぎつね亭、どんなお客様がお見えになるのか覗いてみましょう。
枯れた木々。雪が積もる白銀の森の中。空の上からは雪が舞い落ちてゆきます。
その中で今日、小雪は一人で大忙し。
「うんしょ、うんしょ!」
可愛らしい掛け声と共に、大きなスコップで森の中の唯一の道を「えんやこらえんやこら」雪かきの最中にごさいます。
と言うのも今の季節は世界でも冬となりました。
冬の神さんが住まう雪の森。冬になると、いつも以上に行きは降り積もり、膝上までの雪は腰辺りまで積もりあがって、さあ大変。
そしてここ最近は、稀に見る大雪。なので大変にございますが、小雪はせっせらこっせら、今日お見えになるお客様の為に雪を上げるのです。
「ふう……!」
ですが、神さんと言っても女将の細腕。流石に一休みしなければ身体は持ちやしません。
と言う事で、ちょっとばかし一休み。
雪かきのついでに作ったかまくらの中で、お茶を沸かしておやつのミカンを取り出して、練炭の前でぬくぬく温まり始めました。
お茶をずずっと飲みながらホッと一息。
かまくらの中から見える雪化粧をぼんやりと眺めながら、何時ものように思いんした。
「きょうのお客様は、一体誰が来るのでしょうか!」
やっぱり小雪の頭は御酌様の事でいっぱいの様でごさいます。
そんな今日のお客様を想いつつにこにこ、再びお茶を『ずずず』。お茶をすすった時の事でございます。
外から、わぁ、すごい!……なんて、何とも愛らしい声が響いたのは。
「お客様!?」
小雪は耳をぴくんと立てて尻尾もふわんと立ち上がらせました。
どうやらにございます。一休みしている間にお客様がお着きになってしまったようです。
小雪は慌てて辺りの片付けをして、かまくらの出口へと向かいました。
ただ不思議にも思います。
いまのお客様の声。妙に可愛らし過ぎるなぁ……なんて。
小雪は疑問に思いながらもぴょこんと鎌倉の入口から顔を出したのでした。
あ!きつねさん!
またまたその声が響きました。
小雪もびっくり仰天。そのお客様はかまくらの前に立っていたからでございます。
あまりに小さくて小雪も目に映すまで気が付きやしませんでした。
くりくりおめめにふわふわ髪の毛、それからぷにぷにほっぺ。
短い柔らかそうな裸足と、紅葉のような小さな青白い腕。
細くて短い指を名一杯に伸ばして、お客様はにこにこと小雪を見つめておりました。
小雪はびっくり仰天。実に珍しいお客様でしたから。
でも、それも一瞬の事です。
小雪は鎌倉から出ると、膝を付いてお客様の顔を覗き込みんした。
「ようこそ。お客様。私は小雪といいます。今日一日お客様のお世話をさせていただく宿屋の女将です!」
にっこり笑って、元気よく、いつもよりもにっこにこな笑顔を浮かべて。
お客様は不思議そうに首を傾げます。小雪はその冷たくなった小さな手を優しく包んで問いかけました。
「お客様のお名前はなんですか?」
目の前のお客様は小雪の問いに実に人懐っこい笑みを1つ。
ハキハキと元気な声で片手を上げて言いました。
ぼくのなまえは、みくりだよ!4さい……なんて。
こゆきは頷いてまたにっこり。
「どうぞ、小雪お姉ちゃんとお呼びください。」
小さな、小さな、お客様に微笑むのでございました。
◇
宿屋について大きくて広いお屋敷の中でお客様は、すごいすごいとはしゃぎます。
ぴょんぴょん飛んで元気いっぱいです。
その隣で小雪は耳をぺたんと下げて大きく溜息。
此度のお客様。実に元気なのですが、元気が良すぎるのでございます。
ソレは勿論善い事なのですが、この宿屋に連れて来るのが大変でした。
と言うのも、お客様。雪を見たのが初めて出会ったらしく、高く降り積もった雪に大はしゃぎ。
出会って間もない小雪の手を掴んで
おねえちゃん、あそうぼう。あそびたい!の連呼。
お客様の願いなので叶えたいのはやまやまでしたが、小雪は心を鬼にして
「ソレは出来ませんお客様!宿屋に一度案内させて頂きます!」
小さな手を握りして強制的に此処に連れて来たのにございます。
勿論理由があります。それはお客様のお召し物。
よれよれの半袖のTシャツ。端がほつれた半ズボン。そして真っ赤になった赤い足。
この姿で呑気に遊べる大人が居ましょうか!いません。
なので、一先ず宿屋に連れて来て温泉に入って貰って身体を温めて貰おうと判断したのでございます。
なあに、お客様が身体を温めている間に外で遊ぶ準備をしておけば良い事なだけです。
幸いこの宿屋、子供客は少ないのですが来ない訳ではありません。
こんな時の為に用意して置いた子供用の着物にちゃんちゃんこ、そして藁の長靴は存在しておりますから。
宿屋の庭の雪かきは終わっていますし、安全に遊べると言う奴です。
雪だるま作り、かまくら作り、雪合戦。どんとこい!
問題を上げるのなら、お風呂に入っている間にお客様の関心が雪から無くなってしまう事でしょうか。
なにせお客様は5歳の坊やですから。
今どきの子は外で遊ぶより家でゲーム。
残念ながら、前に申した通り今どきのお客様のお求めの玩具は無いのです。
でも人生ゲームやトランプは喜んでくれるに違いありませんが!!
「さ、お客様。お風呂の準備が出来ています。身体が冷えているでしょう?十分に温まってくださいませ!」
小雪は何が来ても大丈夫!
そんな行きでお客様を見下ろします。
「お風呂から上がったら、今後こそ雪遊びをしましょう!」
胸元でぐっと拳を作って言うとお客様はキョトンと驚きます。
不思議そうな顔で、おふろにはいっていいの?
小雪は大きく頷きました。
「勿論です!あ、今日は柚子風呂にするつもりでしたが。特別!お客様のお好きなお風呂に致しますよ?」
如何なさいます?
すると、お客様は一瞬困惑したかのような顔を下のち、次には悩ましい顔を。
次には、おずおずとした笑顔を見せながら言うのです。
あったかいおふろ。イルカさんがういているの。
小雪はにっこり。
「では、温かお風呂のイルカ風呂にしましょう!」
◇
子ぎつね亭のお風呂は大きな露天風呂。
石造りの外装に、毎日女将が一工夫施す丁度良い温かなお風呂が自慢の一品です。
「さぁお客様、お加減は如何ですか?」
そんな大きな浴場の端、小さな洗い場の前で小雪はせっせとタオルを手に、目の前の小さくか細い背中を優しく洗います。
背中を洗うたびに「きゃっきゃっ」と「くすぐったい」とお客様はお笑いになりました。最後は桶に入ったお湯を頭から掛けて終了です。
身体を洗い終わると、お客様は酷く楽しそうに温泉へと走りました。
「あぶないです、お客様!」
あわてて注意すれば、ピタリと止まる小さな足。酷く悲しそうな顔で振り向いて小さく謝ります。
とても素直で良い子。小雪は思わず笑顔を浮かべてしまいました。
「濡れていて走ると危ないですから。お風呂場では走らないでくださいね!」
そう優しく笑って、そっと頭を撫でてあげれば。一瞬びくりと頭を抱えましたが直ぐにお客様は笑顔を見せてくれるのです。
さて、今日はお客様のご要望のイルカ風呂。
イルカの玩具がぷかぷか浮かぶ可愛らしいお風呂となっております。
何時もは、お風呂は背中を流して終わりなのですが今日は特別。
小さなお客様が相手、目を離したらいけませんので一緒に入ります。
かぽーんとお風呂の中。
お客様は大層大喜び。本当はいけませんがお風呂の中でも大ジャンプ。
いけない事ですが、やはり今日だけは特別です。小雪はニコニコと微笑みながらお客様の様子を見つめていました。
「そうだ。お客様!」
ふと思い出したように声を上げたのは丁度その時。
ぽんと手を叩いて小雪は思いだしたようにお客様に顔を近づけます。
「今日の晩御飯はいかがいたしましょうか?」
お客様は小雪の言葉にいるかを鷲掴みにしていた手を止めます。
ごはん?不思議そうです。たべてもいいの?なんて良く分からないことまで聞いて来ます。
小雪は不思議そうに首を傾げました。
「もちろんですとも!」
この言葉にお客様は目に見える程に悩み始めました。
うーん、うーん。唸って数十秒。
元気よく答えるのです。
おにぎり!
小雪は少しだけ驚いてしまいました。
小雪は料理上手です。おにぎりなんて言わずもっと沢山の物を作れます。
「おにぎりですか?もっと沢山いろんなものを作れますよ?」
問いかけてみましたが、お客様は首をぶんぶん。
おかあさんが、よくつくってくれるから、おにぎりがいい。
お客様は言いました。そう言われてしまったら仕方がありません。
ちょっと残念ですが、今日の晩御飯はおにぎりに決定です。
でも、やっぱりここはおにぎりだけではいけません。
せめてお味噌汁と漬物とぐらいは作らなければと小雪は心に決めたのでございました。
◇
お風呂も上がりさっぱりと。
でもお客様は待ってはくれません。
お風呂に入ったら雪遊びをしようと約束いたしましたから、小雪が用意した防寒具を身に付けてうきうきで外に走りだして行きます。
「お客様、お待ちください!」
慌てたように小雪も外に飛び出すしかありません。
真っ白な庭。雪で覆われた何処までも広がる白銀の世界。
お客様はその中心ではしゃいでおられました。一番に彼がしたことは小さな雪だるまを作る事です。
小さな手で雪を固めて歪な丸い玉を二つ。重ねたら完成にございます。
出来上がった雪だるまをお客様は自信満々に小雪に見せて来ました。
小さな胸を張ってえっへんとドヤ顔です。
「すごいです。お客様!かわいい雪だるまですね♪」
小雪は笑顔で返します。わたくしからみて正直言えば、雪だるまは酷く歪でしたが、小雪から見たら完璧な雪だるま。
なにせ、お客様と同じように小雪も雪兎を作っていましたが、こう言った事には不器用な小雪が作った雪兎は更に歪でしたから。
お客様が怯えてしまう程に歪であったのです。
こわいなんて言われた小雪は慌てました。
事実などで仕方がありませんが、お客様を怖がらせたなんてあってはならない事ですから。
慌てたように小雪は後ろ手に雪だるまを隠して、庭の先にある大きなかまくらを指差します。元から有った物で小雪が作った物です。
「お客様、あれは小雪が作ったかまくらです!あの中で餅でも食べませんか?おやつに致しましょう!」
ですがお客様は頬をぷくり。
小さな雪玉を作って小雪へぽい。
でてきたばかりだから、まだあそぶ!……だそうです。それもその通りです。
「では!」
小雪は胸を叩きます。
「二人で大きな雪だるまを作りましょう!」
小雪は小さなものを作るのは苦手ですが、大きな物を作るのは得意。
それにお客様と2人で造るのですから上手く作れる自信が有ります。
この提案にお客様は元気よく頷いて、雪の中を駆け出すのです。
小雪だって負けてはいられません。
それでは雪だるま作りの開始です。
造ると言っても、まず小さな雪玉を作って雪の上で転がしていくだけ。
時折形を整えで、よいしょ、よいしょ。流石に小さい雪玉を押すお手伝いは出来ませんので、小雪はお客様の側で応援します。
10分ほどで、小雪のひざ丈ほどまでの大きさの雪の塊になりました。此処からは小雪もお手伝いです。
大きくなり始めた雪玉をよいしょ、よいしょ。お客様を手伝って転がします。
そこから更に10分。雪玉は小雪の腰までの大きさになりました。此処まで大きくなると小雪もお客様も本気です。
うんとこしょ、よっこいしょ。
小雪とお客様は必死になって雪玉を押します。もう雪玉はお客様より大きくなっていますから、一苦労以上の労働です。
それでもお客様が、もっとおおきくしたいっと願いますので小雪も答えなくてはいけません。
大きな、大きな雪玉が出来上がったのはそれから30分ほど経ってからの事。
なんと小雪より背丈より大きな雪玉を出来上げさせる事が出来ました。ちょっとばかし他からのお手伝いは合ったけれど、2人が頑張った結果です。
大きな雪玉の前にお客様は大喜び。
その場でぴょんぴょん飛び跳ねて喜びを身体全体で露わにします。
「やりました。お客様、さぁ今度は頭の番ですよ!」
でもまだ此処で終わってはいけません。
何せ雪だるまは大きな雪玉と小さな雪玉、2つで1つ。
今より小さいですがもう一つ雪玉を作らなくてはいけないのです。
お客様は大喜びです。
「でも、お客様。小雪の力では雪玉は持ち上がりません!」
小雪の言葉にお客様はしょんぼりです。小雪は慌てて手を横に振ります。
「ですので、この雪玉に雪を重ねて行って頭を作っていきましょう!」
小雪に思わぬ提案です。
お客様は、この提案に一瞬キョトンとしましたが、にっこり満面の笑み。
元気よく「うん」と頷くのでした。
それからです。
お客様と小雪はせっせと雪玉に雪を被せては硬めを繰り返し、何とか丸の形にしていきました。
高さが足りなくなって、梯子まで使って。お客様が納得できる雪だるまを作っていくのです。
雪だるまが完成したのは一時間後。
出来上がったのは小雪よりも一回り二回り大きな雪だるま。
目にはサツマイモ、鼻はニンジン。口は太い木の棒。古びた毛布を枕にした
大きくて可愛い、雪だるまだ出来上がったのです。
「やりましたお客様!」
小雪は高く飛び跳ねて喜びます。
隣でお客様も「やったー」と飛び跳ねて喜びます。
ちょうどそんな時の事にございました。
「ぐー」なんてお客様のお腹の虫が鳴ったのは。
はっと気が付けば、あたりはすっかり真っ暗。もう夕飯の時間ではありませんか。
お客様は思わずお腹を「ぎゅー」と押さえます。
小雪はにっこりです。
「お客様、汗を沢山かいたでしょう?もう一度お風呂に入って来ましょう。その後に晩御飯です!小雪が丹精込めておにぎりを御作り致しますね!」
力こぶを作って名一杯の笑顔。
不安そうだったお客様の顔もコロリと変わります。
庭の先にあったかまくらを指差して言うのです。
だったら、ごはんはあのなかでたべたい!おかあさん
思わずの答えだったのでしょう。お客様が口にてお当てます。
小雪だってちょっと驚きます。でもそれもほんの少しの事、彼女は笑ったまま言います。
「勿論ですとも!」
「さあ、お客様。ご飯の準備が出来ましたよ!」
かまくらの中。小雪は小さなこたつの上に、おにぎりとみそ汁。漬物を置いて元気よく答えました。
今日のお味噌汁はわかめと豆腐の味噌汁。手作り味噌が決め手の味噌汁と、甘い大根のお漬物。そして、ノリも何も巻いていない真っ白なしおむすびです。中身の具は何も入ってません。小雪だって入れたかったのですが、お客様が「これがいい」と言うので仕方が無いでしょう。
こじんまりとした豪勢な食事の前にお客様は大喜びです。
「いただきます」をする前に、その小さな手はおにぎりを鷲掴みにして頬張ってしまいました。
小さなほっぺがパンパンに膨らみます。それを味噌汁で流し込んで、バクバク食べていきます。
小雪は少しだけ安心いたしんした。
何せ、先ほどまでお客様の元気が見て分る程に無くなっていましたから。お風呂でも大人しく、悲しそうに俯いたままでした。でも今は違います。嬉しそうにおにぎりを頬張っては「おいしい」と喜びます。よほどお腹が空いていたんだと、小雪は思いました。
「落ち着いて沢山食べてくださいね!まだまだ沢山お作り致しますから!」
小雪が声を掛けながら隣でおにぎり作っていきます。
5つめのおにぎりを作った頃の事でしょうか?お客様の手がピタリと止まってしまいました。
小雪は不思議そうに顔を覗き込みます。
「どうしましたか?」
声を掛けたと同時です。
お客様の瞳からぽろぽろと大粒の涙が流れ出したのは。
小雪はビックリです。驚いていると、お客様は顔を覆ってわんわん泣き出してしまいました。
泣きながら言います「おかあさん、おかあさん」
これには小雪は驚きを越して、どうする事も出来ません。
耳をペタンと下げて、あわあわと大焦り。
どうしましたか?と聞こうかと思いましたが、御客さまはお母様をご所望なのです。なんで泣いているかなんて分かっているのです。
小雪はお客様の側に膝を付くと、その背を優しく撫で始めました。
おかあさんはどこ?むかえにきてくれないの?
お客様は言います。小雪はそれが無理な事を知っているので、何も言えません。
その間もお客様はわんわん泣きます。その様子に少しだけ目を逸らして、小雪はゆっくりと口を開きます。
「泣かないでくださいお客様」
小さな頭を撫でながらゆっくり微笑みます。
その後に胸元でぐっと拳を作り言うのです。
「お母様は今日忙しくて会えないだけです。明日になったら会えますよ!」
……嘘は言ってはいません。
お客様は不安そうに顔を上げました。
ほんとう?この問いに小雪は大きく頷きます。
でもお客様の不安そうな涙は止まりません。
小雪はそんな彼の前で続きを言います。
「でしたら、こうしませんか?」
微笑みながらお客様の頭を撫でます。
「今日1日だけ、私をお姉ちゃんとしてみるっているのは?」
この言葉にお客様は涙でくれた顔を上げて、不思議そうに首を傾げました。
おねえちゃん?
小雪は頷きます。
「小雪はみくり様のお母様には到底なれませんが、お姉ちゃんにならなれると思うんです。1日だけです。でも、私に名一杯甘えてください。私と一緒に沢山遊びましょう!」
それは小雪なりの精一杯の配慮と思いやりにございました。
お客様はまじまじと小雪を見上げます。おおきな栗色の瞳が、小雪を映していました。
いっしょにいてくれるの?
「1日だけですが。それでも小雪はみくり様のお姉ちゃんです!」
約束しますと、小雪は小指を立てます。
少しの間、小さな手がおずおずと小雪に伸びます。
たった1日の約束。指切りげんまん。
お客様はまた太陽のような笑みを浮かべます。小雪だって同じです。にこにこと温かな笑みで、お客様を見つめるのでした。
それからの時間は実に楽しい物でした。
二人で一緒におにぎりを食べてから、かまくらをでて部屋に移動します。
あそびたいと言うお客様の為に小雪は人生ゲームとトランプを用意しました。
お客様は人生ゲームを知らないと言うので、鼻高々に教えたモノの、小雪は見事に負けてしまいます。
トランプも同じです。
ぶたのしっぽに、ババ抜き。
「うわーん!まけましたぁ」
どれもこれも小雪は敗北です。手加減なんてしてないのに!
それに対してお客様は笑います。おねえちゃんよわすぎ!
無邪気な煽りに小雪はぷくぷくです。
「もう!弱くないですよ!手加減しているだけです!!」
していません。
最初から手加減していません。
でも負けてしまうのです。
さて、次の勝負は何にしましょう。何をしたって小雪の負けでしょう。
数10分後、また小雪の悲鳴とお客様の悲鳴が上がるのです。
「もういいです!もういいですお姉ちゃんの負けです!ほら、みくり様!今度はお絵描きをしましょう!」
あまりに負けまくりますので、小雪はとうとう心が折れてしまいました。
今度は大きな画用紙をもって小雪は言います。
お客様は「しょうがないなぁ」なんてクレヨンと画用紙を受け取りんした。
勝ち逃げみたいなのもですから、上機嫌でございました。
そんな楽しい時間はあっと言う間。
夜も更け、時間は10時過ぎ。
「みくり様。もうお休みの時間でございますよ!」
流石に子供のお客様はもう寝る時間にございます。
押し入れから布団を出し、引きながら小雪は言いました。
でもお客様は膨れ面です。まだねたくないと我儘を言います。
そう言いながらもお客様の顔は先程から眠たそうに目をこすっておられるのですが。
仕方がありません。沢山遊びましたから。疲れて当然なのです。
「ダメですよ。明日はお早いですから。では、こうしましょう。みくり様が眠るまで絵本を読むと言うのは!」
小雪は良い案だと言わんばかりに指を立てて言いました。
この旅館には絵本だってたくさんありますから。
絵本と言う単語に魅力を感じたのでしょう。お客様は寝ぼけ寝ぼけの目をしながらも頷きました。
そうと決まれば小雪は自分の部屋へ一飛び。絵本を数冊もって戻ってきます。
柔らかなふかふかな布団の中で横になる、お客様の隣に座り小雪は絵本を開きます。
今日の物語は男の子が沢山旅して、最後には幸せになるお話です。
「ある所に、ちーくんと言う男の子が居ました――」
有る所に「ちーくん」という男の子が居ました。
ちーくんは何時もお姉ちゃんと一緒。いつでもどこでもお姉ちゃんと一緒。
ちーくんはお姉ちゃんが大好きなんです。
ある日の事です。ちーくんが目を覚ますとお姉ちゃんは何処にもいませんでした。
ちーくんは大慌て――。
ここでお客様が不安そうに問いかけて来ます。
おねえちゃんはどこへいっちゃったの?
「さあ、どこでしょうね?どこにいっちゃったんでしょうか?」
小雪がとぼけると、お客様は頬を膨らまします。
小雪は続けました。
「どこを探してもお姉ちゃんはいません」
こまったちーくん。
でもちーくんは男の子。ここで泣いたりはしません。
『そうだ。おねえちゃんを探しに行けばいいんだ!』
ちーくんは大きく頷いてお姉ちゃんを探す為に家を飛び出したのです。
ここからちーくんの大冒険のはじまりです。
森の中でお腹を空かせた、嫌われ者の熊さんに出会い仲良くなって、お別れして。
青い海の中で怪我をイルカさんに出会って助けて、お礼にお城のある国に連れて貰って。
お城で可愛いお姫様と出会い仲良く遊んで、それでもお姉ちゃんを探しに行くために泣く泣くお別れして。
ちーくんが冒険をするたびにお客様も小雪も悲しくて可笑しくて、楽しくてころころ表情を変えて楽しみます。
2人は寄り添って、それこそ本当の姉弟の様に絵本を読み進んでいきました。
絵本のページは少なくなっていきます。のこり2ページになったのは直ぐの事です。
「疲れ切ったちーくんは家に戻って来ました」
結局お姉ちゃんは見つけることなく家に帰って来たちーくん。
お客様もとても悲しそうです。小さな声で、おねえちゃんはどこ?と小雪の服を掴みます。
悲しそうなお客様の頭を撫でて、小雪は小さく頷きます。
「ちーくんは誰も居ない家をあけて『だたいま』と声をだしました。『おかえりー』そんな声が帰って来たのはその時です」
そう言って小雪が最後のページを開くとビックリ。
絵本のページには抱き合う笑顔のちーくんとお姉ちゃんの姿が描かれていました。
「なんと、ちーくんが家に戻ってくるとお姉ちゃんが笑顔で待っていてくれたのです。ちーくんは嬉しくなって嬉しくなってお姉ちゃんに抱き付きます。『何処へ行っていたの?』『ちーくんの大好きなベリーのパイを作る為に街まで行っていたのよ』。心配したんだからとお姉ちゃんは言います。ちーくんは大喜び。そして、嬉しそうに楽しそうにお話を始めるのです。今日の出来事。お姉ちゃんを探してちーくんが、どんな大冒険をしてい来たか。大好きなお姉ちゃんに沢山お話を聞いてもらいたくて。お姉ちゃんはそんな、ちーくんを前に同じように笑顔で嬉しそうに大きく頷いてしっかりと抱きしめるのでした。――おしまい」
こうして、ちーくんの大冒険のお話は終わります。
めでたし、めでたし。皆幸せのハッピーエンド。
これにはお客様も大喜びです。
ちーくんはおねえちゃんとあえたの?やったー。よかったね。
飛び切りの笑顔で面白かった、もう一回と小雪にせがむのです。
そんなお客様に小雪も優しく笑います。
「分かりました!ではもう一回!」
手に持つ絵本を最初から戻し、また初めから読み返すのです。
大きな布団の中、寄り添ってニコニコと。お客様が眠ってしまう間までの静かな時間にございました。
◇
次の朝。お別れの朝。
小雪は布団の中ですやすや眠るお客様に声を掛けました。
「みくり君、みくり君。朝ですよ」
声を掛けると、お客様は目を擦りながら目を覚まします。
昨日は夜遅くまで楽しかったからか、まだ眠たそうです。
それでも可愛らしい笑顔で、おはよう。お姉ちゃんと声を掛けてくれるのです。
小雪は一瞬寂しい気持ちが溢れましたが、必死の笑顔であいさつのお返し。
「さあ、さあ。みくり君。朝ごはんの準備が出来ていますよ。今日は腕によりをかけて作りました!」
お客様が綺麗に選択され、ほつれた場所を縫われた優しい匂いがする洋服に着替えた後。
小雪は今朝から朝早くに起きて頑張って作ったご飯を持ってきました。
机の上に置いたのは、小さな水色のお弁当箱。ヒヨコの水筒と一緒です。
楽しそうにあけていい?と問いかけてくるお客様に小雪は大きく頷きます。
お客様がお弁当の蓋を開けたと同時。
うわぁ!!
と、とびっきりの歓声を上げたのは次の事。
当たり前です。だって、お客様の目に映ったのは、彩鮮やかなお弁当。
海苔と鮭、薄焼き卵で作られたウサギとヒヨコのおにぎり。
ウインナーはタコさんとカニさんの形で、プチトマトと小さなウズラの卵がタワーの様に重なりピンクの櫛が刺さっています。
ブロッコリーの上には星形のチーズがちょこん。真っ赤なイチゴとパイナップルがキラキラ光っているのです。
「みくり君はおにぎりが良いと言いましたが。……小雪がどうしても作りたくて、作っちゃいました。食べてくれますか?」
首を傾げ、問いかける小雪。
お客様はキラキラした瞳で、とびっきりの笑顔で大きく頷くのです。
手元にあった小さなフォークを掴んで、少しだけ止まって。
いただきまーす!
タコさんウインナーを頬張って更に笑顔を浮かべたのは瞬間の事にございます。
おにぎりを手に持ってパクリ。
卵を頬張ってパクリ。
ブロッコリーもパクリ。
リスの様に、頬を膨らませてお客様は食べ進めていくのです。
小雪はその様子を笑顔で見つめていました。
「おいしいですか?」
その言葉は不要でしょう。
最後まで小雪は笑顔で最後まで見届けるのです。
最後のイチゴ――コレをぱくりと頬張った後。小雪は問いかけます。
「お腹いっぱいになりましたか?」
この問いにお客様はやはり笑顔です。
笑顔で大きく頷います。
小雪は笑顔で「よかった」と一言。
水色の弁当箱を片付けて、そしてお客様を見つめるのです。
「では、みくり様。お時間です……」
お客様は不思議そうな顔で首を傾げました。
――。
大きな門の前。
小雪はお客様と手を繋いで前に立ちます。
お客様は不思議そうに、ずっと首を傾げていました。
どうしたの?不安そうな声が響きます。
小さな、小さなお客様。
小雪はこんなお客様には宿の秘密は喋らないようにしております。
話せば泣いてしまうのが分かっているからです。
最後の瞬間、涙で悲しいお別れなんて絶対に嫌ですから。
それでも、この最後の瞬間だけはどうしようもないのです。
小雪はしゃがむとお客様の目線迄腰を下ろし、口を開きます。
「みくり様。お別れの時間です」
小雪の言葉にお客様は、また一度首を傾げました。
小雪は続けます。
「あの門の向こう。光る道を歩いて行ってください。その先が、貴方の新しいお家となります」
長い間。
お客様は首を縦に振ります。でも、その顔は酷く不安そうです。
そして言うのです。
おねえちゃんも、いっしょにきてくれるんだよね?
小雪は――。
何も言えませんでした。
何も言えなくて、でも嘘を言うことも出来なくて、静かに首を横に振ります。
「小雪はこの先にはいけません。お客様一人で歩いていくのです」
再び、長い間が流れました。
小さな頭が言われたことを必死に理解しようとしているのです。
やだ。
お客様は首を横に振りました。
小雪の手を掴んで、ひっぱって、いっしょにいきたいと今にも泣きそうな声で言いました。
でも、コレばかりは小雪にはどうすることも出来ないのです。
だから、小雪はお客様の頭に手を伸ばし、優しく撫でながら言うのです。
「みくり君。泣かないでください。あの先にお母さんが舞っているんですよ」
悲しい、悲しい、魔法の言葉を。
お客様は目を大きくさせ小雪を見上げます。
その瞳で、今度は木造の門を見つめます。
ほんとう?
不安そうな、小さな声。
小雪は頷きました。笑顔で頷きました。
「はい。本当ですとも!彼方で、お母さんがずっと待っているんですよ」
真っすぐにお客様を見つめて。
また、長い間がその場に流れました。
わかった。いく。
それでも、お客様がそう言ったのはどれほど経った頃の事でしょうか。
小雪の目にキラキラした決意が籠った瞳が映ります。
小雪の手を掴む小さな手が小雪から離れます。
小さな温もりが無くなったと同時、小雪も立ち上がりました。
自分に背を向けたお客様を見送るべく、真っすぐに見据えます。
おねえちゃん
光の道。
輝く新たな未来の前。最後にお客様が口を開きました。
振り返った彼の顔は何処までも笑顔で、何処までもきらきらと輝いておりました。
ありがとう
またね
だいすきだよ
紅葉のような小さな手で振り切れんばかりで手を振って、それが最後の言葉。
目を覆いたくなるほどの光が辺りを包んだのは次の瞬間。
「……いってらっしゃい、ませ。みくり君――」
小雪の声だけが寂しく、響き渡るのです。
光が無くなって、小雪が顔を上げた時そこには可愛らしい元気いっぱいなお客様の姿は何処にもありません。
有るのは寂しい雪景色。
そこにポツンと小雪だけが取り残されているのです。
小雪はがくりと膝を付きます。
顔を覆って、零れる涙を必死に拭います。
たった一日。
たった数時間の小さな弟はいません。
ここにくる小さなお客様はいつもそう。
いつも、いつも、最後はお母さんを求めて未来へと進んでいくのです。
もう小雪には願う事しか出来ません。
小雪は神さんですが、それでも神様に強く願うのです。
今度の未来。
今度の転生先では、どうか。
あの小さなお客様に何処までも続く幸せな時間が続きますように――。
一人ぼっちの雪化粧の中で。
一人ぼっちの神様は人の幸せを願うのです。