9月20日、水曜日。僕が里木さんに初めて会った、僕が里木さんのラピスラズリの粒を拾ってあげた、あの日の翌日。
僕は同じ道を通って大学に向かっていた。アパートから駅の中を通り抜け、商店街から公園を通って……青空台へ。
ハクモクレンが並ぶ歩道。僕は同じ角を曲がって、同じ道順を歩いた。あの人、里木聖冬さんが待っていてくれるあの場所をめざして。
この日も僕は里木さんに会える。この日、里木さんから、前の日のお礼として手作りのクッキーを持って僕を待っていてくれる。
三つ目の角を右に曲がった。
いた。ハクモクレンの木の下に、里木さんが立っていた。こっちを、僕の方を向いて。
僕はじっと里木さんを見た。少し距離があったけど。少しでも長く里木さんを見ていられるように。里木さんのちょっとした仕草も見逃さないように。
僕の姿を見つけると、里木さんは姿勢を正してお辞儀をしてくれた。里木さんは頭を下げる前に、ちょっとだけ微笑んでくれた。確実に、微笑んでいた。僕を見て、微笑んでいてくれた。
里木さんはそれから小さく右手を振った。僕は、わざとゆっくり歩いた。里木さんの目の前まで、そこまで歩く、その時間さえもいとおしかった。
里木さんも待っていてくれた。じっと待っていてくれた。里木さんは僕を見つめていてくれた。微笑みながら。
「昨日はありがとうございました」
僕が里木さんの前で立ち止まると里木さんがお礼を言ってくれた。
「どういたしまして」
里木さんが僕の前に紙袋を差し出した。
「これ、お礼にと思って。クッキーです」
そう、クッキー。里木さんが自分で焼いてくれた、クッキー。
「ありがとうございます」
僕はお礼を言って、迷わずにその紙袋を受け取った。
「よかった」
里木さんが微笑む。まぶしい笑顔。
「経済学部の、クラタさん……でしたよね。大学までご一緒してもいいですか?」
僕たちは二人並んで大学に向かって歩き始めた。里木さんにとっては初めての、僕との、朝の五5分間のデート。そして僕にとっては……
「サトキ、ミフユさん、でしたね」
「はい」
「漢字で書くと、どういう字ですか?」
知っている。でも、それでも訊いた。
「サトキは、人里の『里』に、樹木の『木』、ミフユは、聖書の『聖』に、季節の『冬』、て書きます」
里木さんが答えてくれた。
「聖なる冬、ですね」
「聖なる、ていうか、キヨい、くらいかな? でも『聖』ていう字、『ミ』て読みませんよね」
里木さんはニコニコ微笑みながら話してくれる。
「そうですね……でも『聖』ていう字、「美しい」の『美』とか、敬語に使う『御』ていう字とニュアンスが似てるから、『ミ』でいいですよ」
「当て字ですよね」
そう言う里木さんは、とってもうれしそうだ。
僕はまた知っていることを訊いた。
「里木さんの誕生日って、12月のクリスマスの頃ですか?」
「はい、大当たりです。12月24日、クリスマスイヴ、まさにその日です。でもわたしの名前聞いた人で、誕生日はずした人、今までに一人もいないです」
里木さんがまたうれしそうに笑う。
「でも、いいことないですよ。わたし、クリスマスイヴと誕生日が一緒でしょ。毎年12月24日には両親がプレゼントくれるんですけど、いつも一緒にされちゃうんです。他の人は年に二回プレゼントもらえるのに、わたしは一回。なんか、損してる気分」
里木さんの表情から「損してる」という不満は微塵も感じられない。たとえ一回でも、両親からプレゼントがもらえることがうれしくてたまらない、そんな気持ちが伝わってくる。里木さんは両親のことも大好きなのだ。
「そういえば、ブレスレットは直りましたか?」
「あ……家に帰ってから、直してみようとしたんですけど、うまくいかなくて……それで、これ」
里木さんがショルダーバッグを僕の方に向ける。バッグの取っ手にあるのは、そう、水色のポーチ。
「前に作ったポーチがあったからちょうどいいや、て思って。一粒だけ、この中に入れて持ち歩くことにしたんです。残りは家においておくことにしました」
里木さんがその小さな水色のポーチを手に取って僕に見せてくれる。
「そうですね。そのポーチとってもかわいいですし。きっとおばあさんも喜んでますよ。大事にしてもらって」
きっとそうだ。そうに決まっている。
「ありがとうございます。そう言ってもらえるとうれしいです」
大学通りに出た。そして、僕たちは並んで横断歩道を渡って、正門からキャンパスに入った。
「里木さん」
僕は立ち止まった。
「はい?」
里木さんも立ち止まる。
「いきなりこんなことを言うと、変に思うかもしれないけど」
僕は里木さんの正面に立った。
「里木さんに会えてよかった」
「はい? あ……はい」
里木さんは少し驚いたような表情をした。
「でも、ひょっとしたら、僕が里木さんに会うことは、もう、ないかもしれない」
僕は里木さんの目を、ラピスラズリのような、いや、もっと大きくて深い色の、里木さんの目を見ながら話した。
「え? どういうことですか」
里木さんが戸惑っている。それはそうだろう。でも、僕は続ける。
「里木さんはきっと、僕のことを忘れてしまう」
「そんなことは……」
言いかけた里木さんの言葉が止まった。驚いたのだと思う。僕が、僕が涙を流していたから。
「大丈夫ですか?」
里木さんが心配そうに声を掛けてくれた。
「……大丈夫」
そう言って、僕は下を向いていた。里木さんの顔を見ることができなくなっていたから。
「……でも」
僕は顔を上げた。
「でも僕は、あなたのことを、忘れない」
里木さんは何も答えない。何て答えたらいいのかわからないのだろう。
「忘れないから」
そう言って、僕はそのまま右を向いて歩き始めた。
里木さんはきっと、僕を見ている。僕を見送ってくれている。そう思った。でも僕はもう、振り返らなかった。
9月19日、火曜日。
やってきた。とうとう、とうとうやってきた。この日。僕が里木さんに初めて会った、あの日。あの最初の日。この日は大学の夏休み明けの授業初日、のはずだ。でも、冬から秋に時間をさかのぼってきた今の僕に「夏休み明け」という感覚はない。
僕はアパートを出た。駅の中を通り抜け、商店街から公園を通って……着いた。青空台
歩道の街路樹、ハクモクレン。冬にはすっかり枯れて茶色くなってた葉は、今は緑色だ。
僕の時間の中で、今の青空台は「秋」から「夏」に向かっている。ハクモクレンの葉を揺らす風には、わずかながら「熱気」が感じられる。少し前にはあんなに冷たかったのに。
大きく深呼吸をして、僕は青空台を歩き始めた。
三つ目の角を右に曲がると、前方に人の姿が見えた。白い壁沿い、歩道の30メートル先、ハクモクレンの木陰を歩く後ろ姿。
白い上着、白いスカート。黒くて長い髪。流線形の、そう八分音符の髪。里木さんだ。
里木さんは、周りの景色を見ながらゆっくりと歩いている。
僕は……僕は動かなかった。立ち止まったまま、里木さんの後ろ姿を見ていた。
もうすぐだ。もうすぐあの場所、あの、ラピスラズリを落とした、あの場所だ。
僕は歩道の角の白い塀の陰に身を隠した。
来た。その時が、来た。
里木さんが立ち止まり、こちらを振り向いた。「振り向いた」と言ってもその顔は僕の方を見ていない。足元と、その周辺の 地面を見回している。右手で左の手首を抑えて。そう、ブレスレットが切れて、ラピスラズリの粒が散らばってしまったのだ。
里木さんがしゃがみこんだ。そして散らばったラピスラズリの粒を拾い集めはじめた。
僕は、動かなかった。そのまま塀の陰にいた。
しばらくして、里木さんが立ち上がった。周りの地面を見回している。残った粒がないか確認しているのだ。
里木さんが自分の手のひらと肩に掛けたショルダーバッグを交互に見る。里木さんの困った顔を思い出す。僕は里木さんに駆け寄りたい衝動を抑えた。
里木さんが再びしゃがみ込んだ。集めたラピスラズリの粒を一旦地面に置いたようだ。それからショルダーバックを下ろして、中から何かを取り出した。白いハンカチだ。それを地面に広げて、その上にラピスラズリの粒を移している。
僕がいれば……あの時僕は、いったん僕の手のひらの中にラピスラズリの粒を受け取ってあげて……でも、僕は動かない。動いちゃいけない。いけないんだ。
里木さんが立ち上がって、うしろに束ねていた髪の毛をほどいた。ラピスラズリの粒を包み込んで袋にしたハンカチを留めるためにヘアバンドをはずしたのだ。ハラリと広がる黒い髪。首を振る仕草。あの時の甘い香りを思い出す。
里木さんがまたしゃがみ込んだ。ヘアバンドでラピスラズリの粒の入ったハンカチの袋を留めようとしているのだ。時間がかかっている。うまくできないのだろうか。心配になる。
ようやく里木さんが立ち上がった。ショルダーバッグの中にハンカチの袋を入れている。もう一度あたりを見回して、それから、歩き出した。大学の方に向かって。僕に背を向けて。何度か、心配そうに振り返りながら。
里木さんの姿が見えなくなってから、僕も歩き出した。里木さんが、ラピスラズリの粒を落としたあの場所に向かって。
僕はその場所に立った。さっきまで里木さんがいた場所。ラピスラズリの粒を拾い集めていた場所。
念のため僕は周囲の歩道を見回してみた。ハクモクレンの植え込みを囲むブロックと白い塀の間のアスファルトの上には、もう何もなかった。そう、これでいい。これでいいんだ。僕はうなずいた。自分に言い聞かせるために。
その時。
植え込みの中のハクモクレンの根元に、青い葉が一枚、落ちているのが見えた。僕は気になって、しゃがみ込んでその葉をどけてみた。
あった。灰色の木の根に挟まれるように、青い粒が一つ。あの、ラピスラズリの粒が、一つ。
僕はそれを右手の指で摘まみ上げた。立ち上がって、左手の手のひらにその粒を乗せた。
しばらくの間、僕はその青い粒を見つめていた。
それから、願った。ラピスラズリの青い粒に向かって、僕は願った。
僕は同じ道を通って大学に向かっていた。アパートから駅の中を通り抜け、商店街から公園を通って……青空台へ。
ハクモクレンが並ぶ歩道。僕は同じ角を曲がって、同じ道順を歩いた。あの人、里木聖冬さんが待っていてくれるあの場所をめざして。
この日も僕は里木さんに会える。この日、里木さんから、前の日のお礼として手作りのクッキーを持って僕を待っていてくれる。
三つ目の角を右に曲がった。
いた。ハクモクレンの木の下に、里木さんが立っていた。こっちを、僕の方を向いて。
僕はじっと里木さんを見た。少し距離があったけど。少しでも長く里木さんを見ていられるように。里木さんのちょっとした仕草も見逃さないように。
僕の姿を見つけると、里木さんは姿勢を正してお辞儀をしてくれた。里木さんは頭を下げる前に、ちょっとだけ微笑んでくれた。確実に、微笑んでいた。僕を見て、微笑んでいてくれた。
里木さんはそれから小さく右手を振った。僕は、わざとゆっくり歩いた。里木さんの目の前まで、そこまで歩く、その時間さえもいとおしかった。
里木さんも待っていてくれた。じっと待っていてくれた。里木さんは僕を見つめていてくれた。微笑みながら。
「昨日はありがとうございました」
僕が里木さんの前で立ち止まると里木さんがお礼を言ってくれた。
「どういたしまして」
里木さんが僕の前に紙袋を差し出した。
「これ、お礼にと思って。クッキーです」
そう、クッキー。里木さんが自分で焼いてくれた、クッキー。
「ありがとうございます」
僕はお礼を言って、迷わずにその紙袋を受け取った。
「よかった」
里木さんが微笑む。まぶしい笑顔。
「経済学部の、クラタさん……でしたよね。大学までご一緒してもいいですか?」
僕たちは二人並んで大学に向かって歩き始めた。里木さんにとっては初めての、僕との、朝の五5分間のデート。そして僕にとっては……
「サトキ、ミフユさん、でしたね」
「はい」
「漢字で書くと、どういう字ですか?」
知っている。でも、それでも訊いた。
「サトキは、人里の『里』に、樹木の『木』、ミフユは、聖書の『聖』に、季節の『冬』、て書きます」
里木さんが答えてくれた。
「聖なる冬、ですね」
「聖なる、ていうか、キヨい、くらいかな? でも『聖』ていう字、『ミ』て読みませんよね」
里木さんはニコニコ微笑みながら話してくれる。
「そうですね……でも『聖』ていう字、「美しい」の『美』とか、敬語に使う『御』ていう字とニュアンスが似てるから、『ミ』でいいですよ」
「当て字ですよね」
そう言う里木さんは、とってもうれしそうだ。
僕はまた知っていることを訊いた。
「里木さんの誕生日って、12月のクリスマスの頃ですか?」
「はい、大当たりです。12月24日、クリスマスイヴ、まさにその日です。でもわたしの名前聞いた人で、誕生日はずした人、今までに一人もいないです」
里木さんがまたうれしそうに笑う。
「でも、いいことないですよ。わたし、クリスマスイヴと誕生日が一緒でしょ。毎年12月24日には両親がプレゼントくれるんですけど、いつも一緒にされちゃうんです。他の人は年に二回プレゼントもらえるのに、わたしは一回。なんか、損してる気分」
里木さんの表情から「損してる」という不満は微塵も感じられない。たとえ一回でも、両親からプレゼントがもらえることがうれしくてたまらない、そんな気持ちが伝わってくる。里木さんは両親のことも大好きなのだ。
「そういえば、ブレスレットは直りましたか?」
「あ……家に帰ってから、直してみようとしたんですけど、うまくいかなくて……それで、これ」
里木さんがショルダーバッグを僕の方に向ける。バッグの取っ手にあるのは、そう、水色のポーチ。
「前に作ったポーチがあったからちょうどいいや、て思って。一粒だけ、この中に入れて持ち歩くことにしたんです。残りは家においておくことにしました」
里木さんがその小さな水色のポーチを手に取って僕に見せてくれる。
「そうですね。そのポーチとってもかわいいですし。きっとおばあさんも喜んでますよ。大事にしてもらって」
きっとそうだ。そうに決まっている。
「ありがとうございます。そう言ってもらえるとうれしいです」
大学通りに出た。そして、僕たちは並んで横断歩道を渡って、正門からキャンパスに入った。
「里木さん」
僕は立ち止まった。
「はい?」
里木さんも立ち止まる。
「いきなりこんなことを言うと、変に思うかもしれないけど」
僕は里木さんの正面に立った。
「里木さんに会えてよかった」
「はい? あ……はい」
里木さんは少し驚いたような表情をした。
「でも、ひょっとしたら、僕が里木さんに会うことは、もう、ないかもしれない」
僕は里木さんの目を、ラピスラズリのような、いや、もっと大きくて深い色の、里木さんの目を見ながら話した。
「え? どういうことですか」
里木さんが戸惑っている。それはそうだろう。でも、僕は続ける。
「里木さんはきっと、僕のことを忘れてしまう」
「そんなことは……」
言いかけた里木さんの言葉が止まった。驚いたのだと思う。僕が、僕が涙を流していたから。
「大丈夫ですか?」
里木さんが心配そうに声を掛けてくれた。
「……大丈夫」
そう言って、僕は下を向いていた。里木さんの顔を見ることができなくなっていたから。
「……でも」
僕は顔を上げた。
「でも僕は、あなたのことを、忘れない」
里木さんは何も答えない。何て答えたらいいのかわからないのだろう。
「忘れないから」
そう言って、僕はそのまま右を向いて歩き始めた。
里木さんはきっと、僕を見ている。僕を見送ってくれている。そう思った。でも僕はもう、振り返らなかった。
9月19日、火曜日。
やってきた。とうとう、とうとうやってきた。この日。僕が里木さんに初めて会った、あの日。あの最初の日。この日は大学の夏休み明けの授業初日、のはずだ。でも、冬から秋に時間をさかのぼってきた今の僕に「夏休み明け」という感覚はない。
僕はアパートを出た。駅の中を通り抜け、商店街から公園を通って……着いた。青空台
歩道の街路樹、ハクモクレン。冬にはすっかり枯れて茶色くなってた葉は、今は緑色だ。
僕の時間の中で、今の青空台は「秋」から「夏」に向かっている。ハクモクレンの葉を揺らす風には、わずかながら「熱気」が感じられる。少し前にはあんなに冷たかったのに。
大きく深呼吸をして、僕は青空台を歩き始めた。
三つ目の角を右に曲がると、前方に人の姿が見えた。白い壁沿い、歩道の30メートル先、ハクモクレンの木陰を歩く後ろ姿。
白い上着、白いスカート。黒くて長い髪。流線形の、そう八分音符の髪。里木さんだ。
里木さんは、周りの景色を見ながらゆっくりと歩いている。
僕は……僕は動かなかった。立ち止まったまま、里木さんの後ろ姿を見ていた。
もうすぐだ。もうすぐあの場所、あの、ラピスラズリを落とした、あの場所だ。
僕は歩道の角の白い塀の陰に身を隠した。
来た。その時が、来た。
里木さんが立ち止まり、こちらを振り向いた。「振り向いた」と言ってもその顔は僕の方を見ていない。足元と、その周辺の 地面を見回している。右手で左の手首を抑えて。そう、ブレスレットが切れて、ラピスラズリの粒が散らばってしまったのだ。
里木さんがしゃがみこんだ。そして散らばったラピスラズリの粒を拾い集めはじめた。
僕は、動かなかった。そのまま塀の陰にいた。
しばらくして、里木さんが立ち上がった。周りの地面を見回している。残った粒がないか確認しているのだ。
里木さんが自分の手のひらと肩に掛けたショルダーバッグを交互に見る。里木さんの困った顔を思い出す。僕は里木さんに駆け寄りたい衝動を抑えた。
里木さんが再びしゃがみ込んだ。集めたラピスラズリの粒を一旦地面に置いたようだ。それからショルダーバックを下ろして、中から何かを取り出した。白いハンカチだ。それを地面に広げて、その上にラピスラズリの粒を移している。
僕がいれば……あの時僕は、いったん僕の手のひらの中にラピスラズリの粒を受け取ってあげて……でも、僕は動かない。動いちゃいけない。いけないんだ。
里木さんが立ち上がって、うしろに束ねていた髪の毛をほどいた。ラピスラズリの粒を包み込んで袋にしたハンカチを留めるためにヘアバンドをはずしたのだ。ハラリと広がる黒い髪。首を振る仕草。あの時の甘い香りを思い出す。
里木さんがまたしゃがみ込んだ。ヘアバンドでラピスラズリの粒の入ったハンカチの袋を留めようとしているのだ。時間がかかっている。うまくできないのだろうか。心配になる。
ようやく里木さんが立ち上がった。ショルダーバッグの中にハンカチの袋を入れている。もう一度あたりを見回して、それから、歩き出した。大学の方に向かって。僕に背を向けて。何度か、心配そうに振り返りながら。
里木さんの姿が見えなくなってから、僕も歩き出した。里木さんが、ラピスラズリの粒を落としたあの場所に向かって。
僕はその場所に立った。さっきまで里木さんがいた場所。ラピスラズリの粒を拾い集めていた場所。
念のため僕は周囲の歩道を見回してみた。ハクモクレンの植え込みを囲むブロックと白い塀の間のアスファルトの上には、もう何もなかった。そう、これでいい。これでいいんだ。僕はうなずいた。自分に言い聞かせるために。
その時。
植え込みの中のハクモクレンの根元に、青い葉が一枚、落ちているのが見えた。僕は気になって、しゃがみ込んでその葉をどけてみた。
あった。灰色の木の根に挟まれるように、青い粒が一つ。あの、ラピスラズリの粒が、一つ。
僕はそれを右手の指で摘まみ上げた。立ち上がって、左手の手のひらにその粒を乗せた。
しばらくの間、僕はその青い粒を見つめていた。
それから、願った。ラピスラズリの青い粒に向かって、僕は願った。