無気力に生き続け、秋になった。10月の中旬まで季節は颯爽と移ろっていった。
 ここまで、どういう風にして過ごしてきたんだろうか、とあの日からの記憶すら曖昧な事に自らを猜疑する。
 これ程、これ以上時が止まって欲しいなんて思ったことはない。だけど無情にも1秒1秒僕も、姉さんも終わりに近づいてきている。
 姉さんは、多分そう長くはない。
 僕よりずっと。
 急性エイズと言われた時、予想はしていたけど、僕の心は受け止められるくらい大きくはなかった。
 ショックが大きすぎて、1週間位学校も休んだ。
 その間ほとんど何も食べずに過ごした。
 今は何か食べるようにしているけれど、食欲は前と比べて格段に落ちた。
 なぜ姉さんが夜までずっと部屋から出てこないのか、援交している時、セックスはしなくなったのか、今になって腑に落ちても、遅すぎた。
 こうやって毎日お見舞いに来ていても、姉さんの生命が助かることは無い。
 父も母も、お見舞いに来たことは無かった。
 少なくとも、僕は2人の姿は見ていない。
 母は施設にいるから仕方ないけれど、父は姉さんの事が心配じゃないのかと憎悪を覚える。
 見えない何かに祈るかのように、僕は毎日毎日花を買って姉さんの花瓶に交換しては飾るの繰り返し。
 僕も、気が狂っているのかもしれない、と思った。
 勿論──茉姫奈達には言えていない。
 彼女達といつも通り過ごしてはいるけれど、言ったら何か全てが壊れそうな気がしたから、言おうとしても喉が掴まれるみたいに痛くなった気がして、声が出なくなる。
 その声を殺して、また自分を殺して僕は病院に入った。
 今日も夕方に姉さんのいる個室のドアを開けて、花瓶の花を取替える。
「毎日やらなくても、いいのに」
「いいんだ。僕がやりたいから」
「最低限は動けるんだよ」
「でも、姉さんにはまだ生きてて欲しい」
「····そっか」
 ベッドでずっと寝たきりの姉さんの手首からは管が伸びていて、そこが逆流して少し管から姉さんの血液が見えて、鳥肌が立つ。
 顔も、血色はあまり良くなかった。
 声も、前と比べたらとても掠れていた。
「そうだ、あのね玲依」
「どうしたの」
「今日お医者さんに呼ばれてね」
「うん」
 手が止まる。
「姉さん、あと半年だって」
 うん、分かってた。
 薄々わかってたよ。
 きっと、幾許も無いんだって。
「····そっか」
 重い口調ではなかった。多分至って普通な、姉弟間での自然なやり取り。
 でも、告げられた内容と、姉さんの今の容態をみたらそう思うしかなくなってしまう。
 血色の悪い少し青白い顔、前と比べてみても明らかに細くなった腕、あんなに光を灯していた瞳は、少し濁っていた。
 腕に繋がれた管、普通の患者にはつけられない心拍計。
 縁起のいい花すらも、逆に拍車をかけているのかもしれない、と思ってしまった。
 生命を削るかの様に吐き出す咳嗽は、とてつもなく重く──無機質な病室に響き渡った。
 ずっと綺麗だった爪は伸びきっていて、あの頃の面影は、全くと言っていいほどなかった。
「なんで、ずっと黙ってたの」
 不意に、聞いてしまった。
 聞いてはいけないと思っていたラインをいとも簡単に踏み込んでしまう。
「んー、ずっと前に急に具合悪くなるの続いてたから、妊娠検査したけど陰性でさ」
 姉さんは、天井を見ながら言葉を紡ぎ続ける。
「あーもう急性のエイズなんだなってなって、後悔しないように玲依と一緒に最期は過ごしたいなって思っちゃって」
 違う、違うよ。
 絶対そうじゃないよ。
「なんで、病院で治そうとしなかったの、今の医療なら早期発見で薬とか飲んだら良くなる時代なのに」
「だってさ──」
 綺麗で、壊れそうな笑顔で姉さんは僕に言った。

「私ってさ、多分生きてる意味····ないじゃん?」

 耐えられなくなった。
 僕も反論してしまう。
「それは絶対に違う、誰でも生きる資格は持ってて、生きる意味が無い人間なんて居ないよ」
「いや、私は価値がない人なんだよ」
 待ってよ。
 そういうことじゃないでしょ。
「····そういうことじゃない」
「····死ぬの、怖いなぁ」
 姉さんの色は、死に対する恐怖の色が滲み出ていた。
 死にたくないと願うのに。
 生きる意味なんてないって。
 なんでそんな悲しい事言うんだよ。
 ていうか。
 僕も死にたかったよね。
 ずっとずっと、そう思いながら惨めに生きてきたよね。
 死にたいなんてほざいときながら、他人には死なないでって願うのは、中途半端な道化師と一緒だ。
 唇を噛み締めて、ベッドのシーツを握りしめて、永遠に僕の頭を渦巻くのは、矛盾したエゴと、漸次膨れ上がる自責の念。
「····死にたくないなら、なんで治そうとしなかったの」
「死ぬの怖いけどさ、私早く死にたかったんだ」
「どうして」
「最初からきっと人生が間違ってて、可愛い弟が出来たと思ったら、小学生くらいから虐待されるようになって、何回もそれについてお父さんとお母さんと言い合いしても、話にすらならなかった」
 僕と、思っているところはだいたい同じだった。
 姉さんはそのまま僕の感傷を他所に言葉を吐き続けていく。
「お母さんが鬱になって部屋に引こもるようになって、私が玲依にいろんなことさせたよね、結局全部お父さんに無理やりやめさせられて、玲依のことなんて尊重しなかった」
 俯いていた姉さんが、僕の方を向いて言う。
「玲依····気付いてないでしょ? お父さん、玲依にずっと嫉妬してたんだよ」
「····嫉妬?」
「うん、嫉妬。お母さんとお父さんって自分達が絶対だと思ってて、プライド高くて、全部自分が優れていないとダメな人じゃん」
 初耳だった。
 僕が覚えていないだけかもしれないけれど。
 姉さんは僕以上に父の事は見ていた。だから姉さんの言った事が僕の中での正解だった。
「玲依って勉強教えなくても勉強が出来たり、教えてもいないのに絵のコンテストとか、作文コンクールで賞とかとったりして、お父さんはそれが嫌でたまらなかったんだよ····でも、何かお父さんはずっと前から玲依の事を怖がっているようにも見えてたけど」
 確かにあった。
 でも、最初から人が出来ないような事や、姉さんに紹介された習い事は、練習しなくてもある程度は出来た。
 特に絵だったり、文章を書くことだったり、芸術的な事は好きだった。
 勉強は、よく分からないけど、何故か答えが解けた。
 運動もそれなりにそつなくこなせた方ではあると思う。
「だからそれから玲依を守ってきたつもりだったんだけど、結局玲依は虐げられるばっかりで、私がここに産まれた意味ってなんだろうって思うようになっちゃって」
 なんでそこまで思っちゃうんだよ。
 姉さんの方が、生まれた意味なんてあるでしょ。
「暴力が無くなっても玲依はお金貰う代わりにお父さん達に無視されるようになってさ」
「それでも、僕は──」
「──それがずっと続けば、私だって復讐の為に援交始めたりしたくなるし、死にたくなるでしょ?」
 乾いた笑顔で言う姉さんからは、死の恐怖の色などは消えていた。
 私怨で家族を恨んで、僕はどうなってもいいのに、姉さんが先に壊れてしまった。
 そこからはもう、言わなくてもわかる。
 何処からか分からない相手からエイズを貰って、気付いていないフリをしていた。
 厳密に言うと、僕にバレないように。
「····茉姫奈ちゃんって、私みたいな匂いがたまにするんだよなぁ」
 急に口走った言葉で、僕は姉さんの方を見る。
 何が言いたいのかと思った。
「なんか、きっかけ1つですぐ壊れちゃいそうな感じ····もしかしたら、壊れる寸前とか」
 こんな僕を掬い上げてくれて、ここまで生きる事の希望をくれた彼女が、壊れそう?
 そう思うと、何故か心が傷んだ気がした。
「だから、茉姫奈ちゃんは、大切にしないとダメだよ。あの子、ちゃんと玲依の事を大切に想ってくれてる」
「····うん」
 そんなに喋れるなら、エイズなんて嘘でしたって言ってよ。
 何もかも嘘で、ドッキリの類だったら、どんなに楽だろうかと、何度も思っている。
「茉姫奈ちゃんには言ってないの?」
「言えてない、毎日登下校してるけど、言うのが怖くて」
 きっかけをくれたのも茉姫奈だし、僕の事を好きと言ってくれたのも彼女だ。
 でも、姉さんが倒れて、事態が変わりすぎてその答えを言えていない。
 ハッキリ言えるほど、僕には自信が無い。
 何故か彼女と気まずくなっている気がして、僕から喋りかけることは少なくなった。
 今でも思う。
 あの時は、僕が見た幻想なのではないか、と。

「──なに、それ」

 聞き覚えのある声が、個室に響き渡る。
 僕が、それを切り出す勇気が無い時でも、彼女の存在に固執して、心の中で求めていたのかもしれない。
 もし、彼女がここに居たらどれだけ姉さんの心は楽になるだろうって。
 君の存在がどれだけ眩しすぎたか。
 彼女の声が聞こえた瞬間に、歓喜と、そして申し訳なさで前を向けなかった。
「茉姫奈····なんで」
 彼女の名前を呼んだ。
「最近おかしいと思って、後つけて来たんだよ」
 まるで待ち望んでいたかのように。
 来てくれると信じていたかのように。
「なんで黙ってたの」
 茉姫奈の後ろから、また聞き覚えのある声が聞こえた。
「那由さんも」
「那由さんも····じゃなくて」
 那由さんがすこし怒っている色を出しながら僕の方に歩いて詰め寄った。
 それはそうだ。
 夏からずっと黙ってたんだから、その反応は当たり前だ。
「ここまで関わってきたんだから、隠し事はナシじゃん」
 悲痛な声で那由さんは、そう僕に呼びかけた。
「──うん、そうだね」
 茉姫奈もそれに相槌をうった。
「····ごめん、言えなかったんだ」
「玲依」
「····茉姫奈、ごめん、姉さんは──」
「謝るのもナシ」
 今更だ、と思った。
 こんなに黙っておいて、隠しといて。
 ここに来てまた罪悪感が身体を劈くように襲う。
 謝ることしか出来ない、いつか来てくれると思っていた2人が実際に目の前に立たれると、顔すらもまともに見れなかった。
「玲依の、友達?」
 姉さんが那由さんに向けてそう言った。
 那由さんは姉さんの方に歩みを進める。茉姫奈も那由さんのすぐ後ろに立った。
「京腰那由です、玲依君とは、マッキーと知り合った仲で」
「茉姫奈ちゃんって、マッキーって呼ばれてるの?」
「はい、まあ渾名ですけど」
「······ふふっ、なんか面白い。玲依からそういう話してこないから、初耳」
 少し笑って、深呼吸してから姉さんは茉姫奈と那由さんに言った。
「やっぱり、玲依が変わったのは貴方たちなんだね」
 皮肉ではない、本心の言葉がそこにあった。
 姉さんが言っている事は紛れも無い事実だ。僕は、この2人のおかげで見てきた世界がすこし綺麗に見えている。
 でも、だけど。
 僕をここまで守ってくれた姉さんのお陰でもあるんだよ。
 姉さんが居たから、人でいれたんだよ。
 変わったのは、茉姫奈のお陰かもしれない。
 でもさ。
 僕を初めて愛してくれたのは、姉さんなんだよ。
 だから。
 また、元気な姿見せてよ。
「······」
 僕は閉口したまま、姉さんの言葉を返せずにいた。
 今まで何かを成してきたら、言葉が出たかもしれない。
 だが、言葉が出なかった。
 何を言えばいいかわからなかった。
 どんな言葉を投げかければ、姉さんが抱えた黒いモノを少し軽く出来るのか、と考えれば考えるほど、口を噤んでしまう。
 心の中でいくら嘆いた所で、現実は変わらないということは思い知っているはずなのに。
「そんな事ないです。こんな私なんかが偉そうに言えないですけど、玲依が今も生きているのは、きっと命依さんが玲依を愛してくれたからです」
「····マッキーの言う通りです。壊れかけてた玲依君の心を陰ながら支えてたのは、お姉さんです」
 嘘は言っていなかった。
「玲依、そうなの?」
 僕も、ようやく口を開くことが出来た。
「····僕なんて、きっと人間じゃないって思う時もあったけど、でも姉さんが僕の傍にずっと居てくれたから、僕は人間でいれたんだ」
 だから、と続ける。
 言葉が、そこから止まらなかった。濁流みたいに無造作に言葉が流れ続けた。
「生きる意味なんてないなんて思わないで欲しい、その感情を隠さないで欲しい、死ぬ事が怖くないなんて思わないで欲しい、自分の人生を否定しないで欲しい。····そして、生きる希望を──捨てないで欲しいんだ」
 言い切った。
 初めてこんなに本心で話せたかもしれない。
 人に対して良い意味で感情的になったのも、初めてかもしれなかった。
 それを茉姫奈達にも聞かれてたと思うと、なぜかむず痒かった。
「分かった。玲依」
 姉さんがゆっくり口を開いて、僕の手を優しく握った。
 温かいはずの姉さんの手は、冷たかった。
 それが、毎日姉さんのお見舞いに行ってても慣れなかった。
「私、あと半年、後悔しないように生きてみる。玲依に自慢されるように、一生懸命生きてみるね」
「····出来るなら、ずっと生きて欲しいよ」
 そう言うと、姉さんは「そうだね」とだけ言って淡く苦笑を零した。


 お見舞いを終えたら、すっかり夜になっていた。
 病院を出れば、車通りが多い市街地だからか、あの時に感じていた感傷は、非現実的な空間は一瞬で市街地の喧騒で掻き消されて、元の世界に引き戻された気がした。
 僕の家から病院は近く、高校からもそれほど遠くはない、だから毎日通っても、別に苦ではなかった。
 この時間になると姉さんは寝てしまうので、僕もそれに合わせて帰っている、今日は1人ではないけれど。
「玲依君、毎日お見舞いしてるの?」
「うん、そうだよ」
 那由さんに聞かれて、僕はその通りに返した。
 那由さんは、また僕に問い返すように言う。
「毎日大変じゃないの?」
「大変じゃないよ。僕がしたくてやってるんだ」
 よく大切なものは失ったりしてから初めて気付くと言われているけれど、僕もそれに近かったと思う。
 姉さんとの時間を、僕が唯一家族と思っている人との大切なコミュニケーションを蔑ろにしてしまった。
 思ってもないことを言って、1番姉さんの前で粋がっているのは紛れもない僕自身で、もしかしたらその粋がった故にでた素っ気ない言葉で、姉さんが傷付いていたかも知れないのに。
 そう、多分傍から見れば。
「なんか、玲依····罪を償うようにお見舞いに行ってるように見える。見てて、なんか少し怖い」
 贖罪。
 呆気なく心を読まれたような発言をされて、心臓が跳ねた。
 もはや、僕がやっていた事は····贖罪に近い何かだ。
 償うように、祈るように姉さんの所へと向かう日常、それが他人から見られたら“義務”と言われても仕方の無い事だった。
 何故ならば──。
「僕は、姉さんを守れなかったんだ。1番壊れてたのは、姉さんだった。援交してる事を知ってたのに止められなかった僕の責任なんだ」
 那由さんが、突然僕の手首を掴んだ。
 力強く僕を掴んだ彼女の手は、とても熱くて、そして僕の混沌としていた思考回路を一瞬で冷やしていく。
「ダメだよ。自分で自分のせいにしちゃ」
「那由の言う通り。自分だけじゃ抱えきれないものを抱えようとしちゃダメ」
 自分の家族の、ましてや自分が守りきれなかった人の事だから、1人で背負うしかないと思っていた。
 僕を人間として見てくれていた人だ、尚更そう思う。
「なら、どうしたら····」
「目の前にいるじゃん、2人」
 ハッとした。
 茉姫奈の声で、少し目が覚めた気がする。
「1人じゃダメなら2人で、2人でもダメそうなら3人で! そうじゃない?」
 僕が馬鹿だからなのか、その考えはなかった。
 多分、普通の人なら考えつくような事だ。
 あぁほんとに。
 君には敵いそうにない。
「うん、そうだね。ありがとう、本当に」

 それからは、3人で姉さんのお見舞いに行った。
 茉姫奈からは、できるだけ3人でっていう約束をした。
 でも茉姫奈や那由さんはバイトがあるから、1人の日もあった。
 ほぼ毎日、時間を割いて来てくれる2人に姉さんは驚いて、窶れていた顔も少しずつ笑顔が増えるようになっていた。
 今日あった事や、僕の事とかを僕のいる前で姉さんに話しているのは、かなり恥ずかしかったけど、姉さんは時々笑顔になりながら、真剣に聞いてくれた。
 それだけで嬉しかった。
 嬉しそうに茉姫奈も那由さんも話していたし、それを姉さんは笑顔で聞いてくれた(当たり前だが僕も姉さんに話している)。
 姉さんは嬉しかったのだろう、普段聞かない僕の姿を知れたり、どんな性格なのかを知れて、姉さんも笑みが溢れるほどに。
 僕も、姉さんに色々話をした。
 やはり、止まっていた時間が動き始めたのは春で、この関係がここまで続くとは思っていなかった。
 もういっそ、終わらないで欲しいとまで願う程だ。
 僕が変われたきっかけが、茉姫奈たちだったから。
 自分から話しかけるのは苦手だけど、人と話すのは嫌いじゃなくなっていた。
 スズさんとも、ある程度話せるようにはなったし、クラスメイトとも最低限の会話なら出来るようになった。
 それを聞いて、姉さんも嬉しそうだった。

 それから1ヶ月以上たった今日も、茉姫奈と那由さんと一緒に病院に来て、僕や彼女たちの話をしていた。

 茉姫奈と那由さんが何度も何度も同じ話を繰り返しても、姉さんは笑顔でずっと聞いていた。
 だから僕も何度も思う。
 人間でいれたのは姉さんのお陰だ。
 きっかけをくれたのは2人のお陰だ。
 死にたいと思っていたのに、もう今は光を求めるように、生きたいと願っている自分がいた。
 今はそう思うことが少なくなった。
 でもたまに、今死んでしまったら、どうなってしまうのだろう、と深夜の自分の部屋で思う時がある。
 死にたくないのは····死ぬのが怖かったから、なんて言う簡単な理由じゃない。
 病院で彼女たちが話す姿を僕は見ながら、那由さんに言われた事を、ふと思い出した。

『生きる事に真面目だなって思って』

 的確だけど、少し的外れな答えに、何かの歌詞や詩みたいに、今考えるとストンと自分の心に落ちたような気がした。
 でも、それが自分の死に直結するとは思えなかった。
 僕が死にたかった理由。
 ······まだ、明確な答えはでなかった。
 ずっと考えてきた。
 死にたいと思う度に、でもまだもう少し生きたいという感情が邪魔をして、それで足がすくんで、死ぬ事にも、生きる事にも怯懦して生きてきた。
 どれだけ色んな人に救われても、自分の存在する意味なんてあるとは思えなかった。
 他人には調子のいい事を言って。
 ただのエゴだ。
 自分勝手なエゴばっかりで生きてきた。
 僕より死にたい人なんて沢山いて、実際自分で生命を絶つ人も沢山いる訳で、昔より今の方が自殺者が多いなんて当たり前の──常識に近い。
 何気ない言葉が武器になって、心をバラバラにして、結局身体も死んでいく。
 死にたいと思っている人の気持ちなんて、その当事者にしか分からないのに、分かったような気持ちになっている奴も居て。
 でも、結局は逃げられなかった人なんだ。
 茉姫奈が言っていたように、逃げようとしても逃げる道なんて塞がれてもう何も選択がなかった人なんだ。
 その逃げられなかった人を、わざわざ引き合いに出して自分だけの免罪符に使う人間だっている。
「玲依」
「····ん」
 茉姫奈が僕を呼んだ。
 姉さんのベッドを隔てて向き合う形で座っていた彼女に呼ばれて、僕も返事をした。
 那由さんも椅子からゆっくりと立ち上がって、バッグを持った。
「私たち、そろそろ帰るから、玲依も早く帰るんだよ」
「うん、今日もありがとう」
「大丈夫だよ」
「あ、玲依君、明日は私バイトで居ないから、マッキーと2人ね」
「分かった」
 僕が応じると、2人は「また明日ね」と言って病室のドアを開けて手を振りながら出ていった。
 2人の陽気な声が聞こえなくなって、また静寂が部屋に響き渡る。その途端、まだ姉さんが生きている実感が嬉しくて、深く深呼吸をした。
 勇気が出なくて踏み込めなかった言葉も、今では口に出せるようになっていた。
「余命は、変わらないの」
「····うん、変わらない。もしかしたら、延びるかもしれないけど、きっと私は来年死ぬから」
 生きて欲しい。
 でも、僕の願いは届くことはない。
「これ以上、良くならないの····?」
 目を閉じながら、姉さんは僕の問いに答えた。
「末期だし、管ばっかり繋げられて、絡繰みたいな生命だからねぇー····」
 あぁ。
 色が、微かに滲んだ。
 僕達がいる時は、絶対に苦しんでいる姿を見せなかった。
 ただ少し瞑目するだけ。
 だけど、今回は姉さんから漏れる感情は目を瞑ってはいなかった。
 苦しいという感情がが、色で表れた。
 汗もかいたりしない、ただ目をつぶって僕や、茉姫奈達にそれを見せないように耐えている。
 多分、呼出ボタンも、僕らが帰った後に鳴らしていた。
「苦しいの?」
「······少しね」
「痛い時、苦しい時、ちゃんと言葉にしないと、ダメだよ」
「うん、そうだね。ごめんね玲依····今、ちょっと息が苦しいや」
 引き攣った笑顔でそう言われると、僕はベッドにかかっていた医者を呼び出す非常ボタンを押した。
 病室に呼出音は鳴り響かないけれど、微かに奥の方で音が鳴り響いていたのを聞いた。
 やめてよ、その笑顔。
 見てる僕も苦しい。
 苦しい時、笑わないで苦しいって言ってよ。
「もういいよ。玲依」
 姉さんは続けて僕に言った。
「玲依に苦しい姿、見せたくないんだぁ」

 僕が病室を出たタイミングで、医者達が到着して、僕は会釈をした。
 医者も笑顔でそれに応えて、姉さんのいる病室に入っていった。
 それに随伴していた看護師は色んな薬が入った治療台車を押して運んでいた。
 病室のドアが閉まる。
 治療台車がたてていた高い騒音も、医者の足音も、ドアが閉まると同時に全部がシャットアウトして、聞こえなくなった。
 静謐な空間。
 静かだ。
 ただ奥の受付の方で、作業音が微かに聞こえるだけ。
 廊下の窓を見ると、日が暮れていた。
 もうこんな時間かと思い、そろそろ帰ろうかと歩き出そうとした時、夕日が照らしている──自分より大きい影が見えた。
「──玲依」
 刹那、殺したくなるくらい憎い声が聞こえた気がした。
 目を向けると、スーツに身を包んだ父がいた。
 僕より身長が高くて、憎悪を具現化したような黒いスーツ。
 今更なんで来たのか。
 姉さんがこうなってから何ヶ月も経っているのにも関わらず。
 くだらない。
 どうこう言う事すら無駄だと思った。
 僕は無視して通り過ぎようとした。
「話がある」
「僕は何も話したくないよ」
「····ついてきてくれ」
「お金の代わりに関わっちゃダメなんじゃないの?」
「頼む」
 何が頼むだよと思った。
 結局父は歩き出して、僕もその後をついていくしかなかった。
 父が向かった先は、病院の端にある談話室だった。そこにもドアが付いていて、ある程度防音式になっているようだった。
「入ってくれ」
 言われるがままに談話室のドアを開けて、中に入る。ますます何も聞こえない静かな空間は、窓から見える夕焼けの日差しが煩いくらいにこちらに差し込んでいた。
 父の感情は、見ないようにしていた。
 そもそも、見る価値もない人間だからだ。
 だけど、父が僕に向けた目は、何故か少し哀愁が漂っていた気がしたのは、気のせいか。
「こうやって、目を見て面と向かって話をするのは、久しぶりだな」
 椅子にも座らないで、2人で立ち会っている状態で父がそう言った。
 なんでも、こうやって目を見て話をするのは、何年ぶりかも分からない、そもそも父が不倫をするようになってからは家に殆ど帰ってきて無かったし、母の世話は父が半年くらい続けていたが、それからは帰ることが少なくなった。
 僕からしたら、それが嬉しかっただけだ。
 何年ぶりというか、半年前の春が最後なのかもしれない。
 母が鬱病だと医師から診断された後、家で急に父は、僕にのしかかってきた。
『玲依、お前には何が』
 髪を掴まれてながらそう告げられ、そのまま何も言わずに手を離して、放置された時。あれが確か中学2年生の時だった筈だ。
 その後は、暴力が無くなった。
 理由もなく続いていた虐待もプツリと消えて、死んだように生きてきた。
 開き直った様に口を開いた父の姿。
 その声、その振る舞い、その服装。
 全ての行動に虫唾が走る。
 睨みすえて見ていた僕の視界からふと見えた落莫とした色は、ふとまた消えて無の色に変わる。看護師が食事を運んでいる時に聞こえる配膳車の音も、廊下の足音すらも聞こえない閉鎖された世界に、僕と父は立っていた。
「中学2年、以来だったか····面と向かって話したのは」
 面と向かってじゃなくて、父が僕に馬乗りをしながら僕の目を見て話しただけじゃないか。
 肝が据わっている声音で父はそう言うと、言葉を続けた。
「····答えてくれ、頼む····ちゃんとお前と話がしたい」
 予想外の言葉に、少し面食らった。
 いつもの会話と違う、最低限の言葉で僕を突き放していた父とはまた違うような気がした。
 その態度を取られたとしても、されてきた事は変わらない、募らせてきた感情は変わることは無い。
 まだ月並みな人間だった自分を、その頃から鼈のような見方をしておいて、急に掌を返すのか。
 膨れ上がる感情を必死に噛み潰した。
「そうだよ。それからは目も合わせてないよね」
「そうか、4年ぶりか」
 上の空のような発言。
 40歳は越している父の言葉には、なんの重みも感じなかった。
 受けてきた事がそうさせたのか。
 父の瞳から淡く漏れる薄暮の光は、無だった父の感情に何かを灯した気がした。
「玲依」
 素直にそう呼ばれて、父の目を見た。
 すると突然、僕は想像もしていなかった光景を目にした。

「すまなかった」

 父が、僕に頭を下げたのだ。
 その姿を見下ろしてはいたが、内心は冷や汗が頬をつたいそうになるほど困惑していた。
 父がとった謎の行動に、僕も心臓が跳ねた。
「私は、自分の教育や、考えが全て正しいと思っていた」
 そう語りだした父に、色が初めて見えた。
 本当のことを言っている色だった。
 それが見えた時、姉さんが言っていたにわかには信じられない理由が本当なのだな、と確信してしまった瞬間だった。
「お前は、私が昔に苦労して出来ていたことを、全て完璧にこなせる人間だった」
 その言葉と同時に浮き上がった感情は、憎しみでもなく、父に対する清々しさだった。
 暴力の理由も、姉さんが言っていた自分の才能が父を嫉妬させていたと思うと、複雑な気持ちだった。本物の劣等感を抱えていたのは父の方で、僕は金を貰う代わりにその劣等感を押し付けられる権利を強制的に“押し付けられていたということ”だ。
 普通の親ならば平等に愛を渡して、平等に子を愛すという行為が出来ないほど、息子相手に嫉妬に狂っていたのは、世界を探しても父だけなのではないかと思った。
 ハイブランドのスーツで身を固めて、高い革靴と腕時計を衒うかのようにギラつかせて、どれだけ自分を着飾っていても、僕からは逆に本質が透けて見えるようだった。
 外面だけいい顔をして、内側は真っ黒。
 結局そのような人は、上っ面だけで人を測って、上っ面だけで付き合って、人の本質を見定めないで上っ面だけで全てを判断する。狡い真似しか出来ないで強者ズラしている本当の弱者はどっちだと。
 私利私欲で全てを決める汚い人間の権化のようなものだ。
「命依がこのような状況になって、やっと私は自分が間違っていた事に気付いたんだ」
 頭を下げながら、そういう父に僕は目を眇めた。
 あぁ。
 此奴は、多分。
 逃げるための道筋を作っている。
 僕はお前の呪縛から解放されつつあって現実と向き合い始めたというのに、お前はただ支配する側で、いざピンチになると、逃げ道を作って逃げ道を模索する。高すぎるプライドがそうしてる。
 一体、どっちが間違っているんだ。
「お前は、お前。他人は他人だ····だからもう、私はお前に対して高圧的に接するのは辞めようと思う」
 お前が1番僕を他人と比較して、計られたくもない天秤にかけて比べてきたのに、それを今更言うのか?
 それが逃げ道になると思っているのは、笑いが出そうなくらい愚かだった。
「薄っぺらい言葉だね」
 僕がそう言うと、父は少し顔を上げて目線だけを僕の方に送った。
「そう言われるのも構わない」
 他人は他人で、お前はお前。
 それが、散々息子に暴力を振るってきた父が言う言葉なのだ。
 言葉が上辺すぎて逆に清々しかった。
 1番他人と比べて、僕を貶めた奴が掌返すなよ。
「結局、父さんは何が言いたいの?」
「······私が全て間違っていたのだ。私が否定したのは、玲依だけでなく、命依も否定してしまった。確かに許されない事をした。お前の事も沢山傷つけたと思う」
 そうか、成程。
 これで確信した。
 結局、思ってもいない懺悔をその汚い口で零し尽くした後に、逃げようとしてるだけか。
「こんな私を許して欲しい、今度からは、前の事は忘れて普通の親子として──」
「許せるわけないじゃん」
 責任逃れの言葉が、なんでこんなにポンポン出てくるんだよ。
 なら1番汚いのは僕じゃなくて、此奴だろ。
 汚れてるのは、穢れてるのは。きっと僕じゃないだろ、姉さんじゃないだろ。
 怒りが溢れて止まらない。
 それが真っ白になるまで蓄積されて、飽和した瞬間。
 何かが切れた気がした。
「顔上げてよ」
 そう言うと、素直に父は顔を上げて、こちらを向いた。
 瞬間に、僕は父を談話室の壁まで追いやって、胸ぐらを掴んでいた。
 父の背中が壁に勢いよく衝突して、恐らく外にも聞こえるくらい大きな音を立ててぶつかった。父は苦悶の表情などは見せてはいなく、ただ焦点が合わない瞳で時々僕の目を見るだけだった。
「そうやって最後自分の都合の悪いところは取って付けたような言葉で許してもらおうとするなよ。最後は向き合わずに逃げようとする。結局1番なんも知らなかったのはどっちだよ!」
 初めて声を荒らげた。
 こんなに僕は、大きな声を出せたんだと思う。
 声を荒らげるほど、僕の感情は怒りで満ちていた。内側から侵食するような赤い怒りが、神経を巡って行く感じがする。漸次膨らむその感情に僕は身を任せていた。
「殴るなり好きにしてくれ、お前の気が済むのなら」
「違うでしょ、なんで向き合おうとしないの? 僕が学校とかでいない間に、父さんが別荘なんかで不倫してないで姉さんを気遣ってあげられれば、末期にはならなかったはずなんだよ? いざ手遅れになったら簡単に謝って無かったことにしようとして逃げようとすんなよ!」
 怒りが爆発して、爆発しすぎて、視界がぐらついていた。
 悔しいよ。こんな親が僕の親で。
 こんな親から姉さんを守れなくて、不甲斐ないよ。
 自分の人生観を僕や姉さんに押し付けて、ただのエゴで僕らの人生を振り回して。
「目を逸らそうとするなよ! 耳を塞ごうとするなよ! 現実ちゃんと見ろよ! 申し訳ないと思ってるんなら、自分でそれが罪だと感じてるんなら、ちゃんと償えよ!」
 喉が痛い。
 こんなに声を出したのは初めてだ。
 だが、誰かが言っていた。
 怒りは、自分を動かす最大の原動力になると。

「これ以上、悲しいことが起こらないように、僕達は現実見なきゃいけないんじゃないのかよ!?」

 言い終えた時には、息が切れて、喘鳴が静かな空間に響き渡っていた。
 息が切れるくらいに叫んだ僕の額からは汗も出ていて、とてつもないエネルギーを消費したと実感し、僕は父の方を見る。
 父は、震えていた。
 僕を怯懦した表情で見ていた。
 僕を虐げていた父が、何故か僕に脅えていた。
「玲依····私は、怖かったんだ。お前の事が」
 初めて、父から色が見えた。
 それは、恐怖。
 純粋な恐怖の色が、辺りを取り巻いた。
「何をするにしても、見透かしたような発言、行動、私は····お前が何を考えているのが分からなかったんだ」
 一向に焦点が合わない父の瞳を睥睨して、胸ぐらをもう一度、強く握りしめる。
「私は、お前が私に向ける“目”が怖かった──玲依、お前には、何が······」
 膨れ上がる憎しみに、膨れ上がる恐怖。
 父は、僕の怒りを他所に言う。

「一体何が、見えているんだ?」

 その言葉は、僕の怒りをすり抜けて、僕の心臓が縮んだ。
 父が言いかけたあの時の言葉を思い出した。
『お前には、何が』──恐らく、今の言葉を言いたかったのだろうか、父に対する怒りで頭が混乱している僕は、そんな事すらも考える事が出来なかった。
 どれだけ過去を踏み潰そうとしても、過去は結局自分に傷をつけ続けたままで、人並みを気取ろうとしても親からはそんなことを思われたことすらなくて。
 そもそも、人から責められ、人から蔑まれ、人を気取った人間紛い。····僕が本当に人間の形をして生まれなかったら、人間として産まれてしまったから、こんな気持ちを今になって抱える事は無かったのかも、しれない。
「私のことをいくら責めたって構わない、だから、今までの事をどうか許して欲しい。それが“玲依”に対しての償いになるのなら」
 玲依じゃなくて、命依だろうが。
 僕の存在を拒絶した癖に。
 大量の金を僕に押し付けて僕の存在ごと否定して。
 今更、手のひらを返して僕を肯定しようとする。
 無かったことにしようとしている。
 その汚い、大人の考え方なんて、世界で1番大嫌いだ。
 でも、でも。
 なんで。
 なんで手を出せないんだろう。
 この場で感情に身を任せて、拳を振り上げて、好きなだけ殴ればいい。
 殴れよ。
 早く、此奴を殴れよ。
 見て見ぬふりをしていたのも此奴なのに。
 全部此奴のせいなのに。
 此奴が、全部壊したのに。
 そう脳の中で命令をしても、体が躊躇して震えたまま拳が静止する。
 憎悪を吐き出す様に、交錯した感情が黒く伝播していく。悲憤にも似た感情が昂って、僕の手も、身体も震えていた。

 僕はお前のせいで、ずっと惨めに生きてきた。
 僕はお前のせいで、死にそうな思いを抱えた。
 僕はお前のせいで、何度人生の意味を考えた。
 僕はお前のせいで、生まれてきたことすらも。

 間違いだって思えてしまうのはどうしてなの?

 偏見の目で見られ。
 色んな人に言い寄られて。
 人を信じられなくなって。
 家ではすべて否定され。
 差別され。
 人の扱いなんてしていなかっただろう?
 でも僕は。
 普通に、真面目に生きていただけ。
 一生懸命に生きていただけ。
 ただ、普通に生きたかった人間なのに。
 見える色が、父の凶悪な程に大きい自尊心が、生まれてきた場所が、タイミングが、父と母が。
 僕と姉さんの全てを狂わした。
 姉さんだけを育て続けて、今この状況で姉さんがエイズで死にそうになっていて、手遅れの状況で僕に向かって、自分の教育と考えが間違いだったと都合よく主張を変えて、自らが犯した間違いを謝罪だけで逃れようとしている。
 そんな安っぽい謝罪の言葉で。
 無理やり僕を歩かして来た道を無かったことにしようとするなよ。
 エイズと闘って、消えそうな火を灯しながら今も精一杯生きようとしている姉さんと、簡単な謝罪と建前の言葉だけで逃げ切ろうとしている父。
 どっちが本当の正しい人間かは一目瞭然だった。
 真っ赤な怒りで、息が詰まる。
 だけど、想像してしまった。
 僕が父を何度も殴って、ボロボロになっていく父の姿を。
 それを想像してしまったら、手を出せなかった。
「····っ」

 僕は、そのまま父から手を離して、父を置き去りにして逃げる様に談話室を出た。
 悔しかった。こんな最低な父に哀れみの感情を持ってしまって、残滓の様に消えかけていた怒りの感情が、ものすごい速度で膨れ上がったのに。
 白い廊下を足音を立てて進んでいく、かなり早足になっていて、今すぐこの病院から立ち去りたかった。
 病院の自動ドアを開けて外に出ても、冬に近い、寒い風は僕の行き場のない怒りを剥がしてはくれなかった。こんな感情になったのは初めてで、ぐちゃぐちゃに混ざった心象を胸に抱いて、唇を噛み締めながら家に帰る──こんなに自分が惨めだと感じたことは無かった。
 ····自分は今、どんな色を放っているんだろうか。

 怒りの赤色か、恐怖や不安、不審感、ネガティブの青色か、それともどす黒い、憎しみの色か。灰色は、嘘をついている。紫色は嫉妬や妬みの感情。ピンクは何かに対しての欲、そこに金色や銀色が混ざっていると、自分の家に対する事だと10年以上かけて学んだ。

 今、ハッキリと自分の見えている色を言語化したと思う、言語化して考えてみると、そんな色に見えていたのかと少し怖くなった。
 でも今の僕は、明るいポジティブの色を出しているとは、到底思えなかった。
 いつの間にか──帰りたくない、大嫌いな筈のマンションへ、逃げるように向かっていた。自動ドアを開けて、挨拶をしてくれる受付の人を無視したままエレベーターに乗り込んだ。
 エレベーターの静けさと、自身の感傷でどうにかなりそうだった。ただの彼奴のエゴでこうなったのに、まだ僕が1人で抱え込もうとしていたのに気づいて、膝から崩れ落ちそうだった。
 エレベーターが最上階を指して、勢いよく飛び出した。まるで姉さんが倒れていた日をもう一度繰り返す様に、息が切れそうなくらい廊下を走った。
 カードキーを翳して急いでドアを開けると、そこには姉さんも、母も、父も、誰もいない静寂な空間だった。
 空虚感が、僕を襲う。玄関に着いた時には、足が鉛のように動かなくて、リビングのソファで崩れ落ちるしか無かった。
『お前には一体何が見えているんだ?』
 無機質な父の低い声が、永遠に僕の頭を反芻して離さない。脳を揺さぶられているみたいな感覚だった。何も無いはずの言葉が、ずっと耳に入っては通り抜けている感覚があった。

 何が見えているのかって。
 僕が1番知りたいよ。
 なんで見えるんだよ。感情なんて。
 忘れたい事ばっかだ。
 生きる意味を漠然と考えて。
 生きる意味を考える意味なんてひとつも無いのに。
 汚らしい、汚れた罵倒や評価で穢れた僕は、何が出来るのだろうか。
 いや。
 何も出来ない。
 父の、浮き彫りになった軽い謝罪だけの為に、何年間も暴力を振るわれ、何年間も存在を蔑ろにされてきた過去は、人を気取ったサイコパスの様な人間に無理やり精算させられた。
 それでも、父は謝罪だけで終わることが分かっていた。僕ともこれからもコミュニケーションを取ることはないだろうし、僕の事など忘れて生きていくのだろう。
「········なんで、いつも報われないんだ」
 まともになりかけた人生も、姉さんも、寸前の所で手から零れ落ちる。
 こんなに耐えているのに。
 いや、違うのか。
 報われないのが嫌なんじゃなくて、他人から報われていると思われるのが嫌なだけなのか。
 考えれば考える程、沼に嵌るみたいに自己嫌悪のループが巡っていく。言葉一つで自分のマインドが崩れていく自身の心も弱いのは分かっている。分かっているけど、今は──自分を立て直すのが厳しかった。
 我ながら、ダサすぎて失笑しそうだ。
「····今日は、もう無理だ」
 今は、何をするにも無理だった。
 今日1日で、1日だけで、僕が歩いてきた人生を全部否定された気がしたから。
 そのまま、僕は目を閉じる。
 今日は夢で殺されるのではないかと考えていたその時に、インターホンが鳴った。
 滅多にインターホンがなる事なんてなかったからか、珍しい事もあるなと感じたのか、重い身体が自然と起き上がった。
「····はい」
「あー、玲依君····?」
 声は、那由さんだった。
「僕の部屋の番号、わかったの?」
 いつも僕のマンションの前で待ち合わせをしていたから、家は認知している事は分かっていた。
 けれど、部屋の番号は教えたことがなかった。
「マッキーから聞いたんだ。“玲依君になんかあった時用”って」
「····僕は、どうもしてないけど」
「嘘だよ。知ってるもん」
 僕は、黙り込んでしまった。
「とりあえず、部屋入れて」
「····わかった」

 流されるままに、自動ドアのロックを解除した。いつもはエントランスのインターホンで確認するから、家のドアは開けたままにしていた。
 僕はそのままドアに向かわないでソファーに深く腰かけていた。
 数分後、ドアが開く音がした。
 茉姫奈に続いて、人を家に上げたのは2人目になる、その自分の選択がどうであれ、今は那由さんを頼るしかなかった。
「お邪魔します」
「······そんなに、畏まらなくてもいいのに──」
 そういった直後に、那由さんが遮るように僕に言った。
 彼女からは、僕を心配している青色が見えた。
「──私、忘れ物しちゃって戻ろうとした時に、すごい血相で病院から出ていく玲依君、見ちゃったんだ」
「······タイミング、最悪すぎたね」
 僕がそう言うと、那由さんはカバンを下ろして僕の隣に座った。
「何があったの?」
「····父さんが、来たんだ。茉姫奈が帰ったあとに」
「うん、それで?」
 今思えば思うほど、憤りがふつふつと込み上げてくる。
「今まで悪かったって····これまでの事は全部忘れようって。馬鹿だよね、こっちは忘れられない思いをしてきたのに、薄っぺらい謝罪で姉さんの病気と僕にしてきた事をなかったことにしようとしてきたんだ。そんなの····許せる訳ないじゃん」
 本心だった。
「うん、そっか、そうだね。····でも玲依君は、」
 那由さんも少し深呼吸した。
「玲依君は、もう死にたいって思わない?」
「····え、?」
 思わず彼女の方を向いた。
 那由さんは、死にたいのか?
 一瞬そう思ってしまった。
 色を見ようとしても、薄暗くて何がなんだかわからない、玄関の電気しかつけていなかったからリビングの電気もつければ良かったなと思った。
「玲依君」
 そう呼ばれると、那由さんは横から僕の身体を抱きしめた。
 急な展開に驚いて、僕はソファーから離れて、那由さんの密着した身体を引き剥がす。
 身体が酷く動揺している、そう感じた。
「な、なに急に」
「んーん、玲依君を抱きしめる役割は、やっぱり私じゃないなって思っただけ」
「····どういう事?」
「ここまで言っても分からないってさ、玲依君って本当に鈍感でムカつく」
「それは、申し訳ないとは思ってるけど」
「私も美人なのに」
「····美人だと思うよ。だけど抱き締められた時、ゾワゾワしたんだ。····本当だよ。これは信じて欲しい」
 ソファーに座ったまま、那由さんは口を押さえて笑った。
「何それ、私振られちゃったなぁー」
「いや、そんな事は」
「冗談だよ。私はもっと元気な男子がタイプだし」
「それ、僕が振られてないかな?」
「ホントだ! よくよく考えれば両方振ってる!」
 無邪気に笑う姿は、とても綺麗だった。
 とても中学の時に虐められて転校してきた人とは思えないくらいに。
 ····虐められてた原因は、多分。
 那由さんが、魅力的すぎるからなんだろうな。
 金城くんのような激しい嫉妬で、理不尽に壊されたとしか考えられなかった。
 那由さんは、笑っていた笑顔を崩さないままで、柔和な笑みを僕に向けた。
「なら、質問戻そうかな」
「もう死にたいって思わない? って事?」
「そう、それを聞きたい。お父さんから酷い事言われたかもしれない、でも今の玲依君なら、大丈夫だって感じるから」
 どんなネガティブな事を考えても、確かに自分の中に『死にたい』という感情を再び浮上させる事はなかったと思い出した。
 思い出したのは、虐げられてきた怒りだけ。
「かなり落ち込んだけど、死にたいって思う事はなかった。自分で今気付いたよ、ありがとう那由さん」
 感謝を述べると、那由さんは、はにかんで立ち上がった。
「大丈夫そうだね」
「那由さんが来てくれて、少し落ち着いたよ」
「良かった。でもね玲依君」
 帰る支度をしながら那由さんは淡々と言う。

「ああ見えて、マッキーって玲依君が思ってる以上に繊細だからね」

 少し、ピクっと肩が震えた。
「それってどういう──」
「ちゃんとマッキーを見てあげて、それじゃあね」
 少し騒がしかった空間は、ドアの音と一緒に静寂が訪れ、そのまま静寂が家を支配した。
 僕は何も考えないようにしてテレビをつけて、ニュースにチャンネルを切り替える。流れているのは誹謗中傷で誰かが自殺をしたとか、僕達若者の自殺率が世界で1番多いとか、耳が痛くなるような事ばかりだ。
 インターネットからでもイジメは蔓延すると専門家が雄弁に語っていて、そこから誹謗中傷にも繋がるなどと言っているニュース番組をまじまじと見ていた。
 茉姫奈も、この番組を見ていたりするのか。
 それとも、心に孤独を抱えていたりしているのか。
 生きる事が怖かったりするのだろうか。
 ふと、茉姫奈の言葉を思い出す。

『自分で死を選んじゃった人って、言う人に言わせたら『逃げた』って言われるじゃん。だけどさ、そうじゃないと思うんだ。『逃げた』んじゃなくて、逃げようとしても結局『逃げられなかった』人だって····必死に逃げようとしたって結局逃げる場所なんてなかった人達なんだって····そう私は感じてるんだ』

 那由さんが変な事を言うから、色んな事を勘ぐってしまうのは、僕だからか。
「····茉姫奈····君は──?」

 今思うと、茉姫奈の発言が、おかしい感じもした。
 身体と性別は違くても、心は一緒。
 心は一緒って····あの頃の僕は、ずっと死にたくて、消えたくて、でも生きたくて、まだ名前の付けられない何かに縋って生きていた。
 彼女は、僕と同じ感情を抱えていたというのかもしれないと思うと、不安で仕方がなかった。
 でも、茉姫奈は普通そうだった。
 翌日も、その翌日もいつも通りの日常を送っていた。当たり前の日常が僕にとっての非日常だったから、その日常に浸って甘えていたからか、那由さんなりの警告だったのかもしれない、とも感じた。
 けど色に頼っている今も、那由さんからはその様な色は出ていないから、その可能性はない。
 茉姫奈のことを言った那由さんの色は別に変化はなく、僕に対する印象や好意的な感情も変わりは無い、なら──何のために那由さんは僕にその言葉を投げかけたのだろうか。
 なにか絶対にある、なにか。
 茉姫奈が抱えている大きい何かが。

『ああ見えて、マッキーって玲依君が思ってる以上に繊細だからね』

 その言葉の意図は。
 那由さんにしか知らない、茉姫奈の姿があるのだろうか。しかし、事の実はまだ本性を隠したまま。
 自分が見ている世界で、綺麗すぎる彼女に、何か罅が入る音がした。
 そして、彼女の本心も聞けぬまま、那由さんの言葉も上手く呑み込めないまま······冬が来た。