屋上で盛大に言い合いをした日から、三嶋は俺に付きまとわらなくなった。クラスの連中も、フンちゃん来ないね、なんて俺にわざわざ言ってくる。でもさぁ、うざがってたから良かったじゃん、と謎に励まされもして、俺もそれに曖昧に頷いたりしていた。学校には来ているらしいと人づてに聞いたが、放課後は遊びの誘いも断って急いで帰っていくらしい。

何かあったんだろうか。

さすがに気になって久しぶりに部室に顔を出すと、中山がひとりで黙々とパソコンで写真の整理をしていた。やっぱりここにも、三嶋の姿はない。

「三嶋先輩、お母さんの入院がもうすぐみたいで。それで、いろいろあるんじゃないですか」
「え、入院?」

あ、と低く中山が呟く。
「やべ。先輩知らんかったんですね。まぁ、もうバレたんで言いますけど」
中山はノートパソコンを閉じる。俺は中山の近くの席に座った。
「先輩のお母さん、ずっと前から病気で体調悪いらしくて。それで、とうとう大きめの手術をすることになったそうで。でも手術が成功しても、それで普通に生活できるようになるかは確率が半分くらいらしくって。運動部って、拘束時間長いし練習日数も多いじゃないですか。だから家のこととかももっとやらなきゃいけないから、それで辞めたって」

それなら、あの日急いで帰って行ったのも、母親のためだったのか。中山が自分のカメラを机の上で触りながら続ける。

「で、写真だったら隙間の時間とかでも撮れるし、陸上じゃなくても、自分でも何か新しいことがやれるかもって。それで始めたって言ってました」
「……なんだそれ」

そんな事情をずっと隠して、あいつはへらへらしてたのか。しかも、俺には言わずに中山には話していた。そのことも、結構ショックだった。

「詳しいんだな」
「だって、雨宮先輩あんまり部室来てなかったし」

それはその通りだ。二人で会話する機会が多いのは当たり前か。

「うち、まだ小学生の妹と弟がいるんですよ。両親は商売やってて忙しくって。私も姉弟の世話とか、小さい頃から結構大変で。それでまぁ、家の事とかって大変だよね、みたいな話を先輩とすることがあったんですよね」

二人にそんな事情があるなんて、考えたことも無かった。人ぞれぞれにいろんな事情があるのは頭ではわかっていても、自分の日常と違うことを想像するのはすごく難しい。
俺はずっと、自分のことで頭がいっぱいすぎたのだ。同じ部活の仲間のことも、いつもあれだけ自分を気にしてくれていた後輩の事情も、何も考えていなかった。中山が俺の顔を見ながら、小さく首を傾げるようにする。

「なんで俺には言ってくれなかったんだろうとか思ってます?」
「お前、エスパー?」
「違いますけど。まぁ三嶋先輩も、雨宮先輩には言いにくかったんじゃないですかね」
「なんでだよ」
「あるじゃないですか。男子のそういう、好きな子には特にカッコつけたいみたいなやつ。自分のそういう話、先輩にはしたくなかったんじゃないですか」
「カッコ悪い話をしたくないのはわかるけど。好きな子はいま関係ないだろ」

まぁなんでもいいですけど、と中山はちょっと馬鹿にしたような、同情するような目を向けてくる。

「話してくれないなら、聞いてみたらいいんじゃないですかね」
「……そうだな。そうする」

いまままで、あいつの存在に甘えすぎていたことにようやく気付いた。いまからでも、少しは先輩らしいところを見せてやりたい。俺だって男だし、男子はいつだって格好つけたいのだ。特に、好きな子には。
中山は、くふ、と鼻を鳴らすようにして笑う。

「素直じゃん」
「おい、タメ口やめろって」
「はい。すいません」
ふふ、と笑いながら頭を下げた彼女のポニーテールが揺れる。彼女につられるように、いつの間にか俺も小さく笑っていた。


深夜に目が覚めてキッチンに水を飲みに行くと、母さんが眠そうな顔で飯を食っていた。まだ仕事から帰ってきたままの、シャツとスーツのスカート姿だ。

「おかえり。すごい遅かったね」
「ただいまぁ。いやー、いまだけなんだけどねえ。これを乗り越えたら、さすがにこの時間までの残業はなくなるわ。今日もタクシー使っちゃったしさぁ」

つっかれたぁ、と言いながら父さんの作った牛丼をもそもそ食べている。俺は冷蔵庫から漬物を出してテーブルに置いてやる。ありがとぉ、と笑う母さんの目の前の席に座って水を飲む。

「あのさぁ、なんでそんなに頑張ってんの。疲れるし、大変じゃん」

今は大丈夫そうに思えても、いつか誰かが病気になることだってあるのだ。中山から三嶋の母親の話を聞いて、ふとそう思った。母親も父親も自分も健康でいられるのは、実は結構ありがたいことなのかもしれない。
「まぁねぇ、大変だけどさ。でも自分がやりたくて入った業界だし、好きな仕事だからね。それに大変なだけじゃないよ。いまチームで仕事してるんだけどさ、みんなと頑張った経験は、今後にも活きるからね。もし今回の結果がイマイチでも、次に活かせれば問題なし」
「ふーん。なるほどね」

ごちそうさま、と箸を置いて、母さんはグラスに入っている麦茶をぐびぐびと飲み干す。

「チームにはね、あんたとお父さんも当然入ってるよ」
「え、そうなの?」
「うん。家族もチームだもん。私が忙しい時、いつも家のこと沢山してもらって、ありがとうございます」

両手を合わせて拝むようにされて、むず痒くなる。
「まぁ、父さんはそうかも。俺は別に、家のことも学校も、特に頑張ってないし」
「そうかなぁ。あんまり最近写真撮ってないとか、そういうこと言ってる?」

知っているとはおもったが、まっすぐに言われてちょっとたじろぐ。

「まぁ、それだけじゃないけど、それもある」
「でもさ、毎日いろいろ考えてるわけでしょ? いまは写真を撮ってないかもしれないけど、でもそれも経験じゃないかな」
「撮ってなくても?」
「撮ってない、っていう状態をやってるって思えばいいんだよ」
「なにそれ。そんなんでいいの」
「いいのいいの。人生経験だよ、なんでも」

母さんは立ち上がってシンクで食器を洗いながら話す。
「母さんさ、あんたを産むより前に、仕事続けるか悩んだときがあってね。で、そのときに父さんに言われたんだよね。道はひとつじゃない、僕が一緒にいるから、一緒にこれから考えようってさ。それでいろいろあって、いまこうしていられるわけ」
「へぇ。父さんやるね」
「でしょ? ああ見えて、結構カッコイイんだよ。辛い物はずっと苦手だけどね」
あはは、と笑いながら母さんが水を止めて手を拭いている。でも辛い物が苦手なのに、母さんや俺の好みのために辛いスパイスカレーを作ってくれるんだから、やっぱりそれもカッコイイことだと思う。


次の日、登校途中の電車に揺られながら、こっちから連絡したことのなった三嶋のスマホにメッセージを入れた。

『いろいろ聞いた。ちゃんと話したい』

無視されるかなと思ったが、すぐに返事が来る。

『今は忙しくて、放課後はちょっと行けないです。すいません』

断られるだろうとは思っていたので、次の文章をすぐに打つ。

『少しでいい。昼休みなら空いてるか?』
『先輩がそこまで言うの、珍しいですね』
『お前と話したくて、必死だから』
少し間が開いてから、返事が返ってくる。
『わかりました。昼休みなら空いてます』

困ったように垂れ目を下げて笑う顔が、目の前に見える気がした。


図書館の外の渡り廊下に足早に向かうと、三嶋の方が先に着いていた。購買の焼きそばパンを渡してやると、よく買えましたね! と驚かれる。人気のパンで、すぐになくなるのだ。相変わらずへらへらしているが少しだけ、顔がやつれているようにも見える。

「うん。チャイムが鳴ってから走った」
「わざわざ走ったんですか? あー、でも先輩、写真撮るときとかも結構走ったりしてましたよね」
「俺、体育の成績はいい方だよ」

普通の会話が出来て、内心かなりほっとしていた。喧嘩のような言い合いをした後で、どんな顔をすればいいのかわからなかった。せめて謝りたくてパンを買ってきたのだが、三嶋はそこまで気にしていなかったのかもしれない。焼きそばパンに噛り付いている後輩と並んで、渡り廊下の板の上に座る。頭上は陽が遮られているが、昼間の日差しで肌は暑い。
俺は生徒が数人遊んでいる校庭に目を向けながら口を開く。

「俺、少し前に撮影でやらかしたんだ。それから、写真を撮るのが怖くなった。いまも、ずっと怖い」

言葉にしてしまうと、これだけなのが自分でも意外だった。でも、たった一言に収まるこの気持ちで、ずっと苦しかった。

「写真は、どこかにあるいいものを見つけて写すんだってずっと思ってたけど。でも本当は、自分がそこに映ってるんだよな。俺はみんなに褒められたりとか、たくさん見てもらえるものを撮ろうって思ってたけど、でも写真で見られてるのは俺自身なんだって気づいて、それですごく怖くなった。俺がこんな情けない奴だってこととか、認められたいって思ってこととか、そういうのが写真で全部見透かされるんだって思ったら、それから何も撮れなくなった」

三嶋はずっと、黙って聞いてくれている。沈黙が心地いいと思ったのははじめてだった。

「お前にいろいろアドバイスみたいなこととか、酷いことも言ったけどさ。俺に、そんなこと言える資格は全然ないんだよな。お前に頼られて、それにずっと甘えてたんだと思う。だから、ごめん。この間の事も、悪かった」

三嶋は校庭のほうへ投げ出していた脚をずるずると立てて、膝を両腕で抱えるようにする。それから、深いため息をついた。

「先輩がそんな大事なことオレに話したら、オレも話さないといけなくなるじゃん」
「俺が謝りたかっただけだから。お前に無理にとは言わない」
「うっそぉ。今日の先輩かっこよくてやだぁ」

あーあ、と諦めたように呟いて、三嶋はぽつぽつと話しだす。

「中山ちゃんから聞いたかもしれないですけど、うちの母親ずっと病気で、いまも治療中で。もうすぐ大きい手術があるんですけど、それで治るかは分かんないって言われてて。治ったとしても体力が戻るか分かんないし、仕事とか家事とかも難しいかもしれなくて」
うん、と短い相槌だけを返す。
「でも、こんなこと友達に言っても困らせるだけでしょ。オレだって、急にそんな重い話しされたら困ると思うし。……だから陸上も、辞めたいわけじゃなかったけど、家のこともあるし。母親が必死で頑張ってて、親父だって仕事と家のことで大変なときに、俺だけ、好きなことばっかりやってるわけにはいかないって。そう、思ったから」

三嶋はちょっと言葉に詰まって、ぐず、と鼻をすする。それから、気を取り直したように明るい声で続ける。

「オレ走ってるとき、雨宮先輩が写真撮ってる姿を見るのが、すごく好きだったんです。長距離ってずっと孤独だけど、もしかしたら先輩みたいな誰かが一生懸命見てくれてるのかもって思ったら、すげえ元気でるっていうか、嬉しくて。どんな風に写ってるのかなとか、どういう気持ちで撮ってくれてんのかなとか、いつも想像してました。だから陸上辞めたあと、あ、写真やろう、ってなんか自然に思ったんですよね」

あ、そうだ、と言いながら三嶋は自分のスマホを取り出す。

「先輩に言われたから、スマホですけど写真たくさん撮ってるんですよ」
画面を見ると、彼の地元らしい駅や町や、身近なものが沢山写っていた。夕食の乗ったテーブルに、病室で笑っている母親に、見舞いでこいつが買ったらしい花もある。どれも、映っているのはいまの三嶋を作っているもの、そのものだった。
「いいと思う。お前らしくて」
「あ、はじめてちゃんと先輩に褒められたかも」

後輩は、照れくさそうに笑っている。

「俺も、お前の走ってる姿が好きだ。走ってるお前は、別に楽しそうじゃなかったけど、全て受け入れてますみたいな、世界背負ったみたいな顔してた。それがいつも不思議でさ。どうしてもお前に目がいっちゃうんだよな」
「えー? そんな顔してたかなぁ」

三嶋は、泣き笑いのような顔をする。俺は、隣に座っている男に静かに言う。

「なぁ。考えないか」
「え? 何をですか」

道は一つじゃないと言った父さんの言葉を、母さんが教えてくれた。陸上か写真か。どちらかに拘ることなんか、本当はないんだと思う。
「お前さ、まだ走りたいんだろ。だったら、一緒にどうにかしよう」
三嶋は少し迷ってから、小さく頷いた。体は大きい癖に、いま俺の隣で迷いながら、どこか泣きそうな顔をしているこの男は、俺が見つめ続けた光だ。こいつの為に、何かをしてやりたい。


職員室にいた陸上部の顧問のところへ二人で行くと、顧問はこちらが話し出す前に、やっと来たか、と安心したように笑った。
「え、オレがそのうち来るって、ずっと思ってたんですか?」
「うん。遠藤先生に言われてたんだよ。三嶋は、陸上に戻りたいって言うかもしれないから、退部扱いにするのを少し待っててやって欲しいって。俺も、お前があのまま辞めるのは惜しいと思ってた。だから、休部ってことにしてある。お前の家の事があるのは知ってるよ。だからたまにでいい。都合がいい時に、また走りにこいよ」

待ってるから。そう言われて肩を叩かれて、三嶋は泣きそうに顔を歪め、ありがとうございます、と頭を下げた。

「オレ、部のみんなにもちゃんと話します。説明しないで辞めたから、みんなにも心配かけちゃったと思うし。連絡もきてたのに、あんまり返せてなくて。最初から、ちゃんと話せば良かった。カッコつけてないで謝って、ちゃんと自分で説明します」
背筋を伸ばしてそう話す三嶋は、いままで見た中で一番格好よかった。俺は彼の背中にそっと手を添える。彼の背中は、陽だまりのように暖かかった。

ああ、いま。写真が撮りたい。
本当に久しぶりに、心の底からそう思った。

こいつが一生懸命に生きてる姿、それを、ずっと残しておきたい。それから三嶋だけじゃなくて、俺のそばにいてくれるみんなを撮りたい。母さんや父さんや、中山や遠藤先生。俺の身近な人たちみんなを大切にするように、そういう写真を、俺も撮ってみたい。
自分の大事な世界を残すためのもの。それがきっと、自分だけの写真になる。大した根拠もないのに、俺は強く、それだけを思っていた。


校庭でカメラを構えていると、遠くから雨宮先輩~、と間の抜けた声が呼ぶ声が聞こえる。顔をあげると三嶋がジャージにTシャツ姿でこちらに走ってくるところだった。よ、と手を上げて挨拶すると、相変わらずへらへらと笑う。

「今日は大丈夫なのか」
「はい、今日はばあちゃんが来てくれる日で。でもそろそろ帰らないといけないですけどね。あれ? あそこにいるのって中山ちゃんですか?」
「うん。最近は人物写真にも挑戦してみる気になったんだと」
「へー。めっちゃ頑張るなぁ。ますますオレも負けてられないっすね」

三嶋は結局、陸上部も写真部も兼部することにした。家の事があるからどちらにしてもフルで活動することはできないが、どちらの部もそれを承知の上で、出来るときだけで無理なく参加していくことにしたらしい。だから大会に出たりするのは難しいが、三嶋はみんなと走れているだけで満足らしい。

写真部も少し変わった。スマホで遠藤先生も入れたグループを作って、そこに自分のとっておきの写真をあげていくことにしたのだ。これなら放課後に活動するのが難しい三嶋も、時間がある時に写真を撮ってみんなに見て貰える。これを発案したのは中山で、中山ちゃんさすがだねぇ、と三嶋に褒められていた。

「あ、先輩。今度の日曜って予定空いてます?」
「特にないけど。何」
三嶋は垂れ目を下げて笑う。
「やっぱり近いうちに、俺もカメラ欲しくて。いっしょに見に行ってくれません? 詳しい人がいた方が絶対いいと思うし」
「いいけどさ、資金はあるのか?」
「それはこれから考えます! まずは下見ですよ下見」
それならネットでもいいと思うが、でも現物を触ってみるのも大事だなと思い直した。
「いいよ。宝の持ち腐れにならないようにちゃんと見てやる」
「よっしゃ! 絶対ですからね!」

しつこく念を押してくる男に生返事をしていると、遠くから三嶋を呼ぶ声がした。彼はふと、顔をそちらに向ける。その横顔が、夕陽に映えて綺麗だった。思わず、俺はカメラを構えてシャッターを押す。画面の中の男は、どこか清々しい顔でそこに佇んでいた。横顔の瞳に、夕陽が当たって綺麗だった。

「あ、いま撮りました?」
「うん。お前の目って、薄い茶色なんだな」

知らなかった。そう言うと、後輩は一瞬目を見開いて、それからげらげら笑った。

「そんなところまで見るなんて、先輩のえっち!」

蹴るマネをすると、それをひょい、と避ける。じゃあまたね先輩、と俺に手を振って、そのまま呼ばれた方へ走っていく。駆けていく背は、しなやかに地面を蹴って、みるみる遠ざかっていく。
ずっと見つめ続けた、光のようなその姿に向けて、俺はもう一度シャッターを切る。