男子の学級委員長決めは、思いのほか難航していた。
 高校一年生の四月なんて、まだお互いのことをよく知らない。よほどやりたいと思っていなければ、立候補する人もいないだろう。
 一方の女子は、すぐに決まった。眼鏡をかけて髪を一つに結んだ坂崎という女子生徒だ。彼女はどうやら立候補すると心に決めていたようで、他に立候補者もなくあっさりと決まった。
 おかげで、大人しく席に座って無言を貫く男子たちとは違って、女子たちは余裕だ。
「誰か立候補する人、いませんか」
 教壇に立って時折声をかけるのは、不運にもこの日にちょうど日直だった笠野勇樹だ。女子のほうの日直はというと、我関せずな顔で暇そうに立っている。
 笠野の呼びかけに答える生徒はいなかった。ここで目立ったら負けだとでも思っているかのように、みんな心なしかうつむいている。
「どうしてもいなければ推薦ですか?」
 笠野が、窓際に立って様子をうかがっている担任にたずねた。
 すると担任が答える前に、一人の男子生徒が声を上げた。
「そのまま笠野がやればいーじゃん」
「は? やだよ。なら俺、お前を推薦しようかな」
「ウソウソ! ごめんって!」
 教室内が軽い笑いに包まれて、少し空気が和んだ。
 その機会をうかがっていたかのように、一人の男子が言った。
「世良(せら)君とかどうよ」
 名指しされた世良千明(せらちあき)は、クラスでも唯一県外の中学校から来た生徒だ。まさか自分の名前が出るとは思っていなかったのか、軽く目を見張っている。
「いいかもな、世良くんみんなに優しいし」
「俺、推薦するよ」
「俺も世良に一票」
「世良くんなら誰も文句言わねえよな」
 周りから口々に言われて、千明は困ったように笑っている。全員一致の雰囲気になり、このまま彼に決まってしまいそうな流れを折るように、一人が口を開いた。
「無理だろ」
 一番後ろの席でずっと黙っていた、成瀬誠(なるせまこと)だ。
「こいつにそんなのやらせたら、クラスがやりたい放題になる。もっとはっきり言えるやつじゃないと無理だ」
 再び、教室内がしんと静まり返る。
 むっとしたのは、最初に世良を推した男子だ。
「ならお前やれよ」
「別にいいけど。そうしたら俺がやりたい放題やるだけだから。俺、誰の意見も聞く気ないし」
 誠が学級委員長をやるという案に、賛成する人は誰もいなかった。
 結局、男子の学級委員長決めは振り出しに戻ってしまい、世良を推していた男子生徒たちは不満そうな目を誠に向けていた。

                       ☆

 昼休みになると、誠は図書室のある別館の裏に移動する。
 入学当初から教室で昼食をとる気はまるでなく、一人になれる場所はとさまよってたまたま見つけたここは、お気に入りの場所だ。
 静かだし、誰もこない。
 だから誰かに見つかったことは一度もなかったのだが。
「こんなところにいた」
 今、まさにパンをかじろうとしたところへ声がして、誠が見上げた。
 世良千明だ。
 彼は弁当を片手に近づいてきて、隣に腰を下ろす。
「うわ、冷た。コンクリート冷たくない?」
 地面に敷かれたコンクリートに文句を言いながらも、千明はそのまま座り込む。日陰を通り抜ける風は、今の季節はまだ少し肌寒い。そんなことを知らない彼は、カーディガンも羽織らず薄い長袖シャツ一枚だ。
「文句でも言いにきたのか」
 ぶっきらぼうに言って、誠はパンをかじった。
 千明がきょとんとする。
「何が?」
 わかっていないようなので、誠はこれ以上話すのをやめた。
 彼は幼い頃からそうだ。こっちが言い過ぎたと思っていることも、あっさりと流して知らん顔をする。
 だが彼も以前より成長したのか、少しは察するようになったらしい。
「さっきのことなら、文句なんてあるはずないよ。おかげで助かったんだから」
 千明は膝の上で弁当を開いた。トマトやレタスなどの野菜から、卵焼き、から揚げにおにぎりとバランスのいい内容だ。
「断ればいいのに」
「なかなか君みたいにはいかないよ」
 そう言って千明が苦笑する。
「俺のは言い過ぎだから。悪かったって思ってる」
 学級委員長を押し付けるのをやめさせるためとはいえ、クラスのみんなの前で悪口を言うような形になってしまったことを、誠は気にしていた。
 千明が、ふっと噴き出した。
「君は変わってないね」
 あんな酷い言い方をされても好意的に笑うのは、彼くらいだ。
 誠と千明は、小学校の同級生だ。
 嘘がつけず、言いたいことをそのまま言ってしまう誠の性格は当時からで、ついキツい言い方になってしまう彼を「怖い」と言って近づいてこない子も多かった。
 そんな中で、千明は誠の性格を気に入っていた。
 仲良くなったのは小学一年生のときに同じクラスだったのがきっかけだが、その後クラスが分かれてもずっと仲が良く、毎日のように一緒に遊んでいた。
 だが小学五年生の秋に、千明は親の仕事の都合で転校してしまった。
 こっちに戻ってきていたことは、高校の入学式の日、同じクラスに千明の姿を見つけたことで知った。
 四年以上会っていなかったけれど、顔を見ればすぐにわかった。それほどに、小学校時代の誠の記憶の大半を彼が占めていた。
「ていうか誠さ、なんか俺にそっけなくない? なんで?」
 聞こえていないはずはないのに、誠は無言でパンを食べている。
「ね、なんで?」
 めげない千明がなおもたずねてくる。
「別に、俺は一人が楽だから」
 現に、中学生の頃は一人でいることが多かった。
 もっと言い方考えろよ、とか、もう少し優しくできないのかよ、とか言われては、周りの友人たちから距離を置かれていく。
 そういう状況が続いて、正直すぎる物言いを直したいと思っても上手く直せなくて、結局一人でいるほうが楽だという結論に達してしまった。
 先ほどの学級委員長決めだって、せっかく千明に決まりそうなところを邪魔された男子たちが、誠をにらんでいた。一人に慣れてしまった誠は、今さら誰に嫌われようと気にしないが、そこに千明まで巻き込まれることはない。
「あーそういうことね。なるほど」
 誠の思いを知ってか知らずか、千明が納得したように頷く。
「俺が君以外と仲良くできると思う? そりゃあ表向きは仲良く付き合う努力をするけど、さっきの委員長決めなんて“悪意”だらけだったよ? 俺に押しつけようってさ」
「わかってたなら断ればよかっただろ」
「それができれば苦労しないんだって」
 本音を伝えるのが苦手な千明の性格は、幼い頃から変わらないようだ。
「だから君がうらましいんだよ。はっきり気持ちを伝えられる君と一緒にいるのが、一番居心地がいい」
 千明が、軽く目を閉じた。別棟の裏を通り抜ける少し冷やかな風を感じているのか、その顔はたしかにリラックスしているように見える。
「俺の言葉にだって、“悪意”があるときもあるだろ」
 彼がぱちっと目を開いて、誠を見た。
「あったかな」
「あるだろ、絶対」
 小学生の頃には毎日のように一緒にいたのに、一度も“悪意”を感じたことがないなんて絶対にありえない。
「気になったことないけどなあ」
 千明は、綺麗に食べ終えた弁当箱にふたを被せた。
 ――俺、“悪意”のある言葉を聞くとわかるんだ。
 誠が彼の秘密を聞いたのは、彼の転校が決まったと聞いたあとのことだった。特殊な能力と言うべきようなものなのかはわからないが、とにかく彼は、“悪意”のある言葉を聞くとわかるのだという。
 どうしてなのかとたずねたときの彼の返答を、誠は今もはっきりと覚えている。
 ――俺の先祖が神様を食べたから。
「静かでいいね、ここ。時間忘れそう」
 千明が校舎の壁にもたれかかって、再び目を閉じた。声をかけなければ、そのまま眠ってしまいそうだ。
 誠も壁に背を預けて、空を見上げる。
 思い出したら気になり始める、幼い頃の彼の言葉。
 だけど今思い返せばあまりにも非現実で、だからこそなんだか触れてはいけないような気がして、ずっと聞けずにいる。

                       ☆

 家へ帰ると、リビングのテーブルに封筒とメモが置かれていた。

 残業があること伝えるの忘れちゃった。好きなもの買って食べてね。

 メモには、母の字でそう走り書きされている。
 共働きで忙しい両親と誠の関係はそれなりに良好だが、平日は夕食をともにできる日のほうが少ない。
 誠はソファの上に上着とカバンを放ると、お札の入った封筒を二つ折りにしてズボンのポケットに突っ込んで外へ出た。
 夕方になって、西の空はオレンジ色に変わっている。
 誠は自転車をこぎ出した。日が傾いて少し冷やかになった風を受けながら走っていると、上着を置いてきてしまったことを後悔する。
 近くのスーパーの駐輪場に自転車を止めて、中へ入った。
 幼い子供連れの母親や、仕事帰りの会社員などで賑わう中、誠は弁当が売っているお惣菜売り場へ向かう。
 その途中で、千明の姿を見つけた。彼は野菜売り場で人参を手に取っているところだ。
 声をかけるべきか迷った。
 話しかけたら長くなるかもしれないし、まあいいかと思い立ち去ろうとすると、そんな誠に気づいた千明が声をかけてくる。
「あれ、買い物?」
 誠は通り過ぎようとした足を止めて、振り返った。
「弁当買いにきた」
 ふうん、と呟いて、千明は何も持っていない誠の手を見る。
「じゃあうちで食べる?」
「いやいいよ」
 誠はあっさり断った。
 遠慮でもなんでもないことは千明もわかっているはずだが、彼は引かない。
「夕飯ないんでしょ? じいさんも喜ぶし」
「俺は会いたくないんだけど」
 ついきっぱりと言い切ってしまった誠に、あははと千明が笑う。
「そういえば誠、うちのじいさん苦手だったよね。けど大丈夫、じいさんは君のこと気に入ってるから。はいカゴ、買い物付き合って」
 誠は半ば強制的にカゴを持たされた。
 来ないとは微塵も思っていない様子で先を歩く千明に、誠はこれ以上何も言わなかった。

                      ☆

 スーパーから自転車で五分ほど走った先の一軒家を、誠は知っていた。
 千明の祖父の家だ。生垣に囲まれた庭は広く、縁側のある平屋は昭和の雰囲気を醸している。
「今はここで暮らしてるんだ」
 彼は玄関先に自転車を止めると、すぐ後ろで同じく自転車を止めようとしている誠を振り返ってくる。
「親は、って思った?」
「一緒じゃないのか」
「別で暮らしてる。気になる?」
「そりゃ言われれば気になるけど」
 誠は自転車の鍵をかけて、前かごに入っている買い物袋を持ち上げる。
 一方の千明は、カチ、カチンと、自転車に備え付けられているリング鍵だけでなく、ワイヤーロックもしっかりとかけた。
「お前、二つも鍵かけてたっけ」
 すかさず千明がしーっと誠を制して、辺りを見回す。
「めんどくさいから学校では一つしか鍵かけてないの。じいさんにばれたら怒られるから」
 誠はすぐに理解した。彼が自転車に鍵を二つかけているのは、彼の祖父の指示だ。
「親は別居して、それぞれ職場に近いとこに住んでるよ。俺だけここに戻ってきたんだ。じいさんがいるし、君もいるしね」
 話だけを聞けば一家離散状態だが、千明はあっさりしている。当の本人に深刻さがまるでないので、誠も心配をするのはやめた。
 千明が玄関の鍵を開けてドアを引くと、カラカラとどこか懐かしい音が鳴った。
「ただいまー」
 千明が声をかけたが、返事はない。
 一応、誠も小さな声でお邪魔しますと言って、家に上がった。二人が少し軋む廊下を歩いていると、のんびりした声が聞こえてくる。
「千明、ごくろーさん」
 通りがかった部屋をのぞくと、和室に寝転がってテレビを見ている甚平姿の男性が、顔だけをこちらへ振り向かせている。
 千明の祖父、克茂(かつしげ)だ。
 その目が、千明の後ろにいる誠をとらえて見開かれる。
「お、もしかして誠君か? 大きくなったなぁおい」
 年を取っても、がははと豪快な笑い方は変わっていない。だらりと寝転がっているだけなのに威圧感があるのも相変わらずだ。
「……どうも」
 つい圧に押されてしまい、声が小さくなる。
「飯食ってくのか? 千明といいお前さんといい細っちいからなぁ。遠慮せずしっかり食ってけよ」
 この人の、この有無を言わせない押しの強さが、誠は幼い頃から苦手だ。
 夕飯を作るのは千明だとばかり思っていたが、買ってきた食材を台所に運び込んだところで克茂と交代した。刑事の仕事を定年退職し、何か趣味を見つけなければと思っていた克茂は、手始めに料理を始めてみたところすっかりはまってしまったらしい。
 待っている間、誠と千明は居間でテレビを見ていた。部屋に敷き詰められた畳の匂いと、年季の入ったちゃぶ台。その上には、お茶の入った湯呑が二つ。障子と襖に囲まれたこの部屋に座っていると、誠は幼い頃を思い出す。
 小学生の頃、ここではなく小学校近くのマンションに住んでいた千明と、今と同じ家に住んでいた誠は、たびたびこの家に遊びに来ては、好きなアニメを見て他愛のない話で盛り上がっていた。
 高校生になって、見るテレビ番組は変わったけれど、他愛のない話をしては時折笑い合う関係は、四年以上が経った今も変わっていない。
「おーい、できたぞ青少年たちよ」
 克茂がご機嫌に運んできたオムライスは、どうみても一般的な大きさの二倍はある。
 食べきれるだろうかと、誠に一抹の不安がよぎる。だが残すなんて克茂が許すはずはないので、食べきるしかない。
 千明はといえば余裕な顔で、いただきます、と食べ始めている。きっと大盛りは日常のことなのだろう。毎日この量を食べきっているのに太っていないなんて、彼の体はどうなっているのか不思議だ。
「誠くん、今日親御さんは?」
 未成年を夜に預かっている責任からか、克茂がたずねてくる。
「母は残業です。父は、家にいることが少ないので」
「そうだったそうだった。親御さん、頑張ってるなぁ」
 親が共働きであまり家にいないと言うと、大変だね、とか、可哀想、とか言われることが多いので、こういう反応はほっとする。
「ま、いつでも来なさい。高校生男子二人分となりゃ、わしも腕の振るいがいがあるってもんだからな」
 そう言って笑う克茂は、昔よりも少し雰囲気が柔らかくなった気がする。
 刑事だった頃は、もっと目が鋭かった。向き合うだけで心の奥を見透かされている気がして、子供ながらに怖く感じることもあった。
「ごちそうさま」
 千明はあの大盛りだったオムライスをすっかり食べ終えてしまった。
「え、早。お前、噛んでる?」
「噛まなきゃ無理でしょ。丸飲みなんてできないって」
 しかし誠の皿には、まだ三分の一以上の量が残っている。この差は一体どこで生まれたのだろう。
「早食いなんだよ、こいつ。ゆっくり食えって言ってんだがな」
 そういう克茂も、すでに食べ終えている。刑事という仕事柄か、彼は昔から食べるのが早かった覚えがある。
 千明はそんな克茂の影響を受けたのだろうか。
 ふいに、着信音が鳴った。
「おっと」
 音は克茂のスマートフォンからだった。克茂はスマートフォンを持って立ち上がると、部屋を出て廊下へ移動する。
 声が大きい克茂の電話相手との楽しそうな話し声が、部屋の中まではっきりと聞こえてくる。
 千明がため息をついた。
「じいさん、昼間っからよく飲みにいってるんだよ。少しは控えなよって言ってるんだけど」
「付き合い多そうだもんな」
 克茂は人に好かれやすいタイプで、彼自身も付き合いのいい人だ。
 刑事時代は忙しく、自由にお酒を飲むなんてできなかったのだろうから、引退した今、第二の人生とばかりに遊びまわっているのだろう。
 トントン、と壁を叩く音がした。
 誠と千明が顔を上げると、いつの間にか部屋へ戻ってきていた克茂が、電話相手としゃべりながら口元に人差し指を当てる。
 黙っていろと言っているのがわかって、誠と千明は口を閉じた。だがそれは、うるさいという理由ではなかった。
 克茂は通話中のままのスマートフォンをちゃぶ台の上の真ん中に置くと、スピーカーのボタンを押す。
『あれ? 世良さん?』
 電話の向こうから、男性の声が聞こえてくる。
「すまん、ちょっと聞こえんかった。最近電波悪くてな」
 克茂が適当にごまかした。
『ですから、戸塚さんも南城さんも来るって言ってましたよって』
「そうかそうか。で、いつだって?」
『来週の金曜です。四時くらいに集まろうかって』
「四時って、お前さん仕事は?」
 続いている他愛のない会話に、誠と千明は黙って耳を傾けている。
『午前であがりなんですよ。他もみんな都合がつくっていうんで、なら早めに集まったほうが楽じゃないかって』
「まあ遅いよりはな」
『でしょ? じゃあ来週の金曜、楽しみにしてますんで』
 電話の相手は、一方的に通話を切った。
「ありゃ、切れちまった。まだ行くとは言ってなかったんだが」
「行く気がないならさっさと断るべきだったんじゃないですか」
 言ってしまってから、誠ははっとする。言いすぎてしまった、しまったと思ったが、克茂は怒るどころか、ははっと笑う。
「そりゃそうか。いや、しまったなぁ」
「どうせ行くつもりだったんじゃないの?」
 千明が呆れた顔をする。
「知り合いが多いとなかなか断れんのよ。で、千明よ。“悪意”には気づいたか?」
「うん、はっきりとわかっちゃった」
 千明が苦笑する。
 克茂も、千明と同じで“悪意がわかる人”だ。千明が言うには、“悪意”がある言葉を聞くと、脳にピンときたり胸がざわざわしたりするらしい。
「電話の相手、誰だったの?」
「田中っていう、最近飲み屋で知り合ったやつなんだが、なんかやたらとノリのいい男でな」
「“悪意”だらけだったけど」
「ま、今までも“悪意”を感じることはあったけどな」
「行かないほうがいいんじゃないですか」
 会話を聞いて、誠は素直にそう思った。
「俺もそうは思うんだがな。大人には付き合いってもんがあるのよ。つーわけで、留守番頼んだぞお前ら」
「え、なんで俺まで」
 誠の疑問は、聞こえているはずの克茂にあっさりとスルーされてしまう。
 この人は、ただ飲みたいだけなのではないだろうか。
 そう思ったのは、誠だけではないはずだ。

                     ☆

 放課後、外掃除の当番を終えた誠と千明は、教室へ戻る途中で担任に捕まった。
 おーい日直ー、と声をかけてきた担任に手伝ってくれと頼まれたのは、運動場の隅にある倉庫の片付けだ。
 おかげですっかり遅くなってしまった。
「先に帰ってもよかったのに」
 廊下を歩きながら、千明が言った。
「いやいいよ。別に用事ないし」
「でも君は日直じゃないのに」
「ていうか日直の仕事じゃないだろ、あれ」
 担任も、おそらく千明が日直だから手伝いを頼んだわけではない。運動場の倉庫が片付いていないことに気づいたところへ、たまたま日直の千明が通りかかったから、日直、と呼びかけただけだろう。
 教室にはもう誰もいないと思っていたが、一人だけ残っていた。
 田中翔真(たなかしょうま)だ。入学試験でトップの成績を収め、入学式で新入生代表を務めていた彼は、席について問題集を開いている。
「あれ、まだ残ってる人がいた」
 千明の声に、田中ははっと顔を上げる。
「居残りで勉強?」
「あ、うん。塾の時間までだけど。二人は?」
「先生に雑用頼まれちゃって」
「そっか。大変だったね」
 田中は千明と話しながら、ちらりと誠を見た。しかし目が合うとすぐにそらされてしまう。どうやら学級委員長決めの一件から怖がられているようだ。
 しかし千明とは、どことなくおどおどしながらも顔を合わせて会話をしている。
「偉いね。塾の時間まで勉強なんて」
「まあ、もうすぐ実力テストだし」
「えっ、あ、そうだった! 誠知ってた?」
「そりゃ知ってはいたけど」
 だからといって特に勉強をする気もなかった誠は、気にしていなかった。
「うわ、しまったなぁ。全然勉強してないや」
「成績とか気にするんだな、お前」
「気にするのはじいさんだよ。絶対に見せろって言われるし」
 彼の祖父の克茂は、良い成績を取らなければ怒る、という人ではない。だが明らかに勉強していないとわかるような成績を取ったりしたら、確実に怒られる。
「誠も見せろって言われるかもよ」
「じゃあ当分お前の家には行かない」
「えぇ!? なんで! 一緒に怒られようよ」
「怒られる前提かよ」
「あ、あのー……」
 田中が遠慮がちに割って入った。
「よかったら、僕、教えようか?」
「いやいや、いいよ。田中君も勉強しなきゃいけないんだし」
 すぐに遠慮した千明に対して、引き下がらなかったのは田中だ。
「でも僕、いつも一人で勉強してるから、たまには誰かと勉強するのも楽しそうっていうか……勉強会みたいなのって、ちょっと憧れがあって」
「俺たちとだと迷惑かけちゃいそうだけど」
「大丈夫。僕は余裕があるし、よかったら教えるよ」
 千明と田中の会話を聞いていた誠は、少し不思議に感じた。どうして田中は、ここまで一緒に勉強をすることにこだわっているのだろう。
 誠とも千明とも、まともに会話をしたのは今日が初めての間柄なのに。
「うらやましいなぁ、余裕があるなんて」 
 千明が言うと、田中が焦った顔をする。
「あ、いや……ごめん、ちょっと嫌味っぽかったかも」
「ううん、教えてくれるのは嬉しいよ。じゃあ、どっかで勉強会しよっか。誠も来るよね」
「俺はいいけど」
 誠は、田中のほうを見た。こちらを向かないものの何も言わないということは、誠が来ることにも同意しているということなのだろう。
「明後日なら、塾のない日だけど」
「明後日かぁ」
 千明の歯切れの悪い返答で、誠は気づいた。
「その日って、じいさんに留守番頼まれてる日だろ」
「そうなんだよね」
 実力テストは来週の月曜日だ。日が迫っている。別の日にするのか、またの機会にするのか。それとも。
「なら、千明君の家で、っていうのはだめかな」
 提案したのは田中だった。
 千明は考えるように少し黙ったあとで、にこっと笑う。
「田中君がいいならいいけど、場所知らないよね」
「えっと、どの辺?」
「えーっとね……」
 千明がスマートフォンで地図を表示しながら、田中に場所を教えている。千明が今住んでいる彼の祖父の家は、高校から自転車で十分もかからない距離だ。もし田中の家とは反対の方向だったとしても、それほど負担にはならない。
「じゃあ明後日は俺の家で勉強会ってことで。いいよね誠」
 たずねられて、ああ、と誠が頷く。
「あ、じゃあ僕、そろそろ行くね」
 話がまとまるなり、田中は開いていた問題集を閉じてカバンにしまう。
「また明日ね」
 笑顔で軽く手を振った千明を、田中は一度振り返ったものの、すぐに顔をそらして前を向いた。
「うん。また明日」
 田中は教室を出て行った。
 その様子はどこか焦っているようで、誠はやはり違和感を覚えずにはいられなかった。

                   ☆

 “悪意”があった、と。
 誰もいない下駄箱で、突然千明が言い出した。
「田中に?」
 うん、と、彼ははっきり頷いた。
 先ほど教室で会話をしたとき、田中の言葉には“悪意”があったという。
「一緒に勉強したい、とかいきなり言い出したから、変わったやつだなとは思ったけど」
「なにかたくらんでいるのは確かだろうね。今日だって、俺たちがまだ帰ってないの知ってて、教室で待っていたんじゃないかな」
 放課後の教室には、誠と千明のカバンだけが残っていた。待っていれば必ずここに戻ってくると、田中はわかっていたはずだ。
「そんなに悪そうなやつには見えなかったけど」
 靴を履きながらぽろっとこぼした一言に、誠自身がはっとする。
「悪い。お前のこと疑ってるとかじゃなくて」
「気にしないで言ってよ。君の意見も大事だから。それと、もう一つ気になることがあるんだ」
「昨日、じいさんにかかってきた電話の相手と同じ名字ってことか?」
 千明が目を見張る。
「気づいてたんだ」
「“悪意”とかって聞くまでは、同じだなって思っただけだったけど」
 めずらしい名字でもないし、偶然同じだったとしてもそれほど不思議はない。だが千明の話を聞いてからだと、印象は変わってくる。
 その上、田中が提案した勉強会の日は、克茂が電話の相手と出かけるのと同じ日だ。
「俺の家に集まるの、まずかったかなぁ。けど今回避けたとしても、また狙われるだろうし……」
 はあーっと千明が息を吐いて、下駄箱から出した靴を放るように地面に置いた。
「お前の家、なんかあるのか」
 顔を上げた千明が、きょとんとして誠を見た。
「言ってなかったっけ」
「なにが」
「俺の家にあるもののこと」
 誠が幼い頃の記憶を探って黙り込む。
 会話が途切れたタイミングで、二人は昇降口を出て自転車置き場へ向かった。
 千明は自転車のスタンドを外すと、乗らずに引いて歩き出す。だから誠も、同じようにして隣を歩いた。
「話したことあったよね。俺の先祖のこと」
 言われて思い出したのは、幼い頃に、転校が決まった彼から聞いた言葉。
「先祖が神様を食べたから、ってやつなら」
 千明が小さく笑う。
「信じてた? その話」
「聞いたときは、まぁ」
 当時小学生だった誠は、彼のその言葉を素直に受け止めて、少し怖かった。
「正直非現実的な話だと思うし、今信じてるかって言われるとわからない。けど、お前は嘘をついたりしないとも思ってる」
 うん、と千明が小さく頷く。
「じいさんの家は昔、薬屋だったらしいんだ」
 昔も昔、江戸時代の頃の話だ。
 今もその頃の資料が多少は残っているが、建物自体に面影はない。
「江戸時代の頃、万能薬って言われてる貴重な薬があったんだって。何か知ってる?」
 いや、と答えた誠に、千明が言う。
「ミイラの粉」
 一瞬、誠は思考が止まった。
「え、ミイラって、本物の?」
「そう。本物の」
「人間の?」
 うん、と千明が頷く。
 ミイラの粉が薬、ということは、江戸時代の人たちはそれを飲んだということで――……想像した誠の背筋に悪寒が走る。
「うちの先祖も、ミイラの薬を売ったことがあるらしいんだ。中でもひときわ貴重なものを手に入れた記述が、当時の帳簿に残ってる。それが、“神様のミイラ”なんだ」
 神様のミイラ。
 その言葉と、小学生の頃に千明から聞いた言葉が重なる。
「正直、本当に“神様のミイラ”なのかはわからない。けど俺やじいさん、父さんが“悪意”がわかるのは、薬屋だった先祖が入荷した“神様のミイラ”の薬を飲んだからだって言われてる」
 言い伝えられているその話が本当なのかは、誠にも千明にも、確認のしようがない。
 わかるのは、帳簿に“神様のミイラ”を仕入れたという記述があることと、千明と彼の祖父と父が、“悪意”がわかるという事実だけだ。
「その、ミイラの薬っていうのは万能薬なんだよな。なんで“悪意”がわかるようになったりしたんだ?」
 わからないと言われるだろうと思いながら、誠はたずねた。
 だが、千明は答えた。
「じいさんが言うにはさ、神様は誰かを不幸にする願いは叶えないんだって。だから、“悪意”がわかるんじゃないかな」
「神様が?」
「うん、神様が。で、その“神様のミイラ”を飲んだ先祖も“悪意”がわかるようになって、代々受け継がれてるんじゃないかって」
 ただしそれもただの憶測で、本当のところはやはりわからない。
 だが千明が小学生のときに言った“神様を食べたから”の意味は、理解できた。
「でね、まだ家にあるんだ。その“神様のミイラ”の薬が」
 誠は、一瞬固まった。
「……え、それ本物?」
「さあ。けど、本物として保管してる。そしてそれを狙ってる人たちがいるんだ」
「それが、田中?」
「わからないけど、うちに来たがる人の目的なんてそのくらいだから」
 克茂に電話をかけてきた“田中”のほうも、目的は同じかもしれない。だから克茂は、留守番頼んだぞ、と千明に言ったのだ。
「誰かと勉強するのも楽しそうって言ってたあれ、嘘だったってことか」
 つい呟いた誠に、千明が苦笑する。
「それはわからないよ。悪意と嘘は違うから」
 悪意があるからと言って、その言葉が嘘とは限らない。逆に言えば、本当のことを言っているからといって悪意がないとも言い切れない。
「勉強会のとき、うちの事情で迷惑かけちゃうかもしれないけど」
「いいよ。俺もじいさんに留守番頼まれたし」
 あの時、克茂が誠にまで留守番を頼んだのは、千明の手助けをしてほしいということだったのではないだろうか。
 千明の事情を知っているのは、誠しかいないから。
「あんな一方的なの、無視してもいいのに」
「ここまで聞いといて放っておけねえだろ」
 ふふ、千明が嬉しそうに笑う。
「ほんと、君っていい人だよね」
 誠は幼い頃から、周囲から怖がられたり疎まれたりしてばかりしている。
 いい人、なんて言うのは、本当に彼くらいだ。

                      ☆

 約束の金曜日の、放課後。
 克茂の家の居間では、誠と千明、田中の三人での勉強会が始まった。
 もちろん、克茂は出かけていて留守だ。
 とくに変わったこともなく勉強を進めていて誠が気づいたのは、千明は思っていた以上に勉強が苦手ということだ。
「お前、よく南青(なんせい)入れたな」
 三人が通っている南青(なんせい)高校は、県内でも有数の進学校だ。
「南青高校に受かれば、じいさんの家で暮らしてもいいって父さんに言われたから、頑張ったんだよ」
 へへ、と千明が笑う。
 もしかしたら、千明の父親は彼に祖父の家で暮らすのを諦めさせようとして、南青高校に受かったら、という条件を出したのではないだろうか。
 そんな風に思ってしまうほど、目の前の彼は少しも問題が解けていない。
「でも世良君は、理解力はあるから。勉強すればすぐできるようになるよ」
 田中がそうフォローするものの、千明からはやる気が感じられない。同じ問題をぼーっと眺め続けてはあくびをする始末なので、耐えかねた誠が口を開いた。
「じいさんにテスト見せるんだろ」
「うん、隠したら絶対に怒られるし。でも見せても怒られるんだよなぁ」
「なら勉強しろよ」
「けど俺的には南青に入れた時点で目標達成っていうか、それ以上のやる気はでないっていうか」
「じゃあ怒られても自業自得だな」
 えぇー、と言いながら、千明がちゃぶ台にだらんと頭を乗せる。
 そんな二人のやり取りを見ていた田中が、思わず口を挟んだ。
「成瀬君って、なんていうか、容赦ないね」
 面と向かって言われて、誠は、どう返していいのかわからなかった。まあな、とか言って適当に流せばそれで済むはずなのに、思わず黙ってしまったせいで妙な空気に流れてしまい、しまった、とまた後悔する。
 しかし千明はそんな空気に少しも気づいていないのか、平然と田中に笑いかけた。
「正直で気持ちいいでしょ」
 彼の笑顔に気圧されたように、ごめん、と田中が小さな声で呟いた。
 会話が途切れ、なんとなく気まずさを感じた誠は、二人から視線をそらした。その目線の先で、畳の上に置かれている千明のスマートフォンの画面が、音もなくぱっと明るくなる。
 誰かからの着信だろうか。
 千明も気づいたようで、スマートフォンを軽く持ち上げて画面を確認する。そしてそのままズボンのポケットにスマートフォンを入れた。
「ちょっと休憩しよっか。じいさんが用意しといてくれたお菓子があるから、持ってくるよ」
 千明が立ち上がると、田中が慌てて身を乗り出した。
「ま、まだいいよ。始めてからそんなに経ってないし、もう少しあとで」
「気分転換したほうがいいでしょ。ついでに飲み物も持ってくるね」
 そう言って部屋を出て行く千明を、田中はもう止めなかった。その代わり何も話さないし、うつむき気味に座ったままで動かない。
 ますます気まずくて、誠は逃げるように立ち上がった。
「トイレ行ってくる」
「あ、うん」
 田中は少し顔を上げて、頷いた。
 廊下に出て襖を閉めた誠は、玄関近くにあるトイレではなく、反対方向の台所へ向かう。
 すると、ちょうど台所から出てくる千明の姿が見えた。廊下に出た彼は誠に気づくことなく、居間とは反対のほうへと歩いていく。
 誠はあまり足音を立てないように気をつけながら、彼のほうへ駆け寄った。
「何かあったのか」
 千明は振り返ってくるなり、たずねてくる。
「田中君は?」
「居間にいる。俺はトイレって言って出てきたから」
 だが誠は、トイレに行くつもりはなかった。居間を出て行く前にスマートフォンを見ていた千明が気になって、追いかけてきたのだ。
 ちらりと、千明が廊下の向こうを見る。そこには誰の姿もなく、田中が居間から出てきそうな様子もない。
「じいさんから連絡がきた。田中って人が店からいなくなったって。だから、来るかもしれない」
「え、来るって」
 ガタ、と、どこかから物音がした。
 一緒に勉強会をしている田中がいる居間のほうではない。明らかに違う方向からだ。
「誠は居間で田中君と待ってて」
 千明がスマートフォンをズボンのポケットに戻した。
「俺も行くよ」
「だめ、待ってて。危ないかもしれないから」
 玄関へ向かおうとした千明が、一歩踏み出してところでぴたりと足を止める。振り返った誠も、はっと息をのんだ。
 居間にいるはずの田中が、いつの間にか目の前に立っている。
「行かないで。今行くと、危ないから」
 田中は必死だった。ここを通り抜けられたら死ぬとでも言わんばかりの顔で、二人の前に立ちはだかっている。
「誰に頼まれたの?」
 千明の問いかけに、田中がびくっと肩を揺らす。
「俺たちを外へ行かせないようにするために、勉強会しようって言ったんだよね。違う?」
「それは……その」
 田中の顔は真っ青だ。
 まるで、何かに怯えているかのように。
「今の君に“悪意”がないのはわかる。けど、君に構ってる暇はないんだ」
 普段は愛想がよく誰にでも優しい千明だが、その仮面が外れると、興味のない相手に対して一気に冷たくなる。
 だから彼は、田中が明らかに様子がおかしいことに気づくことなく、横を通り過ぎて行ったのかもしれない。
「ま、待って! 行ったら酷い目に遭うから! 僕も君もっ……」
「酷い目に遭ってるのか?」
 千明を止めようとしていた田中が、誠を振り返ってくる。
「脅されてるのか。田中って男に」
 大きく見開かれた田中の目が、真っ直ぐに誠を見ている。その目は恐怖に満ちていて、ついには体もがたがたと震え出す。
 こんな状態の彼を一人にするのは心配だが、千明を放っておくわけにもいかない。
 誠は田中に近づくと、彼の肩に手を置いた。
「とりあえず部屋で待ってろ。俺たちは大丈夫だから」
 そのまま彼の横を通り過ぎて、誠は千明のあとを追う。玄関に置かれていたサンダルを適当に借りて外へ出ると、家の裏へと歩いていく千明の姿が見えた。
 彼が向かったのは、敷地内に立っている蔵だった。
 蔵の戸の前で追いついた誠に、彼は地面を指さした。
「見て。壊されてる」
 ハンマーのようなもので叩かれて壊された南京錠の残骸が、地面に落ちている。
「店からいなくなった田中って人がここに来るつもりなら、先に行って待ち構えていようと思ったんだけど」
「もう来てるみたいだな」
 誠の言葉に、千明が頷く。
 鍵の壊された蔵の戸を、千明が押し開けた。ギ、と音を立てて重々しく開いた戸の向こうは、真っ暗だ。
 パチ、と千明が壁のスイッチを押した。二、三度光が瞬いたあと、天井に灯った明かりで蔵の中がほの明るく照らされる。
「うわ、なんだこれ……」
 思わず誠が呟いた。蔵の床には、棚に置かれていたのであろう冊子や道具が無造作にばらまかれている。
「だいぶ探し回ったみたいだね」
 千明が辺りを見回しながら確認する。その背の向こうで人影が動いたことに、誠は気づいた。
「千明!」
 誠の声に、千明が背後を振り返る。
 本棚の影から出てきた見知らぬ男は、手に大きめの金槌(かなづち)を握っている。
 おそらくこの男が、店からいなくなったと克茂から連絡のあった、田中だ。
「薬はどこにある」
 金槌を片手に、田中が脅すように睨んでくる。
 千明は平然と答えた。
「言っとくけど、あれは万能薬なんかじゃないよ。飲んだら絶対に後悔する」
「なんだっていい。高値で買い取りたいってやつがいるんだ」
 田中自身は、“神様のミイラ”の薬には興味がないらしい。
 彼が欲しているのは、金だ。
「はいどうぞって渡せるものじゃないってわかってるから、忍び込んできたんだよね」
「うるさい。素直に渡さねえと子供でも容赦せんぞ」
 田中が見せつけるように金槌を振り回す。
 千明は男に視線を向けながら、誠を自分の背後へと押しやった。
「どうしても欲しいなら力づくでどうぞ。俺も金目当ての人間なんかには絶対に渡す気ないので」
 挑発するように微笑んだ千明に、田中がカッとなって怒りをあらわにする。
「なめるなよガキが!」
 田中が金槌を振り上げて千明に迫る。
 千明はあっさりとそれを避けた。そして金槌を握る田中の腕をぐっとつかむと、足をかけて床へと投げ飛ばす。
 どごん、と激しい音とともに背中を棚にぶつけた田中は、うめき声とともに立ち上がれなくなった。
「武器を持ってるからって勝てるとは限らないのに。ねえ誠」
「俺に同意を求められても」
 正直、誠は金槌を持っている相手に勝てる気はしない。
 パチパチ、と蔵の中に拍手の音が響いた。
「なかなかやるじゃねぇか。さすがは俺の孫ってなもんだ」
 はっはっはっ、と機嫌良さそうに歩いてくる克茂は、明らかに酔っている。
 そんな克茂に、千明が呆れた顔をする。
「じいさん、いつから見てたの」
「ちょっと前にな。面倒だったからお前らに任せた」
 克茂が、いまだに起き上がれずにいる田中のほうへと顔を向ける。
「こいつは不法侵入ってことで警察に連絡しとく。ご苦労さんだったな二人とも」
「うん。じゃああとはよろしく」
 千明はそう言って蔵を出ようとしたが、誠はその前に克茂に声をかけた。
「じいさん」
 田中が逃げないように見張っていた克茂が、誠のほうを振り返る。
「そいつ、同じクラスのやつを脅してたかもしれないんです。今居間にいて、共犯かもしれないけど、あんまり責めないでやってほしくて」
 居間で待っているはずの同級生の田中にも、おそらく事情を聞くことになる。だからその前に、少しでも事情を伝えておきたかった。
 真面目な顔で聞いていた克茂が、ふっと笑う。
「心配せんでも、子供相手に乱暴な真似はせんよ。同級生君にはあとで話を聞きに行くが、俺も警察も味方だとでも伝えといてくれ」
 克茂のことは幼い頃から苦手だが、信用はできる。
 わかったと頷いて、誠は先に蔵を出ていった千明を追いかけた。

                  ☆

 一週間後の放課後、誠と千明は自転車置き場にいたところを田中に呼び止められた。
「お父さんに住んでいるところがばれたから、引っ越すことになったよ」
 克茂の家の蔵に忍びこんだ田中という男は、今目の前にいるクラスの優等生の田中の父親だった。
 家庭内で暴力を振るっていた父親から逃げた田中と母親は、アパートで二人暮らしをしていた。
 その父親が、克茂の家の“神様のミイラ”の薬を盗むために、千明と同じ高校に通っている息子を利用しようとしたのだ。
「引越し先が言えないのは残念だし、迷惑も、たくさんかけたけど」
 田中は申し訳なさそうに言った。
 しかしすぐに顔を上げて笑う。
「君たちのおかげで頑張れそうだよ。本当に、ありがとう」
 彼は晴れ晴れとした顔で二人に手を振り、自転車に乗って去っていく。
「初めてまともに目があった気がする」
 思わずそうこぼした誠に、千明が笑う。
「そりゃよかった」
 カバンを前かごに入れた二人は、自転車には乗らず引いて歩いた。
 結局のところ、“神様のミイラ”の薬はどこにあるのか。
 きっと他人に言ってはいけないのだろうと、誠は聞かなかった。
 田中の父親は“神様のミイラ”の薬のことをどこで聞いてきたのかとか、誰に売ろうとしていたのかとか、わからないことはたくさんあるけれど、事情徴収中の今は警察に任せるしかない。
「そういやじいさんが今度夕飯食べに来いって言ってたよ。お礼においしいものごちそうするからって」
「俺、何もしてないけど」
「俺と一緒に留守番したじゃない」
 たしかに留守番はしたけど、それだけだ。家主である克茂が出かけている間、家にいただけ。
 “神様のミイラ”の薬を狙う田中を止めたのは、千明だ。
「俺だけじゃ、田中君はあんな風に笑えるようにならなかった。君がいたからだよ」
「お前が父親を捕まえたからだろ」
「わかってないなあ」
 やれやれと言わんばかりに、千明が軽く息を吐く。
「ていうか、お前は一人で突っ走りすぎなんだよ。金槌持ってる相手に向かっていくなんて」
「だって負ける気しなかったから」
 へら、と笑う千明に、誠は思わず声を荒げた。
「当たったら大怪我じゃすまないかもしれないだろ。ちょっとは考えて動けって言ってんだよ」
 つい語気を強めてしまってから、しまった、と思う。もう少し言葉を選べばいいのにと自分でも思うけれど、なかなかうまくいかない。
 それなのに、千明はなぜか嬉しそうな顔をする。
「わかった。ありがとう誠、気をつけるね」
 あんな言い方をされて礼を言うなんて、やはり彼は変わっている。
 誠は思う。
 彼がこの町に戻ってきてくれてよかった、と。