改札を出て駅前のロータリーへ出ると、再び茹るような暑さに焼かれた。
 それでも快晴に近い夏空や、海が近いからか風が心地よかったりと、うざったいだけじゃない夏を感じられるのは、さすが一応、観光地を内包する町なのだなと納得した。
 駅の周りを眺めてみても印象は変わらず、確かに田舎ではあるけれど、寂れた様子はなくて、僕達の地元なんかよりよっぽど活気があった。
「とりあえず観光案内所に行くね。行きたい場所を全部巡ろうとスマホで調べたら、どうも遠回りになる気がしてさ」
 駅と共に数年前に改装されたらしい併設された案内所も、レトロとモダンの調和がとれたとでも言うのだろうか。とにかく今風な雰囲気が漂っていた。
 自動ドアの入り口には、『阿古屋へようこそ!』と書かれた垂れ幕がかかっていた。
 そこから目線を動かすと、僕と七瀬は二人してドアの向こう、エントランスに見える奇妙な何かに目を奪われた。
 それはパイプ椅子に腰かけた、二枚貝から手足の生えたぬいぐるみだった。
 元は着ぐるみなのか大きさは成人男性ほどあり、巨大な頭部と異様に細い四肢が影響して、項垂れるような姿勢で座らされていた。
 影がある目元にはギョロッとした魚のような目が収まり、貝殻の隙間は口に見立てられ、舌のように太い管のようなものを吐き出している。とにかく受ける印象としては——
「かわいい〜」と七瀬。
「は?」と僕。七瀬の予想外の発言に思わず声が大きくなった。
「百人いれば百人がキモいって言うだろこれは」
 僕がそう言うも、七瀬は躊躇なくそいつの頭を撫でて言った。
「一万人いたら一万人がキモいって言う?」
「間違いないだろ」
「でも、一万一回目は何か変わるかもしれない〜♪」
「……そう言うなら、込み上げてくるのは嗚咽だよ?」
「ん、もう頑なだねぇ。こんなに愛くるしいのにさぁ」
 七瀬は今度、手を掴んで僕に振って見せながら、途中裏声でナレーションするように言った。
「ほら、『阿古屋へようこそ!』って言ってるよ!」
「マジで子供は逃げるよ」
「何度でも何度でも何度でも、立ち上がり呼ぶよ?」
「じゃあ妖怪だ。恐怖だよ。込み上げるものも、ちゃんと涙に変わったよ」
 そう言うと七瀬は激しく笑った。七瀬に掴まれたままの手はパシパシと暴れ、片手だけが忙しく動く奇妙な貝は本当に気持ち悪くて、目を合わせると冗談じゃなく若干の恐怖を感じた。
「ほら、もう行くよ。さっきの話だと予定はタイトなんだろ」
 僕が先に歩き始めると、七瀬は本当に名残惜しそうに貝を撫でてから追ってきた。
 受付は気の良い中年の女性だった。観光地はもちろん、そうじゃない場所まで結ぶ無茶なルート案内を要求する七瀬に対し、それでも女性は丁寧に提案をしてくれた。
 大体の内容がまとまった時、女性からパンフレットと一緒に、小袋に入った缶バッチを渡された。
「それじゃあご旅行を楽しんでね。あ、あとこの可愛い缶バッチ『あこやん』もどうぞ。ぜひバックとかに付けてね」
 言われて見てみると、バッチの表にはさっきのキャラクターが印刷してあった。
 なるほど、あの妖怪の名は『あこやん』と言うのか。謎に関西テイストなネーミングだなと思いながら、再度イラストを確認する。デフォルメされているからか、キモさは若干マシにはなっていた。だけれど何も言わず七瀬に二個とも渡した。素直に喜んでいた。
 女性にお礼を言って歩き出すと、七瀬が隣で自分のトートバックに缶バッチを付けていた。本当に好きなのかと不思議に思っていると、しばらくして僕のリュックが引っ張られた。
 本当に僕は要らないのだけれど、外すのも面倒だから、もう文句は言わないでおいた。
 外に出て太陽からの眩しさに目を逸らすと、七瀬の手元に目線を向けることになった。だけれどそこでも不意な閃光に目を細めた。正体はパンフレットが反射した日光だった。そんなパンフレットには、さっきの女性の案内が赤ペンで書き込まれている。
「何か宝の地図みたいでワクワクするね」
 言って七瀬が満面の笑みを向けてくる。楽しそうで何よりだと思った。

 まず最初に向かったのは、駅から徒歩十分。合同文化祭の形で関わる予定の阿古屋高校だった。
 特段これと言った特徴のない外観だけれど、僕らの高校よりかは明らかに新しかった。
 七瀬のリサーチによれば、十数年前に別の二校の高校が老朽化によって取り壊され、この学校が新たに建設、合併されたという経緯があるらしかった。
「やっぱり綺麗〜。あ、吉良くんみてよ。あの奥に見えるのが体育館じゃない? 大きいから劇のやりがいもありそうだね」
 七瀬が背伸びをするように校内を覗き込んで言った。その姿を見ていて僕は今更だけど気がついた。ここに来たとして、僕らは中に入れないのだ。
 しばらく外観をぼうっと眺め、部活動の野球部だろうか? の声を、僕は遠くに聞いていた。
 そうしていると、ある時、七瀬が突然に歩き出して近くの街路樹の隣に隠れた。謎だ。
「……今度は何が始まったの?」
「張り込みだよ」
「何のために?」
 言った時、七瀬に急に腕を引かれた。文句を言おうとしたら、七瀬が先に口を開いた。
「ほらほら、来たよ」
 言われて七瀬の視線を追った。見つめているのは、校門から出てきた女子高生達だ。
 何も言わず二人でその姿を見送ると、七瀬がようやく口を開いた。
「なるほど、なるほど」
「何?」
「何って、女子の制服チェックに決まってるじゃん。やっぱ噂の通り可愛い。そんでスカートが短いの何の……」
「おっさんかよ」
「そうだよ。そういうスケベ観点でも見ておかないと。我が校の吉良くん筆頭の男子達が血迷わないよう、事前教育をする必要性を再確認しておくのさ」
「意味わかんないけど、とにかく僕を犯罪者予備軍の筆頭に据え置くのはやめて欲しいな」
「ふふふ、まさにアウトローだね吉良くん」
 その時、グラウンドから『カキーン』と金属バットが球を捉えた甲高い音が木霊した。
「君は本当、絶望的にバカな時があるよね」
 七瀬は満更でも無さそうな顔で笑っていた。僕は改めて心底バカだなぁと思った。
 ともかく学校を観察してみて少し安心した。見るからに綺麗で施設も整っていそうなここなら、確かに劇もそれに付随する文化祭的な催しも壮大で楽しめるものになるだろう。

 ここから僕らはバスを駆使して阿古屋を駆け回ることになる。次に向かったのは海鮮市場だ。
 修学旅行初日も、お昼はここで各々グループに分かれ、好きなものを食べる予定をしている。
 しかし今日は、あまり長居する猶予は無い……はずなのに、僕らは二人して珍しい魚達に夢中になっていた。
 市場のおじさん達も気さくな人ばかりだった。エピソードとして特に印象に残っているのは、七瀬が大きな蟹に手を伸ばした時に「挟まれるぞ!」と冗談で叫ばれて、飛び跳ねていた一幕だろうか。
 市場を一周すると、併設された食堂を訪れ、メニューを眺めた。
「いくら丼、いくら何でも高すぎるよぉ」
「雑、雑、誰かに聞かれたら恥ずかしいからやめてよ」
「無意識だった……」
「重症だね……まぁいいや。そっちのサーモンも乗ってるやつなら、幾分か安いよ」
「本当だ。サーモンの方が安いってことは、いくらは生まれながらに親を超えたんだね」
「壮大な感想と感性だね。まぁ、いくらは生まれて直ぐに他人に味付けされた子供だけど」
「複雑な家庭だね」
「むしろ複雑な一生だよ。最後には親子まとめて君に食われるんだから」
「よし。じゃあ私、サーモンいくら丼にするよ」
「潔いね。消費者の鏡だよ」
「吉良くんは何にするの?」
「僕はこっちの色々と乗ってるやつにしようかな」
「吉良くんはより多くの命を奪うつもりなんだね」
「命の数なら君の丼の方が圧倒的に多いよ」
 言って笑い合う僕らは、魚達からすれば悪魔のように見えるのだろうなと思った。
 食券を渡して番号札を受け取り、セルフの水を持って席に着いた時にはもう番号を呼ばれた。豪華な海鮮丼と味噌汁の乗った盆は重くて、七瀬が持つと怖いくらい不安定だったから僕が二往復もする羽目になった。都合の良い時だけ、か弱さを演出するなよと思っていると、
「どう? 命の重みを感じられた?」と七瀬が言った。
 ムカついたので七瀬の分の水を一気に飲み干してやった。
「なっ! このぉ!」
 次の瞬間、七瀬も僕の水を掻っ攫って飲み干した。その瞬発力は他のことに活かしてほしい。
 結局二人共がまたコップを持って席を立つと、七瀬が手を伸ばした。
「ごめんごめん。ここは私が」
 その手にコップを握らせると、素直に水を二人分汲んできた。
 直前までは騒がしかったけれど、七瀬が戻ると二人で手を合わせ、食べ始めたらもう食べ終わるまでずっと「美味しい」以外の言葉は交わさなかった。
 食べ終わり、お盆を返却した後、七瀬が満足げな顔で言った。
「命の重みは胃袋で感じてこそだね。感謝。幸せだよ」
「珍しく同感だね。美味しかった」
 七瀬が僕の顔を覗き込んで満面の笑みで言うもんだから、僕は顔を逸らしてサムズアップを見せつけて返事しておいた。
 スマホを確認すると、思ったよりも時間が押していた。急ごうと足を早めようとした僕に、七瀬の声が少し遠くから聞こえた。
「ねぇ、吉良くんこっち! 漁港も見ていこうよ!」
 時間はないけれど、主催者がそう言うのなら仕方がない。
 海と想像すると砂浜とセットで思い起こすから、こうして漁港をまじまじとみる機会は僕にとっては初めてかつ新鮮だった。
 波が船や岸のコンクリートにぶつかる音は、砂浜で聴くものとはまた違う風情を感じさせる。
 空にはカモメが数匹飛んでいて、そのまたさらに上空に旋回する鷹が独特な声で鳴いた。
「あ、鳶だね」
 七瀬が言った。鷹じゃなくて鳶だったらしい。勘違いしたことは当然黙っておく。
「飛べ飛べぇトンビ〜空たぁかぁくぅ〜」
 いつだか音楽の授業で聞いた歌を歌う七瀬。節が誇張されているのがウザいけれど、上手いかどうかは差し置いて、意外にも繊細な歌声だった。でもその後から、
「ほら飛べぇ! もっと飛べぇ!」と、なんか飲みの席の面倒なオヤジのような口調のノリが始まっていて台無しだった。
 けれど少し先に居た釣り人がこっちを見て笑っているのに気づくと、流石の七瀬も静かになった。
 七瀬が真っ赤な顔で僕の後ろに回り込んで、釣り人から隠れる。とばっちりはやめて欲しいと思った時に、その釣り人が僕らを手招いた。
 近づくと、釣り人の竿がしなっていた。どうやら魚が掛かっているらしかった。釣り竿が上がると、糸の先に平べったい魚が付いていた。釣り人はそのまま魚を手で掴んだ。
 いつの間にか僕の後ろから這い出ていた七瀬が釣り人に近づいた。僕も続くと、釣り人の顔が見えた。思っていたよりも高齢なお爺さんだった。
 彼は老人特有のくしゃっとした笑顔で、七瀬に突然その魚を下投げした。
「うわぁ!」
 七瀬が声を上げながら魚をキャッチする。手の中で暴れる魚を遠くに持ちながら、
「うわわ、うわわわ、うわわわわ、うわわわわわわっ!」と声をあげて慌てふためいていた。
 そして七瀬はその魚を無理矢理に僕に渡す。落とすわけにもいかず受け取った僕は、七瀬の時と似通った反応をした。とにかく足早に歩いて、老人に魚を返した。
 老人も僕らを真似して「うわわわっ」とリアクションをとった。
 僕ら三人は手をビショビショで、ヌルヌルにしながら笑った。
 老人は魚を片手で掴み直すと「こいつはあんたらと一緒だな」と言って海へ投げ返した。
 僕と七瀬が二人して首を傾げていると、
「未来があるってこと」と言い、続けて「こんな老いぼれと違って」と付け加えた。
「「そ、そんなそんな」」と狼狽える僕達の微妙な反応に、老人はまた満面の笑みで返した。
 その後、軽く老人と雑談をしてから、最後にお礼を伝えて漁港を後にした。
 ちなみに七瀬はさっきの魚を後からニモと名付けた。姿形も配色も全くもってそれっぽくなくて、馬鹿馬鹿しいと思っていたけれど、ヌルヌルの手をトイレで洗う時、なんとなくニモに悪い気がしてモヤっとした。

 またバスに乗り込んだ。バス停での待ち時間は奇跡的に無かったのだけれど、時間は予定よりも一時間も遅れていた。七瀬も流石に焦り始めたのか、パンフレットを広げて眺めていたけれど「まぁ、何とでもなるでしょ!」と閉じた。まぁ主催者が良いのなら僕も良いけれど……。
 しばらくバスに揺られ、ある停留所で止まった時、七瀬が突然に窓の外を指差した。
「吉良くん。降りよう!」
 言って七瀬は、困惑する僕を置いてさっさとバスから降りてしまい、窓の向こう側から僕に手を振る。運転手さんの「他、お降りのお客様〜」との声にも急かされ、僕はまんまと七瀬の横に並んだ。
「こんなとこで降りる予定ないんじゃないの?」
「ここで降りる予定は今できました。ほらここ」
 七瀬に指さされたのは……何だろう綺麗な一軒家だろうか、ともう少し視線をズラすとそれがカフェであることに気がついた。白基調の壁に薄い木の扉やカウンター。中に見えるイートインスペースには小さな椅子と机が並んでいる。
「もしかして、目についてオシャレだと思ったからって理由だけ?」
「そうだよ?」
 呆れた。しかし何度も言うけど、主催者がそう舵を切るのなら従うまでだった。
 中へ入ると、一テーブルに幾つかパンが並んでいて、どうやら先にパンを選んでからレジで飲み物を注文するらしかった。
 さっき海鮮を食べたばかりなのに、七瀬は何食わぬ顔でトングを掴んだ。
 一方、僕はその七瀬の手を掴む。
「待って。さっき食べたばっかりだよね?」
「パンは食べてないよ?」
 言いながら飄々とした顔で、かにパンをトレイに乗せていた。
「よりにもよってかにパン食べるの? てかパン屋にかにパンってあるんだ」
「イチオシって書いてあるよ。それに私は生粋のかにパン好きだからね。幼い頃に初めて口にしてから、かにパリズムに目覚めたんだよ」
「なら君がかにパンの方に目覚めてくれてよかった。くれぐれも他の道に逸れないでね」
「了蟹」
 言って七瀬はトングをカチカチとさせた。
 七瀬はレジでかにパンと、いつも通りにカフェモカを。僕はアイスコーヒーを頼んだ。
 店の奥へ通されると、狭い店の中で案外とお客さんがいることに驚いた。
「カップルばっかだね」
 七瀬が言った。あえて何も感じまいとしていたことをあえて口にしてくる。何を言っても茶化されそうなので、完璧に無視をすることにした。
「あんまり長居もできないからね。忘れてるようだけれど、今日は下見に来てるんだから」
 僕がそう言うと、七瀬が首を傾げる。
「何言ってるの。今日は旅行に来てるんだよ?」
「タマゴが先かニワトリが先かみたいな話はしてないんだけど」
「いくらはサーモンよりも高いよ?」
「会話にならないね」
「まぁ細かいことは良いじゃん。私は旅行に来てる。そんで旅行ってのは、不意に心惹かれてふらっと立ち寄るカフェがあった方が豊かなんだよ」
 言いながら七瀬が、かにパンの右足をもぎ取って口に運んだ。
「びぼぐちいぶ?」
「汚い。飲み込んでから話しなよ」
 七瀬は僕を睨みながら大袈裟に嚥下してから言った。
「手を当ててるから良いでしょ。そんなことよりこの蟹さん。ミソがクリームなんだよ! 一口食べる?」
「いらないよ。お腹いっぱい」
「ちぇ〜。めちゃ美味しいのに」
 プンスカッてこういう顔を言うんだなって言うくらい表情豊かな七瀬を見て、自由だなって思って、時間を気にする自分の方が馬鹿らしく思えた。
「あーおいしー」
 言ってもただのクリームパンだろうに、恍惚といった表情で二口目を口に含む七瀬に何となく聞いてみる。
「どのくらい美味しい?」
「このくらいー」
 両手をピースの形にしながら満面の笑みを向けてきて、その後はピースの指をカチカチと開閉して「カニカニ星人〜」などと戯言を言っていた。
 僕は“カニカニ星人すなる者”を眺めながら、何も言わなかったら、いつ辞めるだろうかとツッコまずに待った。
 静かにアイスコーヒーを口にし、ゆっくり吸ってからグラスを置いた。その時には、もうほぼ真顔で「カニカニ……」と連呼する状態だった。
 不服そうにまだ続ける七瀬に、なんだかんだ先に痺れを切らした僕が「頑固だね」と言ったとき、その口を閉じる前に、突然、暴力的な甘味を感じた。
 状況はもちろん七瀬が僕の口にかにパンを押し込んだのだ。逆の手がまだピース状態だから、多分僕の口にもパンを介してピースが突き立てられているのだろう。
 ニヒルに笑った七瀬が僕の口に目線を落とすと、ハッとした表情をした。その理由は僕も察している。口に収まらなかった分のクリームが溢れているのだ。
 慌てて僕がパンを全て口に含む。すると僕の口周りと七瀬の指にクリームが付いた。
 七瀬があーあー。と言いながら、自分の指のクリームと共に、僕の口周りのクリームも連れて手を引き、それを何食わぬ顔で自らの口に含んだ。思わず僕は咽せ込んだ。
 視界から外した七瀬が言った。
「めっちゃ咽せるじゃん。顔真っ赤だよ? え、本当に大丈夫?」
 心配される程には咳をした僕は、ようやく呼吸と気持ちを整えて七瀬に向いた。
「生きてる?」
 言ってケラケラと笑う七瀬。全く誰のせいだと思っているんだ。
 僕は暴挙に次ぐ暴挙に何度目かわからないため息を、またひとつ吐いた。
 けれど旅行はまだ続く。ということは当然、七瀬の暴挙もまだまだ続いたのである。

 またバスに乗り直して、次は修学旅行で泊まる予定の旅館へと向かった。
 古き良き旅館という感じで、設備などは古そうだけれど、老朽化というよりは年季が入っているという言い方の方が正しいと思った。
 本来なら、宿泊予定のない僕たちはサラッと外観と内観を見て次へ向かう予定だった。
 そう。予定だったということは、七瀬の暴挙がまた始まったのである。
「日帰り温泉だって!」
 そう言い始めた時には、僕はもう察した。五分後には売店で着替えを買っていた。
 幸運にもTシャツは当たり障りのないデザインのものが一種類だけだったので、選ぶともなくそれをカゴに入れてレジに向かう。七瀬は他の必要もない小物類に目を光らせていた。
 男女の暖簾が掛けられた分かれ道で、入浴時間についてまた一悶着したけれど、そこばかりは間を取る形で二十分と決めた。その代わり館内着用無料の浴衣に着替えることを条件にされた。
 脱衣所で服を脱ぎながら、まぁ確かに汗を流せるというのは悪くないと自分に言い聞かせた。
 温泉は正直に言うと、とても気持ちよかった。湯船は今日一日で育った日焼けの肌に染みたけれど、汗が流れたことで日焼けの肌がつっぱる感じが幾分か和らいだ。
 髪を乾かして出てくると、長湯したつもりはないけれど、ちょうど二十分が経っていた。
 七瀬は結局、五分遅れたけれど、僕でギリギリだったのだからそこばかりは黙って譲歩しておいてやった。
「ごめんね。遅くなっちゃって」
 そう言って出てきた七瀬。髪に艶が出て、日焼けと火照りでピンク色の頬になっている。淡い紫色の浴衣を着ていて、タオルを首にかけていた。本当に急いだらしいことが伺えた。
 なんとなく申し訳なさを感じた僕だけれど、刹那、続いた七瀬の言葉に打ち消された。
「どう? 浴衣姿。かわいい?」
 腕を伸ばしクルリと回って言う七瀬。うざいので、僕もその場で回って言った。
「どう? 浴衣姿。かわいい?」
 対し、七瀬は「おえー」と言った。続けて「吉良くんは私が欲しい言葉をわかってて言ってくれないんだもんな」と呟いていた。僕へ勝手に変な期待をされても困のだけれど。
 なんにしても、時間は急がなければいけないと思った時、そういえば、と、自分と七瀬の浴衣を再認した。今更だけれど、これじゃあ旅館の外には出られないじゃないか。
 そしてそれは七瀬だってわかっていただろうから、つまりは——
「よし。じゃあ卓球しよう」
 そうか、やっぱりそういう事になるのか。
「旅行とは、温泉の後に不意に心惹かれてふらっと始める卓球があった方が豊かなんだよ?」
「本当、元気だよね君は」
 一回、五百円で三十分。もうどうにでもなれと思った。
 七瀬がラケットを二個持って、自分の背中とお尻でフリフリと振って言う。
「見て、尾ビレ、背ビレ」
「よーし。始めようか」
 言って僕が玉を投げた。慌てた七瀬が打ち返すと、台を余裕で飛び越えて僕の額に直撃した。そのフォームと弾道を見てわかった。七瀬は卓球が下手らしい。
 そしてもれなく僕も下手だった。
 それでも僕らの闘気は凄まじく、もはや相手にどれだけ強くぶつけられるかの勝負になっていた。しばらく続けて、互いに息が切れ始めた頃に一時休戦。早くも汗をかき直していた。
 ウォーターサーバーから汲んだ無料の水を、呼吸の合間を狙って飲んだ。
「私、左で打つ、バックハンドが苦手だよね」
「大丈夫。お互いにもはや卓球の形にもなってないよ」
 ただでさえ呼吸が乱れているのに、お互いに苦しそうに笑った。
 その後、七瀬が唐突に言った。
「吉良くん。共闘しよう」
「ダブルスは四人いないとできないよ?」
「違うよ。敵は卓球そのものさ」
「現時点で足元にも及んでないよ?」
「まずは形にしよう。ラリーを十回続けようよ」
「同感。無益な争いは無駄に疲れるだけだと、今、身を持って実感してるからね」
 言って頷くと、二人で一緒に立ち上がった。

 三十分をきっちり遊び尽くした後、僕らはまた息を切らしていた。
「最高記録は四十二回かぁー」
「不服そうだね。僕自身はやり切ったと思うけど」
「いや私も。燃え尽きたよ」
 しばらく、ベンチに座ったまま二人とも動けなかった。
 五分後にようやく、三度目の「「いっせーのでっ」」で立ち上がった。脱衣所で着替えてから、とんぼ返りで戻ってくる。温泉に入った意味は、もうほとんど無くなっていた。
 今度は僕より先に暖簾の奥に七瀬が立っていた。その満面の笑みの理由は彼女の上半身を見て、すぐに察した。
「さぁ行こう。ブラザー」
 迂闊だった。売店にTシャツが一種類しかないのなら、七瀬とお揃いになることくらいは容易に予想できたはずだ。ただ、予想したとしてこれしか無かったのだから、運命を恨むしかなかった。
 幸いにもサイズが僕には少し小さく、七瀬には大きめだったから、別のものに見ようと思えば見える。うん。見えるはずだ。そう自分に言い聞かせた。
 その後、旅館を出たのは、UFOキャッチャーも一通り楽しんでからだった。
「修学旅行ではさ、卓球とかUFOキャッチャーとかは禁止だし、こうして存分に遊びたかったんだよ!」
「まぁもう君が楽しめたなら、万事オッケーだよ」
「時間もあれだし仕方ないけど、カラオケやり残したのが悔い残るなぁ」
「まだ遊ぶ意欲があるのか……」
 ともあれ、時間はもう本当に差し迫っていた。陽の光が傾き始め、ほんのり辺りがオレンジに染まり始める。日の入りが迫る刻になり、いよいよ本当に真珠岬へ向かわなければならなくなった。