バイトも終わり、帰路についた。
家から自転車で二十分。スーパーの品出しバイト。僕はそれを何か得るためではなく、むしろただ時間を消費するために続けている。
今日もまた信号でスマホを見て、午後十時を周ったのを確認し、就労の対価を実感する。
そして、その時間潰しが必要となる要因と、今、丁度よく対面した。正体は僕の実家だ。
すると突然、明かりが灯らなければ人が住んでいるとは思えないようなその玄関が煌々と光った。僕は反射的に帰路を引き返した。
家の扉が閉まる音がしたから、慌てて路地に入り、目を瞑り、耳を塞ぐ。しかし、記憶は瞼を抉り、鼓膜を破って這い出してきた。
母さんが居なくなって数ヶ月くらいの、僕が小学生の低学年の頃。今よりずっと綺麗だった家の玄関を開けると、女性物の服を着た人物が目に入った。すぐに母さんだと勘違いした僕は「母さん!」と叫んで、さぞ嬉しそうな顔でその女性の顔を見上げたことだろう。
「誰が母さんだ。馬鹿かクソガキ」
でも、僕の笑顔を受け止めたのは、心底不快そうな顔で僕を見下ろす見知らぬ女だった。
女は僕を押し退けてすぐ居なくなったけれど、僕はその女の表情、いや、その残酷な一瞬に五感で感じた全てを未だ覚えていた……。
気づくと僕は膝をついて息を切らしていた。自転車を支えに立ち上がると、靴に鉛を詰め込まれたかのように足が重かった。家に帰りたくないからだ。と思って、頭を振った。
今のことは忘れよう。この足の重さは今日の疲労が積み重なったからだ。そう思わなければ、僕はこの家で暮らしていけない。
静かに玄関から家の中へと入る。視線を向けずに階段へと意識を集中させる。二階の部屋には、もう十年近くも息を殺して引きこもっている父親が居る。そして僕は一階で、父や世界から息を殺して暮らしてきた。そう考えると、この家にはやっぱり誰も住んでいないし、生きてもいないのかもしれない。
思うと体の中心がズンと重くなる。僕はまた自分に言い聞かせた。これは今日の疲労のせいで、明日は少なくとも旅行委員の活動はないのだから、とにかくこの悪運の連鎖は一旦落ち着いてくれるはずなんだ。と、そう思い込んで明日を迎えた僕は、結論、甘かった。
翌日、登校早々に職員室へと駆けた。握りしめるのは文理選択の用紙。昨日の鬱憤を晴らすための、せめてもの反抗として、昨日の今日で、速攻で提出してやる。それが何の抗いになるかは知らないけれど、人はよく自分の人生を下手に犠牲にすることを社会への反抗とする。ならば僕のこの行為だって——
「念押して言っただろうが。ここに捺印がいるんだよ。親御さんと話し合った上でのな」
奥山は、ぶっきらぼうに言って用紙を突き返してきた。おまけに親の話まで付け加えた。
「忙しいんです」僕も少し感情的になる。
「お前、部活やってないだろ。バイトは禁止してるし、他に何があるってんだ」
「旅行委員です」嫌味のように言ってやる。
「週一回だけだろうが」けれど奥山はそう言い、呆れたように笑って僕をあしらった。
すると奥山は、これでこの話は終わりだと言うように「あぁ、それと」と枕詞を付けて「今年の十二月十七日。修学旅行の前日は予定を空けておけ」と脈絡のないことを言った。
怒りをあやふやにされて、さらに苛ついたけれど、周りには他の生徒も居る。これ以上は冷静に。悪目立ちすることの方が不本意だ。
だけれどそう思って振り返った時、僕は頭を何かにぶつけた。額を抑えながら薄く目を開けると、同じ体勢をした七瀬がいた。
「お前っ!!」
奥山がそう叫びながら僕の胸ぐらを掴み「気をつけろよ!」と、充血した目を大きく見開く。そうされるだけの理由がわからずに、僕が困惑していると、
「先生、やめて下さい!」と、七瀬が奥山の腕を抑えた。それで僕は解放された。
尻餅をついた僕の頭上、奥山が七瀬に言う。
「小春、お前も気をつけろ。旅行委員のことだってそうだ。お前には負担になる——」
その言葉を聞いて、僕は頭が重くなって、自然に顔を伏せた。そして頭上に居る自分の担任のことを心底、軽蔑し、同級生の少女のことを心底、嫌悪した。
「やっぱ、ヒロインなんだな……」
勝手に言葉が漏れた。そして一度漏れ出すと、抑え切ることができずに決壊した。
「ふざけんな。旅行委員なんて、辞めてやる」
けれど色々な感情が渦巻いて、結局そんな幼稚に聞こえる言葉だけ呟いて、僕は職員室から走り去る。二人や、その他の一部始終に気づいていた奴らはどんな顔をしているだろうか。考えるだけ無駄で、考えるだけ後悔した。そして、そんな状態は放課後まで続いた。
終礼の後、僕はすぐに教室を抜け出した。奥山に呼び止められても無視をしようと思っていたけれど、心配は杞憂に終わった。ただ、国道に出て信号待ちをしている時に、奥山より呼び止められたくない、かつ呼び止められるとも思わなかった人物に肩を叩かれた。
「はぁ、はぁ、やっと追いついたよ」
七瀬だった。彼女は前傾して息を切らしながら、自転車に乗る僕の肩に手を置いている。
僕は肩に若干の重みを感じていて、それもあってだろう。振り返った僕の顔を見るなり彼女は「あ、やっぱりその顔は、私に話しかけてくるなってことなんだね」と言った。
「やっぱりその顔?」
「今日一日中、その顔しながら私のこと見てくるからさぁ。垣間見!? 恋の視線か!? と思ったけど、そんな風にも見えないなって」
また昨日の妙なテンション。その上で、必死に引き止めて話すのがそんなことかと呆れて「あっそ」とだけ返して信号を渡ろうとすると、今度は後ろの荷台を引っ張られた。
シンプルに面倒だと思って「バイトに遅れるんだよ!」と言ってからマズイと気づく。
「へぇ〜。禁止されてるのに?」と、わざとらしく、訝むような表情をする七瀬。でも僕が何も言い返さずに睨んでいると「私、言いふらしたりしないよ!」と勝手に慌てていた。
「チクらないなら好都合だ。なら僕は行くよ」
「だから、ちょっと待って!」
もう一度引き止められて、僕はもう本当に、全身から嫌悪が滲み出るように振り向いた。
「今日のこと、謝りたいんだよ」
だけれど、そうして目にした彼女は至って真剣にそう言った。そこには一転、ふざけた様子はなくて、ましてや本当に申し訳ないというような表情をしていた。本心はわからないけど、でも、少なくとも苛ついている僕がそう感じて足を止めたのだからよっぽどだ。
「朝のこと。本当、吉良くんは悪くないのに」
「それを言うなら悪いのは奥山だろ。君の容姿がいいからって私情で掴み掛かるとか……」
七瀬の態度の変化に調子を崩され、なぜか僕が庇うような事を言っている。だけれど、言ってまずかったことは他に明確にあった。
「何でいきなり褒めてくれてるの!? まさかヒロインってのもそこから? あぁなるほどね。まぁ可愛いってのは否定しないけど!!」
言って、七瀬は少し顔を赤らめて、ウフフと肩にかかるくらいの髪の毛先をいじる。
余計な事を口走ったせいで話が変に捻れた。
「僕の個人的な趣向の話じゃない! 君には人気がある。だけど先生までってのはどうかと思うって事を言ってるんだよ。俗っぽく言うなら、依怙贔屓だ。それも度が過ぎてる」
取り繕うというか、とにかく話を元に戻す。すると七瀬は今度、表情に憂いを滲ませる。
「依怙贔屓か。でも、あれを贔屓と呼ぶなら、伝説の亀さんもやっぱり救われないね」
その神妙な表情で、七瀬は突拍子もないことを言う。思わず僕は「亀?」と聞き返した。
「贔屓の語源は、中国の亀みたいな伝説上の生き物なの。九頭の龍の兄弟の中の出来損ないで、重いものを背負うことしかできずに、本人は贔屓にされなかったっていう悲しい話」
僕は一瞬、訝しみながらも、意外と博識だなと思った自分に気づく。態度の変化といい彼女には掴み所がない。それゆえペースを崩される。気持ちを入れ替え、また話を戻した。
「とにかく君は贔屓じゃないと言ってるんだとして、じゃあ今日の奥山は何だったのさ」
七瀬は僕の問いに露骨に少し困った表情をして、言葉を探してから、口を開いた。
「まぁ私、ちょっと前に悪さしちゃって、それで先生も私に敏感になってるだけで……」
嘘だとすぐにわかった。ならやはり二人の間には何かあるのだろう。と、そう思うと途端、改めてこの会話が不毛であると気づく。
別に僕は謝られたいわけではないし、むしろここで喧嘩別れをするくらいがいいのだ。
つまり僕はもう金輪際、今回のようなことがないよう、旅行委員を丁重にお断り——
「だから、やっぱり一緒に旅行委員やろうよ」
「は?」
ここまでの会話の流れで七瀬が今、そう僕に声をかけられる理由も神経もわからない。だけれど、七瀬は僕をまっすぐ見つめて言う。
「今日は改めてごめん。もう吉良くんにあんな思いはさせないって約束する。だから私ともう一度、旅行委員をやってくれないかな?」
わけがわからない。僕への罪悪感からそう言ったのなら大きなお世話だ。僕は旅行委員なんて端からやりたくない。いいや、そもそも彼女は根本から勘違いをしているのだろう。
「君は何でそこまで旅行委員にこだわるの? 別に皆もいざ出かければどこだって楽しむだろうし、旅行委員だって奥山の反対を押し切ってまで君が立候補する必要はなかった」
これは彼女にとって酷な言葉になる可能性もあったけれど、前提を確認しないと、履き違えたままでは永遠に話が噛み合わない。
だけれど、七瀬は顔色一つ変えずに言った。
「私は、本当に旅行委員をやりたいってだけ。それも吉良くんと一緒に」
彼女の目には嘘はない様に見えた。これも『見えた』というニュアンスで、僕の主観でしかない。でも、だからこそ彼女はただ素直なだけの人間なのかもしれないと、僕自身が一瞬でもそう思ってしまったことに驚いた。
「もし、嫌だって言ったら?」
「……バ、バイトのことチクるかもね……」
「さっきはチクらないと言ったのに?」
「……とにかく来週の水曜日、待ってるから」
信号が青に変わった時、七瀬はそう言い残すと、逃げるように信号を走って渡り始めた。
立ち去る七瀬に文句がないわけはないけれど、引き止めて会話を続けても無駄足だろう。
本当に一体、七瀬は何を考えているのか。最後には、不慣れなのを隠しきれぬまま、脅すようなことまで言っていたし——。
いや、考えても仕方がない。水曜日に委員へ参加する。それしか僕に選択肢はない。
虎穴に入らずんば虎子を得ずだ。委員で活動する中で、七瀬がついた奥山との関係を曖昧にするための嘘。その真相を暴き、それを渡り合える武器にするしかない。
スマホで時間を確認する。午後五時を少し過ぎていた。バイトまでもう時間がない。
ペダルを踏み込む。少しの辛抱だと自分を慰めると同時に、自分を鼓舞した。
七瀬の嘘を見抜くための初めの一歩は、思うよりも早く、それも向こうから訪れた。
「あの、ライターってどこっすか」
なんとか間に合ったバイトの最中、かけられた声に聞き覚えがあった。振り返って北島の姿を見ると納得した。向こうも、顔を見て初めて相手が僕であると気づいたらしい。
「なっ。お前、なんでバイトやってんだよ」
「君だって、高校生にライターが必要?」
北島はあからさまに面倒そうな顔をして金髪頭を掻きながら言う。
「ちげぇ。旅行委員はどうしたってことだよ」
「委員は水曜日だけだから」
そう返すと、北島は「そうかよ」とだけ言った。言って、なぜか無言で僕を見つめてくる。鋭い目つきに殺意に近い気迫を感じた。
彼は十秒くらい経って、唐突にこう言った。
「お前、ノートのこと知ってんのかよ」
「ノート? ひ、人を殺すノートとか……?」
威圧のせいで確かに僕は変なことを言った。でも、眉を顰める北島こそ、先に『ノート』なんて脈絡もないことを言ったはずだ。
「とにかくお前、小春をどう思ってんだよ」
でも、彼はお構いなしに続けてそう言った。その言葉こそ、そっくりそのまま返したい。
北島は七瀬の幼馴染。でも、にしても異常に七瀬に過干渉なきらいがある。七瀬に興味を持って近づいた男子が数人、告白するより先に北島によって失恋させられた話は有名。でも彼自身は七瀬と交際関係にないという。
別に僕は七瀬と北島がどうなろうが知ったことではないけれど、僕が旅行委員に任命されてからというもの、教室での彼からの鋭い視線には悩まされていた。だから、本当ならそのことについての文句のつもりで——
「北島こそ、どう思ってんの」
と、そう聞きたかったけれど、この言葉の真意は別にある。
昨日、七瀬の委員の立候補に反対をしたのは奥山と北島の二人。その理由が彼らに共通しているのかを探るため、そう言ったのだ。
北島は訝しみながらも答えた。
「あいつは危なっかしいんだよ。だから俺が見ててやんねぇといけねぇんだ」
質問とずれた回答が返ってきた。何かを濁そうとしたことがわかる。だから僕は続けて、彼を挑発する言葉をあえて選んで言った。
「じゃあ、奥山と一緒ってことか」
「一緒じゃねぇよ!」
北島の返答に明確に力が入った。そこに個人的な思い入れがあることを証明していた。とすれば、彼に関しては、むしろ大部分が自身の恋愛感情によるものだと思われた。
「とにかく、もしあいつに何かあった時、俺はお前を許さねぇからな」
そしてそう思うと、最後にそれを捨て台詞にして帰っていく北島はどこか幼く見えた。
同時に、七瀬がついた嘘を暴くには、奥山に注目して探ればいいのだと確信できた。
水曜日を迎えた。この数日間で、僕は着々と七瀬の嘘を暴く準備を整えている……はずだった。実際は真逆。超絶に難航していた。
もはや事件が起きていた。『七瀬の暴挙』としか言いようがないそれは、彼女が僕との関係を捏造して触れ回っていることである。
詳しく言えば、彼女は教室で「吉良くんは親友だよ」「面白い人だよ」などと虚偽の発言を繰り返していた。また僕がその事実を知ったのは、計三名のクラスメイトから「本当に仲良いの?」と質問されたからで、つまりは周囲の人間にまで確実に影響が及んでいた。
七瀬は嘘をつくのが苦手だろうと睨んだ僕だけれど、その説が早くも破綻しかけている。でも、ならば尚更、早く手を打つべきだ。
それに逆に考えれば、彼女にこそ大きく動くだけの理由があったのだ。ならその理由を問えれば、ボロを出すかもしれない。
そう確信して意気込み、僕は放課後、教室に七瀬と二人だけになるのを待っていた。
が、しかし横っ面から思わぬ奇襲を受ける。
「ちょっと、話をさせて」
突然そう言ってきたのは、クラスメイトの朝井。七瀬と特に仲が良い女子だ。
女子にしては髪が短く、その前髪から覗く強気な目つきは、少なからず僕を緊張させる。
「とにかく、ちょっとこっちに来て」
なぜかため息混じりにそう言って先を歩く朝井。迷惑を被っているのは僕だけれど、七瀬のことで呼び出されたのなら無視は危険だ。
廊下を進み、人気のない空き教室の前にたどり着く。すると朝井は振り返り、言った。
「私、朝井ね」
ぶっきらぼうな自己紹介。確かに僕らは初めて言葉を交わす。またそこに愛想がないのは、彼女も緊張している証拠かもしれない。
「単刀直入に聞くけど、あんた、小春と本当に仲良いの?」
でも、そんな彼女の太刀筋、いや言葉は予想していた通りで、返答も用意してあった。
「ただ、一緒に旅行委員を務める仲だよ」
先の三人から学んだ。面白みのない返答をして興味を失わせれば、彼らはすぐに去っていく……はずだったのだが。
「それだけじゃないでしょ。それだけで小春が男友達の話をあんなにオープンにしないわ」
朝井が一歩間合いを詰めてくる。その形相を見て、彼女は興味だけで質問してきた他の人達とは違うのだと気づいた。
だけれど、そうであるのなら、僕こそ何も言えないし、こうしか言えなくなるわけで。
「でも考えてもみてよ。君も多少は普段の僕がどんな生徒かは知っているだろ。ならそんな僕と彼女が突発的に仲良くなると思う?」
「思わない。だから余計に心配してるのよ」
遠慮なくものを言う朝井だが、それは親友として七瀬を想っているからなのだろう。
「小春はいい子だけど、自主的に人の前に立とうとする子ではなかった。だから、なんか最近の小春は色々と変に思えて……」
寒い時にそうするように腕を組み、廊下の隅を見て朝井はそう言った。
朝井の発言により、僕にも七瀬の謎がより濃く、深く思えてくる。とすれば、本当に巻き込まれているだけの僕は現時点で朝井に返す言葉がないし、であれば朝井もこれ以上、僕に聞けることもなかった。
言葉が途切れ、無言の空間で聞く蝉の声に居心地が悪くなってくると、朝井が言った。
「まぁ、わかった。なんていうか失礼なこと言ってたらごめん」
今の言葉もそうだが、彼女は強引だけれど悪い子ではない。友達想いなだけなのだろう。
「いいや、別に大丈夫だよ」
朝井を見て思う。僕は七瀬のことが苦手だった。人当たりが良く、誰とでも無条件に仲良くなる。そんな僕とは正反対な生態を持つ彼女に、勝手に疑問と嫌悪感を抱いていた。
でも、こうして大切に思ってくれる友達がいるという点においては、七瀬にも朝井にもそれぞれ尊敬できるところがあった。
「とにかく仲良くするのなら、きっちり仲良くしてあげてね」
だから、最後にこう言い残して去って行った朝井の気持ちも、今は理解も尊敬もできる。けど、僕がその言葉に従うかはまた別の話だ。
しかし教室へ戻ってくると、七瀬を含めて誰もいなかった。気負っていた分、少し動揺して、改めて今日が水曜であることと、七瀬の机にまだ鞄が掛かっていることを確認した。
教室に居ないだけなのだろう。それがわかると、机の側面を覗き込んでいる体勢から、机に手をついて立ち上がる。するとその時、机の上にあった何かを振り落としてしまった。
それは一冊のノートだった。拾い上げようとして、ふと先日の北島の言葉を思い出した。
『お前、ノートのこと知ってんのかよ』
躊躇したけれど、彼が言うノートがこれかどうかはわからないし、拾い上げただけで何かしらの関わりを持つとも思えない。
だけれど直後、拾う過程でページが捲れて、結局、僕は中身まで覗くことになった。
ノートには小説が書かれていた。B5サイズのノートの全ページがびっしり文字で埋まり、さらには紙が継ぎ足されさえしていた。
とにかく元通りにしようするも、些細なことでページが捲れてしまい、結局また僕は偶然に、小説の一ページ目まで目にしてしまう。
『これは私の、最初で最後の恋愛小説』
おそらくそれがタイトルで、隣から本文が続いていた。書き初めが第二章からなのは不思議に思ったけれど、続きは読まずに閉じた。
これほど熱意の込もったものを許可もなしに読むことも、勝手な感想を抱くことも低俗な行為に思えた。だけれどそう思うや否や、僕のそんな感情は一瞬で無碍にされた。
視界の端、入り口の扉の影で何かが動いた。目を向けると、ヒョコッと頭が飛び出している。正体はニンマリと笑った七瀬だった。
「あぁぁ? そのノート勝手に見たの!?」
言って駆けてきた七瀬は僕から小説をひったくり、目線を上に逸らしながら嘯いた。
「あーあ。勝手に見られて私は大変怒っております。でもバイトのことは黙っててあげようと思います。するとあれ、吉良くんは一つ、私に借りを作ったことになりませんか?」
七瀬は、悪戯に、にへらと笑って見せる。
「なっ! わざとここに置いておいたな!」
「でも、中身を見たのは吉良くんじゃん」
僕が何も反論できずにいると、七瀬はにっこり笑って続けて言った。
「この借りは、旅行委員への参加。ウリボー? じゃなくて、リボ払いでお願い」
「それ、何日で返し切れるのさ……」
「どうだろうねぇ。ながぁ〜いお付き合いにはなると思うよ」
七瀬が『ウシシ』と、変な声で笑った。
「君はとんだペテン師だったんだね」
「え、ペテン師? ゾロリとか?」
ゾロリは怪傑だけれど、彼女を形容するにはどちらでも良い。とにかく、もうここまでやられると怒るというよりも呆れてきた。
「まぁでも、吉良くんと話す時間は、確かに盗みたいくらい欲しかったかな」
これからが本題だというように、七瀬が声色を真剣なものに変えて言った。
「吉良くんは今日、委員のためじゃなく、むしろ辞めようと思って教室に残ったでしょ?」
「だから君は、小説という罠を仕掛けた?」
「罠って、わなっはっは。本当に私が悪者みたいな言い方だね」
「日本では嘘をつくだけでも泥棒に片足を踏み入れることになるからね」
「なら子細ないね。だって私、吉良くんに嘘ついたことは一度もないもん」
七瀬はそう、さらっと言ってのける。
「嘘をついてないなら、例えば、君が僕と仲良しだって言いふらしてるのは?」
「それも嘘じゃないよ」
「僕が否定すれば、必然的に嘘になるけどね」
「今においてはそうかもね。でも、未来では違ったら、一概に嘘とも言い切れない」
「無茶苦茶だよ」
「それは今の吉良くんの意見だからねぇ」
とぼけるように言う七瀬はこれまで以上に掴み所がなくて、タチが悪い。
「君は一体、何を望んでるんだよ」
「だからぁ、仲良くなりたいだけだって」
「だから、それが何で!」
痺れを切らした僕が強めの口調でそう言うと、七瀬はぎこちない笑顔を浮かべて言った。
「じゃあ吉良くんこそ、委員をやりたくない理由は? 言えないなら、私も言えないなぁ」
直前の表情からも、僕へのキラーフレーズになると確信して七瀬はそう言ったのだろう。
そして確かにその一言は僕に効いた。反論も見つからず、結果、黙り込むしかなかった。
すると「くくくっ」と、小さな笑いが聞こえ始める。顔を上げて七瀬を見ると、彼女は目を細め、歯の隙間から笑いを漏らしていた。
「吉良くんは、本当に真面目なんだね」
またしても七瀬の予想外の言葉に「真面目?」と、僕は問い返す。
「吉良くんは何にでも理屈や、筋を通さないとダメだと思ってるんでしょ? 委員が嫌なら、ここに来ないのが一番手っ取り早いのに」
「そんなこと、君が許さないじゃないか。バイトの告げ口を振り翳して止めてくるだろ」
「関係ないよ。だって吉良くんは、私が今、何があっても絶対バイトを告げ口しないと約束しても、すぐに委員を辞めないよね?」
「……君は一体、何が言いたいの」
僕は要領を得ない会話にたまらず言った。すると、七瀬は少しの間を空けて言う。
「やっぱり吉良くんは……んだ」
うまく聞き取れなかった。それは僕の傾聴力の問題ではなく、彼女が意図的に濁して言ったように思えた。でも直後、七瀬は僕が「え?」と、聞き返すのに重ねてこう言った。
「わかった。じゃあ、これは勝負にしようよ」
また脈絡のない言葉。話を逸らすのもいい加減にしろと言いそうになるも、七瀬が唐突に背を向けたことで、そのタイミングを失う。
「吉良くんは委員を辞めるために理屈が必要。ならその理屈を私が作ってあげる。そうだね、お互いの秘密を先に暴けた方の勝ちってことにしよう。そして負けた方は勝った方の言うことを何でも聞くの。例えそれが委員の辞退であっても勝負は絶対」
七瀬はここで一息挟んでから、また続ける。
「吉良くんが暴く秘密は、『私が吉良くんと委員を一緒にやりたい理由』ね。逆に私が暴くのは『吉良くんが私と委員をやりたくない理由』。タイミングではいつでもいい。先に答えがわかった方から回答し、正解したら勝利する。ただし回答権は一人一回だけ」
七瀬がこちらに向き直る。手にはなぜかさっきのノートが開かれていた。そして、そのノートを閉じると、こう言った。
「さぁどうする? 吉良くんにとっても悪い勝負じゃないと思うけど?」
七瀬は首を傾け、僕の返答を待っている。
僕の理屈だとか、そのための勝負だとか、その勝負をなぜ七瀬から提案するのだとか、今日の七瀬の言動は一段と不可解だ。
だけれど僕は今、七瀬が意味深に小説を開いていた姿を見て、ふと思ったことがあった。
それは以前や普段には決して見せたことのない、僕だけに対しての七瀬の姑息で乱暴な行動であったり、一方で、そんな行動の中で不意に、彼女の表情や仕草に躊躇いのような色が見える、その妙な乖離についての推察だ。
そう。例えば、彼女の行動はその小説をなぞった行為であり、セリフを抜粋することもあるのだとすれば、彼女が時に発言に迷いを見せながらも、しかし強気なセリフを言うことに筋が通るのではないだろうか……と。
この推察が正しいなら、そこに彼女の隙を探せる。確かな糸口の発見と言えるだろう。
顔を上げ、七瀬を見る。七瀬が小説をギュッと握り直したのを見て、僕は言った。
「この勝負、回答の正誤が相手に依存する。誠実さが勝負を成立させるのは理解してる?」
「もちろん。ズルは厳禁。勝負は絶対だよ」
そう言う七瀬をよく観察した。彼女と目が合う。その瞳の奥に、嘘は見えなかった。
「いいよ。その勝負、乗った」
そう言うと、七瀬は少し顔を綻ばせた。
「よし。じゃあ指切りしよう」
続けて七瀬は、おもむろに僕の手を取って小指を結び、そのまま物騒な歌詞を一人で歌い上げた。僕は人の手の感触を久しぶりに感じ、同時に小指の軟さにヒヤヒヤした。
「これで、約束破りは泥棒認定だけじゃなく罰せられるようになったからね。指切りに、針も千本飲んで貰って、あと一万回殴るし」
「最後に君の随分泥臭い私欲が入ってるけど」
「ふふふ。案外これ皆知らないんだよね。この歌の『げんまん』は『拳万』って書くの。つまり一万回殴るって意味なんだよ」
七瀬は得意げに言った。この前の贔屓の亀の話といい、彼女は微妙な知識に聡いらしい。
「さらに、この歌には続きもあるんだよ」
七瀬は胸を張って続けて言おうとしていたけど、でも途中でスッと表情を落ち着かせた。
「あは。続き、忘れちゃった」
なんだそれ。と思ったけど、特段気になってもいなかったから声には出さなかった。ただ、七瀬は慌てて取り繕うようにこう言った。
「とにかく、そうと決まれば、やることはまず委員。勝負の行方は知れないけれど、決着がつくまでは吉良くんも参加必須だからね」
僕も話は早い方が良かった。勝負に勝って、正式に旅行委員を辞める。そのために一時だけ委員の仕事をすることくらい割り切れた。
かくして僕らは、ようやく委員の仕事始めを迎えた。話し合いは、勝負という言わば僕達においてのルールができたことで、お互いに割り切ることができ、スムーズに進んだ。
今後の諸々の確認と、直近の課題設定が終わった辺りで、また七瀬のアラームが鳴った。音に合わせるように七瀬が『帰ろっか』と言ったから、それで今日はお開きとなった。
七瀬と解散しバイトも終えてから帰宅すると、時刻は二十三時を回っていた。あの日以来、家に見知らぬ人の気配を感じることはない。今日も玄関で神経を研ぎ澄まし、違和感がないことを確認してから靴を脱いだ。
父親は普段、この時間には大概、眠っている。僕が家にいる間は努めて眠っているのだ。
物音がしないよう気をつけながら、リビングにたどり着き、鞄からバイトの制服を取り出す。すると、同時に二枚の紙を掴み出してしまった。一枚は、旅行委員が直近で決めるべき事項についての用紙だった。
改めて今日のことが思い出される。振り回される形であったことは否定できないけれど、勝負に関しては、やはり悪くない提案だと思えた。しかし、そうであれば勝負の規約上、旅行委員には最低限、参加すべきだ。
目についた手前、旅行委員の最大の議題である『最終日においての我が校からの出し物』のアイデアについて考えてみる。けれど奥山が補足した『誰もが楽しめるモノ』という不必要な書き足しによって、考える気が失せた。
次にもう一枚の紙を見ると『文理選択』と書かれており、その存在を忘れていたことに気づいた。同時に奥山の言葉を思い出し、意識が勝手に上階へと向くも、すぐに頭を振る。
僕は迷わず印鑑を押した。期限は、明日の放課後までとなっていて、丁度良いと思った。
明日から期末テストの一週間前となり、短縮授業が始まるのだ。僕は構わずバイトに行くけれど、丁度、明日だけシフトに入れなかった。その分、学校で時間を潰すつもりで居たから、用事が一つ増えるのは好都合だった。
ただ奥山と長く会話をするつもりはない。そう思うと少し心配になって、念の為に父親からのコメントを偽造し、添えてみた。
適当な筆跡で書いた偽の父の字を見ると、ふと小学校の音読の宿題に必要だった親のサインも、何度か偽造したことを思い出す。
すると僕は不覚にも、音読から連想して古い記憶を呼び起こしてしまった。母親と思しき人物が浮かび上がると、僕が寝室で読み聞かせをされている情景が映し出された。
その情景と同じように、しかし違う発作にて、僕は意識が朦朧とした。
そして、気づいた時には朝を迎えていた。
放課後。奥山に文理選択希望書を渡すと、前回とは違い、案外すんなりと受け取られた。
「澄人は文系で頑張りますってことだな?」
ただ面倒なことを言うのはいつもと変わらないようで、何にしても頑張る予定はない僕は「まぁはい」と、それだけ答えた。
「あと、委員のことだが、変わったことは?」
「変わったこと?」
「なんか問題があるとか、あとは、まぁ、小春とは仲良くやってるのかとか」
また七瀬の話かと思ったけれど、今の文脈なら不自然でもないから過剰反応だった。それに委員を辞めるために僕が暴くのは、もう奥山と七瀬の間にある謎ではなく、七瀬が僕と仲良くなりたいという理由なのだから——、
「特に問題ないですけど、じゃあ逆に先生はどうなんですか?」
だけれど、僕はなぜか奥山に探りを入れるようなことを言っていた。無意識だった。
「そりゃ俺はクラスの皆と仲良くしたいよ。誰かさんとは違ってな」
僕の問いに、奥山はそう、僕の追求を躱すように答え、何より彼は今、鼻の頭を掻いた。
不審に思えた。けれど奥山の言った余計な言葉を、僕の方がひどく意識してしまったから、僕はそこから逃げるように立ち去った。
奥山の声は変に五月蝿いから、余韻も長く残る。それもあって、僕は自然と静寂を求めて図書室へと向かった。でも、その途中に僕はまた別の『五月蝿い』に襲われてしまう。
「頼もー!! ところで吉良くん。あなたは、よく夢を見ますか?」
「は?」正体は七瀬。そして第一声がそれ。
「だから、よく夢を見るのかって聞いてる」
「聞かれてるのはわかってる」けど、意味がわからないんだよ。とにかくそう聞かれるだけの理由を考え、それっぽく答えてみる。
「将来の事を言ってるのなら、僕が文系を選んだ理由とは関係ないよ」
「違う違う。寝ている時に見る夢のこと。もう一度聞くね、吉良くんは夢をよく見る?」
七瀬が何を言いたいのかはさっぱりだけれど、彼女に抵抗することは無駄だと、経験上さすがに理解しているため適当に返答する。
「まぁ、ほぼ毎晩見るよ」
「あっ、やっぱり? でも毎晩見るって、吉良くんの頭の中は、案外メルヘンだったりして。綿菓子の雲とか、サイダーの泉とか、かわいいウサギとかも居る世界だったりしてね」
自分で言っておいて「ククク」と笑いを堪える七瀬には悪いけれど、僕が毎晩見るのは悪夢であり、彼女のイメージを土台にするなら、荒れ狂う空に、血みどろの池だろう。
ただウサギに関しては近からずも遠からずといったところで、僕の見る悪夢には、いつぞやのウサギの髪飾りが登場したりする。
まぁ、そんなことを七瀬に伝える必要もない。早く話を進め、あわよくば終わらせたい。
「結局、夢を見るからなんなの」
「いやね、夢をよく見る人、鮮明にイメージできる人には文系が多いんだって」
信憑性の薄い話だなと思う僕に対し、七瀬はイキイキとした様子で続ける。
「とにかく、吉良くんはよく夢を見るってことだから、ズバリ文系にした?」
「確かに文系に丸をしたのはしたけど……」
「やっぴ!」
七瀬は自分の推理が的中したことに喜んで「真実はいつも一つ!」と、言っていたけれど、どのみち文系か理系かの二択なら、そもそも真実は二つに一つだろうとは言わない。
「見事正解しました七瀬選手ぅ〜!!」
隣で喜ぶ七瀬を見ていると、そんな暇はないのに、なんだか苛ついてきて言ってしまう。
「当てたのは事実だけど、ソースは何なの?」
「……デミグラス?」
「そのソースじゃなくって、ようはエビデンス。根拠とか情報源だよ」
「エビ? シーフード?」
「あのさ、君わざと言ってるよね」
「もう! だって、どこかで聞いたことあるってだけなんだもん。だけど吉良くんは当てたんだから、的中率はヒャクパーでしょ!」
「それって僕の一回分のデータだろ。じゃあ、せめて君自身は? 整合性あるんだろうね」
「文系にしたよ。そんで、もちろん私は夢見る少女だよ。名前だって七瀬だし!」
「その夢だと意味が変わってくるし、七瀬で掛けると、君は夢見る少女じゃいられないよ」
そう言うと、返答が唐突に笑い声になった。
「今日の吉良くん、なんかキレキレだ」
言って、一人で吹き出している七瀬。
捲し立てるように話していたのは僕のはずなのに、最後に盤ごとひっくり返された。
茶化されるようでさらに苛つくけど、ムキになっているように見えるから何も言わない。
けれど忘れていた。相手が黙り込めば飄々と暴論をねじ込むのが、七瀬小春だった……。
「こんなに冴えた吉良くんを野放しにしてはおけない。なら今日、委員を発動しようかな」
「委員の発動……?」
「来週の水曜はテスト期間中で旅行委員もお休み。だから、その振替を今日にしよう!」
「そんな無茶苦茶、付き合いきれるかよ!」
流石に我慢できず言って逃げ出そうとした。しかし僕の不意の行動にも七瀬は対応した。
「忘れてないよね? 勝負は委員あってこそ」
ずるい。結局、勝負でさえそんな風に使うのか。と、思うや否や七瀬は次にこう言った。
「じゃあ、三十分後に駅に集合ね」
「は!? 君はどこまで強引なんだ——」と、堪らず言った僕の声に、堂々と被せて、
「もちろん駅で集まることにも意味があるし、そして勝負は誠実さがないと成立しない」
七瀬は言い切ってドヤッと笑ってみせる。
それに、もう僕は何も言い返せなかった。
まんまと言い包められた僕は、今、最寄り駅の時計台の前に居る。辺りには田舎の駅ではあってもまばらには人がいて、それも近所に三流か四流くらいの大学のキャンパスがあるためか、カップルが多い。何が言いたいかというと、まぁとにかく居心地が悪かった。
「えー、制服ぅ〜?」
その時、そう声が聞こえたから振り返ると、口を横一文字に結んだ七瀬が居た。
「デートに制服って、大正時代なの?」
その一言で居心地が最悪になった。かといって逃げられないから、もどかしい。
「あいにく僕はデートの予定でここにきたわけじゃないんだ。人違いなんじゃない?」
「ったく、つれないなぁ。今日は初デートごっこをするんだよ。そういう設定なの」
「はぁ?」と、首を傾げる僕に、眉根を寄せる七瀬。でもパッと表情を明るく入れ替えた。
「じゃあじゃあ、私の私服はどう思う?」
そう言って、七瀬はその場でクルリと回る。
ポロシャツにロングスカート。アイテムだけ見れば普段の制服と特段違いはないのだけれど、確かに私服と言うくらいだから、彼女自ら自分の魅力を引き出すための衣服として、役割は果たされているのかもしれない。まぁ、そんなことを口に出しはしないし、そもそも、なぜ着替えて来たのか謎だ。何にせよ、聞いても仕方ないから、皮肉を言っておく。
「君の私服こそ、大正浪漫がなければ日本に存在してない代物だろうね」
「本当つれないね」
言って七瀬が頬を膨らませる。その様子からハリセンボンを想像した時、七瀬が突如、スッと手を鋭く伸ばして来て、針かと思った。
「でもここに来た時点で、もう釣られてはいることを忘れないように」
言いながら、七瀬が僕の小指を掴んだ。
「ほら。こうして釣り針だってつけちゃう!」
結局針だったらしい。と、呆れるや否や次の瞬間、七瀬はそのまま走り出した。
「ちょっ、まっ、痛い痛い! 痛いって!」
「ほらっ、引きちぎられたくないなら走って! 針千本飲まされたり、一万回殴られたくなかったら、走るしかないよ!」
「それはもうただの暴行でしかないよ! そんで、そもそも走ってどこに行くんだよ!」
割と僕はちゃんと小指が痛くて、離れないように走ることで精一杯。一方で七瀬は走りながら、心底楽しそうに笑って言った。
「この夏、一番泣ける映画を観に行こう!」
そうして気づいた時には、僕は電車に揺られていた。二人分の切符まで先に買っていた七瀬には、正直もう怒りも湧かなかった。
「今日の君は、いつも以上に賑やかだね」
「ありがとう。私の意気込みがわかるんだね」
嫌味のつもりで言ったけれど、彼女との会話が正当に成立しないのは承知している。そして、七瀬は相変わらずそのまま続けて言う。
「気合が入るのは、来週からテスト期間に突入するからさ。それまでに決まり事の一つや二つくらい決めとかないとと思って」
「まぁ確かに。でもそれならこの時間は何?」
「映画を見る。それも委員の活動の一部さ」
七瀬は爽やかに言って、サムズアップ。
「はぁ、そうなんだね……」
「吉良くんこそ、何か委員のことについて考えてることあるの?」
「「ある訳ないよね」」
ニュアンスは違えど、意図せず同じ言葉が重なった。不意だったから変に面白くて、僕は少し笑ってしまう。電車の中だから声を出してはいけないと思うと余計に笑えてきて、横目で見た七瀬も同じ様子だったから、なんだか無性に面白くて声を殺すのが大変だった。
ひとしきり笑って、微妙に悔しさを感じていると、七瀬が半ばまだ笑いながら言った。
「吉良くんのことだからそうだよね。そう。だから私が考えを練ってきたって話なんだよ」
ようやく息を落ち着かせ、七瀬は続けた。
「考えてきたのは最重要事項の、旅行先の阿古屋高校との合同文化祭の大トリに、私達からの出し物に何を企画するかってこと——」
大トリの出し物。大層に聞こえるけど、できることは合唱か劇。その程度。でもまぁ劇を選べば、批判が殺到するだろうけど——。
「私は今回、演劇をやろうと思います!」
「うん。って、えぇ?」
「うちの学校の文化祭は、毎年、各学年ごとに合計三クラスで演劇をするだけだから、一度は大勢の前でやってみたいじゃん」
「それは皆から確実に反対されるよ」
「私達が企画段階から作り込んでおけば、皆の負担は少ないし納得もしてくれるよ。脚本も私が書くし。ずばりロミオとジュリエット」
「それは……」
「ありきたりだと思ったね? でも安心して。もちろん、そこには私の意志を盛り込むよ」
「……意志?」
「私は原作みたいに二人を殺さない。死んじゃう恋愛小説は私、嫌いだから」
「えらく主観的だね。世間では泣ける恋愛小説の方が——」
「と・に・か・く! 吉良くんに他に案がないなら、ロミジュリがやりたい!」
もちろん僕に代案はないし、これほどの熱意に反撃できる自信もない。
「よし。じゃあ決定ね」
僕が黙っていると話が決まってしまった。不安は残るけれど、七瀬がクラスを説得するのなら不可能ではないかもしれないとも思う。
「さぁ映画館が見えてきたよ! つまり映画を観るのは、脚本のためということなのだ!」
それに、本人がどうにかなると確信しているようだから、もう言うことはなかった。
七瀬は車窓から、ただの田舎の商業施設をキラキラした目で眺めながら、
「楽しみだね!」と、子供のように言った。
そうして駅へ降り、また彼女の熱意やら興奮やらに振り回されていると、気づけば、かいた汗を補うために買ったドリンクにはポップコーンが付いていて、涼しい部屋に着いたと思ったらスクリーンを前に座っていた。
隣を見れば七瀬がチョコバーを齧っている。
「君、本当にそれが好きだね」
「うん。チョコは記憶力を高めるらしいし」
よく分からない返答だったけれど、丁度その時、照明が落ちたから僕も画面へと向いた。
「すっごい感動した!」
映画が終わって廊下に出ると、オリンピックのメダリストが汗を流しながらインタヴューを受ける時のような、そのくらいの清々しさで涙を流して、七瀬がそう言った。
「まぁ王道の恋愛ものって感じで良かったね」
「なんか若干の含みがある言い方だね。高尚な吉良くんにはチープな内容だったかな?」
「他意はないんだけど? もしかして僕には感想が求められてないのかな?」
僕がそう言うと、七瀬はケラケラと笑う。
「ごめんって。揶揄っただけ。でも、話を合わせようとしてくれるなんて珍しいじゃん。ちょっと上から目線なのが玉に瑕だけど」
「やっぱり、僕の口調に何か問題あるの?」
揶揄っているにせよ少ししつこいからそう言うと、また七瀬はククッと楽しそうに笑う。
「嘘だよ。ごめんって。むしろ議論は互いに物知り顔をしないと活発にはならないんだから、良い脚本を作るためというなら良い心がけだよ。さぁ気を取り直して存分に語らおう」
実際、僕も映画は本当に面白いと思った。もっと言うと、僕は諸事情あって小説を嫌っているけれど、他の媒体であればどんな物語でも割と何でも楽しめるタチだ。だからとにかく意見交換をすることに文句はなかった。
「私が良かったと思う所はね、人に優しくする時には、自分を認めてからってセリフだね。この物語を強調した、大事な言葉だった」
その七瀬の言葉に僕は、さすが物書きだなと思った。考察が鋭いなと素直に感心する。
「優しさって、受け手の感想や評価でしかなくて、一方で与える側からしても優しさの発端はエゴでしかない。つまり、お互いは基本的に一方通行。だから通じ合ってると思うのは、お互いの天秤が釣り合ってるからなんだ」
七瀬は「そして」と、さらに続けた。
「その天秤を持たずして、自分を削り、与えるばっかりな人なんて、そんなのとっても孤独に見える。偽善とは違うけれど、人に優しくするなら、自分にも利点を見つけて、そんな自分を素直に認めて許してあげないと。見失ったままじゃ、いつか壊れちゃうよ?」
やけに熱を入れて話すから、それだけ映画が面白かったのかと思ったけれど、熱が入りすぎて僕を睨むように見ながら語るのは、変に身構えてしまうからやめてほしい。
「なんか怒ってる?」
「うん。怒ってるよ。もし吉良くんがそんな孤独な人だったとしたならって考えて、じゃあなんで私が助けてあげられないんだろうって思うと苛ついてくる」
「もしそうだとして、君が僕を助ける義理はない。むしろ僕と君は勝負をしてるんだから」
「そこに勝負も義理も関係ない。だって私たちはもうそれだけじゃないでしょ?」
「僕たちに他にどんな関係があるんだよ」
僕がそう言うと、七瀬がポケットを弄り、チケット取り出してズイッと僕に突きつける。『友達以上、恋人未満』が今観た映画の題名。
伏線回収と言いたいのだろうか。とにかく映画に影響されているせいで、彼女の自由な会話がいつにも増して面倒臭い。
「はい。とにかく感情移入しすぎだよ。入り込みすぎて、現実に戻って来れなくなるよ」
「私はずっと前から物語に入り込んでるよ」
ふざけるわけでもなく、七瀬がそう言った。これはもう病気に近いのかもしれなかった。
言ってから僕が歩き出すと、七瀬が後を追って並んできた。そして七瀬が言う。
「っとまぁ、人生とか恋愛とかってのは難しいって話ですね。旦那ぁ」
結局、そんな締めくくり方でいいのかよ。と思いながらも、かといって熱くなられる方が厄介だから何も言わなかった。
でも七瀬が物語に対して本当に真剣であることは、僕がもう少し踏み込んだ意見を言ってみた時に知った。彼女が自前のメモ帳を取り出して書き込み始めたのを見て、劇への思いも案外、口だけではないのだとわかった。
意見が煮詰まった頃には、十分近く時間が経っていた。混雑はしていなかったけれど、映画館の待合で長居するのは非常識だったかもしれない。しかし、そんな思考と意見交換の時間を同時に断ち切ったのは、僕らの目前で派手に転んで見せた幼い男の子だった。
転けた男の子が伏せたまま泣くと、少し離れたところから母親が駆けてくるのが見えた。特に他人が介入する必要もないだろうと思った僕は、しかし七瀬が咄嗟に男の子へ駆け寄り、床から抱え起こしたのを見て驚いた。
七瀬は痛むところがないかと問いかけ、男の子が頭を打ったのだと言うと、七瀬は徐に男の子と自分の額を合わせ、こう歌った。
「痛いの痛いの半分こ〜」そしてそれから、
「おねぇちゃんも痛い痛い〜」と、七瀬は自分の頭を抑えた。
その妙な行動に男の子は泣き止みポカンとして、そうこうするうち母親が追いついた。
「今の……何?」
戻ってきた七瀬に、僕はそう訊ねる。
「痛いの飛んでけって歌の替え歌だよ」
「いや、わかるんだけどさ、意味は?」
「飛んでけっていうより、半分を貰ったってことにして目の前で痛がって見せた方が、あの子もなんか和らいだ気がするでしょ?」
「あぁ、意外と論理的な答えだね」
「まぁ、どうせ痛みは飛んでかないし、もちろん動機も偽善からだよ。あの子の思い出に私が残れば嬉しいと思うからね」
言って七瀬が先に歩きだす。優しいのだけれど、どこか言い回しが引っかかった。だけれどその違和感を尋ねる前に、目前で今度は彼女がよろけたから、咄嗟に僕が支えた。
「本当に半分、貰ったんじゃないの?」
「いや、長く座ったから足が痺れててさ」
しかし、そう言った七瀬の顔が少し青白く見える。けれどまぁ、照明のせいなのだろう。
「ちょっと、お花を摘みに行くね」
「う、うん……」
七瀬が一人で歩いて行く。今のは立ち眩みではないらしいけれど、それにしても彼女のさっきの行動と、直後の打って変わったような冷淡な物言いは少し妙だと感じた。
僕は待合の巨大スクリーンで映画の予告を見ながら七瀬を待つことにした。そして、七つ目くらいで、さっき見た映画のものが流れ始めた時、さすがに少し遅いと感じ始めた。
心配……まぁとにかく倒れられでもしていたら後味が悪いと思い、手洗いへと向かった。
けれど、たどり着く前に七瀬の姿を見つけた。ただ彼女が見知った人物と一緒に居たから、僕は反射的に物陰に隠れた。
七瀬と居たのは、赤いダッカールが目印の青葉と、他の二人は知らない人物だった。
「マジでめっちゃ可愛いじゃん!」
「え、ちょっと友達になろうよ!」
「おう、なら七瀬。今から一緒に遊ぼうぜ」
彼らを傍から見ていると、普段の七瀬のクラスでの印象が蘇る。本来、彼女は今のように賑やかな人々の中心で相槌を打ちながら、時に天然ボケであったり、古風で珍妙な物言いをしてみたりして場を和ませる。主張をせずとも、そこに存在がある。容姿に見合わぬ、丁度いいキャラであるのが七瀬だった。
つまり僕と居る時の彼女は特殊なのだ。より客観的な視点で見ながら改めてそう思った。
すると駅での待ち合わせの時と同じように、僕は居心地の悪さを強く感じ始めた。
「あっ! ごめんお待たせ! いやぁ実はそこでさ、青葉くんと会ってさ」
でも直後、七瀬は僕を見つけて駆けてきた。
そんな彼女に僕は本心から「青葉たちと遊んできなよ」と、良かれと思ってそう言った。
でも、七瀬はムッとして「針、つけたでしょ」と言い、また小指を雑に掴んでくる。
「なんだ彼氏持ちかよ!」
と、そう青葉の友達が項垂れると、七瀬が裏返した声で、「違うよ!」と返す。
すると青葉が「仲良いのマジなんだ! まぁ楽しんで!」と仲間を率いて帰って行った。
青葉は変わらずあっけらかんとしていたけど、お仲間は面白くなさそうな顔をしていた。
「彼氏だって。ほんと、困っちゃうね」
赤面しながら緊張した顔でそう僕に言う七瀬。そんな彼女がやはり僕はよくわからない。
だから僕は、ついに、その違和感をはっきりと言葉にしてしまった。
「君のその変な義理人情は何なの?」
「……どういう意味?」と、七瀬が僕に向く。
「誰もやりたがらない委員に立候補したのもそう。それで関わることになった僕と、仲良くしようと必要以上に意気込んでるのもそうだ。そういうの僕としては少し気持ち悪いな」
文末を上手く言葉にするのに困って、言い方がキツくなってしまった。それでも七瀬なら軽く謝ってから笑うのだろうと思っていた。
「どうして、そんな風に言うの?」
でも実際は違った。
「そっか……。吉良くんはやっぱり、そう思ってたんだね……」
七瀬は僕の小指を握っていた手をスッと引き、悲しげで当惑するような表情をした。そして目線を下げ、何も言わず先を歩き始める。
僕はまた、なぜ彼女が不機嫌になるのか分からなくて、コロコロと変わる彼女の気性に、本格的に嫌気が差してきた。でも、そんな宙ぶらりんなまま、それでも僕らは同じ電車に乗って同じ駅へと帰らないといけない。
帰りの車内は少し混んでいて、僕らは扉の端と端に立って、言葉を交わさぬままでいた。
初めは気まずかったけれど、次第に意識は七瀬から夜の闇に移った。けど、次が最寄り駅というところで、唐突に七瀬は口を開いた。
「私の小説、素敵だった?」
そう言う七瀬は、車窓の奥の闇を、どこか憂いを帯びた表情で見つめている。彼女の黒い瞳の中で、車内灯の光が揺れる。
意図が読めずに返答できないでいると、七瀬は徐に瞳の中に僕を映した。そこで一瞬、妙な間があって、それから七瀬はこう言った。
「吉良くんは好きな小説ある?」
また脈絡のない問い。けれど今度の問いは僕にとって非常に不都合なものだった。だから色々と思うことはあれど、押し黙っていた。
しかし当然、その間に七瀬は勝手に話した。
「私はね……夢十夜。それも第一夜のお話」
七瀬がまた一瞬、言い淀んだ気がする。でも、そこを気にできる余裕は今の僕にはない。
『好きな小説』もそうだけれど『夢十夜』こそ、僕が思い出したくない存在だったからだ。
ただ、そんな僕の都合も七瀬は知らない。
「夢十夜は夏目漱石のお話。高校の授業で触れるから大抵の人は知ってるだろうけど、私は弱冠、七歳にしてそれを初めて読んだの」
「へぇ」僕は聞くともなしに聞いていた。気分が落ち込んでいるのも災いしていた。
「……でもね、実は読んだってのはちょっと違って、読み聞かせてもらったの——」
そして、よりにもよって読み聞かせときたから、とうとう記憶は僕の抵抗を無視して、完全に意識の表面に這い出た。
母さんが僕の鼻の頭を撫でる。僕はこうされると寝つきがよかった。母さんは空いたもう片方の手で器用に小説を広げ、流暢な声で読み上げた。母さんは絵本や児童書に限らず、時に近代文学作品とも呼ばれるものも選んだ。
当時の僕は当然、それらの作品を理解できはせず、ただ母さんの声に微睡んでいただけ。
でも夢十夜だけは違った。理解したかという観点では怪しいものの、比較的、想像しやすく、その内容に子供ながらにも感動できた。
「ロマンチックかつ奇妙。でもやっぱり強かで美しい。百年絶えない愛よ。素敵でしょ」
当時、僕が抱いた感想を、もう少しましな表現で言語化するように七瀬が言った。
「二人は時にも死にも打ち勝った。決して愛する人を忘れなかったの」
同時、七瀬の言葉により、突きつけられた気がした。『決して愛する人を忘れなかった』そう聞こえた時、記憶の中の僕が微睡から目覚め、黒く塗り潰された母さんの顔を見た。
ここまで掘り起こされてしまえば、もうこの回想は行き着くところまで続いた。
授業参観。図画工作で絵を描く授業だった。授業の終盤に担任の女教師が一人一人の作品を発表していった。お題は『家族』だった。
僕の番が回ってくると、僕は絵を皆に見せることに抵抗した。女教師は「大丈夫だよ」と言った。何が大丈夫なのかわからなかった。
半ば強引にもぎ取られた僕の絵を、女教師は胸の高さで掲げた。皆の反応を受けて、女教師が「え?」と声を漏らした。そして自分でもその絵を確認して、顔を青くさせた。
僕の絵には三人の人物が描かれていた。でも一人の顔面だけ全く手をつけられていないまっさらの状態のまま。異様な絵であった。
すると隣の少女がこう言った。彼女の髪にはウサギの髪飾りがあった。
『澄人くんって、お母さん居ないの?』
過去の少女に現実を突きつけられ、今の僕が再び現実に押し出された。
急速に逆流してきた胃液をなんとか飲み込んだ。喉と頭が焼けるように痛んだ。
顔を上げる。目の前にいるのは、女教師でも少女でも母さんでもなく七瀬だった。
「さぁ、駅に着いたよ」
七瀬の声が聞こえると同時に、すぐ隣の扉が開いた。今だ朧げな意識のままホームに足を下ろすと、雑踏に紛れた。僕はそのまま、わざと人混みに潜り込んだ。
ただ無心に目の前の人間を次々に追い越した。とにかく、何からかはわからないけれど、逃げたくて仕方がなかった。ほったらかしにした七瀬に悪い気もしなかった。むしろ七瀬の声が聞きたくなくて、僕は耳を塞いでいた。けど七瀬も七瀬で追いかけては来なかった。
テスト前最後の委員会は、そうして妙な形で幕を閉じることとなった。
テスト期間中は、暇になると嫌な事を思い出すからと勉強に集中すれば随分と捗った。けれど悪目立ちもしたくないから、本番ではあえて平均点を少し超えるくらいを目指した。
結果も、全体的に予想通りの点数と言えた。
一方、旅行委員についての進展はない。あの日、駅で僕が勝手に消えたことについてもお咎め無し。どころか、以来、一度も会話していない。流石の七瀬もテストとなれば委員などに現を抜かす余裕はなかったのだろう。
と、そう思っていたけれど、赤点を取った補修対象者が発表された時、そこに七瀬の名があった。さらに彼女はほぼ全科目で赤点を取っていた。彼女にしては珍しいことだった。
何か理由はあるのだろうけれど、委員に熱量を向け、他人にまでそれを押し付けるような人間が、本分を容易におろそかにするのは、どうかと思った。
さらに補習の日程が告げられると、七瀬は一人、予定が合わないと申し出て、個別で受けることになった。余計に滑稽に思えた。
終礼が終わった。僕はテスト期間中も休みなく通ったバイト先へ、今日も向かう。
そうして廊下を歩いていると、後ろから七瀬に声をかけられた。あの日ぶりの会話だ。
「ごめん。来週の委員さ、補習で出られそうにないから、オフにしていいかな」
「来週から、もう夏休みのはずだけど」
「夏休みでも委員は何度かあるよ? 最初にもらった要項に日にち指定してあったでしょ」
「あぁそうなの」
「うん。だから貴重な一回分を無駄にしちゃうけど、ごめんね」
「僕は別に気にしないよ。じゃあこれで」
淡白な返答になったのは、単に彼女のことを無責任だなと思ったから。
勿論、彼女は申し訳なさそうな表情はしていたし「うん、じゃあね」と去って行く七瀬には、先々週のテスト前最後の委員会でのわだかまりを意識している様子が窺えたけれど、それを含めてもやっぱり無責任だと感じた。
でも、委員が一回分無くなることは悪い話じゃなかったから、僕は気にせず歩き始める。けれど、またすぐに誰かに呼び止められた。
「委員、なかなか張り切ってるじゃねぇか!」
聞こえると同時に背中に平手の衝撃があった。それで奥山だとわかる。
「何がです?」
「演劇やるんだろ? 台本も書いて、予算も自腹切ってまでやるなんて大したもんだ!」
台本や予算についてまとめた? 勿論、僕はしていない。それらはテスト明けから取り組むことになっていた。ならばそれは七瀬が一人でやったに違いなかった。
「ただ、やる気を出すのはいいんだがな、あんまり負担にはならないよう、気をつけてな」
奥山がいつも言う、七瀬の負担という言葉が、やけにわかりやすく聞こえる。
七瀬はなぜテスト期間中に僕に黙って、急くように事を進めたのだろう。正確にはわからない。けれど、先々週の委員のことがフラッシュバックして、僕はたまらず聞いていた。
「その負担って、七瀬の補習にも関係ありますか?」
奥山はなぜか困惑した表情になって言う。
「あ、いや、そうじゃなくて、小春は……」
「七瀬は?」
「あ、いやな……あいつは前から理系科目が苦手なんだよ」
奥山の返答は、はっきりしないものだった。何より彼は言いながら、また鼻の頭を触った。
「まぁとにかく、先生は頑張る奴は応援する。でも、熱の入れすぎも良くないからな」
奥山は言って、僕の肩を叩いて去って行く。その手には、さっきより力が込もっていた
廊下に残された僕は、立たされているような気持ちだった。けれど、そこから僕の足を動かしたのは、一つの違和感だった。
僕は教室へ走った。そして補習対象の生徒と日程。また、担当教員を確認した。
七瀬のためだけに用意された別日程の担当教員に奥山とあるのを見て、僕は罪悪感と違和感の落とし所を見つけた。
一週間後、七瀬の補習の日。教室からは、奥山と七瀬の話し声が聞こえている。
「お前は特別なんだから、そんなに頑張らなくてもいいんだぞ? 俺はお前が学校に来てくれているだけで嬉しいんだ」
「特別だなんて、そんな言い方しないでください。私も皆と何一つ変わらない一生徒です」
「そうは言っても、俺の気持ちもわかってくれよ……」
二人の会話を聞き、僕の心は揺れていた。今日、僕は奥山と七瀬の関係を暴きに来た。無論この行動は勝負とは一切、関係がない。
一方で、僕があの日の最後に雰囲気を悪くしたせいで、七瀬が何かを気負い、テストを犠牲に委員の仕事を急いだとするなら、七瀬のこの補習は僕にも無関係じゃなかった。
そして、その補習は……何も不純な妄想をしたわけじゃないけれど、これまでの七瀬に対する奥山の態度を鑑みた上で、彼らを二人きりにする状況を間接的であれ僕が作り上げたと思えば、モヤが残った。
ただ、今、ここまでの会話を聞いている限り、少なくとも七瀬に危険があるようには思えず、であれば、七瀬と奥山が他のどんな関係であろうと、僕が口を挟む理由はな——
「罪悪感と違和感の落とし所だったんです」
その時、そう七瀬の声が聞こえてきた。そう言った意図は知らないけれど、偶然にもその言葉は、僕がここに来た理由と同じだった。
それで僕はハッとした。七瀬に危険がないなんて、僕の主観的観測でしかなくて、ましてや希望的観測であったかもしれない。思うや否や、僕は教室へと飛び込んだ。
「あれ? 私、今日は委員お休みって——」
教室の扉を開けた途端、七瀬が驚いた様子でそう言ったけれど、僕はそれを無視したまま彼女の座る机まで行って、言った。
「君と奥山はどういう関係なの?」
「どういう関係って、え? どういう関係?」
「いや、だから——」
そこまで言いかけた時、奥山が「なんだ澄人。ついにこんなとこまで来ちまったのか?」と妙に力の込もった声で言って近づいてくる。
そして、そのまま奥山が手をスッと僕の方に伸ばしてくると、瞬間的に体が硬直した。
直後、奥山の手が頭に触れる。
「いいねぇ澄人、最近随分頑張ってるな!」
感じる刺激は乱暴だけれど、痛みではない。面食らって顔を上げると、奥山の満面の笑みがある。それでも僕は、苦し紛れに言う。
「先生は、七瀬とどういう関係なんですか!?」
直後、返答というより、とにかく聞こえてきたのは、七瀬の快活な笑い声だった。
「なんか吉良くん必死だね!」
七瀬は言ってからさらに笑い、しつこく「ツボった!」と繰り返し、最後には目頭を袖で拭い、グスッと鼻を啜りまでした。
僕はそれで力が抜けた。張り詰めていた糸が切れて、放心状態のようになった。
取り残されたようになっている奥山も、いつからか七瀬につられて笑いだしていた。
その後、今回の僕の勘違いの原因が、七瀬の貧血であることを奥山の言動から知った。
「奥山先生とは、教師と生徒の関係ですよ?」
補習が終わって奥山が教室を出て行くと、七瀬がニンマリした笑顔で言ってきた。けど、かと思えば、スッと戻して今度はこう言う。
「ごめんね」
「なんで君が謝るの」
「なんでって、悪いのが私だからだよ」
そんなわけはない。どちらが悪いかと言われれば僕で、だからこそ僕は今日ここに来た。
「僕が君に負担をかけた。おまけにどうやら僕は変な勘違いまでしていたらしいから……」
そこまで言って、七瀬が何も言わないから顔を上げてみると、彼女は柔和な笑みを浮かべながら、呟くように言った。
「ほら。やっぱり吉良くんは優しいんだよ」
「……優しい?」
なぜ今、そんな形容詞が僕に? と、そう思っていると、七瀬が続けて口を開く。
「うん。でも吉良くんのことだから優しいって言われるのも、わけわかんないんだろうね」
先週もそうだったけれど、七瀬は『吉良くんのことだから」と言うことがある。
僕はほぼ反射的に、ついにその訳について尋ねていた。
「君は……君は僕の何を知ってるの?」
七瀬は一拍置き、頷いてから話し始めた。
「吉良くんは人が嫌いで、わざと人を遠ざけてるよね? 私ね、それって単に人が苦手ってこととは全くの別物だと思うの」
七瀬は一言一言を噛み締めるように言う。
「人を遠ざけるのは、人と関わると自分だけでなく相手にも悪影響があると思って、繋がり自体を怖がるから。でもその裏で、人間である限り、人は完全に孤独になりたいとは思い込めない。むしろそこには逆に、理想もあれば、意志だってあるんだ。だからそんな人は、自分の意志で行動しようと思う時に、自分を騙す理屈がいつも必要になる」
七瀬の話を僕は黙って聞いていた。納得しているわけではないけれど否定しようとも思わない。と、そんな不思議な心情の中にいた。
そしてそれは、七瀬の次の言葉を聞いても変わらなかった。
「そう。だから、吉良くんはいつも寂しそうに見えるんだ」
ただ言葉を飲み込んで、それから聞いた。
「君はなんで、そんな事がわかるの?」
七瀬がこちらに向き、徐に答える。
「吉良くんは人が嫌いだから人をよく見てる」
そこまで言うと、七瀬は目を合わせてきて、
「でも、人は好きな人のことも、よく見ちゃうんだよ」と、笑った。
「今日のこと。きっと吉良くんは理屈を探してここに来てくれた。空振りでも、私のためにバットを振ってくれたんだ。それが嬉しいから、ありがとう。優しいねって。そう私は言うの。そして私は、私には今度からは理屈なんて要らないのになって思ったりもするの」
七瀬は言い終わると、僕に目を向けたまま、僕の返答を待っていた。だけれど僕は、適切な反応や言葉がわからず黙ってしまう。
すると七瀬は不意に立ち上がる。教室の後ろへ駆けたと思えば、すぐに戻ってきて、手を見れば、何の脈絡も無いはずのパーティーゲームでお馴染みのジェンガを抱えている。
「なに、どういうこと?」
「テスト期間中、短縮授業をこういう娯楽に使う人も一定数いるらしいね」
そう僕の問いへ筋違いの返答をして、だけれど七瀬は至って真剣にジェンガを机に立て、無言のまま慣れた手つきでゲームを始める。
「さぁどうぞ」と、そう促されるままに、僕もよくわからないまま、棒を抜き、天井に重ねた。そうしてもう下部がスカスカになった時に、七瀬はようやく口を開いた。
「振り返れば心が重くなる忘れたい過去ってあるよね? でも全ては忘れられなくて、そのせいで却ってスカスカで不安定になる」
七瀬は「こんな風に」と言って、わざとジェンガを押した。バランスの悪くなったジェンガはそれで簡単に倒れそうになるけれど、それを七瀬は支えて、そのまま立て直した。
「嫌な記憶でも、その過去がないと今の自分はない。だから全てを否定することは難しい。だからさ、こう考えれば素敵だなって、私はいつも思うようにしてるんだ」
そう言うと、七瀬はどこからかチョコバーを取り出し、そのまま続けた。
「嫌な思い出の、その当時の瞬間にも、自分を想ってくれていた人がきっとどこかに居ただろうって。気づいていないところでの温かい思い出がいつも一緒にある。嫌な思い出があって、でも温かい思い出もあって、その上に今の私があるのなら、悪くないと思える」
そう言いながら、七瀬はジェンガの最下部の、一番安定感を崩している原因の穴へとチョコバーを差し込んでみせた。
「温かい想い出を、空いた穴に代わりに差し込んでみるの。それがチョコバーだとしてみて。そしたら、ほらね? 安定した」
すると七瀬は、新しいチョコを取り出した。
「そう。そしたらもっと素敵なことが見えてくる。後から一人で誰かの想いに気づくのもいいけど、やっぱり今の時間を丁寧に積み重ねたい。大切な人と想い合いながら、言葉を紡ぎ、時間を編んでいく。例えばそれは、こうして美味しいチョコを二人で食べる時間」
そう言って、七瀬はその袋に入ったままのチョコを半分に割って、片割れを僕に渡す。
そして七瀬は小さく「頂きます」と手を合わせてから、チョコを口に含んだ。
よくわからないけれど僕も七瀬に倣ってチョコを食べてみる。久しい甘味が口に広がる。
「美味しい……」と、僕がそう呟くと、
「うんっ! 美味しいね!」と七瀬は紅をさした頬を上げて、満面の笑みで言った。
「チョコは渡すのも、渡されるのも嬉しい。おまけに、カカオには記憶力を高める効果もあるから、今日のことはきっと忘れないよ」
七瀬はそれから「ご馳走様でした」と手を合わせた。その姿と、今の一連の七瀬を見ていて思った。僕の中で、普段とは違う七瀬の人格の乖離、その境界が薄れてきていた。
要因は慣れではないと思う。むしろ、七瀬は僕と居る時には上辺こそ取り繕うけれど、本質は何も変わらないのではないだろうか。
普段からの雑学的な知識や、独特な言い回し。それらを少し違った捉え方をしてみれば、彼女は普段の些細な疑問を放っておかないし、時々で使う言葉も多くの選択肢から適切に選び取っていると言える。もっと言うと、日常の所作であったり、感情を恥じずに素直に表すことであったり、友達との些細な会話への適切な相槌などもそうかもしれない。
つまり、七瀬は丁寧に生きようとしている。それだけなのかもしれない。
僕とは真逆の生き方だ。だからこそ彼女がそう生きる理由の発端にあるのは、どんなエゴなのか。でもその理由に関わらず、彼女の行動は決して誰かを不幸にはしないのだろう。
「じゃあせっかくだし、今から、今日を全力で忘れられない一日にしようよ!」
そう、また笑う七瀬を見て、僕は自分で自分に驚く。僕は今、その七瀬の笑顔に対し、これまでに抱いてきた嫌悪感を忘れていた。
「それじゃ、仲直りの印……いや、私たちの新しい門出をいっちょ祝いますか!」
言って、有無を言わせぬまま、七瀬は新たにトランプまで持ってきた。半分に分けると、片方を僕に渡した。ババ抜きをするらしい。
いつもの僕なら嫌味の一つでも言っただろう。でも、今日の僕は、七瀬が何食わぬ顔で、顔の前に扇のように広げるカードから一枚、何食わぬ顔で引き抜いた。
七瀬を見ると、ニヤリと口角を上げている。
「終わり良ければ全て良しって言葉がある」僕がそう言うと、
「いざ尋常に勝負!!」と、七瀬が沸いた。
ババ抜きなんて幼い頃に飽きるほどやったのに、僕らは夢中で何回戦も勝負を重ねた。
七瀬は、勝つと次のゲーム中に、自分を大富豪だと言い、僕がそれは違うゲームであると指摘すると、七瀬が「私はキャピュレット家の生まれです」と言うから、じゃあ僕だって「モンタギュー家の生まれだ」と言った。
そしたら七瀬が「え……?」と放心した。
僕は急いで「他意はない」と訂正する。
「そ、そうだよね。叶わない恋は辛いよね」
「ん……? いや、そういうことじゃ——」
「はいはい! 他意はないよ! そんでこっちには、ババがないはずだからっ!!」
色々と振り切るように、七瀬が僕の手札から一枚を引き抜いた。すると、
「キャピュレット夫人だぁぁぁ!」と項垂れた。二人だから良いけど、わかりやすすぎる。
その後、七瀬が「この人の甥が厄介なんだよなぁ」と呟いた。
そんな感じでわちゃわちゃと続けている内に、戦績は僕から五勝五敗。思いのほか競り合うから二連勝するまでと決めてみれば、一層、駆け引きが白熱し始めた。
そうして僕から六勝七敗での試合の終盤。残り二枚の僕の手札の一方に、七瀬が触れる。
「そう言えばさ、一つお願いがあって。その、勝負の期限を決めたいの。ババ抜きじゃなくて、例の私たちの間にある勝負のこと」
その状態のまま、七瀬がそう言った。僕はまた突飛な事を言い出したと思った。
「勝負は、吉良くんが旅行委員を辞めるための理屈を作るために始めたけれど、それは勝者の特典として選べる一つにすぎない。だから実質、特典を別のものにすれば、勝負は研修旅行が終わっても続けられる。つまり私は、そこに期限を設けたいと思ったの」
勝敗ばかり気にしていたから気づかなかったけれど、七瀬の言うことは納得できた。
「勝手でごめんだけど、修学旅行の二日目の二十四時まででお願いしたい」
僕が委員を辞めるため、それも七瀬が始めた勝負なのだから、妥当な話だと思った。
でも、言い出した七瀬の表情がなぜか暗い。
「あと、この先、今言った期限も早めたいと私は言うかもしれないことも、許してほしい」
七瀬が珍しく覇気のない声でそう言った。その様子も含め、理由を聞こうとした僕は、しかし七瀬のスマホのアラーム音に邪魔をされる。七瀬が僕を見て言う。
「あーあ、残念。もう時間切れみたい」
表情は笑顔に戻っていた。でも、どこか引っかかる。いつもとは違う笑みだと感じた。
七瀬がアラーム音を止めると、変わりに聞こえてきたのはこちらに向かってくる足音。
「小春、探したぞ」
声の主を確認すると、そこには北島が居た。彼は僕を一瞥して「またこいつか」と漏らし、舌打ちをしてから、七瀬へと向き直る。
「小春。いい加減にしろ。お前にはこんなところで油を売ってる時間はねぇだろ」
七瀬は僕の手札の元々掴んでいたのとは違う方の一枚を抜き、眺めてから言った。
「油よりこのババを売りたかったよ。七勝七敗。私たちのお家の戦いはまだ続きそうだね」
そう七瀬が冗談を言うも、北島は無視して容赦無く七瀬の腕を掴み上げ、立たせる。
そのまま乱暴に腕を引く北島に、僕も流石に口を挟もうとした時、七瀬がポツリ呟いた。
「私ね、もう小説を書くのはやめにする……」
聞こえるかどうかといった声量だった。だけれど、北島はそれで急停止した。
壊れた玩具のようにゆっくりと北島が振り返り、僕を、目を見開きながら見て言った。
「お前、今……。ってことはこいつが?」
放心しているまま、北島は七瀬の手を離し、変わりに僕の胸ぐらを掴む。僕も状況が分からず狼狽えていると、北島もなぜか何も言えないというように口をワナワナさせていた。
そして結局、北島は何も言わず僕を解放し、何事もなかったかのように七瀬の腕を引く。
「今日は楽しかったよ。ありがとう」
別れ際に七瀬が僕にそう言った。僕も返答しようとして、でも結局、何も言えなかった。
帰り道、僕はさっきの出来事について考えていた。勝負の期限については納得している。だけど七瀬が見せた憂いは何だったのか。
また、今後さらに時間を短縮することもあるという点でも疑問が残った。『制限時間』と考えれば、今日を含め幾度か聞いている七瀬のスマホのアラームも少し気になってくる。
……ただ、その訳を考えようと、わかるわけはなかったし、もっと言えば、それよりも僕は今日、七瀬の『もう小説を書くのはやめにする』という発言と、その言葉に異常に反応した北島の方を奇妙に思っていた。
勝負のこともあるのだから、よくわからないことを明らかにしないといけないのだけれど、むしろ日に日に積み上がっていくばかり。
だけれどやっぱり、今日のことを深く考えようと思っても、胸ぐらを掴まれてできた首元の擦り傷が痛むだけだった……。
そうして、ふと最近よく胸ぐらを掴まれるなと思うと、奥山との一件を思い出す。連想して当時の不幸の連鎖を思い出した。そして、ちょうど思い出した時に、家に着いてしまうのだから、不吉な香りがするなと思った。
ただ、今日の僕はなぜか、家の玄関を開ける時も、土間を上がる時も、シンクに来客用のグラスが出ているのを見ても、この時間になれば乾いているはずの風呂場の床が濡れているのに気づいても、何も思わなかった。
明らかな異変を、ひどく客観的に見つめられていた。
いつもなら絶対しない、制服のまま布団に寝転ぶという行為を平然とやってのける。
そして、ふとポケットを弄ると、七瀬に貰ったチョコバーの空袋があった。
それを翳して見て、わかった。
「今日、たぶん僕は楽しかった」
痛む首元を撫でて、そうしみじみと思った。
ついさっきの出来事なのに、懐かしむくらい。今日みたいな一日を過ごすことはないだろう夏休みを想像して、溜息が自然と出るくらい。僕は本気でそう思っていた。
だけれど今年の夏休みは実際そうはならず、騒がしい日々を過ごすことになった。
始まりは三日後、夏休みになり最大限シフトを入れたバイトの一日目の朝礼だった。
「七瀬小春と申します! お願いします!」
溌剌とした挨拶を、皆が拍手で迎える。
「なんで君が?」と僕が呟くと「知り合い!?」と、チーフが露骨に驚いて言った。
「親友です。ねぇ〜?」
と、七瀬が言って人懐こい笑顔を僕に向けると、皆が不思議そうに僕らを見比べた。
「じゃあ、吉良くんが教育してあげてよ」
そうして店長がそう言うと、僕は次の瞬間には、気づけば七瀬の教育担当になっていた。
ミーティングが終わると仕事が始まり、文字通り僕が七瀬を教育する担当となる。だけれど、僕が教えるというより、むしろ僕の方が彼女に聞きたいことが沢山ある。
「なんでバイト? それもなんでここなの」
「夏はお金を使うし、ここは週払いオッケーらしいし。あと友達が居ると続けやすいしね」
「いや、なんで僕のバイト先を知ってるの?」
そう言った僕を、しかし七瀬は、
「そろそろお仕事教えてよ。労働は真面目にだよ。さぁさ、これどうするの?」と躱した。
丁度その時、後ろからチーフがやって来たから助かったと言えばそうだけど、それでこの話はうやむやになってしまった。
ただ七瀬は、さっきの言葉に恥じないくらい仕事に励んだ。それこそ仕事中に僕に話しかけるでもなく真面目に働いた。それは初日だけじゃなく三週間もそのままで、実際、僕らが日々会話を交わすのは帰り道だけだった。
七瀬と以前に一悶着あった例の交差点まで一緒に帰って、いつもそこで別れた。会話はどれも取るに足らないもので、収穫といえば、七瀬お得意の雑学的な知識と、コンビニ大手四社のコーヒーに、それぞれの個人的な美味しさランキングを付けられたくらい。おまけで、ランキングは七瀬が実はコーヒーが飲めないという事実を知ってから始まったものだから、彼女の意外な弱点を知れたという意味では、ある種、それも収穫の一つだった。
まぁでも七瀬の飲めるコーヒーは今のところコンビニでは見つからなくて、彼女曰くギリ勝負できるらしいカフェモカを飲みながら、特訓と称して駄弁っていることがほとんどだった。
「お疲れ様でした」
今日もバイトを終えた。シフトは六時から九時。いわゆる早朝シフトだった。
日が登っている間の暇を潰したいがためにバイトをしている僕としては、不本意なシフトではあるけれど、夏休みとあっては仕方ない。日中は主婦方が優先され、暇な学生で夕方シフトを取り合うのは、もはや一種の夏休みの風物詩みたいなものだ。
けれど流石に……ここからが今日の始まりだと言わんばかりの、灼熱のお天道様の追い討ちにはウンザリする。
この蒸し暑さと蝉の喧騒から逃れる為には、電車で少し行った、そう、七瀬と映画を見に行った、あの駅にある図書館に向かうしかない。
ただ勿論、本は読まない。夏休みの課題を、こういう日にこそまとめて消化するのだ。
そう意気込み、教科書で重くなったリュックをジャンプするように弾みで浮かせて担ぎ直した、その時だった。
「うぇっ?」
戻ってくるはずのリュックの重みを感じない、なぜか、リュックが宙に浮いている?
「なにこのリュック、めちゃ重いじゃん!」
ここ最近、聞き慣れた声。七瀬だとすぐにわかった。
「……そういや今日も君と同じシフトだったね」
「そういやも何もわかってたくせにっ」
言うや否や「えいっ」と、いう声と共に、ドスンとリュックの重みを返される。そのまま背後からするりと隣に並んだ七瀬は、僕の顔を覗き込むように見て言った。
「なるほど。私に内緒でどこかに行くから、黙って一人で帰ろうって魂胆なんだね?」
相変わらず感が鋭いというか、目敏いと言うか……。それに魂胆って何だよ。
「図書館に行くだけだよ。夏休みの課題、まとめてやろうと思って」
「あぁそゆこと。図書館ね……って、あ〜ぁ。 私たちの思い出の駅にあるとこかぁ?」
「そ、だから今日は僕、こっちだから」
最近、僕も七瀬のこういう面倒なノリを自然に流せるようになった。
軽く気にも止めずと言った風に身を翻し、いつもとは逆方向に交差点を曲がる——けど、ここで素直に引き離してくれないのも七瀬だ。
「わたしも実は街に用があるんですぅー」
白々しく言って、追いかけるようにまた僕の隣に並んだ。
「僕、今日は本当に勉強するよ?」
「やだな、別にお邪魔虫しようってわけじゃないよ。本当に別に用事があるの。もぅ、自信過剰なんだから」
「……まぁ、とにかくお邪魔虫じゃないなら、良いけどさ」
ため息を吐きながら言ったのに、七瀬は構わず「ふふん」と、鼻歌を歌うように笑った。
それから二回チラチラと僕を見て、また口を開いた。
「ところで吉良くん。お邪魔虫の言葉の由来は知ってる?」
「その調子じゃ、早々に勉強の邪魔をしてきそうな雰囲気だけど?」
「まだ図書館じゃないからいいじゃん。それに雑学だって学び。学問だよ。学問を疎かにするとは、吉良くんは学生の風上にも置けないね」
「なるほど。僕が風上に居ないから、邪魔な虫が寄りつくってわけなんだね」
あえて七瀬を覗き込むように見ながらそう言った。
対して七瀬は頬を膨らませる。
「相変わらず意地悪だね! この意地悪虫ぃ!」
「残念、意地悪虫なんて言葉はないよ」
「うるさーい! 意地悪虫でうるさい虫には、もっとうるさいお邪魔虫が寄生してやる!」
そう言うや否や、七瀬が僕の背後に回り込み、ただでさえ重いリュックに抱きついて、
「ほれ、みんみんみんみんー! つくつくぼーし!」と、喚き始めた。
演技が割と迫真で、絶妙なウザさも相まって、思わず僕は吹き出してしまう。
すると七瀬の鳴き声も、すぐに笑い声に変わった。
リュックが解放されると同時に、お腹を抱えた七瀬が戻ってきた。
お互いに息を整え、前へ向き直った時には、もう駅にたどり着いていた。
駅名の看板をくぐり、改札を抜ける。駅舎には外で鳴くツクツクボウシの声が反響して聞こえていた。
ホームに着くと丁度、電車がやってきた。
乗り込むと、扉のすぐ側の空席へ七瀬と隣同士で腰掛ける。
向かい合う長椅子のような座席には、最初こそお年寄りが数人だったけれど、数駅と過ぎるうちに僕達よりも少し歳上くらいの若者が増えてきた。
「皆、大学生って感じだね」
七瀬がこそっと静かに言った。
背格好は大きく変わらないはずなのに、たしかに僕とは違って、彼らにはいわゆる垢抜けた感? があった。服装の違いか、はたまた少し明るい髪色のせいだろうか。
そう考えながら何となく七瀬に向いてみると、彼女には特段、周りの大学生たちとのギャップはない気がした。そんな七瀬がポツリと呟く。
「大学生って、人生の夏休み期間なんだって」
「じゃあ夏休み中の大学生は、夏休みの中の夏休みにいるわけだ」
七瀬はぼんやりと「たしかに」と言った後「エドガー・アラン・ポーの『夢の中の夢』みたいだね」と返した。
エドガー・アラン・ポーの『夢の中の夢』は、僕も知っていた。頭の中でその内容の大体を思い出せたのは、それが小説ではなく詩の体裁であったから。
ただ、その内容は何も今話し合うようなものではなかったし、七瀬自身も語呂が似ているくらいのイメージで話題に出したのだろうと思っていた。
だから、眺める彼女のその横顔の哀愁に、僕は違和感を覚えた。
「七瀬?」
けれど直後、七瀬はまたいつものように僕に向いて「ふふん」と謎に笑ったから、杞憂だったらしい。七瀬はまた深く椅子にもたれるように座って言った。
「羨ましいねぇ。大学生」
そう言われても、僕は大学生に対し何の羨望も抱いていない。人生の夏休みと形容される程の自由な時間を有意義に過ごせる自信も、さらに勉学に励みたいという意識もなければ、その先に広がる未来も想像すらできない。
対して七瀬にしてみれば、それらの全てに憧れを抱いていると言う訳なのだろう。
「君もあと二年もすれば大学生になれるだろ。本来は頭も悪くないんだし。それに君のことだから、大学生活もきっと上手く乗りこなすんだろうさ」
「……やっぱり? そう見える?」
七瀬は少し間をおいて、はにかみながらそう答えると、そのまま続けた。
「吉良くんは、大学とか行くの?」
「行かないよ」
「行きたいとは思う?」
「わからない」
「そっか」
淡々と、特に感情もなくそう受け答えをした。
本当にどうでもいいというか、途方もないくらい想像もできないし、実感もない話だった。
「もし大学生になったなら、やってみたいこととかはないの?」
やってみたいことも勿論ない。けれど淡白な返事だけを繰り返すと七瀬がまた拗ねるだろうから、適当に視界に入っていたスーツケースを持った学生を見て言った。
「旅行かな」
「あら、意外だね」
発した時こそ他意はなくそう言った。しかし、自分でも意外だった。言葉にしてみると本当に興味を惹かれる気がした。ただ旅行とは少しニュアンスが違う。もっと近い言葉にすれば、
「どこか遠くへ行きたい」かもしれない。
考えていると、意図せずその一端が口から漏れた。
すると、その言葉を拾い上げるかのように七瀬が不意に僕の腕を掴んだ。そして——、
「遠くに行きたいの?」と僕の目を覗き込んで「それとも」と続けて、こう言った。
「行ってしまいたい?」
なぜだか、七瀬が僕を睨んでいるように見える。
「何? どうしたの?」
僕が身を引きながら言うと、七瀬は手を離し、ゆっくり腕を組み直してから言った。
「何でもないよん」
「い、意味がわからないんだけど、マジで」
七瀬は長くため息をついて、それから右手の人差し指をスッと立てて言った。
「まぁ強いて言うなら、旅行は逃げるためのものじゃない。迎えに行くものだ。って感じかな」
「はぁ?」
困惑する僕の隣で、七瀬は謎にコクコクと頷いている。意味不明すぎて呆れてきた。
そして呆れたらやっと思い出した。彼女は元より話を無駄にややこしくする天才だった。
だったら雑に割り切って、さっさとこの不毛な会話を終わらせるべきであることも思い出す。
「まぁとにかく、旅行ならちょうど修学旅行があるもんね。そこで行けるからいいや」
そう言って終わろうとした。でも、今日の七瀬は、また一段と頑固だった。
「吉良くんは、大勢じゃなく、一人で旅行に行きたいんじゃないの?」
「話を戻すのかよ」と、もはや口に出してしまった。けれど七瀬の言ったことは的を得ていた。そういえば七瀬は不必要な場面で妙に鋭いことを言う天才でもあるのだった。それでも僕は、
「まぁそうだけどさ」と言った後に続けて、
『もうこの話はいいだろ』と続けて今度こそ終わらせようとした——その時だった。
「じゃあ旅行、私と行こっか」
「……は?」
たしかに七瀬は、突拍子もないことを言う天才でもあった。
「このまま、今から二人で」
ただ今日のはさすがに、度がすぎていた。
「なんで……?」
未だ冗談だと疑う僕に対し、七瀬はふざけた様子もなく、こう言った。
「さっき吉良くんがわからないと言った言葉の意味を、探しに行くために」
刹那、状況の整理がついていないうちに僕の耳へ飛び込んできたのは、降りる予定だった駅からの出発を伝える車内アナウンスだった。
「……て言うか君、今日、他に用事があるって言ってなかった?」
そう僕が言ったのは、わけのわからないままに乗り換えた特急電車の中、車内販売で買った幕内弁当のがんもを口に含もうとする瞬間の七瀬に向かって。
がんもを一口で頬張りながら七瀬が言う。
「ぼ、ぼじろんうぼにぎばっ——」
「飲み込んでからでいいよ」
「……んぐっ。もちろん嘘に決まってるじゃん」
「もちろんなんだ。潔いね」
「でも、チャンスがあればいつでも吉良くんと阿古屋に行きたいと思っていたって意味では、いつかの用事を遂行できているとも言えるよ」
七瀬が今言った通り、旅行とは言っても日帰りで阿古屋に行くというだけだった。それも、旅行委員としての修学旅行の下見として。
「ところで吉良くんこそ、珍しく文句も言わずに付いてきたね」
「一応、文句を言っていないことはないし、無理矢理連れてきておいてよく言えるね」
「何で今日は素直に付いてきたの?」
七瀬は、もはや僕の話を聞かないスタンスらしい。
「はぁ……なんとなくだよ」
「やっぱり本当は一人じゃなくて、私と二人っきりの旅行に憧れてたとか?」
「……二人旅行で、どちらかを不機嫌にさせたら楽しくなくなると思うよ?」
「ごめん。ごめん。謝りますとも。付いてきてくださって、どうもありがとうございますぅ」
「はい。どういたしまして」
二人で頭を下げてから、どちらともなくクスッと笑った。僕は照れ隠しに言葉を発した。
「そんで、下見って何をするの?」
「特にこれと言ってやることはないよ。行く予定の先々を見て周る感じかな。名付けて、ザ・下見だね」
「ん……それ何の為に行くの?」
「もしも私が修学旅行に行けなくなった時のために、吉良くんに現地をしっかり把握させておくのさ」
言いながら、七瀬がお金持ちのおぼっちゃまキャラがやるような動作で、前髪をファサッと撫で上げる。その行為の意味はもちろん謎だった。
「そんな状況、想像もできないね。君なら仮に風邪をひいたって、いや、むしろどんな病気に罹っても、這ってでも来そうだ」
「確かに。病気くらいだったら、私は行くだろうね」
七瀬がカラカラと笑った。それから、また自分の弁当に目線を下ろして、こう言った。
「まぁでも、さっきも言ったけどさ。この旅行にまだ理由は無くたっていいんだよっ」
七瀬はその言葉を弾みにするように立ち上がると、僕の目を見ながら続ける。
「吉良くんと二人で阿古屋に行く。その理由は、これから私が探し出してみせるから——」
そう言った七瀬の声を全て聞いたかどうかわからないうちに、僕の手元で軽い音がした。目線を向けると、僕の死角から伸びた七瀬の箸が、僕の弁当の卵焼きを奪い損ねていた。
「おいっ」
「ちぇっ。バレたか……」
七瀬は席に座り直すと、白飯の上の梅を口に含んで、口を窄ませた。
それを見て、ため息のような笑いが漏れた時にはもう、直前の七瀬の言葉など忘れていた。
弁当を食べ終わった僕達は、どちらともなく「「ふぅ」」と息を吐いて席に背中を預けた。
その一瞬に静寂が訪れ、目的の駅までの残り一時間の過ごし方を選択させるかような時間が訪れる。
僕は何も考えずにリュックの中の課題に手を伸ばしかけて——でも辞めた。
「到着まで何する?」
そう言って七瀬に向くと、彼女がやけに暑苦しい視線を僕に向けていた。
「え、課題はいいの?」
「この状況では、やる気にならないよ」
パァッと明るい笑顔になる七瀬。その頬をムニムニと揉みほぐしてから言う。
「私さ、旅行の道中の特別感も好きなんだよね」
その笑顔を見て、課題を後回しにしたことによる未来は考えないことにした。ここまで来たら七瀬にとことん付き合ってやろうと思った。
「それで何する?」
「そうだねぇ、流石に私もトランプとかUNOとかを常備してはいないし……」
「別にすぐにスッとモノを出せって言ってるわけじゃないよ」
「わかってるよ。わかってるけど、今の言い草はなんか、ワルの感じがしたね! 『ブツを出せっ』みたいなさ」
「……相変わらず想像力が豊かだね」
「そういえばワルな感じのゲームって言えばさ——」
「……あぁ、ワルな感じから話が続くんだね」
「うん。それで、この前見た映画で麻雀のシーンがあってさ、あれ結構面白そうなんだよね」
「麻雀か——てかその前に意外。極道系って言うのかな? そういうのも観るんだね」
「極道というより、任侠系かな。主人公もマタギの人だったし」
任侠系でマタギ……? そんなジャパニーズB級ジャンルが……いや、たぶん七瀬は——
「今、カタギって言おうとした?」
僕がそう言うと、七瀬が固まった。みるみる顔が赤くなり顔を伏せると、フルフル震えだす。彼女はそのまま早口で言葉を並べ始めた。
「い、いや、東北の村で生まれたマタギ太郎が、任侠ヶ島に極道退治に行く話で、毎日おじいさんは山でしばかれて、おばあさんは川で血を洗い流して——」
「いやいや物騒! 物騒すぎるから! 君が言い間違えただけで、無闇に被害者を作るなよ」
僕がそう言うと、七瀬は両手で顔を覆いながらこう返す。
「確かに、作品への敬意がなかったね……」
「そっちかよ」
何にせよ、なぜかひどくダメージを食らっているらしいから、僕から話を戻してやろう。でもせっかく七瀬へいつもの仕返しができるチャンスだ。少し恩を売るような言い方にはしておきたい。
「しょうがないね。話を戻すために助け舟を出してあげるよ。話を巻き戻して、うん。まぁ確かに麻雀には、アウトローなイメージはあるね」
「助け舟、あぁ昔話つながりで、一寸法師かな? うん。確かにその例えはアウトロー、外角低めな感じで、カッ飛ばないボケだね!」
「無理矢理に共倒れを狙おうとするなよ! 僕まで引きずり込むな。善意を返せ!」
顔を抑えたままの七瀬がそのまま笑って、ただでさえ赤い耳がさらに真っ赤になった。
まだ笑いながら顔から手を離し、ポケットを弄るとお馴染みのチョコバーを取り出した。
「ごめん。これで、手打ちにしてくだせぇ」と、僕の前に両手で高く差し出した。
僕までまた呆れて吹き出してしまった。
その後、呼吸を整えた僕らは、遅れて麻雀のルールや役について調べ、説明を読み上げながら互いに「へぇ」とか「ほぅ」とか言っていた。つまりは思う以上に複雑だったのだ。
用語の読み方も特徴的で『平和』という役は『ピンフ』と読むらしく、以前に現代文の授業で青葉がそう読み間違えていたことを二人で思い出して、妙な答え合わせができた。
他には『役満』という最高得点のつく役を、七瀬が「ジャーナリストのあの人みたいな名前だね」と言って、調べると元は漫画家らしく、終いにはその芸名は本当に役満から来ていると知り、妙な答え合わせは二問目を突破したのだった。
結局は麻雀について話しているうちに話が逸れて、いつも通りのふざけた会話をしていると、目的の駅に着くまではあっという間だった。
改札を出て駅前のロータリーへ出ると、再び茹るような暑さに焼かれた。
それでも快晴に近い夏空や、海が近いからか風が心地よかったりと、うざったいだけじゃない夏を感じられるのは、さすが一応、観光地を内包する町なのだなと納得した。
駅の周りを眺めてみても印象は変わらず、確かに田舎ではあるけれど、寂れた様子はなくて、僕達の地元なんかよりよっぽど活気があった。
「とりあえず観光案内所に行くね。行きたい場所を全部巡ろうとスマホで調べたら、どうも遠回りになる気がしてさ」
駅と共に数年前に改装されたらしい併設された案内所も、レトロとモダンの調和がとれたとでも言うのだろうか。とにかく今風な雰囲気が漂っていた。
自動ドアの入り口には、『阿古屋へようこそ!』と書かれた垂れ幕がかかっていた。
そこから目線を動かすと、僕と七瀬は二人してドアの向こう、エントランスに見える奇妙な何かに目を奪われた。
それはパイプ椅子に腰かけた、二枚貝から手足の生えたぬいぐるみだった。
元は着ぐるみなのか大きさは成人男性ほどあり、巨大な頭部と異様に細い四肢が影響して、項垂れるような姿勢で座らされていた。
影がある目元にはギョロッとした魚のような目が収まり、貝殻の隙間は口に見立てられ、舌のように太い管のようなものを吐き出している。とにかく受ける印象としては——
「かわいい〜」と七瀬。
「は?」と僕。七瀬の予想外の発言に思わず声が大きくなった。
「百人いれば百人がキモいって言うだろこれは」
僕がそう言うも、七瀬は躊躇なくそいつの頭を撫でて言った。
「一万人いたら一万人がキモいって言う?」
「間違いないだろ」
「でも、一万一回目は何か変わるかもしれない〜♪」
「……そう言うなら、込み上げてくるのは嗚咽だよ?」
「ん、もう頑なだねぇ。こんなに愛くるしいのにさぁ」
七瀬は今度、手を掴んで僕に振って見せながら、途中裏声でナレーションするように言った。
「ほら、『阿古屋へようこそ!』って言ってるよ!」
「マジで子供は逃げるよ」
「何度でも何度でも何度でも、立ち上がり呼ぶよ?」
「じゃあ妖怪だ。恐怖だよ。込み上げるものも、ちゃんと涙に変わったよ」
そう言うと七瀬は激しく笑った。七瀬に掴まれたままの手はパシパシと暴れ、片手だけが忙しく動く奇妙な貝は本当に気持ち悪くて、目を合わせると冗談じゃなく若干の恐怖を感じた。
「ほら、もう行くよ。さっきの話だと予定はタイトなんだろ」
僕が先に歩き始めると、七瀬は本当に名残惜しそうに貝を撫でてから追ってきた。
受付は気の良い中年の女性だった。観光地はもちろん、そうじゃない場所まで結ぶ無茶なルート案内を要求する七瀬に対し、それでも女性は丁寧に提案をしてくれた。
大体の内容がまとまった時、女性からパンフレットと一緒に、小袋に入った缶バッチを渡された。
「それじゃあご旅行を楽しんでね。あ、あとこの可愛い缶バッチ『あこやん』もどうぞ。ぜひバックとかに付けてね」
言われて見てみると、バッチの表にはさっきのキャラクターが印刷してあった。
なるほど、あの妖怪の名は『あこやん』と言うのか。謎に関西テイストなネーミングだなと思いながら、再度イラストを確認する。デフォルメされているからか、キモさは若干マシにはなっていた。だけれど何も言わず七瀬に二個とも渡した。素直に喜んでいた。
女性にお礼を言って歩き出すと、七瀬が隣で自分のトートバックに缶バッチを付けていた。本当に好きなのかと不思議に思っていると、しばらくして僕のリュックが引っ張られた。
本当に僕は要らないのだけれど、外すのも面倒だから、もう文句は言わないでおいた。
外に出て太陽からの眩しさに目を逸らすと、七瀬の手元に目線を向けることになった。だけれどそこでも不意な閃光に目を細めた。正体はパンフレットが反射した日光だった。そんなパンフレットには、さっきの女性の案内が赤ペンで書き込まれている。
「何か宝の地図みたいでワクワクするね」
言って七瀬が満面の笑みを向けてくる。楽しそうで何よりだと思った。
まず最初に向かったのは、駅から徒歩十分。合同文化祭の形で関わる予定の阿古屋高校だった。
特段これと言った特徴のない外観だけれど、僕らの高校よりかは明らかに新しかった。
七瀬のリサーチによれば、十数年前に別の二校の高校が老朽化によって取り壊され、この学校が新たに建設、合併されたという経緯があるらしかった。
「やっぱり綺麗〜。あ、吉良くんみてよ。あの奥に見えるのが体育館じゃない? 大きいから劇のやりがいもありそうだね」
七瀬が背伸びをするように校内を覗き込んで言った。その姿を見ていて僕は今更だけど気がついた。ここに来たとして、僕らは中に入れないのだ。
しばらく外観をぼうっと眺め、部活動の野球部だろうか? の声を、僕は遠くに聞いていた。
そうしていると、ある時、七瀬が突然に歩き出して近くの街路樹の隣に隠れた。謎だ。
「……今度は何が始まったの?」
「張り込みだよ」
「何のために?」
言った時、七瀬に急に腕を引かれた。文句を言おうとしたら、七瀬が先に口を開いた。
「ほらほら、来たよ」
言われて七瀬の視線を追った。見つめているのは、校門から出てきた女子高生達だ。
何も言わず二人でその姿を見送ると、七瀬がようやく口を開いた。
「なるほど、なるほど」
「何?」
「何って、女子の制服チェックに決まってるじゃん。やっぱ噂の通り可愛い。そんでスカートが短いの何の……」
「おっさんかよ」
「そうだよ。そういうスケベ観点でも見ておかないと。我が校の吉良くん筆頭の男子達が血迷わないよう、事前教育をする必要性を再確認しておくのさ」
「意味わかんないけど、とにかく僕を犯罪者予備軍の筆頭に据え置くのはやめて欲しいな」
「ふふふ、まさにアウトローだね吉良くん」
その時、グラウンドから『カキーン』と金属バットが球を捉えた甲高い音が木霊した。
「君は本当、絶望的にバカな時があるよね」
七瀬は満更でも無さそうな顔で笑っていた。僕は改めて心底バカだなぁと思った。
ともかく学校を観察してみて少し安心した。見るからに綺麗で施設も整っていそうなここなら、確かに劇もそれに付随する文化祭的な催しも壮大で楽しめるものになるだろう。
ここから僕らはバスを駆使して阿古屋を駆け回ることになる。次に向かったのは海鮮市場だ。
修学旅行初日も、お昼はここで各々グループに分かれ、好きなものを食べる予定をしている。
しかし今日は、あまり長居する猶予は無い……はずなのに、僕らは二人して珍しい魚達に夢中になっていた。
市場のおじさん達も気さくな人ばかりだった。エピソードとして特に印象に残っているのは、七瀬が大きな蟹に手を伸ばした時に「挟まれるぞ!」と冗談で叫ばれて、飛び跳ねていた一幕だろうか。
市場を一周すると、併設された食堂を訪れ、メニューを眺めた。
「いくら丼、いくら何でも高すぎるよぉ」
「雑、雑、誰かに聞かれたら恥ずかしいからやめてよ」
「無意識だった……」
「重症だね……まぁいいや。そっちのサーモンも乗ってるやつなら、幾分か安いよ」
「本当だ。サーモンの方が安いってことは、いくらは生まれながらに親を超えたんだね」
「壮大な感想と感性だね。まぁ、いくらは生まれて直ぐに他人に味付けされた子供だけど」
「複雑な家庭だね」
「むしろ複雑な一生だよ。最後には親子まとめて君に食われるんだから」
「よし。じゃあ私、サーモンいくら丼にするよ」
「潔いね。消費者の鏡だよ」
「吉良くんは何にするの?」
「僕はこっちの色々と乗ってるやつにしようかな」
「吉良くんはより多くの命を奪うつもりなんだね」
「命の数なら君の丼の方が圧倒的に多いよ」
言って笑い合う僕らは、魚達からすれば悪魔のように見えるのだろうなと思った。
食券を渡して番号札を受け取り、セルフの水を持って席に着いた時にはもう番号を呼ばれた。豪華な海鮮丼と味噌汁の乗った盆は重くて、七瀬が持つと怖いくらい不安定だったから僕が二往復もする羽目になった。都合の良い時だけ、か弱さを演出するなよと思っていると、
「どう? 命の重みを感じられた?」と七瀬が言った。
ムカついたので七瀬の分の水を一気に飲み干してやった。
「なっ! このぉ!」
次の瞬間、七瀬も僕の水を掻っ攫って飲み干した。その瞬発力は他のことに活かしてほしい。
結局二人共がまたコップを持って席を立つと、七瀬が手を伸ばした。
「ごめんごめん。ここは私が」
その手にコップを握らせると、素直に水を二人分汲んできた。
直前までは騒がしかったけれど、七瀬が戻ると二人で手を合わせ、食べ始めたらもう食べ終わるまでずっと「美味しい」以外の言葉は交わさなかった。
食べ終わり、お盆を返却した後、七瀬が満足げな顔で言った。
「命の重みは胃袋で感じてこそだね。感謝。幸せだよ」
「珍しく同感だね。美味しかった」
七瀬が僕の顔を覗き込んで満面の笑みで言うもんだから、僕は顔を逸らしてサムズアップを見せつけて返事しておいた。
スマホを確認すると、思ったよりも時間が押していた。急ごうと足を早めようとした僕に、七瀬の声が少し遠くから聞こえた。
「ねぇ、吉良くんこっち! 漁港も見ていこうよ!」
時間はないけれど、主催者がそう言うのなら仕方がない。
海と想像すると砂浜とセットで思い起こすから、こうして漁港をまじまじとみる機会は僕にとっては初めてかつ新鮮だった。
波が船や岸のコンクリートにぶつかる音は、砂浜で聴くものとはまた違う風情を感じさせる。
空にはカモメが数匹飛んでいて、そのまたさらに上空に旋回する鷹が独特な声で鳴いた。
「あ、鳶だね」
七瀬が言った。鷹じゃなくて鳶だったらしい。勘違いしたことは当然黙っておく。
「飛べ飛べぇトンビ〜空たぁかぁくぅ〜」
いつだか音楽の授業で聞いた歌を歌う七瀬。節が誇張されているのがウザいけれど、上手いかどうかは差し置いて、意外にも繊細な歌声だった。でもその後から、
「ほら飛べぇ! もっと飛べぇ!」と、なんか飲みの席の面倒なオヤジのような口調のノリが始まっていて台無しだった。
けれど少し先に居た釣り人がこっちを見て笑っているのに気づくと、流石の七瀬も静かになった。
七瀬が真っ赤な顔で僕の後ろに回り込んで、釣り人から隠れる。とばっちりはやめて欲しいと思った時に、その釣り人が僕らを手招いた。
近づくと、釣り人の竿がしなっていた。どうやら魚が掛かっているらしかった。釣り竿が上がると、糸の先に平べったい魚が付いていた。釣り人はそのまま魚を手で掴んだ。
いつの間にか僕の後ろから這い出ていた七瀬が釣り人に近づいた。僕も続くと、釣り人の顔が見えた。思っていたよりも高齢なお爺さんだった。
彼は老人特有のくしゃっとした笑顔で、七瀬に突然その魚を下投げした。
「うわぁ!」
七瀬が声を上げながら魚をキャッチする。手の中で暴れる魚を遠くに持ちながら、
「うわわ、うわわわ、うわわわわ、うわわわわわわっ!」と声をあげて慌てふためいていた。
そして七瀬はその魚を無理矢理に僕に渡す。落とすわけにもいかず受け取った僕は、七瀬の時と似通った反応をした。とにかく足早に歩いて、老人に魚を返した。
老人も僕らを真似して「うわわわっ」とリアクションをとった。
僕ら三人は手をビショビショで、ヌルヌルにしながら笑った。
老人は魚を片手で掴み直すと「こいつはあんたらと一緒だな」と言って海へ投げ返した。
僕と七瀬が二人して首を傾げていると、
「未来があるってこと」と言い、続けて「こんな老いぼれと違って」と付け加えた。
「「そ、そんなそんな」」と狼狽える僕達の微妙な反応に、老人はまた満面の笑みで返した。
その後、軽く老人と雑談をしてから、最後にお礼を伝えて漁港を後にした。
ちなみに七瀬はさっきの魚を後からニモと名付けた。姿形も配色も全くもってそれっぽくなくて、馬鹿馬鹿しいと思っていたけれど、ヌルヌルの手をトイレで洗う時、なんとなくニモに悪い気がしてモヤっとした。
またバスに乗り込んだ。バス停での待ち時間は奇跡的に無かったのだけれど、時間は予定よりも一時間も遅れていた。七瀬も流石に焦り始めたのか、パンフレットを広げて眺めていたけれど「まぁ、何とでもなるでしょ!」と閉じた。まぁ主催者が良いのなら僕も良いけれど……。
しばらくバスに揺られ、ある停留所で止まった時、七瀬が突然に窓の外を指差した。
「吉良くん。降りよう!」
言って七瀬は、困惑する僕を置いてさっさとバスから降りてしまい、窓の向こう側から僕に手を振る。運転手さんの「他、お降りのお客様〜」との声にも急かされ、僕はまんまと七瀬の横に並んだ。
「こんなとこで降りる予定ないんじゃないの?」
「ここで降りる予定は今できました。ほらここ」
七瀬に指さされたのは……何だろう綺麗な一軒家だろうか、ともう少し視線をズラすとそれがカフェであることに気がついた。白基調の壁に薄い木の扉やカウンター。中に見えるイートインスペースには小さな椅子と机が並んでいる。
「もしかして、目についてオシャレだと思ったからって理由だけ?」
「そうだよ?」
呆れた。しかし何度も言うけど、主催者がそう舵を切るのなら従うまでだった。
中へ入ると、一テーブルに幾つかパンが並んでいて、どうやら先にパンを選んでからレジで飲み物を注文するらしかった。
さっき海鮮を食べたばかりなのに、七瀬は何食わぬ顔でトングを掴んだ。
一方、僕はその七瀬の手を掴む。
「待って。さっき食べたばっかりだよね?」
「パンは食べてないよ?」
言いながら飄々とした顔で、かにパンをトレイに乗せていた。
「よりにもよってかにパン食べるの? てかパン屋にかにパンってあるんだ」
「イチオシって書いてあるよ。それに私は生粋のかにパン好きだからね。幼い頃に初めて口にしてから、かにパリズムに目覚めたんだよ」
「なら君がかにパンの方に目覚めてくれてよかった。くれぐれも他の道に逸れないでね」
「了蟹」
言って七瀬はトングをカチカチとさせた。
七瀬はレジでかにパンと、いつも通りにカフェモカを。僕はアイスコーヒーを頼んだ。
店の奥へ通されると、狭い店の中で案外とお客さんがいることに驚いた。
「カップルばっかだね」
七瀬が言った。あえて何も感じまいとしていたことをあえて口にしてくる。何を言っても茶化されそうなので、完璧に無視をすることにした。
「あんまり長居もできないからね。忘れてるようだけれど、今日は下見に来てるんだから」
僕がそう言うと、七瀬が首を傾げる。
「何言ってるの。今日は旅行に来てるんだよ?」
「タマゴが先かニワトリが先かみたいな話はしてないんだけど」
「いくらはサーモンよりも高いよ?」
「会話にならないね」
「まぁ細かいことは良いじゃん。私は旅行に来てる。そんで旅行ってのは、不意に心惹かれてふらっと立ち寄るカフェがあった方が豊かなんだよ」
言いながら七瀬が、かにパンの右足をもぎ取って口に運んだ。
「びぼぐちいぶ?」
「汚い。飲み込んでから話しなよ」
七瀬は僕を睨みながら大袈裟に嚥下してから言った。
「手を当ててるから良いでしょ。そんなことよりこの蟹さん。ミソがクリームなんだよ! 一口食べる?」
「いらないよ。お腹いっぱい」
「ちぇ〜。めちゃ美味しいのに」
プンスカッてこういう顔を言うんだなって言うくらい表情豊かな七瀬を見て、自由だなって思って、時間を気にする自分の方が馬鹿らしく思えた。
「あーおいしー」
言ってもただのクリームパンだろうに、恍惚といった表情で二口目を口に含む七瀬に何となく聞いてみる。
「どのくらい美味しい?」
「このくらいー」
両手をピースの形にしながら満面の笑みを向けてきて、その後はピースの指をカチカチと開閉して「カニカニ星人〜」などと戯言を言っていた。
僕は“カニカニ星人すなる者”を眺めながら、何も言わなかったら、いつ辞めるだろうかとツッコまずに待った。
静かにアイスコーヒーを口にし、ゆっくり吸ってからグラスを置いた。その時には、もうほぼ真顔で「カニカニ……」と連呼する状態だった。
不服そうにまだ続ける七瀬に、なんだかんだ先に痺れを切らした僕が「頑固だね」と言ったとき、その口を閉じる前に、突然、暴力的な甘味を感じた。
状況はもちろん七瀬が僕の口にかにパンを押し込んだのだ。逆の手がまだピース状態だから、多分僕の口にもパンを介してピースが突き立てられているのだろう。
ニヒルに笑った七瀬が僕の口に目線を落とすと、ハッとした表情をした。その理由は僕も察している。口に収まらなかった分のクリームが溢れているのだ。
慌てて僕がパンを全て口に含む。すると僕の口周りと七瀬の指にクリームが付いた。
七瀬があーあー。と言いながら、自分の指のクリームと共に、僕の口周りのクリームも連れて手を引き、それを何食わぬ顔で自らの口に含んだ。思わず僕は咽せ込んだ。
視界から外した七瀬が言った。
「めっちゃ咽せるじゃん。顔真っ赤だよ? え、本当に大丈夫?」
心配される程には咳をした僕は、ようやく呼吸と気持ちを整えて七瀬に向いた。
「生きてる?」
言ってケラケラと笑う七瀬。全く誰のせいだと思っているんだ。
僕は暴挙に次ぐ暴挙に何度目かわからないため息を、またひとつ吐いた。
けれど旅行はまだ続く。ということは当然、七瀬の暴挙もまだまだ続いたのである。
またバスに乗り直して、次は修学旅行で泊まる予定の旅館へと向かった。
古き良き旅館という感じで、設備などは古そうだけれど、老朽化というよりは年季が入っているという言い方の方が正しいと思った。
本来なら、宿泊予定のない僕たちはサラッと外観と内観を見て次へ向かう予定だった。
そう。予定だったということは、七瀬の暴挙がまた始まったのである。
「日帰り温泉だって!」
そう言い始めた時には、僕はもう察した。五分後には売店で着替えを買っていた。
幸運にもTシャツは当たり障りのないデザインのものが一種類だけだったので、選ぶともなくそれをカゴに入れてレジに向かう。七瀬は他の必要もない小物類に目を光らせていた。
男女の暖簾が掛けられた分かれ道で、入浴時間についてまた一悶着したけれど、そこばかりは間を取る形で二十分と決めた。その代わり館内着用無料の浴衣に着替えることを条件にされた。
脱衣所で服を脱ぎながら、まぁ確かに汗を流せるというのは悪くないと自分に言い聞かせた。
温泉は正直に言うと、とても気持ちよかった。湯船は今日一日で育った日焼けの肌に染みたけれど、汗が流れたことで日焼けの肌がつっぱる感じが幾分か和らいだ。
髪を乾かして出てくると、長湯したつもりはないけれど、ちょうど二十分が経っていた。
七瀬は結局、五分遅れたけれど、僕でギリギリだったのだからそこばかりは黙って譲歩しておいてやった。
「ごめんね。遅くなっちゃって」
そう言って出てきた七瀬。髪に艶が出て、日焼けと火照りでピンク色の頬になっている。淡い紫色の浴衣を着ていて、タオルを首にかけていた。本当に急いだらしいことが伺えた。
なんとなく申し訳なさを感じた僕だけれど、刹那、続いた七瀬の言葉に打ち消された。
「どう? 浴衣姿。かわいい?」
腕を伸ばしクルリと回って言う七瀬。うざいので、僕もその場で回って言った。
「どう? 浴衣姿。かわいい?」
対し、七瀬は「おえー」と言った。続けて「吉良くんは私が欲しい言葉をわかってて言ってくれないんだもんな」と呟いていた。僕へ勝手に変な期待をされても困のだけれど。
なんにしても、時間は急がなければいけないと思った時、そういえば、と、自分と七瀬の浴衣を再認した。今更だけれど、これじゃあ旅館の外には出られないじゃないか。
そしてそれは七瀬だってわかっていただろうから、つまりは——
「よし。じゃあ卓球しよう」
そうか、やっぱりそういう事になるのか。
「旅行とは、温泉の後に不意に心惹かれてふらっと始める卓球があった方が豊かなんだよ?」
「本当、元気だよね君は」
一回、五百円で三十分。もうどうにでもなれと思った。
七瀬がラケットを二個持って、自分の背中とお尻でフリフリと振って言う。
「見て、尾ビレ、背ビレ」
「よーし。始めようか」
言って僕が玉を投げた。慌てた七瀬が打ち返すと、台を余裕で飛び越えて僕の額に直撃した。そのフォームと弾道を見てわかった。七瀬は卓球が下手らしい。
そしてもれなく僕も下手だった。
それでも僕らの闘気は凄まじく、もはや相手にどれだけ強くぶつけられるかの勝負になっていた。しばらく続けて、互いに息が切れ始めた頃に一時休戦。早くも汗をかき直していた。
ウォーターサーバーから汲んだ無料の水を、呼吸の合間を狙って飲んだ。
「私、左で打つ、バックハンドが苦手だよね」
「大丈夫。お互いにもはや卓球の形にもなってないよ」
ただでさえ呼吸が乱れているのに、お互いに苦しそうに笑った。
その後、七瀬が唐突に言った。
「吉良くん。共闘しよう」
「ダブルスは四人いないとできないよ?」
「違うよ。敵は卓球そのものさ」
「現時点で足元にも及んでないよ?」
「まずは形にしよう。ラリーを十回続けようよ」
「同感。無益な争いは無駄に疲れるだけだと、今、身を持って実感してるからね」
言って頷くと、二人で一緒に立ち上がった。
三十分をきっちり遊び尽くした後、僕らはまた息を切らしていた。
「最高記録は四十二回かぁー」
「不服そうだね。僕自身はやり切ったと思うけど」
「いや私も。燃え尽きたよ」
しばらく、ベンチに座ったまま二人とも動けなかった。
五分後にようやく、三度目の「「いっせーのでっ」」で立ち上がった。脱衣所で着替えてから、とんぼ返りで戻ってくる。温泉に入った意味は、もうほとんど無くなっていた。
今度は僕より先に暖簾の奥に七瀬が立っていた。その満面の笑みの理由は彼女の上半身を見て、すぐに察した。
「さぁ行こう。ブラザー」
迂闊だった。売店にTシャツが一種類しかないのなら、七瀬とお揃いになることくらいは容易に予想できたはずだ。ただ、予想したとしてこれしか無かったのだから、運命を恨むしかなかった。
幸いにもサイズが僕には少し小さく、七瀬には大きめだったから、別のものに見ようと思えば見える。うん。見えるはずだ。そう自分に言い聞かせた。
その後、旅館を出たのは、UFOキャッチャーも一通り楽しんでからだった。
「修学旅行ではさ、卓球とかUFOキャッチャーとかは禁止だし、こうして存分に遊びたかったんだよ!」
「まぁもう君が楽しめたなら、万事オッケーだよ」
「時間もあれだし仕方ないけど、カラオケやり残したのが悔い残るなぁ」
「まだ遊ぶ意欲があるのか……」
ともあれ、時間はもう本当に差し迫っていた。陽の光が傾き始め、ほんのり辺りがオレンジに染まり始める。日の入りが迫る刻になり、いよいよ本当に真珠岬へ向かわなければならなくなった。
バスに乗り込むと、車内に差し込む陽光が、温かみとどこか物悲しい旅の終わりを演出した。一方で七瀬は「わくわくしてきたぁー」と感情を昂らせている。
横目で七瀬が手にもつパンフレットを覗くと、さすが目玉と言うべきか。真珠岬はより一層、記述に熱量が込められていた。
人気な理由はひとえに、そこから見える絶景。特に夕暮れが素晴らしいとのことだった。あとは白い煉瓦作りの灯台や、誰かの小説の舞台になっただとかのおまけが付随するらしい。
僕は絶景に感動するような高尚な感性を持ち合わせてはいないけれど、七瀬は違うらしく、この真珠岬を焦点に予定をじっくりと思案したらしかった。そのおかげかはもう、今となっては定かではないし、尋ねたくもないのだけれど、とにかく事実としては日が落ち切るまでには真珠岬に到着できそうだった。
真珠岬へ向かうちょっとした山道の手前、そこの停留所までの三十分、バスに揺られていた。
涼しい車内、心地良く差す西日、程よい疲労感。睡魔に飲み込まれるには十分な状況だった。
頭が何回か船を漕いで、現実と夢の狭間を行ったり来たりと繰り返していた。
そしてある時、バスが段差を乗り越えた振動で意識が引き戻された。
意識が完全に覚醒しないまま目を開けると、今、自分が何故バスの中に居るのか。そして隣を見て、なぜクラスメイトの女子と——七瀬小春と一緒なのかと疑問に思った。
完全に寝ぼけていたわけだけれど、この時の僕はびっくりすることに、本気でそう疑問に思い、何故なのかと焦って、この状況に至った経緯を考えていた。
そうしてその時、僕はある過去の一幕にたどり着いた。
見つけ出したのは、答えとしては少し筋違いの記憶。ただ、それを思い起こした理由は、それが今すぐ隣で開かれていたからだ。
『これは私の、最初で最後の恋愛小説』
七瀬が書いていると言っていた恋愛小説だ。
そして恋愛小説であると同時に、ある種の予言書のようなものでもあると、僕は認識している。
あの日、その内容を僕が覗いてしまった時の会話を思い出す。
七瀬が言った、僕と七瀬が仲良くなる可能性についての一言。
『今においてはそうかもね。でも、未来では違ったら、一概に嘘とも言い切れない』
クラスに仲が良いと言いふらし、それを否定した僕に対して言ったデタラメだった。
でも今のこの現実と、その言葉を照らし合わせてみると、どうだろう。
ようやく意識が追いついてきて、これまでのこと……特に今日一日の出来事を事象として並べて思考できる今、流石の僕も、あの時の七瀬の言葉を完全に否定できるとは思えなかった。
では事象としてではなく、単に僕の感情に従い評価するとしたなら……と、考えようとしてやめた。
その答えは僕の感情なんかじゃなく、予言書であるのなら、それこそ七瀬の小説に描かれているはずだ。
そして、隣に座る七瀬を横目で見た。
僕がそのノートの内容を覗き見ることのできる機会は、あの日以来、二回目。
書いている姿を見ることは幾度かあれど、僕を含め周りに誰も居ない時を狙っているようだった。今思えば、あの日、無防備にクラスの机に置いてあることが特異な出来事だったのだ。
つまり、僕がこうして七瀬の小説を覗くことができる瞬間は滅多になかった。
自分でも魔が刺したのだと自覚しながらも、しかし僕と七瀬の関係は、その小説にはどのように描かれているのか……薄く目を開け視線をノートに向けた——その時だった。
鈍い音がした。感覚が追いついてきて初めて、それが自分の後頭部に何かがぶつかった音だとわかった。そして、その正体は探る前にわかった。
突如、僕の右半身にもたれかかるように倒れてきた七瀬だった。
ノートを覗こうとしているのがバレたのかと思ったけれど、そうではないことはすぐにわかった。耳に近い位置で聞こえてくる七瀬の呼吸音が、普通では無かったから。
「どうしたの?」
七瀬の体を支えながら、ゆっくりと僕から引き離して問いかけた。そして七瀬の顔を見て狼狽えた。顔が真っ青だった。涼しい車内でひどい汗をかいていて、呼吸も浅く苦しそうに繰り返していた。その呼吸の合間に、七瀬が掠れた声で答えた。
「あたま……痛くて……」
そう聞いて、焦りながらも冷静に、おそらく熱中症だろうと思った。日焼けもしているし、途中温泉にも入っている。その上で彼女が水分を口にしたのは、卓球後に小さな紙コップで飲んだ水が最後だったように記憶している。
「水……ほしい」
水分は二人とも持っていなかった。ぬかった。バスに乗る間は取り敢えず、大丈夫だと思ったのだ。
僕はとにかく焦った。バスの車窓から外を見渡し、自販機を見つけるとボタンで降車の意志を示した。しかし、押せどバスは停まらない。当然だ。バスが停まるのはバス停なのだから。それを忘れるほどに気が動転していた。
「降ります! 降りますここで!」
とにかく運転手にそう叫んだ。そして七瀬を背負い、バスの前方へ急いだ。運転手には走行中に車内を歩くなと注意を受けたけれど、素直に聞いている余裕は無かった。
ちょうどその時にバスが停車した。バス停にたどり着いたらしかった。僕は急いで運賃の投入口に向かって小銭入れをひっくり返した。直前にUFOキャッチャーをしたこともあり、両替した分、料金が十分に足りていることは理解していた。
運転手が何か言っていたけれど、そんな声は聞こえないふりをするともなく聞こえなかった。
バスを降りると、さっき見かけた自販機まで七瀬を背負ったまま無心で走った。
肺と鳩尾が痛み、足がもつれても、とにかく前に体を運んだ。怖かった。得体の知れない恐怖がどれだけ進んでもピッタリと背中にくっついて離れなかった。
やっと自販機まで辿り着いた。
小銭入れを開いて、今さっきその中身の全てを消費した事実に直面する。すぐさま紙幣に切り替えた。震える手で自販機に吸い込ませるのには、時間がかかった。
ようやくペットボトルが吐き出され、すかさず手にした僕は、地面に七瀬を下ろし、抱えながら水を飲ませた。七瀬の震える唇に水を流し込むことも、酷く難しかった。
結局半分ほどを溢しながら注ぎ込んだ。
七瀬が一度、嚥下したのを確認すると、ボトルを口から離す。
でもそこで再度、七瀬の体温を感じてみて、気付かされる。
なぜ七瀬をバスから下ろしたのか。水もそうだけれど、炎天下に居させては意味がない。もっとやりようがあったはずだ。
しかし、後悔している暇はない。とにかく、せめて陰になるような場所を見つけなければ。
僕はまた立ち上がり、辺りを見回す。下から七瀬が何か言う声が聞こえたが、言葉として耳に入らなかった。
少し先の曲がり角の奥、そこに木が並んでいるように見える。一瞬考えて、とりあえずそこが影になっているのか、僕一人で行って先に確認してきた方が良いと思った。
また踏み出す足は重かった。曲がり角の先にちゃんと木陰があるのかと、不安に押し潰されそうだった。ついに角の先を見やる時、僕は祈るような気持ちで目を向けた。
そこには——十分な木陰が存在していた。ほんの少しの安堵感に、震えた息が漏れた。しかし今度は、七瀬をここに連れてこなければならない。
踵を返し、着た道を引き返す。そして角を曲がって——戦慄した。
七瀬がこちらに背を向ける形でうずくまっていた。
「七瀬‼︎」
自分でも聞いたことの無いくらいの声量で叫び、七瀬に駆け寄った。
僕も半ば倒れ込むような勢いで七瀬の肩に手を触れ、表情を確認するために七瀬の体を起こした。
その一瞬、七瀬の妙な仕草を見た気がした。束で纏めた何かをバックに隠すような——しかし、今はそんな疑念も瑣末な事で、一刻も早く七瀬を木陰に連れて行くのが先だ。
また七瀬を背負い、走り、角を曲がり、手頃な木の幹を選んで、もたれ掛からせるように座らせた。
「水、まだある?」
七瀬は小さく頷いてバックからさっきのボトルを取り出した。僕が思っているよりも水量が減っていた。
「もう足りない? 買ってくるよ。走ればすぐだから。あ、水よりスポーツドリンクの方が良いよね——」
言いつつ立ち上がろうとした時、七瀬に手を掴まれた。
「大丈夫……薬も飲んだから」
そう言うと七瀬は手を下ろし、水も地面へ置いた。そのままバックを抱えるように胸に抱くと顔を伏せる。
「もうちょっとで、良くなるから」
何を根拠に良くなるのか、そもそも熱中症に効く薬とは何なのかと思ったけれど、本人がそう言うなら信じる他にない。ただ、じっとしても居られない。
「僕に、他にできることはある?」
言い切る前に、七瀬が僕のズボンの裾を摘んだ。
「ここに居てくれたらそれでいい……」
それで僕は動くに動けなくなって、そのまま七瀬に向かい合う形でしゃがんだ。
まだ肩で息をする七瀬を見ていると、僕の一連の対応が反芻するように思い起こされた。
反省というよりも強迫観念に襲われていた。
当然、他人の命が自分にかかっていることへの恐怖もあった。でも、僕を芯から震え上がらせるものの正体は、また少し別の性質を持っていた。
それが何かは靄がかかって判然としない。ただ、その恐怖にはどこか既視感があった。
この恐怖を、僕は知っている。
だから……なのかも知れない。僕は顔を上げることができなくなっていた。金縛りのように、目線が地面へと固定されていた。再度、七瀬の顔を見る、表情を伺うことができなかった。
どのくらいそうして居ただろう。
もう時間感覚でさえ遠のいていた時、突如、両頬に衝撃を感じた。
「吉良くん!」
意識が引き戻されると同時に、その大声にハッとした。同時に頭をぐいっと引っ張られる。驚きに見開いた目は、七瀬の顔をしっかりと捉えた。
「もぅ! 何回も呼んでるのに無視しないでよ」
言って七瀬が僕の顔から手を離す。状況が掴めずに居ると、七瀬が続けて言った。
「しんどいの、治ったよ」
「へ?」
間抜けな声が出た。
「だから乗り物酔い、治りましたよ!」
「へぇぇ?」
間抜けすぎる声が出た。
「何でそんなに驚いてるの?」
「は? え、だって君——」
僕が話す前に、七瀬が吹き出した。これでもかというくらい元気に笑っている。
「やっぱり熱中症か何かだと思ってた?」
混乱する僕は、頷くことしかできない。
「だから何回も言ったじゃんか。大丈夫だって。乗り物酔いだからって。必死で聞いてなかったのは吉良くんだよ?」
そう聞いて全身の力が抜けた。そうしたら長くしゃがんでいた影響からの強烈な足の痺れを自覚して、そのまま尻餅をついた。
対する七瀬も笑いすぎて転げた。そして目尻を拭いながら言った。
「でも、本当ありがとね。助かったのは事実だよ」
ようやく状況を飲み込めば、なるほど。さっきの発言にも納得できる。
「薬を飲めば治るってのも、そういうことか……」
「そうそう。なのに吉良くんが話を聞いてくれないから、なかなか飲むタイミングがなくて、この場所を探しに行ってくれた時に、何とか隠れて飲んだんだよ」
自分に呆れた。色々と杞憂だったのは良いけど、安堵よりも変な疲労を強く感じた。
「てか、酔い止めなら先に飲んでおきなよ」
七瀬が分かりやすく困った表情をした。
「あ、あと飲みタイプなんだもん」
「そんな酔い止めあってたまるか……」
聞いて呆れる。だけどまぁ、これがいつも通りの七瀬だった。
今日、何度目かわからないため息を、今日一番長く吐いた。息と一緒に項垂れると、地面に長くオレンジの光が伸びているのに気づいた。
光を辿るように見る。それで気づく。ここは海岸をぐるっと囲む並木だったらしい。必死だから気づかなかった。そして光の正体は、言わずもがな夕日だ。
水平線に沈んでいく輝きを見て、真珠岬と呼ばれる由来に納得した。
「空と海が貝殻で、夕日が真珠。快晴が多く、風が穏やかな、気候に恵まれた風土だからこそ生まれる絶景なんだって」
言って七瀬が僕に向いた。そして続けた。
「ねぇ、もっと海に近づいて見てみようよ」
波打ち際にちょうど良い岩を見つけた。ここに来るまでに自販機で買った、僕の冷たい缶コーヒーと、七瀬の冷たい缶ココアを先に岩へ置いてから、七瀬と隣同士で岩へ腰かけた。ちなみに七瀬がカフェモカにしなかったのは、単にラインナップに無かっただけだ。
岩の座面にあたる部分が少し高い。そのせいか七瀬は足は少し地面から浮いていた。
夕日から少し目を逸らした位置に、海と空へ向かって伸びる縣崖があった。あれが正真正銘の真珠岬だと一目でわかった。
「結局、真珠岬には行けなかったね」
僕が言うと、七瀬が足をぷらぷらとさせながら答える。
「綺麗な景色は今、見れてるから良いよ。それに、あそこは終着点だから。まだ辿り着いちゃいけないの」
「終着点? 何の暗喩?」
「そうだねぇ。ものが……いや、今日の言葉を使うなら、旅の終着点だね」
「つまり、この旅行の終着点って意味?」
「広義ではそうだね」
「広義では……?」
「そう。私さ、今日のこの旅行に意味を探し出すって話をしてたよね」
そんなこと言っていたような気もする。正直、七瀬との数多ある適当な会話に埋もれて忘れていたけれど、とりあえず相槌をうっておく。
七瀬はそのまま続けた。
「ひとまず今日、私にとっての意味は見つかったんだよね」
言って、七瀬が跳ねるようにして上半身から僕に向く。
「今日一日とっても楽しかった。阿古屋もすっごくいい町で、ここでならきっと素敵な修学旅行ができると思った!」
そのまま拳を握り「だから」と続ける。
「もっと頑張ろう。絶対に成功させてやろう。皆を楽し死にさせてやるんだ! ってくらいの気持ちになれた」
その拳を、真珠岬へ向ける。
「今日は、ここから意気込んだ」
拳を開き、今度は真珠岬に指をさす。
「そして最後はあそこ。真珠岬で完全勝利する。今日はまだ辿り着けなかったあの場所でね」
今日までの七瀬を見ていれば、その言葉が嘘でないことがわかる。今日一日を過ごしてみて、彼女がさらにそう意気込めたのなら、下見の甲斐は十分にあったと思った。
七瀬がまた僕に向いた。
「吉良くんは今日、どうだった?」
どうだった? という回答範囲の広い質問に対し、僕はとにかく正直に今日一日に対する感想を一言で述べた。
「大変だったよ。君に振り回されて。でも楽しかった」
七瀬は「おぉぉ!」と感嘆して、頷きながら拍手をした。
しかしすぐにその拍手を止めて「でもぉ」と続け、
「そこは素直に私のおかげでって言いなよ!」と、肩で僕を押してくる。
「ほら言ってみな! 七瀬のおかげだよって!」
未だ嬉々とした表情で捲し立てられる。面倒だから、いっそ望み通り言ってやろうかと少し悩んでみて、今日を思い返し、逆に確信した。
「いいや、『おかげで』とはお世辞でも言えない。『君のせいで』までが譲歩の限界かな」
「全くもって譲ってないじゃ〜ん!」
言いながら七瀬は宙を仰ぎ、そのまま後ろに手を突いて反り返った。
しかしそのまま「まぁでも」と、また口を開く。
「楽しかったって言葉を引き出せたのは収穫だね」
また足をぶらぶらとさせ始めると、こう続けた。
「今なら、今朝、私が言った言葉の意味も理解して貰えるんじゃないかな」
今朝の言葉……生憎それも思い当たる節がなかった。
「どんな言葉だったっけ?」
「旅行は迎えに行くもの」
ゆっくりと、七瀬は言った。
「今日一日、色んな所に行ったでしょ? 計画して、はたまた直感に従って、選択しながらここまで来たんだよ。色んな体験、出会い、風景を自分から迎えに行ったんだ」
言って、七瀬が徐に両手を前に翳す。
「けど、旅には必ず終わりがある。いつかは旅路を引き返す。そんな時には確かに、後ろ髪を引かれる。でも、それでも選択して迎えに行った経験や思い出が逃げていくことはない」
両手の人差し指と親指で四角い枠を作って、その中を覗き込む。その枠を夕日に、空に、海に、木に、あらゆるところに向け、覗き込みながら言う。
「それは私のためだけの私の記憶じゃない。今日出会った人や、その時流れていた時間や、空間や世界が記録して、何より一緒に過ごした吉良くんと共有してる。きっとそこかしこに、私達の存在の残り香がある」
そして砂浜に残る僕らの足跡の後に、今度は僕を覗き込んだ。
「人生も旅によく例えられる。選んで進む。そしたら戻れないけど寄り添ってくれる。それでも寂しければまた進む。そうやってずっと迎えに行くんだよ。自分では逃げたつもりでも、いかなる選択もどこかに、誰かに、何かに繋がる」
枠を解いた七瀬が、僕と目を合わせる。
「今の吉良くんは、それをうざったいと思うはず。でも、これだけは言える。吉良くんはいつだって一人じゃないよ。どんな未来を選び取って、どこに行っても。だから、私と過ごした今日という一日を、いつか温かい思い出だと思えたときには、きっと抱きしめてね」
正直、七瀬の語る理論には、色々とツッコミどころがあると思った。けれど、どれも七瀬らしく眩しいくらいに前向きな言葉だった。聞いていて胃もたれがしそうだった。けれど胃に飲み下したということは、僕はちゃっかりその言葉を飲み込んでいるのだということを自覚した。
「なんか大袈裟なこと言っちゃってる。痛いやつみたいだ」
七瀬が耳を赤くしてはにかんだ。
何を今更と思ったけれど、口には出さなかった。
七瀬がそこでココアのプルタブを開けた。
僕も習ってコーヒーのプルタブに指をかけた。
二回、缶を開栓する音が耳に届いた。そこからは少し、お互いに黙ったまま夕陽を眺めた。
お互いに三口くらい飲んで、缶が半分の重さになったくらいの時、七瀬が唐突に僕の手からコーヒーを取り上げ、それを眺めた。
デザインに特別さはない。僕は何度も知らずのうちに口にしているはずの、青色でどこかの山脈が描かれているものだ。
七瀬が呟いた。
「ブルーマウンテンか」
「何、それなら飲めるの?」
「いや、私はブルーノ•マーズだよ」
「え? どういうこと?」
「あぁ、ブルーノ•マーズ知らないのね。なんかボケを拾って貰えない感じ初めてで、ちょっとダメージが……」
「もっと大衆にわかりやすいネタにすべきだったね」
「うぅぅ」と唸る七瀬が「むしろ大衆に有名なアーティストなんだけど」と言う。
「生憎、僕は音楽に疎いんだ」
「それじゃあ、自己紹介で趣味を発表する時になんて言うの?」
「ありませんって言うよ」
「えぇ、なんか悲しいじゃん」
「むしろ皆が皆、当たり障りなく『音楽を聞くこと』と、とりあえず答えておくことの方が奇妙だと思うけれど」
そう言うと、七瀬が首を傾げる。
「え? 皆、音楽が好きだからそう答えてるだけでしょ?」
こうも価値観の違いで認識が変わるのかと思った。何だか僕の卑屈さが浮き彫りにされたみたいで気に食わなかったから、少し意地悪をすることにした。
「そんな音楽好きの七瀬は、ブルーノ•マーズのどんなところが好きなの?」
「あ、いや、実は私も最近、一曲だけ知って、ハマってるだけでさ『Count On Me』って言うんだけど」
「あれ? 浅はかなんじゃない?」
「でも、すっごい良い歌なんだよ!」
身を乗り出してまで言う七瀬。今度は意地悪じゃなくて、単純に彼女がそこまで言う歌を聞いてみたくなった。
「じゃあ、どんな歌なの? 歌える?」
何の気なしにそう言った。七瀬ならサラッと歌い出しそうだったから。
けれど、七瀬はたじろぐように身を引いた。意外だった。
「い、嫌ならいいけど」
僕がそう言うと一転、緊張した顔をして、鼻息を鳴らした。別に鼓舞したつもりはないのだけれど。
七瀬が一つ咳払いをする。そして一度深く呼吸した後、歌い始めた。英語の歌詞だった。
歌い出しは恥ずかしさからか、声が細くて小さかった。それでも、綺麗で透き通るような声だった。
七瀬が耳を真っ赤にして、少し潤んだ目で僕をチラッと見る。僕が真面目な顔で頷いて返すと、また前を向いて少し安定した声で歌い出した。
英語の発音は多分、良くはなさそうだった。けれど、得意がった感じがなくて、とても良い意味で、七瀬小春が口ずさむメロディになっていた。
一番を歌い切った後、僕は正直に感想を述べた。
「いい歌だね」
七瀬はまだ赤みを残した顔のまま、強がるように顔を上げて、「そうでしょ」と言った。
「歌詞はどんな意味なの?」
「広義では友情の歌だよ。僕が駆けつけるからって」
「狭義では?」
「私が居るよって吉良くんに歌ってあげたの」
「……へぇ、そうですか」
いつもいつも、そういう風にするから、締まるところが締まらないのだと思うけれど、何だかそれも七瀬らしくて、七瀬小春のプチコンサートとしてはお馴染みの終幕だった。
七瀬が僕から取り上げたコーヒーを、自分のココアと共に並べて眺めながら言った。
「浜辺で洋楽を口ずさみ、ここでコーヒーでも飲めたら、格好がつくんだけどね」
そして、徐にコーヒーに無断で口をつけた。
一度喉が上下して、口を離すと、下唇を裏返すようにして言った。
「私は大人に成れないや」
言った後、七瀬は緩く笑った顔で僕にココアを渡してきた。僕もココアを飲んだ。
「甘い。舌がシガシガする」
「大人だねぇ〜。でも、いつか吉良くんにココアを美味しいと言わせたいよ」
「別に不味くはないけどね。それよりも先に、君がコーヒーを飲めるようにならないと」
「コーヒーを飲めるようになるのは『成長』ココアを飲めるようになるのは『気付き』だよ。凝り固まった認識を改めないと」
「それはどちらにだって言えるだろ」
僕の反論に対し、七瀬は首を振った。
「私は今日、先に一つの認識を改めたから。気付きを得た」
「何だよ。どんな気付き?」
七瀬は、まだ手の中に握っているコーヒーを見つめながら言った。
「ヒロインが死んでもいい小説もありだなって思ったの」
そして残りのコーヒーを一口であおった。
「生き方を旅と言うなら、死に方も旅。終わり方にも迎えの行き方があるんだなってことに気付いた」
そう言うのなら、なんだかさっき七瀬が言った言葉と、色々と矛盾する所がある気がした。
それでも、勝手にそう心変わりがしただけなら知ったこっちゃない。ただ一つ、危機感を覚えるのは——
「劇の台本も変わるの?」今更劇の内容を変えられては困る。
焦るように言った僕に対し、七瀬は何食わぬ顔で僕を見つめ、ふふんと笑った。
「安心して。内容は変えないよ。あくまで私の気付きってだけ。むしろ文化祭は私の希望であって欲しいから。やっぱりヒロインには死んでほしくないし、ヒロインだって死にたくないよ」
回りくどい言い方だっただけに、解釈に時間がかかった。ようやく理解して、安堵した。
「……はぁ、びっくりさせるようなこと言わないでよ」
「ごめん、ごめん」
思ったより僕が真面目に反応したからだろう。七瀬があやすように僕の肩を叩いて謝った。
そして、そのまま七瀬は今度こう言った。
「必ず成功させようぜ。な、ブラザー」
小さい拳が僕に伸ばされる。その拳の背景に、七瀬のTシャツが。つまり僕らのお揃いのTシャツが映った。
呆れた。またため息が出そうだったけれど、押さえ込む。ここは拳を合わせておくのが賢明だった。
どのみち、どうせまた振り回されるであろう未来を予想しながら、僕は言った。
「まぁ、やるからには成功を目指そう」
言ってから、締まらない返答だと言われそうだと思った。けれど七瀬は満面の笑みで拳を衝突させた。
「「痛っ」」
二人同時に言った。七瀬の力加減が相変わらずバカだった。
二人で拳を摩りながら、七瀬は伺うように。僕は睨むように、お互いを見つめた。
そうして二人それぞれの神妙な顔は、もはやお約束のようにほぐれた。
ひとしきり笑った後、また雑談をした。そして程なくして、夕陽は沈んだ。
帰りは疲れもあって寄り道はしなかった。むしろ帰りの電車の記憶はほとんどない。
ふと目が覚めて、隣を見ると七瀬が寝息を立てている。そんな確認を三回くらいしたことしか覚えていない。
夕食は駅前の牛丼屋で腹を満たした。そこでようやくお互い目が覚めたらしい。
「「これはこれでいいよね」」
そう、どちらともなく言って、あっというまに平らげた。
最後はまた、いつもの交差点で別れた。
七瀬が例のあこやん缶バッチを翳した。
「じゃあ、またね〜」
再度見ても、僕はその奇妙なキャラクターを好きにはなれなかった。
「じゃあ」
それだけを言って歩き出すと、七瀬が「もぉ〜!」と声を上げていた。
本当、仕方ないなと思った。そう。もうリュックに付けられてしまっているのなら、仕方がなかった。
わざと体を左右に揺らした。ちゃんと缶バッチのついた左側を軸にして。
そしたら、後ろから七瀬がワントーン上がった声で言った。
「また明日ね!」
もう見えるかどうかわからないけれど、大袈裟に頷いて答えておいた。
家に帰ると九時を回っていた。身支度を済ませたら、自然と布団に潜っていた。
しばらく今日の記憶が鮮明に頭の中を駆け回っていた。日に焼けた体も妙に熱を帯びていたから、ほぼ無意識でタオルケットを放った。寝付くには大変な夜だなと思った。
けれど、それがその日最後の記憶。いつの間にか、でも結構早々に、僕は眠りに落ちていた。
夏休みも、残すところあと一日となった。旅行委員については着々と用意が進んでいた。
毎週水曜日は学校で。それ以外の日でもよく顔を合わせていた。勿論、いつも通りの無理矢理な感じで……ほぼ拉致に違い時もあった。
でも、その『おかげで』と言うか、その『せいで』、あとは休み明け初日の明日、クラスで内容を発表し、実際に動き始めるのみという具合だった。
ある意味、全てが順調だった。
だからこそ、以前のような僕や七瀬の問題とか疑問は、些細なものにしか感じていなかった。
「七瀬さん!?」
だけれど夏休みの最終日。バイト中に七瀬が突然倒れた。
店長を含めて社員の慌てようを見るに、以前に聞いた貧血ではなく、只事ではない様子だった。だから僕は「七瀬に何があったんですか?」と聞いた。店長はこう返答した。
「以前にも何度かあったことらしいから、心配しなくて大丈夫だそうだ。だから詳しいことは、僕から君に話すことはできないよ」
妙な言い回しだった。だけれど救急車も呼ばず、七瀬は控室で寝かされていたから、少なくとも、いや絶対に深刻というほどではないだろうと思って、胸を撫で下ろした。
ただ、妙なことはさらに続いた。
「小春!?」と叫び、七瀬を迎えに来たのは北島だった。彼は控室で横になる七瀬に駆け寄り「無茶すんなって言っただろ!」と言った。『無茶』から『負担』という幾度か聞いた七瀬に関する単語を思い出す。それが七瀬にとって一体何を表すのか、尋ねようと北島に近づいた時、僕は後ろ向きに倒れていた。
衝撃で体が浮き上がったところをキャッチするように、北島が僕の襟首を掴み上げる。
「小春に何かあったら許さないって、俺、言ったよな?」
突然の事態に未だ混乱している。でも流石にここまでの横暴さには黙っていられない。
「その何かが先にわかったら苦労してない。体調が悪いなら先に言ってくれてれば——」
「浮かれてんじゃねぇよ」
浮かれてる? 僕が? 意味がわからない。でも、なぜかその一言で頭に血が昇った。
「僕が浮かれてる? 馬鹿言わないでくれるかな。北島こそ、勘違いしてんだろ」
言い返すと、北島の顔が一層歪む。僕の襟を掴む手が震えだした。
「勘違いだと? ならお前、勘違いで十年もこの重さに耐えられるってのかよ‼」
重症だ。彼は何かに酷く酔っているらしい。
「そんな所こそ、お前が度を超えた勘違い野郎だって証拠じゃないのかよ!!」
北島の怒号に張り合うように叫ぶ。だけれどそうした時、僕は不思議な浮遊感を覚えた。
確かに直後の北島の拳を僕は今、顔面に受けているけれど、でも、それが原因じゃない。
この浮遊感は、激しく憤る自分を客観的に見て、自分で自分に疑問を感じているからだ。
「ちょっと、やめてよ……」
しかし、北島が拳を振り抜いた直後、そう七瀬の声が聞こえた。声量は小さかったけれど、その声は僕を冷静にさせ、北島を止めた。
「こんなことをしている場合じゃないだろ」
店長が言った。すると北島は、「だから一万発のところを二発で終えただろ」と、そう返して、七瀬を負ぶう。そのまま北島は呟くように、でも確実に僕に向けてまた言った。
「浮かれてんじゃねぇ」
もう一度言われて、僕は再び血が沸くのがわかった。そうだ。僕はさっきもこの言葉に反応して熱くなったんだ。
北島が立ち上がると、「待って」と、七瀬がそう言い、さらに続けた。
「私ね、気候の変化に敏感でさ、こうして貧血で倒れちゃうことがあって……。だから、そう。今日はこの後雨が降るよ……」
そこで一旦、七瀬は言い淀んだ。彼女の迷いは、いつもと変わらずにわかりやすい。
「あはは。じゃなくて……明日が休み明け初登校日クラスへの報告会だね。絶対に私——」
また七瀬が口を開いてそこまで言った時、僕が続く言葉を奪った。
「僕がやる。僕だけでやってみせるよ」
「え?」
「ここまで二人で形にしてきた。情報の共有も理解もできてる。だから僕に任せてよ。僕だってある程度、真剣に向き合ってきたんだ」
言って未だ不安げな七瀬を一目見てから北島に向いた。彼は横目で僕を睨み、それから歩き出した。その背中で七瀬が言った。
「……わかった」
二人が職員用通路から消えると、暫くしてエンジン音が聞こえ始め、そして遠ざかった。完全に音が聞こえなくなった時、僕は店長に肩を叩かれ、今日は帰るようにと促された。
帰り道、七瀬の言った通り、雨が降った。傘をさそうとは思わなかった。
翌日、正直、僕は朝から落ち着かなかった。それでもやることは変わらない。これまでのことを説明し、順調に事を進めれば——
「劇ってセリフ覚えるってわけ? そんで、ロミオとジュリエット?」と誰かが言った。
クラスが騒つく。良い反応ではないことは僕でもすぐにわかった。
「台本はできてるし、準備の時間は十分にある。内容だって凝って作り替えたんだ……」
そう言ってはみるものの、僕に目を向けている者は居ない。教壇の上に立っているのに、言いようの無い疎外感を覚える。
だけれど、元から僕はそうだ。そう生きてきたんだから仕方がない。だから。
「七瀬が考えたんだ……よ?」
こう言えば、ヒロインの名を出せば——、
「だから?」だけれど、また誰かがそう言う。
「小春が考えたからって」「劇は劇だしな」と、声が続いた。蝉の声が遠く聞こえ、蒸し暑さが異常に僕に纏わりついて耳鳴りがする。
なんとかするんだ。何か言わなければ。
「僕だって——」
嫌にタイミングが噛み合った。クラスの喧騒の継ぎ目に、僕の声が通った。そして続く言葉を発声しようとしてハッとした。僕は今、何と言おうとしていた? いや、言おうとしたのは僕自身だ。わかっている。
『僕だってやりたくない』そう言おうとした。
一瞬でも逃げようとした自分に唖然とする。
だけれど……「仕方がないじゃないか」とそう言ってしまいたくなる。だって、僕はヒロインじゃない。主役じゃないから——。
それに、さっき七瀬の名を出しても皆の賛同は得られなかった。それならこの話はそもそも最初から……。
「お前自身がやる気ねぇならやめちまえよ」
だけどその時、そう北島の声が聞こえた。反射的に目を向ける。彼は昨日と変わらない目で僕を見ていた。いや、彼は僕の目の奥までもを見抜き、そう言ったのかもしれない。
『浮かれてんじゃねぇ』と、昨日の言葉が頭に蘇る。また血が湧き立つのを感じる。
違う。僕は浮かれてなんていない。やりたくないなんて、思っていない。
すると、僕の頭の中にあの声が一閃する。
『やってみたいって理由以外に何か必要ですか?』
あの日の七瀬の声。北島とあの奥山を振り切ったあの声。そこには何があったか。
それは、もう僕自身が彼女を通じて知った。
そして、そう思った時には声が出ていた。
「やりたいんだっ!」
クラスの皆の視線が僕に集まった。でも、怯んだりはしない。言葉も勝手に溢れてきた。
「どうしてもやりたいんだ!」「どうすれば面白くなるか、七瀬と沢山考えた」「だからお願いします!」「僕も全力を尽くすから!」
一息にここまで言い切ったから、もう一言でも発声すればむせ返るとわかる。「だけど」、それでも、僕はもう言葉を止められない。
「一緒にやろうよ!!」
言い切った途端、案の定ひどくむせて、同時に息継ぎを挟まなかった代償にも襲われる。
それでも、そんな苦しさよりクラスの反応の方が気になって、無理やり顔を上げた。
だけどその瞬間に、教室の扉が突然に開く。
「いいぞ澄人! 俺もやりたいぞ!」
そう雄叫びを上げ、奥山が飛び込んできた。
まだ息は苦しい。でも僕はたまらず言った。
「うるせぇ!! 僕らがやるんだ! 僕らがやりたいんだ! 修学旅行は、僕らのもんだ!」
言い切った時、熱が引くみたいに、教室がシンと静まった。すると、声を堪えて小さく笑う声がどこからか聞こえてきた。笑っているのは、北島だった。彼はひとしきり笑ってから、袖で目を拭っていた。
クラスの皆が、あの北島が笑っている。と、動揺しているのがわかった。
すると、青葉が突然に立ち上がって言った。
「そうだよな。修学旅行ってのは俺たちのもんだ。先公に無理やり言い包められたままの修学旅行なんてのは偽物だ」
そのすぐ後に、引き継ぐように朝井が言う。
「そんな偽物を、吉良と小春の、あんたらの考えた劇なら、本物にできるって?」
朝井がそう言うと、皆の視線が僕に集まる。
なんと返すのが正解だろう。七瀬ならどう言うだろう。と、そう考える必要はもうない。この状況下において、七瀬も僕もお互いに言うことは変わらないはずだ。だって僕らはここまで、二人で最善を尽くしてきたのだから。
「僕らは最高の準備を進めてきた。だから、本物にできるかどうか、後は演者次第だ」
言い切ると、朝井がニヤリと笑った。
「受けて立とうじゃないの」
朝井の言葉がきっかけとなり、クラス中から「やってやろうぜ!」「下剋上だ!」「修学旅行を取り戻すぞ!」と次々に声が上がる。
きょとんとしていた奥山も、いつの間にか「盛り上がってきたぁ!」とまた叫んでいた。
かくして、紆余曲折あったものの、僕と七瀬の夏の努力が、まず一つ報われたらしい。
緊張から解放されると、体が重くなったようなひどい疲労を感じたけれど、でも昨日からの妙な浮遊感はなくなっていた。