テスト期間中は、暇になると嫌な事を思い出すからと勉強に集中すれば随分と捗った。けれど悪目立ちもしたくないから、本番ではあえて平均点を少し超えるくらいを目指した。
 結果も、全体的に予想通りの点数と言えた。
 一方、旅行委員についての進展はない。あの日、駅で僕が勝手に消えたことについてもお咎め無し。どころか、以来、一度も会話していない。流石の七瀬もテストとなれば委員などに現を抜かす余裕はなかったのだろう。
 と、そう思っていたけれど、赤点を取った補修対象者が発表された時、そこに七瀬の名があった。さらに彼女はほぼ全科目で赤点を取っていた。彼女にしては珍しいことだった。
 何か理由はあるのだろうけれど、委員に熱量を向け、他人にまでそれを押し付けるような人間が、本分を容易におろそかにするのは、どうかと思った。
 さらに補習の日程が告げられると、七瀬は一人、予定が合わないと申し出て、個別で受けることになった。余計に滑稽に思えた。
 終礼が終わった。僕はテスト期間中も休みなく通ったバイト先へ、今日も向かう。
 そうして廊下を歩いていると、後ろから七瀬に声をかけられた。あの日ぶりの会話だ。
「ごめん。来週の委員さ、補習で出られそうにないから、オフにしていいかな」
「来週から、もう夏休みのはずだけど」
「夏休みでも委員は何度かあるよ? 最初にもらった要項に日にち指定してあったでしょ」
「あぁそうなの」
「うん。だから貴重な一回分を無駄にしちゃうけど、ごめんね」
「僕は別に気にしないよ。じゃあこれで」
 淡白な返答になったのは、単に彼女のことを無責任だなと思ったから。
 勿論、彼女は申し訳なさそうな表情はしていたし「うん、じゃあね」と去って行く七瀬には、先々週のテスト前最後の委員会でのわだかまりを意識している様子が窺えたけれど、それを含めてもやっぱり無責任だと感じた。
 でも、委員が一回分無くなることは悪い話じゃなかったから、僕は気にせず歩き始める。けれど、またすぐに誰かに呼び止められた。
「委員、なかなか張り切ってるじゃねぇか!」
 聞こえると同時に背中に平手の衝撃があった。それで奥山だとわかる。
「何がです?」
「演劇やるんだろ? 台本も書いて、予算も自腹切ってまでやるなんて大したもんだ!」
 台本や予算についてまとめた? 勿論、僕はしていない。それらはテスト明けから取り組むことになっていた。ならばそれは七瀬が一人でやったに違いなかった。
「ただ、やる気を出すのはいいんだがな、あんまり負担にはならないよう、気をつけてな」
 奥山がいつも言う、七瀬の負担という言葉が、やけにわかりやすく聞こえる。
 七瀬はなぜテスト期間中に僕に黙って、急くように事を進めたのだろう。正確にはわからない。けれど、先々週の委員のことがフラッシュバックして、僕はたまらず聞いていた。
「その負担って、七瀬の補習にも関係ありますか?」
 奥山はなぜか困惑した表情になって言う。
「あ、いや、そうじゃなくて、小春は……」
「七瀬は?」
「あ、いやな……あいつは前から理系科目が苦手なんだよ」
 奥山の返答は、はっきりしないものだった。何より彼は言いながら、また鼻の頭を触った。
「まぁとにかく、先生は頑張る奴は応援する。でも、熱の入れすぎも良くないからな」
 奥山は言って、僕の肩を叩いて去って行く。その手には、さっきより力が込もっていた
 廊下に残された僕は、立たされているような気持ちだった。けれど、そこから僕の足を動かしたのは、一つの違和感だった。
 僕は教室へ走った。そして補習対象の生徒と日程。また、担当教員を確認した。
 七瀬のためだけに用意された別日程の担当教員に奥山とあるのを見て、僕は罪悪感と違和感の落とし所を見つけた。

 一週間後、七瀬の補習の日。教室からは、奥山と七瀬の話し声が聞こえている。
「お前は特別なんだから、そんなに頑張らなくてもいいんだぞ? 俺はお前が学校に来てくれているだけで嬉しいんだ」
「特別だなんて、そんな言い方しないでください。私も皆と何一つ変わらない一生徒です」
「そうは言っても、俺の気持ちもわかってくれよ……」
 二人の会話を聞き、僕の心は揺れていた。今日、僕は奥山と七瀬の関係を暴きに来た。無論この行動は勝負とは一切、関係がない。
 一方で、僕があの日の最後に雰囲気を悪くしたせいで、七瀬が何かを気負い、テストを犠牲に委員の仕事を急いだとするなら、七瀬のこの補習は僕にも無関係じゃなかった。
 そして、その補習は……何も不純な妄想をしたわけじゃないけれど、これまでの七瀬に対する奥山の態度を鑑みた上で、彼らを二人きりにする状況を間接的であれ僕が作り上げたと思えば、モヤが残った。
 ただ、今、ここまでの会話を聞いている限り、少なくとも七瀬に危険があるようには思えず、であれば、七瀬と奥山が他のどんな関係であろうと、僕が口を挟む理由はな——
「罪悪感と違和感の落とし所だったんです」
 その時、そう七瀬の声が聞こえてきた。そう言った意図は知らないけれど、偶然にもその言葉は、僕がここに来た理由と同じだった。
 それで僕はハッとした。七瀬に危険がないなんて、僕の主観的観測でしかなくて、ましてや希望的観測であったかもしれない。思うや否や、僕は教室へと飛び込んだ。
「あれ? 私、今日は委員お休みって——」
 教室の扉を開けた途端、七瀬が驚いた様子でそう言ったけれど、僕はそれを無視したまま彼女の座る机まで行って、言った。
「君と奥山はどういう関係なの?」
「どういう関係って、え? どういう関係?」
「いや、だから——」
 そこまで言いかけた時、奥山が「なんだ澄人。ついにこんなとこまで来ちまったのか?」と妙に力の込もった声で言って近づいてくる。
 そして、そのまま奥山が手をスッと僕の方に伸ばしてくると、瞬間的に体が硬直した。
 直後、奥山の手が頭に触れる。
「いいねぇ澄人、最近随分頑張ってるな!」
 感じる刺激は乱暴だけれど、痛みではない。面食らって顔を上げると、奥山の満面の笑みがある。それでも僕は、苦し紛れに言う。
「先生は、七瀬とどういう関係なんですか!?」
 直後、返答というより、とにかく聞こえてきたのは、七瀬の快活な笑い声だった。
「なんか吉良くん必死だね!」
 七瀬は言ってからさらに笑い、しつこく「ツボった!」と繰り返し、最後には目頭を袖で拭い、グスッと鼻を啜りまでした。
 僕はそれで力が抜けた。張り詰めていた糸が切れて、放心状態のようになった。
 取り残されたようになっている奥山も、いつからか七瀬につられて笑いだしていた。
 その後、今回の僕の勘違いの原因が、七瀬の貧血であることを奥山の言動から知った。

「奥山先生とは、教師と生徒の関係ですよ?」
 補習が終わって奥山が教室を出て行くと、七瀬がニンマリした笑顔で言ってきた。けど、かと思えば、スッと戻して今度はこう言う。
「ごめんね」
「なんで君が謝るの」
「なんでって、悪いのが私だからだよ」
 そんなわけはない。どちらが悪いかと言われれば僕で、だからこそ僕は今日ここに来た。
「僕が君に負担をかけた。おまけにどうやら僕は変な勘違いまでしていたらしいから……」
 そこまで言って、七瀬が何も言わないから顔を上げてみると、彼女は柔和な笑みを浮かべながら、呟くように言った。
「ほら。やっぱり吉良くんは優しいんだよ」
「……優しい?」
 なぜ今、そんな形容詞が僕に? と、そう思っていると、七瀬が続けて口を開く。
「うん。でも吉良くんのことだから優しいって言われるのも、わけわかんないんだろうね」
 先週もそうだったけれど、七瀬は『吉良くんのことだから」と言うことがある。
 僕はほぼ反射的に、ついにその訳について尋ねていた。
「君は……君は僕の何を知ってるの?」
 七瀬は一拍置き、頷いてから話し始めた。
「吉良くんは人が嫌いで、わざと人を遠ざけてるよね? 私ね、それって単に人が苦手ってこととは全くの別物だと思うの」
 七瀬は一言一言を噛み締めるように言う。
「人を遠ざけるのは、人と関わると自分だけでなく相手にも悪影響があると思って、繋がり自体を怖がるから。でもその裏で、人間である限り、人は完全に孤独になりたいとは思い込めない。むしろそこには逆に、理想もあれば、意志だってあるんだ。だからそんな人は、自分の意志で行動しようと思う時に、自分を騙す理屈がいつも必要になる」
 七瀬の話を僕は黙って聞いていた。納得しているわけではないけれど否定しようとも思わない。と、そんな不思議な心情の中にいた。
 そしてそれは、七瀬の次の言葉を聞いても変わらなかった。
「そう。だから、吉良くんはいつも寂しそうに見えるんだ」
 ただ言葉を飲み込んで、それから聞いた。
「君はなんで、そんな事がわかるの?」
 七瀬がこちらに向き、徐に答える。
「吉良くんは人が嫌いだから人をよく見てる」
 そこまで言うと、七瀬は目を合わせてきて、
「でも、人は好きな人のことも、よく見ちゃうんだよ」と、笑った。
「今日のこと。きっと吉良くんは理屈を探してここに来てくれた。空振りでも、私のためにバットを振ってくれたんだ。それが嬉しいから、ありがとう。優しいねって。そう私は言うの。そして私は、私には今度からは理屈なんて要らないのになって思ったりもするの」
 七瀬は言い終わると、僕に目を向けたまま、僕の返答を待っていた。だけれど僕は、適切な反応や言葉がわからず黙ってしまう。
 すると七瀬は不意に立ち上がる。教室の後ろへ駆けたと思えば、すぐに戻ってきて、手を見れば、何の脈絡も無いはずのパーティーゲームでお馴染みのジェンガを抱えている。
「なに、どういうこと?」
「テスト期間中、短縮授業をこういう娯楽に使う人も一定数いるらしいね」
 そう僕の問いへ筋違いの返答をして、だけれど七瀬は至って真剣にジェンガを机に立て、無言のまま慣れた手つきでゲームを始める。
「さぁどうぞ」と、そう促されるままに、僕もよくわからないまま、棒を抜き、天井に重ねた。そうしてもう下部がスカスカになった時に、七瀬はようやく口を開いた。
「振り返れば心が重くなる忘れたい過去ってあるよね? でも全ては忘れられなくて、そのせいで却ってスカスカで不安定になる」
 七瀬は「こんな風に」と言って、わざとジェンガを押した。バランスの悪くなったジェンガはそれで簡単に倒れそうになるけれど、それを七瀬は支えて、そのまま立て直した。
「嫌な記憶でも、その過去がないと今の自分はない。だから全てを否定することは難しい。だからさ、こう考えれば素敵だなって、私はいつも思うようにしてるんだ」
 そう言うと、七瀬はどこからかチョコバーを取り出し、そのまま続けた。
「嫌な思い出の、その当時の瞬間にも、自分を想ってくれていた人がきっとどこかに居ただろうって。気づいていないところでの温かい思い出がいつも一緒にある。嫌な思い出があって、でも温かい思い出もあって、その上に今の私があるのなら、悪くないと思える」
 そう言いながら、七瀬はジェンガの最下部の、一番安定感を崩している原因の穴へとチョコバーを差し込んでみせた。
「温かい想い出を、空いた穴に代わりに差し込んでみるの。それがチョコバーだとしてみて。そしたら、ほらね? 安定した」
 すると七瀬は、新しいチョコを取り出した。
「そう。そしたらもっと素敵なことが見えてくる。後から一人で誰かの想いに気づくのもいいけど、やっぱり今の時間を丁寧に積み重ねたい。大切な人と想い合いながら、言葉を紡ぎ、時間を編んでいく。例えばそれは、こうして美味しいチョコを二人で食べる時間」
 そう言って、七瀬はその袋に入ったままのチョコを半分に割って、片割れを僕に渡す。
 そして七瀬は小さく「頂きます」と手を合わせてから、チョコを口に含んだ。
 よくわからないけれど僕も七瀬に倣ってチョコを食べてみる。久しい甘味が口に広がる。
「美味しい……」と、僕がそう呟くと、
「うんっ! 美味しいね!」と七瀬は紅をさした頬を上げて、満面の笑みで言った。
「チョコは渡すのも、渡されるのも嬉しい。おまけに、カカオには記憶力を高める効果もあるから、今日のことはきっと忘れないよ」
 七瀬はそれから「ご馳走様でした」と手を合わせた。その姿と、今の一連の七瀬を見ていて思った。僕の中で、普段とは違う七瀬の人格の乖離、その境界が薄れてきていた。
 要因は慣れではないと思う。むしろ、七瀬は僕と居る時には上辺こそ取り繕うけれど、本質は何も変わらないのではないだろうか。
 普段からの雑学的な知識や、独特な言い回し。それらを少し違った捉え方をしてみれば、彼女は普段の些細な疑問を放っておかないし、時々で使う言葉も多くの選択肢から適切に選び取っていると言える。もっと言うと、日常の所作であったり、感情を恥じずに素直に表すことであったり、友達との些細な会話への適切な相槌などもそうかもしれない。
 つまり、七瀬は丁寧に生きようとしている。それだけなのかもしれない。
 僕とは真逆の生き方だ。だからこそ彼女がそう生きる理由の発端にあるのは、どんなエゴなのか。でもその理由に関わらず、彼女の行動は決して誰かを不幸にはしないのだろう。
「じゃあせっかくだし、今から、今日を全力で忘れられない一日にしようよ!」
 そう、また笑う七瀬を見て、僕は自分で自分に驚く。僕は今、その七瀬の笑顔に対し、これまでに抱いてきた嫌悪感を忘れていた。
「それじゃ、仲直りの印……いや、私たちの新しい門出をいっちょ祝いますか!」
 言って、有無を言わせぬまま、七瀬は新たにトランプまで持ってきた。半分に分けると、片方を僕に渡した。ババ抜きをするらしい。
 いつもの僕なら嫌味の一つでも言っただろう。でも、今日の僕は、七瀬が何食わぬ顔で、顔の前に扇のように広げるカードから一枚、何食わぬ顔で引き抜いた。
 七瀬を見ると、ニヤリと口角を上げている。
「終わり良ければ全て良しって言葉がある」僕がそう言うと、
「いざ尋常に勝負!!」と、七瀬が沸いた。

 ババ抜きなんて幼い頃に飽きるほどやったのに、僕らは夢中で何回戦も勝負を重ねた。
 七瀬は、勝つと次のゲーム中に、自分を大富豪だと言い、僕がそれは違うゲームであると指摘すると、七瀬が「私はキャピュレット家の生まれです」と言うから、じゃあ僕だって「モンタギュー家の生まれだ」と言った。
 そしたら七瀬が「え……?」と放心した。
 僕は急いで「他意はない」と訂正する。
「そ、そうだよね。叶わない恋は辛いよね」
「ん……? いや、そういうことじゃ——」
「はいはい! 他意はないよ! そんでこっちには、ババがないはずだからっ!!」
 色々と振り切るように、七瀬が僕の手札から一枚を引き抜いた。すると、
「キャピュレット夫人だぁぁぁ!」と項垂れた。二人だから良いけど、わかりやすすぎる。
 その後、七瀬が「この人の甥が厄介なんだよなぁ」と呟いた。
 そんな感じでわちゃわちゃと続けている内に、戦績は僕から五勝五敗。思いのほか競り合うから二連勝するまでと決めてみれば、一層、駆け引きが白熱し始めた。
 そうして僕から六勝七敗での試合の終盤。残り二枚の僕の手札の一方に、七瀬が触れる。
「そう言えばさ、一つお願いがあって。その、勝負の期限を決めたいの。ババ抜きじゃなくて、例の私たちの間にある勝負のこと」
 その状態のまま、七瀬がそう言った。僕はまた突飛な事を言い出したと思った。
「勝負は、吉良くんが旅行委員を辞めるための理屈を作るために始めたけれど、それは勝者の特典として選べる一つにすぎない。だから実質、特典を別のものにすれば、勝負は研修旅行が終わっても続けられる。つまり私は、そこに期限を設けたいと思ったの」
 勝敗ばかり気にしていたから気づかなかったけれど、七瀬の言うことは納得できた。
「勝手でごめんだけど、修学旅行の二日目の二十四時まででお願いしたい」
 僕が委員を辞めるため、それも七瀬が始めた勝負なのだから、妥当な話だと思った。
 でも、言い出した七瀬の表情がなぜか暗い。
「あと、この先、今言った期限も早めたいと私は言うかもしれないことも、許してほしい」
 七瀬が珍しく覇気のない声でそう言った。その様子も含め、理由を聞こうとした僕は、しかし七瀬のスマホのアラーム音に邪魔をされる。七瀬が僕を見て言う。
「あーあ、残念。もう時間切れみたい」
 表情は笑顔に戻っていた。でも、どこか引っかかる。いつもとは違う笑みだと感じた。
 七瀬がアラーム音を止めると、変わりに聞こえてきたのはこちらに向かってくる足音。
「小春、探したぞ」
 声の主を確認すると、そこには北島が居た。彼は僕を一瞥して「またこいつか」と漏らし、舌打ちをしてから、七瀬へと向き直る。
「小春。いい加減にしろ。お前にはこんなところで油を売ってる時間はねぇだろ」
 七瀬は僕の手札の元々掴んでいたのとは違う方の一枚を抜き、眺めてから言った。
「油よりこのババを売りたかったよ。七勝七敗。私たちのお家の戦いはまだ続きそうだね」
 そう七瀬が冗談を言うも、北島は無視して容赦無く七瀬の腕を掴み上げ、立たせる。
 そのまま乱暴に腕を引く北島に、僕も流石に口を挟もうとした時、七瀬がポツリ呟いた。
「私ね、もう小説を書くのはやめにする……」
 聞こえるかどうかといった声量だった。だけれど、北島はそれで急停止した。
 壊れた玩具のようにゆっくりと北島が振り返り、僕を、目を見開きながら見て言った。
「お前、今……。ってことはこいつが?」
 放心しているまま、北島は七瀬の手を離し、変わりに僕の胸ぐらを掴む。僕も状況が分からず狼狽えていると、北島もなぜか何も言えないというように口をワナワナさせていた。
 そして結局、北島は何も言わず僕を解放し、何事もなかったかのように七瀬の腕を引く。
「今日は楽しかったよ。ありがとう」
 別れ際に七瀬が僕にそう言った。僕も返答しようとして、でも結局、何も言えなかった。

 帰り道、僕はさっきの出来事について考えていた。勝負の期限については納得している。だけど七瀬が見せた憂いは何だったのか。
 また、今後さらに時間を短縮することもあるという点でも疑問が残った。『制限時間』と考えれば、今日を含め幾度か聞いている七瀬のスマホのアラームも少し気になってくる。
 ……ただ、その訳を考えようと、わかるわけはなかったし、もっと言えば、それよりも僕は今日、七瀬の『もう小説を書くのはやめにする』という発言と、その言葉に異常に反応した北島の方を奇妙に思っていた。
 勝負のこともあるのだから、よくわからないことを明らかにしないといけないのだけれど、むしろ日に日に積み上がっていくばかり。
 だけれどやっぱり、今日のことを深く考えようと思っても、胸ぐらを掴まれてできた首元の擦り傷が痛むだけだった……。
 そうして、ふと最近よく胸ぐらを掴まれるなと思うと、奥山との一件を思い出す。連想して当時の不幸の連鎖を思い出した。そして、ちょうど思い出した時に、家に着いてしまうのだから、不吉な香りがするなと思った。
 ただ、今日の僕はなぜか、家の玄関を開ける時も、土間を上がる時も、シンクに来客用のグラスが出ているのを見ても、この時間になれば乾いているはずの風呂場の床が濡れているのに気づいても、何も思わなかった。
 明らかな異変を、ひどく客観的に見つめられていた。
 いつもなら絶対しない、制服のまま布団に寝転ぶという行為を平然とやってのける。
 そして、ふとポケットを弄ると、七瀬に貰ったチョコバーの空袋があった。
 それを翳して見て、わかった。
「今日、たぶん僕は楽しかった」
 痛む首元を撫でて、そうしみじみと思った。
 ついさっきの出来事なのに、懐かしむくらい。今日みたいな一日を過ごすことはないだろう夏休みを想像して、溜息が自然と出るくらい。僕は本気でそう思っていた。