放課後。奥山に文理選択希望書を渡すと、前回とは違い、案外すんなりと受け取られた。
「澄人は文系で頑張りますってことだな?」
 ただ面倒なことを言うのはいつもと変わらないようで、何にしても頑張る予定はない僕は「まぁはい」と、それだけ答えた。
「あと、委員のことだが、変わったことは?」
「変わったこと?」
「なんか問題があるとか、あとは、まぁ、小春とは仲良くやってるのかとか」
 また七瀬の話かと思ったけれど、今の文脈なら不自然でもないから過剰反応だった。それに委員を辞めるために僕が暴くのは、もう奥山と七瀬の間にある謎ではなく、七瀬が僕と仲良くなりたいという理由なのだから——、
「特に問題ないですけど、じゃあ逆に先生はどうなんですか?」
 だけれど、僕はなぜか奥山に探りを入れるようなことを言っていた。無意識だった。
「そりゃ俺はクラスの皆と仲良くしたいよ。誰かさんとは違ってな」
 僕の問いに、奥山はそう、僕の追求を躱すように答え、何より彼は今、鼻の頭を掻いた。
 不審に思えた。けれど奥山の言った余計な言葉を、僕の方がひどく意識してしまったから、僕はそこから逃げるように立ち去った。

 奥山の声は変に五月蝿いから、余韻も長く残る。それもあって、僕は自然と静寂を求めて図書室へと向かった。でも、その途中に僕はまた別の『五月蝿い』に襲われてしまう。
「頼もー!! ところで吉良くん。あなたは、よく夢を見ますか?」
「は?」正体は七瀬。そして第一声がそれ。
「だから、よく夢を見るのかって聞いてる」
「聞かれてるのはわかってる」けど、意味がわからないんだよ。とにかくそう聞かれるだけの理由を考え、それっぽく答えてみる。
「将来の事を言ってるのなら、僕が文系を選んだ理由とは関係ないよ」
「違う違う。寝ている時に見る夢のこと。もう一度聞くね、吉良くんは夢をよく見る?」
 七瀬が何を言いたいのかはさっぱりだけれど、彼女に抵抗することは無駄だと、経験上さすがに理解しているため適当に返答する。
「まぁ、ほぼ毎晩見るよ」
「あっ、やっぱり? でも毎晩見るって、吉良くんの頭の中は、案外メルヘンだったりして。綿菓子の雲とか、サイダーの泉とか、かわいいウサギとかも居る世界だったりしてね」
 自分で言っておいて「ククク」と笑いを堪える七瀬には悪いけれど、僕が毎晩見るのは悪夢であり、彼女のイメージを土台にするなら、荒れ狂う空に、血みどろの池だろう。
ただウサギに関しては近からずも遠からずといったところで、僕の見る悪夢には、いつぞやのウサギの髪飾りが登場したりする。
 まぁ、そんなことを七瀬に伝える必要もない。早く話を進め、あわよくば終わらせたい。
「結局、夢を見るからなんなの」
「いやね、夢をよく見る人、鮮明にイメージできる人には文系が多いんだって」
 信憑性の薄い話だなと思う僕に対し、七瀬はイキイキとした様子で続ける。
「とにかく、吉良くんはよく夢を見るってことだから、ズバリ文系にした?」
「確かに文系に丸をしたのはしたけど……」
「やっぴ!」
 七瀬は自分の推理が的中したことに喜んで「真実はいつも一つ!」と、言っていたけれど、どのみち文系か理系かの二択なら、そもそも真実は二つに一つだろうとは言わない。
「見事正解しました七瀬選手ぅ〜!!」
 隣で喜ぶ七瀬を見ていると、そんな暇はないのに、なんだか苛ついてきて言ってしまう。
「当てたのは事実だけど、ソースは何なの?」
「……デミグラス?」
「そのソースじゃなくって、ようはエビデンス。根拠とか情報源だよ」
「エビ? シーフード?」
「あのさ、君わざと言ってるよね」
「もう! だって、どこかで聞いたことあるってだけなんだもん。だけど吉良くんは当てたんだから、的中率はヒャクパーでしょ!」
「それって僕の一回分のデータだろ。じゃあ、せめて君自身は? 整合性あるんだろうね」
「文系にしたよ。そんで、もちろん私は夢見る少女だよ。名前だって七瀬だし!」
「その夢だと意味が変わってくるし、七瀬で掛けると、君は夢見る少女じゃいられないよ」
 そう言うと、返答が唐突に笑い声になった。
「今日の吉良くん、なんかキレキレだ」
 言って、一人で吹き出している七瀬。
 捲し立てるように話していたのは僕のはずなのに、最後に盤ごとひっくり返された。
 茶化されるようでさらに苛つくけど、ムキになっているように見えるから何も言わない。
 けれど忘れていた。相手が黙り込めば飄々と暴論をねじ込むのが、七瀬小春だった……。
「こんなに冴えた吉良くんを野放しにしてはおけない。なら今日、委員を発動しようかな」
「委員の発動……?」
「来週の水曜はテスト期間中で旅行委員もお休み。だから、その振替を今日にしよう!」
「そんな無茶苦茶、付き合いきれるかよ!」
 流石に我慢できず言って逃げ出そうとした。しかし僕の不意の行動にも七瀬は対応した。
「忘れてないよね? 勝負は委員あってこそ」
 ずるい。結局、勝負でさえそんな風に使うのか。と、思うや否や七瀬は次にこう言った。
「じゃあ、三十分後に駅に集合ね」
「は!? 君はどこまで強引なんだ——」と、堪らず言った僕の声に、堂々と被せて、
「もちろん駅で集まることにも意味があるし、そして勝負は誠実さがないと成立しない」
 七瀬は言い切ってドヤッと笑ってみせる。
 それに、もう僕は何も言い返せなかった。

 まんまと言い包められた僕は、今、最寄り駅の時計台の前に居る。辺りには田舎の駅ではあってもまばらには人がいて、それも近所に三流か四流くらいの大学のキャンパスがあるためか、カップルが多い。何が言いたいかというと、まぁとにかく居心地が悪かった。
「えー、制服ぅ〜?」
 その時、そう声が聞こえたから振り返ると、口を横一文字に結んだ七瀬が居た。
「デートに制服って、大正時代なの?」
 その一言で居心地が最悪になった。かといって逃げられないから、もどかしい。
「あいにく僕はデートの予定でここにきたわけじゃないんだ。人違いなんじゃない?」
「ったく、つれないなぁ。今日は初デートごっこをするんだよ。そういう設定なの」
「はぁ?」と、首を傾げる僕に、眉根を寄せる七瀬。でもパッと表情を明るく入れ替えた。
「じゃあじゃあ、私の私服はどう思う?」
 そう言って、七瀬はその場でクルリと回る。
 ポロシャツにロングスカート。アイテムだけ見れば普段の制服と特段違いはないのだけれど、確かに私服と言うくらいだから、彼女自ら自分の魅力を引き出すための衣服として、役割は果たされているのかもしれない。まぁ、そんなことを口に出しはしないし、そもそも、なぜ着替えて来たのか謎だ。何にせよ、聞いても仕方ないから、皮肉を言っておく。
「君の私服こそ、大正浪漫がなければ日本に存在してない代物だろうね」
「本当つれないね」
 言って七瀬が頬を膨らませる。その様子からハリセンボンを想像した時、七瀬が突如、スッと手を鋭く伸ばして来て、針かと思った。
「でもここに来た時点で、もう釣られてはいることを忘れないように」
 言いながら、七瀬が僕の小指を掴んだ。
「ほら。こうして釣り針だってつけちゃう!」
 結局針だったらしい。と、呆れるや否や次の瞬間、七瀬はそのまま走り出した。
「ちょっ、まっ、痛い痛い! 痛いって!」
「ほらっ、引きちぎられたくないなら走って! 針千本飲まされたり、一万回殴られたくなかったら、走るしかないよ!」
「それはもうただの暴行でしかないよ! そんで、そもそも走ってどこに行くんだよ!」
 割と僕はちゃんと小指が痛くて、離れないように走ることで精一杯。一方で七瀬は走りながら、心底楽しそうに笑って言った。
「この夏、一番泣ける映画を観に行こう!」

 そうして気づいた時には、僕は電車に揺られていた。二人分の切符まで先に買っていた七瀬には、正直もう怒りも湧かなかった。
「今日の君は、いつも以上に賑やかだね」
「ありがとう。私の意気込みがわかるんだね」
 嫌味のつもりで言ったけれど、彼女との会話が正当に成立しないのは承知している。そして、七瀬は相変わらずそのまま続けて言う。
「気合が入るのは、来週からテスト期間に突入するからさ。それまでに決まり事の一つや二つくらい決めとかないとと思って」
「まぁ確かに。でもそれならこの時間は何?」
「映画を見る。それも委員の活動の一部さ」
 七瀬は爽やかに言って、サムズアップ。
「はぁ、そうなんだね……」
「吉良くんこそ、何か委員のことについて考えてることあるの?」
「「ある訳ないよね」」
 ニュアンスは違えど、意図せず同じ言葉が重なった。不意だったから変に面白くて、僕は少し笑ってしまう。電車の中だから声を出してはいけないと思うと余計に笑えてきて、横目で見た七瀬も同じ様子だったから、なんだか無性に面白くて声を殺すのが大変だった。
 ひとしきり笑って、微妙に悔しさを感じていると、七瀬が半ばまだ笑いながら言った。
「吉良くんのことだからそうだよね。そう。だから私が考えを練ってきたって話なんだよ」
 ようやく息を落ち着かせ、七瀬は続けた。
「考えてきたのは最重要事項の、旅行先の阿古屋高校との合同文化祭の大トリに、私達からの出し物に何を企画するかってこと——」
 大トリの出し物。大層に聞こえるけど、できることは合唱か劇。その程度。でもまぁ劇を選べば、批判が殺到するだろうけど——。
「私は今回、演劇をやろうと思います!」
「うん。って、えぇ?」
「うちの学校の文化祭は、毎年、各学年ごとに合計三クラスで演劇をするだけだから、一度は大勢の前でやってみたいじゃん」
「それは皆から確実に反対されるよ」
「私達が企画段階から作り込んでおけば、皆の負担は少ないし納得もしてくれるよ。脚本も私が書くし。ずばりロミオとジュリエット」
「それは……」
「ありきたりだと思ったね? でも安心して。もちろん、そこには私の意志を盛り込むよ」
「……意志?」
「私は原作みたいに二人を殺さない。死んじゃう恋愛小説は私、嫌いだから」
「えらく主観的だね。世間では泣ける恋愛小説の方が——」
「と・に・か・く! 吉良くんに他に案がないなら、ロミジュリがやりたい!」
 もちろん僕に代案はないし、これほどの熱意に反撃できる自信もない。
「よし。じゃあ決定ね」
 僕が黙っていると話が決まってしまった。不安は残るけれど、七瀬がクラスを説得するのなら不可能ではないかもしれないとも思う。
「さぁ映画館が見えてきたよ! つまり映画を観るのは、脚本のためということなのだ!」
 それに、本人がどうにかなると確信しているようだから、もう言うことはなかった。
 七瀬は車窓から、ただの田舎の商業施設をキラキラした目で眺めながら、
「楽しみだね!」と、子供のように言った。
 そうして駅へ降り、また彼女の熱意やら興奮やらに振り回されていると、気づけば、かいた汗を補うために買ったドリンクにはポップコーンが付いていて、涼しい部屋に着いたと思ったらスクリーンを前に座っていた。
 隣を見れば七瀬がチョコバーを齧っている。
「君、本当にそれが好きだね」
「うん。チョコは記憶力を高めるらしいし」
 よく分からない返答だったけれど、丁度その時、照明が落ちたから僕も画面へと向いた。

「すっごい感動した!」
 映画が終わって廊下に出ると、オリンピックのメダリストが汗を流しながらインタヴューを受ける時のような、そのくらいの清々しさで涙を流して、七瀬がそう言った。
「まぁ王道の恋愛ものって感じで良かったね」
「なんか若干の含みがある言い方だね。高尚な吉良くんにはチープな内容だったかな?」
「他意はないんだけど? もしかして僕には感想が求められてないのかな?」
 僕がそう言うと、七瀬はケラケラと笑う。
「ごめんって。揶揄っただけ。でも、話を合わせようとしてくれるなんて珍しいじゃん。ちょっと上から目線なのが玉に瑕だけど」
「やっぱり、僕の口調に何か問題あるの?」
 揶揄っているにせよ少ししつこいからそう言うと、また七瀬はククッと楽しそうに笑う。
「嘘だよ。ごめんって。むしろ議論は互いに物知り顔をしないと活発にはならないんだから、良い脚本を作るためというなら良い心がけだよ。さぁ気を取り直して存分に語らおう」
 実際、僕も映画は本当に面白いと思った。もっと言うと、僕は諸事情あって小説を嫌っているけれど、他の媒体であればどんな物語でも割と何でも楽しめるタチだ。だからとにかく意見交換をすることに文句はなかった。
「私が良かったと思う所はね、人に優しくする時には、自分を認めてからってセリフだね。この物語を強調した、大事な言葉だった」
 その七瀬の言葉に僕は、さすが物書きだなと思った。考察が鋭いなと素直に感心する。
「優しさって、受け手の感想や評価でしかなくて、一方で与える側からしても優しさの発端はエゴでしかない。つまり、お互いは基本的に一方通行。だから通じ合ってると思うのは、お互いの天秤が釣り合ってるからなんだ」
 七瀬は「そして」と、さらに続けた。
「その天秤を持たずして、自分を削り、与えるばっかりな人なんて、そんなのとっても孤独に見える。偽善とは違うけれど、人に優しくするなら、自分にも利点を見つけて、そんな自分を素直に認めて許してあげないと。見失ったままじゃ、いつか壊れちゃうよ?」
 やけに熱を入れて話すから、それだけ映画が面白かったのかと思ったけれど、熱が入りすぎて僕を睨むように見ながら語るのは、変に身構えてしまうからやめてほしい。
「なんか怒ってる?」
「うん。怒ってるよ。もし吉良くんがそんな孤独な人だったとしたならって考えて、じゃあなんで私が助けてあげられないんだろうって思うと苛ついてくる」
「もしそうだとして、君が僕を助ける義理はない。むしろ僕と君は勝負をしてるんだから」
「そこに勝負も義理も関係ない。だって私たちはもうそれだけじゃないでしょ?」
「僕たちに他にどんな関係があるんだよ」
 僕がそう言うと、七瀬がポケットを弄り、チケット取り出してズイッと僕に突きつける。『友達以上、恋人未満』が今観た映画の題名。
 伏線回収と言いたいのだろうか。とにかく映画に影響されているせいで、彼女の自由な会話がいつにも増して面倒臭い。
「はい。とにかく感情移入しすぎだよ。入り込みすぎて、現実に戻って来れなくなるよ」
「私はずっと前から物語に入り込んでるよ」
 ふざけるわけでもなく、七瀬がそう言った。これはもう病気に近いのかもしれなかった。
 言ってから僕が歩き出すと、七瀬が後を追って並んできた。そして七瀬が言う。
「っとまぁ、人生とか恋愛とかってのは難しいって話ですね。旦那ぁ」
 結局、そんな締めくくり方でいいのかよ。と思いながらも、かといって熱くなられる方が厄介だから何も言わなかった。
 でも七瀬が物語に対して本当に真剣であることは、僕がもう少し踏み込んだ意見を言ってみた時に知った。彼女が自前のメモ帳を取り出して書き込み始めたのを見て、劇への思いも案外、口だけではないのだとわかった。
 意見が煮詰まった頃には、十分近く時間が経っていた。混雑はしていなかったけれど、映画館の待合で長居するのは非常識だったかもしれない。しかし、そんな思考と意見交換の時間を同時に断ち切ったのは、僕らの目前で派手に転んで見せた幼い男の子だった。
 転けた男の子が伏せたまま泣くと、少し離れたところから母親が駆けてくるのが見えた。特に他人が介入する必要もないだろうと思った僕は、しかし七瀬が咄嗟に男の子へ駆け寄り、床から抱え起こしたのを見て驚いた。
 七瀬は痛むところがないかと問いかけ、男の子が頭を打ったのだと言うと、七瀬は徐に男の子と自分の額を合わせ、こう歌った。
「痛いの痛いの半分こ〜」そしてそれから、
「おねぇちゃんも痛い痛い〜」と、七瀬は自分の頭を抑えた。
 その妙な行動に男の子は泣き止みポカンとして、そうこうするうち母親が追いついた。
「今の……何?」
 戻ってきた七瀬に、僕はそう訊ねる。
「痛いの飛んでけって歌の替え歌だよ」
「いや、わかるんだけどさ、意味は?」
「飛んでけっていうより、半分を貰ったってことにして目の前で痛がって見せた方が、あの子もなんか和らいだ気がするでしょ?」
「あぁ、意外と論理的な答えだね」
「まぁ、どうせ痛みは飛んでかないし、もちろん動機も偽善からだよ。あの子の思い出に私が残れば嬉しいと思うからね」
 言って七瀬が先に歩きだす。優しいのだけれど、どこか言い回しが引っかかった。だけれどその違和感を尋ねる前に、目前で今度は彼女がよろけたから、咄嗟に僕が支えた。
「本当に半分、貰ったんじゃないの?」
「いや、長く座ったから足が痺れててさ」
 しかし、そう言った七瀬の顔が少し青白く見える。けれどまぁ、照明のせいなのだろう。
「ちょっと、お花を摘みに行くね」
「う、うん……」
 七瀬が一人で歩いて行く。今のは立ち眩みではないらしいけれど、それにしても彼女のさっきの行動と、直後の打って変わったような冷淡な物言いは少し妙だと感じた。
 僕は待合の巨大スクリーンで映画の予告を見ながら七瀬を待つことにした。そして、七つ目くらいで、さっき見た映画のものが流れ始めた時、さすがに少し遅いと感じ始めた。
 心配……まぁとにかく倒れられでもしていたら後味が悪いと思い、手洗いへと向かった。
 けれど、たどり着く前に七瀬の姿を見つけた。ただ彼女が見知った人物と一緒に居たから、僕は反射的に物陰に隠れた。
 七瀬と居たのは、赤いダッカールが目印の青葉と、他の二人は知らない人物だった。
「マジでめっちゃ可愛いじゃん!」
「え、ちょっと友達になろうよ!」
「おう、なら七瀬。今から一緒に遊ぼうぜ」
 彼らを傍から見ていると、普段の七瀬のクラスでの印象が蘇る。本来、彼女は今のように賑やかな人々の中心で相槌を打ちながら、時に天然ボケであったり、古風で珍妙な物言いをしてみたりして場を和ませる。主張をせずとも、そこに存在がある。容姿に見合わぬ、丁度いいキャラであるのが七瀬だった。
 つまり僕と居る時の彼女は特殊なのだ。より客観的な視点で見ながら改めてそう思った。
 すると駅での待ち合わせの時と同じように、僕は居心地の悪さを強く感じ始めた。
「あっ! ごめんお待たせ! いやぁ実はそこでさ、青葉くんと会ってさ」
 でも直後、七瀬は僕を見つけて駆けてきた。
 そんな彼女に僕は本心から「青葉たちと遊んできなよ」と、良かれと思ってそう言った。
 でも、七瀬はムッとして「針、つけたでしょ」と言い、また小指を雑に掴んでくる。
「なんだ彼氏持ちかよ!」
 と、そう青葉の友達が項垂れると、七瀬が裏返した声で、「違うよ!」と返す。
 すると青葉が「仲良いのマジなんだ! まぁ楽しんで!」と仲間を率いて帰って行った。
 青葉は変わらずあっけらかんとしていたけど、お仲間は面白くなさそうな顔をしていた。
「彼氏だって。ほんと、困っちゃうね」
 赤面しながら緊張した顔でそう僕に言う七瀬。そんな彼女がやはり僕はよくわからない。
 だから僕は、ついに、その違和感をはっきりと言葉にしてしまった。
「君のその変な義理人情は何なの?」
「……どういう意味?」と、七瀬が僕に向く。
「誰もやりたがらない委員に立候補したのもそう。それで関わることになった僕と、仲良くしようと必要以上に意気込んでるのもそうだ。そういうの僕としては少し気持ち悪いな」
 文末を上手く言葉にするのに困って、言い方がキツくなってしまった。それでも七瀬なら軽く謝ってから笑うのだろうと思っていた。
「どうして、そんな風に言うの?」
 でも実際は違った。
「そっか……。吉良くんはやっぱり、そう思ってたんだね……」
 七瀬は僕の小指を握っていた手をスッと引き、悲しげで当惑するような表情をした。そして目線を下げ、何も言わず先を歩き始める。
 僕はまた、なぜ彼女が不機嫌になるのか分からなくて、コロコロと変わる彼女の気性に、本格的に嫌気が差してきた。でも、そんな宙ぶらりんなまま、それでも僕らは同じ電車に乗って同じ駅へと帰らないといけない。

 帰りの車内は少し混んでいて、僕らは扉の端と端に立って、言葉を交わさぬままでいた。
 初めは気まずかったけれど、次第に意識は七瀬から夜の闇に移った。けど、次が最寄り駅というところで、唐突に七瀬は口を開いた。
「私の小説、素敵だった?」
 そう言う七瀬は、車窓の奥の闇を、どこか憂いを帯びた表情で見つめている。彼女の黒い瞳の中で、車内灯の光が揺れる。
 意図が読めずに返答できないでいると、七瀬は徐に瞳の中に僕を映した。そこで一瞬、妙な間があって、それから七瀬はこう言った。
「吉良くんは好きな小説ある?」
 また脈絡のない問い。けれど今度の問いは僕にとって非常に不都合なものだった。だから色々と思うことはあれど、押し黙っていた。
 しかし当然、その間に七瀬は勝手に話した。
「私はね……夢十夜。それも第一夜のお話」
 七瀬がまた一瞬、言い淀んだ気がする。でも、そこを気にできる余裕は今の僕にはない。
『好きな小説』もそうだけれど『夢十夜』こそ、僕が思い出したくない存在だったからだ。
 ただ、そんな僕の都合も七瀬は知らない。
「夢十夜は夏目漱石のお話。高校の授業で触れるから大抵の人は知ってるだろうけど、私は弱冠、七歳にしてそれを初めて読んだの」
「へぇ」僕は聞くともなしに聞いていた。気分が落ち込んでいるのも災いしていた。
「……でもね、実は読んだってのはちょっと違って、読み聞かせてもらったの——」
 そして、よりにもよって読み聞かせときたから、とうとう記憶は僕の抵抗を無視して、完全に意識の表面に這い出た。
 母さんが僕の鼻の頭を撫でる。僕はこうされると寝つきがよかった。母さんは空いたもう片方の手で器用に小説を広げ、流暢な声で読み上げた。母さんは絵本や児童書に限らず、時に近代文学作品とも呼ばれるものも選んだ。
 当時の僕は当然、それらの作品を理解できはせず、ただ母さんの声に微睡んでいただけ。
 でも夢十夜だけは違った。理解したかという観点では怪しいものの、比較的、想像しやすく、その内容に子供ながらにも感動できた。
「ロマンチックかつ奇妙。でもやっぱり強かで美しい。百年絶えない愛よ。素敵でしょ」
 当時、僕が抱いた感想を、もう少しましな表現で言語化するように七瀬が言った。
「二人は時にも死にも打ち勝った。決して愛する人を忘れなかったの」
 同時、七瀬の言葉により、突きつけられた気がした。『決して愛する人を忘れなかった』そう聞こえた時、記憶の中の僕が微睡から目覚め、黒く塗り潰された母さんの顔を見た。
 ここまで掘り起こされてしまえば、もうこの回想は行き着くところまで続いた。
 授業参観。図画工作で絵を描く授業だった。授業の終盤に担任の女教師が一人一人の作品を発表していった。お題は『家族』だった。
 僕の番が回ってくると、僕は絵を皆に見せることに抵抗した。女教師は「大丈夫だよ」と言った。何が大丈夫なのかわからなかった。
 半ば強引にもぎ取られた僕の絵を、女教師は胸の高さで掲げた。皆の反応を受けて、女教師が「え?」と声を漏らした。そして自分でもその絵を確認して、顔を青くさせた。
 僕の絵には三人の人物が描かれていた。でも一人の顔面だけ全く手をつけられていないまっさらの状態のまま。異様な絵であった。
 すると隣の少女がこう言った。彼女の髪にはウサギの髪飾りがあった。
『澄人くんって、お母さん居ないの?』
 過去の少女に現実を突きつけられ、今の僕が再び現実に押し出された。
 急速に逆流してきた胃液をなんとか飲み込んだ。喉と頭が焼けるように痛んだ。
 顔を上げる。目の前にいるのは、女教師でも少女でも母さんでもなく七瀬だった。
「さぁ、駅に着いたよ」
 七瀬の声が聞こえると同時に、すぐ隣の扉が開いた。今だ朧げな意識のままホームに足を下ろすと、雑踏に紛れた。僕はそのまま、わざと人混みに潜り込んだ。
 ただ無心に目の前の人間を次々に追い越した。とにかく、何からかはわからないけれど、逃げたくて仕方がなかった。ほったらかしにした七瀬に悪い気もしなかった。むしろ七瀬の声が聞きたくなくて、僕は耳を塞いでいた。けど七瀬も七瀬で追いかけては来なかった。
 テスト前最後の委員会は、そうして妙な形で幕を閉じることとなった。