少女は七歳の時に、自身の頭に巣食う病の存在を知った。その病は簡単に言ってしまえば脳の腫瘍。しかし良性の小さな腫瘍であり、一見は緊急性も危険性もないものに思えた。
 ただ、その腫瘍は存在する場所が悪かった。
 簡単に言えばその腫瘍は、摘出手術を行うにあたり、命を失う可能性は低いものの、一方でこれまでの記憶の全てを失ってしまう可能性を非常に高くする。そんな場所にあった。
 腫瘍も年月と共に成長する。悪性腫瘍と比べ、スピードは遅いものの、十年も放っておけば神経を圧迫し、身体の自由と命に影響を及ぼす。つまりは早期の摘出が望ましいとされ、それは記憶を観点にしても同じだった。
 だが、七歳までの記憶ならまだ安いと、そう容易に決断できるかは難しい問題だった。
 記憶を失った後の自分は、手術をして生き残る自分は、果たして自分と言えるだろうか。
 七歳の少女であっても、医者から迫られる決断とその説明は、自分の命を見ず知らずの他人に譲り渡すことと何も変わらなかった。
 少女の葛藤と共に、徒に時間だけが過ぎた。
 しかし決断の時は、ある日突然やってきた。
 きっかけは『夢十夜』という小説と『笹村澄人』という少年であった。
 少女の病室に突然現れた見ず知らずの少年は、断りなく少女に小説を読み聞かせた。
 そして、そんな突拍子もない、たった一度の出会いが、少女の暗く苦しい日々と未来に、一筋の大きな希望の光を照らしたのだった。
『私もこの小説のような恋をしたい。どうせ消えるのなら、この女性みたいに生きてからがいい。そして、こんな素敵な小説を私も書いてみたい。そしてそして、そうして書いた小説を、いつか私が澄人くんに読ませたい』
 悲しいかな、少女の現実は夢十夜に投影しやすかった。それも影響しただろう。
 少女はその数分で、初めて知った小説というものの魅力に飲まれ、同時に初恋を知った。
 そして、その二つの大きな衝撃が、少女に目標を与え、それを達成するまで、体が許すまで、今のままで、今のままの『七瀬小春』として生きることを決断させたのだった。

 小説は、そんな過去を始点として始まっていた。全体の体裁としては、当時の七歳の七瀬が将来的に僕と再会し、その後の関係を築いていくエピソードを創作した、いわば理想の物語が描かれるのが、小説としての本筋。
 またそれとは別に、その理想の物語を実現させようと試みた上での、結果と当時の心境を綴った日記のようなものが並列するという、ある種の二部構成となっていた。
 僕は少女とのことを忘れていたわけではない。ただ嫌な思い出に、母さんとの最後の夜に重なってしまうから、記憶に蓋をせざるを得なかった。でも、少女が七瀬だったなんて、本当に今日まで微塵もわからなかった。
「七瀬小春の病室はどこですか」
「あなたは?」
「友人です。友人の、吉良澄人です」
 僕の苗字が変わったのは、母さんが居なくなったから。つまり父さんは婿養子だった。だから僕の苗字は七歳まで『笹村』だった。
 だからこそ、七瀬はあの時、授業参観の時にあんな反応をしたのだろう。
 小学一年になる直前に病気が発覚した七瀬は、入学から半年も学校に来ていなかった。だから彼女がいざ登校し始めた時、皆は七瀬を転校生として認識していた。
 彼女自身も病気の説明をするより、そっちの方が都合が良かったのだろうし、田舎者の皆の期待に乗せられ、東京から来たことになっていたとなれば、一度しか会ったことのない、名前も知らない少女に、僕が気づけなかったのも仕方がないだろう。
 そんなお互いの状況があって、僕らはすれ違った。
『澄人くんって、お母さん居ないの?』
 この発言を、七瀬はとても後悔しているらしいけれど、当時の七瀬からすれば『あの男の子と姿と名前は同じ。でも苗字が違う』そんな僕の違和感を説明してくれるような出来事だったのだから仕方がない。言い方に配慮をしろというにも、まだ幼すぎた。
 ただ、その出来事がきっかけで父さんへの不満が爆発し、不登校になり、転校してしまった僕も同じように仕方がないと言いたい。

 受付で聞いた病室が少し先に見えたため、残りの距離は息を整えながら近づく。
 七歳当時の七瀬の病室に押し入って、夢十夜を読み聞かせたその動機は思い出せないけれど、僕の単なる思いつきであっても、七瀬の人生に影響を与えた責任は大いにある。それを忘れていたなんて、やっぱり僕はなんて薄情な奴なんだろうと自分を呪った。
 ただそう思っているにも関わらず、僕は並列して別の個人的な疑問を持ち合わせていた。
「今朝なんで吉良にあんなことを言った?」
 部屋の中からそう北島の声が聞こえた。その内容は、偶然にも、僕の疑問を代弁してくれるものだった。それもあって、僕は扉の前で立ち止まってしまう。
「なんで今になって、お前は澄人を自分から遠ざけ、小説さえも書かなくなった?」
 小説を書かなくなった。確かに小説は、あの日の教室での七瀬の発言通り、当時から唐突に、途切れるようにして終わっていた。
「諦めるタイミングなんて、これまでにもいっぱいあっただろ」
 そう言う北島の声は、怒気を孕んでいる。
「小一の授業参観が最初。そもそも、そこでお前は一回諦めた。でも、だらだらと小説を書くことはやめられず、思いを引きずった」
 北島はそのまま、矢継ぎ早に話し続けた。
「そして去年だ。症状が顕著に現れ始め、安全に手術ができるのも最後と言われたから、お前は高校進学を諦め、手術を受ける決心をしたはずだった。でも、当日に逃げ出した」
 その時、掠れて震えた七瀬の声が言う。
「迷惑をかけたとは思ってる。高校の名簿を勝手に見たのも悪いと思ってるよ」
 でも、その余音を北島は容赦なく遮った。
「謝ってほしいんじゃねぇ。話を逸らすな」
 そしてまた北島が、高ぶる感情のまま、指折り数えるように言葉を並べていく。
「高校の名簿に見つけた『吉良澄人』に会うため、お前は一転、高校へ編入した。でも一年もグズグズして、ようやく半年前に行動し始めたと思ったら、旅行委員なんて役職を担って、肝心なことを後回しにしたまま、また時間を食い潰して——」
 北島は独り言のように言いながら怒りを募らせ、最後は呆れたように言う。
「それで今度は、吉良を遠ざけるって?」
 そう言った北島の声は、複雑にしゃがれた。
「なぁ、俺はもうお前がわかんねぇよ」
「ごめん」
「だから謝れって言ってんじゃねぇよ」
「わかったから、ごめん」
「わかったってお前——」
「うるさいんだって!!」
 七瀬の声が病室に響く。抑え込んでも、それでも上蓋を押し上げ、漏れ出してしまった。そんな声だった。僕はこんなに感情的になった七瀬の声を初めて聞いた。
 直後、今度は、北島の本気の怒号を聞いた。
「これまでと同じ考えをしちゃいけねえんだぞ! お前はもう、記憶も命も失うことを覚悟した上での選択を、残った時間の中で遂行していくしかねぇ。そこまで来たんだ!」
「そんなの嫌だ!!」
 七瀬の叫びが、喉の震えで力無く揺れる。
「そんなの……やだよ……」
 萎れて落ちるような七瀬の声が病室に溶けると、北島も何も返せなくなったらしい。
 会話が途切れると、現実を訴えかけるかのように心電計の電子音が響いた。それを隠すかのように、七瀬が口火を切った。
「でも……嫌だけど、わかってる。わかってるからこそ私は吉良くんを遠ざけたいの……」
 声のトーンが落ち着いた代わりに、しゃくりが混じった。そして留められない涙と共に、
「高校に編入して、吉良くんを見てすぐ、そうじゃないかなとは思ってたんだ」
 そう前置いて、七瀬はゆっくり語り始めた。
「確信に変わったのは、私が『夢十夜』の思い出を語ったとき。途端に吉良くんの様子がおかしくなったのを見て、彼が本当にあの人で間違いないのだとわかった。でも同時に、それはあの授業参観で、私が本当に吉良くんを傷つけていたことの証明でもあった。
 委員というチャンスを掴んで、やっと吉良くんとお話できて、私は浮かれて盲目になってた。だからその時やっと私は反省して、決心した。この再会は私のためじゃなく、吉良くんへの恩返しのために使わないとって。
 だから旅行委員は、恩返しのための道具にした。私がお膳立てをした後、徐々に吉良くんに仕事を任せてクラスに溶け込ませる。人との関わりと、居場所を作ってあげる。そしたら私は逆に、吉良くんから離れていくの」
 たくさん悩んで、時にはしゃいで、とにかく一生懸命に取り組んでいた旅行委員が、七瀬にとって、いつしか僕に与えるためのものになっていたなんて、悲しかった。
 ただ、七瀬としての理屈はわかった。うん。それはよくわかった。けどその上で——、
「お前が居なくなる必要性は無いだろ」
 また僕の感想を北島が代弁してくれた。けれど、少し時間を置いてからの七瀬の返答は、問いへの素直な回答ではなかった。
「勝負の答えがわかっちゃったから」
「は? 吉良が委員をやりたくない理由なんて、お前は最初から、わかってたはずだろ」
 小説を読めば、僕以上に七瀬が僕を論理的に見ていたとわかる。だから僕も、北島と同じことを思った。でも、次の七瀬の一言目は「ううん」と否定から始まる。
「勝負の答えは相手に依存する。今の吉良くんの思いが変われば、答えも変わるんだ」
「じゃあ、今の吉良への回答は何なんだ?」
 七瀬が返答に言い淀んだ。僕はそれで気づいた。僕が気づいたと言うのは変かもしれないけれど、とにかく七瀬が言い淀む回答に、僕は丸をつけることができると思う。
『僕が、七瀬のことが好きだから』——それが答えだ。
「吉良がお前を好いているから……?」
 北島が呟く。彼も話の筋から予想できたらしい。ただ、その上で彼は続けてこう言った。
「でも、だったら、なおさらじゃねぇか。お前の目的は吉良を救うこと。なら、お前が吉良から離れることはその一番の矛盾になる」
 衣擦れの音が往復した。七瀬が頭を振ったのがわかった。
「違うの。場所を与えるだけじゃ足りないんだ。吉良くんを本当に救い出すなら、過去の自責から解き放ってあげないといけない」
「……あいつの母親のことか?」
「そう。吉良くんは、お母さんの顔を思い出せないことに自責を感じてる。それが、あの授業参観にも表れてた。そして、そこで傷跡を膿ませたのが私なんだ……」
 そこまで言うと、七瀬がゆっくりと呼吸を繰り返す。気持ちを整えるというより、息を整えるというような呼吸音が、彼女が本当に病を患っているのだということを意識させる。
 しばらくして、喉の奥を開く呼吸の音がした。
「お母さんと話し合えなかった。なのに誰も感情に向き合ってくれなかった。怒りも不満も寂しさも整理できない。そんな環境が、吉良くんを孤独に、人を嫌うまでにさせたんだ」
 シーツが擦れる音がする。膝を抱え込んでシーツに埋まったのだろう。次に七瀬の「だから」と続けた声は籠って聞こえた。
「私じゃないといけないの。私には吉良くんの自責を助長した責任がある。その上で吉良くんの自責を生んだ『大切な人との別れ』その経験に上書きできる可能性を持ってるから」
「自責への上書きって、それってお前——」
「私との別れで、感情的にぶつかってもらうの。それを私は全部受け止めるから。だから、もう絶対『何も言わず勝手に死なれる』その経験だけは吉良くんにはさせちゃいけない」
 ズキリとした。『死』という単語が嫌に鋭く聞こえ、その響きは心臓までもを貫いた。
 しかし「勝手に死なれる経験?」と北島が尋ねる声の後、すぐに言った七瀬の言葉に、僕はさらに追撃を受けることとなった。
「吉良くんのお母さんはね、実はもう亡くなってるの」
 息が止まる。母さんが死んだ? そんな話は知らない。小説にも記述はなかったはずだ。
「その事実は吉良くんには告げられてない。私が知ったのは、夢十夜を読み聞かされた後、偶然に覗き込んだ病室が静かに慌ただしくて、『あの子にはまだ酷な話だから黙っておいて下さい』っていう会話が聞こえてきたから。後々考えて、その意味がわかったんだ」
 戦慄した。母さんの死を現実的に捉えられない一方で、七瀬の話が本当なら、それは僕のこれまでの全てをひっくり返す事実だ。
 視界が歪むほどの動揺を初めて経験する。
 だけれど、その混沌とした頭の中で一つ、すうっと浮かんできた思考があった。すぐに思考に転換できたのは、小説のおかげで、これまでの僕を整理できたからかもしれない。
 つまり、母さんが亡くなっていた。それが事実なら、これまでの僕、七瀬が救う対象としている僕は虚像だということになる。
「吉良の母親が死んでた? そんなら話がひっくり返る。その事実だけをお前が伝えてやれば、話はそこで終わりじゃねぇか」
「いいや。その権利は私にはないよ」
「……権利? なら、その選択を放棄して、お前のシナリオを選ぶって? そんなの、そんなのお前があまりにも報われねぇ!!」
 北島の声が涙に潤み、続けて言った。
「お前はなんでそこまで……吉良に固執すんだよ……」と呟き落とした声が掠れて消える。
 七瀬のゆっくり湿った呼吸。その息の使い道を悩むような間隔の後、こう聞こえた。
「本当……なんでこんなに好きになっちゃったんだろうね」
 言い終わった後、七瀬の声は堰を切ったように嗚咽に変わった。そして、ついに。
 うあぁぁぁぁぁ——と、子供のように。溢れる感情に飲まれるように声を上げて泣いた。
 僕もその悲惨な声を聞きながら、壁に背を付け、息を殺して泣いた。全身に力が入らず、ただ次々に溢れる涙を拭った。
 でも僕は今、動かなければいけない。今、涙が流れるのなら、僕は七瀬に救われてはいけないんだ。そして、そのためには僕が今、ここに居ることを七瀬に知られてはいけない。
 重い足をなんとか一歩、踏み出す。その拍子に足元の消火器を蹴り倒した。病室から北島の声。扉を開く音。僕は必死に駆けた。
 これから僕は父さんに会って、母さんの死の真相を聞き出す。そうすれば七瀬の目的は彼女の意図せぬ形で達成され、つまり、もう七瀬が僕を遠ざける必要はなくなるのだから。