浅間までは車で四時間ほどで着いた。
 希望は車に乗っている間に、決心をした。
 殺されるわけじゃないもの。
 真紀と結婚するだけだって思えばいいじゃない。
 ネアンデルタール人の遺伝子を持つ子供をたくさん作って、そして、ホモ・サピエンスと交配させて、強靱な新しい人類を作り上げていく。
 そこまで考えると気が遠くなりそうだったが、希望のすべきことはひとつだ。
 健康に長生きしてたくさんの子供を作ること。
 それが人類の役に立つなら、こんなにいいことはないじゃない。
 目を閉じると、高斗の顔が浮かんでしまう。だから希望はできるだけ目を見開いて研究所に入った。

「希望、久しぶりね」
 研究所のエントランスで声を掛けられ、希望は眉を顰めた。
 伯母だ。
 希望はちょこんと頭を下げる。そしてそのまま横を通り過ぎようとした。そのすれ違いざまに「本当に気持ち悪い子だね」と囁かれたが、どうでも良かった。
「じゃあ、希望さん、ここに入って」
 和哉に言われたのは、真っ白な部屋。
「あと、これね。熊鷹の腹の中から出てきた。あなたのでしょ」
 和哉が手にしていたのは小さな機械。
「違いますけど」
 見たことのない機械だ。すると和哉は首を横に振った。
「ああ、ごめんね。言い方悪かったね。これはあなたのものなんだよ。居場所を知らせる発信器。あの夫婦、死ぬ前にこれをあなたの体から外しちゃったようだね。また付けるから。手術は明日辺りでいいかな」
 希望は首筋に手をやった。あの時のものか。
 真紀が唇を歪めた。
「発信器を追ってたら、砂漠の中で迷子になりかけたよ。しかも、そこに希望はいないと来た。匂いが茨城方面からしたからなんとかなったけど」
 希望は首を傾げた。
 何故両親は発信器を外したのだろう。
 希望を人体実験の道具にさせないようにだろうか。
 でも。
 希望は疑問がわいてきた。
 両親も研究者だったはず。結局は人体実験をするために育てていたのではないのだろうか。神社のあの日までは知らなかったとは言え、知らされてからはそのつもりで育てていたはずだ。
 希望が自分の世界に入っていると、真紀が声を荒げた。
「聞いてる!?」
「えっ、ごめん。聞いてなかった」
「和哉さんの話ちゃんと聞いててよね。番うのは、明後日からだそうだから」
「え……」
 心臓がどくんと高鳴る。
「は、早くない……?」
 理解して、決心したはずなのに、心の準備が整ってないなんて。
 真紀はあざ笑うようにこちらを見た。
「急がないとダメでしょ。もう希望は二十歳過ぎてんでしょ」
「う、うん」
 希望は一瞬気圧されたものの、すぐに不機嫌になった。
 もう、って何よ、もう、って。まだまだ若いじゃないの。
 その不満が顔に出ていたのだろう、真紀は苛立ったように言った。
「まさか、自分が生理終わるくらいまで長生きできるとか思ってないよね?」
「……え?」
 言われた意味がわからなかった。
 生理が来なくなるのは、個人差はあろうが、だいたい五十歳前後だろう。普通それは「長生き」の部類に含まれない。
 どういうこと? 
 真紀はこちらをじっと見つめると、「ああ、そうだよね。ごめん」とおざなりに謝った。「私も聞いた話だからよくわからないんだけどね」
 そう言って、真紀は話始めた。
「数万年前の人間だよ。それが解凍されて生きてたってだけでも奇跡だ。現在のコールドスリープ技術は三十年が限度。それを過ぎると、解凍後の寿命が一気に縮む。今までの実験の計算上、数万年前となれば」
 希望は息を飲んだ。
「もう、死んでてもおかしくないよ」

   ***

「もしもし。お客様」
 夜も更けてきた頃、高斗の住まいに一人の女性が訪れた。
「女将」
 昨夜宿を借りた旅館の女将だ。
「どうしました。俺何か忘れ物でもしてきましたか」
 女将は首を横に振りかけて、そして「はい、忘れ物です」と答えた。
 高斗が何を忘れたのかと考えていると、女将は一冊の本を差しだした。
「ん? これは俺の本じゃ……」
「古事記の伝説を知っていますか」
 被せ気味に女将が言った。その本の表紙には「古事記」と書いてあった。
「まあ、だいたいは」
 女将が何を言おうとしているのかわからず、戸惑う。高斗の戸惑いには構わず、女将は続けた。
「木花咲耶姫は、繁栄の証ですが、自分の寿命は短いのです」
「はあ」
 木花咲耶姫は聞いたことがある。いや、確か希望と行こうとしていた神社の祭神ではなかったか。
「お嬢様……希望さんもそうです」
「え?」
 突然希望の話になって、高斗は襟を正した。
「希望さんのご両親は、その短い人生を、普通のホモ・サピエンスと同じように過ごせるようにと願っておりました。だから浅間を出て、希望さんのことを知る人のいない大宮で暮らしていたのです。……きっと、二十歳になる前に亡くなってしまうだろうと」
 高斗は手を振った。
「いやいや、待ってください。このはななんとかと希望は関係ないんじゃ」
「関係ないですね」
 あっさり言われて、高斗は拍子抜けした。
「からかわないでくださ……」
「けれど、希望さんの命が長くないのは、あなたもわかるでしょう? 数万年前に生を受けた命が、そんなにもちますか?」
 そう言われて高斗は口ごもった。
「それを言ったら、生きてたことが奇跡なんだからもっと長生きできるかもしれないし」
「これまでの実験上、長くはないだろうな」
 声のしたほうを振り返ると、いつからいたのか瞳が立っていた。その後ろに青い顔をしたあかりが佇んでいる。
「そんな……」
 高斗は膝から崩れ落ちそうになった。
 やっと心が傾いてきたところだったのだ。「離れていても、希望が幸せに暮らしていてくれるならば」と。
「希望さんの時間は長くありません」
 女将は静かに断言した。
「それだけを言いに来ました」
 女将は頭を下げて帰って行った。
「たかと……」
 あかりが声を震わせた。
「ごめんね、あたしがやられちゃったから、希望ちゃん、連れ去られちゃって」
「違う」
 高斗はあかりの頭をぐしゃりと撫でた。
「あかりは悪くない。希望がそれを望んだんだ」
「でも! ちゃんとお別れできてないんでしょう……?」
「お別れ?」
 高斗は声を荒げた。あかりがびくりと肩を震わせる。
 そうだ、このまま別れるつもりだったんだろう? 離れていても幸せならば、というのはそういうことだ。自分は希望の側にいられなくてもいいと、そういうことだ。
「ありえねえ……」
 高斗は呻いた。
 そんなの嘘だ。
 自分は見たくなかっただけだ。希望が自分以外の男と番うのを。
 秤にかけた。一緒にいたい気持ちと、見たくないものを見ないことを。
 今、一緒にいなければ、希望はいつこの世からいなくなってしまうかわからないのに。
「瞳!」
 高斗は叫んだ。
「ーー決めたのか」
 瞳がこちらを真っ直ぐに見た。高斗は頷いた。
「俺も浅間研究都市に行く」

   ***

 希望はぼんやりと部屋の中にへたりこんでいた。
 あたし、もう死ぬの?
 そう思うと恐怖が生じると共に、疑問もわいてきた。
 ちょっと呑気すぎないかな。
 自分でも他人事のような考えで笑ってしまうのだが、そう思わざるを得ない。もう死んでてもおかしくない貴重な実験体なのに、二十歳過ぎるまで野放しにされていたのだ。いや、発信器はつけられてはいたらしいが。
 自分が研究者の立場だったら、生殖可能になった時点で卵の確保に乗り出すし、真紀を先に別の女性と番わせたのも意味がわからない。
 希望は膝を抱え込んだ。
「まあ、もう死んじゃうならなんでもいっかー」
 眠くなってきた。ずっと気を張り詰めていたからだろう。眠いのを堪えてなんとかベッドまで歩いて行く。そこにごろりと横になり、希望は目を閉じた。まなうらに、好きな人の面影が浮かんだが、見えないふりをした。

   ***

 高斗は自室に戻り、浅間へ移動する準備を進めていた。元々荷物はそれほど持っていない。リュック一つとトランク一つに全て収まった。
「高斗、いるよね?」
 部屋の外からあかりの声が聞こえた。高斗はドアを開けた。あかりはお腹をさすりながら泣きそうな顔で立っていた。
「あたしはちょっと遅れていくね」
「そうなのか?」
 一緒に来るものだと思っていたが。
「うん。ちょっと体調良くないし、臨月だから移動中に産気づいても困るし」
「それはそうだな」
 予定日まではまだあったが、早まる可能性は十分にある。出産前に浅間に着いたとしても、慣れない場所ではなかなか不安だろう。
「てことは、瞳も残るんだよな」
 あかりは申し訳なさそうな顔をした。
「うん。結局高斗一人で行くことになっちゃってごめんね」
「いや、そんなのは別にかまわないけど」
 瞳のつなぎがなくても和哉に会えるのだろうか、そう一瞬不安に思ったが、狭い都市だなんとかなるだろうと思い返した。
「じゃあ、元気な子供を産めよ」
 あかりに笑いかけると、あかりはきゅっと口を結んでから「希望ちゃんに会ったらよろしく伝えておいてね」と笑い返した。
 用意があらかた整ったところで、荷物を持って部屋を出る。玄関に向かっていると、瞳が玄関前で待っていた。高斗は軽く手を上げた。
「じゃあ、一足先に行ってるから」
 瞳は無言で頷いた。そして、そっとこちらに近づくと、声をひそめた。
「もしかすると、行くのが遅くなるかもしれん」
「ああ、あかりの出産がいつになるかわからないもんな」
 そうすると、瞳は眉を寄せた。
「それもあるが。研究所の方でトラブルがあって、すぐには移動できなくなった」
 高斗は目を見開いた。
「そうなのか。そりゃ大変だな」
「ああ。和哉には連絡を付けて了承をもらったが、不信感を抱かれたようだ。が、情けないが俺は和哉に逆らう気はない。俺は俺と家族のことが一番大事だ。もし和哉が不審に思ってるようだったら、お前からもフォローしておいてくれ」
「ああ、そんなことならまかせとけ」
 高斗は瞳に請け合って、手を振ろうとした。その手を掴まれた。
「これ、持っていけ」
「あ?」
 瞳から手渡されたのは小さな苗。真空パックされている。
「お前が運んできてくれたあの植物を利用してちょっと別の植物と掛け合わせてもらった」
 高斗は首を傾げた。
「俺、育て方とかわかんないけど」
 瞳は「持ってるだけでいい」と呟いた。
「何か役に立つかもしれないし、立たないかもしれないが。お守りがわりだ。捨てるなよ」
「捨てねーよ」
 高斗は笑った。そして、今度こそ瞳に手を振って、家を後にした。

   ***

 和哉は電話を切った。窓の外を見る。真っ暗だ。都市とは言え、二百年前のような華やかな街は、既に日本にはなかった。
「瞳は本当に来るのかな」
 スマホを放り投げる。まあ、あれだけ脅しておいたのだから大丈夫だとは思うが。
 瞳の頭と研究成果が欲しい。
 瞳は今、植物の成長を早める研究をしている。
 それを人間に応用したい。
 時間がないのだ。
 真紀のネアンデルタール人化がもう少し早く成功していれば、すぐにでも希望に番わせられたものを。
 先輩達の研究でわかってきた。既にホモ・サピエンスとしてこの世に生を受けてしまってからでは、遅いようだ。遺伝子操作が失敗する確率が高い。
 希望の誕生が確認されてから、真紀の前に数十人の子供たちに遺伝子操作をしてきたが、拒絶反応で亡くなってしまうもの、数年しか生きられないもの、などがほとんどだったそうだ。だから、真紀を最後に子供に対する遺伝子操作は行われていない。
 今行われているのは、受精卵の操作だ。
 気が遠くなる。
 和哉はため息をついた。
 今生まれ始めているネアンデルタール人が生殖可能年齢に達するまでに、十年以上はかかる。その頃には希望は既に亡くなっている可能性が高いから、それらの個体は、希望と真紀の間の子供か、もしくは希望と他のホモ・サピエンスとの間の子供となることだろう。そのつもりで今の研究者達は研究を続けている。