ーーお前は俺たち夫婦二人の希望だよ。
 いや、……の希望だ。

   ***

「うわっ! ……っぶねえ!」
 山内高斗(やまうちたかと)は大きく右にハンドルを切った。そしてブレーキを踏み込む。
 車は大木にぶつかって止まった。ぶつかると言っても軽くだ。舗装された道路から外れた地面は砂だらけだったのでスピードが減殺された。
「危なかったな、くそう」
 高斗はハンドルに顔を突っ伏した。グレイのバンは木に頭から突っ込んでいる。
 ついてない。木などまばらにしか生えていないのに、何故この低い確率でぶつかるのか。
 そんなことをぐちぐち心の中で呟いた。が、思い出してはっと身を起こした。
 轢いちまってはいないよな?
 ドアに手をかけ、勢いよく開ける。
 道路の中程を見やると、昼下がりの青い空の下、人影が蹲っているのが見えた。
「大丈夫ですか!?」
 走り寄る。その途中で声が聞こえた。
「ごめんなさい!」
 若い女の声だ。近づくにつれ、彼女は大きなリュックを背負って地べたに尻餅をついているのが見て取れた。
 外国人か?
 髪の色が茶色なのは日本人でもよくあることとして、瞳が青みがかっている。
「本当に驚かせてごめんなさい」
 しゃべり方は流暢だ。日本人の顔にも見えなくもない。まあ、どっちでもいいかと高斗は考えるのをやめた。それよりも謝られて居心地が悪い。
「いや、謝るのは俺のほうなんで……」
 低姿勢な彼女に若干戸惑いながらも、大声で返事をされたことに安堵する。どうやら大怪我などはしていなそうだ。それもそのはず、ぶつかった感触はしなかった。
 彼女の目の前まで辿り着くと、高斗は跪いた。
「怪我とかないですか」
「大丈夫です! ちょっとぼーっとしてて」
 彼女はぶんぶんと大きく首を振った。その拍子に、髪から砂がはらはらと散らばった。
 あー、これは砂嵐に巻き込まれたかな。
 高斗は眉を寄せた。

 二千二百二十二年。
 数百年ほど前から始まった環境破壊で、地球はどんどん砂漠化が進んでいた。高斗の住むここ日本も例外ではない。以前は「東京」という場所が首都だったらしいが、そのあたりは全て砂漠と化した。それ以外の地域も海岸沿いは砂漠化が進行している。
 砂漠の中にオアシスの街が点在する。が、そこも砂漠になるのは時間の問題だろう。政府機関はまだ緑が豊かに残っている山奥に分散して移転していた。首都的なものは京都にある。
 今二人のいるこの越谷の街も例外ではなかった。
 ほぼ砂漠だ。道路は舗装されているが、砂埃がすごい。舗装されていないところはなおさらだ。
 そしてそんなこの国では、いや、全世界が砂漠化が進行しているのだが、とにかく砂嵐がすごかった。巻き込まれて命を落とす人も珍しくない。

 高斗は腰を上げた。
「立てますか」
 手を差し出すと、その手に華奢な手が重なった。
 あったかいな。
 そんなことを考えながら彼女の立ち上がるのを待つが、彼女はなかなか立ち上がらない。
「あの……?」
 声を掛けると、彼女は顔を顰めた。
「……腰が、抜けちゃったみたいです」
「あー……」
 高斗はため息をついた。それをどう取ったのか、彼女はぶんぶんと手を横に振った。
「あの! でもそのうち良くなると思うので、もうお気遣いは大丈夫です。行ってくださ……」
「いや、んなわけにはいかないでしょう」
 高斗は後ろを向いて背中を差しだした。
「目的地まで送りますよ。背中、乗れますか」
 後ろを向いてしゃがみこんだまま待つが、後ろにいる彼女は動く気配がない。
 高斗は振り返る。
「あ、別にこんな状況で変な気を起こすとかないので」
 とは言っても、信じられないか。
 高斗は眉を寄せた。街中ではある程度治安はいいが、一歩砂漠に出ればごろつきどもも多数いる。街から街へと移動する人たちを狙って、金品や体を奪うのだ。
 そう言えば、なぜこんな危ない所にこの女はいるんだ?
 不可思議に思いつつも彼女の返事を待つ。
 すると、彼女はぶんぶんと首を振った。
「いえっ。そういう意味ではなく! あたし、柔道と空手やってて、腕っ節には自信あるんです。インターハイも出たことあります」
「インターハイ!?」
 それは、高校生対象の全国規模のスポーツ大会だ。こんな移動が大変な世の中で、そんな大会に出場できるのはごく一部の富裕層だけだった。
 なんでそんなお嬢様がこんなとこに一人で。
 そう思いつつも高斗は「じゃあ、車乗ってください」と促した。彼女は唇を噛んだ。
「でも、あの、遠いので」
「どこです?」
 尋ねると、彼女は一瞬口ごもったが小さな声で答えた。
「……浅間研究都市まで」
「……は?」
 高斗は目を見開いた。
 ここ越谷から群馬の浅間研究都市までは、車でも四、五時間かかるだろう。歩きでは何日かかるかわからない。
 高斗の顔を見て、彼女は目を伏せた。
「やっぱり、遠くて無理ですよね」
「いやいやいやいやいやいや」
 高斗は大きく手を横に振った。
「歩きでそこまで行こうとしてたんですか? 無理でしょう。むしろ送るしかないでしょうが」
 彼女が顔をゆっくりと上げる。やはり困っていたのだろう。
 車の方から、さわさわと音がした。
 高斗はそちらを振り返った。
 あっちも早く送り届けないと。
「あの、申し訳ないんですが、急ぎの用があってつくば研究都市に行かないといけないんです。だからその後になっちゃうと思いますが、一時間ちょいで着くので」
 彼女は目を見開いた。
「そんな! お急ぎのところをお止めして申し訳なかったです」
「いや、それはいいので……」
 高斗は、ハッとして途中で言葉を切った。空を見上げる。鳥の鳴き声が聞こえてきたからだ。
「熊鷹かな……」
 つられたように彼女も空を仰いだ。
 熊鷹は最近増えている鳥だった。いや、熊鷹の進化系というべきか。
 従来の熊鷹は全長八十センチほどの鷹だったそうだが、ここ数十年、見かける熊鷹は全長二メートルを超えるものもいる。
 研究者の中には今いる熊鷹は、従来の熊鷹とは別物だと捉える人もいる。高斗は難しいことはわからない。ただ、わかっているのは、「絶滅危惧種だった熊鷹が、体長を大きくするという進化を遂げていて、それが絶滅の危機から逃れる方向に進んでいる」ということだった。
 高斗は視線を下に移す。
「熊鷹がいますよ。でかそうに見える。危ないですね。滅多に人を襲うことはないけど、早く車に……」
 そこで高斗は言葉を切った。
 彼女ががたがたと震えていたから。
 怖いのか。
 彼女の震え方が尋常でないので、高斗は思い切った。
「ちょっと失礼」
「きゃっ!?」
 彼女をリュックごと腕に抱えた。
 けっこうでかいな。
 身長は百七十くらいあるのではなかろうか。百八十の高斗よりは低いが。
 彼女は驚いたようにバタバタと手を振っていたが、すぐに落ちないように高斗の首に腕を巻き付けてきた。彼女のボブカットの髪から、砂埃の匂いがした。
 高斗は車に向かって歩き出す。
 でも、軽い。大丈夫か、これ。
 自分の肩のあたりに顔を埋めて震えている彼女を見る。
 見ず知らずの女だが、そんな心配をしてしまうくらい腕に掛かる重みは少なかった。
 車まであと数歩というとき、高斗は目を見はった。
「え?」
 先程の熊鷹が、真っ直ぐこちら目がけて滑降してきていた。
 高斗は熊鷹に何度も遭遇したことはあるが、襲われたことはなかった。人を襲うと聞いたことはあったが。
 慌ててドアに手を掛ける。その間にも熊鷹は近づいてきている。
「ーー下ろしてください」
 静かな彼女の声が耳に響いた。
「は? 何言って……」
 が、彼女はするりと高斗の腕から抜け出した。
「おい、待っ……」
 彼女は駆け出す。そして数歩で立ち止まった。
「……っ!」
 彼女が腕を大きく振り上げる。
 どすっと、鈍い音がした。
 彼女はゆっくりと振り返る。
 高斗は呆然と立ちすくんでいた。
 彼女の足下には、嘴から泡を吹きながらばたばた羽を動かした熊鷹が転がっていた。
「まだ生きてます」
 彼女はこちらに歩いてくる。
「危ないから、今のうちに……」
 その言葉の途中で彼女は再び腰を抜かした。高斗は慌てて駆け寄る。
 彼女をお姫様抱っこしながら、高斗は呟いた。
「いや、これ、インターハイとかのレベルじゃねえだろう……?」

   ***

「わりと小さな個体だったのでなんとかなりました!」
 運転する高斗の横で彼女ーー菊池希望(のぞみ)と名乗ったーーは言った。
「いや、小さくても普通無理だろ。菊池さんすげえな」
 熊鷹を見てあんなに怯えていたから、てっきり怖がりのか弱い女性かと思っていたが全く違った。
 車は今、つくば研究都市に向かっている。
「さっきの熊鷹、生きてればいいけれど」
 希望が呟く。
「まあなあ。最近増えてるとはいえ、絶滅危惧種だからな」
 希望は頷いた。
「はい。でも手強い相手だったので手加減したらこっちがやられてしまうから力の限りいきました」
「そうだよな。俺たちホモ・サピエンスだって絶滅危惧種なんだから、死ぬわけにはいかねえしなあ」
 絶滅危惧種。
 数百年前に人間が考え出した生物の絶滅危険度だ。その当時は我々人間ホモ・サピエンスは含まれていなかったらしい。人間の社会活動で環境が破壊されたりして、徐々に個体数を減らしていく動物が増えてきたという。それらの動物を守ろうという活動が起きていた。
 一部の人間にとっては、それは他人事だったようだ。ある動物がこの世から消えてもそれは人間にはなんら影響はない、と。が、生物の多様性が失われるにつれ、徐々に人間の生き辛さも増していくことになる。
 一部の動物たちが消えていったのは人間による乱獲、耕作地の拡大などの社会活動による森林の減少、またそれに起因する砂漠化。
 動物たちが住みにくくなっていくと同時に、同じ動物である「ホモ・サピエンス」も住む場所を失っていった。
 住む場所や食料が需要に追いつかなくなってくれば、残るのは他の人間から奪うことだ。国家間の戦争が頻発するようになる。第三次世界大戦、第四次世界大戦を経て、ほんの百年と少しの間で地球の人口はほぼ千分の一以下に減少した。戦闘で直接的に命を失った者、飢饉が起きて死んでいった者、様々だ。
 世界人口が一千万人を切ったあたりから、ようやく人間は理解した。
「自分たちは絶滅危惧種である」と。
 高斗たちの住む日本の人口はおおよそ百万人ほどである。各地に点在するオアシスの街や、山沿いに多くある研究都市に暮らしている。研究都市では、主にホモ・サピエンスを絶滅の危機から救う方策を研究している。
「お。ラッキ-。自販機がある」
 高斗は道路の先に小さな箱形の機械をみつけた。幹線道路沿いには飲料や簡易食料を扱う自販機が散見される。砂嵐、洪水などに巻き込まれて食べるものに困った移動者を救うために政府が管理している。
「菊池さんもなんか飲むだろ?」
「あ、えっと。特に喉は渇いてないので」
 希望は首を傾げた。
 砂嵐に巻き込まれたようなのに大丈夫なのかと思ったが、どこかで水分補給をしてきていたのかも知れない。
「あ、じゃあ俺飲みたいからついでに奢るよ。ていうか、さっきのお詫びで奢らせてくれないかな」
「あ、はい!」
 にこりとして希望は答えた。
 高斗は車を道路脇に止めた。かくんと車が止まったと同時に、後ろの荷室からさわさわと音がした。
 希望はちらっと後ろを見た。後ろには段ボールがいくつか積まれている。
「生き物ですか? 音がしますね」
「ああ。生き物だな」
 希望は眉を下げた。
「こんな狭い箱の中じゃ、なんかかわいそうですね」
「ああ、大丈夫。こいつらは……」
 言いながら外に出ようとドアに手を掛けて、そして気づいた。
「あれ? また熊鷹かよ。このへん多いな」
 上空の空には、大きな鳥影が見えた。近くの山との比較からして二メートルはありそうだから、熊鷹だろう。
 高斗は顔をしかめた。
「まあ、かなり遠いしさっきは驚いたけど普通は人間は襲ってこないから……」