「嘘、ついたんですか?」
「うん?」
「『サーレくん』のこと。……だって、今の話だと」
 公園で遊んでいた弟と、車の中からそれを見ていた兄。
 これでは兄弟のうち、弟の方が『サーレくん』……私にあの山百合をくれた彼ということになる。
「そうだよ」
 私の髪に頬をうずめながら、桂さんはあっさりと言う。
「ああでも言わないと、お前、僕のもとに通うのをやめるつもりだったでしょ」
「……気づいてたんですか?」
「まあね。お前を引き留めるためなら、僕だって嘘くらいつくよ」
 でも、それ以外はすべて事実だからねと、桂さんは小さく笑う。すべて事実。口の中で言葉をゆっくり嚙み砕いても、喉やお腹がいっぱいいっぱいで何も飲み下せそうにない。
「私……行かないと」
「どこへ?」
「…………」
 鼻先を私の耳元に押し当て、桂さんは小さくため息を吐く。
「まあいいよ。僕は樹や父とは違うからね。お前が外へ出たいと言うなら、どこへだって行かせてあげる」
 桂さんが廊下へ声をかけると、少ししてから家政婦さんが小さな包みを持ってきた。風呂敷を広げ、真新しい靴とワンピースを取り出した桂さんは、私の身体にそれを押し当てて満足そうに微笑んでいる。
「帰ってきたくなったら連絡して。お前が来たら必ず通すよう、守衛にも言っておくからね」
 桂さんの言葉に返事はせずに、私は与えられた服をそのまま着ると、重たい足を引きずるようにふらふらとその場を後にした。


 半ば朦朧とした意識でも、家まではたどり着くことができた。
 家、と自然と出てきた言葉に、また頭がこんがらがっていく。ここは樹くんの家。本当は私の家ではない。
(樹くんに会ったらどうしよう)
 いったい何を話すつもりで、私はこの家へ帰ってきたのだろう。
 また軟禁が始まったら? 今度は肌着まで隠されて、いよいよ二度と出してもらえなくなるかもしれない。
 あるいはもっと激しい束縛が始まる可能性もある。それこそ、私の考えつかないような、危険なことだって。
 でも、私の足は吸い込まれるようにいつものエレベーターに乗り込み、すっかり慣れきった足取りでいつもの部屋の前まで来た。
 鍵が……開いている。
 しんと静まり返った部屋。がらんとした玄関。ふと気づいて靴箱を開けると、私の靴がすべて綺麗に並べてしまわれていた。
 樹くんの靴は、ない。
「樹くん」
 返事がないのはわかりきっていたことだったけど、私は繰り返し名前を呼びながらリビングへ足を進めた。物音ひとつしない部屋の真ん中、ソファの前のローテーブルに、ファイルに綴じられた書類と一緒に小物がいくつか置いてある。
 私のスマホだ。それにマンションの鍵。書類の方は、この部屋の入居にまつわるものらしい。
 無意識に鍵を手に取ったとき、小さなメモがはらりと落ちた。


 ――今まで本当に悪かった。  樹


 私は――
 とっさに自分のスマホを手に取ると、すぐに樹くんへ電話を掛けた。3コール、4コール、5コール……すぐに出てくれないのはわかってる。でも、拳を握りしめてじっと待つ。
 やがて、ぷつと小さな音とともに、コール音が鳴りやんだ。耳の痛むほどの沈黙の奥に、かすれた息遣いが聞こえてくる。
「……樹くん、あの」
『悪かった』
 その声を聞いた瞬間、心臓が鷲掴みにされたみたいに鋭い痛みがほとばしった。
『謝って済む問題じゃないことはわかってる。今更言い訳なんてしない』
「……樹くん」
『桂の話は……すべて正しい』
 私の声なんて聞こえていないみたいに、樹くんは苦しげに続ける。
『俺は父親と縁を切り、まったくの他人として生きてきたつもりだった。父が母に何をしてきたのか、母がどれだけ苦しんできたのか。子どもなりに全部理解した上で、ひとり決別した気になっていた』
「それは……」
『でも蓋を開けてみれば、俺が今まできみにしたことはすべて父の二の舞だ。俺は結局、あれだけ嫌っていた……憎んでいた父と同類の男だったんだ』
 かける言葉が見つからない。
 話をしたくて私の方から彼に電話を掛けたはずなのに、何を言いたかったか、言うつもりだったか、まったく頭に浮かばない。
『部屋については所有権をきみに移すよう頼んでおいた。家賃も当面の分はすでに支払ってある』
「待って」
『きみの会社にも連絡をして、話はすでにつけておいた。きみが心配するようなことは、正真正銘なにもない』
「今どこにいるの? 椎名くんの家?」
『これ以上きみに迷惑をかけたくない。俺が傍にいないことこそが、きみの幸せだと思うから』
 息の詰まる音がする。
 喉の震えが、瞳の熱が、電話越しに伝わってくる。


『もう――二度と、会わない』


 その言葉だけを最後に残し、返事を待たずに電話は切れた。
 かけ直しても数コールの後に留守番電話に繋がるだけ。話がしたいとメッセージを入れたけど、折り返しかかってくる気配はない。
 スマホを片手で握りしめて、私はその場に立ちすくむ。頭の中をぐるぐると、樹くんの言葉が駆け巡る。
 ひとりぼっちの部屋の中で、力なくソファに座り込む。
 ここで私を抱きしめてくれた彼は、もう、どこにもいない。





 デートに行ったショッピングモール。
 一緒に買い物へ出かけたスーパー。
 行き場をなくした私のために、迎えに来てくれたコーヒーショップ。
 ふらふらと歩き回る街並みは今日も変わらず忙しなくて、私一人が時間の狭間に取り残されているみたい。背の高い後ろ姿を見つけるたびに足を止めて、でもその都度、彼がどこにもいないことを思い知る。
 どうして彼を探しているのか。見つけたところでどうしたいのか。
 自分でもわからないまま、私はひとり徘徊を続ける。
(幸せってなんだ)
 自分が傍にいないことこそが、私の幸せだと彼は言った。
(なんなんだ)
 そうだとしたら今までの私はずっと不幸だったのだろうか。
 たくさんのことがあった。つらい思いや怖い思いもたくさんした。でも、決してそれだけじゃなかった。
 だから私はこんな有様でも、未だに彼を探している。
「ばあっ」
 突然目の前に甘い香りが広がって、目を白黒させてしまった。
 視界いっぱいの百合の花。そして、その花をかきわけるように、見慣れた顔がうさぎみたいにぴょんと飛び出してくる。
「お久しぶり。元気では……なさそうですね」
「お花屋さん……」
 いつの間にかこんなところまで歩いてきたらしい。桂さんのお見舞いへ行くときいつも通っていたお花屋さんは、今日も変わらず優しい笑顔で色とりどりのお花に囲まれている。
「ほら見て、今日届いた百合の花。()()()()()()してるでしょう? だからこの香りをかげば、あなたもきっと元気になるかもって思ったのだけど」
 そう言って、真っ白な百合の花束が再び顔へ突きつけられる。むせかえるほどの甘い香りが昔の記憶を刺激して、私は軽く口元を押さえてそっと花束を遠ざける。
「あっ、ごめんなさい。お節介だったかしら?」
「いえ……」
 困った顔をするお花屋さんに、良心がちくりと痛む。人と話す気分じゃない。でも、向けられた好意を無下にしたまま立ち去るほどの気力もない。
「……あの、前々から思っていたんですけど、もしかして新潟生まれの方ですか?」
 口先から飛び出した話題は、さして興味もなければ特段話が広がるわけでもない、非常に雑な振りだった。
 案の定、お花屋さんはきょとんと目を丸くする。ああ失敗した。やっぱり黙って立ち去ればよかったと一瞬後悔したけれど、ほんの少しの間を置いて、彼女の表情がパッと花開くように輝いた。
「やだーっ、もしかしてお客さんも新潟出身!?」
「ええ、まあ……」
「あらあらもう、すごい偶然! ねえ、今日はお暇かしら? よかったらお店に寄っていって! 少しお喋りでもしましょうよ」
 ああ、なんだかまずい展開だ。でも、()()()()とか、()()()とか、()()()()とか、()()()()()とか、全部聞き慣れた新潟の方言だったんだもの。
 少しお喋りでも、なんて言われても、正直全然そんなテンションじゃない。でも、こんに無邪気な笑顔で誘われると断る文句も見つからない。
 仕方なく誘われるがままテーブルの傍に腰かける。いつも玄関口で花を買うばかりだったから、店内に入るのは初めてだ。あまり広くないお店の中では、あちらこちらに様々な花が、まるでジャングルか何かみたいに咲き乱れている。
 少し青臭い草花の香り。ホースから流れるか細い水音。絶えず五感を刺激する環境は、今日に限って心地よい。余計なことが自然と頭に浮かぶのを防いでくれるから。
 お茶を淹れるお花屋さんの背中をぼんやりと眺めていると、ふいに壁に掛けられた一枚の額縁が視界に入った。百合の写真……いや、絵かな? まるで本物のお花みたいに、とても色鮮やかで生き生きと描かれている。
「その絵が気になるの?」
 私の前にお茶を出しながら、お花屋さんが笑顔で訊ねる。
「綺麗な絵ですね」
「ありがとう。私が自分で描いたものなの。息子が初恋の人からもらった、思い出の山百合でね。息子といっても、とっくの昔に成人しているのだけど」
 わずかに息を吞み、顔を上げた私を見て、彼女は少しだけ恥ずかしそうに肩をすくめてみせた。
「私ね、バツイチなの。前の夫との間に子どもがいるのよ。……二人」
 開かれたお店の玄関の外を、高校生の男の子たちが笑いながら通り過ぎていく。その姿を軽く目を細めて眺めつつ、お花屋さんの奥二重の瞳は彼方遠くへ向けられている。
「思い起こすと、大変な結婚生活だったなぁ。私は当時専業主婦どころか、家事も何もしなくていいと言われていてね。笑顔で生きてさえいてくれれば、俺はそれで充分だ、なんて。笑っちゃうでしょ? 気障すぎて」
「……愛されていたんですね、とても」
「そうね。でも、何もせずに食べさせてもらっている以上、私は彼に意見なんてできずにいた。彼は私を愛してくれたけど、あまりにも……重くてね。すれ違いにすれ違いを重ねて、結局私は息子と家を出たの」
 緑茶の水面に俯く彼女の顔が映っている。
 とても綺麗で、でも、少しくたびれた寂しい微笑み。
「離婚を決めたとき、彼は頼んでもないのに大変な額のお金をくれたの。私が生活に困らないようにって。別に、あの人が浮気をしただとか、そういう経緯の離婚じゃないのよ? なのにあの人、私を苦しめたのは事実だと言って、できることはなんでもする、なんて……」
 そこで言葉を切り、彼女は小さくため息を吐いた。
「本当に……馬鹿な人だった」
 焼けたアスファルトから湧き上がる空気がじわじわと気温を上げていく。
 お店の前の交差点を横切ろうとした自転車が、前も見ずに駆け抜けた子どもにチリンと注意のベルを鳴らした。
「別れたこと、後悔してますか?」
 静かに訊ねた私の目を見て、彼女は微笑むとかぶりを振った。
「それは全く。私たちには離婚以外の道はなかったと思う。私一人が我慢をすれば丸く収まったのかもしれないけれど、それでもきっと長続きはしなかったでしょう。私が彼のために苦しんだり、逆に彼を苦しませたり、傷つく必要のない存在を傷つけてしまったのは事実だからね。でも」
 緑茶に触れた唇が、ふうと熱い吐息を漏らす。それから彼女は顔を上げて、くしゅっと気の抜けたように笑った。
「あの時もっとああしておけば、違う未来が待っていたのかしら……とは、思うかな。たとえば――」





「本当にここでいいんですか?」
 怪訝な顔をする運転手さんに軽く頷き、私はタクシーを降りると水平線を見渡した。
 静かに凪いだ穏やかな海。日はまだ高いけど、辺鄙な場所だからか人の姿は見当たらない。
 石階段を少し降りると、広い浜辺が広がっている。私が一歩進むごとに、靴底の形にへこんだ砂浜が波にさらわれて元に戻っていく。
 私はスカートを軽く押さえて、砂浜の真ん中に腰を下ろした。焼けた砂は少し熱いけど、思ったよりも心地よい。海風だって、コンクリートジャングルの街中に比べればずいぶん涼しいように感じる。
 波が揺れている。
 煌々と輝く太陽が、少しずつ海へと傾いていく。
 何時間ほど経っただろう。やがて太陽の端が水面に触れて、海全体が淡い橙に輝いた。空の彼方から夜の帳がじわじわと幕を下ろし始めて、それに呼応するみたいに海からも闇がせり上がる。
 夜が来る。
 そう思ったとき、傍らから砂を踏みしめるかすかな足音が聞こえた。私は膝を抱え、海を眺めたまま、彼の足音が止まるのを待つ。
「いつまでそうしているつもりなんだ」
 想像以上のなじるような声に、少しだけ笑いそうになってしまった。
 私はゆっくり立ち上がると、お尻についた砂を払い落とした。水平線と砂浜を背景に、彼は――樹くんは、ひどく居心地悪そうな表情で立ちすくんでいる。
 私と彼の間隔は、私の足で六歩程度。
 手を伸ばしても触れられない、今の私と樹くんの距離。
「きみはずるい」
「なにが?」
「留守電のメッセージ。わかっているんだろう?」
 ――海浜公園で待っています。樹くんが来てくれるまで。
 返事のない彼の留守番電話に、私が最後に入れたメッセージ。苦々しい顔をする彼を見つめ、私は少し微笑んで頷く。
「来てくれるって、わかってた」
 こんなひと気のない夜の公園に、彼が私を一人にしておけるはずがない。
 連絡の取れない、居場所もわからない彼ともう一度顔を合わせるための、たった一つの方法だと思ったから。
「話がしたいの」
「俺に話せることはない。桂が言ったことがすべてだ」
「樹くんにとってはそうかもしれないけど、まだ私の話は終わってない」
 口を噤んだ樹くんは、険しい顔のまま私を見つめる。
 彼に聞く気があるのを確認してから、私はいつになく落ち着いた、堂々とした声で言った。
「教えてもらったの。私たちには、きちんと最後まで話し合う勇気が足りなかったんだって」
 波の音が聞こえる。
 ざあ、ざあと寄せて返す中に、彼方を羽ばたく鳥の鳴き声が遥か遠くから入り混じる。
「私、今まで何度も樹くんのことを疑問に思った。私のことを好きでいてくれる理由も、私に隠し事をしている内容も、なんだろう、おかしいなって思いながら、ずっとずっと聞かずにいた。それは、樹くんのことを信用しているからだって言い聞かせていたけど、本当は違う。ただ、樹くんを信じたふりをして、現実から目を逸らしていただけだったんだ」
「今更話をしたところで、俺がきみにしてきたことは消えない。自己愛のまま勝手をして、きみを怖がらせ、傷つけた」
 喉に溜まった膿を出すように樹くんは言い捨てる。
「俺は異常だ」
 樹くんを狂人だと、頭がおかしい男だと、静かに嘲笑う桂さんの声。
 きっと樹くんもその言葉を思い出しているのだろう。ひどく傷ついた彼の顔に、喉の奥が熱くなる。
「自分を正常という人がいるなら、私はそのほうが異常だと思う。多かれ少なかれ人にはみんな、どこかしら異常なところがあるよ」
「俺の異常さは常識の範疇を超えている。倫理的に狂っているんだ。どのみち俺はきみを幸せにできない」
「勘違いしないで」
 彼の視線が持ち上がるのを待ち、私は強く断言した。
「私にとっての幸せは、私が決める」
 樹くんの切れ長の瞳が、戸惑うように見開かれる。
「桂さんは自己愛だと言っていたけど、私、樹くんは本当に私の幸せを願ってくれていたんだと思う。ただ樹くんの幸せのものさしが、私のものとは違っていただけ」
「…………」
「そのものさしは……二人できちんと話し合えば、ぴったり同じにはならなくても、限りなく近いところまでなら合わせられると思うの。押し付け合わないで、決めつけないで、二人一緒に丁寧に重ねていけば、きっと」
 私が一歩前へ進む。
 びく、と指先を震わせた樹くんが、ゆっくり一歩下がろうとする。
「樹くん」
 私は構わず距離を詰める。二歩、三歩、四歩、五歩。
 そうしてあと一歩の距離まで来たとき、私はぐっと喉を逸らして樹くんの顔を見上げた。困惑しきった彼の表情。なんだかとても久しぶり。
「私のこと、好きですか?」
 一瞬開いた彼の唇が、少し歪んでから閉じられる。泳ぐ視線を捕まえるみたいに、私は力強く彼を見つめる。
 苦しそうな吐息が漏れる。喉まで出かかった言葉が飲み込まれる。樹くんは、せめぎ合う感情に必死になって抗いながら、やがて助けを求めるように潤んだ瞳を私へ向けた。
「……はい」
 こんなに苦しい思いをしても、それでも私が好きなのだと。
 彼の心が嗚咽する。告白というにはあまりにもつらく悲痛なその声は、ぬるい潮風に巻き上げられて白砂とともに散っていく。
 私が右足を進める。樹くんは動かない。
 左足を右に揃える。うんと見上げた彼の顔へ、壊れ物に触れるみたいに、そっと優しく手を伸ばす。
「私も、樹くんが好きです。だから」
 頬に触れる。
 この指先から私の意志が、彼の心に伝わるように。
「今度は一人で決めつけるんじゃなくて、私と一緒に悩んでほしい。一緒に並んで、手を繋いで、何度も何度も失敗して、そのたびに二人で相談しながらずっと隣で歩いていきたい」
 それがきっと、幸せのものさしを重ねる方法だと思うから。
「二人で一緒に、幸せになりたい」
 少しかさついた樹くんの頬には、涙の通った跡があった。私は人差し指の先で乾いた涙をなぞりながら、彼の心が私の言葉を咀嚼し終えるのを待つ。
 樹くんは瞬きもせず、私の目を見下ろしている。それは、本当はきっと1分にも満たない程度の時間だったかもしれない。でも私にはこの砂浜で、何十分も、何時間も彼と見つめあっているように感じた。
「俺は……また、きみを苦しめてしまうかもしれない」
 胸に巣食う苦しみをそのまま絞り出したみたいに、樹くんは言う。
「仮にきみが許してくれたとしても、もしまた同じようなことが起きたなら、俺はきっと自分で自分を許せなくなるだろう」
「そうなる前に、私、ちゃんと言うよ。ちょっと立ち止まって話し合おうって。それでもだめなら引っ叩いてでも樹くんを止めるから」
 私は右手の親指の腹で、樹くんの頬をそっと撫でる。
「私のこと、信じてほしい」
 樹くんは固く結んだ唇の奥で声にならない声を漏らした。熱湯のように湧き上がる感情が、彼の瞳の奥からあふれ出す。樹くんの長い指が、ためらいながら、でも少しずつ、私の右手に優しく重なる。
「……ありがとう……」
 きっと大丈夫。
 私たちは他人同士。だからこうして手を繋げるし、言葉を交わすこともできる。
 育ってきた世界が違うのだから、幸せのものさしが違うのも当然。だからこそ私たちは、お互い目を見て言葉を使って、少しずつ世界のすり合わせをする。
 きちんと言葉を交わすこと。それさえ忘れなければ、きっと、私たちは一緒に歩いて行ける。
「百合香」
「なに?」
「抱きしめてもいいか?」
「もちろん」
 ふわと笑った樹くんが、私の腰へ腕を回す。
 触れる身体。彼の胸元に頬をぴったりとくっつけて、私もうんと伸ばした両手で彼の背中を抱きしめた。
 鼓動が聞こえる。私のものじゃない心臓の音が、少しずつ私の音と重なりやがてひとつになっていく。
 月明かりが揺れる夜凪の中で、私たちはいつまでも、いつまでも、二人で抱きしめあっていた。





「それで……樹くん」
「どうした?」
「さっそくひとつ、一緒に悩んでほしいことがあるんだけど……」





 広い廊下を進んでいく、樹くんの足取りが少しぎこちない。
 たぶん緊張しているのだろう。彼の抱えるストレスの重さは、きっと私の比じゃないはずだ。
「こちらのお部屋です」
 家政婦さんに頭を下げて、私は部屋の扉をノックした。懐かしい気持ちがほんの一瞬、胸の内によみがえる。彼がひとり待つ病室の扉を、私はこうして何度も叩いてきた。片手に百合の花束を抱いて、二人の時間を楽しむために。
「入れ」
 私()()が来たということを、きっと事前に知っていたのだろう。
 ソファに深く腰掛けた桂さんは、不機嫌をまったく隠そうとしない冷ややかな眼差しで私たちを迎えた。
「桂さん。これ、ありがとうございました」
 私は家から持ってきた紙袋をそっと桂さんへ差し出した。あの日に貰ったワンピースと靴が、綺麗にたたまれて入っている。
 桂さんは紙袋を受け取るどころか、中を覗き見ようともしない。ただ、私を責めるように、罵るように、静かに睨みつけている。
「お前はもう少し賢い女だと思っていたよ」
 あからさまな侮蔑の言葉に心がちくりと痛む。
「僕の見込み違いだったみたいだ」
「……桂さん、私」
 思わず俯いた私を庇うように、樹くんが一歩前へ出た。桂さんの冷淡な視線は、当然のように樹くんへ向かう。
「桂」
 樹くんは少しこわばった顔のまま、でも、しっかりと前を向いて桂さんの目を見つめた。
「話したいことがある」
「僕はない」
「頼む。今だけでいいから聞いてほしい」
 足を組みなおした桂さんが、綺麗な瞳を険しくひそめる。しらじらしい――と、冷めた面持ちではあるけれど、耳だけは向けてくれているようだ。
 樹くんは沈黙の中でしばし気を呑まれていたようだけど、やがて意を決したように力強く顔を上げた。
「二十一年前のあの日、俺は確かに自分にとっていらないものを何もかも置いて出ていった。俺が幸せになるために捨てていったすべてのものを、桂は一人で背負って生きていかなければならなかったと思う」
「……だから?」
「子どもだったとはいえ、本当に残酷なことをした。今更だと思うかもしれないが、謝らせてほしい」
 樹くんが頭を下げる。
 桂さんは腕を組んだまま、日向でひからびるミミズを見る目で樹くんのつむじを見下ろしている。
「樹」
 永遠とも思える長い沈黙を一息に切り裂いたのは、桂さんのとても静かな声だった。
 顔を上げた樹くんの額に汗が一筋伝う。
 桂さんはただ無表情に、樹くんを見つめている。
「お前は僕が持っていないものをほとんどすべて持っている。健康な身体。自由な人生。そして母親。……その上で、父の後継ぎという僕の唯一のアイデンティティまで奪おうと言うなら、もう、僕はそれで構わない」
 そこで一旦言葉を切り、桂さんは表情を歪めた。
「でも、だったら代わりに好きな人くらい僕に譲ってくれてもいいだろ?」
 泣き出しそうな、怒り出しそうな、あふれ出る想いをどうにもできない子どものような顔だった。
「他のものは全部あげるよ。好きなだけ持っていけばいい。僕の婚約者の家だって、お前が相手ならきっと文句は言わないだろう。でも、彼女は、……百合香だけは、僕に残しておいてくれないか」
 樹くんは一度目を伏せ、固く結んだ唇を開く。
「百合香は俺の所有物じゃない」
 奥歯を噛んだ桂さんを見つめ、樹くんは冷静に続ける。
「意思を持った人間だ。彼女のことは彼女が考え、彼女自身が自分で決める」
「……偽善者め」
「でも俺自身の所有物のことなら、俺が自由に決められる」
 いぶかしむように眉を上げた桂さんに、樹くんはひどく落ち着いた声で「桂」ともう一度呼びかけた。


「俺の腎臓を移植しないか」


 桂さんのガラス玉の瞳が、怪訝なまま見開かれた。
 ちいさく開いた唇がわななき、声にならない声が漏れる。混乱する桂さんをまっすぐに見つめ、樹くんは力強く続ける。
「百合香から聞いた。人工透析が必要なほど腎臓が弱っているそうだな」
「な、なに……なんだって?」
「民法上、六親等以内なら腎臓の生体移植ができる。両親の離婚は影響しないから、俺は十分範囲内だ」
「……お前の、腎臓を? 僕に?」
「ああ。もちろん適合すればの話だが」
「なんで……なんで、そんな」
「なんでって」
 樹くんは少し首を傾げ、当たり前のように言った。
「俺たちは兄弟だろ」
 桂さんは――
 ものの見事に言うべき言葉を見失った桂さんは、少しの間呆然としたまま樹くんを見つめていた。いつもの皮肉も鳴りを潜めて、ただただ目を丸くする彼を、樹くんは憎々しいほど落ち着いた眼差しで受け止める。
「お前は」
 やがて、唐突に眉を吊り上げた桂さんは、
「お前を憎む権利すら、僕から奪おうと言うのか」
 歯の合間から憎悪を漏らすように低い声を絞り出す。
「憎み続けてくれていい」
 対する樹くんは、なおも平然と言い返す。
「でも桂には、俺の腎臓が必要なはずだ」
 桂さんの眉間がぶるぶると震える。ぎゅっときつく目をつむり、何か叫ぼうと開いた口は、結局なんの言葉も出せないまま熱い吐息だけをただこぼした。細く浮かんだこめかみの青筋が溶けるように消えていく。
 ああ、と桂さんは唸り声をあげる。彼の細い身体の内でやりきれない思いが暴れ、苦しそうに、つらそうに、彼は身悶えする。
 そうしてやがて、桂さんは顔を上げる気力すら失くしたみたいにうなだれると、
「百合香」
 両足の間に顔を伏せたまま、ひどく投げやりに私を呼んだ。
「お前の男は本物の馬鹿だ。嫌味は通じないし頭が固い」
「はい」
「おまけに気は狂っているし常識知らずで共感性もない。この男の隣で生きるのは、きっと苦労するだろう」
 私はわずかに目を細め、桂さんを見つめてそっと微笑む。
「今はその苦労すら、少し楽しみなくらいです」
 俯く彼の肩が揺れた。くつくつ、くつくつと、堪えきれない笑い声が、静かな部屋に漏れてくる。
「わかったよ」
 桂さんは顔を上げた。
 雨上がりの夏空のような、ひどくさっぱりした顔だった。
「僕の負けだ」