寒い、と思って目が覚めた。
 閉まり切ったカーテンが、エアコンの風に吹かれて揺れている。かすかに差し込む光は朝と呼ぶには少し暗い。空模様を見ようと腕を伸ばして、自分が裸であることに気づく。
 何も、下着すら着ていない。これで夜通しエアコンなのだから、寒いのも当然だ。
 身体の節々がひどく痛む。倦怠感と、軽い頭痛。ああ、と声を出そうとして喉に何かがつっかえた。
(私は……そうだ。樹くんを裏切ってしまったんだ)
 昨日は正直ひどかった。お互いにどうしたらいいのかもわからず、やりきれない思いを樹くんはぶつけ、私はただただ受け入れた。
 首、喉、胸、腿……身体中にちりばめられた赤い痕。いったいいつ気を失ったのか、それからどれほど時間が経ったのかもわからない。でも、きっとまだ何も解決していないだろう。
 とりあえず服を着ようとして、すぐ違和感に気がついた。服がない。下着の類は残されているけど、それ以外の洋服がクローゼットから消えている。
 まさかと思い部屋中を探してみると、洋服だけじゃない、スマホやパソコン、財布もなくなっていることがわかった。
 嫌な予感に血の気が引いていく。
(まさか)
 仕方なく肌着だけを着て、そっとリビングへ進んでみる。樹くんはソファに横たわり、疲れた顔でぼんやりと虚空を眺めている。
 小さな声で「おはよう」と言ってみたけど、彼からの返事はない。私は彼の横をそうっと通り過ぎ、忍び足で玄関へ向かった。
 靴も……ない。薄々予想していたとはいえ、やっぱり胃が痛くなってくる。
「あの……樹くん。私の服とか、スマホとかって……」
 樹くんは唇を開いたまま、返事の代わりにゆっくりと瞬きをする。知らない……わけではないようだ。
(樹くんが隠した? どうして……?)
 混乱する私を無視して、樹くんは緩慢に身体を起こす。背もたれに寄りかかり、軽く天井を仰ぎながら、彼はたばこを吸ったときみたいな細く長いため息を吐いた。
「……百合香は、もう、出かけなくていいから」
 それは命令というより、独り言のように聞こえた。
「……どういうこと?」
「きみは選択を二度間違えた。一度目は里野で、二度目は桂。だから三度目が起きないように、しばらくここから出ないでもらう」
「……私、仕事が」
「休職届を用意した。俺の方も、しばらく休職する」
「なんで」
 勝手なことを――と、怒りの言葉がぎりぎりのところで喉の奥へと戻ってしまったのは、やっぱり私にも後ろめたい気持ちがあるからに他ならない。
 身から出た錆だと言われれば、確かにそのようにも思えてしまう。でも、無断で服や靴を取り上げて、勝手に仕事を休ませて、外との連絡も取らせないだなんて……あまりにも異常で非常識ではないだろうか。
「普通、ここまで、する……?」
 震える声で呟く私を、樹くんは一瞥する。
「俺はするよ」
 それから彼はうっすらと微笑み「愛しているからね」と言い添えた。


 部屋の中は自由に歩ける。お風呂もトイレも、飲食だって制限はない。
 ただ、外へは出られない。スマホとパソコンも取り上げられて、連絡を取る手段もない。
 軟禁。
 箱庭の平穏の中で、私は今日も目を覚ます。
(今日で何日目?)
 社長や上司はどうしているだろう。突然休職届なんて出されて、きっと戸惑っているはずだ。
 申し訳なさで胃が痛むと同時に、樹くんへの抗いがたい拒否感が胸に渦巻いていく。事の発端が私にあるのは十分に理解している。結局はすべて私のせい。でも私のしたことは、ここまでされなきゃならないほどのことだったのだろうか。
 隠しようのない人権侵害を甘い言葉でコーティングして、樹くんは夜ごと私に愛していると吹き込んでくる。
 その言葉に今まで通りの素直な悦びを覚える反面、彼の秘める途方もない狂気におののいている自分がいる。
(私は本当にこのままでいいの? これが、私の幸せなの?)
 いつ終わるかもわからない軟禁生活の中で、自問自答をいったい何度繰り返しただろう。
 樹くんは相変わらずリビングのソファでまどろんでいる。この家の出口は玄関とベランダの二つしかなく、ソファの上はその両方を同時に見張れる位置になる。
 警戒……されているのだろう。私がまた、何も言わずに桂さんのもとへ行くのではないかと。
 ぶかぶかのジャージの裾を引きずりながら、大きなため息が口からこぼれた。左胸に『波留』と刺繍されたジャージは、肌着だけの私が寒そうにしていたら樹くんが渡してくれたものだ。
 ジャージはいいから自分の服を返してほしいとお願いしたけど、樹くんは悲しげに微笑むだけで何も答えてはくれなかった。結局私は、樹くんのにおいの沁みついたこのジャージをまとい、自分の部屋で死体みたいに何もせず寝転がっている。
(本当に、これでいいの?)
 時計の針だけが私をあざ笑うみたいに刻一刻と過ぎ去っていく。
 美咲。美咲に会いたい。新潟のお父さんお母さん。一華さん。椎名くん。もうこの際、誰でもいい。
 私の現状を客観的に見て、誰かに判断してほしい。これは、私が悪いせい? それとも樹くんがおかしいせい?
 ふいにリビングから足音が聞こえて、私は狙われた小動物みたいにベッドの上で飛び上がった。玄関の鍵の開く音。まさかと思いそっと様子を伺うと、さっきまでソファで横になっていたはずの樹くんの姿がない。
(そうか、ゴミ捨てだ。今日は燃えるゴミの日だから、たぶんゴミ捨て場に行ったんだ)
 軟禁生活が始まって以来、樹くんの姿がこのリビングから消えることはほとんどなかった。でも今、樹くんはこのマンションのすぐ傍にあるゴミ捨て場まで向かっている。
 逃げるなら、今しかない。焦る私の心がせっつく。
(でも、逃げてどうするの?)
 わからない。でも逆に、ここで逃げなくてどうするの?
 樹くんの心が氷解するのを待ち続ける? ひたすら従順に、彼の望む私になって、樹くんが何もかも忘れるまで何年も何十年も待つつもり?
(――逃げよう)
 決めてしまえば、速かった。
 私はベランダの掃き出し窓を開け、勢いのまま手すりに足をかける。
 そのまま半身を外に出したのだけど、想像以上の四階の高さに背中がぶるっと震えあがった。これは、着地に失敗したら……いや、失敗しなくても死ぬかもしれない。
 道路脇には植え込みがある。あそこにうまく落ちることができればと考えたけど、そもそも私の目的は脱出ではなく逃亡だ。命だけは助かったけど足を骨折して逃げられませんでした、なんて笑い話にもなりはしない。
 もたもたしている時間はない。私はベランダのコンテナボックスを開けて、大急ぎで中身をひっくり返した。予想していたものを発見し、ほんの少しだけほっとする。市販の非常用縄はしごだ。
(樹くんが戻ってくる前に、急いで逃げないと)
 見よう見まねではしごを設置し、大きく息を吸い込んだ。しっかりと縄を握りしめ、できるだけ下を見ないようにしながら一歩一歩降っていく。指に食い込む縄が痛い。背中を撫でる風が怖い。でも私には時間がない。
「あっ」
 その瞬間、突然右手が空を掴んで身体がぐんと引き剥がされた。手汗で滑った、と気づいたときにはすでに遅くて、身体が宙に浮く感覚とともに視界がスローモーションになる。それが一瞬、まばたきをする間もなく加速したと思うと、内臓が飛び出そうなほどすさまじい衝撃に打たれた。
 落ちたんだ。
 びりびりと身体がしびれているけど、思ったよりも痛くない。たぶんうまく植え込みの上に落下することができたからだろう。でも、これで終わりじゃない。急いでここから逃げ出さないと、彼に見つかったらすぐ連れ戻される。
 枝葉で切って傷だらけの足を引きずりながら、私がよろよろと歩道へ出ると、まるで狙いすましたかのように傍らの道路に車が停まった。助手席のドアが開いて、スーツ姿の男の人が――どこかで見たことがある人が、顔色一つ変えずに近づいてくる。
「こちらへどうぞ。桂様がお待ちです」
 ああ、思い出した。この人、桂さんの病室から出てきた人だ。


 とても大きな、でも、比較的新しい和風の豪邸。警備員付きの大きな門からこのお屋敷の玄関に至るまで、車でずいぶん走った気がする。
 眼鏡の人に連れられるまま、お屋敷の奥の部屋へ通される。明治時代の建物みたいなモダンな雰囲気の応接間では、豪奢な刺繍の施されたソファに桂さんが一人で座っていた。
「言ったでしょ。僕のもとに戻ってくるって」
 ……すべてこの人の手の上だったかと、気づいても怒る元気がない。
「意外だな。僕はてっきり、お前は全裸で逃げ出してくるものだとばかり思っていたけど……下着だけじゃなくて服もきちんと与えてくれるだなんて、あいつは案外甘いんだね」
 部屋の入り口で立ったままの私の前へ、桂さんはゆったりとした足取りで近づいてくる。腰に触れようとした彼の手を、私は今度こそ躊躇なく、いっさいの情もなく振り払った。
「冷たいね」
 くく、と桂さんは喉で笑う。
 私は彼の顔を思い切り睨むと、
「別に、あなたのもとに戻ってきたわけじゃありません」
 挑みかかるような勢いできっぱりと言い捨てた。
「話を聞きに来たんです」
 桂さんの天使の笑みが、より一層深くなる。
 妙齢の家政婦さんが、紅茶と軟膏を運んできた。紅茶の柔らかな香りに包まれると途端に足の痛みを思い出し、私は脂汗を流しながらそろそろとソファへ腰を下ろす。
 頂いた軟膏を足の裏に塗り、膝に手を置いてじっとしていると、紅茶に唇をつけた桂さんがふぅと小さくため息を吐いた。
「なら、お望みどおり聞かせてあげよう。僕が知っているすべてのこと――」
 喉が鳴る。
 桂さんは、優雅に唇の端を釣り上げる。
「波留樹の秘密についてだ」





 お前は『ドグラ・マグラ』を読んだことはある?
 夢野久作の代表作で、奇書とも呼ばれる小説だ。興味があるならネットで調べてみるといい。
 その内容は……心理遺伝。ごくシンプルに説明するなら「狂気は遺伝する」――かな。


 平成の始め頃、東京からとある医大生たちが新潟へスキー旅行に出かけた。
 泊まった先は小さな温泉旅館。そこで医大生の一人が、旅館の一人娘に恋をする。
 自分と一緒になって東京へ行こうと口説く男だが、娘は頑として答えない。なぜなら娘は経営難の実家の旅館を存続させるため、地元の巨大ホテルを運営する一族へ嫁入りすることになっていたからだ。
 その結婚は娘の本意ではなかった。だが、娘は実家を守るため、泣く泣く自ら犠牲になる道を選んでいた。
 義憤と愛情にかられた男は、自分の持てるすべてを駆使して娘を救おうと決意する。だが、男はまだ一介の医大生。知識はあれどできることは限られている。
 そこで男は新潟のある有力な政治家に取り入り、秘書兼弟子という立ち位置に収まった。その上で、政治家の力とコネを利用し、時には非合法な手段も使って、娘の旅館を救う手はずをあっという間に整えた。
 作戦は想定以上にうまくいった。娘の両親は感激し、これで娘を望まない結婚に送り出す必要はなくなると喜んだ。
 娘は――正直なところ、男が少し怖かった。医師としての未来を投げ打ち、時に違法な手段に手を染めてまで、自分を守ってくれた男の真意が理解できなかったからだ。
『すべてはきみを愛しているからだ』
 当然のように男は言う。そう言われれば娘とて悪い気はせず、両親からの後押しもあり、彼女は男の愛を受け入れることを決意する。
 かくして男は娘を手に入れ、そのまま議員秘書として新潟に残ることになった。


 愛し合う二人の結婚生活は、初めは順調だった。持ち前の知識と度量を活かし、男は地方議員に立候補。新潟の政治家としてみるみるうちに頭角を現す。そして娘も妻として、献身的に夫に尽くした。
 さて、順調に見えた二人の間に、やがて違和感が芽生え始める。きっかけは妻が近所の花屋で働きたいと言い出したことだった。
 幼い頃から花屋で働くのが夢だったと言う妻に対し、男は小遣いを倍にするから家にいてくれとこいねがう。
 必死に説得を試みる妻だが、夫は頑として首を縦に振らない。それどころか裏から手を回し、件の花屋を営業停止に追い込んでしまった。
 困った妻は花屋を助ける方法を探し、友人に電話をかけ始めた。すると今度は、男は妻の部屋の電話線を切ってしまった。激高する妻に男は平然と囁きかける。
『きみにとって最善の選択肢だけを用意するためだ』
 ……外の世界には危険が多い。愛する妻を守るためなら、屋敷の中に囲ってしまうのが楽で確実というわけだ。
『愛しているよ。何もかも、きみのためを思ってやっているんだ。どうか俺を信じてほしい』
 甘い言葉を吹き込まれながら日に日に強くなっていく束縛に、妻はいよいよふさぎ込むようになっていく。
 そしてついに、夫婦の仲を決定的に壊す出来事が起きる。


 ある時、男は政治家仲間から『お前の嫁はいつ後継ぎを産むのか』と訊ねられた。
 せっかく築き上げた政治家としての地盤を、一代で終わらせるのはしのびない。それに、いずれ死ぬであろう自分と愛する妻の墓を守るため、男には子孫が必要だ。
 この話を妻にすると、彼女は子どもを産みたがった。子どもが生まれればこの薄暗い屋敷の中にも新しい風が吹いてくれるだろうと――そして男の束縛も多少は弱まってくれるだろうと、彼女は無邪気に期待した。
 ところが男は曖昧に笑うだけで答えない。
 お前にはまだピンとこないかもしれないけど、現代の日本においても出産は十分死因になり得る。また、母体に重大な後遺症が残ったり、心身に消えない傷痕がつくこともある。
 男は妻を愛していた。傷つけたくないと思った。まして、自分が子どもを望んだ結果、妻の身体に傷が残ったり、あるいは死んでしまったりしたら――二人の子どもをその手に抱く喜びより、愛する妻を失う恐怖の方が、男にとっては何百倍も耐えがたいことのように思えた。
 だが妻は子を望んでいる。そして自分にも子が必要だ。
 他所の女を抱くか? いや、そんなことはしない。なぜなら男は……繰り返すけど、この世でただひとり、妻だけを深く愛していたからね。
 では、男はどうしたか?


 婦人科の病気の治療と偽り、妻の身体から無断で卵子を摘出。自分の精子と受精させ、金で雇った代理母の胎内でそれを育てさせたんだ。


 ……驚いた? 意味は、理解できる?
 こうすれば確かに、妻にリスクを冒させないまま、自分と妻の子を手に入れることができる。
 大した合理性だよね。吐きそう? はは、ごめんね。
 さて、代理母の胎内で子どもは順調に育ち、妻がその存在をあずかり知らぬまま無事にこの世に誕生した。男の子だった。
 男は屋敷の離れに人を雇い、秘密裏に子どもを育て始める。だが、口さがない家政婦たちにより、その存在はあっという間に妻の知るところとなる。
 自らのまったく関与しないところで自分の血を引く子どもが生まれたと知り、妻は驚きのあまり半狂乱になった。なぜ事前に相談しなかったのかと、何を考えて勝手な行動をとったのかと、まくしたてるように男をなじった。
 男は平然と答えた。
『驚かせてしまったのは申し訳ない。でも、俺の行動はすべてきみの幸せのためなんだ』
 ……大丈夫? ついてこられてる?
 まあ、紅茶でも飲みながら聞いていてよ。
 男の考えは単純だ。二人の子がほしい。でも妻に産ませたくない。だから他の女を使った。たったそれだけのこと。
 妻だって今は自分で産むという常識に囚われているが、時間が経てばわかるだろう。いつかはきっと夫の判断に感謝する日が来ると……そう思ったんだろうね。
 妻には男の考えが理解できなかった。彼女は自分が世の中の多くの夫婦同様、当たり前のように愛し合い、当たり前のように子を授かり、当たり前のように育てていけると思っていたからだ。
 夫のことがわからなくなり、妻は心を病んでいく。夫への恐怖と嫌悪でぐちゃぐちゃになった彼女は、とある方法で夫への復讐を企てる。


 夜、数か月ぶりに彼女は夫をベッドに誘った。夫は彼女がようやく自分と息子を許してくれたのかと喜び、誘いに応じる。
 ところがそれは彼女の罠だった。与えられていたピルをわざと飲まずにいた彼女は、その一夜で懐妊する。念願叶って、彼女は自分の胎に子を宿すことに成功したわけだ。
 今度は男が驚く番だった。多額の金をかけて産婦人科医を抱き込み、秘密裏に人工授精を行ったのも、すべては愛する妻の身体に危険な影響を及ぼさないため。
 だというのに彼女は自ら妊娠し、堕胎するなら自分も一緒に死ぬと豪語する。二人は大げんかをしたが、結局胎内の子どもの成長を止めることはできず、やがて彼女は帝王切開で男児を産む。


 こうしてこの歪んだ家庭に、二人の兄弟が誕生した。


 弟の誕生を皮切りに、男の愛情はますます狂気を増していく。男は弟を許せなかった。妻の身体に消えない傷をつけた元凶だと考えた。
 もちろん妻はそのことに気づいていた。彼女が弟を産んだ理由は、言ってしまえば夫への復讐のため。彼女は夫の異常な束縛と弟に対する敵意を恐れ、弟だけを連れ一時アメリカへと避難する。
 しかし、妻に監視をつけていた男の手で連れ戻され、男は新たにベビーシッターを雇い妻と弟を引き離した。兄は……まあ、最初からシッターに育てられていたよ。妻にとって兄は他人の子どもにも劣る異物。産んだ覚えのない息子なんて、薄気味悪い存在でしかなかっただろうからねえ。
 さて、物心ついた頃からアメリカで生活していた弟は、日本語がまったく喋れないまま日本の幼稚園へ放り込まれた。当然周囲に馴染むこともできず、だんだん園から足が遠のき、人の少ない遠くの公園へ通うようになる。
 弟のシッターは子を取り上げられた彼の母親の憎しみを恐れ、必要以上に弟に関わろうとはしてこない。結果として、弟は常にひとりぼっちだった。
 やがて弟はその公園で、一人の女の子に出会う。彼女は近所に住んでいる子で、お互い言葉はわからなかったけど、不思議と二人は馬が合った。
 公園は……とても広くてね。手前側に遊具が置かれていて、奥には木がたくさん植えられた小さな森のようになっていた。二人は毎日のようにその公園で一緒に遊び、そこら中に咲く山百合を摘んでお互いの髪に差しあった。
 友達はいない、兄とは疎遠、父の目があり母に甘えることすらままならない弟にとって、彼女の存在はあっという間に大きく膨れ上がっていった。


 あるとき、いつものように遊ぶ二人の子どもの周辺に、見慣れない大人の男が数名近づいてきた。男たちは、当時政治家として悪名を上げていた父親から金をむしり取るため、身代金目的で弟を誘拐するつもりだった。
 山百合の咲く公園の中を、二人は必死に逃げ惑う。もっとも、女の子の方は事情がまったくわからないから、突然追いかけっこが始まったくらいにしか思っていない。でも弟はそうじゃない。自分のせいで……いや、自分の父親のせいで、大好きなこの子まで危険な目に遭わせてしまっていると苦しんだ。
 最終的に、小学校から帰る途中の兄が車からその姿を見つけ、誘拐事件は未遂に終わり男たちは逮捕された。でも弟は『自分が傍にいるとまた彼女を危険に晒してしまう』と考え、山百合の花を少女に渡し英語で永遠の別れを告げる。まあ、彼女は英語がわからないから、また遊ぼうねとにこにこ笑って、自分の持っていた山百合を代わりに弟に渡していたけどね。
『お前は、どれだけ葵に迷惑をかければ気が済むんだ!』
 屋敷へ戻った弟を待っていたのは、父親による平手だった。弟が誘拐されそうになったと聞き、ただでさえ心を病んでいた母が過呼吸を起こしてしまっていたんだ。
 父親は弟が大事に持ってきた山百合の花を奪い取り、かかとで何度も踏みつぶす。茎が折れ、蕾が潰れ、白い花弁が茶色く汚されていくのを見て、母が泣きながら父の足に縋りついて止めようとする。
『やめてください! 樹は何も悪くないじゃないですか! この花は……樹の初恋だったんですよ!?』
 悲痛な叫びも父の耳には届かない。お前さえいなければ妻は傷つかずに済んだ。あの時だって。この時だって。お前さえいなければ。言葉を聞き取ることはできなくても、何を言われているかは理解できた。容赦なく注がれる怨嗟の言葉を、弟はそのまま繰り返す。お前さえいなければ。お前さえいなければ。


『お前さえいなければ、百合香が危ない思いをすることもなかったのに』


 …………。
 ぐちゃぐちゃに潰れた山百合を見下ろし、弟はついに発狂した。五歳児だよ? 大人の男に勝てるわけがない。でも戦うんだよ。飛びついて、ひっかいて、指をかみちぎろうとする。そして父も少しの躊躇もなく弟へ拳を振り上げる。
 椅子が飛んで花瓶が割れた。鏡が倒れて破片が飛んだ。悲鳴をあげる母を無視して、父と弟は暴れ回る。
 父は弟を『妻を傷つける存在』として、弟は父を『彼女を危険な目に遭わせた元凶』として、シャレにならないほど二人は純粋に憎しみあっていた。二人の原動力は同じだ。愛情だよ。好きな女への溺れるほどの愛が、あいつらを対等に狂気へと落とし込んだんだ。
 父に掴みかかる弟を見たとき、兄は正直恐怖した。睨みあう父と弟の目がまったく同じものだったからだ。父が母に狂ったように、弟は山百合に狂っている。この二人は同じ生き物なのだと、兄はこのとき確信した。


 父子の喧嘩は最終的に夫婦の離縁で幕を閉じた。父は絶望し、考え直すよう何度も母を説得したけど、母の決意は揺るがない。
『それがきみの幸せになるなら』
 やがてすべてを諦めた父は、失意のままに愛する女に別れを告げた。結婚なんて紙切れ一枚。愛する女を繋ぎとめる鎖になんてならなかったわけだ。
 こうして母と弟は家を出て、新たな姓とともに人生を歩み出す。
 そして荒れ果てた屋敷には、父と兄とが残された。





「さて、質問だ」
 紅茶をひとくち飲んでから、桂さんは静かに言う。
「お前は樹に行動を制限されたことはあるかな? 勝手に仕事を辞めさせられたり、転職を促されたことは? あるいは転居をコントロールされたことはある? 居場所を無断で把握されたり、外部との連絡を制限されたり……軟禁だって、ふふ、されたことがあったりしてね」
 過去の記憶がよみがえる。そのとき感じた恐怖とともに。
「樹は父と同類の狂人だ。『幸せ』という免罪符のもとにどんなことでも平気でやる。お前の意見なんて無関心。だってあいつが愛しているのは、お前じゃなくてお前を愛する自分自身なんだからね」
 バラバラに散っていたパズルのピースが少しずつ手元へ集まり始める。
「もしお前がこのまま樹と付き合い続けたとして、どう? あいつと二人で幸せな家庭を築く姿を想像できる? 樹は結婚のことをどう言っていた? 出産は? お前が子どもを産む未来を極度に恐れてはいなかった?」
 でも私……こんな絵ができるなんて、全然、少しも考えてなかった。
「樹はおそらく自分の秘密を『頭のおかしい父親がいること』程度にしか思っていなかっただろう。でもね、実際はそれだけじゃない。『頭のおかしい父親と同様の狂人である自分自身』。これこそが、本当に隠されていた――樹自身も気づいていなかった秘密の正体なんだよ」


「ストップストップ! 一旦終わり!!」


 手を叩く音とともに部屋へと押し入ってきたのは、まなじりを釣り上げた椎名くんだった。桂さんはわずかに眉を上げ、つまらなそうに椎名くんへ目をやる。
「……ああ、お前の車ならうちの敷地まで入って来られるからね。消えな玲一。お前の出る幕じゃないよ」
「相変わらず手厳しいね! でも、悪いけどこっちも退けないんだよ」
 椎名くんは私の隣に腰かけると、呆然と俯く私の両肩を強い力で乱暴に掴む。
「中原! ちょっと冷静に考えてみてよ。今の話って結局は全部桂くんの主観でしょ? 波留と波留の父親が似ているように見えたってだけで、実際二人は別々の人間なんだから」
「外野が無責任なことを言うなよ。百合香はもうわかってる。樹は父と全く同じ、溺愛という名の病に罹っているのだとね」
「だから決めつけるなって! 桂くんは二人を別れさせたいだけなんだろ? だいたい遺伝するっていうなら、桂くんだって波留と立場は同じじゃないか!」
「僕と樹を一緒にするな。僕は今までずっと父の姿を反面教師として見てきたんだ。自分の中の衝動をコントロールすることくらいできる。五歳の頃に僕らを捨てて以来、ずっと他人みたいな顔で生きてきた樹と同じにされるのは癪だ」
 ギッと奥歯を噛みしめた椎名くんが、獣のように桂さんを睨む。
 桂さんは椅子にゆったり腰かけたまま、余裕の微笑みすら浮かべて私と椎名くんを眺めている。
「別に僕だって、何もかもをさらけ出せとは言わないよ。でも、樹が本当に百合香を愛しているのなら、自分の身内の話くらいは打ち明けるのが筋じゃない? それとも何? 今まですべて隠してきたのは、それが必要な秘密だからだと、……幸せでいるための秘密だからと言うつもり? ねえ、樹」
 ひゅっ、と喉の鳴る音がする。
 どこからも風なんて吹いていないのに、半ばまで閉じられていた扉がひとりでに開く。キィと嫌な音。差し込む光。小さく握りしめた拳が、かたかた、かたかた、震えている。
「『俺と父親は別の人間だ』と、お前は胸を張って言えるかな?」
 ――桂さんの言葉が終わるより早く、樹くんはその場から駆け出した。廊下へ飛び出した椎名くんが、波留、と大声を張り上げる。
 私に見ることができたのは、彼の拳がせいぜいだ。そして走り去る足音を聞きながら、それを追いかけることすらできない。
 なぜなら私は――想像してしまったから。
 過分な愛に狂っていく夫婦。
 異常な経緯で産まれる兄弟。
 そのどれもが、決して他人事ではないと……()()()()()()()()()()()と、ほんの一瞬でも思ってしまったから。
「追えよ中原! なんで追わないんだよ!」
 椎名くんに胸倉を掴まれて、私はふらふらと立ち上がる。
「お前が行かなきゃ意味がないだろ!? なあ! お前、今までどれだけ波留に愛されてきたと思ってるんだよ!?」
「……でも」
「でもじゃねえよ! さっさと行けよ! お前が行かなくて誰が行くんだよ! お前じゃなきゃ……」
 がくがくと首を揺さぶる腕が、桂さんの手で止められる。
 椎名くんは真っ赤な顔でしばらく桂さんを睨んでいたけど、やがて私を突き飛ばすと廊下の奥へと走っていった。
「あいつも馬鹿だね。いい加減諦めればいいのに」
 私の身体を受け止めた桂さんは、涼しい顔で椎名くんの消えた方を眺めている。
 彼は魂の抜けた私の身体をもう一度ソファへ座らせると、乱れた襟元を軽く正して額にそっとキスをした。
「落ち着くまでここにいればいい。僕はずっと傍にいるから」
 優しく肩を抱き寄せられて、そのまま彼に寄りかかる。
 桂さんの声を遥か遠くに聞きながら、私は自分のちいさな身体がどこまでも深い穴の中に落ちていくように感じた。底の見えない常闇の果てへ。深く、深く、どこまでも。