「ねえ、ほんとに帰んの?」
「帰る」
「ほんとに?」
「ほんとに」
「あと一か月……いや、一週間残らない?」
「残らない」
「まじでぇ……?」
けんもほろろに扱われた椎名くんが、隣にいた私へ顔を向ける。
鷲掴みにされる両肩。戸惑う間もなく、女の子みたいに可愛い顔が無遠慮にずいと近づいてきた。
「あのさあ中原、やっぱり俺たち三人で付き合わない?」
「え!?」
「俺、うまくやるよ。平日は俺ん家で、土日は波留のところ行けばいいじゃん。今までどおり送迎もやるし、なんなら【下品につき削除】だって」
「椎名!」
樹くんに首根っこを掴まれ、ギャーと叫んだ椎名くんが引き剥がされていく。
昨夜からずっとこんな調子だ。彰良の件の解決に伴い、私たちは椎名くんの家から、もとの家――樹くんの家へと戻ることになった。
椎名くんには本当にお世話になったし、三人の生活だって正直ちょっと楽しかった。だから、こんなふうに素直に寂しいなんて言われると、私としても後ろ髪を引かれる思いがするのだけど。
「お前はお前でさっさと相手見つけろよ」
「はーっ、むかつく! 他人事だと思って! 俺がこんなに寂しい思いをしてるのに!」
「どうせそのうちシンガポールに戻るんだろ」
「戻るよ! でもさあ、こんなに長く三人で一緒に暮らしてて、いきなり一人で放り出されたら誰だって寂しくなるもんでしょ!」
人目もはばからず大騒ぎする椎名くんに、私と樹くんは顔を見合わせる。あと一週間くらい……と、口を開きかけた私を制し、樹くんは無言で首を横に振った。
「波留のケチ!!」
わーっと泣き真似をして椎名くんが私に抱き着く。樹くんのこめかみに浮かぶ青筋。ああもう、二人そろってこんなときまで揉めなくてもいいのに。
でも椎名くんだって別に、本気で言っているわけじゃないはずだ。私と樹くんが仕事をしている間、彼は私たちの荷物を全部車で運び出しておいてくれた。
つまり、もうこの家には私たちの私物は何もない。あと一週間泊まりたくても、パジャマも下着もないわけだ。
「パジャマでもなんでも買ってあげるから……」
私の考えを見越したみたいに、椎名くんが囁きかける。うーん、さすがお金持ち。これはまさしく悪魔の囁きかも。
すっかりべったりな椎名くんの身体を、再び樹くんが引き剥がした。ばちばちと睨みあう二人。そういえば最初にここに来たときも、彼らはつまらないことで喧嘩して、火花を散らして睨みあっていたっけ。
ついこの間の出来事のはずなのに、ずいぶん昔のことに感じる。いつの間にか、私もここでの生活に馴染んでいたということかな。
「お前は自分の幸せを見つけろ」
樹くんがそう言った瞬間、椎名くんは確かに言葉を失ったように見えた。
切れ長の瞳が、まっすぐに椎名くん一人を射抜く。
数秒の沈黙の後、椎名くんはよろけるようにほんの少しだけうつむいた。そして次に顔を上げたとき、彼はもう私のよく知る椎名玲一に戻って、ニッと意地悪く笑っていた。
「はーぁ、わかったよ。家でもホテルでもどこにでも行けよ」
「あのな……」
「やりたくて仕方なかったんでしょー? 夜間のトイレの回数が減りそうでよかったですねえ波留さんよ」
「ほんと黙れお前」
最後にわざわざひと睨みして、樹くんは鞄を肩に担いだ。
私も自分の鞄を持って、慣れた玄関で靴を履く。
扉が開く。
ここから見下ろす街の景色も、もう、しばらくは見納めだ。
「椎名」
樹くんが声をかけると、玄関の隅へ視線を落としていた椎名くんが顔を上げた。
「ありがとう」
「本当にありがとう、椎名くん」
椎名くんの大きな瞳に、ほんの一瞬夜景がにじむ。
ぎゅっと眉間に力を込めて、彼は何かを言おうとして、でも視線を横へ逸らすと気の抜けたように微笑んだ。
「……夜遊びしたくなったら、いつでも俺を誘ってね」
「その予定はないな」
「お前じゃねーよ中原に言ったんだよバーカバーカ! とっとと帰れ!」
第二ラウンドが始まる前に、私は樹くんを引きずって椎名くんの元を後にした。エレベーターが到着するまで、椎名くんはずっと玄関に立って私たちを見送ってくれた。
エレベーターの中へ乗り込むと、途端に周りの空気がすぅっと色を変えた気がした。狭い個室では目のやりどころに困ってしまい、自然と視線は上を向く。
かすかな振動。無言の私たち。でも、なぜだか心地よくて、不思議なほどにドキドキする。
チン、と軽やかな音とともにエレベーターが動きを止めた。自動ドアが左右に開く。綺麗に掃除されたエントランスの向こうに、自由できらびやかな夜の街並みが見えている。
「……じゃあ、帰ろう」
私たちはこれから、二人で一緒に暮らすんだ。
ルームシェアではなく――恋人同士として。
*
薄暗い廊下に手を伸ばし、手探りで電気をつける。
「わあ」
なんて明るい声が漏れたのは、目の前に広がるそのすべてが懐かしさでいっぱいだったからだ。整頓された広いリビング。大きなソファとローテーブル。行き場のない私を受け止めてくれた、樹くんの想いの結晶。
この部屋が私のために用意されたものだったなんて、あの頃の私は当然考えもしなかった。改めて思うと、樹くんのすさまじい奉仕精神がずんと心にのしかかる。
(ちょっと愛が重いけど、やっぱり私は幸せ者だな)
私のためにここまでやってくれるような人が、自己愛の塊であるはずがない。
懐かしのマイルームの扉を開ける。ずっと掃除もしていなかった部屋だ。電気に反射して細かい埃がきらきら浮かび上がっている。でも、やっと帰ってきたんだという思いを強く感じて、少し目頭が熱くなった。
クローゼットの扉を開けて、私は再びリビングへ戻った。椎名くんが運んでくれていた収納ケースに両手をかけて、よいしょと力を入れてみる。
「うわ、重い」
椎名くんは一人で軽々運んでいたように見えたけど、洋服がぎっしり詰まった収納ケースは想像よりずっと重量がある。私一人で部屋へ運ぶのはちょっと難しいかもしれない。
「ごめん樹くん、手伝って――」
そう言って振り返ろうとした刹那、突然背後から抱きすくめられて、私は言葉の続きを失った。振り向きかけた顎を取られて、噛みつくようなキスで唇を塞がれる。
ん、とくぐもった声が漏れて、私は樹くんの腕を軽く叩いた。ちょっと待ってと伝えたつもりだけど、彼は私のサインを無視して好きなように口内を蹂躙する。
身動きできないよう抱きしめられて、逃げられないよう後頭部を支えられて、よろけた身体は受け止められるまま自然と彼へ寄りかかってしまう。弄ばれた舌が躍り、絡んだ唾液が跳ねるたびに淫靡な水音が頭で鳴る。
(くるしい)
酸素が欲しくて鼻から息を吸い込むと、それと一緒に少し汗ばんだ樹くんのにおいが入り込んできて。
(もう、だめ)
おかしな薬でもかがされたみたいに、足先から甘くしびれていく。
「……百合香」
唇同士を触れ合わせたまま、樹くんは歌うように言う。
「先に謝っておく。たぶん、無理をさせると思うから」
「ちょっと……まって、おねがい」
「無理。待てない」
せめてシャワーを、とお風呂場の方を指さすけれど、樹くんは私の手を取ると伸ばした指にキスをした。
聞く気はない。逃がす気もない。
獣のような欲を浮かべた彼の双眸が私を頭から飲み込んでいく。もう絶対に止められないと、私に覚悟を強いるみたいに。
ああ、でも――やっと。やっとだ。
「や……やさしく、して」
樹くんのシャツを掴んで、私が震えた声で言う。
彼はそこでようやく微笑むと、くたくたの私の身体を抱き上げ、ゆっくりとソファへ横たえた。
目が覚めてすぐ、身体の違和感に気がついた。
喉がカラカラに乾いている。全身が鉛のように重い。
胸に渦巻く不快感を堪え、とりあえず身体を起こそうとする。すると、腰回りにまとわりついていた温かなものが、私の背中をなだめるようにひと撫でした。
「おはよう」
頭上から声。
おそるおそる顔を上げる。
「い、……樹くん」
「うん」
ずっと早くから起きていたらしい樹くんの穏やかな笑み。
差し込む朝日に照らされる素肌の逞しく鍛えられた様に、昨夜の姿を思い出して一人で赤面してしまう。昨日はその、すごかった。自分のものじゃないような声がひっきりなしに漏れていたし、途中から完全に意識を飛ばしてしまったような気がする。
(なんか、既視感があるなぁ)
そうだ。彰良の家を飛び出した日の夜、記憶をなくすほど酔っぱらった私は、樹くんを抱き枕にしてそのまま眠ってしまったんだ。
その時も確かこんなふうに、目が覚めると同時に樹くんの声を聞いた。そして一気に青ざめたんだ。私、やってしまったんじゃないか、って。
(あの頃はまさか、本当に樹くんの恋人に戻るとは思わなかったな……)
いろいろな出来事があっという間に過ぎ去って、気づけば私は再びこの家に戻ってきた。
でもこれで、大きな問題はすべておしまい。これからはもう、ただ穏やかな日々が淡々と続くだけのはず。
「思ったより声がひどくない」
流れゆく走馬灯に思いを馳せていると、樹くんの長い指が私の喉を軽くさすった。
「もっと無理させてもよさそうだな」
「だめ、絶対だめ」
あのね樹くん、気絶と睡眠は似ているようで別物なんだよ。
あんなのを毎晩のようにされたら確実に私の身がもたない。もちろんその、嫌だとか不快とかいうわけではなくて、……むしろ良すぎて戸惑ったほどだけど、体力の限界というのは気持ちとは別の問題だ。
「し、仕事いかなきゃ」
「今日は祝日だ」
「あれ、そうだっけ?」
「ああ。だから大丈夫」
起き上がりかけた私の身体に逞しい腕が巻きついてくる。
ぎゅうと優しく抱き寄せられて、地肌に直接体温を感じた。あたたかい。事後の気だるさがよみがえり、私は樹くんの胸に寄りかかると再び枕に顔をうずめる。
「……眠たい」
「ああ」
首を彼の方へ向けると、小さなリップ音とともに優しいキスが降ってきた。
まぶたが落ちる。抗い切れない安心感に、私の全身が深く深く包まれていく。
「俺も、眠い」
時計の秒針が動く音が聞こえる。
せっかくの貴重な祝日が、刻一刻と過ぎていく。
でも不思議と、もったいないような気はしない。
(お休みの日を恋人とベッドで過ごすだなんて、ちょっと贅沢でいいかもしれない)
*
「いらっしゃいませ。どのようなお花をお探しですか?」
「お見舞いで……長く入院している方に贈るものなんです」
あら、お見舞い。店員さんはそう繰り返すと、少し首をかしげて店頭に並んだお花を何本か手に取る。
「それなら、フラワーアレンジメントがおすすめですね。お見舞いはこれから行くご予定で?」
「はい、そのつもりです」
「それならすぐにお作りいたしますよ。イメージの写真や、お花のご希望はありますか?」
言われてようやく、なんの考えも用意しないまま来てしまったことに気がついた。イメージ。イメージ。……正直、どんなお花でも彼に似合いそうで、逆になんにも浮かばない。
「ええと……おまかせで」
申し訳なさそうに小声で言うと、店員さんは少し笑って傍らの雑誌に手を伸ばした。色々なお花が詰め込まれたフラワーアレンジメントの写真を片手に、次から次へとお店のお花を慣れた手つきで選んでいく。
完成まで座って待つよう促され、私は傍の丸椅子へ腰かけた。店員さんはお花を抱えて奥の作業台へ向かうと、
「あらやだ。机の上がおおばらだわ」
と言って、上に散らかる荷物を除けた。
退院されていたらどうしようかと思っていたけど、彼はまだこの病院にいるらしい。受付の女性は私を見るなり心からほっとした顔をして、
「どうぞ、最上階へ」
とエレベーターのボタンを押してくれた。
相変わらずの高級ホテル感。先日何気なく宿泊費用を調べたけど、文字通り目玉が飛び出るような金額だったのは言うまでもない。
奥の部屋の扉をノックする。ややあって、ひどく不機嫌そうな「何?」という声が聞こえてきて、私は心を奮い立たせるように腕の中のお花を抱きしめた。
「おじゃましまーす……」
扉を開け、ゆっくりと部屋を見回す。
彼は――桂さんは、ベッドの上に横たわったまま私の方へ顔を向けた。
久々に見る天使の顔。ガラス玉みたいにきれいな瞳が、私を見るなり幽霊でも見てしまったみたいに見開かれる。
「なんで」
「お、お久しぶりです」
桂さんが身体を起こすと、彼の膝に乗っていたタブレットがずるりとベッドの上へ落ちた。
シーツにぎゅうと爪を立てて、桂さんは私の顔を凝視する。それから、ふいに顔を歪めると、
「もう、来ないのかと思った……」
ほとんど消え入りそうな声で、絞り出すようにそう言った。
あまりにも切ない姿に胸がぎゅうと痛み出す。私が椎名くんに送迎してもらっている間、彼はたったひとり、この部屋でずっと待っていてくれたのかもしれない。
「すみません。ちょっとその、ストーカーのことでバタバタしてて」
「そう。そっちは落ち着いたの?」
「はい、おかげさまで解決しました。それで……これ、駅前のお花屋さんで作ってもらったんです。良かったら」
鮮やかなオレンジ色を中心に、色とりどりの花が詰め込まれた小さなフラワーアレンジメント。
おそるおそる差し出したそれを、桂さんは不思議そうな顔をしながら受け取った。そっと顔を寄せ、香りを確かめてから、くしゅっと気の抜けたように笑う。
「変わったものを持ってきたね。生花?」
「はい。涼しい部屋なら十日くらいは保つらしいです」
「ふうん……」
桂さんの白い指が、花籠の根元に埋もれていく。そしてそこから、一本の百合の花が飛び出すように引き抜かれた。
せっかくお花屋さんが綺麗にしてくれたのに、と少し残念な気持ちになったけど、贈ったものに対してうるさく言うのはさすがに無粋だ。たとえどんな形であっても、喜んでもらえるならそれに越したことはない。
「ありがとう。嬉しいよ」
百合の花びらを口元に当て、桂さんは薄く笑っている。うーん、絵になる。樹くんや椎名くんとはまた違った、なんというか……清廉さ? こんなに花が似合う男性っていうのもなかなか珍しい気がする。
「それで、もう解決したってことは……」
桂さんの言葉を遮るように、扉が軽くノックされた。
入ってきたのは若い看護師さん。ひどく怯えた、いたたまれなさそうな様子で、桂さんの方へと近づいてくる。
「申し訳ございません。そろそろお時間ですので……」
「…………」
桂さんは妙に冷たい表情で看護師さんを見ていたけど、やがてふいと顔を逸らすと、サイドボードの引き出しを開けて紙とペンを取り出した。さらさらとペンを走らせて、一息に破ったメモ紙を片手に、私を小さく手招きする。
「百合香」
「あ、はい。すみません、連絡もなしにいきなり来ちゃって」
「いや、いいんだ。ただ、月水金は用事があるから、できればそれ以外の曜日に来てほしい」
強い力で手を引き寄せられ、私は内心ドキッとした。
桂さんは私の手のひらにちぎった紙を握らせる。書いてあるのは数字……いや、電話番号?
「まだ教えていないと思ったから」
私の手を握ったまま、桂さんは落ち着いた調子で言う。
私は笑顔でお礼を述べて、すぐに番号を登録しようとした。でも、私が空いた手でスマホを取り出しても、桂さんは私の手を離さない。中の紙がくしゃくしゃになっていくのも気にせず、包み込んだ私の手の形を確認するみたいに、ふにふにと柔く握っている。
やがて、彼は居心地悪そうにする看護師の方へと目を向けて、鼻で小さくため息を吐くとようやく私の手を離した。変などきどきを気取られないよう、私は急いで彼から距離を取る。
「それじゃあ、私、行きますね」
仕事用の鞄を肩に担いで、出入り口の方へ向かおうとしたときだった。
「必ず来て」
背中にかけられた桂さんの声。
とても優しく、穏やかなのに、有無を言わせない不思議な魔力が秘められたその言葉。
「待ってるよ」
魔法にかけられたみたいに、私が小さく「はい」と答えると、桂さんは瞳を細めて微笑んだ。
*
電話番号を登録する段階になってはじめて、私は桂さんの名前を知らないことに気がついた。
仕方がないので電話帳には『桂さん』と、ありのままで登録する。
まあ名前以前に、私は桂さんのことを何も知らない。いつから病院に入院しているのか、そもそもどんなご病気なのか、どんな身分の方なのか……。
最後のひとつはだいたい想像がつく。あんな病室に長々入院しているくらいだ。それはもう、私みたいな庶民なんかでは、普通なら口も利けないような方のはず。
(必ず来て、か)
初めてお会いした日のことを思い出す。
窓辺に腰かけ、街を見下ろす桂さんの横顔は、孤独に慣れて寂しさすら忘れてしまっているように見えた。
(今までと違って自由に出歩けるし、仕事の帰りにまたお邪魔してみようかな)
「百合香」
部屋の外から樹くんの声が聞こえた。
慌ててスマホをハンドバッグにしまい、私はスカートのしわを叩く。髪型よし。服装よし。お化粧は、まあ……これでいいや。
「ごめん、すぐ行くね」
すでに靴を履き終えた樹くんが、ドアノブに手をかけて微笑んでいる。
そう、私たちは今日ようやく……普通のデートに行くのです!
最後にこのショッピングモールに来たのは、まだ私たちが単なるルームシェア仲間だった頃。
樹くんのパジャマを買いに来たはずだったけど、結局満足に買い物もできず、逃げるように駅へ向かう中で里野彰良と再会した。
ずいぶん昔のことのようだけど、実はあれからまだ半年も経っていない。本当に私のここ数か月は怒涛の勢いで過ぎていったと思う。まあ、ストーカーで不自由する期間なんて、短ければ短いほどいいに決まっているのだけど。
「今日は絶対に樹くんのパジャマを買います」
「俺は百合香の服を見に行きたい」
「まずパジャマです。椎名くんにもさんざん馬鹿にされたじゃない」
懐かしい! クソダサジャージ! と、げらげら笑う椎名くん。ちなみに椎名くんのクローゼットにもまったく同じジャージがしまわれていて、試しに着てみてとお願いしたけど丁重にお断りされてしまった。
それにやっぱりジャージは寝づらいだろうし、いっそ私からのプレゼントということで新しいパジャマを……と思っていると、突然樹くんの人差し指が私の唇をつんとつついた。
指先を視線で追いかけると、少しむっとした表情の樹くんと目が合う。彼は帽子のつばを軽く持ち上げ、
「他の男の名前は禁止」
と、拗ねたような声でたしなめた。
ああ、そっか。言われてようやく、今がデートの真っ最中だと思い知る。確かにデート中に恋人が他の男の名を呼んだら、誰だって多少は嫌な気持ちになるだろう。
(そっか。私たち、恋人だった)
なんて、本当の本当に今更の実感が湧いてくる。なんだか私だけ気持ちが入っていないみたいで、樹くんに申し訳ない。
「ごめん」
私の素直な謝罪を聞いて、樹くんは小さくうなずく。
そして、まるで当然のことみたいに、彼の長い指が私の指先をきゅと握った。
(あ)
手、繋ぐんだ。そりゃそうか。
恋人とデートに来ているんだもの、手くらい当然繋ぐよね。
(ええと、手ってどうやって繋ぐんだっけ。デートの手繋ぎなんてずっとしてなかったから忘れちゃったな。指ってどうするの? 手の向きは? うーんと、どうすればお互いの手が楽になるんだろう……)
ごちゃごちゃ考える私の隣で、樹くんが小さく吹き出す音がする。気づくと、彼の手は私の握りこぶしを包むような形になっていて、これでは到底恋人同士の手繋ぎとは呼べないだろう。
ごめん、と繰り返そうとした私を遮り、樹くんは私の指に触れると一本一本ほぐすように広げ始めた。指の間を撫でさすり、関節を軽くつまんで、……愛撫にも似た触り方に、じわじわと顔が熱くなっていく。
やがて伸びきった私の指の、それぞれの合間に自分の指を差し込んで、ぎゅうと握ればドラマでよく見る恋人繋ぎが完成した。私も樹くんの真似をして彼の手を軽く握ってみる。手のひらと手のひらがぴったり密着して、触れ合う手首が熱を持つ。
「ずっとこうして歩きたかった」
いつもより少しだけ、近い位置から聞こえる声。
この距離感にほんの少しだけ懐かしさを覚えながら、私は照れ隠しに微笑むと繋いだ手に力を込めた。
前回の反省を踏まえて、買い物には順序を決めた。まず樹くんのパジャマ。それから私の洋服と小物。あとは二人で雑貨を見て、最後に本屋に寄って帰るルートだ。
何件かお店を見て回って、お昼ご飯を食べて少し休憩。今度は雑貨を見に行こうと再び歩き出したとき、ふいに樹くんがあるお店の前で足を止めた。
きらびやかな純白のドレスと、ピンクの造花で作られたブーケ。傍らには『海外挙式とハネムーンをセットに!』なんて可愛らしいポップとともにパンフレットが並べられている。どうやら、旅行会社の宣伝用ウェディングドレスのようだ。
(えっ、もう結婚?)
さすがにちょっと早いような気がしたけれど、言われてみれば私たちももう二十六歳。大学生の頃とは違って、そろそろ本気で将来を見据えたお付き合いを始めても良い頃だ。
それに樹くんは私のことを、死ぬまで好きだと言ってくれた。その言葉を信じるならば、私はもうプロポーズまでされたと言っても過言ではない……気もする。
「結婚かぁ……」
美咲の結婚式を思い出す。多くの人々に祝福されながら、笑顔で手を振る美咲の姿。その顔の部分だけが真っ黒に塗りつぶされたかと思うと、でれでれ笑う自分の顔がゆっくり浮かび上がってくる。
隣を歩く樹くんのすらっときれいなタキシード姿。誰に見せても恥ずかしくない、むしろ大手を振って見せびらかしたい、私の自慢の旦那さま……。
「結婚?」
「えっ?」
傍らから降り注いだ声に、我に返って顔を上げる。
樹くんは少し困ったような、それでいて口元だけ微笑んだような、なんともいえない不思議な表情で私を見つめている。
「もしかして、私……声に出てた?」
樹くんがうなずく。それと同時に、私の顔が火を吹いたみたいに一瞬で真っ赤になった。
「あ、あ、あの、ごめん。ちょっとあの……思い出したの! 美咲のことを!」
「ああ……」
「あの結婚式さ、ほら、すごく良かったなって! 美咲はすっごい綺麗だったし、石川くんも」
あたふた言い募る私を尻目に、樹くんはふいと視線をドレスへ向ける。それから、
「結婚なんて紙切れ一枚だ」
いつもの彼らしくない、耳を疑うような言葉が、その唇から飛び出した。
(え……?)
普段はあれほど情熱的で、自分の想いにまっすぐで、恋人を……私のことを本当に大事にしてくれる彼の、あまりにも冷たく白けた横顔。
聞き間違いかと戸惑う私に、彼はなおも言葉を続ける。
「神様の前で何を誓わせても、意思さえあればあんなものいくらでも覆される」
「…………」
「相手を縛る鎖にもならない、ただの無意味な通過儀礼だ。自己満足にすらなりはしない」
「樹くん……?」
そこでようやく我に返った彼は、今の今まで存在そのものを忘れていた目で私を見た。それから決まり悪そうに唇を噛み、ぎゅっと私の手を握る。
「帰ろう」
「えっ、本屋さん行かないの?」
「今度にしよう。また来ればいい」
ひどく冷酷にそう言い捨てて、樹くんは大股で歩いていく。立ちすくむ私の腕を犬のリードみたいに引き寄せ、転びかけた私の身体を抱き留めると、彼は耳元で低く告げた。
「今すぐに、きみを抱きたい」
……そして私の返事も聞かず、顔すら見ずにまた歩き出す。
仕方なく小走りでついていきながら、私は彼の横顔を見上げることしかできなかった。いつもの樹くんの顔が、今日は知らない人のように見える。
今、私は知らずのうちに彼の逆鱗に触れてしまったのだろうか。痛みさえ覚えるほど強く握られた手に、不安がいっそう増していく。
(樹くん、どうしたんだろう)
大きな背中は沈黙のまま、これ以上の深入りをはっきりと拒絶していた。
「あの、バカ上司……!」
樹くんのらしくない大声が響いたのは、土曜日の午前八時のこと。
いつもより遅めの朝ご飯を終えて、さあお出かけの準備をしようと腰を上げた頃だった。
「どうしたの?」
「休日出勤のご命令だ。いきなり客が来ることになったから急いで支度して出勤しろだと」
スマホを破壊しかねない勢いで握りしめ、樹くんはわなわなと震えている。確かにあまりにも唐突で、非常に迷惑なご命令だ。私も同じような連絡が来たら、きっと彼に負けないくらい怒り狂うことだろう。
「その分平日に代休もらえるし、諦めて行ってきなよ」
「でも、百合香」
「こっちのことは気にしなくていいから。ね?」
そう言って私はコルクボードを指さす。白いリビングで一際目立つそれは、お互いの連絡事項や思い出の写真なんかを飾っておくために取りつけたものだ。
そして今、ボードの一番上に留められている二枚のチケット。時間指定制の企画展もセットになった、有名美術館の前売り券だ。
前回のデートを終えた夜、近場のホテルでひとしきり鬱憤を発散した樹くんは、正気を取り戻したみたいに何度も謝ってきた。次のデートはもっときちんとしたものにしたいと言われて、だったらエスコートをお願いしますと彼にプランを丸投げしたところ、翌々日くらいに渡されたのがこの二枚のチケットだ。
正直私は芸術に疎い。絵のことも画家のこともまったく詳しくないのだけど、確かに二人で美術館なんてデートらしくていいかもしれない。せっかくだから新品のワンピースなんて買っちゃって、私なりに今日のデートを楽しみにしていたのだけど。
「英語使えるのが俺しかいないからって、いいように使いやがって……」
ぶつくさ文句を言いながら、樹くんは大急ぎでスーツに着替える。バタバタと鞄を手に取り、ネクタイを雑に結びながら、あっという間にお仕事モードの樹くんが出来上がっていく。
こんなこと本人には言えないけど、実は私は樹くんのスーツ姿が大好きだ。しゅっとしていて、理知的で、彼の魅力を最大限に引き出す格好のひとつだと思う。同じくらい好きなのが弓道着。もちろん、私服も好きだけどね。
「本当にごめん。必ず埋め合わせはするから」
「いいよ、大丈夫。気をつけていってらっしゃい」
小さく手を振る私に申し訳なさそうな目を向け、樹くんは靴をつっかけると体当たりする勢いでドアを開けた。
「そのチケット、友達か誰かと使ってくれ!」
私の返事も待たないうちに、足音が遠ざかっていく。駅まで走るのかな、真面目だなぁ。そういうところも、実はけっこう好きだったりする。
本人に言うとその三倍くらい私のどこが好きかを語り始めるから普段は控えているのだけど、私、どうやら樹くんのことが結構どっぷり好きらしい。
(でも、どうしようかな、チケット)
一人残されてしまった部屋で、コルクボードのチケットを手に取る。日付は間違いなく今日のもの。指定の時間は午後だからまだまだ余裕があるけれど、一体どうしたものだろう。
美咲……は、私以上に芸術に興味がないタイプだ。それに既婚者をいきなり休日に呼び出すのは気が引ける。
でも、他に突然お誘いできるようなお友達なんて、残念ながら私にはいない。当たり障りのない知人は多いけど、休日に突然美術館に誘うだなんて、結構深い仲じゃないとなかなか難しいだろう。
(本当にどうしよう。樹くんはああ言ってたけど、やっぱり一人で見に行こうかな)
自分のコミュ力の低さにひどく情けない気持ちになる。
そのとき、普段ほとんど鳴らない私のスマホが聞き慣れないメロディを流し始めた。急いでスマホをひっくり返し、これが電話の着信音だと気づく。
発信元は……『桂さん』?
(珍しい。電話なんて一度もかけてきたことないのに)
戸惑いながら電話に出る。「もしもし?」と声をかけると、なぜか三秒ほどの間を置いて、
『百合香?』
と、桂さんの穏やかな声が聞こえてきた。
「百合香です」
『そう』
……自分からかけてきたのに、この適当さは何なのだろう?
ちょっとおかしく思いながら、
「どうしたんですか」
と続きを促す。
桂さんは、今度は五秒近く黙った後、
『褒めてほしくて』
と、なんてことないように呟いた。
「ほ、褒める?」
『そう』
「ええと、例えばどんなふうに……」
『別になんでも。頑張ったね、とか、偉いね、とか』
それって完全に、親が子どもを褒めるときの言い回しではないだろうか。私が年上の桂さんにこの言葉を使うのはなかなか勇気が必要だ。
でも桂さんの側から求めてきたとなると、もしかしたらご病気の関係でつらいことがあったのかもしれない。せっかく頼ってもらったのだから、力になりたい気持ちはある。私は気持ちを奮い立たせて、見えもしないガッツポーズまで作って言った。
「……が、頑張りましたね!」
『うん』
電話の向こうで桂さんが小さくうなずくのがわかった。
『それじゃあ』
「えっ、用事これだけですか?」
『そうだけど……だって、お前、これから仕事でしょ?』
「いえ、今日は土曜日なのでお休みです」
『そうなの? ああ、土曜日か……』
細く長いため息と、ベッドが甲高く軋む音。ぺたぺたというのはスリッパで歩いている音かな?
窓辺に腰かけ、街を見下ろす桂さんの横顔が目に浮かぶ。
『ねえ。遊びに来てよ』
いいこと思いついた、とでも言いたげに緩く弾んだ桂さんの声は、私に断られる可能性なんて微塵も考えていないように聞こえた。
『暇ならでいいよ。忙しいなら別に』
「特に忙しくは……でも、桂さんはいいんですか?」
『土曜なら平気。基本いつでも暇だから、来てもらえると嬉しいんだけど』
コルクボードをちらと一瞥。企画展の予約時間は午後からだから、午前いっぱいは桂さんの病院へ出かけても十分間に合う。
それに私も、せっかく買った可愛いワンピースの落としどころを探していたところだ。
「わかりました。じゃあ、お邪魔しますね」
私の言葉に桂さんは小さく微笑むと、
『待ってるね』
と乙女みたいに囁いた。
*
桂さんのところへ行くときは、いつも必ずお花を――というわけではないけれど。
この日も私はお花屋さんに寄って、安い花束を買うことにした。以前贈ったフラワーアレンジメントは、枯れるぎりぎりまであの窓辺で粘り、殺風景な病室をほのかに明るく彩ってくれた。桂さん自身もお花のことを気にかけてくれていたようで、枯れさせない方法はないかとしつこく訊ねられたほどだ。
一度咲いたお花をそのままにするのは難しい。でも、新しいお花を渡すことで季節の移り変わりを教えてあげることならできる。
「あらあら。ちょっと輪ゴムが緩んじゃってるわ。がっと締めなおすから」
いつもの花屋の店員さんから、シンプルだけど可愛らしい花束を受け取る。
溢れかえる甘い香りを鼻先で堪能しながら、私はすっかり慣れた手つきで病室のドアをノックした。私の訪れを知っているからだろうか、前より穏やかな「どうぞ」の声で部屋へと足を踏み入れる。
「待ってたよ」
ベッドに腰かけ、足を組んだ桂さんが、やわらかな春の日差しみたいに微笑んだ。
「どうしたの。可愛い格好をして」
「そ、そうですか?」
ストレートな言葉にはにかみながら、おどけてスカートを広げて見せる。実はこれ、彼氏とのデート用に新調したんです……とは、さすがに言えないけど。
桂さんは私を手招き、近づいた私のワンピースのスカートを指先でつまんで持ち上げる。ひらひらと揺れる柔らかな白い生地。こんなに優しい目で見つめられると、なんだかちょっと恥ずかしい。
「また花を? まめだね、お前は」
「夏になって、お花のラインナップも変わったみたいなんです。空いたペットボトルとかありますか?」
「あるけど、普通に花瓶を買ってこさせるよ。たぶんそのほうが長持ちするんでしょ」
花束を受け取った桂さんは、鼻先をおおぶりの花にうずめて目を伏せる。それから思い出したように根元の輪ゴムを外し、百合の花だけを拾い上げた。
「またこれか」
そういえば前に渡したフラワーアレンジメントにも、大きな百合の花が入っていたっけ。でも桂さんの表情を見た限り、どうやら喜んでいるわけではなさそうだ。
「百合、嫌いですか?」
「別に」
指先で茎をくるくる弄びながら、桂さんは軽く眉根を寄せる。
「ただ、ちょっと昔を思い出しただけ」
どんな思い出なのかと訊ねても、桂さんは微笑むばかりで答えない。私としても突っ込んで聞きたいわけではないので、深く追求するのはやめておいた。
いつものように当たり障りのない雑談が始まる。雑談といっても、その大半は桂さんが私にあれこれ質問をしてくるばかり。気づけば私が一方的に喋り続け、桂さんはにこにこしながら聞いているだけの時もある。
(そろそろお昼時だろうし、美術館に向かう方がいいかな)
時間を確認するためにハンドバッグからスマホを取り出す。そのとき、鞄に無造作に入れていた二枚のチケットがはらりと落ちた。
あ、という間に桂さんの白い手がチケットをひょいと拾い上げる。彼は物珍しそうにチケットを眺め、びじゅつかん、と子どもみたいに緩慢に読み上げると、
「いい趣味だね」
と皮肉でもなく呟いた。
「これから行くの?」
「そのつもりです。本当は二人で行く予定だったんですけど、その人がちょっと仕事が入って」
「じゃあ、一人で?」
「はい」
ここでふと、入院中で自由に出かけられない人を前に、こんなものを見せるべきではなかったかなと反省した。気を悪くされただろうかと桂さんの顔色を伺うと、彼は思ったよりあっさりした、いつもと変わらない優しい顔でじっとチケットを眺めている。
「……ねえ、百合香」
彼は目線をチケットへ落としたまま、独り言みたいにゆっくりと話し出した。
「僕は別に、四六時中入院が必要というわけではないんだ」
「えっ、そうなんですか」
「うん。腎臓が弱くて、週三回の人工透析と食事制限はあるのだけど、別に僕と同じ病気でも普通に生活している人は大勢いる」
人工透析。確か、腎臓の代わりに機械を使って、血液をきれいにしてあげる処理のことだっけ? 私も詳しくは知らないけど、一度の処理に数時間かかるとかで、日々の生活が少し制限されると聞いたことがある。
でも桂さんの言うとおり、透析をしながら生活する人はそんなに珍しくないはずだ。私の知人にも生まれつき腎臓が弱くて、日々の透析と折り合いをつけて活動している人がいる。
「だから、百合香さえよければ、僕が代わりに一緒に行ってもいいかな」
「……いいんですか?」
「うん。僕は疲れやすいから、お前に迷惑をかけてしまうかもしれないけど」
どの道、払い戻しもできないまま捨てるしかなかったチケットだ。樹くんも友達と使ってくれと言っていたし、使うこと自体に問題はない。
ただ、男の人と二人で出かけたと知ったなら、樹くんはたぶん強烈にやきもちを焼くだろうけど……仕方ない。今日は内緒にさせてもらおう。
この病室に桂さんを一人で残して、出ていくなんてさすがに酷だ。
「それじゃあ、一緒に行きましょう」
私が言うと、桂さんは微笑んでこくりと頷いた。
*
疲れやすいという言葉のとおり、桂さんは歩くだけで息を切らした。駅のベンチに腰掛けながら、彼は悔しそうにため息をつき、
「みっともない」
と苦虫を噛み潰したようにぼやく。
「こんなことなら車を呼びつければよかった」
「まだ時間まで余裕ありますし、ゆっくり行きましょう」
少し歩いては木陰で休み、水は飲まずに呼吸を整える。桂さんは私がもってきた折り畳みの日傘をさしつつ、流れる汗を鬱陶しそうに小さなタオルで拭っている。
「格好悪い……」
長い前髪を指先でかきあげ、低く言い捨てるその姿に、海風に吹かれた樹くんを思い出す。
見た目は似ても似つかない二人だけど、ふとした折の仕草なんかが、妙に重なって見えるのが不思議だ。
目的となる美術館は、最寄駅から20分ほど電車に揺られた先にある。駅を出て、空が見えた途端にぎらぎら主張する灼熱の夏の日光を、桂さんは忌々しそうに睨みつけていたけれど、やがて観念したように日傘を開くと、
「さっさと行こう」
と私を顎で促した。
美術館の中に入ると、空調の心地よさに一気に身体が楽になった。背中のシャツが張り付くほどの汗がさあっと引いていくのがわかる。桂さんも一息ついて、少し安心しているように見えた。
有名な彫刻のレプリカらしい大きなオブジェが、広場のあちこちに展示されている。物珍しそうに辺りを見回す私の隣で、桂さんはスマホで時間を確認する。
「企画展まであと何分?」
「三十分くらいですね」
「なら、常設展を先に見ようか」
まるで自分の家のように、すたすたと歩き出す桂さん。私はここへ来たのははじめてだから、必然的に桂さんの背中を追い回す形になる。
大昔に教科書で見たような天使の絵。十字架にかけられたキリスト。風に吹かれる小麦の風景画。
そのどれもが貴重で素晴らしいものだろうな、ということくらいはわかる。でもやっぱり私はどうも芸術がピンと来なくて「なんかすごいなあ」という以上の感想が出てこない。
(というか、むしろ……)
傍らへちらと目を向ける。
両手をポケットに突っ込み、軽く顎を持ち上げて、自分より少し高い位置にある絵を見つめる桂さんの横顔。
見開くわけでも伏せるわけでもなく、適度に力の抜けた目元を、分厚く長いまつ毛の層が縁取る。綺麗な鼻筋。形の良い唇。神様がきっと丁寧に丁寧に作ったんだろうと、見惚れてしまうほどの美しさ。
(絵画より桂さんのほうが、ずっと神秘的で綺麗かもしれない)
桂さんはさっきからずっと立ち止まったまま、ある絵画を吸い込まれるように見つめている。
色鮮やかなラピスラズリ色のヴェールを被る聖母マリア。我が子キリストの運命をめぐり、悲しみに暮れるその姿は、神々しさの中に甘美な愁いを添えている。
そして桂さんもまた、苦しいような悲しいような……あるいはどこか恍惚としたような、なんとも形容しがたい表情でじっとマリアを見つめていた。まるで、この世界に絵画と桂さんのふたりきりしかいないみたいで、私は声をかけることもできず黙って隣に寄り添い立つ。
やがて桂さんは、ふっ、と小さく鼻で笑うと、くるりときびすを返して次の絵へと向かってしまった。私が慌てて追いかけると、彼は少し立ち止まり、私が隣に並ぶのを待って、今度はゆっくりと歩き出す。
「さっきの絵、気に入ったんですか?」
私が訊ねると、桂さんはいつものように「別に」と言い捨ててから、
「だいたい聖母マリアなんて、実在したかもわからないのにね」
と、皮肉っぽく付け加えた。
常設展と企画展の双方を楽しんだ私たちは、近くのカフェに腰を下ろしてしばし足を休めていた。外はこんなにも暑いのに、桂さんは水をひとくち飲んだだけ。私がつい遠慮していると、
「お前はジュースでもケーキでも好きなのを頼みなよ」
と、メニューを突き付けてくる。
そういえば人工透析の人は食事制限があると言っていたっけ。そんな人を前にあれもこれも好き放題に頼むというのは、さすがに気が咎めてしまう。ああでも、このイチオシのメロンケーキは美味しそうだし、セットのカフェオレも捨てがたい……!
しかめっ面でメニューを睨む私を呆れ顔で見つめ、桂さんは軽く手を上げて店員さんを呼びつける。まだ決めてない、と慌てる私からメニューを引き寄せ、彼はイチオシケーキセットのページを指で叩いた。
「とりあえずメロンケーキとカフェオレのセットで」
元気に返事をして去っていく店員さんを眺めつつ、私は唖然と口を開く。
「どうしてわかったんですか?」
「目線」
「目線だけでわかるものなんですか?」
「お前はわかりやすいから。万が一外したとしても、そうしたら別のを頼めばいいだけだし」
……なんだかちょっと、スマートすぎて悔しいくらいだ。
「あと、今日の美術館、お前の趣味じゃないんでしょ? 見るからに退屈そうな顔してたよ」
「う……」
「たぶんお前は絵画よりパンダの方が好きなんだろうけど、貰ったチケットだから行かないわけにもいかなかったんだね。僕はパンダより絵画派だから、これでよかったんだけど」
次々に言い当てられて、なんだか恥ずかしくなってしまう。おっしゃるとおり、私は絵画よりパンダです。
天使のような桂さんの笑顔にズタボロにされているうちに、注文したカフェオレとケーキがテーブルへ運ばれてきた。いかにも豪華で見栄えの良い私側のテーブルに比べ、桂さんの前は依然として冷たいお水が置かれたまま。
「良かったら桂さんも、ひとくち食べませんか?」
断られることを前提として、礼儀のつもりで一声かけると、案の定桂さんは微笑んだままかぶりを振った。
「果物はカリウムが多いから、僕は食べない」
「……じゃあ、今度は何か、別のものを一緒に食べましょう」
人工透析の食事制限って、どんなものなら平気なのかな。家に帰ったら少し調べてみよう。……なんて考えながらフォークをさすと、
「僕の腎臓は」
私の手元を見下ろしながら、桂さんは淡々と話し始めた。
「今後改善する見込みはない。人工透析はとりあえず日々を生きるための処置であって、腎臓の治療とはまったく別のものだからね」
「…………」
「でも、死ぬまで永遠に果物を食べられないわけじゃない。たった一つだけ、僕の身体を治す方法がある。それは、腎臓移植だ」
腎臓移植。
声に出さずに繰り返す私を見つめ、桂さんはうなずく。
「人間は腎臓を二つ持っている。そして、健康な腎臓が一つでも残っていれば、身体としては特に問題なく働くんだよ」
「そうなんですか……」
「でも、脳死された方から臓器を頂く臓器提供は数が少ない。そうすると手段は生体移植……生きている人間から腎臓をひとつもらう方になるのだけど、こちらは親族か配偶者でなければ行うことができないんだ」
テーブルに両肘をついた桂さんが、組んだ両手に顎を載せ微笑む。
「ねえ百合香。僕、お前と二人でそのケーキを食べてみたい」
フォークを持つ私の指先が、光の矢に刺し貫かれたみたいに動きを止める。
「僕と結婚して、お前の腎臓をひとつ譲ってくれる?」
それは――
たちの悪い冗談とか、ただ単にからかっているだけとか。
正直どうとでも取れるような言葉だった。だって桂さんは、ほとんど感情を表に出さず、綺麗な顔に張り付いたような笑みを浮かべているだけだから。
でもその瞳は、……弓なりに細められたガラス玉みたいにきらきらの瞳は、その奥底に真っ黒に濁った重たい泥濘を隠し持っているように見えた。もしかしたら桂さんの言葉は、泥の底から私に向かって、救いを求めて伸ばされた手だったのかもしれない。
「わ、わたし」
ただ、このときの私はそこまでの判断ができなかった。黒い眼差しに見つめられて、身動きもできないまま、……ただ最低限の一言だけを、私は残酷なほど端的に言い放った。
「彼氏、います」
桂さんの両目がふわっと見開かれ、形の良い唇がほんのわずかに開かれる。
「そう」
彼はゆっくりと身体を起こすと、そのまま椅子に寄りかかる。
「そうか」
そしてわずかにうつむき、長いまつげをそっと伏せたかと思うと、
「残念だ」
ひどくかすれた、カフェの喧騒にかき消されてしまうほどの声で、そう言った。
桂さんはそのまましばらく、事切れたみたいに動かなくなった。なんて声をかけるべきかわからず、私もまた黙り込んでしまう。
やがて彼はチケットの半券をポケットから取り出した。それから私の方へ目をやり、ふいに空気が抜けたみたいに力なく笑みを漏らす。
「なら、このチケットはお前の男の趣味だろうね。そのワンピースも……」
「あの……」
「いいんだ。チケットの半券は男へ渡してやればいい。それと今度は、絵画じゃなくてパンダを見たいとねだるんだよ。そうでないと、今度はきっと別の美術館へ連れていかれるだろうからね」
悪魔が通り過ぎたみたく会話が途切れ、私は仕方なく小さく切ったケーキを口へ運んだ。メロンも生クリームもどちらも大好きなはずなのに、なぜだかまったく味を感じられなかった。
*
重い足取りで家に帰ると、ソファで樹くんが伸びていた。
伸びていたというのは比喩じゃない。スーツのジャケットとベルトを放り出し、シャツをくしゃくしゃにしたまま、仰向けになって文字通りびろんと伸びている。片腕は目を覆い隠すように曲げて、どうやら居眠りでもしていたらしい。
「ただいま……?」
「おかえり」
あ、起きてた。
私は鞄を傍へ置いて、樹くんの近くに膝を突く。
「大丈夫? 仕事大変だった?」
「大変も何も、関係ない雑用まで全部押しつけてきて、……」
緩やかに腕を除けた樹くんが、まばたきをして私の姿を凝視する。
そしておもむろに身体を起こし、彼は私の腰を抱き寄せると、
「可愛い」
と言って、スカートをふわと広げてみせた。
「このワンピース、もしかして新しく買ったのか?」
「う、うん。よくわかったね」
「こんな可愛い格好初めて見た。いや、百合香はいつも可愛いけど……」
ぶつぶつと上司への怨嗟の声を漏らしながら、樹くんが私のお腹に顔をうずめてくる。くすぐったいし恥ずかしいけど、ちょっと可愛いなんて思うのだから、私も大概重症だ。
「美術館、どうだった?」
その瞬間、桂さんの顔がフラッシュバックして喉から変な音が漏れた。
「ええと……面白かったよ。普段見慣れないものをたくさん見れて」
「そうか、ならよかった。誰と行ったんだ?」
「……友達。半券もらってきたけど、いる?」
「いや、いい」
心臓がバクバクしているの、ばれていないだろうか。
そんなに後ろめたいことがあったわけではないのだけど、やっぱり隠し事というのは心臓に悪い。まして、あんな……聞きようによっては告白とも捉えられかねないことを言われたばかりだ。
腰へ回った樹くんの手が、私の身体を引き寄せる。そのまま膝をソファへ乗せて、樹くんの両足をまたぐ形で、彼の上へと座らせられる。
下から見上げる樹くんの、挑発的な鋭い瞳。世界できっと私しか知らない、スイッチの入った彼の顔。
「このワンピース、次のデートで着てほしい」
鼻先をこすり合わせながら、樹くんが甘くねだる。
ざわめく心を見通されてしまうのが怖くなって、私は樹くんの頭をぎゅっと両手で抱きしめた。彼の髪に鼻をうずめて「いいよ」とくぐもった声で囁く。
腕の中の樹くんが、小さく笑ったのがわかった。彼の長い指が背中に回る。わかりきっていたことみたいに、私は少しだけ背中をそらす。
背中のチャックが下げられていく鈍い音を聞きながら、私は不安を振り切るみたいに樹くんの首筋にキスをした。
最近の樹くんは、少しだけ様子がおかしい。
前よりもよくスマホを見ている。でも、浮気とかそういう感じではなくて、なんだか小難しい顔をして画面を睨んでいることが多い。
ほら、今日も。
「…………」
小さく震えたスマホを手に取り、樹くんはぎゅっと眉を寄せた。私の膝の上に載っていた頭がぐるんとお腹側に向き直る。私の位置からでは彼のスマホはどう頑張っても見えそうにない。
一度はスマホをソファへ放り出し、うたたねを再開した樹くん。でも、結局五分もしないうちに彼は再びスマホを取ると、
「ちょっと電話してくる」
と言って、ベランダの方へと出ていった。
夜空と部屋を隔てる掃き出し窓がピシャンと閉まる。突然寂しくなった膝の上へ、私はクッションを引き寄せた。「何かあったの」と訊いたことはある。でも、何度訊ねても答えはいつも「なんでもない」だけだった。
(疑っているわけじゃないけど、毎回誤魔化されるのはちょっと寂しいな)
リビングの中からではベランダの声など聞こえるはずもない。
面白くもないバラエティ番組をぼんやりと眺める。ちょうどCMに入ったとき、再びベランダを振り返ると、電話を終えたらしい樹くんが手すりにもたれかかっているのが見えた。
大きくて、逞しい背中。
だけど今日は、いつもよりずっと小さく見える。
私はテレビの電源を消すと、クッションとブランケットを除けて立ち上がった。普段ほとんど出ることのないベランダへの掃き出し窓へ手をかける。
カラカラと窓を開けた途端、夏の夜特有の蒸し暑い熱気がリビングへ入り込むのがわかった。百均で買ったサンダルをつっかけ、樹くんの方へ顔を向ける――
「……樹くん?」
「あっ」
揺れる肩にあわせ、細くたなびく一筋の煙。
彼の手元の細い筒から出たそれは、夏の生ぬるい風に吹かれて空の彼方へと散っていく。
「……たばこ、吸うんだ」
正直そういうイメージがなかったから、私はかなり驚いた。
たばこって、なんていうか、もっと……やさぐれている人が吸うものだとばかり思っていたから。
樹くんは自分の手元へ目を落とし、それから軽く目を逸らす。持っているのは普通のたばこじゃなくて、充電式の加熱式たばこらしい。黒いスマートな円筒が、樹くんのごつごつした長い指にとてもよく似合っていて、おしゃれな映画のポスターの中に入り込んだみたいに見える。
「ごめん」
「謝られるようなことじゃないよ。ちょっと驚いたけどね」
「家の中では吸ってない。それに最近は……何か月も吸ってなかった」
確かにこの家でたばこ独特のにおいを感じたことはない。吸い殻らしきものを見かけたこともないし、きっといつもこのベランダで吸っていたのだろう。
決まり悪そうに眉を寄せる樹くんの隣に並ぶ。真似して手すりに寄りかかると、どこか遠くからほんの小さな虫の声がかすかに聞こえた。
「いつ頃から吸い始めたの?」
「大学生の頃。百合香と別れた後、お世話になっていたバイト先の――まあ、今も務めている弁護士事務所の先生に教わった。あの頃は普通の紙巻きを吸っていて、でも、少しずつやめようと思って、一番ニコチンの少ないタイプの加熱式に変えた」
樹くんの手元で黒い円筒が所在なさげに揺れている。
「ここ数年はほとんど吸わずに済んでいたけど、最近ちょっとストレスが多くて。少しでも嫌な気持ちが楽になればと、久々に試したところだったんだ」
ああ、やっぱり。
たばこを吸う彼の横顔を見たとき、そうじゃないかとは思ったんだ。
「今、樹くんはつらいことを抱えているんだよね?」
樹くんは手すりに寄りかかったまま、ゆっくりと瞬きをする。
返事はない。でもそれは、たぶん格好つけたがりの彼にできる唯一の肯定で、私は小さくうなずくと返事を待たずに言葉を続けた。
「それって、私には話せないこと?」
長い沈黙が夜のベランダを押し包む。息苦しさと熱気にやられて、身体がじわと汗をかき始めた。
「本当に耐えられなくなったら、話す。でも」
夜空の遠くを見つめたまま、樹くんは独り言みたいに言った。
「できれば百合香には……秘密のままにしたい」
目の前の道路をトラックが横切り、夜闇を裂いたヘッドライトがあっという間に過ぎ去っていく。
タイヤがアスファルトを蹴るやかましい音がなくなると、あたりはまた重苦しい沈黙へと戻った。
秘密。
樹くんが、ずっと私に隠していること。
「わかった。じゃあ聞かない」
まだ大丈夫。私は思った。
私は樹くんを信じてる。だから、彼が秘密にしたいというなら、私はまだ待つことにしよう。
だって私たちは恋人同士だ。彼を信じて待つというのが、正しい選択……だよね?
「それ、私も吸ってみていい?」
「いいけど、百合香はたばこ吸ったことないだろ」
「試してみるだけだから」
手渡された加熱式たばこは私の指よりも細くて、咥えて息を吸ってみると円筒の先がふわっと緑色に輝いた。口の中へと溢れ出る煙は想像していたたばことは違い、どこかフルーティで甘みのあるとても不思議な味がする。
口の中に煙を閉じ込め、次はどうしようかと悩んでいると、樹くんが自分の口を指さしふーっと息を吹く真似をした。私も唇をとがらせて、口に溢れるものをふーっと外へ押し出してみる。細くたなびく煙の帯が、夜空の中へと溶けていく。
「よくわかんない」
「だろうな」
私からたばこを受け取った樹くんは、慣れた手つきでそれを口へ咥えようとした。でも、気の抜けたように苦笑して、煙草をそのままケースへしまう。
「樹くん」
振り返った彼の服を引き寄せ、私は思いっきり背伸びをして。
触れるだけ、音もならない、ほんの一瞬かすめたのみの、子どものおもちゃみたいなキス。
「これで、たばこの代わりにならないかな……?」
恥ずかしさに緩む頬を懸命に抑え込みながら、私は冷静なふりをして言った。
樹くんはきょとんとしたまま、大きな目でぱちくりと瞬きをする。
しばらく無言で見つめあい、どちらともなくふっと吹き出して笑いあった。私はもう照れがひどくて、さっきから顔が熱くて熱くて仕方ない。
「なると思う。でも」
私の髪に触れた樹くんが、そのまま両手で私の頬を持ち上げる。
「依存性が強すぎる」
いつもより少し下がった切れ長の瞳。
緩く微笑む口元が、少しずつ近づいてくる。
微かなたばこの匂いを感じながら、軽く目を伏せた私の唇に、樹くんの淡い微熱が甘く柔らかに重なった。
*
今日を、最後にしよう。
そう思ったのは、やっぱりあの日の桂さんの言葉のせいだ。ただの冗談。ほんの戯れ。頭ではそうわかっていても、桂さんの弓なりの瞳がずっと頭から離れない。
私が彼に与えられない、与えてはいけないものを求められている感覚。
それはその、腎臓という直接的な意味ではなく、もっと漠然とした――深い感情を、求められている気がしてしまったから。
「今日は朝からなんぎくて。お待たせしてしまってごめんなさいね」
このお花屋さんで作ってもらう花束は、いつも必ず百合が入る。
店員さんの趣味なのかな。具合悪そうにする店員さんに「お大事に」と伝えて、私は病院へと向かった。
(ここへはもう来ないと言ったら、桂さんはどんな顔をするだろう)
いや、それ以前に、私は彼にどんな言葉で別れを告げればいいのだろう。
重い足取りで病院に入ると、受付さんが私を見てにっこりと笑みを浮かべた。このままどうぞと、指先がエレベーターを指す。私ももう、すっかりこの病院の常連だ。
「おじゃまします」
桂さんの病室の扉を開ける。
白いベッドに横たわり、指先でタブレットをいじりながら、桂さんはまぶたを持ち上げ私の姿をちらと見た。
「いつもの服だね」
「仕事帰りですから」
「そう。嫌いではないよ」
ベッドの下から丸椅子を引き出し、ここへ座れと彼の手が言う。
傍に置かれた小さな花瓶に、私が今日買ってきた花束を付け足すと、
「お前も飽きないね」
と笑って、桂さんがその中から百合一輪を引き抜いた。
「これを入れてくるのはわざとなの?」
「偶然ですよ。行きつけのお花屋さんが、百合の花を好きみたいで」
「そう。まあいいけど……」
続く桂さんの言葉がまるで頭に入ってこない。どうやって切り出そう。どんな言葉なら傷つけずに済むだろう。頭の中がぐるぐる回って、さっきからずっと息が苦しい。
(いや、傷つけずに済む言葉なんてない)
私が彼の立場だとしたら、どんな優しい言葉を使われても、深く深く傷つくはずだ。
「……百合香、聞いてる?」
ぺち、とほっぺたを叩かれて強制的に現実へと戻る。
桂さんは私の頬に手を当てたまま、むすっとした顔でじっとこっちを見つめている。でも、彼もまた不意に我に返ったみたいに私の頬から手を離すと、どこか寂しそうに微笑んだ。ちくり、私の胸が痛む。
「……すみません。ちょっと、仕事のこと考えてました」
「そう。お前も忙しいんだね」
「いえ、その……すみません。なんのお話だったんですか?」
「これだよ。グーグルマップ」
桂さんはタブレットの画面を私の方へと向けて見せる。映っているのは、どこか外国の大きな道路かな? 抜けるような青空と見る南国らしい緑の並木が、どこまでもまっすぐ続いている。
「まだ調子が良かった頃、旅行に行った先の景色を見ていたんだ」
「へえ、面白そうですね」
「面白いよ。これなら病室からどこへでも行ける。国内でも、海外でも」
言いながら桂さんは、色々な国の色々な景色を次から次へと映し始めた。指先で軽くタップするだけで、まるで自分がそこにいるみたいに周囲の写真が映し出される。見慣れない車のナンバープレート。知らない文字で書かれた標識。その土地の風土や思い出を話す、桂さんの言葉は少年のように明るい。
「お前の家はどこなの?」
住所の欄をタップして、桂さんが訊ねる。
家といったら、今は樹くんと二人で住んでいるあのマンションを指すのだろう。でもなんとなく気が引けてしまい、私は桂さんからタブレットを受け取ると実家の住所を入力した。
途端、視界に広がる田舎の風景。さっきまでの海外旅行気分とは打って変わって、お線香の匂いのしそうな昔懐かしい地元の姿に思わず軽く吹き出してしまう。
「懐かしい!」
「新潟? なんでまた……」
「実家なんです。うわあ、変わらないなぁ、この公園」
カメラの向きを変えてみると、実家のすぐ向かいにある広い公園の姿が映った。手前側が遊具のある遊び場。そしてその奥にどんぐりの木がたくさん植えられた小高い山。住宅街の真ん中に突如現れた森みたいな、一風変わった空間だ。
私が小さい頃にはすでに遊具の老朽化が激しかったっけ。ブランコにシーソー、滑り台もあったけど、そのほとんどに『立ち入り禁止』の黄色いテープが張り巡らされていた覚えがある。もうとっくに整地されているか、遊具が置き換えられているとばかり思っていたのだけど、この写真を見た限りおおむね当時のままのようだ。
「ここは……」
隣に並んでタブレットを覗き込んでいた桂さんが、いやに神妙な面持ちで公園を見つめている。
「どうしたんですか?」
「いや……」
少し考えるそぶりを見せつつ、彼は何かを振り払うように首を振った。
「お前はこの公園を知っているの?」
「実家の目の前ですからね。よく一人で遊びに来ていたんです。公園の裏の、山みたいになっているところに、夏場は百合がたくさん咲いていたんですよ」
「ずっと一人で遊んでたの?」
「いえ、外国人の男の子が一緒でした。サーレくんって言うんですけど」
喋っているうちに少しずつ思い出してきた。お母さんが教えてくれた、謎の外国人サーレくん。
確かに公園を眺めていると、私はいつもこの小さな世界で、ひとりの男の子と一緒に遊んでいたような気がする。言葉がまるで通じなかったから会話らしい会話はなかったけど、それでも毎日手を繋いで山百合の中を駆け回った。
「本当に懐かしい。私の初恋だったんです」
ひとりでべらべらと喋りたてる私に対し、桂さんは軽く口元を押さえたままとうとう相槌すら打つのをやめてしまった。
眉間に力が込められるたび、伏せ気味の長いまつげが別の生きものみたいに揺れる。ひどく難しい顔をして、何かを考えこんでいる様子だけど、私の今の話の中に悩むようなことなんてあっただろうか?
「あの……もしかして、新潟に嫌な思い出とかあります?」
「…………」
桂さんはそのままずいぶん長く黙りこくっていたけど、やがて再びかぶりを振ると、
「なんでもない」
と短く言って、唐突にタブレットを切ってしまった。
「あっ、やめちゃうんですか?」
「やめる。別の話をしよう、なんでもいいから」
もしかして本当に新潟に嫌な思い出でもあったのだろうか。日本酒飲み放題のお店で張り切りすぎて救急車で運ばれたとか? 佐渡金山に観光に行ったらあまりにも寒くて風邪をひいたとか?
いきなり別の話をしようと言われても、そんな唐突に新しい話題など思いつくはずもない。そもそも私、今日は桂さんに別れを告げにきたんだった。
楽しく遊んでいる場合じゃないと……でも桂さんと過ごすのは楽しいと、心がまた重たく沈んでいく。どうしてこうもままならないものなのだろう。
そのときふいに、私の鞄から明るいメロディが聞こえてきた。
あの日、桂さんから電話がかかってきた時と同じデフォルトの音楽。私は桂さんに一言断り、急いで鞄からスマホを取り出す――
「わっ」
と、私の手から釣れたての魚みたいに滑り出したスマホは、まるで狙いすましたように桂さんの膝の上へ着地した。私のスマホを手に取った桂さんの表情が、霜が降り注いだみたいにさあっと凍りついていく。
「あの、スマホ」
落としてすみません、と言いかけた私の口を、桂さんの手が遮った。彼の視線はスマホへ向いたまま。食い入るように、吸い込まれるように、穴の開くほど鋭い眼差しで画面を見つめている。
「桂さん」
会社からだったらどうしようと慌てる私の目の前に、ようやく着信元の名前が突き付けられる。
「これが……お前の恋人?」
――波留樹。
私はそのとき、……理由はまったくわからないけど、自分の心臓が桂さんの手で握り潰されたような感覚を覚えた。今のこの桂さんの瞳は――返す返すも、理由の説明はできないのだけど――それだけの敵意と激情を燃やし、私を殺してしまうほどの勢いをもって、私と、その後ろに立つ樹くんの二人を射抜いたのだ。
「は、い」
スマホはまだ震えている。
早く電話に出てあげたいのに、桂さんはスマホを離す気配がない。
やがて諦めてしまったのか、軽快な音楽と小刻みなバイブレーションは停止した。画面が暗転してようやく、桂さんは嘲るような笑みを浮かべてスマホをベッドへ放り投げる。わざと、私の座る方とは反対側へ。
胸がざわめく。
開けてはいけない心の扉が、重く軋み出した音がする。
「桂さん……」
「なに」
「それ……返してもらえませんか」
「いいよ」
意外にも桂さんはあっさりとスマホを手に取ると、何食わぬ顔で私に向かって差し出した。若干拍子抜けした気持ちになりながら、私はおずおずと手を伸ばす。
その瞬間、桂さんは私の手首を素早く掴むと、病人とは思えないほど強い力でぐいと引き寄せた。顔が一気に距離を縮めて、鼻先がぶつかる寸前で止まる。思わず息を止めた私を、嘲るように歪む唇。
「思い出した」
桂さんは瞳の奥に強い力を込めて笑った。
「『サーレくん』は僕だ」
*
――僕のフルネームは諏訪邉桂。
まるで物語をなぞるように、桂さんは淡々と語る。幼い頃、父の仕事の都合でアメリカから新潟へ引っ越したこと。日本語がまったく喋れなくて、幼稚園に溶け込めなかったこと。日中はいつも人のいない公園で、ある女の子と遊んでいたこと。
語るうちに記憶はどんどん鮮明になってきたようで、熱を帯びた声音のまま思い出話は長く続いた。名字しか名乗らなかったのは、当時の彼が桂のツを上手く発音できなかったからだと。スワベをサーレと聞き違えるなんて子どもの聴力は当てにならないと。そう苦笑しながら語る姿は、不自然なほど明るく見えた。
――そう。お前は、
どこか恍惚とした笑みを浮かべ、桂さんは私の指に触れる。
――僕が初恋だったんだね。
私は、その手を……振り払いに行ったはずだったのに。
結局思い出に流されるまま、気づけば私は言うべき言葉をすべて飲み込んであの病室を後にした。また必ず会いに来てねと、命令じみた強引さで私の手を握る桂さん。その手をどうすることもできずに、小さな肯首で応えた私は、あのとき何を思っていたのだろう。
(子どもの頃の初恋がなんだ。そんなの、ついこの間までまるっきり忘れてたことじゃないか)
頭ではそうわかっているのに、心がなぜかもやもやする。初恋の人。そのラベルがあるかないかの違いだけで、人というのはこんなに違って見えるものなのだろうか。
いや、きっと、それだけじゃない。
私はきっと、桂さんのことを知りすぎた。友達として、あまりにも多くの時間を過ごしすぎた。
寂しそうに微笑む桂さんを、放っておけないと思ってしまうほどに。
(これはよくない)
子どもの頃のキラキラした思い出が桂さんの微笑とリンクする。いちごムースみたいに甘酸っぱい気持ちが心に誤作動を呼び起こす。
「どうかしたのか?」
一向にページをめくろうとしない私の指先を訝しく思ったのだろう。ソファの隣に腰かけた樹くんが、私の顔を覗き込む。
私は文庫本にしおりを挟むと、
「なんでもない」
と言って、ローテーブルへ本を置いた。
樹くんの視線から逃れるように目を閉じる。なんでもない。彼の口からこの言葉が出る度、私もひどく複雑な気持ちになっていたはずなのに。
(隠し事はお互い様かな)
咎める気持ちはあるのだけれど、桂さんとの一連の出来事を樹くんに話したところで、私たちにいったいどんなメリットがあるだろう。
樹くんはきっと嫌な気分になるだろうし、私だってまったく得をしないはずだ。だったらもう、お互いのために、秘密にしてしまう方がいい。
「樹くん」
「ん?」
樹くんの膝の上へ、そっと手を置いてみる。
「今日、疲れてる?」
言いながら恥ずかしさがこみ上げてきて、最終的にはほとんど声が消えてしまった。
この言い回しは、私たちの間で決まった合図。今夜は触れても良いですか、をオブラートで包み込んだお誘い。
「疲れてない、けど」
樹くんは少しはにかみ、私の顔をまじまじと見つめる。
「百合香からは珍しい。というか、初めてじゃないか?」
「そうかもね」
確かめあうように指先が絡む。
私の意思を確認するみたくじっと見つめてくる樹くんに、私は彼の瞳を見ながらゆっくり深く頷いてみせる。
素直な笑みを浮かべてくれる樹くんがいとおしい。私は今、本当にこの人のことを好きだと思う。
でも、心にはまだ、ちくちくとした痛みが残り続けていた。
淫靡な水音が頭蓋に響いて、血の巡りが速度を上げていく。
触れられた肌が次々に熱を帯び、身体の奥が疼き出す。
常夜灯に淡く照らされた二人の身体のシルエット。びく、と悶える私の背中を後ろから抱きかかえ、樹くんは濡れた唇をうなじから下へと這わせていく。
「んっ……」
漏れかけた声を喉で止めると、樹くんの長い指が、たしなめるように喉をなぞった。指先が唇を割って口の奥へと侵入する。そうしながら、反対の手は今もなお私の秘められた奥深くを緩やかに拡張し続けている。
「やめて、ゆび、かんじゃう」
「なら、頑張って口を開けていてくれ」
仕方なく舌先で彼の指を舐めていると、さっきまでぎりぎりのところで押しとどめられていた嬌声が、遮るものを失って次から次へとこぼれ始めた。あ、あ、と唾液まみれの口でみっともなく喘ぐ私を、樹くんは瞳を細めて満足そうに眺めている。
やがて、シーツを握る私の指に力が入らなくなってきた頃、ようやく唇が解放されるとともに額に優しくキスをされた。下腹部を掻き回していた圧力がずるりと抜ける。小柄な私が大きな彼を受け入れるのには時間がかかる。
「待って」
ベッドボードの引き出しを開けようとした樹くんの手を、私はとっさに掴んでいた。
少し戸惑った樹くんの顔が、暗がりの中で近づいてくる。
「どうした?」
「あの……本当はもっと前に言おうと思ってたんだけど」
荒い呼吸をごまかすように、私は鼻でゆっくりと息を吸う。
「私、ピル飲んでるから……それ、つけなくても平気なの」
私の言うそれの意味が、樹くんにはすぐには理解できなかったらしい。
軽く首を傾げられて、私は仕方なくそのものの名前をはっきり答える。それでも合点がいかなかったのか、樹くんは今度は反対側に首を捻った。
「え?」
「ええと、ストーカーでバタバタしてた頃、生理不順がちょっとひどくなっちゃってね。婦人科に行ったらピルを勧められて、今日までずっと飲んでたの。今月は一度も忘れてないよ」
生理不順を整えるための低用量ピルは、正しく飲んでいれば99パーセント以上の避妊効果がある。もちろん本当はきちんと避妊具をつけなくてはいけないのだけど、この日の私は何かに急き立てられるまま言葉を続けた。
「だから……そのまま」
ベッドの上に両手をついて、私は樹くんへにじり寄る。薄暗がりの部屋の中で、つばを飲み込んだ彼の喉仏が上下する。
「樹くん」
私の気持ちを、私自身に確かめさせて。
指先が彼自身へと触れようとしたその瞬間、
「落ち着け、百合香」
突然両頬を手で挟まれて、私はベッドの上らしからぬ変顔で動きを止めてしまった。
樹くんは焦る気持ちを堪えるみたいに、ぎゅっと唇を噛みしめて私を見つめている。
「私は落ち着いてるよ」
「いや、落ち着いてない。やはり何かあったんだろ、どう考えても様子が変だ」
純粋な心配の眼差しがこの日はやたらと癪に触って、私はシーツを握りしめると部屋の隅へと視線を逸らす。拗ねる子どもをなだめるみたいに、樹くんは私の髪や頬へ唇を落としていく。
「いくら薬を飲んでいたとしても、俺は百合香の身体に危険な影響のあることはしたくない。仮にこのままつけずにしたとして、本当に子どもができてしまったらどうする?」
「…………」
「出産は今でも命の危険を伴うものだ。医療を過信して軽々しく『産めばいい』とは思わないでほしい。きみが子どもだけを残して死んでしまったら……残された俺は、きっと、耐えられない」
素肌の私をぎゅうと抱きしめ、樹くんは諭すように言う。
「万が一のことがあってからでは遅いんだ。もう少し自分を大切にしてくれ」
……ああ。ここだけ切り取れば、理想の恋人の発言だ。
目先の快楽より私自身のことを一番に心配してくれる。こんな男の人、そうそう出会えるものじゃない。
それはわかる。わかってる。でも、心の中のわだかまりが消えない。
(もし万が一のことがあったなら、樹くんが責任を取ってくれるんじゃないの? 子どもを産んで私が死んだら、今まで私にくれた愛情をその子に注いでくれるんじゃないの?)
いや、それは期待しすぎなのかな。だって前にも、彼はなんだかよくわからない理由で結婚をめちゃくちゃにけなしていたし。
いわゆる一般的な結婚願望とか、家族を持ちたいだとか、そういう気持ちが希薄な人なのかもしれない。そこは人それぞれだから責めるつもりはないけれど、私はできるなら……好きな人とは結婚をして、子どもだって作りたい。
「わかった。ごめん」
そっけない言葉とともに、樹くんの身体を遠ざけてしまう。彼の言っていることは正しい。ただ、今の私が求めていた答えとは少し違っていただけ。
「百合香……」
「ごめんね。なんか……私、ちょっとおかしいみたい」
冷えた身体は再び熱を持ちそうになくて、私は頭痛をこらえて謝るとそのまま樹くんの部屋を出た。
――樹はやめときな。
一華さんは、明らかに何かを知っていた。
――あの家の男は頭がおかしいんだ。息子も、父親もね。
冷ややかな声が脳裏によみがえる。ぞっとするほどむき出しの敵意。あの時の私は、彼女の言葉にただ反発し、真っ向から立ち向かってしまったけど。
(やっぱり連絡先、聞いておいても良かったかもな)
今となっては、彼女は私の数少ない情報源。多少は距離を置きつつも、もしもの時に連絡できるようにしておくべきだったかもしれない。
考えることが多すぎて頭がうまく回らない。
樹くんはどうしてあんなに結婚を嫌がるの? 子どもを持つつもりはないの? 私にいったい何を隠して一人でずっと苦しんでいるの?
そのどれもが自分一人で悩んだところで答えの出ない問題ばかり。私の選択肢といえば、樹くんに直接訊ねるの一択しかないはずなのに、私は今日も彼を避けるように会社帰りに寄り道する。
「……お客さん。お客さん?」
「あっ、はい」
気づくと、花束を携えた店員さんが、心配そうに私を見ていた。
「お花できましたけど、どうしたんです? 何か、悩み事?」
「ええ、まあ……」
「おばさんでよければ、なんでも相談に乗りたいところだけど……今日もまた、これからこのお花を渡しに行くところなのかしら」
百合の花を買ってきてほしいと、桂さんから連絡が入ったのは一昨日のことだ。行くべきじゃないと思いながらも、私はこうして花屋さんに寄ってまた花束を作ってもらっている。
「そうですね。今日も、これから向かうので」
「そう……。常連さんの元気がないと、やっぱり少し心配になっちゃう。無理に笑ってとは言わないけど、何かあったらいつでも相談してくださいね」
オマケにどうぞとお子様ランチについていそうなゼリーを頂いて、私は小さく頭を下げるとお花屋さんを後にした。
「頑張るならちょちょらにねー!」
大きく手を振るお花屋さんの声が聞こえる。ええと……おおざっぱとか、適当とか、そういうような意味だっけ?
病院の前に立つと、胸に詰め込まれた鉛が重さを増したように感じた。来てしまった。後ろめたい気持ちを振り切るように、大股で自動ドアを通る。
(なにが『来てしまった』だ。結局私は自分の意思で桂さんに会いに行っているじゃないか)
桂さんと話しているときは、何も知らない子どもの頃にタイムスリップした気になれるから。
ただそれが心地よくて、私は自分で桂さんのもとへ通い詰めているだけに過ぎない。結婚のことも出産のことも、子どもだったら考えずに済む。そう思うと、とても気持ちが軽くなって、無邪気な自分に戻れる気がする。
エレベーターで最上階についたとき、扉の開く音とともに知らない人が桂さんの部屋から出てきた。こんなに暑いのに上下ともしっかりとスーツを着込み、眼鏡をかけた背の高い男性。年は四十半ばくらいかな。いかにも生真面目そうな、仕事の好きそうな顔をしている。
男性は私を見ると、小さく会釈をして通り過ぎた。私も会釈を返しつつ、男性の様子をつい伺ってしまう。
桂さんのお友達……には、到底見えない。お仕事の関係かと思ったけど、そういえばこれまで桂さん自身の仕事の話を聞いたことがなかった。
男性は私と入れ替わりにエレベーターへ乗り込み、下の階へと降りてゆく。私は仕方なく桂さんの部屋のドアを、いつものようにノックした。
「桂さん、おじゃまします……」
――空気が。
もう、明らかに違う。重い。苦しい。この部屋だけ大気の重さが違うみたいで、ただ立っているだけなのに途端に息が苦しくなる。
桂さんはひとり窓辺に立って、階下を見下ろしている。白い入院着をまとった華奢な背中。それは、いつもと変わらない見慣れた光景のはずなのに、窓に映る彼の顔だけが異様な闇を醸し出している。
まるで大雨の夜を何時間も一人で歩いてきたような――途方もない絶望に打ちのめされたような。
「桂さん……?」
おそるおそる声をかけると、桂さんはようやく緩慢に瞬きをした。でも、それだけだ。心を失った人形みたく、彼の喉からは小さくかすれた吐息が絶えず漏れるだけ。
「あの……大丈夫ですか?」
「…………」
「具合悪いなら、看護師さん呼びましょうか?」
「…………」
さっきの男の人と、何かあったのだろうか。
どうしたらよいかわからず、とりあえず看護師を呼ぼうときびすを返す。そしてそのとき、急に後ろから腕を引かれて私は思わず立ち止まった。
「行くな」
震えた声。
白い指が追いすがるように、私の腕を握っている。
「出ていくなら……僕はここから飛び降りる」
本気だ、と。
一瞬にしてわかってしまうほどの闇に呑まれたその眼差し。本能が純粋な恐怖を感じ、ひゅっと私の喉が鳴る。
「ど……どうしたんですか」
「行くな」
「桂さん、どうして」
「ここにいてくれ」
言葉が耳に届いていない。彼は私の腕を無遠慮に引き寄せ、腰を掴み、手首を握って、
「頼む。お前までいなくなったら、僕は」
……ようやく目が合った瞬間、桂さんの目尻から透明な涙が流れ落ちた。
『もしもし?』
「あの……樹くん? ごめんね、いきなり」
車の行き交う音が電話越しに聞こえてくる。彼は今、帰るところかな。それとも、残業中だけど電話に出るため事務所の外へ出たのかも。
今は直接顔を見るより、電話の方が話しやすい。何を言うのか頭の中で繰り返しながら、私は胸の鼓動を押さえる。
『いいよ。どうした?』
「ちょっと、急で悪いんだけど……今日、帰りがすごく遅くなりそうなの。もしかしたら、泊まりになるかも」
電話の向こうの樹くんが一瞬、小さく息を止めたのがわかった。
数秒の沈黙。思えば彼とのルームシェアが始まって以来、外泊という話が出るのはこれが初めてのことかもしれない。
『……仕事か?』
想定通りの質問に、私は胸の痛みをぐっと堪える。
「入院している友達が……何か、つらいことがあったみたいでね。すごくうろたえていて……一人にしておけなくて」
『…………』
「入院患者の付き添い用の部屋があって、もしもの時はそこに泊まってもいいって、受付の人も言ってくれたんだ。だから最悪、そうしようかと思って」
……怪しいよね。自分で言っていてもそう思う。
もし私が樹くんに同じことを言われたなら、真っ先に思い浮かぶのは浮気の二文字のはずだ。
心臓が耳から飛び出しそう。樹くんを不安にさせたくない。でも、私がここから出ていったなら、今の桂さんなら本当に飛び降りてしまうはず。
(私の選択は、これで正しいの?)
断言はできないけど、もう迷っている時間がない。
『……わかった』
その言葉を聞いた瞬間、暗闇に一人で放り出されたような不安が胸に広がった。
自分から言い出しておいて、何を勝手な、とは思う。でも私も、今は頭がいっぱいいっぱいでうまく考えがまとまらない。
『帰りが夜中になるようなら教えてくれ。迎えに行くから』
「うん、ありがとう……」
そして、ごめんなさい。
震える手で電話を切って、私はすぐに桂さんの部屋へ走った。樹くんに電話をしている間も、彼が早まった真似をしていないか、不安で不安で仕方なかったからだ。
私がドアを開けようとしたとき、スリッパを履いた桂さんがちょうど飛び出してきたところだった。真正面からぶつかった私が尻もちをつくより早く、桂さんの細い両腕が私の身体を抱きしめる。
「桂さん」
「よかった、まだいた」
「私、います。ちゃんとここにいますから」
母親に飛びつく子どもみたいに、ぎゅうぎゅうと腕が締めつけてくる。
「いなくならないで……」
私より年上のはずの桂さんが、ほんの小さな子どもに見える。
私は桂さんの背中を撫でつつ、ほとんど抱きかかえるようにして、やっとのことで彼をベッドまで連れていった。
ベッドに腰かけた桂さんは、当然のように私にも隣に座るよう要求した。身体をぴったりとつけた格好で、桂さんは私の手を両手で握る。そうして時折苦しげに眉を寄せたかと思うと、ぎゅっと唇を噛みしめて目を伏せるのを繰り返す。
私は隣で寄り添いながら、彼の心が落ち着くのを待つことしかできない。やがて、桂さんは何度目かのため息を経て、
「僕の父は」
ゆっくりと、沈んだ声で話し始めた。
「政治家なんだ。諏訪邉桂一郎といって、国会議員でね。家系としては医者が多いのだけど、父の代から政治の道へ踏み込んだ。僕もいずれ父の跡を継ぎ政治家になるつもりで、ずっと勉強を続けてきた」
「…………」
「でも、腎臓の病気がわかって……僕は父の私設秘書をやめて、通院生活が始まった。最初は父も僕も、治療が終わったら復帰できるとばかり思っていたけど、僕の身体が永遠にこのままだとわかって……父は僕に、この病室で待つよう言った。『いずれ迎えに来るから』と」
確かに疑問には思っていた。透析治療だけが理由なら、桂さんがこの病院に入院を続ける必要はないだろうと。
(でも、こんな理由があっただなんて)
僕の部屋なんて誰も来ないから、と、寂しく笑う姿を思い出して、胸がきゅうと痛くなる。
「今日、父の秘書が来たんだ。お前以外の来客なんて本当に久しぶりで、僕は驚いたし、嬉しかった。本当は父が来てくれたならと思ったけど、あの人は忙しいからね。……そして秘書は、父からの伝言を僕に伝えた」
私の手を握る桂さんの指に、強く、不穏な力が籠もった。
「弟に、跡を継がせることにしたって。……僕はもう、好きにしていいんだって」
桂さんは静かに天を仰ぐ。涙のあとの乾いた瞳が、天井の更に彼方を見つめている。
「なにが好きにしろだよ。あんたの跡を継ぐためだけに僕はこれまで生きてきたんだ。勉強だって、なんだって……全部そのためだった。なのにこんな年になってからいきなり世間に放り出されて、僕にこれからどうしろっていうんだよ?」
はっ、と自嘲して、桂さんは俯いた。
「待っていろと言うから……ずっと、ずっと待っていたのに……」
長い前髪に隠れた表情は、隣に座る私からは見えない。
でも、今の彼がどんな顔をしているのかはわかる。泣いている。涙はもう、流れていなくても。
「弟さんに……相談してみたらどうですか? 弟さんだって、いきなり後継ぎとか言われて戸惑っているかもしれません」
できるだけ落ち着いた声で言ったつもりだったけど、たぶん私の緊張が繋いだ手から伝わったのだろう。
桂さんは横目で私をちらりと眺め、それから小さく鼻で笑う。
「お前がそれを言うの?」
あからさまに馬鹿にした、見下すような冷笑を向けられ、私は一瞬言葉に詰まる。
桂さんはすぐに私から目を逸らすと、はあ、と呆れたようにため息を吐いた。
「僕が子どもの頃に両親は離婚して、弟は母親についていった。偶然顔を合わせる以外、僕とあいつは没交渉だ」
「そうですか……」
「あいつはずる賢いんだよ。両親の離婚だってあいつが全部仕組んだものだ。欲しいものだけ持ち逃げして、いらないものは僕に押しつけて。挙句、今更になって、僕から居場所まで奪っていこうだなんて……」
そこで言葉を切り、正面を向いたままの桂さんの瞳が、ぎょろりと私へ向けられる。
「――代わりのものを貰わないと、割に合わない。そう思うだろ?」
*
桂さんが電話を一本かけると、受付にいた女性の方がコンビニで肌着を買ってきてくれた。
あまりにも申し訳なくて必死に頭を下げる私に、女性は苦笑してこっそり言う。
「中原さんがいらっしゃるようになって、桂様、とても穏やかになられたんです。だから正直、中原さんに来ていただく方が、私たちとしても助かるんですよ」
わかりましたとも困りますとも言えず、私も結局苦笑を返す。そのまま部屋へと案内され、簡単な説明を受けた後、ようやく一人になった私はベッドに大の字になった。
全身の疲労感がひどい。
気を抜くとこのまま眠ってしまいそうで、気合を入れて起き上がると備え付けのシャワールームに入る。妙に豪華なこの部屋は、どうやら付き添い用の宿泊部屋ではなく特別病室のひとつらしい。桂さんのお部屋よりは狭いけど、ホテルのような調度品が一通り用意されている。
(鍵は……ないよね。病室だもんね)
手早くシャワーを済ませ、パジャマ代わりに貸してもらった入院着に袖を通す。桂さんと同じ格好だ。
さすがに同じ部屋で眠るのは拒否させてもらったけど、あの顔はたぶん、一緒に眠ってほしかったのだろう。
(樹くんは何をしているのかな)
泊まることになりました、とすでにメッセージは送った。もう三十分くらい経つけど、未だに既読も返事もない。
私は明日、彼の目を見て話すことができるのだろうか。とりあえず目の前の事態の対処をと、桂さんの傍にいる道を選んでしまったけれど、未だに私の心の中には不安も迷いも残っている。
私は樹くんの恋人。
でも、桂さんをこのまま放っておくこともできない。
(だめだ。寝よう)
ふかふかのベッドにもぐりこんで、心を守るみたいに身体を丸めた。どうせきっと、寝付けない。でも、少しは横にならないと、この夜は明けてくれないだろう。
自分の呼吸の音を聞きながら、考えるのは樹くんのことばかりだった。
緩やかなまどろみの中から、突然意識が浮かび上がってくる。
音が聞こえる。足音だ。床の上をゆったりと這うように、ぺた、ぺた、と平たい足音。
私は目をつむったまま、寝たふりを決め込んだ。音はどんどん近づいて、私の間近でようやく止まる。
「百合香」
無音の夜闇を震わせながら、ちいさな声が私を呼ぶ。
肩に触れた手を振り払うように、私は大袈裟に寝返りを打った。布団をかき寄せ、身体を隠す。彼の位置からは私の背中しか見えていないはずだ。
桂さんは……何も言わない。丸めた背中にひしひしと、痛いほどの視線を感じる。
やがて、軋んだ音を立ててベッドが少し揺れ動いた。私の背中に腰をくっつけて、彼はベッドに座ったらしい。足の揺れるかすかな振動が触れた背中から伝わってくる。
「寝たふりをするつもりなら、僕はそれでも構わない。そうやって静かに僕の話を聞いていれば良い」
かすかに聞こえるかすれた吐息。
時計の針が進む音が、やけに大きく耳に響く。
「好きだよ」
日中のうろたえようがまるで嘘だったみたいに、彼は天使のかんばせにぴったりの優しい声で言った。
「あの時、腎臓の話に結びつけて茶化した風に言ってしまったのを、ずっと後悔していたんだ。告白なんて初めてだったから、僕も少し照れてしまってね」
「…………」
「たとえ移植ができなくても、僕はお前のことが好きだ。ずっと隣にいてほしいと思う。僕がお前に与えられるものは、なんでも与えてやりたいと思う」
私は、寝ている。
何も聞いていない。
桂さんが、眠る私に向かって独り言をこぼしている。ただ、それだけ。
「夢の中の出来事として、すべて無かったことにするつもりなんだろ?」
唐突に混ざった露骨な嘲笑は、想定よりずっと間近で聞こえた。
内心驚く私の耳元に、小さく笑う桂さんの吐息がかかる。
「甘いな。お前の考えなんて僕はとっくにわかっているんだ。そうしたいなら好きにすればいい。僕だって好きにさせてもらう」
ぎし。ベッドが軋む。
私の身体の右が、左が、交互にせわしく沈んでいく。病室の橙の常夜灯のあかりが、何かあたたかいものに覆われ、陰っていく。
目を開けちゃいけない。それだけきつく自分に命じて、私は頑ななまでに寝たふりを決め込んだ。目に見えなければ、無いものと同じ。感情だってきっとそう。
(――あっ)
あまりにも、あまりにも優しく押し当てられた唇は。
固く結んだ私の唇に、ただ静かに触れただけだった。その気になれば無理やりこじ開け、中に押し入ることもできただろう。でも、彼は触れるだけ。
唇が離れていくと同時に、触れ合っていた熱がほどけて途端に胸が寒くなった。それでも私は布団を握り、最後の最後まで寝たふりを演じた。
「夢じゃ終わらせないよ」
身体を覆う熱が離れていく。
静かな足音が遠ざかり、ドアの閉まる音が聞こえてもなお、私はきつく目をつむったままその場から動けなかった。
結局ほとんど寝つけないまま、カーテンの合間から差し込む朝日で身体を起こした。
いつもの癖でスマホを手に取り、夜中のうちに樹くんから返事があったと気づく。わかった、というとても端的な言葉が、不思議なほどに心を刺激してなんだか涙が出そうになる。
帰り支度をして部屋でうとうととしていると、今度はきちんとノックをしてから桂さんが入ってきた。昨夜のことなどそれこそ夢みたいに平然とした桂さんに対し、私の表情はどんより曇ったまま彼の足元を見つめるしかできない。
「帰るんでしょ。下まで送るよ」
ここで断るのもおかしい気がして、彼と一緒にエレベーターに乗った。いつもより重力を強く感じる。寝不足のせいか、胃のあたりが気持ち悪い。
「今日はひとまず返してやるけど」
どこか遠くを眺めながら、桂さんは上機嫌に言う。
「いつか必ず、お前は僕のもとへ戻ってくる」
「……どういう意味ですか?」
「別に」
睨むみたいになってしまった私へ余裕綽々の笑顔を返し、桂さんは軽い足取りでエレベーターを降りていく。
仕方なくその後を歩き出した私は、外の道路から病院めがけて一人の男性が走ってくる姿に気がついた。自動ドアが開くのも待ちきれないといったように、彼は手でドアをこじ開けながら息を切らして駆け込んでくる――
「樹くん……!?」
言ってから、頭が一気に真っ白になった。何も見えない。聞こえない。立っている感覚すらない。ただ、足元に暗くくすぶっていた不安が、ここぞとばかりに這い上がってくるのがわかる。
こんな時間に迎えに来るなんて、一言も書いていなかった。そもそもこの病院にいたことすら私は教えていなかったはずだ。
震える足が逃げ道を探して無意識に一歩後退する。私のかかとのすぐそばで、崖が崩れていく音がする。
「なん、で」
かすかに上ずった樹くんの声で、視界が現実を取り戻す。
でも、私の想定とは裏腹に、樹くんは私ではなく斜め前の桂さんの方を見ていた。見開かれた切れ長の瞳。二の句を継げず開いたままの口。驚愕と絶望の入り混じるその視線を真っ向から受けて、桂さんは……微笑んでいる。
「樹くん、あのっ」
駆けだそうとした私の行く手を、桂さんの腕が遮った。思わず足を止めた私の、戸惑う頬を片手で掴んで、桂さんは――樹くんに見せつけるみたいに、噛みつくようなキスをする。
んっ、とくぐもった声が漏れ、私は必死に抵抗する。それすらも楽しむみたいに桂さんはくくと喉で笑って、私の唇を解放するとともに勢いよく背中を突き飛ばした。
二、三歩つんのめり、そのまま床に膝をついた私は、視界の端によく知る黒いスニーカーの紐を見た。全身の毛が途端に逆立つ。怖くて、怖くて、顔を上げられない。
私は……樹くんを裏切った。
「行けよ、百合香」
桂さんの冷めた声が、どこか遠くから聞こえてくる。
彼は心から愉快そうに笑いつつ、最後に甘く囁いた。
「これで、キスは二度目だね」
*
「――説明してくれ」
生きた心地がしない。
いや、いっそ死んでしまえればいいのかもしれない。
自分がどうやって帰ってきたのか、まるで思い出せそうにない。ただ、気づけば同棲している家の、リビングの隅に震えながら立っていた。
「……ごめんなさい」
「説明を」
ソファに腰かけた樹くんは、感情のない目で私を見る。
「してほしい」
「……はい……」
震える口を叱咤しながら、私は少しずつ言葉を吐き出す。ストーカーから逃げているとき、偶然助けてもらったこと。何度かお見舞いに行くうちに、少しずつ親しくなったこと。
「そんなに前から」
半ば唸るような声でそう低く漏らしてから、樹くんは片手で額を押さえ目を閉じた。眉間に深く刻まれたしわ。苦しそうに漏れる吐息。
桂さんのご家族のことや、飛び降りると言われた件についても、洗いざらい話してしまった。今の私にできることは、すべて打ち明けて許してもらうこと以外にない。桂さんだって、咎める権利はないはずだ。
見たこともないほど血の気のひいた顔で、樹くんはずっと俯いている。
「あの言葉は、本当なのか」
――これで、キスは二度目だね。
桂さんの嘲笑が蘇る。そして、昨夜の言葉も。夢じゃ終わらせないよ、と笑って言い添えられた真意に、どうして私は最後まで気づけなかったのだろう。
樹くんを呼びつけたのも桂さん? だったら一体、何のために?
真っ青な顔で黙る私を、樹くんは肯定ととらえたらしい。膝の上で組んだ指先に青筋が浮かんでいる。ぱき、と何かの割れる音がして思わず視線をそちらへ向けると、樹くんの左親指の爪に一筋の亀裂が入っていた。
「……桂と寝たのか?」
「違う!」
張り裂けるほどの大声にも、樹くんは眉一つ動かさない。
でも、これだけは否定しなければいけない。私は脂汗を流しながら、必死になって言い募る。
「それだけは絶対に無い! 寝るときだって別の部屋を借りたし、シャワーも備え付けのを使った。さっきのだって……その……寝ているときに、……」
ああだめだ。馬鹿な女。寝ているときにと言ったところで、私は全部わかっているじゃないか。夜に紛れた桂さんの訪れを、すべて夢の中の出来事だと、自分に都合よく変えようとしたのは紛れもなく私の方じゃないか。
鼻につんとした痛みが走り、血のにじむほど唇を噛む。堪えろ。泣くな。私は泣いていい立場じゃない。
本当に泣きたいのは樹くんの方だ。
「どうして」
両手の中に顔を伏せた樹くんが、絞り出すような声で言う。
「どうして、桂なんだ……」
……その声が、あまりにもよく似ていたから。
私は昨日のことを思い出す。僕はここから飛び降りる、と虚ろな瞳で言った桂さんも、同じような声をしていた。
「桂さんのことを知ってるの……?」
私のか細い問いには答えず、樹くんは沈黙の後、長く深いため息を吐いた。眠れない夜を何度も経たような、色濃い疲労のにじむ顔。半ばまで伏せた切れ長の瞳に、底知れない闇が匂い立つ。
「百合香」
喉元に剣を突きつけられた思いで、私はその場で縮み上がる。
樹くんはゆっくり足を開くと、自分の足の間を顎で指した。
「座って」
寒い、と思って目が覚めた。
閉まり切ったカーテンが、エアコンの風に吹かれて揺れている。かすかに差し込む光は朝と呼ぶには少し暗い。空模様を見ようと腕を伸ばして、自分が裸であることに気づく。
何も、下着すら着ていない。これで夜通しエアコンなのだから、寒いのも当然だ。
身体の節々がひどく痛む。倦怠感と、軽い頭痛。ああ、と声を出そうとして喉に何かがつっかえた。
(私は……そうだ。樹くんを裏切ってしまったんだ)
昨日は正直ひどかった。お互いにどうしたらいいのかもわからず、やりきれない思いを樹くんはぶつけ、私はただただ受け入れた。
首、喉、胸、腿……身体中にちりばめられた赤い痕。いったいいつ気を失ったのか、それからどれほど時間が経ったのかもわからない。でも、きっとまだ何も解決していないだろう。
とりあえず服を着ようとして、すぐ違和感に気がついた。服がない。下着の類は残されているけど、それ以外の洋服がクローゼットから消えている。
まさかと思い部屋中を探してみると、洋服だけじゃない、スマホやパソコン、財布もなくなっていることがわかった。
嫌な予感に血の気が引いていく。
(まさか)
仕方なく肌着だけを着て、そっとリビングへ進んでみる。樹くんはソファに横たわり、疲れた顔でぼんやりと虚空を眺めている。
小さな声で「おはよう」と言ってみたけど、彼からの返事はない。私は彼の横をそうっと通り過ぎ、忍び足で玄関へ向かった。
靴も……ない。薄々予想していたとはいえ、やっぱり胃が痛くなってくる。
「あの……樹くん。私の服とか、スマホとかって……」
樹くんは唇を開いたまま、返事の代わりにゆっくりと瞬きをする。知らない……わけではないようだ。
(樹くんが隠した? どうして……?)
混乱する私を無視して、樹くんは緩慢に身体を起こす。背もたれに寄りかかり、軽く天井を仰ぎながら、彼はたばこを吸ったときみたいな細く長いため息を吐いた。
「……百合香は、もう、出かけなくていいから」
それは命令というより、独り言のように聞こえた。
「……どういうこと?」
「きみは選択を二度間違えた。一度目は里野で、二度目は桂。だから三度目が起きないように、しばらくここから出ないでもらう」
「……私、仕事が」
「休職届を用意した。俺の方も、しばらく休職する」
「なんで」
勝手なことを――と、怒りの言葉がぎりぎりのところで喉の奥へと戻ってしまったのは、やっぱり私にも後ろめたい気持ちがあるからに他ならない。
身から出た錆だと言われれば、確かにそのようにも思えてしまう。でも、無断で服や靴を取り上げて、勝手に仕事を休ませて、外との連絡も取らせないだなんて……あまりにも異常で非常識ではないだろうか。
「普通、ここまで、する……?」
震える声で呟く私を、樹くんは一瞥する。
「俺はするよ」
それから彼はうっすらと微笑み「愛しているからね」と言い添えた。
部屋の中は自由に歩ける。お風呂もトイレも、飲食だって制限はない。
ただ、外へは出られない。スマホとパソコンも取り上げられて、連絡を取る手段もない。
軟禁。
箱庭の平穏の中で、私は今日も目を覚ます。
(今日で何日目?)
社長や上司はどうしているだろう。突然休職届なんて出されて、きっと戸惑っているはずだ。
申し訳なさで胃が痛むと同時に、樹くんへの抗いがたい拒否感が胸に渦巻いていく。事の発端が私にあるのは十分に理解している。結局はすべて私のせい。でも私のしたことは、ここまでされなきゃならないほどのことだったのだろうか。
隠しようのない人権侵害を甘い言葉でコーティングして、樹くんは夜ごと私に愛していると吹き込んでくる。
その言葉に今まで通りの素直な悦びを覚える反面、彼の秘める途方もない狂気におののいている自分がいる。
(私は本当にこのままでいいの? これが、私の幸せなの?)
いつ終わるかもわからない軟禁生活の中で、自問自答をいったい何度繰り返しただろう。
樹くんは相変わらずリビングのソファでまどろんでいる。この家の出口は玄関とベランダの二つしかなく、ソファの上はその両方を同時に見張れる位置になる。
警戒……されているのだろう。私がまた、何も言わずに桂さんのもとへ行くのではないかと。
ぶかぶかのジャージの裾を引きずりながら、大きなため息が口からこぼれた。左胸に『波留』と刺繍されたジャージは、肌着だけの私が寒そうにしていたら樹くんが渡してくれたものだ。
ジャージはいいから自分の服を返してほしいとお願いしたけど、樹くんは悲しげに微笑むだけで何も答えてはくれなかった。結局私は、樹くんのにおいの沁みついたこのジャージをまとい、自分の部屋で死体みたいに何もせず寝転がっている。
(本当に、これでいいの?)
時計の針だけが私をあざ笑うみたいに刻一刻と過ぎ去っていく。
美咲。美咲に会いたい。新潟のお父さんお母さん。一華さん。椎名くん。もうこの際、誰でもいい。
私の現状を客観的に見て、誰かに判断してほしい。これは、私が悪いせい? それとも樹くんがおかしいせい?
ふいにリビングから足音が聞こえて、私は狙われた小動物みたいにベッドの上で飛び上がった。玄関の鍵の開く音。まさかと思いそっと様子を伺うと、さっきまでソファで横になっていたはずの樹くんの姿がない。
(そうか、ゴミ捨てだ。今日は燃えるゴミの日だから、たぶんゴミ捨て場に行ったんだ)
軟禁生活が始まって以来、樹くんの姿がこのリビングから消えることはほとんどなかった。でも今、樹くんはこのマンションのすぐ傍にあるゴミ捨て場まで向かっている。
逃げるなら、今しかない。焦る私の心がせっつく。
(でも、逃げてどうするの?)
わからない。でも逆に、ここで逃げなくてどうするの?
樹くんの心が氷解するのを待ち続ける? ひたすら従順に、彼の望む私になって、樹くんが何もかも忘れるまで何年も何十年も待つつもり?
(――逃げよう)
決めてしまえば、速かった。
私はベランダの掃き出し窓を開け、勢いのまま手すりに足をかける。
そのまま半身を外に出したのだけど、想像以上の四階の高さに背中がぶるっと震えあがった。これは、着地に失敗したら……いや、失敗しなくても死ぬかもしれない。
道路脇には植え込みがある。あそこにうまく落ちることができればと考えたけど、そもそも私の目的は脱出ではなく逃亡だ。命だけは助かったけど足を骨折して逃げられませんでした、なんて笑い話にもなりはしない。
もたもたしている時間はない。私はベランダのコンテナボックスを開けて、大急ぎで中身をひっくり返した。予想していたものを発見し、ほんの少しだけほっとする。市販の非常用縄はしごだ。
(樹くんが戻ってくる前に、急いで逃げないと)
見よう見まねではしごを設置し、大きく息を吸い込んだ。しっかりと縄を握りしめ、できるだけ下を見ないようにしながら一歩一歩降っていく。指に食い込む縄が痛い。背中を撫でる風が怖い。でも私には時間がない。
「あっ」
その瞬間、突然右手が空を掴んで身体がぐんと引き剥がされた。手汗で滑った、と気づいたときにはすでに遅くて、身体が宙に浮く感覚とともに視界がスローモーションになる。それが一瞬、まばたきをする間もなく加速したと思うと、内臓が飛び出そうなほどすさまじい衝撃に打たれた。
落ちたんだ。
びりびりと身体がしびれているけど、思ったよりも痛くない。たぶんうまく植え込みの上に落下することができたからだろう。でも、これで終わりじゃない。急いでここから逃げ出さないと、彼に見つかったらすぐ連れ戻される。
枝葉で切って傷だらけの足を引きずりながら、私がよろよろと歩道へ出ると、まるで狙いすましたかのように傍らの道路に車が停まった。助手席のドアが開いて、スーツ姿の男の人が――どこかで見たことがある人が、顔色一つ変えずに近づいてくる。
「こちらへどうぞ。桂様がお待ちです」
ああ、思い出した。この人、桂さんの病室から出てきた人だ。
とても大きな、でも、比較的新しい和風の豪邸。警備員付きの大きな門からこのお屋敷の玄関に至るまで、車でずいぶん走った気がする。
眼鏡の人に連れられるまま、お屋敷の奥の部屋へ通される。明治時代の建物みたいなモダンな雰囲気の応接間では、豪奢な刺繍の施されたソファに桂さんが一人で座っていた。
「言ったでしょ。僕のもとに戻ってくるって」
……すべてこの人の手の上だったかと、気づいても怒る元気がない。
「意外だな。僕はてっきり、お前は全裸で逃げ出してくるものだとばかり思っていたけど……下着だけじゃなくて服もきちんと与えてくれるだなんて、あいつは案外甘いんだね」
部屋の入り口で立ったままの私の前へ、桂さんはゆったりとした足取りで近づいてくる。腰に触れようとした彼の手を、私は今度こそ躊躇なく、いっさいの情もなく振り払った。
「冷たいね」
くく、と桂さんは喉で笑う。
私は彼の顔を思い切り睨むと、
「別に、あなたのもとに戻ってきたわけじゃありません」
挑みかかるような勢いできっぱりと言い捨てた。
「話を聞きに来たんです」
桂さんの天使の笑みが、より一層深くなる。
妙齢の家政婦さんが、紅茶と軟膏を運んできた。紅茶の柔らかな香りに包まれると途端に足の痛みを思い出し、私は脂汗を流しながらそろそろとソファへ腰を下ろす。
頂いた軟膏を足の裏に塗り、膝に手を置いてじっとしていると、紅茶に唇をつけた桂さんがふぅと小さくため息を吐いた。
「なら、お望みどおり聞かせてあげよう。僕が知っているすべてのこと――」
喉が鳴る。
桂さんは、優雅に唇の端を釣り上げる。
「波留樹の秘密についてだ」
*
お前は『ドグラ・マグラ』を読んだことはある?
夢野久作の代表作で、奇書とも呼ばれる小説だ。興味があるならネットで調べてみるといい。
その内容は……心理遺伝。ごくシンプルに説明するなら「狂気は遺伝する」――かな。
平成の始め頃、東京からとある医大生たちが新潟へスキー旅行に出かけた。
泊まった先は小さな温泉旅館。そこで医大生の一人が、旅館の一人娘に恋をする。
自分と一緒になって東京へ行こうと口説く男だが、娘は頑として答えない。なぜなら娘は経営難の実家の旅館を存続させるため、地元の巨大ホテルを運営する一族へ嫁入りすることになっていたからだ。
その結婚は娘の本意ではなかった。だが、娘は実家を守るため、泣く泣く自ら犠牲になる道を選んでいた。
義憤と愛情にかられた男は、自分の持てるすべてを駆使して娘を救おうと決意する。だが、男はまだ一介の医大生。知識はあれどできることは限られている。
そこで男は新潟のある有力な政治家に取り入り、秘書兼弟子という立ち位置に収まった。その上で、政治家の力とコネを利用し、時には非合法な手段も使って、娘の旅館を救う手はずをあっという間に整えた。
作戦は想定以上にうまくいった。娘の両親は感激し、これで娘を望まない結婚に送り出す必要はなくなると喜んだ。
娘は――正直なところ、男が少し怖かった。医師としての未来を投げ打ち、時に違法な手段に手を染めてまで、自分を守ってくれた男の真意が理解できなかったからだ。
『すべてはきみを愛しているからだ』
当然のように男は言う。そう言われれば娘とて悪い気はせず、両親からの後押しもあり、彼女は男の愛を受け入れることを決意する。
かくして男は娘を手に入れ、そのまま議員秘書として新潟に残ることになった。
愛し合う二人の結婚生活は、初めは順調だった。持ち前の知識と度量を活かし、男は地方議員に立候補。新潟の政治家としてみるみるうちに頭角を現す。そして娘も妻として、献身的に夫に尽くした。
さて、順調に見えた二人の間に、やがて違和感が芽生え始める。きっかけは妻が近所の花屋で働きたいと言い出したことだった。
幼い頃から花屋で働くのが夢だったと言う妻に対し、男は小遣いを倍にするから家にいてくれとこいねがう。
必死に説得を試みる妻だが、夫は頑として首を縦に振らない。それどころか裏から手を回し、件の花屋を営業停止に追い込んでしまった。
困った妻は花屋を助ける方法を探し、友人に電話をかけ始めた。すると今度は、男は妻の部屋の電話線を切ってしまった。激高する妻に男は平然と囁きかける。
『きみにとって最善の選択肢だけを用意するためだ』
……外の世界には危険が多い。愛する妻を守るためなら、屋敷の中に囲ってしまうのが楽で確実というわけだ。
『愛しているよ。何もかも、きみのためを思ってやっているんだ。どうか俺を信じてほしい』
甘い言葉を吹き込まれながら日に日に強くなっていく束縛に、妻はいよいよふさぎ込むようになっていく。
そしてついに、夫婦の仲を決定的に壊す出来事が起きる。
ある時、男は政治家仲間から『お前の嫁はいつ後継ぎを産むのか』と訊ねられた。
せっかく築き上げた政治家としての地盤を、一代で終わらせるのはしのびない。それに、いずれ死ぬであろう自分と愛する妻の墓を守るため、男には子孫が必要だ。
この話を妻にすると、彼女は子どもを産みたがった。子どもが生まれればこの薄暗い屋敷の中にも新しい風が吹いてくれるだろうと――そして男の束縛も多少は弱まってくれるだろうと、彼女は無邪気に期待した。
ところが男は曖昧に笑うだけで答えない。
お前にはまだピンとこないかもしれないけど、現代の日本においても出産は十分死因になり得る。また、母体に重大な後遺症が残ったり、心身に消えない傷痕がつくこともある。
男は妻を愛していた。傷つけたくないと思った。まして、自分が子どもを望んだ結果、妻の身体に傷が残ったり、あるいは死んでしまったりしたら――二人の子どもをその手に抱く喜びより、愛する妻を失う恐怖の方が、男にとっては何百倍も耐えがたいことのように思えた。
だが妻は子を望んでいる。そして自分にも子が必要だ。
他所の女を抱くか? いや、そんなことはしない。なぜなら男は……繰り返すけど、この世でただひとり、妻だけを深く愛していたからね。
では、男はどうしたか?
婦人科の病気の治療と偽り、妻の身体から無断で卵子を摘出。自分の精子と受精させ、金で雇った代理母の胎内でそれを育てさせたんだ。
……驚いた? 意味は、理解できる?
こうすれば確かに、妻にリスクを冒させないまま、自分と妻の子を手に入れることができる。
大した合理性だよね。吐きそう? はは、ごめんね。
さて、代理母の胎内で子どもは順調に育ち、妻がその存在をあずかり知らぬまま無事にこの世に誕生した。男の子だった。
男は屋敷の離れに人を雇い、秘密裏に子どもを育て始める。だが、口さがない家政婦たちにより、その存在はあっという間に妻の知るところとなる。
自らのまったく関与しないところで自分の血を引く子どもが生まれたと知り、妻は驚きのあまり半狂乱になった。なぜ事前に相談しなかったのかと、何を考えて勝手な行動をとったのかと、まくしたてるように男をなじった。
男は平然と答えた。
『驚かせてしまったのは申し訳ない。でも、俺の行動はすべてきみの幸せのためなんだ』
……大丈夫? ついてこられてる?
まあ、紅茶でも飲みながら聞いていてよ。
男の考えは単純だ。二人の子がほしい。でも妻に産ませたくない。だから他の女を使った。たったそれだけのこと。
妻だって今は自分で産むという常識に囚われているが、時間が経てばわかるだろう。いつかはきっと夫の判断に感謝する日が来ると……そう思ったんだろうね。
妻には男の考えが理解できなかった。彼女は自分が世の中の多くの夫婦同様、当たり前のように愛し合い、当たり前のように子を授かり、当たり前のように育てていけると思っていたからだ。
夫のことがわからなくなり、妻は心を病んでいく。夫への恐怖と嫌悪でぐちゃぐちゃになった彼女は、とある方法で夫への復讐を企てる。
夜、数か月ぶりに彼女は夫をベッドに誘った。夫は彼女がようやく自分と息子を許してくれたのかと喜び、誘いに応じる。
ところがそれは彼女の罠だった。与えられていたピルをわざと飲まずにいた彼女は、その一夜で懐妊する。念願叶って、彼女は自分の胎に子を宿すことに成功したわけだ。
今度は男が驚く番だった。多額の金をかけて産婦人科医を抱き込み、秘密裏に人工授精を行ったのも、すべては愛する妻の身体に危険な影響を及ぼさないため。
だというのに彼女は自ら妊娠し、堕胎するなら自分も一緒に死ぬと豪語する。二人は大げんかをしたが、結局胎内の子どもの成長を止めることはできず、やがて彼女は帝王切開で男児を産む。
こうしてこの歪んだ家庭に、二人の兄弟が誕生した。
弟の誕生を皮切りに、男の愛情はますます狂気を増していく。男は弟を許せなかった。妻の身体に消えない傷をつけた元凶だと考えた。
もちろん妻はそのことに気づいていた。彼女が弟を産んだ理由は、言ってしまえば夫への復讐のため。彼女は夫の異常な束縛と弟に対する敵意を恐れ、弟だけを連れ一時アメリカへと避難する。
しかし、妻に監視をつけていた男の手で連れ戻され、男は新たにベビーシッターを雇い妻と弟を引き離した。兄は……まあ、最初からシッターに育てられていたよ。妻にとって兄は他人の子どもにも劣る異物。産んだ覚えのない息子なんて、薄気味悪い存在でしかなかっただろうからねえ。
さて、物心ついた頃からアメリカで生活していた弟は、日本語がまったく喋れないまま日本の幼稚園へ放り込まれた。当然周囲に馴染むこともできず、だんだん園から足が遠のき、人の少ない遠くの公園へ通うようになる。
弟のシッターは子を取り上げられた彼の母親の憎しみを恐れ、必要以上に弟に関わろうとはしてこない。結果として、弟は常にひとりぼっちだった。
やがて弟はその公園で、一人の女の子に出会う。彼女は近所に住んでいる子で、お互い言葉はわからなかったけど、不思議と二人は馬が合った。
公園は……とても広くてね。手前側に遊具が置かれていて、奥には木がたくさん植えられた小さな森のようになっていた。二人は毎日のようにその公園で一緒に遊び、そこら中に咲く山百合を摘んでお互いの髪に差しあった。
友達はいない、兄とは疎遠、父の目があり母に甘えることすらままならない弟にとって、彼女の存在はあっという間に大きく膨れ上がっていった。
あるとき、いつものように遊ぶ二人の子どもの周辺に、見慣れない大人の男が数名近づいてきた。男たちは、当時政治家として悪名を上げていた父親から金をむしり取るため、身代金目的で弟を誘拐するつもりだった。
山百合の咲く公園の中を、二人は必死に逃げ惑う。もっとも、女の子の方は事情がまったくわからないから、突然追いかけっこが始まったくらいにしか思っていない。でも弟はそうじゃない。自分のせいで……いや、自分の父親のせいで、大好きなこの子まで危険な目に遭わせてしまっていると苦しんだ。
最終的に、小学校から帰る途中の兄が車からその姿を見つけ、誘拐事件は未遂に終わり男たちは逮捕された。でも弟は『自分が傍にいるとまた彼女を危険に晒してしまう』と考え、山百合の花を少女に渡し英語で永遠の別れを告げる。まあ、彼女は英語がわからないから、また遊ぼうねとにこにこ笑って、自分の持っていた山百合を代わりに弟に渡していたけどね。
『お前は、どれだけ葵に迷惑をかければ気が済むんだ!』
屋敷へ戻った弟を待っていたのは、父親による平手だった。弟が誘拐されそうになったと聞き、ただでさえ心を病んでいた母が過呼吸を起こしてしまっていたんだ。
父親は弟が大事に持ってきた山百合の花を奪い取り、かかとで何度も踏みつぶす。茎が折れ、蕾が潰れ、白い花弁が茶色く汚されていくのを見て、母が泣きながら父の足に縋りついて止めようとする。
『やめてください! 樹は何も悪くないじゃないですか! この花は……樹の初恋だったんですよ!?』
悲痛な叫びも父の耳には届かない。お前さえいなければ妻は傷つかずに済んだ。あの時だって。この時だって。お前さえいなければ。言葉を聞き取ることはできなくても、何を言われているかは理解できた。容赦なく注がれる怨嗟の言葉を、弟はそのまま繰り返す。お前さえいなければ。お前さえいなければ。
『お前さえいなければ、百合香が危ない思いをすることもなかったのに』
…………。
ぐちゃぐちゃに潰れた山百合を見下ろし、弟はついに発狂した。五歳児だよ? 大人の男に勝てるわけがない。でも戦うんだよ。飛びついて、ひっかいて、指をかみちぎろうとする。そして父も少しの躊躇もなく弟へ拳を振り上げる。
椅子が飛んで花瓶が割れた。鏡が倒れて破片が飛んだ。悲鳴をあげる母を無視して、父と弟は暴れ回る。
父は弟を『妻を傷つける存在』として、弟は父を『彼女を危険な目に遭わせた元凶』として、シャレにならないほど二人は純粋に憎しみあっていた。二人の原動力は同じだ。愛情だよ。好きな女への溺れるほどの愛が、あいつらを対等に狂気へと落とし込んだんだ。
父に掴みかかる弟を見たとき、兄は正直恐怖した。睨みあう父と弟の目がまったく同じものだったからだ。父が母に狂ったように、弟は山百合に狂っている。この二人は同じ生き物なのだと、兄はこのとき確信した。
父子の喧嘩は最終的に夫婦の離縁で幕を閉じた。父は絶望し、考え直すよう何度も母を説得したけど、母の決意は揺るがない。
『それがきみの幸せになるなら』
やがてすべてを諦めた父は、失意のままに愛する女に別れを告げた。結婚なんて紙切れ一枚。愛する女を繋ぎとめる鎖になんてならなかったわけだ。
こうして母と弟は家を出て、新たな姓とともに人生を歩み出す。
そして荒れ果てた屋敷には、父と兄とが残された。
*
「さて、質問だ」
紅茶をひとくち飲んでから、桂さんは静かに言う。
「お前は樹に行動を制限されたことはあるかな? 勝手に仕事を辞めさせられたり、転職を促されたことは? あるいは転居をコントロールされたことはある? 居場所を無断で把握されたり、外部との連絡を制限されたり……軟禁だって、ふふ、されたことがあったりしてね」
過去の記憶がよみがえる。そのとき感じた恐怖とともに。
「樹は父と同類の狂人だ。『幸せ』という免罪符のもとにどんなことでも平気でやる。お前の意見なんて無関心。だってあいつが愛しているのは、お前じゃなくてお前を愛する自分自身なんだからね」
バラバラに散っていたパズルのピースが少しずつ手元へ集まり始める。
「もしお前がこのまま樹と付き合い続けたとして、どう? あいつと二人で幸せな家庭を築く姿を想像できる? 樹は結婚のことをどう言っていた? 出産は? お前が子どもを産む未来を極度に恐れてはいなかった?」
でも私……こんな絵ができるなんて、全然、少しも考えてなかった。
「樹はおそらく自分の秘密を『頭のおかしい父親がいること』程度にしか思っていなかっただろう。でもね、実際はそれだけじゃない。『頭のおかしい父親と同様の狂人である自分自身』。これこそが、本当に隠されていた――樹自身も気づいていなかった秘密の正体なんだよ」
「ストップストップ! 一旦終わり!!」
手を叩く音とともに部屋へと押し入ってきたのは、まなじりを釣り上げた椎名くんだった。桂さんはわずかに眉を上げ、つまらなそうに椎名くんへ目をやる。
「……ああ、お前の車ならうちの敷地まで入って来られるからね。消えな玲一。お前の出る幕じゃないよ」
「相変わらず手厳しいね! でも、悪いけどこっちも退けないんだよ」
椎名くんは私の隣に腰かけると、呆然と俯く私の両肩を強い力で乱暴に掴む。
「中原! ちょっと冷静に考えてみてよ。今の話って結局は全部桂くんの主観でしょ? 波留と波留の父親が似ているように見えたってだけで、実際二人は別々の人間なんだから」
「外野が無責任なことを言うなよ。百合香はもうわかってる。樹は父と全く同じ、溺愛という名の病に罹っているのだとね」
「だから決めつけるなって! 桂くんは二人を別れさせたいだけなんだろ? だいたい遺伝するっていうなら、桂くんだって波留と立場は同じじゃないか!」
「僕と樹を一緒にするな。僕は今までずっと父の姿を反面教師として見てきたんだ。自分の中の衝動をコントロールすることくらいできる。五歳の頃に僕らを捨てて以来、ずっと他人みたいな顔で生きてきた樹と同じにされるのは癪だ」
ギッと奥歯を噛みしめた椎名くんが、獣のように桂さんを睨む。
桂さんは椅子にゆったり腰かけたまま、余裕の微笑みすら浮かべて私と椎名くんを眺めている。
「別に僕だって、何もかもをさらけ出せとは言わないよ。でも、樹が本当に百合香を愛しているのなら、自分の身内の話くらいは打ち明けるのが筋じゃない? それとも何? 今まですべて隠してきたのは、それが必要な秘密だからだと、……幸せでいるための秘密だからと言うつもり? ねえ、樹」
ひゅっ、と喉の鳴る音がする。
どこからも風なんて吹いていないのに、半ばまで閉じられていた扉がひとりでに開く。キィと嫌な音。差し込む光。小さく握りしめた拳が、かたかた、かたかた、震えている。
「『俺と父親は別の人間だ』と、お前は胸を張って言えるかな?」
――桂さんの言葉が終わるより早く、樹くんはその場から駆け出した。廊下へ飛び出した椎名くんが、波留、と大声を張り上げる。
私に見ることができたのは、彼の拳がせいぜいだ。そして走り去る足音を聞きながら、それを追いかけることすらできない。
なぜなら私は――想像してしまったから。
過分な愛に狂っていく夫婦。
異常な経緯で産まれる兄弟。
そのどれもが、決して他人事ではないと……波留樹ならやりかねないと、ほんの一瞬でも思ってしまったから。
「追えよ中原! なんで追わないんだよ!」
椎名くんに胸倉を掴まれて、私はふらふらと立ち上がる。
「お前が行かなきゃ意味がないだろ!? なあ! お前、今までどれだけ波留に愛されてきたと思ってるんだよ!?」
「……でも」
「でもじゃねえよ! さっさと行けよ! お前が行かなくて誰が行くんだよ! お前じゃなきゃ……」
がくがくと首を揺さぶる腕が、桂さんの手で止められる。
椎名くんは真っ赤な顔でしばらく桂さんを睨んでいたけど、やがて私を突き飛ばすと廊下の奥へと走っていった。
「あいつも馬鹿だね。いい加減諦めればいいのに」
私の身体を受け止めた桂さんは、涼しい顔で椎名くんの消えた方を眺めている。
彼は魂の抜けた私の身体をもう一度ソファへ座らせると、乱れた襟元を軽く正して額にそっとキスをした。
「落ち着くまでここにいればいい。僕はずっと傍にいるから」
優しく肩を抱き寄せられて、そのまま彼に寄りかかる。
桂さんの声を遥か遠くに聞きながら、私は自分のちいさな身体がどこまでも深い穴の中に落ちていくように感じた。底の見えない常闇の果てへ。深く、深く、どこまでも。
「嘘、ついたんですか?」
「うん?」
「『サーレくん』のこと。……だって、今の話だと」
公園で遊んでいた弟と、車の中からそれを見ていた兄。
これでは兄弟のうち、弟の方が『サーレくん』……私にあの山百合をくれた彼ということになる。
「そうだよ」
私の髪に頬をうずめながら、桂さんはあっさりと言う。
「ああでも言わないと、お前、僕のもとに通うのをやめるつもりだったでしょ」
「……気づいてたんですか?」
「まあね。お前を引き留めるためなら、僕だって嘘くらいつくよ」
でも、それ以外はすべて事実だからねと、桂さんは小さく笑う。すべて事実。口の中で言葉をゆっくり嚙み砕いても、喉やお腹がいっぱいいっぱいで何も飲み下せそうにない。
「私……行かないと」
「どこへ?」
「…………」
鼻先を私の耳元に押し当て、桂さんは小さくため息を吐く。
「まあいいよ。僕は樹や父とは違うからね。お前が外へ出たいと言うなら、どこへだって行かせてあげる」
桂さんが廊下へ声をかけると、少ししてから家政婦さんが小さな包みを持ってきた。風呂敷を広げ、真新しい靴とワンピースを取り出した桂さんは、私の身体にそれを押し当てて満足そうに微笑んでいる。
「帰ってきたくなったら連絡して。お前が来たら必ず通すよう、守衛にも言っておくからね」
桂さんの言葉に返事はせずに、私は与えられた服をそのまま着ると、重たい足を引きずるようにふらふらとその場を後にした。
半ば朦朧とした意識でも、家まではたどり着くことができた。
家、と自然と出てきた言葉に、また頭がこんがらがっていく。ここは樹くんの家。本当は私の家ではない。
(樹くんに会ったらどうしよう)
いったい何を話すつもりで、私はこの家へ帰ってきたのだろう。
また軟禁が始まったら? 今度は肌着まで隠されて、いよいよ二度と出してもらえなくなるかもしれない。
あるいはもっと激しい束縛が始まる可能性もある。それこそ、私の考えつかないような、危険なことだって。
でも、私の足は吸い込まれるようにいつものエレベーターに乗り込み、すっかり慣れきった足取りでいつもの部屋の前まで来た。
鍵が……開いている。
しんと静まり返った部屋。がらんとした玄関。ふと気づいて靴箱を開けると、私の靴がすべて綺麗に並べてしまわれていた。
樹くんの靴は、ない。
「樹くん」
返事がないのはわかりきっていたことだったけど、私は繰り返し名前を呼びながらリビングへ足を進めた。物音ひとつしない部屋の真ん中、ソファの前のローテーブルに、ファイルに綴じられた書類と一緒に小物がいくつか置いてある。
私のスマホだ。それにマンションの鍵。書類の方は、この部屋の入居にまつわるものらしい。
無意識に鍵を手に取ったとき、小さなメモがはらりと落ちた。
――今まで本当に悪かった。 樹
私は――
とっさに自分のスマホを手に取ると、すぐに樹くんへ電話を掛けた。3コール、4コール、5コール……すぐに出てくれないのはわかってる。でも、拳を握りしめてじっと待つ。
やがて、ぷつと小さな音とともに、コール音が鳴りやんだ。耳の痛むほどの沈黙の奥に、かすれた息遣いが聞こえてくる。
「……樹くん、あの」
『悪かった』
その声を聞いた瞬間、心臓が鷲掴みにされたみたいに鋭い痛みがほとばしった。
『謝って済む問題じゃないことはわかってる。今更言い訳なんてしない』
「……樹くん」
『桂の話は……すべて正しい』
私の声なんて聞こえていないみたいに、樹くんは苦しげに続ける。
『俺は父親と縁を切り、まったくの他人として生きてきたつもりだった。父が母に何をしてきたのか、母がどれだけ苦しんできたのか。子どもなりに全部理解した上で、ひとり決別した気になっていた』
「それは……」
『でも蓋を開けてみれば、俺が今まできみにしたことはすべて父の二の舞だ。俺は結局、あれだけ嫌っていた……憎んでいた父と同類の男だったんだ』
かける言葉が見つからない。
話をしたくて私の方から彼に電話を掛けたはずなのに、何を言いたかったか、言うつもりだったか、まったく頭に浮かばない。
『部屋については所有権をきみに移すよう頼んでおいた。家賃も当面の分はすでに支払ってある』
「待って」
『きみの会社にも連絡をして、話はすでにつけておいた。きみが心配するようなことは、正真正銘なにもない』
「今どこにいるの? 椎名くんの家?」
『これ以上きみに迷惑をかけたくない。俺が傍にいないことこそが、きみの幸せだと思うから』
息の詰まる音がする。
喉の震えが、瞳の熱が、電話越しに伝わってくる。
『もう――二度と、会わない』
その言葉だけを最後に残し、返事を待たずに電話は切れた。
かけ直しても数コールの後に留守番電話に繋がるだけ。話がしたいとメッセージを入れたけど、折り返しかかってくる気配はない。
スマホを片手で握りしめて、私はその場に立ちすくむ。頭の中をぐるぐると、樹くんの言葉が駆け巡る。
ひとりぼっちの部屋の中で、力なくソファに座り込む。
ここで私を抱きしめてくれた彼は、もう、どこにもいない。
*
デートに行ったショッピングモール。
一緒に買い物へ出かけたスーパー。
行き場をなくした私のために、迎えに来てくれたコーヒーショップ。
ふらふらと歩き回る街並みは今日も変わらず忙しなくて、私一人が時間の狭間に取り残されているみたい。背の高い後ろ姿を見つけるたびに足を止めて、でもその都度、彼がどこにもいないことを思い知る。
どうして彼を探しているのか。見つけたところでどうしたいのか。
自分でもわからないまま、私はひとり徘徊を続ける。
(幸せってなんだ)
自分が傍にいないことこそが、私の幸せだと彼は言った。
(なんなんだ)
そうだとしたら今までの私はずっと不幸だったのだろうか。
たくさんのことがあった。つらい思いや怖い思いもたくさんした。でも、決してそれだけじゃなかった。
だから私はこんな有様でも、未だに彼を探している。
「ばあっ」
突然目の前に甘い香りが広がって、目を白黒させてしまった。
視界いっぱいの百合の花。そして、その花をかきわけるように、見慣れた顔がうさぎみたいにぴょんと飛び出してくる。
「お久しぶり。元気では……なさそうですね」
「お花屋さん……」
いつの間にかこんなところまで歩いてきたらしい。桂さんのお見舞いへ行くときいつも通っていたお花屋さんは、今日も変わらず優しい笑顔で色とりどりのお花に囲まれている。
「ほら見て、今日届いた百合の花。しゃんしゃんしてるでしょう? だからこの香りをかげば、あなたもきっと元気になるかもって思ったのだけど」
そう言って、真っ白な百合の花束が再び顔へ突きつけられる。むせかえるほどの甘い香りが昔の記憶を刺激して、私は軽く口元を押さえてそっと花束を遠ざける。
「あっ、ごめんなさい。お節介だったかしら?」
「いえ……」
困った顔をするお花屋さんに、良心がちくりと痛む。人と話す気分じゃない。でも、向けられた好意を無下にしたまま立ち去るほどの気力もない。
「……あの、前々から思っていたんですけど、もしかして新潟生まれの方ですか?」
口先から飛び出した話題は、さして興味もなければ特段話が広がるわけでもない、非常に雑な振りだった。
案の定、お花屋さんはきょとんと目を丸くする。ああ失敗した。やっぱり黙って立ち去ればよかったと一瞬後悔したけれど、ほんの少しの間を置いて、彼女の表情がパッと花開くように輝いた。
「やだーっ、もしかしてお客さんも新潟出身!?」
「ええ、まあ……」
「あらあらもう、すごい偶然! ねえ、今日はお暇かしら? よかったらお店に寄っていって! 少しお喋りでもしましょうよ」
ああ、なんだかまずい展開だ。でも、おおばらとか、がっととか、なんぎいとか、ちょちょらとか、全部聞き慣れた新潟の方言だったんだもの。
少しお喋りでも、なんて言われても、正直全然そんなテンションじゃない。でも、こんに無邪気な笑顔で誘われると断る文句も見つからない。
仕方なく誘われるがままテーブルの傍に腰かける。いつも玄関口で花を買うばかりだったから、店内に入るのは初めてだ。あまり広くないお店の中では、あちらこちらに様々な花が、まるでジャングルか何かみたいに咲き乱れている。
少し青臭い草花の香り。ホースから流れるか細い水音。絶えず五感を刺激する環境は、今日に限って心地よい。余計なことが自然と頭に浮かぶのを防いでくれるから。
お茶を淹れるお花屋さんの背中をぼんやりと眺めていると、ふいに壁に掛けられた一枚の額縁が視界に入った。百合の写真……いや、絵かな? まるで本物のお花みたいに、とても色鮮やかで生き生きと描かれている。
「その絵が気になるの?」
私の前にお茶を出しながら、お花屋さんが笑顔で訊ねる。
「綺麗な絵ですね」
「ありがとう。私が自分で描いたものなの。息子が初恋の人からもらった、思い出の山百合でね。息子といっても、とっくの昔に成人しているのだけど」
わずかに息を吞み、顔を上げた私を見て、彼女は少しだけ恥ずかしそうに肩をすくめてみせた。
「私ね、バツイチなの。前の夫との間に子どもがいるのよ。……二人」
開かれたお店の玄関の外を、高校生の男の子たちが笑いながら通り過ぎていく。その姿を軽く目を細めて眺めつつ、お花屋さんの奥二重の瞳は彼方遠くへ向けられている。
「思い起こすと、大変な結婚生活だったなぁ。私は当時専業主婦どころか、家事も何もしなくていいと言われていてね。笑顔で生きてさえいてくれれば、俺はそれで充分だ、なんて。笑っちゃうでしょ? 気障すぎて」
「……愛されていたんですね、とても」
「そうね。でも、何もせずに食べさせてもらっている以上、私は彼に意見なんてできずにいた。彼は私を愛してくれたけど、あまりにも……重くてね。すれ違いにすれ違いを重ねて、結局私は息子と家を出たの」
緑茶の水面に俯く彼女の顔が映っている。
とても綺麗で、でも、少しくたびれた寂しい微笑み。
「離婚を決めたとき、彼は頼んでもないのに大変な額のお金をくれたの。私が生活に困らないようにって。別に、あの人が浮気をしただとか、そういう経緯の離婚じゃないのよ? なのにあの人、私を苦しめたのは事実だと言って、できることはなんでもする、なんて……」
そこで言葉を切り、彼女は小さくため息を吐いた。
「本当に……馬鹿な人だった」
焼けたアスファルトから湧き上がる空気がじわじわと気温を上げていく。
お店の前の交差点を横切ろうとした自転車が、前も見ずに駆け抜けた子どもにチリンと注意のベルを鳴らした。
「別れたこと、後悔してますか?」
静かに訊ねた私の目を見て、彼女は微笑むとかぶりを振った。
「それは全く。私たちには離婚以外の道はなかったと思う。私一人が我慢をすれば丸く収まったのかもしれないけれど、それでもきっと長続きはしなかったでしょう。私が彼のために苦しんだり、逆に彼を苦しませたり、傷つく必要のない存在を傷つけてしまったのは事実だからね。でも」
緑茶に触れた唇が、ふうと熱い吐息を漏らす。それから彼女は顔を上げて、くしゅっと気の抜けたように笑った。
「あの時もっとああしておけば、違う未来が待っていたのかしら……とは、思うかな。たとえば――」
*
「本当にここでいいんですか?」
怪訝な顔をする運転手さんに軽く頷き、私はタクシーを降りると水平線を見渡した。
静かに凪いだ穏やかな海。日はまだ高いけど、辺鄙な場所だからか人の姿は見当たらない。
石階段を少し降りると、広い浜辺が広がっている。私が一歩進むごとに、靴底の形にへこんだ砂浜が波にさらわれて元に戻っていく。
私はスカートを軽く押さえて、砂浜の真ん中に腰を下ろした。焼けた砂は少し熱いけど、思ったよりも心地よい。海風だって、コンクリートジャングルの街中に比べればずいぶん涼しいように感じる。
波が揺れている。
煌々と輝く太陽が、少しずつ海へと傾いていく。
何時間ほど経っただろう。やがて太陽の端が水面に触れて、海全体が淡い橙に輝いた。空の彼方から夜の帳がじわじわと幕を下ろし始めて、それに呼応するみたいに海からも闇がせり上がる。
夜が来る。
そう思ったとき、傍らから砂を踏みしめるかすかな足音が聞こえた。私は膝を抱え、海を眺めたまま、彼の足音が止まるのを待つ。
「いつまでそうしているつもりなんだ」
想像以上のなじるような声に、少しだけ笑いそうになってしまった。
私はゆっくり立ち上がると、お尻についた砂を払い落とした。水平線と砂浜を背景に、彼は――樹くんは、ひどく居心地悪そうな表情で立ちすくんでいる。
私と彼の間隔は、私の足で六歩程度。
手を伸ばしても触れられない、今の私と樹くんの距離。
「きみはずるい」
「なにが?」
「留守電のメッセージ。わかっているんだろう?」
――海浜公園で待っています。樹くんが来てくれるまで。
返事のない彼の留守番電話に、私が最後に入れたメッセージ。苦々しい顔をする彼を見つめ、私は少し微笑んで頷く。
「来てくれるって、わかってた」
こんなひと気のない夜の公園に、彼が私を一人にしておけるはずがない。
連絡の取れない、居場所もわからない彼ともう一度顔を合わせるための、たった一つの方法だと思ったから。
「話がしたいの」
「俺に話せることはない。桂が言ったことがすべてだ」
「樹くんにとってはそうかもしれないけど、まだ私の話は終わってない」
口を噤んだ樹くんは、険しい顔のまま私を見つめる。
彼に聞く気があるのを確認してから、私はいつになく落ち着いた、堂々とした声で言った。
「教えてもらったの。私たちには、きちんと最後まで話し合う勇気が足りなかったんだって」
波の音が聞こえる。
ざあ、ざあと寄せて返す中に、彼方を羽ばたく鳥の鳴き声が遥か遠くから入り混じる。
「私、今まで何度も樹くんのことを疑問に思った。私のことを好きでいてくれる理由も、私に隠し事をしている内容も、なんだろう、おかしいなって思いながら、ずっとずっと聞かずにいた。それは、樹くんのことを信用しているからだって言い聞かせていたけど、本当は違う。ただ、樹くんを信じたふりをして、現実から目を逸らしていただけだったんだ」
「今更話をしたところで、俺がきみにしてきたことは消えない。自己愛のまま勝手をして、きみを怖がらせ、傷つけた」
喉に溜まった膿を出すように樹くんは言い捨てる。
「俺は異常だ」
樹くんを狂人だと、頭がおかしい男だと、静かに嘲笑う桂さんの声。
きっと樹くんもその言葉を思い出しているのだろう。ひどく傷ついた彼の顔に、喉の奥が熱くなる。
「自分を正常という人がいるなら、私はそのほうが異常だと思う。多かれ少なかれ人にはみんな、どこかしら異常なところがあるよ」
「俺の異常さは常識の範疇を超えている。倫理的に狂っているんだ。どのみち俺はきみを幸せにできない」
「勘違いしないで」
彼の視線が持ち上がるのを待ち、私は強く断言した。
「私にとっての幸せは、私が決める」
樹くんの切れ長の瞳が、戸惑うように見開かれる。
「桂さんは自己愛だと言っていたけど、私、樹くんは本当に私の幸せを願ってくれていたんだと思う。ただ樹くんの幸せのものさしが、私のものとは違っていただけ」
「…………」
「そのものさしは……二人できちんと話し合えば、ぴったり同じにはならなくても、限りなく近いところまでなら合わせられると思うの。押し付け合わないで、決めつけないで、二人一緒に丁寧に重ねていけば、きっと」
私が一歩前へ進む。
びく、と指先を震わせた樹くんが、ゆっくり一歩下がろうとする。
「樹くん」
私は構わず距離を詰める。二歩、三歩、四歩、五歩。
そうしてあと一歩の距離まで来たとき、私はぐっと喉を逸らして樹くんの顔を見上げた。困惑しきった彼の表情。なんだかとても久しぶり。
「私のこと、好きですか?」
一瞬開いた彼の唇が、少し歪んでから閉じられる。泳ぐ視線を捕まえるみたいに、私は力強く彼を見つめる。
苦しそうな吐息が漏れる。喉まで出かかった言葉が飲み込まれる。樹くんは、せめぎ合う感情に必死になって抗いながら、やがて助けを求めるように潤んだ瞳を私へ向けた。
「……はい」
こんなに苦しい思いをしても、それでも私が好きなのだと。
彼の心が嗚咽する。告白というにはあまりにもつらく悲痛なその声は、ぬるい潮風に巻き上げられて白砂とともに散っていく。
私が右足を進める。樹くんは動かない。
左足を右に揃える。うんと見上げた彼の顔へ、壊れ物に触れるみたいに、そっと優しく手を伸ばす。
「私も、樹くんが好きです。だから」
頬に触れる。
この指先から私の意志が、彼の心に伝わるように。
「今度は一人で決めつけるんじゃなくて、私と一緒に悩んでほしい。一緒に並んで、手を繋いで、何度も何度も失敗して、そのたびに二人で相談しながらずっと隣で歩いていきたい」
それがきっと、幸せのものさしを重ねる方法だと思うから。
「二人で一緒に、幸せになりたい」
少しかさついた樹くんの頬には、涙の通った跡があった。私は人差し指の先で乾いた涙をなぞりながら、彼の心が私の言葉を咀嚼し終えるのを待つ。
樹くんは瞬きもせず、私の目を見下ろしている。それは、本当はきっと1分にも満たない程度の時間だったかもしれない。でも私にはこの砂浜で、何十分も、何時間も彼と見つめあっているように感じた。
「俺は……また、きみを苦しめてしまうかもしれない」
胸に巣食う苦しみをそのまま絞り出したみたいに、樹くんは言う。
「仮にきみが許してくれたとしても、もしまた同じようなことが起きたなら、俺はきっと自分で自分を許せなくなるだろう」
「そうなる前に、私、ちゃんと言うよ。ちょっと立ち止まって話し合おうって。それでもだめなら引っ叩いてでも樹くんを止めるから」
私は右手の親指の腹で、樹くんの頬をそっと撫でる。
「私のこと、信じてほしい」
樹くんは固く結んだ唇の奥で声にならない声を漏らした。熱湯のように湧き上がる感情が、彼の瞳の奥からあふれ出す。樹くんの長い指が、ためらいながら、でも少しずつ、私の右手に優しく重なる。
「……ありがとう……」
きっと大丈夫。
私たちは他人同士。だからこうして手を繋げるし、言葉を交わすこともできる。
育ってきた世界が違うのだから、幸せのものさしが違うのも当然。だからこそ私たちは、お互い目を見て言葉を使って、少しずつ世界のすり合わせをする。
きちんと言葉を交わすこと。それさえ忘れなければ、きっと、私たちは一緒に歩いて行ける。
「百合香」
「なに?」
「抱きしめてもいいか?」
「もちろん」
ふわと笑った樹くんが、私の腰へ腕を回す。
触れる身体。彼の胸元に頬をぴったりとくっつけて、私もうんと伸ばした両手で彼の背中を抱きしめた。
鼓動が聞こえる。私のものじゃない心臓の音が、少しずつ私の音と重なりやがてひとつになっていく。
月明かりが揺れる夜凪の中で、私たちはいつまでも、いつまでも、二人で抱きしめあっていた。
*
「それで……樹くん」
「どうした?」
「さっそくひとつ、一緒に悩んでほしいことがあるんだけど……」
*
広い廊下を進んでいく、樹くんの足取りが少しぎこちない。
たぶん緊張しているのだろう。彼の抱えるストレスの重さは、きっと私の比じゃないはずだ。
「こちらのお部屋です」
家政婦さんに頭を下げて、私は部屋の扉をノックした。懐かしい気持ちがほんの一瞬、胸の内によみがえる。彼がひとり待つ病室の扉を、私はこうして何度も叩いてきた。片手に百合の花束を抱いて、二人の時間を楽しむために。
「入れ」
私たちが来たということを、きっと事前に知っていたのだろう。
ソファに深く腰掛けた桂さんは、不機嫌をまったく隠そうとしない冷ややかな眼差しで私たちを迎えた。
「桂さん。これ、ありがとうございました」
私は家から持ってきた紙袋をそっと桂さんへ差し出した。あの日に貰ったワンピースと靴が、綺麗にたたまれて入っている。
桂さんは紙袋を受け取るどころか、中を覗き見ようともしない。ただ、私を責めるように、罵るように、静かに睨みつけている。
「お前はもう少し賢い女だと思っていたよ」
あからさまな侮蔑の言葉に心がちくりと痛む。
「僕の見込み違いだったみたいだ」
「……桂さん、私」
思わず俯いた私を庇うように、樹くんが一歩前へ出た。桂さんの冷淡な視線は、当然のように樹くんへ向かう。
「桂」
樹くんは少しこわばった顔のまま、でも、しっかりと前を向いて桂さんの目を見つめた。
「話したいことがある」
「僕はない」
「頼む。今だけでいいから聞いてほしい」
足を組みなおした桂さんが、綺麗な瞳を険しくひそめる。しらじらしい――と、冷めた面持ちではあるけれど、耳だけは向けてくれているようだ。
樹くんは沈黙の中でしばし気を呑まれていたようだけど、やがて意を決したように力強く顔を上げた。
「二十一年前のあの日、俺は確かに自分にとっていらないものを何もかも置いて出ていった。俺が幸せになるために捨てていったすべてのものを、桂は一人で背負って生きていかなければならなかったと思う」
「……だから?」
「子どもだったとはいえ、本当に残酷なことをした。今更だと思うかもしれないが、謝らせてほしい」
樹くんが頭を下げる。
桂さんは腕を組んだまま、日向でひからびるミミズを見る目で樹くんのつむじを見下ろしている。
「樹」
永遠とも思える長い沈黙を一息に切り裂いたのは、桂さんのとても静かな声だった。
顔を上げた樹くんの額に汗が一筋伝う。
桂さんはただ無表情に、樹くんを見つめている。
「お前は僕が持っていないものをほとんどすべて持っている。健康な身体。自由な人生。そして母親。……その上で、父の後継ぎという僕の唯一のアイデンティティまで奪おうと言うなら、もう、僕はそれで構わない」
そこで一旦言葉を切り、桂さんは表情を歪めた。
「でも、だったら代わりに好きな人くらい僕に譲ってくれてもいいだろ?」
泣き出しそうな、怒り出しそうな、あふれ出る想いをどうにもできない子どものような顔だった。
「他のものは全部あげるよ。好きなだけ持っていけばいい。僕の婚約者の家だって、お前が相手ならきっと文句は言わないだろう。でも、彼女は、……百合香だけは、僕に残しておいてくれないか」
樹くんは一度目を伏せ、固く結んだ唇を開く。
「百合香は俺の所有物じゃない」
奥歯を噛んだ桂さんを見つめ、樹くんは冷静に続ける。
「意思を持った人間だ。彼女のことは彼女が考え、彼女自身が自分で決める」
「……偽善者め」
「でも俺自身の所有物のことなら、俺が自由に決められる」
いぶかしむように眉を上げた桂さんに、樹くんはひどく落ち着いた声で「桂」ともう一度呼びかけた。
「俺の腎臓を移植しないか」
桂さんのガラス玉の瞳が、怪訝なまま見開かれた。
ちいさく開いた唇がわななき、声にならない声が漏れる。混乱する桂さんをまっすぐに見つめ、樹くんは力強く続ける。
「百合香から聞いた。人工透析が必要なほど腎臓が弱っているそうだな」
「な、なに……なんだって?」
「民法上、六親等以内なら腎臓の生体移植ができる。両親の離婚は影響しないから、俺は十分範囲内だ」
「……お前の、腎臓を? 僕に?」
「ああ。もちろん適合すればの話だが」
「なんで……なんで、そんな」
「なんでって」
樹くんは少し首を傾げ、当たり前のように言った。
「俺たちは兄弟だろ」
桂さんは――
ものの見事に言うべき言葉を見失った桂さんは、少しの間呆然としたまま樹くんを見つめていた。いつもの皮肉も鳴りを潜めて、ただただ目を丸くする彼を、樹くんは憎々しいほど落ち着いた眼差しで受け止める。
「お前は」
やがて、唐突に眉を吊り上げた桂さんは、
「お前を憎む権利すら、僕から奪おうと言うのか」
歯の合間から憎悪を漏らすように低い声を絞り出す。
「憎み続けてくれていい」
対する樹くんは、なおも平然と言い返す。
「でも桂には、俺の腎臓が必要なはずだ」
桂さんの眉間がぶるぶると震える。ぎゅっときつく目をつむり、何か叫ぼうと開いた口は、結局なんの言葉も出せないまま熱い吐息だけをただこぼした。細く浮かんだこめかみの青筋が溶けるように消えていく。
ああ、と桂さんは唸り声をあげる。彼の細い身体の内でやりきれない思いが暴れ、苦しそうに、つらそうに、彼は身悶えする。
そうしてやがて、桂さんは顔を上げる気力すら失くしたみたいにうなだれると、
「百合香」
両足の間に顔を伏せたまま、ひどく投げやりに私を呼んだ。
「お前の男は本物の馬鹿だ。嫌味は通じないし頭が固い」
「はい」
「おまけに気は狂っているし常識知らずで共感性もない。この男の隣で生きるのは、きっと苦労するだろう」
私はわずかに目を細め、桂さんを見つめてそっと微笑む。
「今はその苦労すら、少し楽しみなくらいです」
俯く彼の肩が揺れた。くつくつ、くつくつと、堪えきれない笑い声が、静かな部屋に漏れてくる。
「わかったよ」
桂さんは顔を上げた。
雨上がりの夏空のような、ひどくさっぱりした顔だった。
「僕の負けだ」
山百合の中を、駆けている。
樹は気づいた。あの男たちは、自分を狙って来ているのだと。会話の内容は聞き取れないが、スワベ、スワベと忌々しげに吐き捨てているのがわかったからだ。
自分の家には金がある。父は金が大好きだ。家には毎日違う顔ぶれの大人がたくさんやってくるが、そのどれもが卑しく醜く汚い顔で、いつもいつも金の話をしている。
(セイジカなんて大嫌いだ)
父がどんな仕事をしているのかは知らないが、きっとこの悪党どもも、父が持つ金を狙ってきたに違いない。
「ねえ、待ってよお!」
背後から苦しげな声が聞こえて、樹は慌てて足を止めた。遅れて立ち止まった少女は、樹と固く手を繋いだままぜいぜいと肩で息をしている。四方に茂るブナの木がざわめく。小さな手が握る山百合の花が、彼女の荒い呼吸に合わせて別の生き物のように上下する。
『ごめん。疲れたか?』
無意味だとはわかっているが、樹は少女の顔を覗き込んで呼びかけた。彼女は英語がわからない。でも、わからないなりに気遣う気持ちくらいは伝えたいと思ったのだ。
案の定、彼女は汗をぬぐいながら、
「サーレくん足速いねえ! でも、百合香も負けないよ」
なんて、あっけらかんと笑っている。
元気そうな姿にほっとしながら、樹は遠目で男たちを探す。二人……いや、三人か。あの重たげな巨体で急勾配の上り坂を駆け上がるのは大変らしい。
でも、子どもの足で一体いつまで逃げられるだろう。
「ねえ、もう違う遊びしようよ。かけっこするの疲れちゃったよ」
百合香の手を握りながら、樹は必死に考える。狙われているのは自分だけ。彼女はただ巻き込まれたに過ぎない。
坂を上ってきた男たちが、汚い言葉で怒鳴り散らす。スワベのガキめ、どこへ逃げた? 向こうへ回って取り囲め!
「どうしたの、サーレくん?」
樹は唇を噛みしめながら、百合香の身体を抱きしめた。そんなことをしても何の救いにもならないとはわかっていたが、無力な樹には他の方法が思いつかなかったのだ。
『ユリカ、ごめん。俺のせいで』
悲痛な樹とは裏腹に、腕の中のちいさな女の子は、くすぐったそうに身をよじりながら「恥ずかしいよ」なんてはにかんでいる。
最悪の場合は自分が囮になって、百合香だけでも逃げさせよう。もしかしたら自分は捕まってしまうかもしれないけれど、それで彼女が無事ならば。
……そう覚悟した矢先、突然周囲がざわめいた。じりじり距離を詰めていた悪党どもが、皆一様に足を止めて同じ方向を見つめている。山百合の坂を駆け上ってくるのは、スーツ姿で眼鏡をかけた男。間違いない。あれは、兄の付き人だ。
「くそっ、見つかったか!」
鋭く舌打ちをしてとっさに逃げ出す男たち。兄の付き人はそのうち一人を顔色も変えずに組み伏せると、逃げ去る男の背を眺めながら警察へ電話をかけ始めた。
しんと静まり返った山百合の森の中で、樹は百合香を抱きしめたまま呆然と立ちすくむ。
(助かった)
張りつめていた緊張の糸が、ぷつんと途切れるのがわかった。
その場で膝から崩れ落ちた樹とともに、百合香もまた地べたの上にぺたんと座り込んだ。肩を震わせて浅い呼吸をする樹の顔を、百合香は不思議そうな目で見つめている。それから彼女は、握っていた山百合の茎がくたくたになっているのに気づき、
「これじゃお水吸えないね」
なんて申し訳なさそうに眉を寄せた。
『樹様。ひとまず車へお戻りください』
片手で悪党の腕をねじり上げたまま流暢な英語で話す付き人に、樹は泣きつきたい気持ちを堪えて小さくこくりと頷いた。
未だ状況を理解していない百合香の手を引いて坂を下りる。頭がまだぼうっとしていて、足元がなんだかふわふわする。
山百合の甘い香りがあちらこちらから広がって、まるで夢の中を歩いているみたいだ。
「どこ行くの?」
『…………』
「何して遊ぶ? 百合香ねえ、おうちごっこしたいなぁ」
『…………』
木々と山百合の坂を下りきると、古い遊具が点々と残る小さな広場へたどり着いた。柱が赤く錆びついた滑り台は上まで登れないよう板が張られている。ブランコだってシーソーだって黄色いテープでぐるぐる巻き。砂場は猫の粗相防止のつもりか、ビニールシートで覆い隠されている。
なにも遊べない寂れた公園。
でもここは、樹にとって本当に大切な場所だった。ひどい孤独にさいなまれた時でも、父に邪険に扱われた時でも、ここへ来ればいつも百合香が笑顔で一緒にいてくれた。
百合香は、樹のすべてだった。
「じゃあ、百合香がお母さんやるから、サーレくんが赤ちゃんね」
公園の傍で見慣れた車がハザードをつけて停まっている。中から車窓に張り付いた兄が、ほっとした顔でこちらを見ていた。再びこみ上げる安心感に、また泣きそうになるのを堪える。
でも、まだ終わりじゃない。
樹は小さく息を吐き、一輪の山百合をそっと手折った。
『ユリカ、これを』
山百合を手渡された百合香は、不思議そうな顔をしながらも素直にそれを受け取った。花の中に顔をうずめながら、彼女はにっこりと微笑んで樹を上目遣いに見る。
『俺はもう、ここへは来ない。俺が一緒だと、ユリカをまた危ないことに巻き込んでしまうかもしれないから』
通じないのは承知の上で、樹は淡々と言葉を続ける。
『でも、もし、俺が大人になって、またユリカと出会えたなら……俺は全力でユリカを守る。絶対に怖い思いなんてさせない。だからその時は』
山百合を握る百合香の手をそっと両手で包み込み、樹は自分の精一杯の想いを込めて告げた。
『……俺と、結婚してほしい』
英語がわからない百合香にしてみたら、樹がどうして顔を赤らめているのかなんて推測のしようがなかっただろう。大きな瞳をぱちくりさせて、百合香はじいっと樹の瞳を見つめている。
そうしてやがて、彼女は思い出したように眉を上げると、
「はい!」
と言って、自分がずっと握っていた山百合を樹へ差し出した。
『……これは?』
「茎がもうくたくただからね、ここのあたりをハサミで切って、お水にちゃんとつけてあげてね」
『……ユリカ、あの』
「そうすればしばらく綺麗に咲くって、お母さん言ってたから。百合香もそうするね。サーレくんにもらったお花、百合香のお部屋にずっと飾るよ」
半ば押し付けられるように百合を渡され、樹は少し困惑する。でも、百合香の方はいつもどおりの上機嫌な顔で笑っている。
彼女に渡された山百合は、逃げ回る間ずっと握りしめられていたせいだろう、少しくたびれてしおれている。
でも樹には、世界一美しい花のように思えた。
「もうおうちに帰るんでしょ?」
兄の付き人から連絡を受けたらしく、父の部下たちが集まってきた。大丈夫ですか、と口々に言われ、なんだか急に恥ずかしくなって百合香から一歩離れてしまう。
百合香は樹から受け取った山百合を大切そうに抱えながら、大きく手を振り公園の外へと去っていった。
「また遊ぼうね。大好きだよ!」
*
「樹くん」
「わっ」
タキシードの肩が跳ねあがり、私もあわせてびくっとしてしまう。
椅子に深く腰掛け、ひじ置きに頬杖をついた樹くんは、切れ長の瞳をまんまるにして私を見上げまばたきする。まるで夢でも見ていたみたいな、なんだか決まらないきょとん顔だ。
「なあに、こんな時にうたた寝してたの?」
「いや……まあ、そんなところかな」
「のん気っていうか、タフだよね。私なんてさっきからずっと緊張しっぱなしなのに」
ずるずると真っ白な裾を引きずり、私は樹くんの椅子に寄りかかる。裾の長いウェディングドレスは立つのも座るのも面倒だ。正直身体は疲れていたけど、後々のことを考えると結局は椅子に寄りかかる程度が最適解になってしまう。
「それは?」
樹くんの目線を受けて、私は彼に小さなカードを差し出した。
「桂さんから。電報だって」
「今どき電報か。ある意味、桂らしい」
招待状に『欠席』で返ってきたときは、仕方ないかなと諦めもした。でも、律儀に電報とお花まで贈ってくれる桂さん。やっぱり彼はとても真面目で、良い人なんだと実感する。
(桂さん、元気にしてるかな)
天使の微笑と持ち前の皮肉に遠い思いを馳せていると、ドレスの腰に腕が回ってそっと優しく抱き寄せられた。
立ち上がった樹くんが、むずがゆいほど優しい眼差しで私の姿を見つめている。
「どうしたの?」
「やっぱり可愛いと思って」
「前撮りの時にも一度着て見せたじゃない」
「そうだけど、何度見ても可愛いものは可愛いんだ」
綺麗に飾ってもらった耳に、触れるぎりぎりで止まる唇。
「こんなに可愛い百合香の姿を、誰にも見せたくないって気持ちと」
手袋に覆われた長い指が、腰のラインを艶やかになぞる。
「俺の百合香は可愛いだろって、見せびらかしたい気持ちがせめぎ合ってる」
「ねえ、そういうの、恥ずかしいんだけど」
「我慢してくれ。一生こうだから」
一生かぁ。これはこの先、大変な人生になりそうだ。
でもまあ、覚悟を決めたこと。それに今の私たちなら、きっと、上手くやっていける。
私が朗らかに笑っていると、目の前に樹くんの顔が来た。
腰をかがめ、目線を合わせ、樹くんは優しく微笑む。何より綺麗で何より落ち着く、そして何よりどきどきさせてくれる、私の大好きな人の笑顔。
「百合香」
顔を覆うレースのヴェールが、まぶたの上まで持ち上げられる。
近づく顔。陰る視界。薄く開いた唇が、吸い込まれるように近づいてくる――……
「こらこらこらこら! そういうの、ちゃんと観客の前でやりなさい!」
呆れたような椎名くんの声に、私と樹くんは同時に動きを止めた。壁に寄りかかり腕を組んだ椎名くんが、ふくれっ面でチャペルへ続く大扉を顎で指す。
私と樹くんは顔を見合わせ、どちらともなく笑いあう。椎名くんはふっと苦笑して、別の扉からチャペルの方へと戻っていく。
「じゃあ、行こうか」
「うん」
樹くんが差し出した手へ、私もそっと手を重ねる。
握りあう指先の、布越しに感じるほのかな熱。私たちはこれから、ずっと隣を歩いていく。
視線を軽く持ち上げると、すぐ傍に樹くんの顔があった。柔らかく穏やかで溶けるような微笑みが、見ているだけで私に伝播し、自然と私の頬も緩む。
「百合香」
「うん」
「愛してる」
甘く囁くかすれ声。
自然と視線が唇へ吸い込まれて、私もまた溶けるように笑う。
「私も、愛してる」
樹くんが優しく目を細めると、それを合図にしたみたいに、私たちの前の重たい扉がベルの音ともに開いた。
『幸せでいるための秘密』 おわり