――樹はやめときな。
 一華さんは、明らかに何かを知っていた。
 ――あの家の男は頭がおかしいんだ。息子も、父親もね。
 冷ややかな声が脳裏によみがえる。ぞっとするほどむき出しの敵意。あの時の私は、彼女の言葉にただ反発し、真っ向から立ち向かってしまったけど。
(やっぱり連絡先、聞いておいても良かったかもな)
 今となっては、彼女は私の数少ない情報源。多少は距離を置きつつも、もしもの時に連絡できるようにしておくべきだったかもしれない。
 考えることが多すぎて頭がうまく回らない。
 樹くんはどうしてあんなに結婚を嫌がるの? 子どもを持つつもりはないの? 私にいったい何を隠して一人でずっと苦しんでいるの?
 そのどれもが自分一人で悩んだところで答えの出ない問題ばかり。私の選択肢といえば、樹くんに直接訊ねるの一択しかないはずなのに、私は今日も彼を避けるように会社帰りに寄り道する。
「……お客さん。お客さん?」
「あっ、はい」
 気づくと、花束を携えた店員さんが、心配そうに私を見ていた。
「お花できましたけど、どうしたんです? 何か、悩み事?」
「ええ、まあ……」
「おばさんでよければ、なんでも相談に乗りたいところだけど……今日もまた、これからこのお花を渡しに行くところなのかしら」
 百合の花を買ってきてほしいと、桂さんから連絡が入ったのは一昨日のことだ。行くべきじゃないと思いながらも、私はこうして花屋さんに寄ってまた花束を作ってもらっている。
「そうですね。今日も、これから向かうので」
「そう……。常連さんの元気がないと、やっぱり少し心配になっちゃう。無理に笑ってとは言わないけど、何かあったらいつでも相談してくださいね」
 オマケにどうぞとお子様ランチについていそうなゼリーを頂いて、私は小さく頭を下げるとお花屋さんを後にした。
「頑張るなら()()()()()にねー!」
 大きく手を振るお花屋さんの声が聞こえる。ええと……おおざっぱとか、適当とか、そういうような意味だっけ?
 病院の前に立つと、胸に詰め込まれた鉛が重さを増したように感じた。来てしまった。後ろめたい気持ちを振り切るように、大股で自動ドアを通る。
(なにが『来てしまった』だ。結局私は自分の意思で桂さんに会いに行っているじゃないか)
 桂さんと話しているときは、何も知らない子どもの頃にタイムスリップした気になれるから。
 ただそれが心地よくて、私は自分で桂さんのもとへ通い詰めているだけに過ぎない。結婚のことも出産のことも、子どもだったら考えずに済む。そう思うと、とても気持ちが軽くなって、無邪気な自分に戻れる気がする。
 エレベーターで最上階についたとき、扉の開く音とともに知らない人が桂さんの部屋から出てきた。こんなに暑いのに上下ともしっかりとスーツを着込み、眼鏡をかけた背の高い男性。年は四十半ばくらいかな。いかにも生真面目そうな、仕事の好きそうな顔をしている。
 男性は私を見ると、小さく会釈をして通り過ぎた。私も会釈を返しつつ、男性の様子をつい伺ってしまう。
 桂さんのお友達……には、到底見えない。お仕事の関係かと思ったけど、そういえばこれまで桂さん自身の仕事の話を聞いたことがなかった。
 男性は私と入れ替わりにエレベーターへ乗り込み、下の階へと降りてゆく。私は仕方なく桂さんの部屋のドアを、いつものようにノックした。
「桂さん、おじゃまします……」
 ――空気が。
 もう、明らかに違う。重い。苦しい。この部屋だけ大気の重さが違うみたいで、ただ立っているだけなのに途端に息が苦しくなる。
 桂さんはひとり窓辺に立って、階下を見下ろしている。白い入院着をまとった華奢な背中。それは、いつもと変わらない見慣れた光景のはずなのに、窓に映る彼の顔だけが異様な闇を醸し出している。
 まるで大雨の夜を何時間も一人で歩いてきたような――途方もない絶望に打ちのめされたような。
「桂さん……?」
 おそるおそる声をかけると、桂さんはようやく緩慢に瞬きをした。でも、それだけだ。心を失った人形みたく、彼の喉からは小さくかすれた吐息が絶えず漏れるだけ。
「あの……大丈夫ですか?」
「…………」
「具合悪いなら、看護師さん呼びましょうか?」
「…………」
 さっきの男の人と、何かあったのだろうか。
 どうしたらよいかわからず、とりあえず看護師を呼ぼうときびすを返す。そしてそのとき、急に後ろから腕を引かれて私は思わず立ち止まった。
「行くな」
 震えた声。
 白い指が追いすがるように、私の腕を握っている。
「出ていくなら……僕はここから飛び降りる」
 本気だ、と。
 一瞬にしてわかってしまうほどの闇に呑まれたその眼差し。本能が純粋な恐怖を感じ、ひゅっと私の喉が鳴る。
「ど……どうしたんですか」
「行くな」
「桂さん、どうして」
「ここにいてくれ」
 言葉が耳に届いていない。彼は私の腕を無遠慮に引き寄せ、腰を掴み、手首を握って、
「頼む。お前までいなくなったら、僕は」
 ……ようやく目が合った瞬間、桂さんの目尻から透明な涙が流れ落ちた。


『もしもし?』
「あの……樹くん? ごめんね、いきなり」
 車の行き交う音が電話越しに聞こえてくる。彼は今、帰るところかな。それとも、残業中だけど電話に出るため事務所の外へ出たのかも。
 今は直接顔を見るより、電話の方が話しやすい。何を言うのか頭の中で繰り返しながら、私は胸の鼓動を押さえる。
『いいよ。どうした?』
「ちょっと、急で悪いんだけど……今日、帰りがすごく遅くなりそうなの。もしかしたら、泊まりになるかも」
 電話の向こうの樹くんが一瞬、小さく息を止めたのがわかった。
 数秒の沈黙。思えば彼とのルームシェアが始まって以来、外泊という話が出るのはこれが初めてのことかもしれない。
『……仕事か?』
 想定通りの質問に、私は胸の痛みをぐっと堪える。
「入院している友達が……何か、つらいことがあったみたいでね。すごくうろたえていて……一人にしておけなくて」
『…………』
「入院患者の付き添い用の部屋があって、もしもの時はそこに泊まってもいいって、受付の人も言ってくれたんだ。だから最悪、そうしようかと思って」
 ……怪しいよね。自分で言っていてもそう思う。
 もし私が樹くんに同じことを言われたなら、真っ先に思い浮かぶのは浮気の二文字のはずだ。
 心臓が耳から飛び出しそう。樹くんを不安にさせたくない。でも、私がここから出ていったなら、今の桂さんなら本当に飛び降りてしまうはず。
(私の選択は、これで正しいの?)
 断言はできないけど、もう迷っている時間がない。
『……わかった』
 その言葉を聞いた瞬間、暗闇に一人で放り出されたような不安が胸に広がった。
 自分から言い出しておいて、何を勝手な、とは思う。でも私も、今は頭がいっぱいいっぱいでうまく考えがまとまらない。
『帰りが夜中になるようなら教えてくれ。迎えに行くから』
「うん、ありがとう……」
 そして、ごめんなさい。
 震える手で電話を切って、私はすぐに桂さんの部屋へ走った。樹くんに電話をしている間も、彼が早まった真似をしていないか、不安で不安で仕方なかったからだ。
 私がドアを開けようとしたとき、スリッパを履いた桂さんがちょうど飛び出してきたところだった。真正面からぶつかった私が尻もちをつくより早く、桂さんの細い両腕が私の身体を抱きしめる。
「桂さん」
「よかった、まだいた」
「私、います。ちゃんとここにいますから」
 母親に飛びつく子どもみたいに、ぎゅうぎゅうと腕が締めつけてくる。
「いなくならないで……」
 私より年上のはずの桂さんが、ほんの小さな子どもに見える。
 私は桂さんの背中を撫でつつ、ほとんど抱きかかえるようにして、やっとのことで彼をベッドまで連れていった。
 ベッドに腰かけた桂さんは、当然のように私にも隣に座るよう要求した。身体をぴったりとつけた格好で、桂さんは私の手を両手で握る。そうして時折苦しげに眉を寄せたかと思うと、ぎゅっと唇を噛みしめて目を伏せるのを繰り返す。
 私は隣で寄り添いながら、彼の心が落ち着くのを待つことしかできない。やがて、桂さんは何度目かのため息を経て、
「僕の父は」
 ゆっくりと、沈んだ声で話し始めた。
「政治家なんだ。諏訪邉桂一郎といって、国会議員でね。家系としては医者が多いのだけど、父の代から政治の道へ踏み込んだ。僕もいずれ父の跡を継ぎ政治家になるつもりで、ずっと勉強を続けてきた」
「…………」
「でも、腎臓の病気がわかって……僕は父の私設秘書をやめて、通院生活が始まった。最初は父も僕も、治療が終わったら復帰できるとばかり思っていたけど、僕の身体が永遠にこのままだとわかって……父は僕に、この病室で待つよう言った。『いずれ迎えに来るから』と」
 確かに疑問には思っていた。透析治療だけが理由なら、桂さんがこの病院に入院を続ける必要はないだろうと。
(でも、こんな理由があっただなんて)
 僕の部屋なんて誰も来ないから、と、寂しく笑う姿を思い出して、胸がきゅうと痛くなる。
「今日、父の秘書が来たんだ。お前以外の来客なんて本当に久しぶりで、僕は驚いたし、嬉しかった。本当は父が来てくれたならと思ったけど、あの人は忙しいからね。……そして秘書は、父からの伝言を僕に伝えた」
 私の手を握る桂さんの指に、強く、不穏な力が籠もった。
「弟に、跡を継がせることにしたって。……僕はもう、好きにしていいんだって」
 桂さんは静かに天を仰ぐ。涙のあとの乾いた瞳が、天井の更に彼方を見つめている。
「なにが好きにしろだよ。あんたの跡を継ぐためだけに僕はこれまで生きてきたんだ。勉強だって、なんだって……全部そのためだった。なのにこんな年になってからいきなり世間に放り出されて、僕にこれからどうしろっていうんだよ?」
 はっ、と自嘲して、桂さんは俯いた。
「待っていろと言うから……ずっと、ずっと待っていたのに……」
 長い前髪に隠れた表情は、隣に座る私からは見えない。
 でも、今の彼がどんな顔をしているのかはわかる。泣いている。涙はもう、流れていなくても。
「弟さんに……相談してみたらどうですか? 弟さんだって、いきなり後継ぎとか言われて戸惑っているかもしれません」
 できるだけ落ち着いた声で言ったつもりだったけど、たぶん私の緊張が繋いだ手から伝わったのだろう。
 桂さんは横目で私をちらりと眺め、それから小さく鼻で笑う。
「お前がそれを言うの?」
 あからさまに馬鹿にした、見下すような冷笑を向けられ、私は一瞬言葉に詰まる。
 桂さんはすぐに私から目を逸らすと、はあ、と呆れたようにため息を吐いた。
「僕が子どもの頃に両親は離婚して、弟は母親についていった。偶然顔を合わせる以外、僕とあいつは没交渉だ」
「そうですか……」
「あいつはずる賢いんだよ。両親の離婚だってあいつが全部仕組んだものだ。欲しいものだけ持ち逃げして、いらないものは僕に押しつけて。挙句、今更になって、僕から居場所まで奪っていこうだなんて……」
 そこで言葉を切り、正面を向いたままの桂さんの瞳が、ぎょろりと私へ向けられる。
「――代わりのものを貰わないと、割に合わない。そう思うだろ?」





 桂さんが電話を一本かけると、受付にいた女性の方がコンビニで肌着を買ってきてくれた。
 あまりにも申し訳なくて必死に頭を下げる私に、女性は苦笑してこっそり言う。
「中原さんがいらっしゃるようになって、桂様、とても穏やかになられたんです。だから正直、中原さんに来ていただく方が、私たちとしても助かるんですよ」
 わかりましたとも困りますとも言えず、私も結局苦笑を返す。そのまま部屋へと案内され、簡単な説明を受けた後、ようやく一人になった私はベッドに大の字になった。
  全身の疲労感がひどい。
 気を抜くとこのまま眠ってしまいそうで、気合を入れて起き上がると備え付けのシャワールームに入る。妙に豪華なこの部屋は、どうやら付き添い用の宿泊部屋ではなく特別病室のひとつらしい。桂さんのお部屋よりは狭いけど、ホテルのような調度品が一通り用意されている。
(鍵は……ないよね。病室だもんね)
 手早くシャワーを済ませ、パジャマ代わりに貸してもらった入院着に袖を通す。桂さんと同じ格好だ。
 さすがに同じ部屋で眠るのは拒否させてもらったけど、あの顔はたぶん、一緒に眠ってほしかったのだろう。
(樹くんは何をしているのかな)
 泊まることになりました、とすでにメッセージは送った。もう三十分くらい経つけど、未だに既読も返事もない。
 私は明日、彼の目を見て話すことができるのだろうか。とりあえず目の前の事態の対処をと、桂さんの傍にいる道を選んでしまったけれど、未だに私の心の中には不安も迷いも残っている。
 私は樹くんの恋人。
 でも、桂さんをこのまま放っておくこともできない。
(だめだ。寝よう)
 ふかふかのベッドにもぐりこんで、心を守るみたいに身体を丸めた。どうせきっと、寝付けない。でも、少しは横にならないと、この夜は明けてくれないだろう。
 自分の呼吸の音を聞きながら、考えるのは樹くんのことばかりだった。


 緩やかなまどろみの中から、突然意識が浮かび上がってくる。
 音が聞こえる。足音だ。床の上をゆったりと這うように、ぺた、ぺた、と平たい足音。
 私は目をつむったまま、寝たふりを決め込んだ。音はどんどん近づいて、私の間近でようやく止まる。
「百合香」
 無音の夜闇を震わせながら、ちいさな声が私を呼ぶ。
 肩に触れた手を振り払うように、私は大袈裟に寝返りを打った。布団をかき寄せ、身体を隠す。彼の位置からは私の背中しか見えていないはずだ。
 桂さんは……何も言わない。丸めた背中にひしひしと、痛いほどの視線を感じる。
 やがて、軋んだ音を立ててベッドが少し揺れ動いた。私の背中に腰をくっつけて、彼はベッドに座ったらしい。足の揺れるかすかな振動が触れた背中から伝わってくる。
「寝たふりをするつもりなら、僕はそれでも構わない。そうやって静かに僕の話を聞いていれば良い」
 かすかに聞こえるかすれた吐息。
 時計の針が進む音が、やけに大きく耳に響く。
「好きだよ」
 日中のうろたえようがまるで嘘だったみたいに、彼は天使のかんばせにぴったりの優しい声で言った。
「あの時、腎臓の話に結びつけて茶化した風に言ってしまったのを、ずっと後悔していたんだ。告白なんて初めてだったから、僕も少し照れてしまってね」
「…………」
「たとえ移植ができなくても、僕はお前のことが好きだ。ずっと隣にいてほしいと思う。僕がお前に与えられるものは、なんでも与えてやりたいと思う」
 私は、寝ている。
 何も聞いていない。
 桂さんが、眠る私に向かって独り言をこぼしている。ただ、それだけ。
「夢の中の出来事として、すべて無かったことにするつもりなんだろ?」
 唐突に混ざった露骨な嘲笑は、想定よりずっと間近で聞こえた。
 内心驚く私の耳元に、小さく笑う桂さんの吐息がかかる。
「甘いな。お前の考えなんて僕はとっくにわかっているんだ。そうしたいなら好きにすればいい。僕だって好きにさせてもらう」
 ぎし。ベッドが軋む。
 私の身体の右が、左が、交互にせわしく沈んでいく。病室の橙の常夜灯のあかりが、何かあたたかいものに覆われ、陰っていく。
 目を開けちゃいけない。それだけきつく自分に命じて、私は頑ななまでに寝たふりを決め込んだ。目に見えなければ、無いものと同じ。感情だってきっとそう。
(――あっ)
 あまりにも、あまりにも優しく押し当てられた唇は。
 固く結んだ私の唇に、ただ静かに触れただけだった。その気になれば無理やりこじ開け、中に押し入ることもできただろう。でも、彼は触れるだけ。
 唇が離れていくと同時に、触れ合っていた熱がほどけて途端に胸が寒くなった。それでも私は布団を握り、最後の最後まで寝たふりを演じた。
「夢じゃ終わらせないよ」
 身体を覆う熱が離れていく。
 静かな足音が遠ざかり、ドアの閉まる音が聞こえてもなお、私はきつく目をつむったままその場から動けなかった。


 結局ほとんど寝つけないまま、カーテンの合間から差し込む朝日で身体を起こした。
 いつもの癖でスマホを手に取り、夜中のうちに樹くんから返事があったと気づく。わかった、というとても端的な言葉が、不思議なほどに心を刺激してなんだか涙が出そうになる。
 帰り支度をして部屋でうとうととしていると、今度はきちんとノックをしてから桂さんが入ってきた。昨夜のことなどそれこそ夢みたいに平然とした桂さんに対し、私の表情はどんより曇ったまま彼の足元を見つめるしかできない。
「帰るんでしょ。下まで送るよ」
 ここで断るのもおかしい気がして、彼と一緒にエレベーターに乗った。いつもより重力を強く感じる。寝不足のせいか、胃のあたりが気持ち悪い。
「今日はひとまず返してやるけど」
 どこか遠くを眺めながら、桂さんは上機嫌に言う。
「いつか必ず、お前は僕のもとへ戻ってくる」
「……どういう意味ですか?」
「別に」
 睨むみたいになってしまった私へ余裕綽々の笑顔を返し、桂さんは軽い足取りでエレベーターを降りていく。
 仕方なくその後を歩き出した私は、外の道路から病院めがけて一人の男性が走ってくる姿に気がついた。自動ドアが開くのも待ちきれないといったように、彼は手でドアをこじ開けながら息を切らして駆け込んでくる――


「樹くん……!?」


 言ってから、頭が一気に真っ白になった。何も見えない。聞こえない。立っている感覚すらない。ただ、足元に暗くくすぶっていた不安が、ここぞとばかりに這い上がってくるのがわかる。
 こんな時間に迎えに来るなんて、一言も書いていなかった。そもそもこの病院にいたことすら私は教えていなかったはずだ。
 震える足が逃げ道を探して無意識に一歩後退する。私のかかとのすぐそばで、崖が崩れていく音がする。
「なん、で」
 かすかに上ずった樹くんの声で、視界が現実を取り戻す。
 でも、私の想定とは裏腹に、樹くんは私ではなく斜め前の桂さんの方を見ていた。見開かれた切れ長の瞳。二の句を継げず開いたままの口。驚愕と絶望の入り混じるその視線を真っ向から受けて、桂さんは……微笑んでいる。
「樹くん、あのっ」
 駆けだそうとした私の行く手を、桂さんの腕が遮った。思わず足を止めた私の、戸惑う頬を片手で掴んで、桂さんは――樹くんに見せつけるみたいに、噛みつくようなキスをする。
 んっ、とくぐもった声が漏れ、私は必死に抵抗する。それすらも楽しむみたいに桂さんはくくと喉で笑って、私の唇を解放するとともに勢いよく背中を突き飛ばした。
 二、三歩つんのめり、そのまま床に膝をついた私は、視界の端によく知る黒いスニーカーの紐を見た。全身の毛が途端に逆立つ。怖くて、怖くて、顔を上げられない。
 私は……樹くんを裏切った。
「行けよ、百合香」
 桂さんの冷めた声が、どこか遠くから聞こえてくる。
 彼は心から愉快そうに笑いつつ、最後に甘く囁いた。
「これで、キスは二度目だね」





「――説明してくれ」
 生きた心地がしない。
 いや、いっそ死んでしまえればいいのかもしれない。
 自分がどうやって帰ってきたのか、まるで思い出せそうにない。ただ、気づけば同棲している家の、リビングの隅に震えながら立っていた。
「……ごめんなさい」
「説明を」
 ソファに腰かけた樹くんは、感情のない目で私を見る。
「してほしい」
「……はい……」
 震える口を叱咤しながら、私は少しずつ言葉を吐き出す。ストーカーから逃げているとき、偶然助けてもらったこと。何度かお見舞いに行くうちに、少しずつ親しくなったこと。
「そんなに前から」
 半ば唸るような声でそう低く漏らしてから、樹くんは片手で額を押さえ目を閉じた。眉間に深く刻まれたしわ。苦しそうに漏れる吐息。
 桂さんのご家族のことや、飛び降りると言われた件についても、洗いざらい話してしまった。今の私にできることは、すべて打ち明けて許してもらうこと以外にない。桂さんだって、咎める権利はないはずだ。
 見たこともないほど血の気のひいた顔で、樹くんはずっと俯いている。
「あの言葉は、本当なのか」
 ――これで、キスは二度目だね。
 桂さんの嘲笑が蘇る。そして、昨夜の言葉も。夢じゃ終わらせないよ、と笑って言い添えられた真意に、どうして私は最後まで気づけなかったのだろう。
 樹くんを呼びつけたのも桂さん? だったら一体、何のために?
 真っ青な顔で黙る私を、樹くんは肯定ととらえたらしい。膝の上で組んだ指先に青筋が浮かんでいる。ぱき、と何かの割れる音がして思わず視線をそちらへ向けると、樹くんの左親指の爪に一筋の亀裂が入っていた。
「……桂と寝たのか?」
「違う!」
 張り裂けるほどの大声にも、樹くんは眉一つ動かさない。
 でも、これだけは否定しなければいけない。私は脂汗を流しながら、必死になって言い募る。
「それだけは絶対に無い! 寝るときだって別の部屋を借りたし、シャワーも備え付けのを使った。さっきのだって……その……寝ているときに、……」
 ああだめだ。馬鹿な女。寝ているときにと言ったところで、私は全部わかっているじゃないか。夜に紛れた桂さんの訪れを、すべて夢の中の出来事だと、自分に都合よく変えようとしたのは紛れもなく私の方じゃないか。
 鼻につんとした痛みが走り、血のにじむほど唇を噛む。堪えろ。泣くな。私は泣いていい立場じゃない。
 本当に泣きたいのは樹くんの方だ。
「どうして」
 両手の中に顔を伏せた樹くんが、絞り出すような声で言う。
「どうして、桂なんだ……」
 ……その声が、あまりにもよく似ていたから。
 私は昨日のことを思い出す。僕はここから飛び降りる、と虚ろな瞳で言った桂さんも、同じような声をしていた。
「桂さんのことを知ってるの……?」
 私のか細い問いには答えず、樹くんは沈黙の後、長く深いため息を吐いた。眠れない夜を何度も経たような、色濃い疲労のにじむ顔。半ばまで伏せた切れ長の瞳に、底知れない闇が匂い立つ。
「百合香」
 喉元に剣を突きつけられた思いで、私はその場で縮み上がる。
 樹くんはゆっくり足を開くと、自分の足の間を顎で指した。
「座って」