ホームルームの後、部活だ何だと先に教室から出ていく人々が、いつもより妙に騒がしいとは思っていた。だがアオは、よもやそれが自分に関係のあることとは予想していなかった。
 ましてや、一学年下の自分の主がそこにいるとは、全く思ってもみなかった。

「アオちゃん、椿さんが呼んでるよー」

 アオは条件反射的に、鞄に入れようとしていた持ち帰りのノートや筆箱を雑に詰め込み、声のした方へ向かう。

「あ、先輩……。いるかどうかだけ聞けりゃ良かったんですが。呼んでるって言うと来ちゃうんで」

 教室の外から聞こえるのは、確かに椿の声だった。

「椿さん! どうしてこちらに?」
「アオちゃん鞄開いてるよ。慌てすぎじゃない? 奴隷って本当だったんだぁ」
「山本さん、私は下僕です」
「下僕も止めろっての。山本先輩、ありがとうございました。アオ、とりあえず一旦席戻って、忘れ物ないか確認してこい」

 言いつけに従って席に戻ると、椅子の上にぽつんと財布が置きっぱなしになっていた。確かに慌てすぎだった。
 一通り身の回りを確認してから、再び椿の元に参上した。教室前の廊下は人通りが多かったため、壁際に寄る。

「失礼しました。まさかいらっしゃるとは思わず。本日は書道教室と記憶しておりましたが、別の予定に変更ですか?」
「アオが保健室行ったって聞いたから、様子見に来た。書道は休んだ」

 事もなげに椿は言うが、アオはぎょっとした。

「養護の先生に、伝えないよう頼んだはずなのですが」
「あのな、そこは伝えろ。そんでアオが話してるせいで、俺が名前出してなくても、クラスの奴らにはアオのことが知られてんだよ。保健室の近くで見かけたって奴がいて、教えてもらった」
「くっ。ご心配をおかけしました」
「……まあいい。で、大丈夫?」

 落ち着いてくると、椿が教室まで足を運んでくれたことに、嬉しさがわいてきた。だが喜ぶべきではないと、気持ちを抑える。

「はい。一時的なものでした。今はもう元気です」
「どうもそんな感じだな。病院には寄らなくていいか。今日アオ、部活ないよな?」
「ありません」

 そこでアオの視界の端に、いつも右隣に見ている人影がうつった。

「あっ喜多野くん! 椿さんです!」
「あぁうん……そうだろうな」
「椿さん! 喜多野くんです!」
「あーしっぽ見える。振るな。落ち着け。口を閉じて待ってなさい」

 喜多野はこれから部活だろう。呼び止めてしまって悪かったとアオは反省したが、椿に口を閉じろと命じられたので、会釈で気持ちを伝える。
 アオにしてみると色々と話したいことがあったが、二人にしてみれば、友人の友人のような関係である。興味を持てなくても仕方がない。軽く会釈して終わりだろうと思っていると、椿が喜多野に向き直った。

「すみません、喜多野先輩。お急ぎでしょうから、ご挨拶だけさせてください。真井椿と申します。アオから話を聞いていました。いつもアオがお世話になっています」
「ご丁寧にどうも、椿さん。喜多野昌也です。えぇと、お噂はかねがね」
「ありがとうございます。またゆっくり話せる機会があったら、その時は」
「そうだな。機会があれば」

 思いの外丁寧なやり取りだった。椿は普段は年相応の振る舞いを心がけており、いつものざっくばらんな口調も、実はある種の演技である。アオにとっては違和感のある態度だったが、これが初対面であろう喜多野には気づくことはできない。
 怪しみながら椿を見たが、よく分からない。
 喜多野からの視線を感じて、まあいいかと目を向ける。

「アオさん、椿さんのこと、誘ってみたら。善は急げって言うから」

 時間がたって、少し臆する気持ちが出てきて、迷いかけていたところだった。その言葉で背を押された。
 無言でうなずいていると、椿から口を開く許しが出た。

「ありがとうございます、喜多野くん。部活頑張ってください。また明日」
「うん、お互いに。じゃあね」

 喜多野が去り、教室付近の人々は数を減らしていく。
 この場で話すこともないかと椿が言ったため、二人連れ立って、下駄箱に向けて歩き出した。
 送迎は松田の運転する車だ。一緒に帰る時であっても、駐車場までは各自で向かい、校内で待ち合わせなどはしない。
 学年が違えば会う機会もあまりないので、校内を一緒に歩くのには、新鮮さを感じた。

「何だ。誘ってみたら、って」

 自分から椿を誘うのは、酷く久しぶりだ。自分らしくないことをしているようで照れるが、思い切って言う。

「夕食の席ででも話すつもりだったのですが。椿さん、今度、みんなでどこかへ出かけませんか」

 椿の顔には驚きが浮かんだものの、答えはあっさりとしていた。

「俺はいいけど。行きたい場所でも?」
「それは特にこれといって。このところ、勉強する時間のせいで、椿さんや松田さんと一緒にいる時間が減っているので、のんびりしたいなぁと。そう言えば、春さんともしばらく会っていません」
「春さんなら、腰痛で寝込んでるって聞いたぞ」
「え、そうだったんですか! それで松田さん、最近お帰りが早いのですね」

 夫人が腰痛であるならば、夕食の支度や洗濯など遠慮なくアオに任せてしまっていいのに、むしろ松田は受験勉強のためと、今までアオがしていた分担の見直しまでしてくれていた。アオに知らせなかったのも配慮だろう。お見舞いの品は直々の雇用主である虎太郎が贈っているだろうが、自分も別途、贈らねばならないと、アオは心のメモ帳に書き込む。

「では、松田さんは難しいかもしれませんね。あとはお爺様……ふむ。行き先が温泉になりそうな」
「ところで、何でそれを喜多野先輩が言うんだ?」

 平静を装ってアオは答えた。

「元々は喜多野くんと遊びに行く予定があったのですが、お互いに都合がつかなくなってしまって。空いた時間をどう使おうかと私が考えていたところ、椿さんと遊びに行くことを提案してくださったのです」
「……残念だったな」

 傷が開くように、じわりと胸が苦しくなる。

「そうですね、残念でした。けれど、時期も時期ですから、そろそろ控えるべきかなぁとも思っておりましたし。……またを、期待したいと思います」

 普通に立っているだけでも、汗の止まらない季節になった。校内は空調がきいているが、窓の外にはいかにも夏といった景色がある。アオにとっては高校最後の夏休みが近づいている。
 強い光からアオは目をそらした。

「そういう訳で。では、帰ったらお爺様にもお話しして。細かい日程はその時に」
「待った」
「はい」

 もう下駄箱が見えていたが、椿が立ち止まったので、アオも立ち止まった。
 はしばみ色の瞳が、光を受けて、さらに明るく見える。

「爺さんは誘わずに、二人で出かけないか」

 椿と虎太郎は、仲良しこよしの孫と祖父とは言いがたい関係だ。絶対に嫌という程ではないだろうが、今回は何となく気分が乗らないのだろうと、アオは推測した。
 それとは別に、椿の提案が嬉しく、アオは思わず微笑んだ。虎太郎もいると、どうしてもアオは椿にかかりきりにはなれなくなる。

「はい。本音を言えば、その方が、私もありがたいです。行ける場所も限られてしまいますから」
「はは、まあそうだな」
「お爺様を誘うのは、今度また、松田さんご夫妻と行けそうな時にします。それで、どこに行きましょうか」
「どうするか」

 それぞれ異なる学年の下駄箱を通って靴を履き替え、扉の外で合流する。ひさしがあるので日陰にはなっているが、ぐっと暑さが肌に迫った。
 日傘を椿に差しかけつつ、日差しの下に出る。

「海まで行くか」

 黄浦市の北側には海がある。黄浦駅前程ではないものの、海水浴場が複数あるので、とりわけ夏場は賑わっている。

「泳ぎですか?」
「確かあの辺、店もそれなりにあったよな」
「候補を上げておきましょうか」
「……それは一旦置いておいて。アオは? 海でいいのか」
「椿さんといられるのであれば、どこでも構いません。仮に椿さんのご提案でなくとも、海、いいと思います」
「じゃあ、とりあえず海で。細かいところは……相談して決めよう。アオに任せたら、俺の趣味ばかりになりそうだ」
「椿さんの行きたいところが、私の行きたいところですから」
「そうなんだろうけど」

 差しかけていた日傘の柄を押し返された。

「俺もたまには目先を変えたい。俺の気分転換にもなると思って、アオが行きたいと思うような場所を教えてくれ」
「……なるほど」

 興味に沿う方が良いのだと考えていたが、興味のなさそうなことに誘うことで、相手の興味関心の幅を広めるという役立ち方もあるのだと、その言葉で気がついた。
 そうは言っても、路傍に捨てられた吸殻のような、あまりにもささいな物事に誘うのは極端だろう。まるで無価値ではなく、だが椿の視界にはなさそうなもの。一般的な物差しでは中々計れない。その見極めは、今まで見てきた椿の姿と、自分自身の価値観を基準にするしかない。

「そういうことなら、私も考えてみます。また、夕食終わりにでも、話しましょう」

 曖昧な返事をした椿は、少し歩いてから、はっとした様子でアオに目を向けてきた。

「どうされました? まさか、何か、用事でも?」

 さすがにないとは思いながらも、やや不安になる。またアオの知らないうちに、長期の旅行などを計画していたり、と嫌な可能性を考えてしまう。
 幸い、椿が言ったのは、他愛のないことだった。

「……出かけること、当日まで爺さんには秘密な。どうせうるせぇから。爺さんに伝わらないように、松田さんにも」
「その言い方はどうかと思いますが……。かしこまりました。秘密にします」

 秘密。幼い頃を思い出す響きだった。
 何故だか心臓は高鳴る。
 気を緩めると、何もなくても笑ってしまうくらいに、その日が楽しみだった。