昨日の決意を胸に私は今、死神さんと机を挟んで向かいながら話し合いを開いていた。
学校が始まるまで残り約四十分。家から学校に行くのにかかる時間が三十分と考えると、十分後には家を出ないといけない。
「で、お前はどうしたいんだよ」
「それは……」
「学校に行きたいのか? 行きたくないのか? それを言ってくれねえとこっちは何も出来ないぞ」
そう、私は今選択を迫られていた。昨日のこともあって正直、学校には行きたくない。だけど、あれだけ宣言しておいて嫌なことから逃げるのは違う気がする。部屋にある時計の秒針が私を急かすように音を立てる。
「もし、一人で行くのが嫌なら俺も一緒に行ってやる。お前がそれを望めばな」
死神さんは優しい声色でそう言った。確かに彼が隣にいてくれたら孤独は感じずに済むかもしれない。
「ついてきてほしい。お願い、死神さん」
「よし、じゃあ行くか」
私がお願いすると死神さんは立ち上がり、私に向けて手を伸ばした。その手をそっと掴む。
すると体がぐいっと引っ張られ、下の階へと続く階段に連れていかれた。死神さんはそのまま階段を駆けていく。
もちろん手を掴まれている私も道ずれになるわけで、転げ落ちそうになってしまう。
「え、死神さん! ちょっと待って!」
死神さんは私の言葉に聞く耳を持たない。
なんとか無事に下の階に辿り着いて胸を撫で下ろしていると、死神さんが肩で笑っているのが横目に見えた。
「そんなに笑わないでよ」
「悪い悪い」
謝りながらも未だに口元を抑え笑っている死神さんをじと目で見つめる。
「……悪かったって」
やっと私の気持ちが伝わったのか彼はフードの上からわしゃわしゃと頭を掻きながら、明後日の方向へと顔を向けていた。
そんなどこにでもいる普通の男の子のような姿を見ていると自然と笑みが零れた。
「死神さん、行こう。学校に遅れちゃう。今日は絶対に一日学校で過ごすって決めたんだから」
彼の横を通り過ぎ玄関のドアに手をかけようとしたそのとき、外側から鍵が開けられた。
勢いよく開いたドアの向こう側に立っていたのは、ボサボサの髪に加えスーツが着崩れている私のお母さんだった。
「依織!!」
私の姿を瞳に捉えると鞄をその場に落とし、勢いよく抱きついてきた。あまりにも急な展開に体が硬直してしまう。
「昨日の夜に先生から依織が学校から飛び出したって連絡がきて一晩中気が気でなかったんだから。終電を逃して帰ることも出来なかったし……」
一気に捲し立てて話すお母さんの圧にどうしていいのかわからず、怖気付いてしまう。
「お、お母さん。落ち着いて」
すると、今度は私の肩を痛いくらい強く掴んで激しく揺さぶってきた。
「落ち着けるもんですか! 自分の娘が危ない目にあってるかもしれないのに! お父さんも凄く心配してたのよ!」
お母さんの真剣な眼差しが私を掴んで、目を逸らすことを許してくれない。死神さんはそんな私たちの状況を静かに見守っているだけだった。
「もう……心配かけないで。お願いだから」
お母さんの懇願するような、そんな震えた声を初めて聞いた。昨日泣いたばかりだというのに、自然と涙が輪郭をなぞった。
私は腕をお母さんの背中に回し、力いっぱい抱き締め返した。
「ごめんなさい! もう、もう絶対あんなことしないから。約束する」
お母さんは私が考えてた以上に、私を大切にしてくれていた。その抱擁感から心が満たされていくのを感じた。
「本当に依織は、昔から変わらずお転婆娘なんだから」
そう言いながらポケットに潜ませていたらしいハンカチで涙をごしごしと拭ってくれる。その目元は柔らかに細められていた。
少しの間、お母さんと笑いあっていると後ろから視線を感じた。ふと時計を見ると学校が始まるまで残り三十分を切っていた。
「あ、お母さん。私もう行かなきゃ」
「行くって学校に?」
その問いかけに首を縦に振る。お母さんは眉をひそめ、心配そうに顔を覗いてきた。
「依織。無理してまで行かなくてもいいのよ」
「大丈夫だよ。私は一人だけどもう一人じゃないから」
死神さんのことを横目で見る。お母さんの反応を見る限り、きっと彼は私以外の人には見えないんだろう。
だけど私の目に映るなら、それは彼がここにいる証だから。
お母さんは一瞬不思議そうな顔をするも、すぐに笑みを浮かべた。
「そっか。それならきっと大丈夫ね」
そう言うと私を立ち上がらせて、玄関の前まで見送ってくれた。私がドアを開けて外に出ると、死神さんも後に着いてくる。
「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい。気をつけて」
お母さんに手を振り返して、学校へ続く道を歩く。
いつもは重い足取りが今日はなんだか軽い。この調子で歩いていけばなんとか朝のホームルームに間に合いそうだ。
「よかったな。ちゃんと話せて」
私より少し前を歩く死神さんが私の方に軽く顔を向ける。
「うん、ありがとう。死神さん」
「今回は俺何もしてないけど?」
彼はそう言うけれど、もし死神さんに会ってなかったら、きっと私は今でも自分の死を願っていたはずだから。親とあんなふうに話すことなんて考えられなかったと思う。
「死神さんのおかげだよ」
だから私は彼に笑ってそう伝えた。死神さんは「なら、いいけど」と言ってまた前に向き直ってしまった。だけど、私が話しかけたら素直に答えてくれる。
それが嬉しくて話題を振りながら他愛のない話をしていると、いつの間にか学校前に来ていた。
「やっと着いたか。それにしても暑いな」
そう言う死神さんの方を向くと、手で風を起こすようにパタパタとフードの中を仰いでいた。
「死神さんも暑さとか感じるんだ」
「当たり前だろ。お前は俺をなんだと思ってんだよ」
彼は呆れたように息をつく。
思い返してみると河川敷でのあの一回を除いて、死神さんのフード下を私は見たことがない。そのときだってたまたま風が吹いてほんの一瞬見えただけだった。
『だったらその暑そうなマントを脱げばいいのに』
その言葉が喉を通りかけたとき、私は口を噤んみ、それを飲み込んだ。
顔を見せないのも黒いマントを脱ごうとしないのも、もしかしたら死神界のルールでそう決まっているからなのかもしれない。
だったら私がとやかく言う権利なんてどこにもないから。
「私の教室三階にあるの。冷房効いてて涼しいと思うよ」
雑念を振り払うように早足で廊下を歩き、階段を上った。だけど、教室に近づくにくれてどうしても体が鉛のように重くなり、動きが鈍くなってしまう。
心臓がバクバクと鼓動を早める。お母さんには大丈夫だと言ったけれど、やっぱりいざ教室を目の前にすると緊張してしまうものだ。
隣に立っている死神さんに一瞬視線を移し、教室のドアを開けた。一斉にこっちに向く視線。それに足がすくそうになったとき、死神さんが私の背中を優しく押した。
「安心しろ。俺はここにいる」
その言葉を聞いた瞬間に、肩の力が抜けていくのを感じた。まだ怖いけれど、一人で耐えていたときよりも心が幾分か軽い。
教室に足を踏み入れ、椅子を引いて座る。前来たときは何も持たずに途中で学校を抜け出してしまったから、スクールバッグは机の横にかかったままだ。
その中から一時間目の授業に必要なものを出していく。その間、死神さんは窓枠にもたれかかってグラウンドを見ていた。
何かあるのかと思って、私も死神さんの視線の先を追う。でもそこに人は疎か、ボールの一つすら転がっていなかった。それなのにも関わらず、彼はずっとグラウンドを見つめている。
「どうかしたか?」
私の視線に気づいた死神さんがこっちを向く。
「なんでもない」
控えめに首を横に振り、そう答えると彼は私から視線を外し、すぐにさっきと同じ体勢に戻った。その姿はまるで何かを目に焼き付けているような、そんな感じがした。
それからすぐにチャイムが鳴って、担任である三宅先生が教室に入ってきた。先生は私の存在を確かめると安心したように少し目元を緩め、連絡事項を伝えていく。
その話を右耳から左耳へと聞き流していると、いつの間にかホームルームは終わっていて、一時間目の担当教師が三宅先生と入れ替わろうとしていた。
委員長の号令を合図に授業がスタートする。何回か授業を休んでいてついていけるか不安だったが、意外にも内容は理解出来た。
死神さんはすることがなくて暇なのか通路をぐるぐると周回している。たまに誰かのノートを覗き込んだり、机の上に座ったりして時間を潰していた。
そんなこんなで午前中の授業が終わり、今はお昼休み。家を出る前に用意していたおにぎりを片手に、私は学校を歩き回っていた。
「なあ、さっきからこれは何してんだ?」
そんな私の行動に痺れを切らしたのか、死神さんがとうとう口を開いた。その質問に私は目を泳がせながら答えることしか出来ない。
「何って……ご飯食べれる場所を探してるの」
「教室で食べればいいだろ?」
「そんなことできるわけないでしょ」
死神さんのその言葉に強く言い返してしまう。教室で食べられるなら私だってそうしてる。だけど、それが出来ないのはまだ周りの視線が怖いから。
「じゃあ保健室とかはどうだ?」
「保健室か……」
提案されたその場所は、正直私にとって心地がいい場所だとは言えなかった。先生が私に向ける視線が嫌だったから。けれど、今の私ならそれに含まれる優しさに向き合うことができる気がする。
「そうだね。そうするよ」
彼の提案にのり、保健室へ足を進める。すると死神さんも満足気に私の後ろをついてきた。
――保健室前についてから早数分。私はドアノブに手を伸ばしては引っ込め、延ばしては引っ込めを繰り返していた。
「入んねえの?」
「入るよ。でもまだ心の準備が……」
死神さんは私の心の内の不安を見透かしたように、「はあ」と息をつくと私の代わりにドアを開けた。
「堂々としてろよ。そしたら誰もお前を哀れむことなんてできない」
死神さんの言葉に勇気づけられ、一歩保健室の中に足を踏み入れた。すると何やら机の上で作業していた佐藤先生が私に気づき、優しい声色で話しかけてくれた。
「天宮さん。今日はどうしたの?」
「あの、お昼ご飯をここで食べたくて」
私がそう言うと、先生は「ここで食べて」と近くの椅子を指さした。言われた通りの場所に座り、きょろきょろと部屋を見渡す。見慣れたはずの光景と独特な薬の匂いが今日はやけに新鮮に思える。
「数日ぶりね。最近調子はどうなの?」
私の意識が完全に外側に向いていたとき、佐藤先生はお決まりのセリフで私に話しかけてきた。今までなら返事に困っていたその質問に、今は素直に答えることができる。
「調子はとてもいいです。それに最近は毎日が楽しいし」
物珍しそうに保健室内を物色している死神さんを横目に眺める。当の本人は私の視線などには全く気づいていない。
「たんだか少し変わったわね。前のあなたは自分を卑下していたように感じたの。自分は他人とは違う。他人のようにはなれないって」
佐藤先生は机の上で手を組みながら、伏し目がちにそう言った。確かにこれは先生の言う通りだ。今過去を振り返ってみても思い当たる節がいくつもある。前の私はただの悲劇のヒロインぶった子供だった。
些細なことで傷ついて泣いて、本気で自分は孤独なんだと思い込んでいた。高く厚い壁を築き、外の世界を見ようとしなかったのは自分自身なのに。
「私を見つけてくれた人がいるんです」
死神さんはそんな私を壁の中から強引に連れ出してくれた。私の恩人だ。
佐藤先生はゆっくりと私に視線を移したあと、心底ほっとしたように目尻を下げた。
「それは先生には出来なかったことね。あなたがいい人に出会えて本当によかった」
その表情があまりにも優しくて、心が温まっていくように感じた。
「ずっと私のこと心配してくれてありがとうございます」
今の自分にできる満面の笑みで「もう大丈夫です」と言うと、先生も微笑み返してくれた。
「さあさあ、昼休み終わる前にぱぱっとご飯食べちゃいなさいね」
「はい!」
その会話を合図におにぎりを一口かじった。いつもと何ら変わらないおにぎりのはずなのに、今日はなぜかとても美味しく感じた。
昼休みが終わり、今は五時間目の授業の真っ最中だ。国語科の先生の板書をノートに書き写していく。
死神さんのことは昼休みが終わってから一度も見ていない。私をおいて一体どこへ行ったんだろう、なんて彼女じみたことを考えてしまっている自分を鼻で笑った。
窓から入ってきたそよ風が私の頬を撫でる。それが死神さんが現れるときに吹く優しい風にあまりにも似ていたから、私はほとんど無意識のうちに外へと目をやった。
グラウンドの真ん中では死神さんがサッカーゴールに視線を向けながら、ぽつんと立ち竦んでいた。
「サッカーが好きなのかな」
思わず零してしまった独り言に慌てて口を抑え、周りを見渡す。みんな授業に集中していて、私の独り言を聞いている人はいないようだった。そのことにほっと胸を撫で下ろす。
もう一度グラウンドに視線を向けると、そこに死神さんの姿はなくて、彼が持っていたのであろうサッカーボールだけが寂しそうに転がっていた。
「死神さん、死神さん」
誰にも聞こえないような小さな声で何度か彼を呼ぶと、私の周りにあの優しい風が吹いた。
「どうかしたか?」
後ろからもう聞き慣れた彼の声が私の耳をくすぐる。そのことにどうしようもないほどの安心感を覚えた。
「あー、えっと……ただなんとなく呼びたくなったの」
「なんだそれ。まあ、別にいいけどな」
本当はあのとき見た死神さんの背中があまりにも小さくて、私を置いて消えてしまいそうだったから。だから不安になって彼を呼んだ。だけど、そんなことを面と向かって言えるほど私はまだ変われていなかったみたいだ。
その後の授業で死神さんが私から離れることは一度もなかった。まるで授業参観のように、彼はずっと教室の後ろから私を見守ってくれた。
なんとか六時間目の授業も乗り切って教科書を片付けていると、三宅先生に放課後残るようにと声をかけられてしまった。みんなが軽い挨拶を交わしながら帰っていく。
「天宮。こっちに座ってくれ」
クラスメイト全員の姿が見えなくなってから、先生と私は向かい合う形でそれぞれ椅子に腰かけた。どこを見たらいいかわからず視線を下にしたとき、視界の端で三宅先生が頭を下げているのが見えた。
「昨日のことなんだが、あれは完全に俺の配慮が足りなかった。すまない」
急に謝罪を始めた先生を私は唖然と眺めることしかできない。まさか謝られるなんて予想もしていなかった。だって昨日のことは全部、自分の弱さが招いた結果だから。
「私、先生のせいだなんて少しも思ってないです。だから謝らないでください」
跳ねるように顔を上げた先生の目をまっすぐ見る。先生は一瞬、目を見開いたあと脱力するかのように「ふう」と息を吐いた。
「強いな。天宮は」
「強くなろうとしてる最中です。少しでも早く強くなろうと」
今の私は強くなんてない。まだまだ弱い赤子同然だ。だから早く、少しでも早く強くならなきゃいけない。そんな私の気持ちを汲み取ってか、三宅先生は小さく首を横に振った。
「そう思えてる時点で、天宮は強いと思うぞ。それにまだまだ先は長いんだからな。今、無理して背伸びする必要はないんじゃないかと、俺は思う」
「子供なんだからもっと甘えていい」と言われて、曖昧に頷くことしかできなかった。だって私の命はもうあと五日で終わってしまうから。
机の下で指をおりながら数える。あと五日。その数字が心にチクリと刺さり、鈍い痛みとなって広がった。
話がひと通り終わったあと、先生は職員室へと帰っていった。
「俺たちも帰ろうぜ」
死神さんは私の隣へ来ると、そう言って先に歩きだした。そのあとを追うように廊下に出ると、昼間より幾分か冷えた空気が私を包み込んだ。
ふと窓から外を見ると、夕暮れときの薄暗い宙に三日月が佇んでいた。それに気を取られ、足が止まっていると前から彼の視線を感じた。
「早く来いよ」
遠いそこ声に少しでも近づけるように足を進め、帰路に立った。
学校が始まるまで残り約四十分。家から学校に行くのにかかる時間が三十分と考えると、十分後には家を出ないといけない。
「で、お前はどうしたいんだよ」
「それは……」
「学校に行きたいのか? 行きたくないのか? それを言ってくれねえとこっちは何も出来ないぞ」
そう、私は今選択を迫られていた。昨日のこともあって正直、学校には行きたくない。だけど、あれだけ宣言しておいて嫌なことから逃げるのは違う気がする。部屋にある時計の秒針が私を急かすように音を立てる。
「もし、一人で行くのが嫌なら俺も一緒に行ってやる。お前がそれを望めばな」
死神さんは優しい声色でそう言った。確かに彼が隣にいてくれたら孤独は感じずに済むかもしれない。
「ついてきてほしい。お願い、死神さん」
「よし、じゃあ行くか」
私がお願いすると死神さんは立ち上がり、私に向けて手を伸ばした。その手をそっと掴む。
すると体がぐいっと引っ張られ、下の階へと続く階段に連れていかれた。死神さんはそのまま階段を駆けていく。
もちろん手を掴まれている私も道ずれになるわけで、転げ落ちそうになってしまう。
「え、死神さん! ちょっと待って!」
死神さんは私の言葉に聞く耳を持たない。
なんとか無事に下の階に辿り着いて胸を撫で下ろしていると、死神さんが肩で笑っているのが横目に見えた。
「そんなに笑わないでよ」
「悪い悪い」
謝りながらも未だに口元を抑え笑っている死神さんをじと目で見つめる。
「……悪かったって」
やっと私の気持ちが伝わったのか彼はフードの上からわしゃわしゃと頭を掻きながら、明後日の方向へと顔を向けていた。
そんなどこにでもいる普通の男の子のような姿を見ていると自然と笑みが零れた。
「死神さん、行こう。学校に遅れちゃう。今日は絶対に一日学校で過ごすって決めたんだから」
彼の横を通り過ぎ玄関のドアに手をかけようとしたそのとき、外側から鍵が開けられた。
勢いよく開いたドアの向こう側に立っていたのは、ボサボサの髪に加えスーツが着崩れている私のお母さんだった。
「依織!!」
私の姿を瞳に捉えると鞄をその場に落とし、勢いよく抱きついてきた。あまりにも急な展開に体が硬直してしまう。
「昨日の夜に先生から依織が学校から飛び出したって連絡がきて一晩中気が気でなかったんだから。終電を逃して帰ることも出来なかったし……」
一気に捲し立てて話すお母さんの圧にどうしていいのかわからず、怖気付いてしまう。
「お、お母さん。落ち着いて」
すると、今度は私の肩を痛いくらい強く掴んで激しく揺さぶってきた。
「落ち着けるもんですか! 自分の娘が危ない目にあってるかもしれないのに! お父さんも凄く心配してたのよ!」
お母さんの真剣な眼差しが私を掴んで、目を逸らすことを許してくれない。死神さんはそんな私たちの状況を静かに見守っているだけだった。
「もう……心配かけないで。お願いだから」
お母さんの懇願するような、そんな震えた声を初めて聞いた。昨日泣いたばかりだというのに、自然と涙が輪郭をなぞった。
私は腕をお母さんの背中に回し、力いっぱい抱き締め返した。
「ごめんなさい! もう、もう絶対あんなことしないから。約束する」
お母さんは私が考えてた以上に、私を大切にしてくれていた。その抱擁感から心が満たされていくのを感じた。
「本当に依織は、昔から変わらずお転婆娘なんだから」
そう言いながらポケットに潜ませていたらしいハンカチで涙をごしごしと拭ってくれる。その目元は柔らかに細められていた。
少しの間、お母さんと笑いあっていると後ろから視線を感じた。ふと時計を見ると学校が始まるまで残り三十分を切っていた。
「あ、お母さん。私もう行かなきゃ」
「行くって学校に?」
その問いかけに首を縦に振る。お母さんは眉をひそめ、心配そうに顔を覗いてきた。
「依織。無理してまで行かなくてもいいのよ」
「大丈夫だよ。私は一人だけどもう一人じゃないから」
死神さんのことを横目で見る。お母さんの反応を見る限り、きっと彼は私以外の人には見えないんだろう。
だけど私の目に映るなら、それは彼がここにいる証だから。
お母さんは一瞬不思議そうな顔をするも、すぐに笑みを浮かべた。
「そっか。それならきっと大丈夫ね」
そう言うと私を立ち上がらせて、玄関の前まで見送ってくれた。私がドアを開けて外に出ると、死神さんも後に着いてくる。
「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい。気をつけて」
お母さんに手を振り返して、学校へ続く道を歩く。
いつもは重い足取りが今日はなんだか軽い。この調子で歩いていけばなんとか朝のホームルームに間に合いそうだ。
「よかったな。ちゃんと話せて」
私より少し前を歩く死神さんが私の方に軽く顔を向ける。
「うん、ありがとう。死神さん」
「今回は俺何もしてないけど?」
彼はそう言うけれど、もし死神さんに会ってなかったら、きっと私は今でも自分の死を願っていたはずだから。親とあんなふうに話すことなんて考えられなかったと思う。
「死神さんのおかげだよ」
だから私は彼に笑ってそう伝えた。死神さんは「なら、いいけど」と言ってまた前に向き直ってしまった。だけど、私が話しかけたら素直に答えてくれる。
それが嬉しくて話題を振りながら他愛のない話をしていると、いつの間にか学校前に来ていた。
「やっと着いたか。それにしても暑いな」
そう言う死神さんの方を向くと、手で風を起こすようにパタパタとフードの中を仰いでいた。
「死神さんも暑さとか感じるんだ」
「当たり前だろ。お前は俺をなんだと思ってんだよ」
彼は呆れたように息をつく。
思い返してみると河川敷でのあの一回を除いて、死神さんのフード下を私は見たことがない。そのときだってたまたま風が吹いてほんの一瞬見えただけだった。
『だったらその暑そうなマントを脱げばいいのに』
その言葉が喉を通りかけたとき、私は口を噤んみ、それを飲み込んだ。
顔を見せないのも黒いマントを脱ごうとしないのも、もしかしたら死神界のルールでそう決まっているからなのかもしれない。
だったら私がとやかく言う権利なんてどこにもないから。
「私の教室三階にあるの。冷房効いてて涼しいと思うよ」
雑念を振り払うように早足で廊下を歩き、階段を上った。だけど、教室に近づくにくれてどうしても体が鉛のように重くなり、動きが鈍くなってしまう。
心臓がバクバクと鼓動を早める。お母さんには大丈夫だと言ったけれど、やっぱりいざ教室を目の前にすると緊張してしまうものだ。
隣に立っている死神さんに一瞬視線を移し、教室のドアを開けた。一斉にこっちに向く視線。それに足がすくそうになったとき、死神さんが私の背中を優しく押した。
「安心しろ。俺はここにいる」
その言葉を聞いた瞬間に、肩の力が抜けていくのを感じた。まだ怖いけれど、一人で耐えていたときよりも心が幾分か軽い。
教室に足を踏み入れ、椅子を引いて座る。前来たときは何も持たずに途中で学校を抜け出してしまったから、スクールバッグは机の横にかかったままだ。
その中から一時間目の授業に必要なものを出していく。その間、死神さんは窓枠にもたれかかってグラウンドを見ていた。
何かあるのかと思って、私も死神さんの視線の先を追う。でもそこに人は疎か、ボールの一つすら転がっていなかった。それなのにも関わらず、彼はずっとグラウンドを見つめている。
「どうかしたか?」
私の視線に気づいた死神さんがこっちを向く。
「なんでもない」
控えめに首を横に振り、そう答えると彼は私から視線を外し、すぐにさっきと同じ体勢に戻った。その姿はまるで何かを目に焼き付けているような、そんな感じがした。
それからすぐにチャイムが鳴って、担任である三宅先生が教室に入ってきた。先生は私の存在を確かめると安心したように少し目元を緩め、連絡事項を伝えていく。
その話を右耳から左耳へと聞き流していると、いつの間にかホームルームは終わっていて、一時間目の担当教師が三宅先生と入れ替わろうとしていた。
委員長の号令を合図に授業がスタートする。何回か授業を休んでいてついていけるか不安だったが、意外にも内容は理解出来た。
死神さんはすることがなくて暇なのか通路をぐるぐると周回している。たまに誰かのノートを覗き込んだり、机の上に座ったりして時間を潰していた。
そんなこんなで午前中の授業が終わり、今はお昼休み。家を出る前に用意していたおにぎりを片手に、私は学校を歩き回っていた。
「なあ、さっきからこれは何してんだ?」
そんな私の行動に痺れを切らしたのか、死神さんがとうとう口を開いた。その質問に私は目を泳がせながら答えることしか出来ない。
「何って……ご飯食べれる場所を探してるの」
「教室で食べればいいだろ?」
「そんなことできるわけないでしょ」
死神さんのその言葉に強く言い返してしまう。教室で食べられるなら私だってそうしてる。だけど、それが出来ないのはまだ周りの視線が怖いから。
「じゃあ保健室とかはどうだ?」
「保健室か……」
提案されたその場所は、正直私にとって心地がいい場所だとは言えなかった。先生が私に向ける視線が嫌だったから。けれど、今の私ならそれに含まれる優しさに向き合うことができる気がする。
「そうだね。そうするよ」
彼の提案にのり、保健室へ足を進める。すると死神さんも満足気に私の後ろをついてきた。
――保健室前についてから早数分。私はドアノブに手を伸ばしては引っ込め、延ばしては引っ込めを繰り返していた。
「入んねえの?」
「入るよ。でもまだ心の準備が……」
死神さんは私の心の内の不安を見透かしたように、「はあ」と息をつくと私の代わりにドアを開けた。
「堂々としてろよ。そしたら誰もお前を哀れむことなんてできない」
死神さんの言葉に勇気づけられ、一歩保健室の中に足を踏み入れた。すると何やら机の上で作業していた佐藤先生が私に気づき、優しい声色で話しかけてくれた。
「天宮さん。今日はどうしたの?」
「あの、お昼ご飯をここで食べたくて」
私がそう言うと、先生は「ここで食べて」と近くの椅子を指さした。言われた通りの場所に座り、きょろきょろと部屋を見渡す。見慣れたはずの光景と独特な薬の匂いが今日はやけに新鮮に思える。
「数日ぶりね。最近調子はどうなの?」
私の意識が完全に外側に向いていたとき、佐藤先生はお決まりのセリフで私に話しかけてきた。今までなら返事に困っていたその質問に、今は素直に答えることができる。
「調子はとてもいいです。それに最近は毎日が楽しいし」
物珍しそうに保健室内を物色している死神さんを横目に眺める。当の本人は私の視線などには全く気づいていない。
「たんだか少し変わったわね。前のあなたは自分を卑下していたように感じたの。自分は他人とは違う。他人のようにはなれないって」
佐藤先生は机の上で手を組みながら、伏し目がちにそう言った。確かにこれは先生の言う通りだ。今過去を振り返ってみても思い当たる節がいくつもある。前の私はただの悲劇のヒロインぶった子供だった。
些細なことで傷ついて泣いて、本気で自分は孤独なんだと思い込んでいた。高く厚い壁を築き、外の世界を見ようとしなかったのは自分自身なのに。
「私を見つけてくれた人がいるんです」
死神さんはそんな私を壁の中から強引に連れ出してくれた。私の恩人だ。
佐藤先生はゆっくりと私に視線を移したあと、心底ほっとしたように目尻を下げた。
「それは先生には出来なかったことね。あなたがいい人に出会えて本当によかった」
その表情があまりにも優しくて、心が温まっていくように感じた。
「ずっと私のこと心配してくれてありがとうございます」
今の自分にできる満面の笑みで「もう大丈夫です」と言うと、先生も微笑み返してくれた。
「さあさあ、昼休み終わる前にぱぱっとご飯食べちゃいなさいね」
「はい!」
その会話を合図におにぎりを一口かじった。いつもと何ら変わらないおにぎりのはずなのに、今日はなぜかとても美味しく感じた。
昼休みが終わり、今は五時間目の授業の真っ最中だ。国語科の先生の板書をノートに書き写していく。
死神さんのことは昼休みが終わってから一度も見ていない。私をおいて一体どこへ行ったんだろう、なんて彼女じみたことを考えてしまっている自分を鼻で笑った。
窓から入ってきたそよ風が私の頬を撫でる。それが死神さんが現れるときに吹く優しい風にあまりにも似ていたから、私はほとんど無意識のうちに外へと目をやった。
グラウンドの真ん中では死神さんがサッカーゴールに視線を向けながら、ぽつんと立ち竦んでいた。
「サッカーが好きなのかな」
思わず零してしまった独り言に慌てて口を抑え、周りを見渡す。みんな授業に集中していて、私の独り言を聞いている人はいないようだった。そのことにほっと胸を撫で下ろす。
もう一度グラウンドに視線を向けると、そこに死神さんの姿はなくて、彼が持っていたのであろうサッカーボールだけが寂しそうに転がっていた。
「死神さん、死神さん」
誰にも聞こえないような小さな声で何度か彼を呼ぶと、私の周りにあの優しい風が吹いた。
「どうかしたか?」
後ろからもう聞き慣れた彼の声が私の耳をくすぐる。そのことにどうしようもないほどの安心感を覚えた。
「あー、えっと……ただなんとなく呼びたくなったの」
「なんだそれ。まあ、別にいいけどな」
本当はあのとき見た死神さんの背中があまりにも小さくて、私を置いて消えてしまいそうだったから。だから不安になって彼を呼んだ。だけど、そんなことを面と向かって言えるほど私はまだ変われていなかったみたいだ。
その後の授業で死神さんが私から離れることは一度もなかった。まるで授業参観のように、彼はずっと教室の後ろから私を見守ってくれた。
なんとか六時間目の授業も乗り切って教科書を片付けていると、三宅先生に放課後残るようにと声をかけられてしまった。みんなが軽い挨拶を交わしながら帰っていく。
「天宮。こっちに座ってくれ」
クラスメイト全員の姿が見えなくなってから、先生と私は向かい合う形でそれぞれ椅子に腰かけた。どこを見たらいいかわからず視線を下にしたとき、視界の端で三宅先生が頭を下げているのが見えた。
「昨日のことなんだが、あれは完全に俺の配慮が足りなかった。すまない」
急に謝罪を始めた先生を私は唖然と眺めることしかできない。まさか謝られるなんて予想もしていなかった。だって昨日のことは全部、自分の弱さが招いた結果だから。
「私、先生のせいだなんて少しも思ってないです。だから謝らないでください」
跳ねるように顔を上げた先生の目をまっすぐ見る。先生は一瞬、目を見開いたあと脱力するかのように「ふう」と息を吐いた。
「強いな。天宮は」
「強くなろうとしてる最中です。少しでも早く強くなろうと」
今の私は強くなんてない。まだまだ弱い赤子同然だ。だから早く、少しでも早く強くならなきゃいけない。そんな私の気持ちを汲み取ってか、三宅先生は小さく首を横に振った。
「そう思えてる時点で、天宮は強いと思うぞ。それにまだまだ先は長いんだからな。今、無理して背伸びする必要はないんじゃないかと、俺は思う」
「子供なんだからもっと甘えていい」と言われて、曖昧に頷くことしかできなかった。だって私の命はもうあと五日で終わってしまうから。
机の下で指をおりながら数える。あと五日。その数字が心にチクリと刺さり、鈍い痛みとなって広がった。
話がひと通り終わったあと、先生は職員室へと帰っていった。
「俺たちも帰ろうぜ」
死神さんは私の隣へ来ると、そう言って先に歩きだした。そのあとを追うように廊下に出ると、昼間より幾分か冷えた空気が私を包み込んだ。
ふと窓から外を見ると、夕暮れときの薄暗い宙に三日月が佇んでいた。それに気を取られ、足が止まっていると前から彼の視線を感じた。
「早く来いよ」
遠いそこ声に少しでも近づけるように足を進め、帰路に立った。