「……」
「さあ!」
「……あの」
「なんだい?」
「……その」
「ん?」
「申し訳ないんですけど、オレ……『恋』なんかしてないです」
「……」
「……」

「……え?」

 オレと白猫先輩の間に、沈黙の空気が流れた。

 白猫先輩は信じられないモノを見るように、オレから視線を外さず、本を片手におずおずと身を引いた。

「……いや、そんなはずない!」
「って、言われても……」

 “恋”してるなんて言われても、オレにはてんで思い当たることがなかった。

「ウソだね!」
「……いや、ウソじゃないですって」

 オレが恋してないと、よっぽどこの人に不利益が生じるようだ。だいたい“願い叶えの本製作委員会”ってなんだよ? 怪しいことこの上ない。

 まあ、「童貞捨てたい」とは思ってたけど、これって単なる“欲望”であって、“恋”ではないんじゃないか? この人と絶対したいみたいな、特定の相手も今いないし。

「……そんなはず、ないんだ。本が開けたと言うことは、『恋』をしているはずなんだ!」

 白猫先輩は、そうブツブツ呟きながらワナワナと震えて、しまいには部屋の中をグルグルと徘徊し出した。

 ――なんだろ、この人? いや、猫か?

 視線に気が付いたのか、白猫先輩はキッとオレを睨むと、再び赤い本を差し出して来た。

「確かに、以前部室でキミに会ったとき、キミは条件を満たしてなかった。この短期間でなにがあったかは知らないけど、『恋』なんて、一瞬で落ちるモノだからね! キミが気が付いてないだけで、確実にキミは恋に落ちてる!」

 めっちゃ怖っ! なんなんだよ、この人……いや、猫か?

「そんなに恋してないと言い切るなら、ページを捲ればいい。それですべてがハッキリする!」

「……え……いや、その……」

 なんか、悪徳商法に引っかかる一歩手前のような気分。絶対に捲っちゃいけない気がした。

「本当は、気付くのが怖いんだろう? 恋をしている自分に、気が付くのが怖いんだ。そして、どんなあさましい願望がページに浮き出るのか、見るのが恐ろしいんだろ?」

 気が付くのが怖いと言われて、オレはドキッとした。

 心当たりなんかない……なのに、オレの心は警鐘を鳴らしている。そんな気がした。

 違う……そんなはずない。別に……好きなんかじゃない。そんな風には見ていない。

「……怖くなんか……」

「なら、ページを捲ってみろよ。さあ!」

 白猫先輩は、挑発的に本を無理矢理オレに掴ませた。

 本を渡されて、手が震える。

 知りたくない、自分の本当の気持ちなんて……

 ――気付きたくない。

 だけど、ほんの少しだけ心の奥に、真実を確かめたい思いが眠っていた。

 その思いは、本当はオレの本心だったのかもしれない。

 オレはその思いに導かれるように、恐る恐るページを捲った。


つづく
 オレは恐る恐る本のページを捲ってみた。
 
 開いたページは真っ白で、なにも書かれてはいなかった。

 ホッとしたような、少し残念なような、複雑な心境だった。

「……ほらっ」と白猫先輩に向き直ると同時に、捲られたページが輝き出した。

 輝きは文字を描きながら、そのページを踊るように動き回り――

 ついには真っ白だったページに、文章が浮かび上がったのだ。

「!」
「ほら、見ろ! やっぱり……」

 意気揚々と、白猫先輩はページを確認しようとする。

「……これは!」
「……」
「……」
「……」


「……プッ」

 白猫先輩は、我慢しきれないと言わんばかりに吹き出した。

 オレはその白猫先輩の反応に、耳の裏まで熱くなる思いだった。

 今まで生きてて、こんなに恥ずかしいと思ったことはない。

 なんだって、こんな願いが浮き上がって来るんだ! この場から出来ることなら、今すぐ消え去りたい。

 ついには白猫先輩は大声で笑い出し、その声は部屋内に響き渡った。惨めで恥ずかしいオレの気持ちを、さらに煽って来る。

「ハハハハハハハ! なんだよ、これ! 今まで、こんな願い見たことないよ! 腹よじれる! 純粋か!」

 オレはますます恥ずかしさが込み上げて、なけなしの言い訳で取り繕ろおうとした。

「ちっ、違う! これは!」
「ハハハハハ! 誤魔化さなくてもいいよ、この本に映し出された願いは『本心』だから! いや、にしてもね……こんな純粋な願いをするやつがいるなんて、創作以上だよ、キミの『恋心』!」

 “恋”と言われて、オレはうっとなった……やっぱり、そうなのか? 本当にこの気持ちが、そうなんだろうか?

「ハハハ……ゴメン、ゴメン。笑ったりして。いや、あまりにも……」
「まだ、笑ってるじゃないか!」
「そう、むくれるなって! 良いよ、すごく良い!」
「馬鹿にしてんだろ!」
「いや、馬鹿みたいに可愛い願いだとは思うけどね……ククッ……こんな物語があったって悪くない。むしろ、この本の内容に花を添えるよ。ボクは気に入った!」

 そう言いつつも、白猫先輩はときたま、笑いを堪えるように体を震えさせる。

 は! どうせ、純粋で可愛らしい願いですよ。童貞のオレには似合いだわ!

 せめてもっとかっこいい、意外性があって、突き抜けた願いが映れば良かったのにと思ったが、自分の本心がこれだと言うのだから仕方ない。

 白紙のページに、映し出されたオレの願い――それは、

『渡辺明日奈といつか一緒に、果実園リーベルに行きたい』

 と言うものだった――


つづく
【恋】
“特定の誰かに特別の愛情をいだき、高揚した気分で、二人だけで一緒にいたい、精神的な一体感を分かち合いたい、できるなら肉体的な一体感も得たいと願いながら、常にはかなえられないで、やるせない思いに駆られたり、まれにかなえられて、歓喜したりする状態に身を置くこと”

 ……。

 オレは「恋」に対する説明の書かれた辞書のページを、昨日の“願い叶えの本”事件から、だいぶ冷静になった頭で黙って眺めていた。

 オレがこの辞書の説明文に載っているような感情を、あの“渡辺明日奈”に抱いていると?

 いや、一ミリも一致してないと思うんだけど?

 まずこの、「特別な愛情」ってなんだ? 抽象的でまったく分からない。
 そもそも「愛」が、具体的に分からない。

 それに渡辺と「二人きりでいたい」なんて、思ったことはない。遅刻の罰で図書委員の仕事を手伝ったとき、たまたま二人きりになるシチュエーションはあったが、あれは強制的なものであって、オレが望んだわけではないのだ。

「精神的な一体感」とは、渡辺と同じ思いを、共有したいということだろうか?

 新学期始めに図書室に行ったとき、渡辺とはまったく思考が違い、分かり合えないと感じたものだ。

 確かに考え方が似ているもの同士なら、友達、あるいは親友にはなれたかもしれないが、オレと渡辺の性格が違いすぎるという問題以前に、男と女は、絶対的に共感なんかし合えないと思うんだよな。

 分かり合えるなら世の中、男は、女は、ジェンダーレスはなんて、いちいち問題にならないはずだ。

「肉体的な一体感」とは、まあ……つまり、そういうことだと思うけど、別に渡辺と、そういうことをしたいなんて思っていない。

 確かに、あのとき勢いで押し倒してしまったが、あれは性的な衝動とは別のなにかが、オレの中で激しく働いたせいだ。

 あのときの苛立った感情に関しては、自分でも上手く説明出来ない。

 あの後すぐに、渡辺を押し倒したことをものすごく後悔したし、今ではあれ以上のことをしなくて、本当に良かったと心の底から思っている。

 なので「常にはかなえられないで、やるせない思いに駆られたり、まれにかなえられて、歓喜したりする状態に身を置くこと」も、オレの心情にはまったくそぐわないのだ。

 これでもオレが「渡辺明日奈」に恋をしているというのだろうか?

 本当に、解せない。

 なんであんな“願い”がページに映し出されたのだろうか?

 だいたいオレの「理想」はもっと――


「相葉くん、なに見てるの?」

 オレは耳元で突然響いたその声に、飛び上がりそうになった。

 反射的にその声の方へ顔を向けると、隣の席の石田奈美が、不思議そうにオレの方を覗き込んでいた。


つづく
 石田奈美はさらに、容赦なくオレの机の上を覗き込んでくる。

 「え? 辞書? 今日一限目から、小テストとかあったっけ?」

 オレは調べていた項目を気取られないように、慌てて辞書を閉じた。

「いや、ないと思うけど……」
「……にしても、ふーん? 相葉くんが遅刻してこないなんて、今日槍でも降るんじゃない?」

 ……っく!

 石田はそうイヤミったらしく言いながら、自分の席に軽快に座った。

「で。なに真剣に調べてたの?」
「別になんも、調べてないって……」

 こういうときの石田は本当にしつこい。というか、いつだってしつこいが。

「【恋】……特定の誰かに特別の愛情をいだき、高揚した気分で、二人だけで一緒にいたい、精神的な一体感を分かち合いたい……」
「え⁉︎」
「今、その項目、見てたでしょ⁉︎ え? なに? 本当に好きな子、出来たの⁉︎」

「⁉︎」

 怖っ! っていうか、あの一瞬で見られてた! なんて観察眼だコイツ! 加えて瞬時に、あの文面を記憶する能力、おまえエスパーか、なにかか!

 女子のこの「恋愛」に関するセンサーというのは、本当にすごい。マジ感心させられる。

 思春期男子が五十二秒に一度、エロいことを考えていると論じた、動画を観たことがあるが、女子にとってのソレは、まさに「恋愛」のことなのだろうと思った。

「いや、そんなんじゃ……」
「てか、『恋』を辞書で調べるって、小学生か!」

 ガハハと石田は笑い出した。クソ……バカにしやがって!

「じゃあ、お前は明確に『恋』がなんなのか、分かってるのかよ?」

 ん? と石田は驚いたように、オレを見て目をパチクリさせた。

「そりゃ、分かるでしょ?」
「具体的に、どういったことで?」
「ビビッと来るでしょう? ああ、もうこの人のことが好きって! 分かるでしょ?」

 ――まったく分からん!

「石田って、好きなやついるの?」
「え……?」

 その質問で、オレたちの間に微妙な空気が流れた。

 ヤバイ……聞いちゃいけなかったか? てか、女子に対して気軽にこんな質問、しちゃダメだった気がする。

「……え? あんたもしかして、私のこと好きなんじゃないでしょうね? 悪いけど、全然タイプじゃないし、私好きな人いるし!」

 石田が心底嫌そうに真顔で答えて来た。マジ自意識過剰だな! と思ったけど、女子相手にこんな質問をしたオレが悪かった。本当、こういうところがダメなんだな、オレって……。

「違うから、安心してくれ……で、なんでその人のことが好きだって分かるわけ?」
「なんか、そうあっさり否定されると、面白くないわ」

 どっちだよ! 本当、女って生き物は!

「だから、さっきも言った通り、ビビッて来るのよ! いつの間にか、目で追ってて、目が合ったらドキッとするし、少しでも近づけることがあったら、それだけで嬉しいし……」

「……」

 それなら分かる気がする。
 
 石田のフワッとした説明は、正直辞書の堅苦しい説明より、オレの心に刺さった。

 オレも、街で見かけたスタイルのいい美人とたまたま目が合ったとき、ドキッとするし、可愛い店員さんに声を掛けられた日は、すごく気分が良いけど……

 でも、なんか違うんだよな……

 同じなようで、なにかが違う。

 その境界線が、オレにはどうしても分からないのだ。

「そういえば話全然違うけど、あんたって渡辺さんと仲良いの?」

 オレはその質問に体の芯から、凍りつく思いだった。

 なんで今、このタイミングで渡辺の名前が?

 勝手に心臓が早鐘を打つ。呼吸が上手く出来ない。

 こいつ――オレの心が読めるのか?

 オレは恐る恐る石田の顔を見た。なにも悪びれることなく、素の表情でキョトンとオレの顔を伺っている。

 な……なにか、言葉を返さなければ……変に思われる。

 オレはなんとか、次の言葉を振り絞った。

「……いや、別に。仲良くなんか、ないけど。なんで、そんなこと聞くんだよ?」
「この前の体育の授業のときに、ちょうど渡辺さんと同じチームになって。あんたの話になってさ……」
「へ、へえ。……多分、オレあいつの委員会の仕事、罰当番として手伝ってたから、それでだろ?」
「確かに、そんなこと言ってたかも」
「……」
「……」

 オレと石田の間に、再び変な空気が流れた。
 しばらくのあと、石田はニヤッと口角を上げた。

「フーン」
「……な、なんだよ!」
「なるほど。そーゆーことか。へー?」
「なに、一人で納得してるんだよ!」
「にしても、ちょっと意外」
「意外って、なにが!」

 石田は前に向き直り、横目でニタニタとオレを見て来た。

「あんた、顔真っ赤だよ」
「⁉︎」

 石田にそう指摘されて、首元まで熱くなっていることに気が付いた。

 違うのに……そんなんじゃないのに!


「それが、恋だよ」

 石田は得意げに言い放った。



つづく
「相葉くん、ジャンケンの必勝法って知ってる?」
「……は?」

 隣を歩いていた梅野が、唐突に切り出して来た。

「いや、知らねえよ。知ってたら今、おまえと、こうしてゴミ箱持ってないだろ? ……そういうおまえは、知ってるのか?」
「ジャンケンをする直前で、必勝法があったことに気が付いたんだけど、どんなんだったか思い出せなくて……負けた」

 ……なにやってんだよ、コイツは。

 必勝法があるって分かっていても、肝心のその方法を覚えてないんじゃ意味ないじゃないか?

 本当、中身のないやつ。梅野は見た目も中身も、こんな風に残念なやつだった。

 オレたちはまだ残暑の残る校舎の渡り廊下を、ゴミ箱を持って歩いていた。
 
 ギラギラと九月の太陽の日差しが、オレの体を突き刺して来る。焼けるわ!
 クッソ暑いし、ヤロウと一緒だし、ああ、なんだってオレはいつもこうなんだ!

 掃除当番のあと、誰がゴミ捨てにいくかで揉めて、ジャンケンに負けたやつがということになり、オレと梅野が負けて……今に至るというわけだ。

 本当に細かくオレは、ついていない星の元に生まれているらしい。

「……」
「……」

 梅野とは席が近いというだけで、特に仲が良いわけではない。
 趣味もテンションも、まったく合わない。だからこんな風に二人きりになると、会話が続かなくなる。なにを話していいか分からない。

 お互い、共通の話題も特にないし……あ!

「梅野、おまえさ、友香さんとどうなったんだよ?」
「え?」

 “友香さん”とは、梅野が今年の夏休み、童貞を捨てるきっかけになった、年上の女性らしい。

 正直……こんな残念なやつに先を越され、腹立たしい気持ちもまだあったが、オレはそれ以上に、梅野の“恋”について聞いてみたかった。“男”側の観点も知りたかったのだ。

「……ああ、友香さんか。……連絡、取れなくなっちゃったんだよね」

 ……あ、やば。余計なこと聞いたかも。

 シュンとする梅野を横目に、オレは少し申し訳なくなった。

 遊ばれたって、やつか?
 まあ確かに、年上のお姉さんが本気になるような男じゃないだろと、オレもたいがい、梅野に対して失礼なことを瞬間考えたが、もし、自分が梅野の立場だった場合、少なからずショックだろう。

「あ、わりい。変なこと聞いた。気にしないでくれ……」
「うん。もう、別に気にしてない」
「え?」

 さっきの暗めのトーンと、うって変わって梅野は軽快に答えた。

「今、友香さんどころじゃないんだよね!」
「え?」
「相葉くん、M・Qって知ってる?」
「……え? いや、聞いたことないな? それがなんなの?」
「“ミステリー・クイーン”の略称! 今、最高にキてる、地下アイドルなんだよね! 三人組のアイドルグループなんだけど、特に、センターの朝比奈レイちゃんが、本当可愛くて、輝いてて、メジャーデビューも、そう遠くないと思うんだよ!」

 ……。

 梅野はオレが目の前にいることも、忘れているような陶酔ぶりだった。

 そのあとも梅野はマシンガンのように、その地下アイドルグループのことについて語っていた。

 ――正直、かなり引いた。

 が、このなにかに夢中になっている感じ……恋についてイキイキと論じているときの、石田奈美とよく似ていると思った。

 梅野の地下アイドルグループへの入れ込みようは、“推し活”であって、“恋”とは違うと、言うやつもいるかもしれない。

 ――でも、本当にそうだろうか?

 あの辞書にあった“恋”の説明文を思い出す。

 “特定の誰かに特別の愛情をいだき、高揚した気分で、二人だけで一緒にいたい、精神的な一体感を分かち合いたい、できるなら肉体的な一体感も得たいと願いながら、常にはかなえられないで、やるせない思いに駆られたり、まれにかなえられて、歓喜したりする状態に身を置くこと”

 この説明文の内容と、梅野の推しアイドルへの想いは、そんなに違わないんじゃないかと感じたのだ。
 梅野だって、男だ。微塵も説明文のようなことを考えてないなんて、言えないはずだ。絶対あわよくばと思っている。 
 実際、会話の節々に、そういう片鱗を感じた。

 アイドルを神格化して、崇拝するように接してるやつもいるだろうが、アイドルだって人間だ。

 実際、ファンとくっつくアイドルだって珍しくない。

 それに前どっかのコメンテーターが、“推し活”をするとき、“恋”をしているときに分泌される、幸せホルモンのセロトニンが同様に分泌されているとか、なんとか、言っていた気がする。

 それを踏まえると、オレには石田が言うような“恋”も、梅野がしている“推し活”も大した違いがないように思えて……

 ますます“恋”と言うものがなんなのか、オレはよく分からなくなった。


つづく
 ここ数日の間、オレは“恋”と言うものについて改めて考えてみた。

 こんなアホみたいに、“恋”について考えてる男子高校生なんか、オレの他にいるんだろうか? ……いや、いないだろう。

 オレはそういうことに目覚めたころから、恋なんて“性欲”を体裁よく言い換えたものだと思ってた。

 とどのつまり、その相手と“やりたいか、やりたくないか”だろう?

 “恋”なんて言葉は、人間は他の動物とは違うと、言いたいがための言い訳だ。

 実際、今までオレが好きになって来た相手は、綺麗で、優しくて、華があって、大人っぽくて、スタイルがいい、まさに男なら誰もが好きになるであろう、テンプレみたいな女性だった。

 それが言うなれば“恋”だと思ってた。

 ただ、ここしばらく周りの色んな意見や、考え、はたまた今までまったく興味のなかった、恋愛映画、ドラマ、漫画なんかを見て、改めて思ったことがある。

 人の数だけ“恋”のパターンがあり、それは千差万別だと言うことだ。
 
 数行の、あんな辞書の言葉では測れないと感じた。

 そして本人が、その想いを“恋”だと認識したとき、初めてその感情は“恋”だと成立するということ。

 だから、オレのテンプレのような好みから来る、女性への興味も、あのときは“恋”だと思ってたから、恋なのだ。

 ……。

 そして渡辺明日奈への想いは、恋と認めなければ、恋じゃない――。

 オレはなにかに言い訳するように、必死にそう思い込もうとしていた。

 どうしてこんなに“恋”だと認めたくなかったのか、このときのオレには、よく分かっていなかった。

***

「おかえり」
「うわっ!」

 学校から帰宅し、自室のドアを開けると、オレの部屋の勉強机の椅子に、当たり前のように白猫先輩が座っていた。

「どこから入って!」

 白猫先輩は目を細めてニッコリ微笑むと、机の上に置かれていた、赤いハードカバーの本をツンツンと指差した。

 そうだ……こいつは人間じゃない。そして、本物の猫でもない。得体の知れないもの……

 ――願い叶えの本の管理者だ。

 オレの常識の範疇を超えるもの……

 管理者としてのこいつと出会ったときも、本からの登場だった。

「な、なんだよ?」
「なんだよ? じゃないよ。この前、説明したと思うけど、本の貸し出し期間は二週間だから。そろそろどうするのか、決まったかと思って?」

 白猫先輩は整った綺麗な顔で、薄く不気味に微笑みながら、赤い本をオレに差し出して来た。


つづく
「……」

 オレは赤い本を差し出されて、思わず身を引いた。白猫先輩は早く願えと言わんばかりに、オレに本を開かせようとする。

「……あのさ」
「ん?」
「願いって……叶えなくてもいいんだよな?」
「……」
「……」

「……は⁉︎」

 白猫先輩は、信じられないものを見るように、目を見開きオレを見定めた。

「……今、なんて言った?」
「いや、だからさ……叶えなくてもいいんだろ? って……」
「本気で言ってるの⁉︎ 目の前にこんな“奇跡”がぶら下がってるのに? それを掴まないとか……人として、ある⁉︎ 信じ……られないんだけど!」

 ハアアッと白猫先輩は落胆しながら、力なく椅子に座り直した。しばらくののち、ゆっくりとオレの方に視線を向ける。

「キミね……この本を手に入れるってことが、どれだけ幸運なことか分かってる⁉︎」

「……そんなこと言われても、オレ、渡辺に譲られただけだし」

「そう! それ‼︎」

 白猫先輩は再び身を乗り出した。忙しい人だ。

「彼女も、彼女だ。あれだけの覚悟をしておいて手に入れた途端、願いも叶えず、赤の他人に本を譲るなんて……本当にどうかしてる!」

 白猫先輩はああっと、絶望を表現するように、額に手を当てがって項垂れた。

「覚悟?」
「……そう、覚悟!」

 白猫先輩は額に当てた手の隙間から、オレをキッと睨んで来た。

「この本はね、その恋のためにあらゆるものを捨てる覚悟がないと、真の恋心を持ってないと、手に出来ないんだ」

 その恋のために、あらゆるものを捨てる覚悟……

 渡辺には、そう想うだけの相手がやっぱりいたのかと、オレは頭の片隅で何故か分かっていた。

 図書室に行くと、いつも窓の外を見ていた彼女――

 その姿を思い出すと、オレは心の奥にズシンと、重たい錘でも落とされたような心持ちになった。

「……なんで、渡辺は……願いを叶えなかったんだろう?」
「そんなのボクが聞きたい! きっと彼女しか分からない。……ただ」

 白猫先輩は手に持っていた赤い本を、目を細めて見つめていた。

「なにか……その恋の願いをすること以上に、彼女に重要なことが急に出来たのかも知れない」
「……それって?」
「さあ? だから分からないって。そうとう重要なことだろう。皆目見当もつかないね!」

 そう面白くなさそうに、白猫先輩はフンと鼻を鳴らした。

 ……なんだ、それは?

 いったい渡辺に、何があったんだろうか?

 かくいうオレも、白猫先輩同様、渡辺がなにを考えてオレにこの本を譲ったのか、正直まったく分からなかった。


つづく
「……なんか、他に大切なこととか、大切な人とかが急に出来た……とか?」

 白猫先輩はオレの適当な答えに憤慨したようで、勢いよくオレに迫ってきた。
 美しい顔の持ち主ほど、その顔が歪むと、恐ろしさが倍増するのだと感じた。

「馬鹿じゃないのか、キミは! 仮に大切な人、その恋よりも大事な人が出来たんなら、その人のことを本に願えばいいんだ!」
「……恋とは、違うからじゃない?」
「あの年ごろのムスメが、恋以上に大切なことなんて、あるもんか!」

 ……すげー、決めつけ。

 オレはある意味、恋愛至上主義を女子高生に押し付ける、白猫先輩に半ば呆れた。

「……もし仮に、そんなものがあったとしよう。でもそれで、赤の他人のキミに本を渡す理由が分からない」
「お礼……って、言ってたけど?」
「キミ、あつかましいな。見返りに『奇跡』を受け取れるだけのことを、彼女にしてあげたのかい?」

 ……うっ!

 オレはたいして役に立ってなかったであろう、図書委員の手伝いのことを思い出した。たしかに、奇跡の本をお礼として貰えるほどの働きは……まったくしてないな。

「……もしかしてキミ、彼女がキミに気があったから、本を渡したとでも思ってる?」

 ……。

 ……。
 
 ……なっ!

 なんてこと言い出すんだ、コイツ!

「そ、そんなこと、思ってないっての!」
「ハハハ! 分かりやすくキョドッてる!」

 白猫先輩は可笑しそうに、オレを煽り出した。本当にムカつく! そんなこと、全然、まったく、一ミリも思ってないわ!

「……まあ、それも絶対、有り得ないんだけどね」
「え?」

 白猫先輩は形の良い眉をひそめ、急に真顔になって、持っていた本の表紙を愛おしそうに摩った。

「だってもしそうなら、キミと両想いになりたいって、願えばいいだけだ。キミに本を譲る必要はどこにもない――」

「……」

 白猫先輩は本から視線を外し、オレを真っ直ぐ見据えてきた。

「でも彼女はそれをしなかった。彼女の真意はもっと別のところにあるのだろう。たとえば――キミが、三億円の宝くじを当てたとしよう……」

「は?」

 その脈絡のない会話に、オレは少々ついて行けなかった。

「それを、赤の他人にぽっと渡したりするかい? しないよね? それと同様のこと、いや、それ以上の『幸運』を、赤の他人に、彼女はなんの見返りもなく渡したんだ。これが、どうことが分かるかい?」

「……いや」

 確かに、本当に分からない……

「自分の幸福のほんの一部でも、他人に譲るということは、大変な覚悟がいることなんだ。それが身内や、大切な人のためであってもね」

「……」

「……本題に戻る」 
「え?」

 白猫先輩の青い瞳は、かつてないほど真剣だった。

「確かに最終的に、彼女は願いを叶えず本を手放した。でも、彼女がすべてを捨てる覚悟で本を手にしたことは間違いないんだ。それが本を手に入れる条件だから。……本は手放せば、二度と手にすることは出来ない。彼女が覚悟を持って手に入れた本を、キミはどんな理由であれ手に入れた……」

「……」

「その『覚悟の本』を、キミは無駄にするのかい?」


つづく
「……」

 オレはなにも、言えなくなってしまった。重い……。なんだってこんな本、オレに渡したんだ!

 願いを叶えることも、叶えないことも、もうどちらも正しくないような気がして来た。

 どうしたら……どうしたらいいんだろう?

 せめてどうしてこの本を、渡辺がオレに譲ったのか……それが分かったら……。

 分からない。分からないけど、オレが願いを叶えなければ、渡辺の覚悟が無駄になるのは確かだ。

「まだ、貸し出し期限までには時間がある。……もう少し、考えてみなよ。結論を出すのはまだ早い……」

 そう囁く、白猫先輩の声が聞こえたと思ったのに、白猫先輩の姿はオレの部屋から消えていた。

 ――静寂が戻ってくる。さっきまで、白猫先輩とワイのワイのと騒いでたのがウソみたいだ。

 オレの部屋はなんの変哲もない、いつものオレの部屋に戻っていた。

***

「……」

 オレは真っ暗な自室のベッドの中で、あの願いが叶う本のことを、改めて考えていた。

 正直、渡辺が何故本をオレに譲ったのかの答えは、どんなに考えても分からなかったし、彼女に聞いても、本当のことを話してくれる保証はない。

 だいたい、どんな答えだったら、オレは納得出来るのだろう?

 ――それにどうしてオレは、こんなに願いを叶えたくないんだろうか?

 相手が有名な芸能人や、著名人、極端な美人や、すごく可愛いアイドルとかならまだしも、別に渡辺と出掛けるくらい、どってことない。

 ――それなのに。

 石田に言われた、あの言葉が蘇る――

『それが、恋だよ』

 ……だから、違うっての! どいつもこいつも、恋愛脳が!

 ……。

 ……でも、どうしてこんなにオレは、渡辺に対する想いを“恋”と認めたくないんだろう?

 絶世の美女じゃないから? スタイル抜群のお姉さんじゃないから? オレが言うのもなんだけど、渡辺はごく普通の女の子だ。自分のことを棚に上げて、オレはそんな平凡な女に、恋をしていると思いたくないんだろうか?

 ……。 

 新学期の始めに図書室の窓から、外のグラウンドを見つめていた、渡辺の横顔がフッと脳裏に蘇った。

 違う……。それだったら、まだ救われた。

「……っ」

 分かりたくなかった。でも本当は分かってた。渡辺はオレ以外の誰かに“恋”をしてるんだ。

 その恋心は、あの奇跡の本に辿り着くぐらいの強く深いものだ。

 オレが付け入る隙間なんて、微塵もない。

 それが心の何処かで分かってたから、認めたくなかったんだ。オレのこの想いが“本当の恋”だろうが、なんだろうが、彼女に届くことはない。この想いが報われることはない。

 その想いに気が付いた途端、失恋したのだと分かって、オレは胸が張り裂けそうになった。こんな気持ちになったのは、生まれて初めてだった。


つづく