明日を見る君は、私の世界を変えてくれた

 汐斗くんもお風呂からあがってきたので、再び私は汐斗くんの部屋に戻った。ウッドデッキも落ち着くけれどやはり汐斗くんの部屋が一番落ち着く気がする。この空気とかがそうさせてくれるんだろうか。汐斗くんにお姉ちゃんと何か話してたの? と聞かれたので、心理学科ってどういうことしてるのかなとか聞いただけだよと答えた。自分から相談したことを言うのは少しためらってしまう部分があったから。

「心葉、勉強か?」

「あ、うん、少しだけ」

 勉強をやる気なんか今日は起きないとか言っていたけれど、少しここに来て勉強をしようといういつもの気持ちが再び出てきたし、流石に全く勉強しないのは私の中ではかなり心配になってきてる。だから、英単語の勉強を少し始めた。

「汐斗くんそれ、何?」

 汐斗くんは何かラムネのようなものを何個か口に含ませたあとに、水をがぶり飲んだ。

「あー、これ? 薬だよ」

「あ、ごめん」

 汐斗くんはさらりとそう答えた。そうだ、汐斗くんは……。そう考えると、私はそれを知っていながら、汐斗くんのことをしっかりと理解できていないことに、申し訳なく思う。痛いところをついてしまった。

「いや、別に気にしてないから大丈夫だよ。というか偉いなー。なんか言われたくなかったら申し訳ないんだけど、中3から高校2年の頃までだいたい2年強ずっと受験勉強の時並に勉強しててそれが続くのがすごいよな。僕の場合中3の夏から本格的に始めたけど、辛かったし、終わったときは本当に爽快だなって思えるぐらい本当に嬉しかったもん。それを2年も続けてるって……ほんとすげえよ」

 汐斗くんは薬のことについてはさらりと流した。だから、別に嫌なことを聞かれたとは思ってないのだろう。

 というか、言われてみればもう2年以上も受験期みたいなことをやっているんだな。まだまだ続く……そう思うと終わりの見えないマラソンをしているようでかなりきついし、辛い。

「そんな、偉くはないよ。というか、やっても皆よりできないし。これはさっきも話したけど、私みたいな人がこの高校入るのは違ってたんだなって今では……。でも、汐斗くんみたいな人がいてくれてよかった」

 今、私が言った通りこの高校に入ることは違ったのかもしれないけど、でも、決して悪いことばかりでもなかった。汐斗くんみたいに優しい人がいたり、私に「頑張ってるねー」だとか「すごいな」とか言ってくれる友達がいたり……そんなこともあるから、100パーセントこの高校に来たことが違ってたわけでもないのかもしれない。

「まあ、僕なんて全然役に立てないけどな。僕でいいなら全然使ってくれ。というか、僕は点数を取れるかどうかの話をしてたんじゃなくて努力することが偉いなって言っただけだぞ。僕だったら何も勉強せずに100点取る人よりも、努力して70点取る人のほうがよっぽど意味があると思うけどな」

「そうなのかな」

「うん、まあ、陰で応援してるから頑張って!」

 私は汐斗くんに見守られながら、英単語の勉強を進めた。英単語を覚えるまで何回もノートに書き出していく。それから、いつもみたいにやった部分の確認としてそこまでの単語テストしていく。

「あっ……」

「ん、どうした?」

 私が急に声を出してしまったせいか、汐斗くんが少し心配そうな表情で私を見てきた。でも、そういうんじゃない。私は今テストした結果と汐斗くんを交互に見る。

「いつもより今日は覚えられてる気がするんだ」

 自分でテストをしてみた結果、いつもよりも倍とまでは言えないけれど、驚くぐらいに暗記できて、そしてあっているのだ。ほんの数時間前までは勉強する気にもなれなかったはずなのに、なぜだか今日は覚えられる。何でかは分からないけれど、でもできる。どうしてかも気になるけれど、素直に嬉しい。

「そうか……あ! 心葉……。いや、何でもない」

「……ん?」

 何か、引っかかることがあったのか私に何かを言おうとしたが、途中でやめた。私はどうしたの? と言う感じで汐斗くんを少し見たが、それは少し悪いかと思い、特に気にしてないよという表情をしてから視線を変えた。

 私が切りのいいところまで勉強をやっていたら、夜の12時を少し回っていた。流石にこのままやっていては、汐斗くんにも迷惑がかかるだろうから、ここでやめて教材を全部カバンにしまった。

「あ、終わった? じゃあ、心葉はここで寝な。僕の汗の匂いがするベッドで悪いけど」

「えっ、汐斗くんは一緒にここにいないの?」

「まあ、流石にいれないな。家族になんか疑われても嫌だし。それに色々あるし」

「確かにそうか……。てか、私、変なこと言ってたじゃん! ほんとごめん」

 汐斗くんとはちゃんと関わってから数時間しか経っていないけれど、もう信頼しきっている自分がいるので、そういうことをすっかり考えていなかった。だから、一緒に寝ようとかいう意味に解釈できることを言っていたことに気づき、急に申し訳なくなった気持ちと、ものすごく恥ずかしいという気持ちが出てきてしまった。できることなら少し前の時間まで巻き戻したい。

「ははっ。別にそんな風には考えてないから大丈夫だよ。でも、少し嬉しかったな。僕を嫌ってないようで。そして少しは信頼してくれてるみたいで」

 かなりの問題発言(?)をしてしまったのにもかかわらず、汐斗くんは優しい言葉を私にかけてくれた。そんな、こんなにも優しい汐斗くんを嫌うわけないじゃん。私に勇気を出して声をかけてくれた人を信頼しないはずないじゃん。別に、少し前まで時間を戻す必要なんてなかったみたいだ。

「じゃあ、おやすみ、心葉」

 私にバイバイをしてから汐斗くんは自分の部屋から出ていく。いや、待って、まだ――

「汐斗くん」

 私は、汐斗くんに声をかけてしまった。その声に反応して、汐斗くんは振り返ってくれた。別に止めるほどのことじゃないのに、答えによっては怖いのに。

「――あのさ、どんな私でも、嫌いにならない?」

 私が汐斗くんを嫌いになることは絶対にない。でも逆に、汐斗くんは私を嫌いにならないだろうか。どんな私でも嫌いにならないだろうか。本当の味方でいてくれるだろうか。

「それが心葉なら、嫌いにならないよ……それが言えるかな。じゃあ、おやすみ」

 汐斗くんはそんな言葉を言い残して、階段を下りていく。心葉の姿なら、嫌いにならない……そういうことをいいたかったんだろうか。何が自分なのか私は分からないというのに。

 汐斗くんがいなくなってから少し経ったところで、汐斗くんのベッドに寝転んだ。ふかふかしている。汐斗くんのベッドは悪いけれど本人も言っていた通りほんの少し汗の匂いがした。でも、その匂いが不快だとは思わない。むしろ、いい匂いにまで思えてしまう(それは流石に言いすぎか)。

 いつもなら少し考え事をしてしまったりしまうけど、今日は電気を消したらすぐに目をつぶることができた。

 


 ――これは夢なんだろうか。そうだ、夢だ。つまり、明晰夢(めいせきむ)というやつだろう。汐斗くんの家で寝た私は……。

 『心葉の中学校日記』

 私の机にそう書かれた日記が置いてある。これは、あの辛いことを書いていたリングノートとは真逆で楽しい思い出だったり、嬉しかったことがびっしりと時々おかしい文が混ざってしまうぐらいに書かれているものだ。でも、この日記は中学2年生のときで終わっている。言うこともないかもしれないけど、3年生からは勉強の日々が始まったから。

 そのノートを誰かが見ている。後ろ姿しか見えないので、それが誰なのかは分からない。

 1ページ目が開かれる。

 ――1年。入学式。

『今日から〇〇中学校に入学しました。担任の先生は体育の先生で、たい焼きが好きだそうです(笑)。たい焼きを買うまで3時間並んだこともあるそう! 今日から始まる中学校生活楽しみだー! ワクワクが止まりません。笑顔で卒業式を迎えられることが今の目標です!』 

 ――2年。修学旅行。

『これは、修学旅行のホテルで書いてます。とにかく1日目、楽しかったです! 清水寺とかからの景色はすごくきれいで、班の子が沢山写真を撮っていて、あやうくバスを乗り過ごすところでした(笑)。ちなみに、部屋では女子4人で定番だけど恋バナしました! 少し胸がドキドキした!』

 なんか、このときの私、すごく楽しそう。今の自分じゃないみたい。

 本当にこれ、私だったんだろうか。

 これが白野心葉だったんだろうか。

 ――2年。終業式。

『今日で楽しかった2年生も終わってしまいました。あっという間だったな。楽しい時間ほど早く過ぎてしまう……それを自分の心で実感できました。本当に私と仲良くしてくれた人たちありがとう! 明日からは親ができるだけ高校は高いところに行ったほうが視野が広がったり……とか言われたので、私はそこまで高い高校に行きたいとかではないけれど、その希望に添えるように勉強漬けの日々を頑張っていきたいと思います! 頑張るぞ私! 何事もやればできるんだから! 白野心葉、ファイト!』

「そうか……」

 何かを悟ったような声がした。

 見えていなかった人物の姿が少しだけ見えた。これは、少し汐斗くんに似ている気がする。この感じは。

 でも、本当に汐斗くんなんだろうか。

 そうだとしたら、なぜ汐斗くんが私の日記を見てるの……? 私の過去を見ているの……?



 「……こ、こ、は」
 
 誰かが私の名前を呼んでいる。一音一音大切に文字を口から出しているかのような。その声が音楽かのような。私を求めているような。

 ――私のお母さん?

 でも、私のお母さんは遠くに出張中。というか、昨日は少し違う体験をした気がする。私、昨日はどこで寝たんだっけ……?

 ――そうだ、汐斗くんの家だ。

「心葉、朝だよ」

 なんでこんなにも小鳥のようなさえずりに聞こえるんだろう。でも、私は起こされているのだ。もう朝だよと。

 まだこのベッドで寝ていたいという気持ちも少なからずあるけれど、その声で目を覚ました。

「おはよう」
 
 やっぱり、その安心する声は汐斗くんだった。なんか、不思議な感覚。間違ってるのかな、私は。少しだけ朝のまだ眠たそうな感じの残る汐斗くんが新鮮に見えた。

「もう……朝?」

 私はそう問いかける。もしかしたらまだ夢の中にいるのかもしれないから、確認のためにもそう聞いた。

「うん、今日も学校だしね」

 私が完全に目を開けると、眩しい太陽の光が瞳にも差し込んだ。隣りにあったデジタル時計には6時40分と表示されていた。電車に乗って学校に行くことを考えれば、準備とかもあるしもうすぐ起きないといけない時間になっているだろう。

 私はまだ夢の続きを見ていたい気持ちもあるけれど、体を起こした。いつもなら朝起きることは精神的に辛いと感じる部分もあるけれど、今日はそんなことなんてなく、むしろ起きるのが気持ちいぐらいだ。

「どう、僕のベッドでよく寝られた?」

「うん、10時間ぐらい寝られたときの爽快感……? みたいなのを感じる気がする」

「それならよかった。朝は太陽の光を浴びるといいって言うから、窓開けて少しそれやったら下に来な」

「うん、分かった」

 汐斗くんの言う通り、まず部屋にあった窓を開けて、私は太陽の光をかき集めるように、太陽の光に当たった。朝、太陽に浴びると色々なホルモンだとかが増えるみたいだけど、そんな気がする。朝の太陽ってこんなにも気持ちいいんだ。自然の力ってすごいなと単純に思ってしまう。

 太陽の光を十分に浴びてから、この姿で人の前に顔を出すのは失礼だし、思春期の私には恥ずかしいので、顔を洗って目やにを取ったり、少し整えてから、皆の前に顔を出した。

 昨日と全く変わらないような光景が食卓には広がっていた。昨日と同じように汐斗くんの家族と話しながら朝食を食べた。やっぱりこの空間好きだ。

 昨日と違うのは朝食を食べ終わり、自分の支度が全部終わった後、朝食の後片付けを行なった。お母さんにはそこまで気を使わなくていよと言われたが、お世話になってるだけではいけないからということを言って、お母さんとともに洗い物をしている。泡がなくなってきたので、スポンジに追加で洗剤をつける。

「おー、早いし、きれいに洗ってくれてるね。ありがとう」

「一応親が出張だったりするして、家でもやって慣れてるので」

「あー、そう言えば昨日そんなこと言ってたね」

 それに小さい頃、お母さんに家事を色々やらされたのでその感覚もきっと残っているんだろう。

 お礼の気持ちも込めて私は洗い物を続ける。水道から出る水で泡を流す音が耳の中に入る。シャー。

「1日だったけど、私たちは心葉ちゃんがいて楽しかったよ。家族が多いから騒がしかったり、狭かったりして色々不便なところもあったと思うけど……」

「いえいえ、そんなことないです。すごく心が休まりました。皆さんが優しくしてくれたので、とっても過ごしやすかったです。ちょっと悩んでたことがあるんですけど、その悩みが薄れた気がします」

 もちろんこれは事実だ。こんな経験初めてだったけれど、私の心はなにも邪魔するものがない大地にずっと寝そべっていたんじゃないかと思えるぐらい休まった。それに、おばあちゃんが折り紙をくれたり、お姉さんが相談にのってくれたり、汐斗くんは私のことを色々気遣ってくれたり、他の人も私に話しかけてきてくれたり……これが世の中の見本なんじゃないかって思うほどいい人たちだった。

 その環境により、私はほんの少し明日をまだ見てみたいと思えるようになった気がする。でも、まだ完全にではない。悪い自分をこの1ヶ月間で私は汐斗くんと一緒に崩していきたい。

「それならよかった。これからも、汐斗のことをよろしくね」

 お母さんは少しニッコリとした優しい笑顔をしてから、そう言った。

「はい」

 私はそう答えたけれど、でも本当は逆なんじゃないか。私が汐斗くんによろしくとお願いするべきなんじゃないか。だけど――

「よし、これで全部終わり。心葉ちゃん、本当にありがとう」

 お母さんが最後のを終えた。いつの間にかお皿はどれも元の使う前の姿に戻っていた。水切りラックに立てられたお皿から水が下に落ちていく。その水が窓から漏れ出す光に映し出されていた。

「あ、そうだ。手伝ってくれたお礼とかとは関係ないんだけど、お昼のお弁当。お弁当箱は返さなくていいから、もしよかったら食べて。コンビニとかで買うならこっちのほうが節約にもなるかなと思って」

「えっ、いいんですか? わざわざありがとうございます」

 どうしてそこまでしてくれるのか。これがこの人にとっては当たり前なのか。そんなことは私には分からないけれど、ありがたくそのお弁当をいただいた。そして、ペコリとお辞儀した。





 お弁当をカバンの中に入れてから、最後にもう一度鏡で身だしなみが整っているかを確認して、汐斗くんとともに学校に向かう。今日はこの時期としてはかなり気温が上がるらしく、すでに朝からむっとするほど気温が高い。少し歩いただけなのに汗をかいてきた気がする。そんな中だけれど、周囲を見渡せばスーツ姿の男の人やもちろん女の人もいたり、なにか仕事で使うんだろう大きなものを持って大変そうに歩いているいる人や、小さな子供を抱えている人……そんな感じに様々な人がこの道を歩いていた。私は普段、自転車で登校しているので、こんなにも周りの人たちがどんな人なのかを見ることはないので、そういう人たちがここら辺を歩いているんだなと少し新たなことを知れたようで新鮮な感じがしてしまう。

 昨日も乗った電車に乗り込み最寄り駅で降りる。学校が近くなると、私に気遣ってか、汐斗くんは私と少し離れた位置で歩くようになった。まあ、そういう年頃だからなと思い、私は特にいじったりすることはしなかった。

 教室に着くとまだ朝のホームルームまでは少し時間があったので、いつも通り朝勉強をする。今日は古文単語の勉強をした。

 ホームルームの時間が近づくにつれ、クラスメートの数も増えていく。クラスメートの話し声をBGMにしながら勉強を進めていく(最初のうちは話し声は雑音に聞こえて嫌だったが、もうこれを何年もやってるので、知らないうちに慣れていた)。

 いつの間にかチャイムが鳴り、ホームルームが始まる。先生はいつものように出席確認をしたり、連絡事項を言ったりしてそれはあっという間に終わった。

 午前の授業もあっという間に流れていく。先生の言った大切なことをノートや教科書に書き込むながら、今日も知識を頭の中に少しずつ入れていく。

 午前中最後の授業は古典の授業だ。

 今、古典の授業では平安時代の作品を扱っているため、平安時代の暮らしや恋愛事情などを先生が黒板に板書したり、モニターをうまく使いながら教えてくれている(今の時代の授業ではモニターを使うことが多い)。

 私自身、中学では文芸部だったし、今も文系なので古典という昔の言葉が作り出すものについてはかなり興味がある。同じ国でできたものなのに今とは違う意味だったり、今の人は学ばなければ分からない言葉も多いけれど、その奥に昔の人が込めた想いだったり、情景が見えてくるのだ。

「では、宿題で調べてきてもらった今と平安時代で変わらないところをなんでもいいので発表してください。発表の仕方は自由です。では、今日は一番前の皆さんから見て右端の人からいきます。その後は、後ろにいきましょう。では、お願いします」

 あ、これ、私あたる……それも最後に。というのも、私の今の席は一番後ろの、それも右端なので、これは当たる流れだ。前には5人いるので(でも今日は前の子が休みなので4人)、まだ少し時間に余裕はあるが、こういうのにあまり慣れていない私にとっては少し緊張する。

「はい。自分のエピソードも入りますが、僕は、小さい頃に今までにないぐらいの熱が出た時があって、でも、お正月ということもあり病院がやってなかったときがありました。熱冷シートを貼ったりしても熱は下がりそうになかったので、親が神社で病気がよくなるようにお参りしてきてくれました。それが効いたのかは分かりませんが、病気があっという間に治っていきました。平安時代も神や仏に祈ったりして病気が治るようにということをしていたので、神様や仏様の力を借りる部分は今も同じだと思いました。以上です」

 教室を包み込む拍手が起こる。普通のことをいってるはずなのに、少しだけ私の心に刺さる。病気がよくなるようにお参りした……。今でも神様や仏様の力を借りる……。汐斗くんの病気も、もしかしたら、神様や仏様の力を借りる……そうすれば治るのかもしれないなんてそんなことを考えてしまった。そんな軽い気持ちじゃ治らないはずなのに。

「はい、そうですね。私も神社でよくお参りします。私の願い事の大体は旦那が浮気しませんようにです」

 少しだけ先生の話がうけてこの空間が温まった後に、次の人が発表する。

「はい、私は言葉の大切さは平安時代も今でも変わらないと思いました。平安時代は皆さんご存じのように、和歌で恋愛感情を伝えていました。今でも大切なことの多くは言葉で伝えられます。私自身も最近、数年ぶりに会ったおばあちゃんとおじいちゃんにいつも誕生日プレゼントを贈ってくれてありがとうだとかの感謝の気持ちを伝えてきました……その時やっぱ言葉って大事なんだな……そう思えました。以上です」

 さっきのように拍手が起こる。その通りだ。言葉の大切さは私も日々感じている。でも、その言葉が私を追い込むみたいに苦しめることもある。仮に悪気はなかったとしても、人によっては辛い言葉だってこと、そこだけは私自身も頭のどこかに置いておかなければいけないのかもしれない。言葉というのは私たちが知らない力が宿っている。

「うん、素敵なエピソードもありがとうございます。どんどんいきましょう」

 前の人たちの発表が続々と終わっていく。前の人は、1人が戦争がない時代だったという平和な面を述べていたが、もう1人は災害があるというさっきとは反対の面を述べていた。

 ついに私の番だ。もちろん宿題はやってきてはいるけれど、少しドキドキしている。でも、これごときでそこまで緊張する必要もないと思い、私は少し深呼吸をした後に、席を立った。

「皆さんの発表の後にこんなのであれなんですけど、」

「自分の調べてきたやつで全然大丈夫ですよ」

「はい。私は今も平安時代もおしゃれを気にする部分は似ていると思いました。平安時代はもちろん身分の関係でおしゃれができない人も多くいましたが、髪飾りなどをつけている人もいました。現代でも髪飾りなどをつけておしゃれする文化がるため、ここが似ていると思いました。余談で、今はやってませんが私は中学2年生の夏ぐらいまではアクセサリーを作るのが好きで、よく作っていました。以上です」

 少し恥ずかしいけれど、余談も添えて私は、話を終えた。ゆっくりと席につく。さっきと変わらないような温かい拍手が包み込んでくれる。少し恥ずかしい。でも、やっぱり嬉しい。

「おー、そうなんですね。アクセサリー作りが趣味だったんですか。素敵ですね」

「ありがとうございます」

 私は先生に向かってお礼をした後に席に座った。

 それから、先生は少し補足したり、今やっている教科書本文の解説をしたりしていつの間にかこの授業は終わっていた。

 次はお昼だ。妙にお腹が空いている。これは、今日は自分の作る別に美味しいわけでもない弁当ではなく、汐斗くんのお母さんが作ってくれた弁当だからかもしれない。これから1ヶ月は、私の明日を閉じたいという気持ちを変えるため汐斗くんが一緒にお昼を食べてくれることになっている。もちろん、お弁当を食べる際も学習本は必須だ。

「心葉ちゃんって昔はアクセサリー作ってたの?」
 
 どこまでも透き通っていく声。私の前の席の女の子――海佳(うみか)ちゃんがさっき私が話した話題について話してきてくれた。

「うん、まあ、今は作ってないけどね」

「私は作ったことはないけど、つけるのは好きだな。ねえ、お弁当、たまには一緒に食べない? お勉強道具、持って行ってもいいから。班活動とか以外のときは、心葉ちゃん、頑張って勉強してるからなかなか話しかけづらくて……。でもなんかやっぱり話したいなって! もちろん無理にとは言わなけど」

 確かに私に話しかける隙を見つけるのはかなり難しいかもしれない。でも、今回、海佳ちゃんはここだと思って話しかけてくれた。そんなものを断るわけにはいかない。

「食べるのはいいんだけど……」

 勉強道具を持ってどこかで食べるのはいいんだけど、汐斗くんとの約束がある。だから、私のことを気にしてくれて言ってくれたのに、断ることもできない。そう思ってると、汐斗くんと目が合い汐斗くんはスマホを手で指してきた。なんだろうと思いながらスマホを見てみると、誰かからラインが来た。私は少しごめんねと謝った後に、そのラインを確認する。そのラインの相手は汐斗くんだった。

『俺とはいいから、その子と食べなよ。そっちのほうが楽しくなるって。というか、アクセサリー作りが趣味だったんだね』

 そういうことが書かれていた。やっぱり、汐斗くんって人は――。

『うん、じゃあお言葉に甘えて。まあ、さっきも言ったけど今はあれだけどね』

 私はそう返信する。

「うん、じゃあ、食べよう!」

 私は普段はあまり見せることのない明るい笑顔をしながら、海佳ちゃんの誘いにのった。

「でも、2人だけだとあれだね。誰か他に1人ぐらい誘わない?」

「じゃあ、私と中学同じ子なんだけど、唯衣花(ゆいか)ちゃん、誘ってもいい?」

「あ、唯衣花ちゃんね。いいよ、いいよ! そうしよう」

 最初は汐斗くんを誘おうかとも思ったけれど、汐斗くんとは学校で話したことはほぼないので、急に誘って、海佳ちゃんになにか感じ取られても少し困るし(海佳ちゃんはそういう子ではないと思うけれど)、すでに汐斗くんは他の友達とどこかに行っていたので、中学が同じで私ともある程度仲のいい唯衣花ちゃんを誘う子ことにした。

 私が唯衣花ちゃんに声をかけることになったので、私は唯衣花ちゃんの席の近くに行く。といっても、高校生になってからはずっと勉強づくしだったし、話したことがあったけ? というレベルだから、少しだけ緊張した。数年ぶりに会う幼馴染に話しかけるみたいに。

「唯衣花ちゃん。よかったら一緒にお昼食べない? 海佳ちゃんもいるんだけど」

「うん、今日は特に約束とかはしてないからいいよ。というか、心葉から誘ってくるの珍しいね。それよりも、話すの久しぶりだね」

「そうでした。お久しぶりです」

 私はペコリと頭を下げる。

「ふふっ。何その対応? というか、私のことちゃん付けになってない? 前みたいに呼び捨てしてくれていいのに」

 そう言えば、唯衣花ちゃんのことを中学の時は呼び捨てしていた気がする。たぶん、私が今回ちゃん付けしてしまったのは、話すのが久しぶりすぎたということを間接的に表しているんだろう。

「じゃあ、唯衣花も行こう」

「うん」

 今日は天気がいいからということもあって、外にあるベンチで食べた。本当は屋上か外のベンチどっちがいいかと聞かれたのだけど、私は外のベンチの方が人いなさそうじゃないといったのでこっちになった。本当にこっちの方が人が少ないのかは分からないけれど、屋上で食べると昨日みたいな行動をしてしまわないか不安だったからそう答えた。

「っていうか、この3人メンバーでお弁当食べるのは多分初めてだね」

 3人が座ったところで、真ん中に座っている海佳ちゃんがそれぞれ端にいる唯衣花と私を見回しながら、そう言った。言われてみればそうかもしれない。なので私はそうかもねと相槌をとる。この姿を写真に収めたらきっと青春色で輝いているんだろう。

 私は空腹に耐えられず、早速お弁当箱を開ける。パカッ。

 ――流石、汐斗くんのお母さんだ。

 想像していたもの以上のクオリティーだ。卵焼き、ミニハンバーグに鮭、そしてほうれん草とコーンのソテー……栄養バランスまでも気遣ってくれている。こんな私のためにしてくれるなんて本当に感謝しかない。

 ――いただきます。

 私は早速食べ始めた。流石、見た目を裏切らない美味しさ。

「そういえば、心葉ちゃんはアクセサリー作ってたっていけど、どんなの作ってたの?」

 海佳ちゃんが唐揚げを食べながら私のことについて聞いてくる。

「んー、花の髪飾りだったり、ミサンガだったり、腕輪だったり色々と作ってたかな……」

 今も中学の時に作った私のアクセサリーコレクションは押し入れだけどそこに大切に保管されている。でも、もう何年も開けていない。だから実質ただ置かれてるだけだ。

「私も、中学の時に心葉にミサンガもらったよ。ピンク色の」

「あ、そういえば中学の時にあげたね。私、ピンク色が好きだから、唯衣花にはピンクの色の糸を使ったんだ」

 数年前のことだけど、唯衣花にはピンクに少し黄色の糸を混ぜて作ったミサンガをプレゼントした気がする。

「今もまだつけてるよ」

 そう言って唯衣花は足を見せてきた。――あ、あの時にあげたミサンガだ。少し色が薄れたりしてはいるけれど、たしかにあの時私があげたミサンガで間違いない。あの時の唯衣花の喜んでくれた顔が懐かしい。

「中学2年の夏頃にもらったから、2年少しつけてるのかな」

 私の中学ではミサンガを付けることは禁止されてなかったので、私があげてからずっと今日までつけてくれたんだろう。今日までそんなものをずっとずっと大切にしてくれたなんてあの出来事はあったけれど、ものすごく嬉しい。私はありがとうと素直にお礼を言った。
 
「でも、なんで今はやらなくなったの? 勉強に専念したいから?」

「それもあるけど……、ちょっと色々あって」

 今、アクセサリー作りを私がしてない理由。もちろん、勉強に専念したいからという理由もある。でも、中学の時にある出来事があったのだ。それも大きく関係していると思う。そういう背景もあって多分私は、もうアクセサリー作りをすることはないんだと思う。だから、染め物を作るという趣味というか目標のある汐斗くんが、なんだか高い位置にいるように思えてしまうのだ。
 
「そうなのか。でも、もしまた作る気になったときは私にもちょうだい!」

「……まあ、作る気になったらいいよ」

 海佳ちゃんは少し遊園地に行く前の子供みたいに楽しみだよという顔をしながら、そう私にお願いしてきたが、それは少し難しい。希望に添えそうになくて申し訳ないけど、一応そう答えておいた。

 私は汐斗くんのお母さんのお弁当を美味しくいただき終わると、心の中で汐斗くんのお母さんにお礼を言い、漢字のテキストを見始めた。まだ2人はお弁当を食べている様子だったので、邪魔にならないように配慮して。

「おー、勉強か。偉いなやっぱ」

「でも、こうやってもテストの順位は全然なのが現実だけど」

「まだ花が咲いてないだけで、これからまだ伸びてくんだよ。だから、応援してる! 努力は必ず実るわけじゃないけど、心葉ちゃんの努力はきっと実るはずだよ」

 そういうことを言ってくれると、頑張ろうと思える源になる。でも、羨ましいな。2人が。もちろん2人も私の考えている以上に努力をしているんだるけど、クラスの中でも2人のテスト順位は上位だ。でも、私はその反対。なにが違うんだろう。努力の違い? だけど、私は自分で言うのはあれだけど、できるだけ空いている時間は勉強に費やしているし、一体2人と何が違うんだろう。何をすればもっと……。

「あ、これ、汐斗のインスタグラムじゃん! なになにこれ、昨日のやつ? なんだ彼、どこのかは分からないけどカフェでパフェとかパンケーキとか、それにサンドイッチまで、色々テーブルにのってるじゃん! 学校の帰り道にでも寄ったのかな? 心葉は勉強してるっているのに羨ましいよねー」

 漢字のテキストを赤シートで隠しながら、正解したものはそのまま、間違ってしまったものにはチェックをつけてというやり方で勉強を進めていた時、2人がそんなことを話していた。

 汐斗くんのインスタ? カフェ? パンケーキ? サンドイッチ?

 さらに、昨日?

「ん、どれどれ」

 まさか昨日の私が汐斗くんといったやつかもと思い、私も2人が見ていた汐斗くんのインスタグラムを覗く。

 確かに昨日の光景がそこに広がっていた。私をとった写真はあげられていなかったのでよかったが、これらは昨日、私が食べたやつで間違いない。

「ねー、ずるいよねー。心葉ちゃんはその時、勉強中なのにね」

 海佳ちゃんが私の顔を見てそう言う。あ、ごめんなさい。その空間に実は私もいるんです。さらに、汐斗くんのおごりで食べてしまいました……そんなことは到底言えそうにはない。心葉ちゃんはその時、勉強中なのにねと言われれば尚更だ。

「……まあ、そうかもね」

 ここに、汐斗くんがいなかったことが救いだった。いや、彼ならこういう嘘は許してくれるのかもしれない。

「なんか、それに誰かの手が映ってるから汐斗以外のやつもやっぱいるんじゃん。羨ましいー。私も連れてってほしかったな」

 海佳ちゃんが次に見た写真でも引き続き美味しそうな料理の写真が映っていた。でも、その端の方でなにやら手のようなものが映っていた。ごめん、それが私の手です……とは流石に言えない。でも、ぎりぎり手のひらのところだけなので、私と判断される可能性が低くて助かった。

「でも、心葉も休めるときは休みなよ。教科書を見たり、問題を解いたりとかするだけが、テストの点をあげたりするわけじゃないから」

 唯衣花がひょいっと顔を出して、そう言ってくる。確かにその通りだとは思うけど、やり方を変える……それが不安定な橋を渡るかのように怖い。

 ――キンコーン、カーンコーン。

 午後の授業まで10分前だよということを知らせる予鈴が鳴ったので、私たちはお弁当を片付けて、教室に戻った。



 汐斗くんの私をいつでも気にかけてくれるというのは、色々な場面でそうしてくれた。例えば、汐斗くんからの提案で、私の勉強がだいたい終わる時間の夜の12時半ぐらいに5分間ぐらい、毎日電話する時間を設けた。5分ぐらいならと私はそれに承諾したので、何日かたった今日も、私から電話をかける(私の都合のいい時にかけられるようにと汐斗くんからではなく私からかけるということになっている)。

 ――プルルル、プルルル。

 数秒間このような音がなった後に、汐斗くんの声がした。いつもと変わらない、私を安心させてくれる声だ。私が聞きたかった声。

『もしもし、今日も何も変わりないか?』

 今日もまた、決まった言葉かのように、最初にこの言葉を言ってきた。なんだかこの言葉の繰り返しに私は微笑してしまう。でも、この言葉に汐斗くんの色々な気持ちが現れているのだろう。

「うん、大丈夫。いつも通り、変わりないよ」

 特に今日も変わったことはなかった。いつも通りの一日だった。ただ、少しだけ私には生きる意味があるんじゃないかとか、私が生きる場所があるんじゃないかと思えてきている。だから、もっとそう思えるような自分になりたい。この汐斗くんと作る1カヶ月で。

『よかったよかった』

「そう言えば、明日は英単語の小テストがあったよね?」

 私はそう言えば、明日は英単語テストがあったような気がして、聞いてみる。とは言っても、私は普段から英単語の練習をするという習慣をつけているので、いつ英単語の小テストのテストがいいように対策はしている。

『うん、5時間目にあるよ』

 やっぱり、汐斗くんは流石だ。即答した。

「分かった。ありがとう」

『他に今なんか言っときたいことはないか? 苦しかったこととか? 辛かったこととか?』

 そしてこれもまた、お決まりのような言葉だ。私が何か相談したときには、汐斗くんはまるでカウンセラーの人みたいにきっちりと私の隅々の部分まで聞いて解決策を見つけたり、私の心を締めているものを緩くしてくれる。

 でも、今日は特にはなかった。そういえば、最近はあの時にお昼を食べた、海佳ちゃんと唯衣花と少し仲良くしてもらっている(と言っても私は基本的に休憩時間は勉強をしているのであまり話す時間は取れていない。それでも、2人は仲良くしてくれている)。

「そういうのはないけど……よかったら明日一緒に行かない? 公園に?」

『あー、午前中はそれだったな。全然いいよ。あとで、この電車乗らないかっていうのはラインに送っとくから。というか、今考えれば、それで午後授業あって、英単語テストとか体に応えるよな』

「本当にそうだよね」

 今、汐斗くんに言った公園に行くとは、この高校は自然の多い市にあるため、数ヶ月に1回市内の公園に行くという行事的なものがある。先生いわく、自然の力で心を休めるとかいう目的があるらしい。明日行く公園は市内で一番大きくて、そして人気な公園なので、もちろん何回かは行ったことあるけど、その一瞬だけは勉強について忘れられるので少し楽しみだ。

 それで、汐斗くんを誘ったのは学校に通っている電車はそれぞれ違うけれど、明日行く公園へは途中からお互い乗り換えて行かないと行けないけど、その乗り換える電車が同じだからだ。唯衣花や海佳ちゃんと行きたい気持ちもあったけれど、気づいたのがついさっきだったので、誘うのを忘れていたのもあって汐斗くんを誘うことにした(2人はもう12時よりも前に寝ているらしいので、今ラインしても難しい)。ただ、少しだけ異性を誘うというのはそういうことをほとんどしたことのない私にとっては恥ずかしかった。でも、汐斗くんは私の不安を吹き飛ばすかのようにいいよと言ってくれた。

「ちなみにだけど、汐斗くんも体調の方はどう?」

 私は、気遣ってばかりいるだけではだめだと思って、逆質問してみる。汐斗くんだって悩みというか事情を抱えているのだから、その部分は私も少なからず気にしないといけない。大切な人なのだから。

『おー、ありがとうな、気遣ってくれて。今は安定してる。というか、少しよくなってる気がする。薬のおかげかな? もちろん、心葉のおかげもあるよ。ありがとうね』

「私は関係ないよ。でも、そうならよかった」

 どうやら、汐斗くんの方はよくなっているようだ。私も汐斗くんと同じようで前よりはよくなっている。多分、どこかの病院が汐斗くんという薬を私に処方してくれたんだろう。

 ――明日が少しずつ見えてこられるようになった彼と、明日を閉じることを違うと思えてきた私。

 そんな風になれるといいな。

『じゃあ、おやすみ、心葉。また明日』

「うん、おやすみ。また、明日」

 私は汐斗くんとの電話を切った。それから、汐斗くんからのラインを待つついでにに明日の英単語の練習をもう少しした。多分明日は公園に行くので疲れてあまり昼休みは見返す時間が取れないと思うから、できる限り追い込んだ。追い込むことが私にとって効果的なのかは分からないけれど、私はこれで今までやってきたんだ。だから、そうするのが一番いいんじゃないか、そう思ってラストスパートをかける。

 少し経ってから、汐斗くんから電車についてのラインが来ると、その電車を確認する。それからあくびも出てしまったため、眠りについた。










 
 ――今日の天気は、出かけないのがもったいない! 思わずそう言いたくなるような快晴な空が広がります。また、お洗濯ものもよく乾く、そんな一日となるでしょう。

 ピンク色の爽やかなワンピースを着た20代ぐらいの笑顔もかわいいお姉さんは、そんな太陽みたいな明るい口調で今日の天気を伝えていた。どうやら、太陽は私たちが公園に行くのを知っていたのか……そうかのように味方してくれた。実を言うと、1週間前ぐらいまでは今日の予報は雨予報だったのだ。

 スマホを開くと、汐斗くんからラインが送られてきたみたいだ。太陽さんが『おはよう』と言っているスタンプが送られてきた。なので私も、太陽さんが『今日もよろしく』と言っているスタンプでお返しした。でも、送ってきたのが5時すぎだから、かなり早起きなんだな。そう思っていると、すぐに既読が付き、『最近知ったんだけど、今日行く公園に新しく鳥ゾーンっていうのができたんだって。海佳と唯衣花とかと行ってみたら?』と次はアドバイスが送られてきた。私は初耳だけど鳥を見ることができるなんてなんか面白そうだ。私は次に『ありがとう』と猫が言っているスタンプで返した。あとで、2人にも言ってみよう。

 時間になると、テレビを消す。それから、カバンの中身などの確認が終わると、最後に英単語帳を一番取りやすいポケット部分に入れる。そして、家を出る前にまだ出張中で頑張っているお母さんとお父さんにいってきますと言ってから扉を開けた。

 途中の(合流する)駅までは1人だ。会社員の人たちが大半を占める電車に乗って向かった。私が乗っているのは都会の方に行く上り電車なので、駅に停車するたびに乗る人数が増えてくる。十数分乗ったところで、合流する駅まで来たので、多くの降者とともに、電車を降りていった。

 この駅は初めてきたので、集合場所まで迷わないか想像以上に沢山の人たちがいたという要因もあって少し心配だったけれど、汐斗くんの姿をすぐに見つけることができた。特に問題もなくお互い待ち合わせ時間に合流できたので、昨日、汐斗くんが送ってくれた通りの電車に乗車した。

 さっきよりもこの路線は乗客が少ないので、私たちはボックス席に座ることができた。私たちは今、ボックス席を横並びに座っている。この路線の電車を使ってあの公園に行く人が大半だと思うけど、まだ同じ学校の知り合いは見ていない。

「改めておはよう」

「うん、汐斗くんおはよう」

 私は朝、コンビニで買ったもうすでにぬるくなっている水を飲んだ後に、さっそく持ってきた英単語帳を見始める。

「あー、早速、心葉は英単語の勉強か。僕はまだ全然してないけどやっぱ努力家は違うな」

「いや、そんなことはないよ」

 そんなことはない。何度も言ってるけどあくまでも私は勉強できないから勉強してるだけだ。あまり勉強しなくても点数が取れるんだったら、私はたぶんこんなに勉強することはないだろうし、そもそも人が変わっていると思う。

 とはいえ、せっかく汐斗くんと来ているんだから、というかそもそもの話、私が誘ったんだから、このまま英単語帳を見るのも少し違う気がする。

「なんか私から誘っておいてあれだから、もしよければ話しかけてよ」

 だから、私は堂々とそびえ立つ山々を窓の外から眺めている汐斗くんに対してこう言った。すると、すぐに汐斗くんが、

「なら、ちょっと僕の近況報告でもしようかな」
 
 そう言って、汐斗くんはスマホを取り出した。ロックを解除したと思われる後に、何かの画面をもし大丈夫だったらと言って、私に向かって見せてきた。

 私は英単語帳から汐斗くんが見せてくれた画面に少し視線を映す。そこにはマインドマップの画像があった。マインドマップっていうのは簡単に言うと、ある事柄を広げていくものだ。例えば、赤というものからりんごと信号機に分け、それをどんどん発展させていく……そんな感じのものだ。

 中心となる一番大きな丸には伝えたいことと書かれていた。そこから、どんどん様々な方向に広がっていっている。一部見られるのが恥ずかしいのか、それともただ秘密にしたいのか分からないけれど、黒く加工で塗りつぶされている部分もあったが、伝えたいこと、自分の心、明日、虹、などのように書かれていた。

「これは?」

「あー、これはねー。前にも少し言ったけど、僕が今度作ろうとしてる工芸作品の染め物。まあ、ちょっと秘密な部分は隠してるけど」

「あー! それのイメージを決めてる感じ? 私も文芸部のとき、小説のアイデア出しのためにやったことがあるから、なんとなく共感できるかも!」

「確かに、こういうのは小説を書くときと似てる部分があるのかもね」

 どうやら、今、私に見せてくれたのは、汐斗くんが次に作ろうとしている染め物についてのアイデア出しのメモみたいだ。私が幼稚園の時だか小学校の時だかに作った輪ゴムで模様を付けるという染め物ではそんなことを一切考えずにただその時に思いついたものでやっていたから、そこからの段階から行なっているところにすごいとしか思えない。やっぱり本当の夢を持っている人のそれに込める想いは私たちが思う以上に強いみたいだ。私も、中学の時にやっていたアクセサリー作りでは確かに汐斗くんまでの想いはなかったとしても、強い想いが――

「頑張って、応援してる!」

「ありがとう。できるだけ早く見せられるように頑張るよ」 
 
「どんなイメージの作るの?」 
  
「まだ色々考えてるから決まってないかな。だからその時までのお楽しみに!」

 『まもなく、✕✕。✕✕。お出口は右側です』

 そんな話しをしていると、電車はどうやらどこかの駅に止まるみたいだ。でも、まだ私たちが今回行く公園の最寄り駅ではないので、もう少し時間がかかる。
 
 電車が✕✕駅につき、停車してから少し経ったところで扉が開いた。この駅では数えるぐらいの人が降りた後に、その降りた人の2倍ぐらいがこの電車に乗り込んできた。

「そうだよねー」

「分かるでしょ!」

 楽しそうなことを話しながら学生服姿の人が入ってきた。聞き馴染みのある声だ。昨日も聞いた声。

「あれ? 心葉? ……と汐斗?」

「あ、心葉ちゃんじゃん」

 どうやらその聞き染みのある声は、海佳ちゃんと唯衣花だった。そして、2人は私たちの存在に気づいたらしく、少し混んできた車内の中で声をかけてきた。こんな偶然あるんだ。

「おはよう」

「おはよっす」

 私たちが挨拶を返すと、座っていい? と海佳ちゃんに言われたので、私はいいよという意味を込めて、手招きした。まだ私たちの座っているボックス席は2人分空いている。それから、2人が座る。

「2人のペアって珍しいね。というか2人がいるところ初めて見たかも。偶然会ったって感じ?」

 本当のことを言うなら、約束して会たのだけど、でも、それだと私がどうして汐斗くんといるのかという理由――自分の明日を閉じようとしてることの話になってしまうかもしれない。だから、別に私は汐斗くんと約束したこと自体は隠したいとか思ってないけど、もう一つの方は隠しておきたいので、なんと言えばいいのか分からず、頭が反応を出してくれない。

「なんか、この時間に同じ路線乗る人を僕が探してて、そしたら偶然、心葉がいたから誘ったって感じ。僕、この路線ほとんど乗らないし、方向音痴だから少し不安で……」

 汐斗くんは少し照れた様子で演技しながら、少し嘘をついて2人に説明した。確かに、全部嘘をつくよりはまだましかも知れないけれど、自分から誘ったという部分は、私から誘ったことにしてもいい気がする。でも、私のことを気遣ってくれたんだろう。

「へー、そうなんだ。まあ、この時間はまだ比較的早いからね。多分、皆のんびり屋だからぎりちょんで来るもん。やっぱ2人は偉いな。私たちもだけどねー」

 唯衣花が言ってくれて初めて知ったけれど、汐斗くんが提案してくれた電車はいくらか早い時間のものだったのか。だから、知っている人を見なかったのか。納得だ。たぶん、汐斗くんはそういうきっちりとした性格なんだろう。

「そう言えば、汐斗、少し前の話になるけど、インスタにパフェとか、パンケーキとか、それにサンドイッチとかの写真を載せてたでしょ! ちょっと羨ましすぎるよ……!」

「あー、あれね。色々あって行ったけど、美味しかったよ。あのカフェは評判高いからねー」

 汐斗くんが海佳ちゃんと言ったことに対してそう反応する。その話は確かあれだ。私が明日を閉じようとした時に、汐斗くんが止めてくれて、それでカフェに誘ったという……。3人で初めてお昼を食べた日に話題になった。

「確かに、食ベログとかでも評価が高かったかも。それはともかく、この手、だれ? こんなにたくさんの料理を一緒に食べた人って……?」

 唯衣花が汐斗くんのインスタグラムの写真を私たちに見せてきた。前も私たち3人でそういう話題が出ていた気がする。ごめんなさい、それ、私です。でも、心葉ちゃんは勉強してるのにずるいよねなんてことを海佳ちゃんに言われたので、私だとは言えなかったんだ。さっきはうまい嘘をついた汐斗くんだけど、今回はどう言うのか。たぶん、汐斗くんの性格と、さっきまでの傾向を考えれば、この手を私だとバラす確率はかなり低い。

「あー、この手……? 逆に誰だと思う? まあ、2人も知ってる人だから」

 汐斗くん……? これはばらす方向なのだろうか。それもクイズ形式で。どうやら私の読みは完全に外れたらしい。でも、バラされたとしたら、海佳ちゃんはあんなことを言ってくれたのにもかかわらず少し申し訳ない。

「んー、なんか男の手ではなさそうだよね」

「うん、この手は、女性の手かなと」

 ここで私の手を見られたら、もしかしたら気づかれてしまうかもしれないと思い、さりげなく私は自分の手を隠した。

「……誰かわからないけど、関係的に言うと定番的に、彼女とか?」

 唯衣花が自分の見解を述べる。男である汐斗くんが女の人と行くのなら、考えられる可能性は幼馴染やお姉さん、それにただの仲良しとかもあるが、一番定番なのは彼女なのかもしれない。この手の《《見た目》》的にお母さんとかそういうのは考えづらいし。

「そういう関係ではないな」

 その言葉によかったという気持ちと、少しだけ寂しいなという気持ちになる。甘いようで苦い……そんなジュースのよう。別に、汐斗くんはすごくいい人だけど好きという気持ちがあるわけでもないし、それにこんな明日を閉じようとした何の取り柄もない私を好きになっても困るし。

「そうかー。じゃあ、友達以上、恋人未満とかは?」

 次に、海佳が見解を述べた。さっきよりも少しだけ関係を下げた感じか。

『まもなく、△△。△△です。お出口は左側です』

 その時、私たちが行く公園の最寄り駅が読み上げられた。どうやらもうすぐ着くみたいだ。私はこの話も一旦区切られるだろうと思い、通路側に座っていた私は、窓側に座っていた汐斗くんが早く出られるように、開く側のドアに一足早く向かった。

 でも、まだこの話は終わっていなかったようで、汐斗くんはさっきの続きみたいなことを2人に言っていた。

 ただ、私には周りの音もあるし、少し離れた位置にいたので、その声を聞くことはできなかった。

 口の動きだけが見えた。

 ――

 その口の動きははっきり見えたはずなのに、何って言たのか分からなかった。

 この電車は私たちが今から行く公園の最寄り駅に着いた。

 そして、私はホームへ降り立った。
 
 さっき2人が言った通り、まだ私たちの乗った電車はいくらか早かったようで、公園には先生と少しの生徒しかいなかった。でも、この太陽を独り占めできるような開放的な空間が気持ちいい。私の心を温めていく。私たちは少しの間、空に向かって大きく手を広げた。この気持ちよさは皆がいると感じにくいので、早く来て正解だったかもしれない(汐斗くんがそうしたんだけど)。

 でも、あの時に汐斗くんがなんと言ったのかが無性に気になる。『違うよ』とか『そうだよ』みたいに一単語ではなく、少し文になっていた気がする。でも、なんと言ったか聞くのは恥ずかしくてとてもじゃないけどできない。それに、あそこで言ったことが本当だとも限らないし。

 時間が経つにしてまるでそれに比例するかのように人が増えてきた。なのであっという間にこの集合場所となってる臨時駐車場はお祭りでも開催されるかのように人で埋め尽くされた(臨時駐車場なので今日は特に車は停まっていない)。

 集合時刻になると、私たちは人数確認のためにクラス順かつ出席番号順に並んだ。私の名字は白野なのでちょうど真ん中の方だ。先生が休みの人がいないかなどの確認を終えると自由行動だ。特に誰と巡ってもいいので、私は海佳ちゃんと唯衣花と巡ることにしている(汐斗くんも誘ったが、3人で楽しみなよと断られてしまった。まあ、しょうがないか)。

「そう言えばこの公園に新しく、鳥がいる施設ができたんだって!」

「あー、なんかこの市で配布してる広報で見たかも。もう出来てるんだ。じゃあそこに行こう!」

「へー、そんなのできたんだー。行きたい!」

 私は今朝、汐斗くんからアドバイスされた鳥ゾーンに行かないかと提案すると、2人もそれに賛成してくれた。その場所を近くにあった園内マップで見つけ、早速そこに行くことにした。もうすでに、生徒たちがその鳥ゾーンにはいたが、まだ最近できたばかりで知ってる人はそこまで多くはないようで入れないほど混んでいるわけではなかった。

 私たちはそのドームに鳥が逃げないように少し気をつけながら入った。そのドームみたいなところに入ると、様々な鳥がすぐに私たちの世界を創っていく。

 ――チュンチュン。

 そんなような鳥の声が私たちにとっては一つの音楽のように聞こえる。私たちの心を優しく包んでいく。目をつぶってしまえば、もう、そこはどこかの広い草原にいるかのようだった。

「なんか、癒やされるよねー」

「分かる、わかる」

 2人の言うように、ただこの空間にいるだけでも、私の心の色が少し変わっているような気がする。一体、何色だろうか。ただ言えるのは、汐斗くんがアドバイスしてくれたここは大正解だったっていうことだろう。

「――私もこんな風に、鳥になりたいな」

 私の心の声が漏れる。何の偽りもない本音だ。子供みたいなこと言ってるかもしれないけれど、もし、鳥みたいに世界を駆けることができたら一生、明日を閉じたいなんて思わなくなるんじゃないか……そう思ったから。

「確かに、分かるかも宿題とかないしね!」
 
 海佳ちゃんは私の言ったことに対して反応した。でも、私はそこっ!? と思ったし、私が考えてる理由と全然違くて少し笑ってしまった。それを少し不審に思われたみたいなので、何でもないよと返した。

「私も少し頭が痛いから、鳥になったら痛くなくなるんだろうな。けど、これもよく言うけど、鳥も大変だからねー」

 唯衣花が正論をぶつけてきた。その通りなのだけど、私は鳥じゃなくてもいいから、羽ばたける――そんな人になりたい。

「っていうか、唯衣花、頭痛いの?」

「あー、うん。でもまあちょっとだけだから心配しないで」

「まあ、無理しないでね」

 少しだけなら特別心配するようなことはしなくてもいいかもしれないが、やっぱり無理は禁物だ。と言いながら、私は無理をしてしまうのだけれど。
 
「あれ、青色の鳥じゃない?」

 私たちの前を青色の鳥がゆっくりと通過した。私は鳥について詳しくないので、なんという名前の鳥なのかは分からないが、なにか不思議な力を持っているようなそんな風に思えた。ただ単純に、特別言葉を飾る必要もないぐらいに美しかった。

 何の鳥なのかを気になったのか、唯衣花がスマホで何かを検索し始めた。その調べた結果を私たちにも報告する。

「どうやら、青色の鳥は幸せを呼ぶって」

 確かに、どこか海外の童話でも青い鳥が幸せを呼ぶということで使われてた気がする。

「おー、ロマンチックじゃん!」

「汐斗、さっきの人と来ればいいのにね」

「そうだよねー」

 さっきの人って、まさか、カフェに一緒に行った人のことだろうか。あの時、聞けなかった、友達以上、恋人未満とか思ってるかを2人に聞くチャンスだ。

「ねー、あのとき、汐斗くん、その人のことを『友達以上、恋人未満』とか言ってた?」

「どうした、心葉、急に? なんか近くない?」

 どうやら私は、そのことについて気になりすぎていたせいか、2人に近づき過ぎていたみたいだ。少し恥ずかしい。それに少し、大げさみたいな声の出し方だったし。

「あー、確かに、心葉ちゃん先にドアの方行っちゃったから聞こえてなかったんだろうね。でも、そんなに気になるの? もしかしてだけど、汐斗くんのことが……とか?」

 海佳ちゃんの言ったことに心が揺らぐ。あくまで、海佳ちゃんは「ことが……とか」と好きとかとは断言はしなかったけど、そういうことが言いたかったんだろう。確かに、こんなにも興味があるということは好きと言ってるようなものなのかもしれない。正直に言えば、汐斗くんは優しいし、気遣いもできるし、何よりも今の心の支えは汐斗くんだ。

 でも、恋をしているのかなんて分からない。してないとも、してるとも断言できないから、その可能性もなくはない。でも、私は恋をすることは考えてないと思う。正反対のことを持つ人が恋をするのは違う気がするし、それに仮に一方的に恋をしたからって、こんな私を認めてもらえるはずもない。だから、本当のところ、どうなんだろう――

「まあ、とりあえずいいや。汐斗はね、その人のこと、『友達以上、恋人未満』とかとは少し違うって言ってたかな。でも、なんか一緒にいたい人とか言ってたよ。つまり言うと、分からないが本音らしい」

 どうやら、汐斗くんも私と同じことを考えているみたいだった。必ずしも人との関係にこういうのだってつけなければいけないわけではないけど、もし、つけるのだとしたらどういう関係になるんだろうか。

「そうなんだ」

「なんか、心葉ちゃん、興味深そうだね」

「いや、そんなことないよ!」

 それは、その人物こそが私だから、興味深いのは当たり前だけど、その事実を2人は知らないので、否定した。

「そうかなー」

 でも、海佳ちゃんは少しニヤリとした表情で私を見てきた。どうやらまだ、疑われてるようだ。

「まあ、次、行こうか!」

 私が何かかわいそうだとでも思ったのか、唯衣花がそう言ってくれたので、事なきを得た。でも、2人とも汐斗くんに対して私が何かを感じているのは悟ってしまったんじゃないだろうか。

 この後は、様々な色がまるでどこかおとぎ話の国にいるかのように咲いている花の世界に入り込んでそこでちょっとだけ萌え要素の入った写真を撮ったり、持ってきたメモ帳と鉛筆でその美しい景色を(絵はど下手なのだけど)スケッチしたりして集合時間まで過ごした。
 
 少し面白かったのが、花を見ている時に蜂がいて、それを無性に唯衣花が怖がっていたことだ。私の知ってる唯衣花は強い子というものが頭の中にあるので、蜂を怖がっている姿は節分の時に鬼から逃げる小さな子供のようで少しだけ面白かった。もちろん、そのまま放っておくわけにもかないので、私たちと海佳ちゃんで唯衣花を蜂のいないところまで連れて行った。 


 小さな思い出が――幸せが降り注いできた。ずっと残しておきたい物が詰まっているところに今日の思い出が入っていく――そう思うとなんだか特別だった。でも、この思い出も、もしかしたら自分で消すことになってしまうのかもしれない。明日を自分で閉じることになったら……。そう思うと少し悲しい。

 今はもうすぐ集合時間になるので、2人はその前にトイレに行った。私は大丈夫だったのでその近くで待っている。でも、時間の感覚って本当にその時によって変わってしまうものなんだな。楽しいと思える時はすぐに終わってしまうのに、苦しいときは少しも時間が進まないように感じる。今日は時が流れるのが時計の針が壊れてしまったのかと疑ってしまうぐらいすごく早く感じてしまった。

「おっ、心葉じゃん、今日はどうだった?」

「あっ、汐斗くん。すごく楽しかったよ。でも、こういう時間を作れない自分が少し悪いなって思っちゃう。私、本当になんで勉強できないんだろう」

「……そっか。進学できないのはやっぱだめ?」

 汐斗くんが少しおかしなことを聞いてきた。

「うん、親に悪いし。それに、退学するのはやっぱここにこれなかった人にも少し悪いし。でも、もしかしたらそういう選択を取ることも明日を閉じないためには必要なのかもしれないね。だけど、やっぱそんなこと、親には相談できないな」

 私は汐斗くんの問に対してすぐに答えた。この世界には正しい答えがいくつもあるずるい問いが溢れている。

「んー。まあ、心葉の立場に立てばそうだよな……」

 こんなことしか言えなくて、私を支えてくれている汐斗くんには申し訳ない。明日を閉じないために、自分のもしかしたらもう終わりが近いかもしれない命を使ってまでもそうしてくれているのに。でも、私が変わること、本当に現実的なんだろうか。

「じゃあ、集合時間に遅れないようにな。僕はなんか喉渇いたし、自販機で飲み物でも買ってから並ぼうかな」

「うん、じゃあ、また後で」

 そう言うと、汐斗くんは自販機のある方向に向かった。私はそんな汐斗くんに自然と手を振っていた。

 というか、2人とも遅いな。トイレ、混んでるんだろうか。私はそう思いながらトイレの方に視線を移した。

 ――あっ!

 私の目が大きく開く。

 見てはいけないものが、私の視界に入る。

「……あ、あっ……」

 フラフラと、まるでどこからか遠隔操作されているみたいに自分自身で動くことができていない唯衣花がここから数メートル離れたところにいた。それだけならまだいいのだが、その周りには柵がないから下手したら下に落ちてしまう。その下はビルの何階に相当するかは分からないけれど、かなり高いし、この下には交通量はそこまで多くないとはいえ、舗装された道路が広がっている。

 だから、もしここから落ちてしまったら大きな怪我は免れない。もしかしたら、最悪の場合には頭の打ちどころが悪かったり、もしくは偶然通りかかった車に轢かれて明日をもう迎えることができなくなってしまうかもしれない。

 そんなのはいやだ。唯衣花を失うなんていやだ。

「唯衣花! 危ない!」

 どうしてそうなってるのかは分からないけれど、私は心の中から声を出して必死にそう呼びかけた。

 が、反応がない。この声が、唯衣花には届いてないみたいだ。でも、届かせなきゃいけない。私は更に叫ぶ。

 私は唯衣花を助けなきゃ……その思いから、気づけば唯衣花の方へ駆け出した。

 でも、なんで急に唯衣花はこんな風になってしまったの?

 まさか、唯衣花も自分から明日を閉じようとしている? 実は私と同じ立場だったの? 同じような何か苦しみを抱えていたの?
 
 そうと決まったわけではないけれど、もしそうなのだとしたら、このまま唯衣花の好きにしたあげたほうがいいんだろうか。自分の人生なんだから自分で終わり方を決めさせてあげた方がいいんだろうか。汐斗くんだって1ヶ月経っても変わらなかったら、自分の好きにすればいいと言ってくれたんだし。

 でも、だめだ。唯衣花を失うことはしたくない。それが、仮に唯衣花の希望だったとしても。そんなのはよくない。大切な存在になってくれた人を失うのは怖い。私だって、確かにそうかもしれないけど……。

 何度も何度も唯衣花の名前を呼んだ。でも、一向に振り返ってくれそうな雰囲気はない。私の声もどんどんかすれていく。ぐちゃぐちゃだ。

 私は、唯衣花に追いつく。フラフラとしてもうすぐ落ちてしまいそうだった唯衣花を後ろから抱きしめた。

「唯衣花……」

 ――これで、大丈夫だよ。絶対に離さない。



 ――学校の保健室は、少し病院みたいな独特な匂いがする。それが少し嫌いだ。そして、この雰囲気も同じぐらい……いや、それ以上に嫌いだ。

「あー、なんか熱、高いね」

 唯衣花の脇に入れていた体温計を保健室の先生が見て心配そうな口調でそう言った。

 どうやら唯衣花は私みたいに自分で明日を閉じようとしている――そういうことではなく、体調がよくなかったみたいで、フラフラしてしまっていたようだ。確かに、自分で明日を閉じようとしているのなら、すぐにあそこから落ちるという選択肢を取るだろう。本人には言ってないけれど、そうかもしれないと少し疑ってしまったことが申し訳ない。普通の人はそんなことしないのが、当たり前なのに。それぞれが、自分の得意なことを活かして助け合いながらこの世界をよくしていく……そうやって今日も明日も生きていくというのが本来の姿なのに。

「でも、さっきよりは楽になりました」

 唯衣花の言う通り、さっきよりは顔色もよくなっているし、少しだけ動けたりしている気がする。でも、まだ熱は高いし、いつもの唯衣花の表情ではない。

「心葉、落ちそうだったとこを助けてくれてありがとうね。海佳も先生に言ってくれてありがとう」

「うんん。唯衣花、本当に危なかったんだからね! もう少しで落ちそうだったよ!」

「私はそのときは見てないけど、本当に無事でよかった」

 私が唯衣花を後ろから抱きかかえた後、ちょうどトイレから出てきた海佳ちゃんに先生に伝えるようにお願いしたのだ。

「あと、汐斗も……ありがとう。色々気遣ってくれて」

「別に、僕は」

 保健室のドアのところには、ポケットに手を突っ込んだ汐斗くんが寄りかかっている。汐斗くんは遅いなと思って私たちのところに来てくれたようで、その時に後ろから抱きかかえられている唯衣花を見たから、すぐさま駆けつけてくれた。そして、私にどういう状況かを聞いた後に、この体勢の方がいいとか色々と対応してくれたのだ。でも、こういう対応方法を知っていたのはやはり、自分自身が病気を持っているからだろう。その後に、先生が来てくれて、先生の車で学校まで帰るということになったのだ。

「照れないでよ」

「別に、そんなのじゃ……」

 唯衣花は微笑ましく笑った。確かに、汐斗くんは少しだけ照れていた。こんな顔、汐斗くんでもするんだ。あのときの汐斗くん、なんかかっこよかった……。

「まあ今は落ち着いてるけど、一応早退した方がいいかな。親の人とか誰か来られそう?」

「はい、たぶんお母さんなら大丈夫だと思います」

「分かった。じゃあ、電話してくるから少し待ってて」

「はい、ありがとうございます」

 先生は、唯衣花のお母さんの電話番号を書類で確認した後に、電話をかけ始めた。

「唯衣花、なんか元々少し頭が痛かったんだっけ?」

 私はそう言えばの話を思い出して、唯衣花に聞いてみる。確か、公園で青い鳥を見た時にそんなことを言っていた気がする。

「気遣えなくてごめんね」

「うんん、そんなことないよ……。2人も色々気をつけてね。いつ何が起こるか分からないから」

 私と、海佳ちゃんはその言葉にうんと大きくうなずいた。少し経ってから、先生が電話を終え、30分後ぐらいには来てもらえるという報告を受けたらしい。私たちはもうすぐお昼になるからと言われて、汐斗くんとともに教室に返された。

 さっきの時よりは症状は落ち着いたとは言え、少し心配だ。放課後にお見舞いにでも行こうかな。唯衣花は前から知っているけれど、体を壊すことはよくあった気がするから。体の心配と言えば、汐斗くんも……。どうか、2人がよくなりますように。

 お昼は今日は少し寂しいけど、海佳ちゃんと2人で食べることにした。誰か欠けるというのは、こんなにも大きいものだったのかと今知らされる。ぽつんと大きな隙間が空いたようだった。お昼の時間に話した内容はほぼ全部が唯衣花のことだった。たぶん大丈夫なんだろうけど、余計に心配してしまう。 

 お弁当を食べ終えると、早速英単語の練習に取りかかった。公園に行ったり、唯衣花の件があったりして色々と頭の中は渋滞しているけれど、このことは忘れるわけがなかった。でも、海佳は忘れていたみたいで、今日の英単語難しいよねと話していたところ、今日の英語って小テストあるのと言われてしまった。

 お昼休みが終わることを知らせる予鈴のチャイムも鳴り、今は気づけば5時間目がもうすぐ始まるところだった。私はギリギリまで英単語帳に目を通す。前回はいつもほんの少しだけよかったから、そのペースを崩さないようにしたい。ただ、そう考えれば考えるほど自信がなくなってくる。

 もうすぐ、小テストの時間になってしまう。時計の秒針が私の耳の中を刺激する。小テストなんて今までに何回も何回もやって慣れているはずなのに、今日もまた、このような錯覚に襲われる。

 ついに、チャイムが鳴ってしまった。本当のことを言うのならもう少しだけ待ってほしかった。先生の指示でクロームブックと言われるいわゆるパソコンを開く。このクロームブックで、先生の指示でテストの部分に進む。

 全員がテストを開けて、名前なども打ち終わったところで、先生がタイマーを押し、英単語のテストが一斉に始まる。問題数は全部で20問で20点満点だ。私の平均はだいたい16〜17点ぐらい。だから、8割前後はいつも正解している。

 でも、今日はなんだか少し手こずっている。多分こうなんだろうなとは思うが、なんだか少しスペルミスとかをしてる気がする。勉強の量はいつもとあまり変わらないはずなのに、出来はいつもの半分ぐらいだ。なんでだろう。なんで、できないんだろう。

 制限時間が残り一分になったところで私はテストを終了した。クロームブックでやっているから、結果はインターネットがやってくれるので、すぐに出る仕様になっている。

 私は出来が悪かったこともあり、少し心臓がバクバクしている。震えた手でスコアの部分を押した。

 ――7点。

 私は目を疑った。間違ってるのではないかと思い、どの問題が間違えてしまったのか確認したがやっぱり7点だ。今までで一番悪い点だった10点を3点も更新してしまった。10点だったときは体調があまりよくない状況で受けたものなのでしょうがない部分もあるが、今は体調が悪いわけでもないし、勉強を怠ったわけでもないのになんで……。

 この点数が私の心を苦しめた。悪い点ぐらい1回ぐらいいいじゃないと思うかもしれないけれど、私にとってはかなりのことだし、テストであまり点が取れない私にとって小テストでの低得点はかなり痛い。

 最近、私の心は満たされていたはずなのに。明日を閉じようとするのをやめようとしていたのに、人生って楽しいって思ってきた矢先なのに。

 やっぱ私は楽しむことをしちゃいけない人なんだ。この自分よりも高い学校に入ってしまったのなら、断ることができなかったのだから、私は勉強以外してはいけないんだ。

 苦しい。

 苦しい。

 この点数のことがあって後の授業は頭に全く入ってこなかった。確かに英単語の勉強時間は変わらなかったかもしれないけれど、色々と最近楽しんでしまったことで、それで頭がいっぱいになり勉強した内容が十分に入らなかったんじゃないか。……そうだ、そうに違いない。やっぱり私は楽しむことをしてはいけないんだ。きっと支配されているんだ。

 私はまた、こんな自分が嫌になり、急に明日を閉じたくなってしまった。とはいっても、唯衣花のお見舞いぐらいはやらないといけない。実行するとしても、その後なんだろう。

 だから放課後、自転車で近くのスーパーに行き、風邪の時に食べやすいプリンとかゼリー、果物を少し買った。それから、唯衣花の家へお見舞いに向かった。家の場所は聞いてはいるけれど、実際に行くのは初めてなので、少し迷ったが、なんとか唯衣花の家を見つけることができた。でも、私はもう少し時間が経ったら本当にあの時みたいに明日を閉じてしまうのだろうか。自分のことなのに自分でもよく分からない。そんな未来のことなんか。

 ――ピーンポーン。

 ちゃんと表札の名前を確認してから、インターフォンを押す。
 
 古びたトロッコ電車のように少し音が鈍い。

「はーい」
 
 少し経ってから、インターフォン越しに唯衣花のお母さんと思われる人の声がした。

「あの、唯衣花ちゃんと同じクラスの白野心葉といいます。お見舞いに来ました」

「あっ、心葉ちゃん。わざわざ唯衣花の為にありがとう。分かった。今、開けるね」

 そうお母さんらしき人が言ってから、ドアが開いた。それから、唯衣花の病気は特に人に伝染るやつではないということで、唯衣花の部屋に案内された。今の状況はさっき寝たおかげもありそこまで悪くはないそうだ。悪化してないことに安心した。

 唯衣花の部屋に入ると、毛布をかけて横になっている唯衣花の姿があった。お母さんが唯衣花、心葉ちゃんが来てくれたよと言ったところで、唯衣花が私の方を向いてくれた。確かに、学校で見たときよりも顔色はよくなっている気がする。この調子ならあと1日ぐらい寝てればよくなるんじゃなだろうか。よかった。

「あ、心葉、わざわざ来てくれてありがとう。嬉しい」

「別にそれぐらいいよ。海佳ちゃんはどうしても外せない用事があるらしくて来れなかったけど。あと、いらなかったら全然食べなくていいんだけど、食べやすいプリンとかゼリーとか、フルーツも買ってきたから、ここに置いとくね」

 私は、持っているエコバッグに入っているものを1つ1つ見せた後に、もう1回元のようにしまった。病状が悪かったら余計だったかなとも思ったけれど、この様子だと、これぐらいのものは食べられそうだ。

「ありがとう、助かる。じゃあ、お母さん、心葉が持ってきてくれたりんごを食べたいから皮を剥いてくれる?」

「分かった。ちょっと待っててね」

 唯衣花がそうお願いしていたので私はお母さんにりんごを1つ渡した。お母さんはそれを持ってキッチンの方へ向かった。りんごには様々な栄養要素が含まれているから少しでも元気になってもらえたらいい。

「ねえ、心葉、違ってたらごめんね……」

 唯衣花が私の方に少し動いてきた。なので私も唯衣花の方に寄る。そして、唯衣花が私の耳元にこう呟いた。

「――少し元気ない?」
 
「えっ?」

 私の顔色も悪いんだろうか。特に体に異常は感じられない。疲れているわけでも、どこかが痛いわけでも……。

「体というより、心がってこと……」

 私は、唯衣花の言葉にはっとさせられた。確かに、私は今、元気がないのかもしれない。また苦しくなって明日を閉じようとしているし……。そんなことを、唯衣花はいとも簡単に読み取ってしまった。

 それから唯衣花は私の心臓の部分に耳を当てた。私の心臓の音を聞いているかのようだった。ドクンドクンと立てる心臓の音を。この音から、唯衣花はどんなことを感じているのだろうか。まさか、この音だけで今の私の心が何色かを見ているんだろうか。そんなの、人間にできるはずないのに。

 でも、そんなことをばれてはいけない。自分の本当の心を知られてはいけない。まだ、知られてもいいんだとしたら、私の本当の姿を知っている汐斗くんだけだ。

「……何か、分かったの?」

 何かを感じられてたらどうしようかと少し怖かったが、私は恐る恐る唇を震わせながら唯衣花に聞いてみた。

「もちろん、分からないよ」

 マショマロとかみたいなそんな風に柔らかい声だった。じゃあ、なんでまだ私の心臓の音を聞いているんだろう。何かを吸い込むかのように。

「でも、なんかあったらいつでも言ってね」

「うん、分かった……」

 本当に唯衣花は何も分からなかったんだろうか。少しだけ何か吸いこまれた気がするのに、私の姿を何か気づかれたような気がするのに。でも、私は唯衣花には決して言うことができない悩みを抱えている。だから、今、私は嘘をついた。酷いことは承知している。でも、唯衣花には言えない。本当は言いたいのかもしれない。でも、言えない。

「できたよー」

 どうやらお母さんがりんごを切り終わったようだ。近くにあった小さな丸いテーブルに置いてくれた。それから、お母さんは部屋を出ていった。それと交差するかのように唯衣花はベッドに座り、楊枝にりんごを1つ刺して口の中に運んだ。食べている音が響く。シャリ、シャリ。ごっくん。

「うん、みずみずしくて美味しい」

「よかった」

 どうやら、りんごぐらいなら食べられるみたいだし、ただ買っただけなのに美味しいと言ってくれて素直に嬉しかった。

「楊枝もう一本あるから、心葉も少し食べてよ」

「私も?」

「うん」

「じゃあ」

 私はそう言われたので、構わずに楊枝でりんごを一つ指して口に運んだ。これが、私にとって最後の食事になるかもしれないからいつもよりもそのりんごの味を噛み締めた。普段ならここまで感じないけれど、噛みしめるとりんごの味って意外と深いんだな、甘さがゆっくりと広がっていくんだな……そう思う。

 この味に少し目から雫が出てしまいそうだったけれど、流石にここで涙を流したら怪しまれる。唯衣花なら確実に私の心を読み取ってしまう。だから、必死に我慢に我慢した。そのためか、さっきから体が小刻みに動いている。

「うん、美味しい」

 私は唯衣花に真の心を悟られないために、必死に作り笑顔を見せる。作り笑顔をするのは私はある意味特技だ。親に何度も見せてきたんだから。

「よかった。今日はお見舞いに来てくれてありがとうね。すごく嬉しかったよ」

「いいよ。唯衣花が早くよくなりますように」

「うん、早くよくなるように私も頑張るよ」

「じゃあ、私はそろそろ帰ろうかな。唯衣花の顔も見られたし」

 立私はゆっくり立ち上がる。足が少し痺れた。

「うん、気をつけて帰ってね。また明日」

「うん、そうだね……」

 私は急いで帰える準備をする。私は唯衣花にまた明日、とは言えなかった。だから、言葉を濁した。少しずるい。

 私は準備を終えると、唯衣花のお母さんにありがとうございましたを言った。すると、お見舞いに来てくれたお礼と言って、手作りクッキーを渡してくれた。だから、もう一度きちんとありがとうございますを言ってから唯衣花の家を後にした。

 少しの時間しか経っていないから、外の風景はほぼ私が唯衣花の家に入る前と同じだった。でも、私の心はそうではない。お母さんが手作りクッキーを渡してくれたのは嬉しいけれど、それはあっちの世界で食べよう。ここで食べたら、私の心が停止した理由がクッキーだと思われても困るから。他人を巻き込むことは私はしたくない。だから、この展望台みたいに様々な景色を見ることができるマンションから落ちるのも危険だ。疑いが唯衣花たちに向いても困るから。

 だから、私は場所を変えることにした。せめて、最後ぐらいはいい景色を瞳に収めてから、この人生を終えたい。この辺にはちょうどよくそんな景色がある場所があるみたいなので、自転車に再び乗ってそこに向かった。この自転車を漕いでる力は一体どこから出ているのか、私には分からない。ただ、さっきより吐く息が荒い。もう、終わるんだから何でもいいんだ……。私はそう思ってさらに漕ぐスピードを上げる。

 自転車を走らせてから少し経ったところで、その目的の場所についた。最後だからといって、疎かにすることはできない。自転車をその辺に投げ捨てると、事件に巻きこまれたのではと思われる可能性があるので、ちゃんと自転車置場にそれも、あまり人が置かない端っこに止めた。

 ここからは歩いて向かう。私に運が向いていたのか、周りから音が聞こえることはない――人がいそうにはない。

「ふーっ。ふーっ」

 私は美しい景色が見られると調べた時に書いてあった少し小高い丘のような所まで来た。私はその景色を一気に見た。

 ――はっ。

 普段なら一点しか見えない景色が、ここからキャンパスをはみ出して広がっていた。

 私の目が奪われる。

 私の瞳が大きくなる。その瞳がまるでカメラのようになって景色を映しだていく。

 きれいだ。この言葉が一番ふさわしい。

 多くが私の今見ることができている場所で今日も人生を歩んでいる。普通の日常を歩んでいる。

 でも、私はその人々の歩む街を上から見下ろしている――それが今から、現実となる。

 私にはここからもう、先の世界が見えてしまったのだ。

 ほら、この先に広がる空が私を誘導している。このどこまでも同じ色である空の道を通って私はその次の世界に行かなくてはいけないのだ。

 怖くはない。だって、体は震えてないし。

 でも、申し訳ない気持ちはある。

 仲良くしてくれた唯衣花や、海佳ちゃん。それに、私を支えてくれた、明日を見たい汐斗くん。

 もっとたくさんの人に申し訳ない気持ちがある。

 人生は自分のものだ。でも、それは決して人生を自分の好き勝手にしていいわけではないということをこの少しの期間で私は学んだはずなのに。

 そして、悔しかった。こんな自分が。こんなこと考えるようになってしまった自分が。唇を噛む。痛い。痛い。

 それに、汐斗くんはもっともっと恨まれるだろう。自分がこんな立場なのに、君はそれを見捨てるのか、約束を破るのか、僕との日々を無駄にする気かと。たぶん、葬儀に汐斗くんは来てくれないだろう。もしかしたら、唯衣花や海佳ちゃんも呆れてこないかもしれない。でも、そんなのどうだっていい。

 自分が一番いいと思える決断が、これなのだったら。もし、違うのだとしたら誰か私に答えを教えてよ。

 私は、ここから落ちるために前に進む。念のために私は周りを見渡したが、何も感じられなかった。邪魔するものはなにもない。完全に自分だけの世界だ。だから、自分のタイミングで最期を迎える。

 でも、こんな私でごめんなさい。そして、こんな私と関わってくれた人、本当にありがとう。

 自分の人生は色々あったけれど、決して意味のない人生ではなかった。それだけは、分かってほしい。 

 ――私は、今、明日を閉じるのだ。

 さようなら。




 ――僕は別に君に自分から明日を閉じるようなことはするなって言わない。でも、1ヶ月だけは待ってほしい。その1ヶ月の間に、僕は君にあげられるものはできるだけあげる。楽しいも、嬉しいも……。だけどもし、その1ヶ月で君の気持ちが変わらなかったんだとしたら、自由にしていい。そう、約束してほしい。

 まるで魔法の言葉かのように、私の耳の中にその言葉が急に流れてきた。本当に自然とだった。

 カフェで沢山の料理を食べたあの時に、汐斗くんと私はその約束したんだ。1ヶ月は待ってほしいと。その後なら、自由にしていいからとにかく1ヶ月は待ってほしいと。だから、私は今、明日を閉じたらこの約束を破ったことになるんだ。汐斗くんを本当の意味で裏切ることになるんだ。どんな刑罰になるか分からない。ただ言えるのは、私にとって一番の罪を犯したことになるんだ。

 その言葉が、私の足をピタリと止める。邪魔するものなんてなにもないはずなのに、自分だけの世界にいるはずなのに、なんで私は何かに足を止められてしまったんだろう。自分で止めたみたいじゃないように感じる。自分の体は進みたい方向に進むはずなのに、これ以上進まない。

 ――自分の進みたい方向に進む?

 なんとなく、分かった気がする。私は、心の中ではまだ、明日を閉じようとは思っていないんだ。汐斗くんとも約束したし、必ずしも生きていて悪いことばかりではなし、私を認めてくれる人だってこの世界には沢山いるんだから。見えてることろにも、見えてないところにもいるんだから。

 私の人生はまだあるべきものなんだから。

 私は、自分の世界に進むために、ゆっくりと落ちないようにゆっくりと後ろに下がった。

 ――今はまだ、しちゃだめなんだ。

 私は心を落ち着かせるために大きく深呼吸した。私は自分がいなきゃいけない――前の世界だけを見つめる。

 なんとか、踏みとどまることができた――汐斗くんの言葉のお陰で。2回も汐斗くんは私を助けてくれた。汐斗くんって一体何なんだろうか。

 私にとって、どんな存在なんだろうか。

 でも、私にとってなくてはならない存在……それだけは確かだ。

 私はそのまま心を空っぽにして、自転車を漕いで家に戻った。その後も、心は透明だったけれど、いつも通り過ごした。勉強をして、ご飯を作って、また、勉強をして……。

 自分の体がまるで風船みたいに思える。何なんだろうか、私は。

 今日は切りがいいところまでいったので、汐斗くんと電話する予定の5分前に終わらせた。スマホを開くと、どうやら唯衣花からラインが来ているみたいだった。私はそのラインを開く。

『今日はお見舞いに来てくれてありがとう。あの後も寝たら、いつも通りよくなったよ。体調はもうバッチリ! だけど、お母さんから念のため土日は寝てなさいって言われちゃったから、大人しく寝てるけど、元気になったよって報告だけしたくてラインしたよ。あのりんごのおかげかな(笑)』

 ラインにしては少し長い文章がそこには書かれていた。体調はどうやらよくなったらしいので私は少しだけ口角が下がった。りんごにそんな大きな効果ないだろ少し大げさだなと思いながら、お大事にとくまさんが言っているスタンプを送信した。でも、よくなってよかった。本当に心配だったから。

 そして、次に汐斗くんに電話する。でも、少し今日は汐斗くんと電話するのが怖かった。いつもよりかかるまで時間がかかった。

『もしもし、今日も何も変わりないか?』

 今日もいつも通り、この言葉から入る。私はあのことを言うべきかどうかを少し悩んだ。

「うん、まあ公園も行ったし色々あったから少し疲れちゃったかな。あと、唯衣花が倒れちゃったのが心配だったけど、今来たラインによると、体調はよくなったらしいよ」

 私はあのことは報告せずに、そのことだけを報告した。

『おっ、唯衣花よくなったのか。僕も心配してたからよかったよ。まあ、公園行ったりして疲れたのはお互い様だな』

「えっ、汐斗くんでも疲れるんだ」

『そりゃ、人間だからな。っていうか、変な偏見、やめてくれよー』

「あー、ごめんごめん」

 ほんの数時間前までの姿はああいうものだったのに、今は自然な笑顔が漏れてしまう。汐斗くんが楽しいを与えてくれている。いつも、電話するときはそうだ。1ヶ月で沢山っていう約束をしてくれたから……。

『そんなこと言ったら、心葉は動物とかにめっちゃ好かれそうだな』

「えー、そんなことないよー」

 確かに、唯衣花にもそんな偏見を持たれたことがあるが、私が前に動物園で触れ合いできる場所でうさぎと触れ合おうとしたが、私がなでると、嫌だったのかすぐに逃げてしまった。

『そうかー。で、今日はなんか言っときたいことはないか? 苦しかったこととか?』

 また、いつもの言葉が来た。ここで言わなきゃいけないんだろうか。もし、言ったら怒られるのではないか、見捨てられるのではないか……私のことを次こそ本当に嫌いになってしまうのではないか。そういうことを考えてしまって、言うべきか悩んでしまい、少しの間、お互いに無言の時間が流れる。この世界が、一瞬、なくなった。

『別に小さなことでもいいんだぞ。吐き出せば、楽になるってこともあるから……もしあるんだとしたら、遠慮なく言っていんだぞ。もちろん、最後まで聞くから』

 この、私が作った沈黙で、私の心境がどういうものなのか、少しだけ悟られてしまったみたいだ。汐斗くんのことだからここで私が大丈夫、何もないと言ったら汐斗くんは無理には問いかけてはこないんだろうけど、いつか聞いてくる可能性は高い。だったら、汐斗くんがこう言ってくれてるんだし、吐き出したほうが楽になるのではないか。また、自分で明日を閉じようと思ってしまうかもしれないし。でも、本当にどんなことでも言っていいんだろうか。これは人を傷つけることにならないんだろうか。

「あるんだけど、それはもしかしたら汐斗くんを傷つけることになっちゃうかもしれないよ……」

 私の声がさっきまでとは違い、震えている。親友でも言っていいことと言っちゃだめなことがあるように、これは言ってもいいことに当てはまるんだろうか。明日の扉を開きたい――そんな君に。

『別にいいぞ。僕が傷つくだけで、心葉が自分を少しでも取り戻せるのなら。僕の負う傷より、複雑な気持ちを持つ心葉の傷のほうが大きいはずだから。安心して言ってみろ』

 なんだか、その言葉に安心してしまった。少しだけ、そんな言葉が言える汐斗くんにやきもちを焼いてしまった。ずるいじゃないか、汐斗くん。

 そういう言葉を私に言ってくれたから、私の心をさっきまで縛っていた紐を少し解いて、汐斗くんに自分のことを何の偽りもなく、正直に話すことにした。

「あのさ、今日さ、小テストでいつも通り勉強したのに、低い点数を取っちゃったんだよ。その原因は公園行ったりして疲れてるだとか、いくつかると思うけど最近勉強時間は同じでも楽しみすぎたりとか、他のことをやってるからそれが頭の中に入っちゃったから、きっと覚える為に使ってた脳の部分が小さくなって……。それで、やっぱ楽しむことをしてはいけない自分が嫌になって、また、自分から明日を閉じようとしちゃったんだよ。でも、なんとか、汐斗くんの約束だったり、皆のことを思い出してとどまることはできた。とはいえ、汐斗くん、ごめんなさい。また、明日を閉じようとしちゃって……」

 涙が出そうだけれども抑えた。今日は何度も涙が出てきそうになってしまう。でも、今泣いたら、汐斗くんの方がこんなことを知って泣きたいはずなのに、私が泣いたらおかしい。だけど、この後のことの言葉が怖い。急に電話を切られるんじゃなかとか、暴言を吐かれるんじゃないかとか、嫌いになってしまうんじゃないかとか……。

「心葉、聞いてくれ」

 でも、汐斗くんの声は、ゆっくり音楽を奏でるかのようなそんな声だった。どんなことを、汐斗くんは今から喋るんだろうか。怖かった気持ちが少し、落ち着いた。

『心葉、君は頑張ったな。偉いよ』

 ――えっ? 私が頑張った? 偉い?

 わけがわからない。その心葉って、私のことじゃないんだろうか。それとも、私がこんなこと言ったから、汐斗くんの心を壊してしまったんだろうか。

「どういうこと? 私、自分から――」

「いや、そのことについてはあれかもしれない。でも、心葉は自分で止めた。明日を閉じたい気持ちに勝った。それに、僕との約束を守った。頑張ったし、偉いよ。そんな、心葉が――。いや、何でもない。でも、心葉、今日も生きてくれてありがとう」

 たぶん、この世でそんなことを思ってくれるのは汐斗くんぐらいなんだろう。そんな風に思えて、それを言葉にできるなんて。

 ――今日も生きてくれてありがとう。

 そんなことを言うのなら、私だって、今日も汐斗くん、助けてくれてありがとうと言いたい。でも、この状況だから少し言いづらい。

 でも、汐斗くんはそんな、心葉がの言葉の後、一体何を言おうとしたんだろうか。本当になんでもないことなのか、それとも今言うべきことではなかったのか。

『あのさ、心葉は勇気を絞って、自分のことを告白してくれたじゃん? だから、僕も少しいいかな? あまり心配はしてほしくないけど、心葉には少し言っておきたい』

 私の告白に心を動かされたのか、今度は汐斗くんが告白したいことがあると言い出した。あまり心配はしてほしくない――つまり、あれのことだろうか。さっき、汐斗くんは私の話をまるで親のようにちゃんと気持ちを考えて聞いてくれた。だから、私にも聞くという義務がある。なので、私はいいよと言った。

『じゃあ。さっきも言ったけど過度に心配はしないでほしい。最近、僕の体調があまりよくないんだ。何か、吐き気がしたり、時々倒れてしまいそうになったり……。まあ、大丈夫だと思うけど、もしかしたら……そうかも知れないってことは頭のどこかに入れておいてほしい。病院はなんか工事が入ってるらしいから、今すぐには行けないけど、1週間後ぐらいには行くつもりでいる……。ごめんね、なんか心配させちゃって。でも、心葉が言ってくれたのに、自分が言わないのは少しおかしいと思って』

 そうなのか、汐斗くんは自分の体に少し異変が出ている……本人は過度に心配しないでほしいと言っているけど、やっぱり心配だ。でも、本人の意志を尊重しなければいけない。こんなにも優しくしてくれる汐斗くんを病気が襲うなんて酷い。早く、少しでもよくなってほしい。こんな私の願いなんて神様は聞いてくれないんだろうけれど。

「もし、私にできることがあったらいつでも言ってね。力になれるか分からないけど、できるだけ力になるから」

『ありがとう。あのさ、この話は一旦置いておいて、明日休みだし、午後はカフェで一緒に勉強しない? 前と同じカフェで。もちろん、今回は飲み物だけで』

「うん、いいよ。一緒に勉強したい。分からないところ、教えてくれる?」

『うん、いいよ。じゃあ、今日はおやすみ』

「色々ありがとう。うん、おやすみ」

 汐斗くんとの電話が今日も終わる。今日は、夜空に浮かぶぼんやりとした月を見上げた後に、眠りについた。

 

 昨日の約束通り、お昼を適当に家にあるものを食べてから、汐斗くんと勉強するために、この前のカフェに向かう。今回は休日なので、私服姿になるから少し高めの私服をチョイスした。見られるのなら、そこらへんでお母さんが適当に買ってきてくれたバーゲンのTシャツよりも、少しおしゃれな方がいい。別に、汐斗くんに服装を褒めてほしいとかそういうわけではないけれど、私は少しだけ期待してしまった。

 いや、期待しちゃだめだ。他のことに頭を使ってはいけないんだ、そう思って、私はそのことを考えるのをやめた。

 本当はもう少しお化粧したりしたかったけれど、それが私の成績を下げる原因になるし、また明日を閉じようとしてしまう要因にも繋がってしまうんだと思い、髪を気に入っている髪ゴムで結んでいくだけにとどめておいた。

 電車に乗っても、やはり勉強は欠かせない。休日の昼間ということもあり、電車の中は空いていたので、席に座ることができた。私の前に座っている私と同じぐらいの年齢の人は何か本を読んでいるみたいだった。カバーで隠されているのでどんな本なのかは分からないけど、最近、というかここ数年ちゃんと本を読んでいない。読んだとしても、入試の過去問に出てくる小説の一部を問題を解きながら読むぐらいだ。
 
 ――私もいつか、あんな風に生きることができるだろうか。

 勉強をしているといつの間にか、カフェの最寄りの駅についていた。カフェに着いたときにはもう汐斗くんは席についていた。席は半分ぐらいはまだ開いてるから、勉強をしていても特別邪魔になることはなさそうだった。さらに、この店の入り口には勉強での使用歓迎と書かれていたので、のびのびと勉強できそうだ。

「おう!」

 そうやって私に挨拶してくる。声はいつも通りだけれど、少しだけ顔色を見ると私が気にしているからそう見えてしまうのかもしれないけど、少し悪いようにも思える。でも、昨日汐斗くんからは過度には心配しないでほしいと言われているから、私は顔色悪いよ、大丈夫? ではなく、体調はどう? と聞いた。

「あー、昨日話したようにちょっとあれだけど、ぼちぼちかな。そんなに気にするようはないからね。気にするなら自分の心配をしなよっていうね」

「うん、分かった」

 会話はいつも通りだ。だから、少し悪くたとしてもそこまで体調が悪いとかそういうのではないんだろう。私はお米5キログラムと大して変わらないんじゃないかと思うぐらいの勉強道具が入ったカバンを椅子に置き、汐斗くんと対面になるようにして、座った。

「じゃあ、先ず頼んじゃおう」

「んー、じゃあ私は前少し気になってた、このオレンジティーで。なんか。期間限定みたいだから」

 私はメニュー表から前にたときは飲まなかったけれど、少し気になっていたオレンジティーにすることにした。元々期間限定には弱いけど、家からほとんど出なくなったあの時から更に期間限定に弱くなった気がする。だから、例えばお母さんがハンバーガーを買ってきてくるけど何がいいかと聞かれたときは、決まって期間限定のものをお願いする。

「いいね。じゃあ、僕は、また前回と同じコーヒーでいいかな」

 2人が飲み物を決めた後に、汐斗くんは呼び出しベルを鳴らし、その2つを注文した。

「そう言えば、心葉の私服姿を見るの初めてかも。気分悪くしたら申し訳ないけど、心葉、遠足とかもあれだったしね。すごく似合ってるよ。褒め方おかしいけど、その姿で学校来てほしいぐらい」

 確かに、遠足は私は勉強のために参加していない。ただ、お母さんには仮病を使った気がする(だからといって行事の日に限って何度も仮病を使うと流石に怪しまれるので、体育祭とかは参加した)。そういうこともあってか、汐斗くんに私服姿を見せたことはなかったかもしれない。

 でも、似合ってるという単純な言葉が、私の顔を自然とゆるくしていく。

「ありがとう。少し独特な褒め方もあったけど嬉しい」

「そうだよな、結構独特な褒め方だよなー」

 私は少しくすっとなってしまった。また、今日も、汐斗くんが私を楽しくさせてくれた。

 でも、やっぱりと思い、私はここに来た目的である勉強を始める。いつの間にか気づかないうちに、飲み物も来ていたようで、私は来ていた飲み物に手をかけた。そして、それをこぼさないようにして飲む。

「あちっ!」

「ん? 大丈夫?」

「うん、大丈夫。私、猫舌だから」

 どうやら私にはまだ熱かったようで、ふーふをしてから再び飲んだ。これなら、大丈夫だ。少し子供みたいだなっ、と私とは違う科目を勉強していた、汐斗くんが少し笑っていた。でも、味はやはり期間限定を裏切らない、そんな味だった。余韻の残る小さなプレゼント付きで。

 そのプレゼントを糧に更に勉強を進める。今は数学の虚数とかをやっている。私はある問題を見て手が止った。さっきまでは基礎問題だから解けていたが、急に難易度が上がったのか、どう解けばいいのか分からない。どうやら、私の今考えている方法では解けそうにない。

「ん? どうした? 分からないところでもあったか? 一応僕、理系だから教えられるかもよ」

「じゃあ、ここ教えてくれる?」

「ん?」

 声までかけてくれたし、そう言ってくれるならと思い、私が汐斗くんに分からないところの問題をお願いすると、問題を見始め、数秒経った後にあー、そういうことねと理解したような顔をした。私には一ミリも分からかなかったのに、いとも簡単に汐斗くんには解けてしまったようだ。流石、汐斗くんだ。尊敬してしまう。

「ここは、ねー、ノート少し書いてもいい」

「あー、全然」

 汐斗くんは答えは教えずに、解き方をノートに書いてくれた。あーと私は納得してしまう。そうやるのか、分かりやすい。納得だ。私は早速、汐斗くんが教えてくれたやる方でそれを解いてみると、見事に答えに載っているものと一致した。私が悩んでいたのが恥ずかしいぐらいだ。

「まあ、段々慣れていけばいいんだよ。すぐに分かる必要はないから。人生と同じだね」

 私が今思っていることを読んだのか分からないけれど、私の考えを上書きしてくれた。

 数学の今やりたかった部分までやることはできたので、次はまた月曜日にテストがある英単語の勉強を始めることにした。前回は勉強したのにも悲惨な点数だったから、今回はいい点を取らなければならない。だから、英単語の勉強量をいつもの1、5倍ぐらいにして望みたい。早速、英単語帳を開いたが、今回も覚えにくそうなものばかりだ。それが私の頭をパンクさせようとしてくる。

 でも、私はノートに何度も書き続ける。だけど、数分経てばそれはすぐに忘れてしまうのが、私の現実だ。だからといって、書かなければ、私は覚えることができない。

 今回は前回以上に難しいかもしれない。それが私を焦らせる。また、あんな点数を取らないかと。涼しい店内なのに私の腕から汗が流れてくる。



「あのさ、心葉、一旦いいかな?」

「ん?」

 本当はやっているところで声をかけてほしくはなかったけど、その声を流石に無視することはできない。だから私は一旦手を止めた。でも、なんだろうか。変なことしただろうか。

「僕、今もそうだけど、前のも含めて思ったことがるんだよ」

 汐斗くんの顔はいつにもなく真剣な顔だ。

 ――思ったこと?

「心葉ってさ、点を取らなきゃなとか、覚えられないなとか自分を追い詰めすぎてるから本来の力を出せないんじゃないかな? いつも心葉が勉強してる時って、自分を閉めちゃってる気がするんだよね。もちろん、それを変えたからといって点数が上がる保証ができるわけでもないけど、もう少し落ち着いて、自分を信じてみればいいんじゃないかな。そうすれば、もしかしたら――」

 私は汐斗くんの言葉にはっとなった。私の瞳が大きく開く。心が狙撃される。全体がなにかよく分からない空気に包まれる。

 汐斗くんの言っていることに、私は強く共感したのだ。もしかしたら、私の原因はそこなのかもしれないと。

 私のこの生活が始まった中学3年は親が私の持っている学力よりも上に学校を選んだし、期待も大きかったから。だから、私はどうしても合格しなければいけないということに縛られていたし、自分で迫る壁を作って怯えていたんじゃないだろうか。それに、もし合格できなかったときの恐怖も大きかったと思う。

 そして、高校生で始め方にあった成績には入らないみたいだから親には見せなかったけれど、新入生の入学テストではかなりの酷い点を取ってしまったし、その後の小テストでもかなり悪い点を取ってしまった。だから、私は4月が終わり頃には受験期と同じぐらいの勉強をしなきゃいけないんだと思って、それをやっていた。もし、このまま成績が上がらずに留年したらどうしよう。大学に行けなかったらどうしようとそう毎日毎日考えてしまい、それも中学3年生と同じような苦しみとか壁とか、縛り付けをしていたんだと思う。

 今も、今度いい点数をこの小テストで取れなかったどうしようかと、自分を責めている。追い込んでいる。

 ――全部、勉強をするときにはそういう共通点があった。

「そうかもしれない。だから私の成績は伸びなかったのかも。自分の力を出せなかったのかもしれない」

 本当にそうかも知れない。だって、中学1、2年生のときはもちろん少しはやっていたけれど、ほとんど勉強をやっていなかった。でも、こんなに勉強してないのにこんなに(その当時の私にとって)いい点数が取れるのって何度も思った。その時の勉強は何も苦しめるものはなかった。ただ、したいように勉強していただけだ。

 だから、私は自分に余裕を持たせて勉強すれば、もっと点数が伸びるのかもしれない。

「うん、じゃあ試しにやってみる。少し怖いけど、落ち着いて……」

 私は試しに次の小テスト範囲のまだ勉強してない部分の英単語30個を15分ぐらいで暗記してみることにした。それからいつも通り、自分でテストしてみる……それを落ち着いてやってみることにした。だから、もし、これでも変わらなかったらとか考えるのも禁物だ。

 ――よし。

 私は大きく深呼吸した後に、英単語を暗記し始めた。この15分間は本当に集中して取り組むことができた。目の前にある英単語だけを考えることができた。だから、汐斗くんがどんな表情で私を見守ってくれてるのとかを見ることはできなかったけれど、汐斗くんはきっと、優しく見守ってくれている。

 時間になる。15分がたった。感覚としては難しい単語なのに、いつもよりも覚えられた感じはする。私はすぐに自己テストするのではなく、少し時間を置いてから覚えてるかを確認することにしたので、それまでの30分ぐらいは他の勉強をやった。こっちもさっきとは違う何かを感じた。自分が自分じゃないみたいに。

 30分ぐらい経ったところで、いつもみたいに自己テストをしていく。いつもと同じ量を、いつもと同じ時間で。いつもと同じ条件なのに、書けている気がする。覚えることができている気がする。

 解き終わって、簡単な見直しも終えると、次は丸付けの時間だ。いつもよりも、丸つけが気持ちい。

 このペンで丸をつけていく感触が気持ちい。

「汐斗くん、やったよ!」

 最後まで私は丸付けを終えた。私の自己採点の結果、いつもの2倍までは行かないけれど、いつもより確実に正解数は多かった。正直、ここまで効果があるとは思ってもなかった。もちろん、たった1回の結果だけで自分の心の状態が自分の本来の力を出せなくしていたとまでは結論づけられないけれど、もしかしたらそうなのかもしれない。

「おー、そうか! じゃあ、これからもこうやってやったほうが点数、伸びるんじゃないかな? 僕の家に来たときも落ち着いてたし、点数も取れてたから……。もちろん、テストとか、大学受験とかが近づいたときはまたそうしたくなるかもしれないけど、そのときは自分を信じて」

「うん、汐斗くん本当にアドバイスありがとう!」

 もしかしたら、これが汐斗くんが送ってくれるある意味一番の贈りものなのかもしれない。私の姿を見つけてくれたのかもしれない。

「よかったな。少しこの感じで続けて、小テストとかの点がよくなったりしたらそういうことよ。そしたら、今まで過ごせなかった分の青春を過ごすんだぞ」

「うん、もちろん」

 私は、集中できていたので、もう少しここで勉強を続けた。なんで、私は今まで気づけなかったんだろうか。どうして、自分を締め付けていたんだろうか。こうすれば私は本来の力を出すことができるのに。もしかしたら、普通のどこにでもいる高校生として楽しい青春を過ごせるかもしれないのに。

 最後に私は残っていたオレンジティーを一気に飲んでから、今日はそれぞれが飲んだ分を払ってお店を後にした。





 いつもより何倍も気持ちが楽だ。数年前の自分に戻ったような感じがする。中学1、2年とかそれよりもっと前の感情とか、もうとっくに忘れかけているはずなのに私はその感情が今、再び蘇っているような気がする。なくしていた感情というパズルのピースが見つかって、それがはめられる。楽しかった過去が……。その原因は言うまでもないだろう。
 
 忘れかけていたものが、次々と私の中に入っていく。

 私の持っている感情のはずなのに、誰か違う人の感情のような気がしてしまう。

 私は、久しぶりにお母さんとお父さんも入っている家族のグループラインにメッセージを打った。『今、電話してもいい? 少し話したくなっちゃって』と。ラインは数日に1回あっちから確認の意味も込めてしてくるけれど、出張に行ってから生の声を聞くことはまだしてない。でも、その声を聞きたくなってしまった。

 数分たってから既読2と表示された。どうやら2人が見てくれたようで、お母さんから『いいよ』というメッセージが来た。だから、私は何日ぶりだかは分からないけれど、その声を久しぶりに聞くために、2人に電話をかけた。

 自分を産んでくれたお母さんと、お母さんとともに私を大切に育ててくれたお父さんに電話するだけのはずなのに、妙に緊張してしまった。その原因は、久しぶりに声を聞くからだけじゃない気がする。

「もしもし……」

 始めに声をかけたのは、私だ。でも、すぐ消えてしまう少し弱々しい声だ。

『もしもし、心葉』

『久しぶりだな、心葉』

 懐かしい声。どこかにおいてきてしまったかのような声。久しぶりに二人の声が聞けた。やっぱりこの声が一番私を落ち着かせる。

『どう、変わりはない?』

「うん、お母さん、大丈夫。むしろ、大切な人と出会えて、いい意味で少しずつ変わってる気がする」

 私の本音だ。大切な人――海佳ちゃんに唯衣花。そして汐斗くん。その3人により少しずつ私の世界はいい意味で変わってきてるような気がする。特に、明日を見る君には沢山助けてもらった。でも、全てがまだ変われたわけではないからもう少し自分を変えたい。自分と思えるような姿になりたい。その話題になったからか私はいつも2人に話すような口調に戻っていた。

『それならよかった。電話越しだからかもしれないけど、確かに、口調もいつもより落ち着いてるかも』

 そうなんだろうか。私には分からない。でも、ずっと私と過ごしてきたお母さんが言うのなら、そうなんだろう。

「仕事の方はどう?」

『うん、忙しくて大変だけど、なんとか……かな』

 今思ったことだけれど、逆にお母さんの口調は少しだけ乱れているようにも思えた。でも、そういうことを触れられるのはあまり好きではないだろうと思い、特段気にしないことにした。

『お父さんも少し話したいって』

「分かった」

 少し経った後に、今度はお父さんの声がした。

『俺だ、心葉。まだまだ帰ってこれなくてごめんな。最近、なんか楽しいことあったか?』

「楽しいこと――」

 楽しいこと、なんだろうか。汐斗くんに出会えたことだろうか、でもそれだけじゃない気がする。さっき、お母さんが変わりないかと聞いてきたときにも思ったけど、海佳ちゃんや唯衣花とも仲良くなれたとこもそうだし、それから公園に行ったり、今日も汐斗くんとカフェに行ったり……そういう日常が楽しいような気がしてきた。もちろん、少し前も明日を閉じようとしてしまったけれど、踏み留めることができたし、前より楽しいと思える回数が増えてきたのは、確かだ。

「言葉にするのは、少し難しいけど、色々あるよ。自分がやるべきことが分かったから、もっと今後楽しくしていきたいって思ってる」

『そうか。今日は声を聞かせてくれてありがとうな。なにをやってるのかは分からないけど、いつも心葉は自分の部屋にいて、忙しそうだからこっちからはかけづらくて。また、時間あるときにでも声をかけてくれたら嬉しいな。もちろん、帰りに心葉が好きなもののお土産も買ってくるから待っててな』

「うん、お土産、楽しみにしてるね。じゃあ、また」

『うん、心葉、またね』

『またな』

 声はもうしない。
 
 電話をゆっくりと切ったのだ。

 本当は、その話が出たから、最後ここで私は自分の部屋で何してるか分かる? とでも一瞬、聞こうとしたけれどやっぱりやめた。親は私が自分の部屋でほとんどを過ごしているのは知っているけれど、具体的に何をやってるのかは多分知らない。だけど、勉強しかやって辛いんだよというのを言うのは今じゃない気がしたし、もしかしたら、それはただたんに自分の心のせいかとも思ったから、それを言うのをやめた。

 電話を切った後、私は久しぶりに心の落ち着く音楽を聞いた。これは汐斗くんがおすすめしてくれた曲だった。

 その音を近くで感じ取りたいため、誰もいないけれど私はイヤフォンを両耳につけた。

 音楽もこんなにちゃんと聞いたのは久しぶりだったから、本当に美しい音色に思えた。音楽の力を感じることができた。こんなにも音楽の世界って透き通ってるんだ、そう感じた。私の中で時間がゆっくりゆっくりと流れていく。心臓の音が時を刻んでいく。

 ――落ち着く。

 それから少し、あるものを書いた。こんなのを書く必要なんてたぶん今の私にはない。でも、本当にもしかしてもしかしたらの時に、伝えられなかったら嫌なので、書くだけ書いておいた。文字だけでいつの間にか紙いっぱいになっていた。だけど、たぶんいつの間にかこれもゴミ箱に捨ててしまうんだろう。むしろ、捨てたい。捨てられた方がきっと幸せだ。

「よし、少し勉強をやろう」

 仮に落ち着いた状態で勉強すれば私は本来の力を出せるんだとしても、それが勉強をほとんどしなくていいという意味に結びつくわけではないので、勉強をいつもよりは控えるけれど少しやることにした。

 たしかに、シャーペンで英単語を書いてるときの感覚まで違う気がする。これまで見えていなかった世界が少し見えてきた気がする。私の世界が少し広くなったんだろうか。

「はぁー」

 英単語の勉強をやっているところで少しあくびが出てしまった。少しの間、私は椅子の背もたれによりかかって目を閉じた。いつもなら、頑張って目を開けようと色々なことをするが、今日は無理をせずに、ちょうどいいところで切り上げて眠りについた。



「心葉、じゃあねー」

「私も部活行ってきまーす」

「2人ともバイバイ」

 私は、唯衣花と海佳ちゃんに手を振る。教室にいた人が、皆部活だったり家に帰えるために出ていき、さっきまでは楽しそうな笑い声も聞こえたこの空間が一瞬にして変わってしまった。森の中みたいに静まり返っている。
 
 今、この教室には私と、汐斗くんしかいない。

「皆行っちゃったな。というか、唯衣花、学校に来られてよかったな。特に今は体調が悪いようにも見えなかったし」

 窓からの景色を眺めていた汐斗くんだけど、皆のいなくなった途端に私の方に寄ってきた。私は今、自分の席に座っている。

「うん、唯衣花はすっかり元気になったってたよ。親に土日は寝かせられてたって言ってたけど、元気になってたから暇だったみたい」

 金曜日に体調を崩してしまった唯衣花は土日はお母さんに寝てなさいと言われて寝てたみたいだが、もう土曜日には完全にいつも通りの体調に戻っていたたみたいだ。その日は大人しく横になっていたけど、日曜日はこっそりとバレないようにベッドでユーチューブを見てたらしい。

「そうか、ならもう大丈夫そうだな。まあ、俺もいつかこの体調悪いのも治るよ。そんな心配するなよ」

「……汐斗くんがそう言うなら。でも、無理しないでよ」

 汐斗くんは相変わらず体調が少し優れないらしい。これと関係があるのかは分からないけれど、今日も何回か少し苦しそうな姿を見てしまった。体育の時間、いつもより息が切れていたりとか、休憩時間に少し貧血かのように少し倒れそうになっていたところとか。

「で、今日の英語の小テスト、どうだった?」

 汐斗くんが話しを小テストの話題に持ち込む。今日、ここに残ったのは、汐斗くんとそれについて話すためだ。落ち着いた結果、本当に成果が現れたのかどうなのかというところ。

「どうだと思う……?」

 ためるほどの内容ではないと思うし、それに今の私の表情から結果は明らかだと思うけど、私は汐斗くんに意地悪な問題を出した。汐斗くんならこんなしょうもないことに乗ってくれると思ったのだ。

「んー、その表情からいつもよりいい!」

 やっぱり、汐斗くんは当ててしまった。その通りだ。

「うん、それも初めて満点だった! 他にも日曜にやったオンライン模試も落ち着いてやったっていうのもあって、いつもより格段によかったし、家で勉強した範囲の歴史の問題集も解いたけど、いつもより解けたし……本当に、汐斗くんのおかげだよ!」

 私が今言った通り、英単語テストで初めて満点を取れたし、オンライン模試も、問題集の正答率もいつもよりかなりよかった。オンライン模試については結果がすぐ出るのだけど、その結果を見て本当に自分の点数なのか疑ってしまったぐらいだ。私はその模試の結果をちらりと見せたけれど、その点数を見て汐斗くんが目を大きく開いていた。

「おー、これ勉強したの?」

「落ち着いてこれの範囲を勉強をしたのは金曜と、土曜に少し復習がてらに勉強したかな」

「おー、そうか。この点だったら伸びしろもあると考えると、この高校じゃなくても、もっと上に……って今では思っちゃうよな」

 汐斗くんはこの高校じゃなくても、もっと偏差値の高い高校にでも行けたんじゃないかという意味でそういったんだと思う。たしかに、私は落ち着ければもう1つかもう2つの高校に入ることもできたのかもしれない。

「――いや、仮に落ち着けばできるって分かってても、私はこの高校に来られてよかったと思う」

 だけど、そうだとしても私はこの高校に入ってしまうんだと思う。この高校に入学するという選択肢が私にとって一番だと思った。だって、もし、この高校じゃなきゃ出来ないことがあるから――

「――だって、もし、この高校じゃなかったら、汐斗くんに会えなかったじゃん。私にとって汐斗くんは必要な存在なんだから」

 私は本当の気持ちを言っただけなのに、汐斗くんは少し止まっていた。まるで、時間が止まったかのように。何も、変なことは言ってないはずなのに、自分の心から思ったことを言っただけなのに、なぜか汐斗くんはいつもの汐斗くんではなかった。

 少し強い風が吹いたのか、カーテンが棚引いた。カーテンが音を立てる。そして私の髪の毛も揺らす。

「ど、どうしたの?」

 別にこれが体に異変があって止まっているわけではないということは見て分かっていたけれど、私は気になって声をかけてしまった。それでも、反応がないのでおーいという意味も込めて、汐斗くんの瞳の周りで手を振ってみた。

「あ、ごめん。なんか、単純にそう言われたのが嬉しくてさ。こんなに誰かに必要とされたの初めてだったから。だからだよ……」

 そんなに私の言ったとこが意味のあることだったのかは分からいけれど、少しでもその心が力になったのなら私は嬉しい。こんな私でも、誰かを嬉しくする言葉を言うことができるんだ。

 私にも、価値があるんだ。

 そんな私は、汐斗くんと少し行きたい場所があった。私を少し変えてくれたのだから、汐斗くんみたいに大きくその人の世界を変えることはできないのかもしれないけれど、少しでも汐斗くんの体調がよくなるように私にできることをしたい。少しでも汐斗くんの力になりたい。

「ねえ、この近くにある神社行かない? 汐斗くんの体調がよくなるように」 

「いや、別に僕の体調のことはいいよ。数日経ったら医者に診てもらえるし。でも、たしかに心葉とどこか行きたいな」

「じゃあ、今からそこに行く?」

「うん、じゃあ行こうか」

「じゃあ!」

 私は椅子から立ち上がり、荷物をまとめた後に、私が先頭に立って、この学校からもほど近い神社に向かった。その神社は車通りの多い大通りから少し離れたこじんまりとしたところにある。周りには、昔からこの地域に住む人の住宅が広がる。少し場所が変わっただけでも、街の雰囲気は大きく変わってしまうものだ。

 まるでそこにあることが運命かのように、堂々とそびえ立つ鳥居に入る前に一礼してから境内の中に入った。この神社は決して大きい神社ではなく、普通の日はあまり人は見かけないけれど、願いが叶うとこの地域では有名で新年には1時間近く待つこともあるそうだ。私も受験祈願のお参りはここでしたし、その前にも何回か本当に叶えてほしい大きな願いはここでお願いしてきた。その願いはどれも叶なっている。

「僕、神社来るの久しぶりだなー。受験期以来かな」

 私も受験祈願をした中学3年生以来。だから、少し神社というものが珍しいものに思えてくる。神聖な空気を肌で感じている。

「あっ……言っておくけど、別に僕の健康のこと願うなよ。それより、自分がこのまま変われるように願うんだぞ。明日を開こうと思えるようになってるんだから。あと、神様に願うのは、1つだけだぞ。2つだめ」

 汐斗くんが急に思いついたような顔をしたから何だと思ったっけど、そういうことだった。確かに、自分のことを考えるのであればそういう願いをしたほうがいいのかもしれない。でも、私は汐斗くんの方を願いたい。だけど、自分のことを願わないと、汐斗くんに怒られしまいそうだ。じゃあ、この方法なら――

「あ、2人が幸せになれますようにとかもなしだぞ。ちょっとそれはよくばりすぎ。自分のが叶いにくくなっちゃうから自分のだけな」

 私の心を読んだのか、今、まさに考えていたことを目の前で否定されてしまった。

 ――明日を見る君が、見るんじゃなくて、本当に過ごせるように。そして、明日を閉じたい私は、明日に進みたいと思えるようになりますように、とでもお願いしようと考えていたのに。

 そこまでして、私に自分自身のことを願ってほしいのだろうか。私に明日をもっと開きたいと思ってほしいんだろうか。

「じゃあ、汐斗くんも自分自身のことを願ってね。私のことじゃなくて、自分自身の健康を」

 だったらと私も反撃した。そうしないと釣り合わない。

「何だよ、ばれたか」

 汐斗くんは微笑を浮かべた。どうやら私も汐斗くんの心を読んでしまったようだ。つまり、お互いの考えてることが分かってしまったようだ。もう、気づけばいつの間にかそんな深い関係になれているのか。でも、そう思うのは汐斗くんにとって少し失礼なのかもしれない。この関係だって私が変わればきっと簡単に切れてしまうのだから。私たちをつなぐ糸には期限があるのだから。

「汐斗くん、分かった?」

「うん、分かったよ」

 私たちはお互いに自分のことを願いと確認してから、お賽銭箱の近くまで来た。そこでお財布から25円を出して、お賽銭箱に向かって投げた。それぞれ3つの方向に別れたけれども、ギリギリそれらがお賽銭箱に入った。

 少し遅れて同じ行為を汐斗くんも行なった。

 私はどっちを願うべきなんだろう。自分自身のことか、汐斗くんのことか。本来の私の目的は汐斗くんの病気がよくなってほしいということできたけれど、当の本人は自分のことは願わないくていいからと言われてしまってるし。

 じゃあ、自分の本当の願いはどっちなんだろう。

 自分がここで願いたいと強く思うのはどっちなんだろう。

 それで私は願うことを決めることにした。

 自分自身のことか。

 それとも、汐斗くんのことか。

 もちろん、どっちも私の大切な願いだ。でも、私の中で願う方が決まった。

 何が、私にとって――

 だから、その願いを強く願った。どうか、叶いますように。この願いが、叶いますように――。

 私の願いが叶いますように。

 私は最後にもう一度、強く願った。

 私は願い終わったとに、次の人が並んでいたため、邪魔にならない場所まで離れた。

「ちゃんと願えた?」

 ごめん、汐斗くん。あっちを願ってしまった。

「願ったけど、汐斗くんのことを願っちゃった。でも、約束まではしてなかったから許して」

 私は、やはり自分の想いが強い願いはこっちだった。自分の願うべきことはこっちだった。私は自分のことよりも汐斗くんの方が大事だった。仮に自分が、また明日を閉じようと思うぐらい追い詰められたとしても、汐斗くんの病気が治るなら私はいい。逆よりも何倍もいい。このことを、汐斗くんに怒られても、願ってしまったのは事実だからそれで構わない。

「ごめん、心葉。実は僕も……、心葉のことを願っちゃった。でも、心葉が言った通り、約束まではしてないから許して」
 
 どうやら、汐斗くんも私を裏切ったみたいだ。お互いが自分のことではなく、相手のことをお願いしたみたいだ。なんで、お互い自分のことを願わなかったんだろう。自分より、相手のことを大切にしてしまったんだろう。分かるけど、分からない……そんな問題だ。

「でも、お互いのことを願ったのは偶然じゃないのかもね。仮に何度人生を繰り返したとしても、そう願ってしまうのかもね」

「素敵なこと言うな、心葉。じゃあ、お互いのためのお守りでも買っていかない?」

「うん、そうだね」

 汐斗くんの提案により、お互いにお守りを買うことにした。縁結びや金運など沢山の種類が売られているが、汐斗くんに買うべきお守りは1つしかない――健康祈願だ。だから、私は迷わずにそれ買った。でも、この中から汐斗くんは私にどれを買うんだろうか。汐斗くんに買うべきお守りを買うのは簡単だけど、私の悩みにあったお守りを探すのは難しいんじゃないだろうか。私が買った後も少し悩んでいた。もし、私が自分のために買うのならどれを買うんだろうか。

 少し経ったところで、汐斗くんもお守りを買えたみたいだ。でも、私はどれを選ぶのか楽しみな部分もあって、そのお守りを見ないように少し離れたところで待っていたので、汐斗くんが何のお守りを買ったのかは分からない。

 今から交換会だ。私は汐斗くんに買ったお守りを汐斗くんに。汐斗くんは私の為に買ってくれたお守りを私に。

 私は小さな紙の袋からそのお守りを取り出した。

 ――幸せ。

 汐斗くんが私に買ってくれたのは、幸せになれるようにという想いが込められたお守りだった。私はあの中だったら安全祈願のお守りでも買ってくるのかなと思っていたが、それ以上に上のものだった。

「汐斗くん、ありがとう」

「こちらこそ、ありがとうな。これで元気になれそうだ」

「私も、幸せになれそう。私、もう1回、自分の趣味だったアクセサリー作り、再開してみようかな。時間も少し取ることができそうだし」

「いいんじゃない。というか、何でアクセサリー作りやめちゃったの? 確かあのときの発表では中学2年生の夏頃までやってたって言ったじゃん? でも、心葉が受験勉強を始めたのって中学3年生とかだったから少し疑問に思って。なんかあったの?」

「……あ、まあ少しあってね。じゃあ、帰りながらそれについて話すよ」

 私は、あまりいい話じゃないけどという前置きを置いてから、その過去のことについて話し始めた。

 まず私がアクセサリー作りが趣味になった発端から話し始めた。

 確か、それは私が小学校3年生の時だった気がする。おばあちゃんが私の誕生日に髪飾りをプレゼントしてくれたのだ。その髪飾りの美しさに魅力を感じ、早く誰かに見せたくなった私は、それを早速付けて翌日学校に行くと、友達から「かわいい」とか「似合ってる」とか言われて嬉しくなってしまったのだ。別に特別かわいくなかった私をアクセサリーというアイテムで姿を変えてしまった。それから私はお小遣いが入るたびに、計画しながらアクセサリーを買っていた。だから、今は押し入れにしまってあるけれど、自分で買ったアクセサリーのボックスというものも今でも私の部屋には存在している。

 でも、ある時から自分で作ったらいいんじゃないかと思うようになった。そしたら、自分通りのものが作れるのに。もっと、自分にあったものが作れるのに……詳しくは覚えてないけど、そうとでも思ったんだろう。それで私は小学5年生の夏休みの工作で、アクセサリーを作り見事入賞した。これが私が唯一もらった賞状だ。全校集会でこの賞状をもらったけれど、確かそれをもらう前日は緊張のあまり寝られなかったっけ。

 それからも中学2年生の夏頃までは趣味としてアクセサリー作りを続け、うまくできたものについては友達にプレゼントなどもしていた。唯衣花にもミサンガを渡したことがあるけれど、その時の素直に嬉しそうだった笑顔は今でも忘れられない。それを今も大事に持ってくれているということが、私にとってはとても嬉しいことだ。自分に希望を与えてくれた。

 ここから少し暗い話に入る。私がやめてしまった理由だ。中学2年の夏休みという時間が取れるときに私はクラス全員にミサンガを作った。このミサンガこそが、今も唯衣花が持ってくれているものだ。

 夏休みが終わって久しぶりにクラスの皆に会える日、私はミサンガが沢山入った紙袋を持って登校した。一番初めに、そのミサンガを渡したのが、当時私と一番仲のよかった唯衣花だった。唯衣花に渡した後も、仲のいい女の子から順番に渡していった。たった小さなプレゼントではあるけれど、「ありがとう!」だとか、「早速付けるね」だとか言ってくれて喜んでくれた。たぶん、あの時は私が沢山の人を一番笑顔にできた日だったんだろう。つまり、特に取り柄のなかった私が自分の力を一番出せた日だったんだろう。

 半分配り終えたところで、別にクラスの中心人物でもない私が渡すのは少し恥ずかしかったけれど、クラスの男の子たちにも渡し始めた。でも、渡してみるとちゃんとお礼を言いながらもらってくれるし、皆、女の子に渡したときと同じように嬉しそうな顔をしてくれたのでいつの間にか恥ずかしさは消えていた。

 でも、皆が皆そういうわけではなかった。

『よかったら、どうぞ』

 それは、私がクラスの中でも少しチャラめの(そして少し悪ふざけのする)ほとんど関わったことのない男の子にミサンガを渡したときだった。

『何だこれ?』

『ミサンガだよ』

 最初はこれは何かという名前について聞いてるのかと思ったので、私は丁寧にそう答えた。でも、『何だこれ?』の意図が違うことはすぐに分かってしまう。

『いや、俺みたいなやつがそんなのつけたり、持ってたらかっこ悪いだろ。それにさ、そんなの作ってる暇あったら、もっと役に立つもの作れよ。だいたい、アクセサリーなんてさ……まあいいや、俺はとにかくいらねえよ、悪いな』

 そんなことを私の目の前で言われてしまったのだ。『何だこれ?』というのは、俺をバカにするなとか、私に対しての批判を表していたのだ。この言葉に私は強くダメージを受けた。言葉という形としては残らないもののはずなのに、当分消えることはなかったし、今でも残っている。この時、自分のやっていることが否定された。このときの生きがいはアクセサリー作りだったのに、自分の全てを否定されたみたいで私の風船みたいに弱い心は傷ついた。

 このときから、私はアクセサリーを作るのをやめてしまった。急に自分の趣味がなくなった。そして、中3になり受験勉強を始めることにより勉強で忙しくなると、完全にアクセサリー作りとは縁を切ってしまったのだ。それが数年経った今でも続いている。

「そうなのか。というか、心葉にそれ言ったやつ、ひでーな」

「でも、さっきも少し言ったけど、男の子でもすごく嬉しそうにもらってくれた子もいるし、それを言われた後にも『気にする必要ないよ』とか、『僕は大切にするから』とか言って励ましてくれた人も沢山いたから。たぶん、もしもの話ではないけど、あの空間に汐斗くんがいたら、そんな感じに私を励ましてくれたんだろうな」

 もちろん、全員が私に傷つけるような言葉を言ったわけではない。言ったのは、その人ぐらいだ。その人以外は私の味方をしてくれた。でも、その1人の言葉の大きさの方が大きかったのだ。本当はまだまだ続けたかっただろう、その時の私は。

「……それは分からないけど、世の中は味方も沢山いる。それだけは忘れるなよ」

「うん。私、今ならもう1回作れる気がする。海佳ちゃんにも今度作るときはほしいって言われてるし。でも、最初だから簡単にミサンガからかな。汐斗くんのも一緒に作ってもいい?」

 いきなり難しいものを作ると多分失敗して挫折してしまうかもしれないので、まずはミサンガからだ。前のトラウマがあるから、私はもらってくれる? ではなく作ってもいい? という言葉をあえて選んだ。

「もちろん。というか、作ってほしい! 僕もつけたいよ。心葉が頑張るなら、じゃあ、僕も染め物、もっと頑張らないとな。お互い見せあいっこできるようになったら報告しような。そうだ、僕もその染め物、心葉にあげちゃおう! そしたら、平等だろ」

「うん、分かった。私も汐斗くんの染め物もらえるの、楽しみにしてるね」

「よーし! じゃあ今日は帰ったらそれをやろうかな」

「じゃあ、今日はここで解散にしようか」

「そうだな」

 それぞれのことをやるため、今日はここで解散することになった。私は帰り道にあったお店でミサンガを作るための材料を買ってから家に戻った。

 ――染め物を作る君と、ミサンガを作る私。

 何かそれが特別なように感じてしまうのは、私だけだろうか。

 私はある人に電話をかける。

 その相手は、汐斗くんでもなければ、家族でも友達でもない。

 でも、私のことをちゃんと知ってくれていて、私のことを支えてくれる人。

 私の明日を閉じるということについて知っているこの世界でたった2人のうちの1人――汐斗くんのお姉さんだ。

 なぜか少し手が震える。お姉さんのところをタップした。

『もしもし、心葉ちゃん。今日はどうかしたの?』

 お姉さんは相変わらず私を安心させるような優しい声で話しかけてくれる。なんか、ずるいな。でも、今日は大事な話があるのだ。

「ここ3日間、汐斗くんお休みしてますけど大丈夫ですか? 休んでるので直接連絡するのはもしかしたらあれかなと思い、お姉さんに連絡させていただきました」

 私が今言った通り、汐斗くんは水曜日から金曜日までの3日間お休みしている。多分体調が悪いんだろうけど、それがあのことを知っている私にとってはかなり心配で、ずっと頭のどこかで気になっていた。大丈夫だと何度も自分に言い聞かせていた。

『あー、わざわざ心配してくれてありがとう。弟なら少し体調は悪いけど、なんとか大丈夫だよ。多分病気のあれだから、伝染らないとは思うし、もし心配だったら明日病院行くんだけど、ついてくる?』

「……じゃあ、もし、迷惑でなければ」

 勉強のことも前よりは考えなくてよくなったからそこまで勉強に焦る必要もないし、何と言っても汐斗くんが心配――もしかしたら汐斗くんが本当に明日を見られなくなっちゃうんじゃないかと心配だったので、私はできれば汐斗くんについていきたい。その趣旨をお姉さんに伝える。

『うん。私たちは全然迷惑じゃないから大丈夫だよ。じゃあ、午後1時に△△病院を予約してるから、その付近で。というか、心葉ちゃんが来てくれるってむしろ、汐斗は喜んでくれるんじゃないかな。こんなかわいい子に心配されてさー。汐斗は幸せものだなー』

「いや、私はそんな……」

 お世辞だとはなんとなく分かっていても、そう言われるのはやはり嬉しいことだ。でも、もちろん私は否定する。ここで認められるわけがない。

『ふふっ。事実だけどね』

 お姉さんは電話の向こうで少し笑っていた。これがどういう意図を表しているのか分からないけれど、自然と胸がキュンとしてしまう。

『それより、心葉ちゃんの心の方は大丈夫?』

「えっと、今は、大丈夫です。心はおかげさまで安定してます。……やっぱり汐斗くんのおかげです。本当に、私は汐斗くんには感謝しかないです。まだ、3週間しか経ってないけど、だいぶ変われた気がします。だから、あともう少しで……ってところです」

『おー。それならよかった! それに、汐斗からも少し聞いたけど、ちゃんと約束守れたみたいだね。自分の弟を褒めるのはあれだけど、汐斗、意外とやるでしょ。まあ、心葉ちゃんも色々忙しいだろうから私から言うのは、ここら辺にしておこうかな』

「じゃあ、お互い色々あると思うので、失礼します」

 私はそう言ってから、静かに電話を切った。それから少しだけ、教科書の内容を頭に入れた。今日はあまり難しい単語は覚えられそうにないから、短い単語を覚えよう。今日は、汐斗くんと最近カフェにいった時に2人で撮った写真を眺めてから眠りについた。

 

 お姉さんに言われた通り、△△病院に午後1時前の午後12時45分に着いて、汐斗くんが来るのを待った。それから5分ぐらい経ったところで前に汐斗くんの家に行った時にあったシルバーのワゴンカーが病院の駐車場に入ってきた。ナンバーも確認したけど、汐斗くんが乗っている車で間違いないだろう。

 その車が駐車場に止まり、完全に停車すると、中から汐斗くんとお姉さん、そして汐斗くんのお母さんが出てきた。

「あ、心葉ちゃん、わざわざありがとう」

「いえいえ、お姉さんもいつもありがとうございます」

「心葉、本当に来てくれたんだ」

「もちろん!」

 汐斗くんの様子は確かに顔の表情を見れば、体調が悪いと分かる感じだけれど、もう歩くことができないぐらいとか、すごく辛そうとまでの状態まではいってなかったので、少しだけ安心した。でも、体調が悪そうなのは事実なのでそこは少し心配だ。というか、汐斗くん、私が来ること嘘だと思ってたんだ。私は、そんなことに対して嘘をつかないし、汐斗くんが大切な存在だから来ただけなのに……。

「心葉ちゃん、お久しぶり。2人の方が汐斗も安心できるかしら……? じゃあ私たちは車で待ってるから、なんかあったら呼んでくれればいいから。というか、すごくいい人だね……心葉ちゃんは」

「……まあ、そうだな。いい友達だろ。なっ!」

 何か、汐斗くんのお母さんに勘違いされているところがある気もするけれど、私は特にはそこに触れなかった。どうやらお姉さんとお母さんは車にいるということだったので、私たちは2人で病院の中に入ることになった。ここの病院には小さい頃、夜中に高熱を出してしまったときや、自転車に乗ってて電柱にぶつかり怪我してしまったときなど何回かお世話になったことはあるけど、下から見下ろすとやはりその大きさに圧倒される。一体、何床のベッドがあるんだろうか。

 病院の中に入るためには駐車場にある横断歩道を渡る必要があるので、私たちは左右をよく確認して渡れるタイミングを待っている。

「ここで事故にあったら元もこもないからな。急に車が暴走することもあるかもだし」

「変なこと言わないでよ! ほら、今車いないから渡っちゃおう!」

 車が来ないことを確認してから横断歩道を渡り、病院に入ると、汐斗くんはささっと受付までを行なった。その一連の流れは本当にあっという間だった。私が瞬きすることもなかった。ただ、私は病院の匂いが嫌いなんだなと改めて感じた。

 どうやら、お医者さんに先に血液検査をしてから来るよう言われているらしいので、汐斗くんには血液検査を行なってからいつも行ってる科の前で待った。私は正直に言うと、あの痛い注射は嫌いだ。でも、血液検査を終えた汐斗くんは痛い顔一つせず、特になんともなかったという顔をしていた。きっと、慣れてしまったんだろう。

「体調はどんな感じ?」

「んー、なんとも言えないな」

 今までの汐斗くんならそこまで心配する必要ないとか言うのに、今日はそんなこと言わず、少し弱音を吐いたようにも見えた。顔の表情からはそこまでじゃないとさっきまでは思っていたけど、表情だけでは分からないところで苦しいのかもしれない。そう思うと、私の心配度は更に増してくる。

「あ、でも体調がまだ大丈夫だった火曜日までで染め物はだいたいできてきたから、もうそろそろお披露目かな!」

 私が心配してることを悟ったのか、私が少し元気になるような話題を汐斗くんは話してくれた。

「私も、後もう少し。だから、私ももう少しでお披露目できるよ!」

 私も海佳ちゃんのと汐斗くんのミサンガ作りを同時に進めているが、もう少しで完成しそうだ。久しぶりにやったので、昔よりクオリティーは劣るかもしれないけれど、簡単にそのミサンガが切れることはないだろうし、つけても恥ずかしくはない完成度になることは保証する。

「というか、心葉、カバンいたのか?」

「あー、まあお財布とかハンカチとか入ってるし、あとは紙も……なんか一応のために持ち歩いてる」

 汐斗くんが私の今持っているショルダーバッグを指摘してきたので、その中に何が入っているのか触りながら少しあさった。

「紙……?」

「いや、何でもないかな」

 この紙のことについて考えると、また厄介なことになりそうだから、そこで話を止めた。それからすぐに、汐斗くんの名前が呼ばれた。

 私は、よいしょと言って立ち上がり、汐斗くんを気にしながら呼ばれたところの診察室に入った。汐斗くんの歩き方が少しぎこちなく見えた。

 汐斗くんがドアをノックして診察室に入ると、よく見る診察室の光景が広がっていた。やっぱり私、こういう所ちょっと苦手。ガタイのいいお医者さんがたくさんの資料が散らばっているデスクの前に座っている。

 ちょうど椅子が2つあったので、後ろの方にあった椅子に座る。椅子が妙に硬い。座り直してしまう。

「こんにちは。えっと、あれだよね。少し最近体調が優れないと。それで来た感じだよね。じゃあ、最近どんな感じが教えてくれる?」

「あ、はい――」

 汐斗くんはお医者さんにそう言われて、最近の状況を時系列順にして話していく。お医者さんはただ聞いた内容をキーボードで打っていくだけでなく時々質問を挟んだりしながら、診断を進めていく。私もただ聞いてるだけではなく、汐斗くんの言ったことを頭で整理していく。

「――ていう感じです」

「分かった。薬はいつも通りちゃんと飲んでる感じ?」

「はい、続けてます。副作用とかは特に大丈夫です」

「そうですか。あとあれですよね、来た時に血液検査もしましたよね。結果がもうすぐ出るので、少々お待ちください。でもこれ、あれなんじゃないかな……」

 お医者さんは首を少しかしげた後に、失礼するよと言って少しどこかに消えて行って――私たちを置いて行ってしまった。私はお医者さんが首をかしげた意図が分からず、さっきよりも不安という文字が頭の周りでぐるぐると回転している。いつもはそんな様子を見せない汐斗くんも少し不安なのか、足を揺らしていて落ち着きがない様子だった。私も同じだ。自分のことみたいに心配だ。私の体調はいいはずなのに、心拍数がいつもより断然早い。元々嫌いな病院の空気がまとわりつく。

 2、3分経ったところでお医者さんが何か1枚、紙を持ってきた。それが血液検査の結果だろうか。

「えっとですね。こちらが先程の血液検査の結果です」

 その紙をデスクに置いて、私たちに見せてきた。でも、こういうようなのを見たのは、私は初めてなのでただ数値が嫌なほど沢山書いてあるものにしか見えない。だから、どこの数値がどういう値ならいいのかまたはよくないのかというのは、私には全くと言っていいほど分からない。

 でも、汐斗くんは声を少し震わせながら、

「本当ですか……」
 
 とだけ呟いた。

 でも、その意図が私には分からない。だけど、この状態で汐斗くんにどういう意味なのかを聞くこともできない。何も考えることの出来ない放心状態のように思えたから。この状況では声をかけていいのか分からなかった――怖かったから。

 すると、汐斗くんの顔を見たお医者さんが説明を始めた。

「……そうです。この紙に書いてある数値の通り八山さんの病気の原因となっている細菌の値が前回の検査より、かなり低くなりました」

 お医者さんはあるところの数値を手で差しながら、汐斗くんに対してそう説明した。ということは、つまり――

「なので、完全に完治したわけではないですが、完治の方向に向かっているということだと思います」

 つまりそれは、汐斗くんの病気が治ってきているということ。そのことを、今、このお医者さんは確実に私たちに言った。もしかしたら、明日を見る君が、明日を見られないという考えてはいけない最悪の事態も想定したけれど、どうやら逆だったみたいだ。汐斗くんが一番最初に私に病気を告白した時に言っていた『現代の技術は進歩してるから治るかもしれない』という言葉が今、現実になった。

「本当ですか!?」

 汐斗くんは驚きを隠せない様子だった。私も自分のことのようにすごく嬉しい。人生で一番嬉しい瞬間が今なのかもしれない。でも、汐斗くん以上に喜んじゃだめだと思って、表には出さず、心の中で喜んだ。汐斗くんの病気が完治しそうなことと、汐斗くんが普段見せないような喜びに満ちたような表情を見せてくれたこと、どちらも嬉しい。許されるのならずっと見ていたい顔だった。

「うん、ここまでよく頑張ったよ。色々苦しいときもあったと思うし、辛い治療にも耐え抜いた。その結果だよ。もちろんまだ少しの間は様子見は必要だけど。数ヶ月経てば完治すると思うよ。おめでとう。もう、大丈夫だよ」

「そうですか。……じゃあ、この体調は?」

 そうだ、汐斗くんの体調がよくないから来たということをさっきの喜びで少し忘れかけていた。でも、お医者さんの表情はまだ明るいままだった。

「あー、これはねー。この病気には関係なさそうだし、薬の副作用でもなさそうだから、たぶんただの風邪かな。症状聞いてる感じそんな感じだし。でも、一応それについても風邪薬ぐらいは出しときますね」

 お医者さんはサラリとそう言った後に、再びキーボードを打っていく。それから、お医者さんはお薬の説明を軽くしてから、私たちはその診察室を後にした。まだ病院に行く必要も少しの間はあるみたいだけど、再発の可能性も現時点では低いという。

 私たちは今は会計を待っている途中だ。患者さんが少し多い印象を受けるので、会計が終わるのはもう少し時間がかかるだろう。なのでその間に、私はお祝いの意味も込めてというわけではないけれど、病院にあったコンビニで温かい飲み物を買ってきた。それを1本、椅子に座って待っている汐斗くんに渡す。

「汐斗くん、よかったね。私もすごく嬉しい」

「あー、飲み物ありがとう。ちょっと信じられない気持ちだけど、本当にお医者さんに感謝しかないな。もちろん、心葉にもだよ。ありがとう」

「いや、私は何もできてないと思うよ。むしろ、汐斗くんにいつも迷惑かけっぱなしだよ」

 汐斗くんはそう言ってくれているけど、私は汐斗くんの病気を治してなんかないし、心の不安定な私を気遣わなくてはいけなかったり、それに私が色々相談したり……むしろ悪化させてないか少し心配だった。何も力になんてなれていない。

「いや、そんなことないけど。でも、まあこの話はいいや。完治に向かってるっていうのは事実だし」

 そう、それは事実だ。

 あの日は――明日を閉じたい私と、明日の見たい彼……だった。

 でも、今は書き換えられて、少し複雑だけれど、――明日を閉じてしまうかもしれないけど少しずつ開いていきたいと思っている私と、明日の扉を開くことができるようになった彼。こんなところだろうか。

 お互いが変われた。でも、汐斗くんは私より変わることができているんだと思う。だから、私もそんな風に変わりたい。

 だけど、汐斗くんが変われたのが嬉しすぎて今は汐斗くんのことしか考えることができない。

 まるで夢の中にいるようだ。

 そんな世界にいるからか、少しだけ雫が瞳から垂れてきてしまった。

 嬉しいよりも、よかった……その気持ちが勝ってしまったのだろうか。

「ん? どうした? 心葉もどこか痛いのか?」
 
「いや、違うの。あのさ、正直に言うと、私はもし汐斗くんを失ってしまったら、どうすればいいんだろうってあの日からずっとずっと思ってた。汐斗くんを失うのが、自分を失うより何倍も怖かった。怖くて怖くてたまらなかった。でも、それは汐斗くんの前では隠してた。人の心配するなら自分の心配しろとか怒られると思ったし、必要以上に心配されるのが、逆に汐斗くんを苦しめてしまうと思ったから。でも、今だから言うね。だからさ、怒られちゃうかもしれないけど、汐斗くんが明日の扉をちゃんと開けられるようになったことが、私は、仮に自分が明日を確実に開こうと思える……そんな日が来たときよりも何倍も何倍も嬉しい。だから、ありがとう。汐斗くん」

 私は病院ということを少し気にしながらも控えめに汐斗くんにハグをした。そしたら、汐斗くんも何も嫌がる顔をすることなくハグをしてきてくれた。私はただただ安心したかった。汐斗くんが近くにいることをこの手で確かめたかった。温かくなってくる。汐斗くんの体温を静かに私は奪ってるんじゃないだろうか。

 それから、汐斗くんが口を開いた。でも、汐斗くんが今から言うことは、聞かなかったとしてもだいたい分かる。汐斗くんの過ごしていけば何を言うかなんて簡単に分かってしまう。

「あのさ、心葉。僕の心配するなら、自分の心配しろ。僕は、明日を開きたいと思えるようになった心葉を見たいんだから。そのために、今日まで頑張っていろんな治療を耐えてきたんだから」

 ほら、やっぱり。私が考えていたように優しく怒られてしまった。でも、後半の言葉は私は考えていなかった。そんな私を汐斗くんに見せられる時が来るのか私には百パーセントの自信はない。でも、汐斗くんが頑張ったのなら、私も頑張りたい……そう思うし、それが私にとってある意味、義務なんだと思う。お互いに頑張らないといけないのだから。たとえ正反対の2人であっても。正反対じゃない部分もあるんだから。

 流石に長時間病院内で小さくしているとはいえ、ハグしてるのはおかしいかなと思ったので、すぐにそれはやめた。それをやめた途端に、待ち構えていたかのように会計から呼ばれ、汐斗くんはお会計を済ませてきた。でも、一瞬だけだけど、その温かさで私の心を少し動かしてくれたような気がした。

 お会計が終わると、近くの薬局で薬を受け取り、車で待っている汐斗くんの家族にもさっきのを報告したが、お姉さんもお母さんもどう表現していいのか分からないぐらい喜んでいた。家族として、ずっとずっとこの瞬間を待ち望んでいたんだろう。

  行きの車内では黒い雲のようなものも漂った雰囲気だったみたいだったけど、今、汐斗くんの家の車の雰囲気はそんなものを破り、溢れるばかりの太陽の光が注いでいた。私は、お母さんに帰りは車で送ってあげるよと言われたので、お言葉に甘えて乗せてもらっている。

「そう言えば、汐斗、風邪の方は大丈夫なの?」

「あー、そう言えば僕、風邪だったな。でも、あれの喜びが大きすぎてただの風邪は治ってるかも。お姉ちゃんもありがとうな。今日まで色々助けてくれて」

「風邪、治っちゃったって、何だそれ。まあ、それならそれでいっか。こっちこそ元気な弟が見られて嬉しいよ」

 私は、少しの間汐斗くんとお姉さんの会話を聞いていた。なんだか楽しそうだ。流石、姉弟っていう感じ。仲がいいからか会話が次々と続いていく。車内がその空気に包まれる。

「ねえ、心葉、俺んちまた寄ってく? ちょっと言いたいこともあるし」

「うん、別にいいよ」

 なんだろうと思いながらも、私は迷わずにそう言う。

「そうか。あっ、でもまだあの染め物は見せられないけど」

「えっー! 少しだけでもだめー?」

「んー。いや、ちゃんと完成したいのを見せたいから無理かも! もう少し待っててくれ!」

 私は、汐斗くんの病気が治ったんだし、私たちはだいぶ仲良くなれたんだし少しぐらい駄々をこねてもいいかなと思って、ねだってみたけれど汐斗くんは理由をつけてそれを断った。でも、その言葉が見れる日を余計に楽しみにした。

「へー、汐斗、今、染め物してるんだ。ていうか、2人、打ち解けてるねー。いいじゃん」

「変な顔するなよ」

 私たちのこの雰囲気にお姉さんが優しく言葉を添える。確かに、お互いのことが分かってきたのもあって、私たちは家族の一員いなれるかのようにかなり打ち解けてきてるのかもしれない。それは今のやり取りから見ても十分感じられる。汐斗くんは私にとってのある意味、親友なのかもしれない。

「ねぇ、心葉ちゃん。もちろんこれは冗談だけど、汐斗を恋人にするのはどう……?」

「おい、お姉ちゃん……!」

 お姉さんは、私と汐斗くんがどうしてこのようにいるのか、私が相談した時に言ったから知っているはずなのに、少し意地悪な質問をしてきた。汐斗くんを恋人にする……? どうなんだろう。今までどんな名前を付けるのが正しいのか分からない関係で過ごしたけれど、もし、汐斗くんと私が恋人という名前の関係になったのなら……。正直、イメージができない。でも、お姉さんは冗談とは言ったけれど、ここでなにかを答えないと流石に汐斗くんに悪い。でも、どうなんだろう。私は本当のことを言うのなら、汐斗くんを恋人にするのも嫌ではない。だけど、正直イメージができない。でも、嫌ではないというと恥ずかしいので、私はもう一つ思っている言葉を言うことにした。

「汐斗くんみたいな人は、私よりいい人を簡単に見つけられると思うので、それは、汐斗くんにとってもったいないかなって……。それぐらい、汐斗くんはすごい人だから、もっといい未来を描ける人とそういう関係になったほうがいい気がします!」

 これが、今答えるべき内容でのベストアンサーなのではないか。もちろん嘘なんかじゃなく、これが私の本音だ。きっと私なんかよりいい人は沢山いるし、その人といることで汐斗くんの世界がもっと輝く……その姿を見れることの方が私は望んでるんだと思う。

「おー、そうか。でも、私が思うに、心葉ちゃんはいい人だと思うけどなー」

「いや、過大評価ですよー」

「そうかなー」

 本当のところ、どうなんだろう。私は、いい人なんだろうか。私には、お姉さんの言ってくれたことが過大評価にしか思えない。そんなに私はいい人じゃない気がする。

 でも、いい人になりたい。
「お姉ちゃんが悪いなー」

 多分あれのことだろう。――汐斗を恋人にするのはどう……? と聞いてきたそのことだろう。少し恥ずかしくなったけれど、別に汐斗くんが謝るほどのものでもない。

「うんん、皆で会話できて楽しかったし、別に気にしてないよ」

「そうか。でも、心葉が僕のことをすごい人って言ってくれたのは少し嬉しかったな……」

「……っていうか、汐斗くん、また本、増えてるね」

 私は少しずるいなと思いながらも汐斗くんの言ったことが更に発展するのを少し阻むために、急に話をずらした。流石にこれ以上、その話をされると目に見えるほど恥ずかしくなってくる。逃げるために私はその言葉を言ったが、今いる汐斗くんの部屋の本棚には、前回来たときよりも本が増えていた。前回一番上の棚の空いた部分にはウサギのぬいぐるみが置かれていたが、そのにはまた工芸関係の――染め物についての本が置かれていた。

「あー、そうだな。お小遣いで買った。考えるなとか思うかもしれないけど、もしもの時にお金が余り過ぎてたらもったいないよなーと思って本とか今までも買ってきたんだよ。だけど、こうなるのは望んでたけど、ある意味もったいないことしたな……。でも、何が起こるか分からないからこんな本とかにお金を使ってしまったこと、とりあえず正解ということにしとこう!」

「うん、正解でいいんじゃない。ああいうこともあったから、お金を使いすぎちゃって今、あまりお金を持ってないっていうのはあれだけど、汐斗くんにとってこの本は意味にあるものだったんでしょ?」

「……おー。いいこと言ってくれるな。じゃあ、正解だな」

 確かに、私、今、少しいいことを言った気がする。少し、役立てたような気がする。

 私は、その本棚の中にある、工芸関係の本はあまり見ても分からないので、少しだけある小説を取り出した。少しおかしいのか、それとも読書好き(元だけど)にはあるあるなのか分からないけど、中身をの読むではなく、いくつかの小説の表紙だけをじっくり見ていく。色々なジャンルがあるけれど、特に恋愛系が多い気がする。ボーイミーツガール。少しだけ、私は汐斗くんを見てしまった。私たちの物語はこれから先、どうなるんだろうと。あの時始まった物語はどうやって終わるんだろうと……そう思ってしまう。

「どうした?」

「いや、何でもないよ」

「そういえば、僕、おかげさまで変わることが出来たから、日記とかもこの機会に捨てようかな。小さな闘病日記」

 汐斗くんは自分の机の右引き出しにあった、1枚のノートみたいなやつを取った。そのノートには少し崩れた字で『小さな闘病日記』と少し殴り書きされたように書かれている。

「ねえ、心葉はどう思う? 捨てるべきか、取っておくべきか。僕はもう縁を切るのが正しのかは分からないけど、捨てようかなと……」

「汐斗くんが捨てたいと思うなら、捨てたほうがいいんじゃない。汐斗くんの思う選択――それが私の答えかな」

 私にそれを捨てるべきか取っておくべきか決める権利なんてない。私には知らないことだらけだし、それにその日記への想いが一番あるのは汐斗くんだから。汐斗くんが思った決断が私の答えになるんだ。

「じゃあ、心葉の言った通り、僕の決断でこの日記とは縁を切ろうかな」

「あのさ、じゃあ、もし嫌だったらあれなんだけど、ちょっと見てもいい? もちろん、嫌ならはっきり言ってほしいんだけど」

 私は、単純にこの日記にどういう事が書かれていたのか、私と同じように苦しみを抱えているけれど、どんな風にどう違う苦しみだったのかを知りたいと思った。でも、もちろん見せたくないかもしれないので、そこは考慮してそう聞いた。

「別にいけど……もちろん『小さな闘病日記』だから内容は分かってると思うけど……。そういうのでもいいなら、読んでもいいぞ。でも、責任は取らないからな」

「じゃあ、少し……。失礼します」

 私は汐斗くんからどういう内容が書いてあるか理解した上という条件付きで許可をもらった。なので、その『小さな闘病日記』を開いた。開いた途端、少し昔の匂いが少しした。

 一番最初のページだ。

 今とは少し字の形が違う。

 私は、日付を見て、強い何かを感じてしまう。

 その日記の中に自然と入り込んでしまう。その中に別の世界があるかのように。

『4月5日
 今日から中学3年生! 残りの中学生活を楽しむぞー! と思いたいところだけれど、家に帰ってから体調が悪くなってしまった……。それにいつもと違う感じがする。病院に行ったけど、色々検査されて……もしかしたら悪い病気かも。不安で今日は寝られそうにない。でも、お姉ちゃんが優しく「大丈夫だよ」と励ましてくれた。お姉ちゃん、なんだかんだある人だけど僕を今、一番安心させる人だ』 

 ――中学3年生の4月。

 私と始めは同じだ。私が明日を閉じようとするきっかけになる出来事が始まったのもこの辺りからだった。

 苦しみの種類は違うけれど、同じ時から大きな苦しみを抱えていたんだ。

 私たちは苦しみを抱えて今日まで生きてきたんだ。

「汐斗くん……」

 私は作業している汐斗くんを見る。でも、その声はあまりにも小さい声だったため、届いていない。

 何だよ、そんなときから苦しみを抱えてきたのに、なんで私なんかを気遣かえるんだよ。

 自分だって苦しいはずなのに。どうすればいいのか分からないはずなのに。他の人のことを考えられる余裕なんてないのに。他の人のこと考えすぎたら自分のことを失ってしまうかもしれないのに。

 なんで、私を気遣うことが、苦しみを抱える汐斗くんにできたのに、私は全然汐斗くんを気遣うことができないのか……。同じはずなのに。そんな自分が悔しいし、許せなくなる。

 でも、そんな弱音を吐くと汐斗くんに叱られてしまいそうだから、とりあえずその気持ちを抑えて、私はページをめくっていくことにした。その音が私の耳の中に響く。

『4月12日
 どうやら僕の病気は、あまりいいものではないみたいだ。ダラダラ書くとそれだけで簡単にノートが全て埋まってしまいそうだから短くまとめるけど、どうやら、悪い菌が体の中に入ってしまい、それが増殖しているらしい。それに残念なことにその病気についてはまだ分かってないことが多いらしい。今すぐ僕の命が尽きる可能性は低いけれど、命に関わる自体になるかもしれないこと想定したほうがいいという趣旨のことを言われた。一言で言うなら今の状況は――辛い』

『4月23日
 今日は最近仲良くなった友達何人かと近くのショッピングモールに行った。特に今のところは行動は制限されてないけれど、帰りに少し体調を崩してしまった。お医者さんが前に言っていた症状と被るから、たぶん、これもあの病気のせいなんだろう。少し倒れそうになった時に、友達が「大丈夫?」とか「どうしたの?」とかいう優しく声をかけてくれたり、助けてくれた。皆、ずるい……本当に優しい。僕もそんな人になりたい。誰かに「ずるい、優しいよ」って言われるぐらいの人になりたい。それが今の僕の夢なのかもしれない。そんなのこんな僕にはなれないと思うけど。でも、少し怯えながらこういう楽しいこともやらなきゃいけないのが怖い……楽しみたいのに。今日もまた辛い、辛い……』

 そんなようなものがこの先も続いていた。私の辛さと、汐斗くんの辛さがリンクして余計に苦しくなる。でも、私は今まで知ってあげられなかった汐斗くんを知るために、その辛さに耐えた。頭が少しガンガンしているけれど、それでと私は汐斗くんが自分と向き合ったときの字を瞳に収めていく。この字を書いたときの様子が私はなんとなく見えてきた。どんな自分と汐斗くんが向き合っていたのかということが。

 でも、辛いという文字だけで飾っていないのが、流石だと思う。もちろん、この『小さな闘病日記』の大半を占めるのが辛いということがかかれているけれど、でも、時々楽しいという文字も見ることができた。辛いながらも自分で汐斗くんは楽しさも自分の力で見つけ出していたのだ。辛い中でもできることを見つけていたのだ。私と正反対だ。

『6月15日
 今日は本当に本当に楽しかった! 待ちに待った修学旅行に参加できたぜー! でも、お医者さんに2泊するのは止められているので、1泊だけ……(先生と相談して、皆にはどうしてもはずせない用事があるという設定にしてる。嘘をつくのは少し辛いけど) だけど、全く行けない可能性もあったんだから、そう考えると1泊できただけでも満足じゃん! 皆と色々写真を撮ったり遊んだりして繰り返すけど、本当に楽しかった! この思い出はずっと残ってしまうんだろうな……。たとえ僕に明日がなくとも(あまり考えないほうがいいか)』

 私は、ページを捲るために少しずつ違う匂いがすることに気づいた。どれも違う匂いに錯覚かもしれないけど、感じる。汐斗くんがその時持っていた感情が匂いとなってここにずっとしまわれてるんじゃないだろうか。

 それからも書かれていることを見ていったけれど、あるところで私のページを捲る手が止まった。

『今日は少し不思議な人に出会った。教室に戻ろうとした時、いつもみたいに体調が悪くなっていたのか飲み物を自販機で買い、飲みながら歩いていた頃、急に一瞬だけだったけど、くらっときてしまった。そして、その飲み物を廊下に(かなりの量を)こぼしてしまったんだ。そんな時、トイレを終えて出てきた感じの女の子が何も言うことなく、そのこぼれたところを教室にある雑巾を持ってきて僕よりも早く拭き始めたんだ。そして、いつの間にかまるで時間を戻したかのようになっていた。そんな女の子にお礼を言い、ちょうど持っていたポッキーを渡そうとしたのだけど、「忙しくて食べる時間がないので、お気持ちだけで結構です」とよく分からない回答をして、教室に戻っていったのだ。その女の子のいる教室を覗くと確かに、その女の子は机にいくつもの教材を出し、勉強をしていた。本当に不思議な人だ。でも、そんな不思議な人に僕は何かを感じてしまった。優しさ……? それ以外にも何かがある気がする。もしかしたら、何か今度関わることになるんじゃないかな(それは願望かもな)』

 それ、この少し不思議な人って、私なんじゃないだろうか。この、私。

 確かに、そんな出来事もあったかもしれない。1年のときは違うクラスなので、汐斗くんの名前は知らなかったけれど、確かにこの時見た人と汐斗くんは似ている気もする。あの時の君と。私がトイレに行って勉強を再開させようとした時、何かふらついた感じの人が、廊下に飲み物をこぼしてしまったところを見た。廊下には人がいなかったから、私は無意識に動いた体を頼りに汐斗くんの日記に書いてあるようなことをした気がしなくもない。そんな些細なことで、何か汐斗くんは感じてしまった。そして、今、この日記の通り、関わることになっている。

 私も少し不思議な気持ちになってしまった。私のことも書いてあるなら、自分が未来を閉じようとしてしまった日のことも書いてあるんじゃないか。そう思ってあの日のことが書かれてないか探した。どこかに落とした手紙を探すように。もう少し、前の方にきっと、汐斗くんなら文字という形で綴っているはず。

 ――あった。あの日のことが書くかれている部分が。

 何を汐斗くんは綴ったんだろう。私には直接言わなかった、日記という逃げ場――本音だけで構成されている場所には怒りがあるんだろうか、諦めがあるんだろうか、痛いということが書いてるんだろうか。それを私は知りたいと思った。汐斗くんの本当の心を。

『今日はあるクラスメートと僕の大きな出来事を書きたい。その前に、昨日は眠すぎて書けなかったので、僕の体調の近況報告。昨日病院に行き、いつも通り検査したことろ、少し細菌の数が増えていたみたい。もし、このまま増えたら僕は一体どうなるのか? それはたぶん、言わなくても分かると思うけど、明日を見ることができなくなる。もちろん、まだこのまま増えてくと決まったわけではない。だから、僕はもしものために、後悔しない生き方をしなきゃいけない。
 
 そして次に、冒頭にも書いた、あるクラスメートと僕の大きな出来事を書きたい。一応名前は伏せることにするけど、Cさんは学校の屋上で明日を閉じようとしていた。そんなところを僕は止めた。そしたら、本当に素直に従ってくれた。そして僕はCさんにある約束をした。1ヶ月だけは待ってほしいと。そしたら君の自由にしていいと。普通ならこんな約束しないだろう。それも、たった1ヶ月という。1ヶ月で人の心を変えることができるのか、もしくはその人が変われるのかなんて分からない。でも、この約束は守ってくれる。それだけはCさんの心をみて、自然と分かってしまう。それと、これについても書いておきたい。僕が病気のことを伝えると、もしかしたら少し僕を見る目が変わるのかな、色々しつこく質問されるのかなとか思ったけれど、そんなことはなく、自分のしたことについて謝ってくれた。いい意味で裏切られたけど、それがなんだか嬉しかった。僕は正反対の人だけど、この人と少し人生を創りたい。別に、これが人生の最後になっても後悔はしない』

 私もいい意味で裏切られた。そう感じてくれていたのか。汐斗くんは私と関わりが深くない中でもしっかりと私のことを分かってくれていた。そして、仮にこれで人生が終わってしまったとしても、私と関わることに後悔はないと言ってくれた。

 この先にもたぶん私――Cさんのことがいくつか書かれているのだろう。でも、私は見るのはここまでにした。どんなことが書かれてるのか怖いという理由で開かなかったのではない。むしろ、だいたいどんなことが書かれているのか予想はつく。じゃあ、なんでか。ここまでで知ることは留めておきたかったから。あとは、心で感じたいと思ったから。

「ありがとう」

 私は、その小さな闘病日記を全部は読まず、そこまでで汐斗くん本人に返した。汐斗くんが最初に言った通り、内容はそういうものが多かった。でも、読んだ意味はあると思う。汐斗くんのことが、どういう人間なのかが十分に分かった。

 汐斗くんも苦しいのに……。

 辛いのに……。

「汐斗くんって、ずるい、優しいよね」

「心葉、どうした急に?」

 汐斗くんは覚えてないんだろうか。でも、覚えてないのかもしれない。中学3年生のことだから。昔のことなんて、時々思い出さないと、いつの間にか忘れてしまうんだから。もしかしたら数年経てば私といた日々なんてなかったものになってしまうのかもしれないんだし。でも、汐斗くんは書いていた。――誰かに「ずるい、優しいよ」って言われるぐらいの人になりたい。それが今の僕の夢なのかもしれない。そう、書いていた。だから、私は言ってみた。本当の気持ちと、この言葉は怖いぐらいリンクしていたから。

「いや、ただ思いついただけ」

「そうか……。それよりさ、『小さな闘病日記』を見て、どこか具合が悪くなったり、自分を閉めちゃったりしようとしてない?」

 ほら、言ってるそばから。ずるいぐらい優しい。私が見たいと言って見せてもらったんだから、ある程度は覚悟して読んだから、そこまで気にする必要ないのに。

「それは大丈夫。でもさ、私も一つ言いたいことがある。この日記を見て思ったことを」

「……」

 なぜか、汐斗くんは何も言わなかった。でも、汐斗くんのことだから、うんという意味だろう。

 今から言いたいことは、ある意味マイナスのことだ。決してプラスではない。プラスになんてこの日記を読んで引っ張られない。

 さっきも思ったこと。

 ――何だよ、そんなときから苦しみを抱えてきたのに、なんで私なんかを気遣かえるんだよ。

 私たちは同じような立場だ。ただ、苦しみが何かが違うだけで。明日をどうしたいかというものが正反対なんだけで。苦しみを抱えた時期もほとんど同じ。その苦しみ強さも同じ――いや、汐斗くんの方が何倍も大きかったのかもしれない。私のは、最悪の話、高校を中退すれば済む。でも、汐斗くんは何かをすればその世界から逃け出せるわけではないんだから。それに、いつきてしまうか分からないんだから。
 
「汐斗くん、君はある意味バカだと思う。自分も辛いくせに私のことを気遣ってるし、想ってるし。この日記で十分それは分かったよ。自分の苦しみを知らなさすぎてる。自分のことを分かってなさすぎている。自分を犠牲にしすぎている。自分をもっと苦しめている……。自分だって辛いんでしょ? 苦しいんでしょ? 本当は、正反対の私を見ることなんて普通の人間ならできない。でも。君はそうしてる。だからバカ、なの?」

 私を見てくれている人に対して言う言葉としては、最悪の言葉だと自分でも十分に感じている。汐斗くんに言う言葉じゃないと。酷いのは分かる。でも、言わずにはいられなかった。だけど、私が心を許してしまった彼に――彼だから本音を言いたかった。別にこれで関係が終わってしまったとしても、後悔はない。どんな形で終わるのか分からない私たちの関係においてはこういう風に消滅するのはむしろいいんじゃないか。

 これが、言いたかった。私の大切な人だからこそ言いたかった。

「……そうか、僕はバカか。そうだな、うん」

 少しの沈黙の後、そう喋った。汐斗くんの言葉からどんな感情を持ってるのかなんて、私には分からなかった。ただ、何か言いたいことがあった……それだけは分かった。

「確かに、僕は辛かったよ。この2、3年間辛かったよ。本当に辛かったよ。たぶん、心葉が思ってる以上に辛いときもあったと思う。色々な治療に分からないぐらい辛かったときもあると思う。普通なら、僕は心葉を気遣うことはできない。でも、心葉ならって思った。正反対だけど苦しみを抱えることに人なら、僕のことも分かってくれると思った。お互いにその世界を生きていけると思った。だから、自分のためでもあった。それに、心葉ならと思った理由がもう一つある。心葉は明日を閉じようとしてるけれど、心葉の心そのものは温かいって知ってたし、感じてたから。だから……そんな人の力になりたかったから。それが僕のできることであり、大切な命を届けてくれた人たちへのお礼になると思ったから」

 ゆっくりと、まるでスローモーションのように、私の見える景色が少しずつ、かすれていく。汐斗くんの顔がぼやけてくる。でも、汐斗くんの瞳からも輝くものが落ちてきた……私には分かる。

 どちらも、心が反応してしまったんだ。

 水溜りを作るようなものを自分で作り出してしまったんだ。

 この世界をゆっくりと水の世界に変えてしまったんだ。

 ――私たちの心を反映させた、涙。

「今日、僕、嬉しいことがあったはずなのに、何で泣いてるんだろう。本当だったら、ここで笑っているはずなのに。心葉をここにつけてきた理由は、2人で笑いあいたかったからなのに。君が明日を懸命に創ってくれたから、僕はこうなれたんだよって、お礼を言いたかったからなのに……なんで泣いてるんだろう。計画が潰れちゃったじゃん……」

 私も、何で泣いているんだろう。汐斗くんの病気が完治に向かっているんだから、一緒に喜ばなきゃいけないはずなのに。笑わなきゃいけないはずなのに。楽しまなきゃいけないはずなのに。ここまで、本当にお疲れ様と言わなきゃいけないはずなのに。友達として、いや、親友として――私たちの関係をどういう言葉で表せばいいのかは分からないけれど、それが役目なはずなのに。おかしいじゃん、私。

 でも、私は逆に汐斗くんを泣かせてしまった。

 見たくもない姿を見てしまったし、見せてしまった。

 このことをなかったことにしたいのか……でも、私は覚悟を決めて、汐斗くん伝えたはずだ。だから、それはないと思う。

 じゃあ、私は、今、汐斗くんとどうしたいんだろうか。

 どうやって、この世界を創りたいんだろうか。

 たった1人の汐斗くんとどうやって歩んでいきたいんだろうか。

「ごめん、泣かせちゃって」

 私は、謝った。まだ泣いていたいけれど、その涙を止めた。でも、完全には止まらない。どこかがそれを拒否している。

 私の感情は自分ではコントロールできないみたいだ。

「おい、謝るなよ。もっと僕を辛くさせる気かよ。別に、計画なんて、潰れたっていいんだよ。それに、今日はいいことがあったとしても、必ずしも楽しいことだけで終わらせる必要はないんだよ。それよりも、大事なものをお互い見つけられたから。でも、泣いてばかりいても楽しくないだろ。まだ、1ヶ月は終わってないぞ。今度さ、どこか行こう。最後に、君とどこかに行きたいな。そしたら、君の自由だよ。好きに生きてくれ、君の人生だ」

「うん、私も行きたい」

 私の涙はこの言葉により、いつの間にか止まっていた。汐斗くんの涙も止まっていた。

 何かが涙を止まらした。

 それが何かは私には分からない。

 でも、汐斗くんの言葉、少し嫌なことがあった。

 最後という言葉を使っかったこと。

 1ヶ月がもうすぐ終わってしまうこと。

 それが、少し嫌だった。

 でも、それより汐斗くんが私と、どこかに行きたいと言ってくれたことは素直に嬉しかった。どんなことよりも、今、求めていたのかもしれない。




 汐斗くんと最後に行く場所は、行けること自体が嬉しかったので本当にどこでもよかったけれど、遊園地に行くことになった。これは汐斗くんの提案で、最後に思いっきり楽しもうということから、遊園地を選んでくれたんだろう。

 ずっとずっと待っていたその日が来た。まだかなあと思っていたときもあったけれど、その日は当然のように来た。目覚まし時計を集合時間に十分に間に合うよう寝坊したときのためにも何回かセットしたはずなのに、その目覚まし時計が役にたたないぐらい早く起きてしまった。

 今日は特別なんだから、普段はやらないけど少し化粧をしていこう。もちろん、自分の姿だと言える範囲で。

 カバンに忘れ物がないか、何回も何回も確認する。そして、汐斗くんに渡すためのミサンガも忘れずに入れる。そう言えば、今日、汐斗くんも出来上がった染め物を最後に見せてくれるらしい。それも私の楽しみの1つだ。

 でも、カバンに入っているこの紙――いわゆる遺書と呼ばれるものは今日で捨ててしまおう。書かない方がいいとは分かっていたけれど、私の未来の心は自分では分からない。だから、これを読んでもらう気なんてないんだけれど、もし、その時が来てしまったときのために私は親や友達、そして汐斗くんに書いていたのだ。最後に自分の想っていたことを言えずに明日を閉じてしまうのは嫌だったから。

 でも、何度も書き直したこの遺書も今日が終わったら、破いて捨ててしまおう。前に描いていた世界とはもう、おさらばだ。こんな遺書は私にはもうきっと必要ない。そんなものがなくたって、きっと私は生きていけるはずだ。あの人と出会えたんだから。

 ドアノブに手をかける。

「行ってきます」

 この家にはまだお母さんも、お父さんも帰ってきていないはずなのに、そんな言葉を言ってしまう。でも、感じるのだ。

 ドアノブに自然と力が入り、ドアが軽い力で開き、外の世界の空気を吸った。

 ――私は、人生を変えてくれた君と、もしかしたら関わることのできる最後かもしれない特別な日を創るために、家を出た。


 少し、早かっただろうか。まだ、約束の20分も前だ。汐斗くんの姿はもちろんまだ見えない。

 私の目の前に見える横断歩道から汐斗くんは私のもとに来るはずだ。

 時々、車が私の近くを何事もなく通過していく。

 汐斗くんが来るのを、私は特別な想いで待っている。

 本当に、汐斗くん今までありがとう。ずっとずっと忘れられない……そんな大切な人。

 一生、忘れたくない。

「あれ、心葉じゃん!」

「あっ、唯衣花! その格好はどこかお出かけ?」

 唯衣花が私の前を通ろうとしたところ、私に気づいたようで、唯衣花が私に声をかけてきてくれた。海みたいに爽やかな服装が、彼女を際立たせている。

「うん。友達と買い物に。心葉は好きな人でも待ってるの?」

「いや、そんなんじゃないよ!」

 私は唯衣花の言ったことに対して慌てて否定した。私と汐斗くんの関係はそんなのじゃ――でも、ないとまでは言い切れないのかもしれない。だけど、考えると私の心のどこかを異常に反応させてしまいそうだからやめた。でも、その答えは私のどこかに眠っているはずだ。

「まあいいや。それよりちょうどいいや。これ、お見舞いに来てくれたお礼! そんな高いものじゃないけど、プレゼント」

 唯衣花が、ショルダーバッグから丁寧にラッピングされたものを出して、それを私に手渡した。縦に長く、横は短い。私は開けてもいい? と聞いて唯衣花がうなずいた後に、そのラッピングを丁寧に取る。この瞬間が、小さい頃サンタさんにプレゼントをお願いした時、何が届いているかみたいでドキドキしてしまった。

「心葉が好きなピンク色の、ボールペンだよ!」

「唯衣花、ありがとう!」

 唯衣花、そんな小さなことまで覚えていてくれたのか。でも、唯衣花に渡したあのミサンガの色も私の好きな色で作ったと前に言ったから、覚えていてくれたのかもしれない。私が好きな色はピンク色だってことを。

「これ、大切にするね」

 私は、そのボールペンをそっとカバンの中にしまう。普通のときにはもったいなくて使えそうにないから、本当に大切なものを書く時に私は使うことになるんだろう。でも、そのときはいつ来るのかまだ分からない。

「うん。心葉が使いたいときにでもそのボールペンは使ってよ。話変わるけどこの辺スピード出す車が多いから気をつけてね。じゃあ、バイバイ。応援してるよ」

 そう唯衣花は言った後、手を振りながら私からゆっくりと遠ざかっていく。

 ――応援してるよ。

 何をなんだろう。主語は一体何なんだろう。でも、あの笑顔。もしかしたら、私のことを唯衣花は少し分かっているのかもしれない。はっきりとではなくても少し感じているのかもしれない。
 


 まだ、汐斗くんの姿は見えないはずなのに、まるでそこにいるかのように感じてしまう。

 この、太陽が暖めて――いや、温めてくれている空気、木の葉の揺れる優しい音、道端に咲く小さな花たち。

 私の目に映るいつもの世界は――少し、不思議な世界だった。

 でも、本当に今日で最後なのかな。

 あの時からだいたい1ヶ月が経ってしまったけれど、今日が終われば、汐斗くんに電話をかけることもなくなるし、ラインをすることも大事な連絡以外しなくなってしまうのかな。まだお互いのことを全然知らなかった1か月前のような関係に、私たちに戻ってしまうのかな。

 ――今日で、本当に最後にしなきゃいけないのかな。

 終わりって作らなきゃいけないのかな。これは小説の中の物語じゃないんだから作らなくてもいいんじゃないかな。

「おーい!」

 向こう側に私のずっとずっと聞いていたい人の声がした――汐斗くんだ。赤信号を待っている一人の人が、こっちに向かって手を振ってきてくれている。

 私も手を振り返す。すると、汐斗くんも手を振り返してくれた。

 もう少し経てば、汐斗くんと……。

 約束の10分前なのに、汐斗くんらしい。いや、私と同じで楽しみだから来てしまったっていう理由だったら少し嬉しいかもしれない。

 時の流れはどうやっても来てくれるようで、赤だった信号機の色が、いつの間にか青に変わった。

 汐斗くんは大地を踏み始めるようにして、横断歩道を歩き始めた。

 もうすぐ、私のもとに汐斗くんが来てくれる。

 待っていた瞬間。

 ――!

「えっ、おい、危ない、逃げろ――!」

 突然、男の人が、大声で怒鳴る。何か、そのような声がした。

 何が起きてるのかはすぐには分からなかったが、私は、その光景を見て分かってしまった。

 向こう側から来ているトラックがコントロールを失って、汐斗くんの今渡っている横断歩道の方にものすごい速さで、爆発したみたいに大きな音で向かってきているのだ。

「――えっ」
 
 汐斗くんはその現状は分かったみたいだけれど、あまりにも突然のことで、それに非現実的なことで何をすればいいのか分かっていない様子で横断歩道の真ん中で止まってしまった。自分の判断ができないでいるみたいだ。

 でも、このままだと、汐斗くんは――

 だけど、私が助けたら、私はたぶん――

 そのトラックの暴走は止まらない。それに、汐斗くんは動くことができない。だったら、今、ちゃんと行動できるのは私だけ。私が助けに行かなきゃいけないのだ。一瞬どうするべきか悩んだが、頭が汐斗くんを助けに行かなきゃという信号を出すよりも早く、無意識に動いていた。汐斗くんを助けに行くために、私は走る。足を動かす。

 仮に私に明日がなくたとしても、汐斗くんに明日があるんだとしたら私はそっちのほうが断然いい。

 私は元々、明日を閉じようとしていたのだから。でも、汐斗くんが明日を伸ばしてくれて、今では、明日を創っていこうと思えてきてるだけ。

 だから、本当は、もうこの世界にはいないはずだった。すでに、1か月前にこの世界から消えているはずだった。

 だったら、私の世界よりも汐斗くんの世界の方があるべきだ。汐斗くんの世界はないとだめなんだ。

 前に見た『小さな闘病日記』を見て分かった。私よりも何倍も苦しい思いをしてるじゃないか、辛かったんじゃないかと。そんなものに勝つことができたのに、望んでいた姿になれたのに、汐斗くんがここで明日を閉じていいはずがない。汐斗くんは明日を開かないと――明日を見ないとだめなんだ。それができるようになったばかりなんだから。今からが汐斗くんにとって本当のスタートなんだから。

 ――むしろ、明日を閉じたい私が、閉じられるんだからそれは望んでいたことなんじゃないだろうか。神様が与えてくれたことなんじゃないだろうか。

 ほら、望み通りなるんだから、いいじゃないか。私の願いが叶うんだから。

 それにさ、汐斗くんは私のいない世界のほうがきっと輝けるんだよ。私の存在はきっと邪魔なんだよ。分かってるよ。だからさ――

 私は、呆然と立ち尽くしてる汐斗くんにありったけの力を込めて、歩道側に投げ飛ばした。

 それから、1秒も立たない間に私に、トラックが容赦なく突っ込んできた。

 その感触は言葉で表現なんかできない。

 ――キキッー。

 それから、私はどうなったのか、分からない。

 明日を閉じたのかも、閉じてないのかも。

 今、私はどこの世界にいるのか。

 でも、どの世界にいたとしても、汐斗くんにこれだけは言いたい――今までありがとう、と。




 ――おい、大丈夫か。

 うん、大丈夫? 大丈夫?

 私は、望み通り、明日を閉じてしまったんだろうか?

 まだまだ見ていたかった汐斗くんの顔はもう、一生見えないんだろうか。

 最後に、私は世界を変えてくれた君に「ありがとう」も言えなかった――いや、言わせてくれなかったんだろうか。

 私はそう思いながら、この世界を見渡すために、目を開いた。

 ――私の瞳には、汐斗くんの顔が映った。

 ……

 ……

 ……

「……あっ、よかった、心葉。本当に」

 ここはどうやら、まだ私がさっきまでいた世界?

 私は地面に横たわっていたようだ。

 でも、私……。

「救急車とかは呼んだから。でも、ごめん、僕のせいでこんなことに……謝りきれない」

 そうか、私はまだなんとかこの世界にいることができたんだ。ここはまだあっちの世界ではないんだ。

「……いや、今はそんなことは。でも、痛い、痛い」

 やはり、トラックに轢かれたからか、色々なところが痛む。全身が。どのような状況で怪我してるのかも私にはよく分からない。声を出すのもやっとなぐらいに痛い。

 ここの世界はまだ汐斗くんのいる世界だ。でも、私はもうすぐ、本当に、明日を閉じてしまうんじゃないだろうか。そうとまで思えてくる。この状況をうまくつかめない。今まで感じたことのないぐらい言葉に表せない傷み。

「やばいな、これはもしかしたら、少し厳しいかもだぞ! 救急車はまだ来ないのか!?」

「いや、まだ呼んだばかりだから、もう数分はかかるかと……」

 周りの人たちの声だろうか。怒鳴り声も混ざっているし、他にも様々な声が飛び交っていた。私は、今、そんなにも厳しい状態なんだろうか。でも、私の近くには赤いものが見える。

 誰か名前もわからない大人が、私の応急処置をしてくれているみたいだ。皆、懸命にこの世界でたった一人の私を助けようとしてくれているのだ。こんな、私を助けようと……。私と関わりなんかない名前すらも知らない赤の他人を助けようと……。助けたところで意味があるのかも分からないのに。

 でも、さっき一瞬だけ、あの世界が見えてしまった気がする。

「いや、心葉、大丈夫だから泣くなよ」

 優しい汐斗くんがまた、私の顔を見てくる。自分は、泣いているのだろうか、そんなの分からなかった。自覚なんてない。

 ただ、私はもうもたないかもしれないことは、自分でも十分に分かっていた。体がそんなことを教えてくれている。

 こういう現実――終わり方もあるんだな。

「あのさ、汐斗くん。少し話したい。もしかしたら、明日を閉じてしまうかもしれないから」

「……いいぞ。ちゃんと聞く。でも、明日を閉じるなんて言うなよ! 変わった今の心葉にそんな言葉似合わないよ!」

 分かってるけど、ここで弱音を吐かないことなんて、私にはできない。そんなに汐斗くんの思っているほど私は強くないんだ。自分で明日を閉じようとしていたんだもん。本当は、今の私にこの言葉、似合わないこと、そんなことぐらい知ってるよ。だって、汐斗くんが似合わない言葉にしてくれたんだから。

「汐斗くんは、本当に私にとって大切な……私の世界を変えてくれた人でした。それに、いつも優しくて、誰かのことを考えられて、いいところがいつまでも言える人……そんな人、たぶんこの世界で汐斗くんぐらいしかいません。本当にありがとう。私、さっきまではこれが望んでいたことなんだからいいじゃんとか、本当はもうこの世界にいないはずだったからいいんじゃないかとまで思ってた。でも、やっぱりそんなことはなかった。私の望みは、汐斗くんに書き換えられてしまった。だから、私は――」

 本当に書き換えられるなんて、思ってもなかった。あの日のままの私だと思ってた。でも、汐斗くんは違った。

 汐斗くんの変えてくれた世界が、私にとって今、一番の宝物なんだ。だから――

「――私は、自分の世界、閉じたくないよ。まだまだ、汐斗くんとこの世界を歩んでいきたいよ。明日も、その次も汐斗くんの顔を見ていたいよ。見させてよ……」

 私は、自分の力でどんな状態になってるかも分からないけれど、汐斗くんに抱きついた。前と感触は全然違った。ちゃんと抱きしめられない。でも、抱きしめているのは私を創ってくれた汐斗くんだった……それだけは間違いなかった。

「最初は自分の世界を閉じたいと思ってた。でも、大切な人と会ったことで、明日を創りたくなった。こんな自分勝手な人を、神様、どうか許してください、許して……、許して……」

 こんな人、多分神様は怒って、私の本当の望みは叶えてくれない。叶えてくれっこないって分かってる。でも、私はまだ生きていたい。こんな素敵な人と出会えたのだから。この世界で出会わせてくれたのだから。

「大丈夫だよ、心葉の心も神様はきっと見てるはずだから」

「怖い、怖いよ。もっともっと君といたいよ。まだ、遊園地だって行ってないじゃん」

「分かってる。分かってるよ。でも、心葉もう喋らない方が……それ以上喋ると、もしかしたら、だめになっちゃうかもしれない。この世界から追い出されちゃうかもしれない」

 私の呼吸がさっきよりも苦しい。荒くなっている。泣いているからと、大きな怪我をしているから。さっきよりも悪化している。少し前までの望みに近づいてしまってる。私は、もう、汐斗くんに喋ることも難しくなっている。声はもう厳しい……。声で想いを伝えることは難しい。でも、まだ伝えられる方法はある――文字で。

「汐斗くん……カバンの中に入っている遺書――いや、手紙を見て……、そこに書いてあることを伝えたい。声が無理なら文字という言葉で伝えたい」

「分かった。でも、まだ明日を閉じちゃだめだろ。約束したんだから。まだ、1ヶ月経ってないんだからせめてもう少し待ってくれよ。自由にしていいのはそれからなんだよ」

 ――うん、約束、必ず守るから。汐斗くんは私が約束を守ってくれるって信じてそういう約束をしてくれたんだから。そんなの、破るわけないじゃん……。私を信じてよ。

 でも、それを声に出すことはやめた。本当は声に出してそう伝えたいけれど、無理をしてここで声を出してしまったら、明日を閉じてしまうかもしれないから。約束を破ってしまうかもしれないから。信じてくれた汐斗くんを裏切ることなんて、私はしたくない。

 そんな言葉を聞くよりも、汐斗くんはこの世界で明日も人生を創ってくれる方が望んでいると思ったから。

 でも、本当は言いたい。それを、汐斗くんの約束を守るためだと思い、人生の中でも一番辛いかもしれないけど、我慢した。そういう想いを込めて、私は目で汐斗くんに伝えた。それ伝わったのかを私に確かめる方法なんてないけど、汐斗くんはうんと大きくうなずいてくれた。
 
 汐斗くんが、近くに転がっている私のカバンから封筒を取り出し、中のものを読み始めた。これは、今は遺書ではない――最後に贈りたい、私の想いが詰まった手紙だ。

 この手紙、何度書き直したことだろうか。気持ちが変わるごとに、書き直した。どんどんと世界を向けている……そんなことは自分でも感じられた。それは、汐斗くんのせいなんだろう。

 この手紙を書いたときが蘇る。今、汐斗くんがゆっくりと、自分の瞳という部分を用いて、自分の心の中に少しずつ吸収しているものを書いたのは……数日前だ。これが、一番最近書いたもの。今に一番近い私が書いたものだ。

 その時のペンを握る感触、紙に触れた手の感触、周りから聞こえてきた音を、今、私は感じている。これを書いているときと、全く同じものを。
 
『私にとって大切な存在の汐斗くんへ

 これはもし、私が汐斗くんとの約束を破ってしまい、自分から明日を閉じてしまったときの遺書になるものだと思います(違ってたらごめんね)。

 本当はこんなもの書く必要、ないと思います。だって、汐斗くんがどんな私でも明日を創ってくれるんだから。私の世界をともに歩んでくれているんだから。

 でも、もし自分が明日を閉じてしまったとき、私の心にあるものをちゃんと伝えられないのは嫌なので、これを書いています。だから、その想いを伝えるために書きました。そんな私を許してください。許さなくてもいいから、この想いを受け取ってください。

 汐斗くんは一言で言うなら私の世界に道を創ってくれた人です。それも、私だけが進むことのできる道を。

 そして、本当に、本当に不思議な人です。明日に対して正反対の想いを持っている私に、ここまで関わってくれた。もしかしたら、明日の人生がなくなってしまうかもしれないのに――もしかしたら最後になるかもしれないのに、私にその人生を与えてくれた。そんな人を、憧れないわけありません。ずるいよ。そんな人とずっと離れたくないです。私のことを、仮にどんな世界にいるのだとしても、想ってほしいです。忘れないでほしいです。私を白野心葉として、ずっとずっとその名前を胸に刻んでほしいです。私も、絶対にそうするから。これは、どんなことがあっても約束するから。

 本当に、汐斗くんと過ごせた日々は、特別だった。もちろん、その時間全部が楽しいわけじゃなかったけど、全てに意味があると思えた日々を送れたのは本当に久しぶりでした。本当にありがとう。ありがとう。ありがとう……何度も言うよ。何度言っても、多分続いてしまうよ。終わりなんかないよ。

 そんな私が感謝してもしきれない汐斗くんの病気が完治に向かっていること、本当によかった。それが、私の夢だった。最後にその夢を見ることができて、私はすごく嬉しかった。汐斗くんがその姿でこの世界を創ってるところを見られないのは、少し残念だけど、そうだと願っています。でも、どこにいても、ちゃんと見てるから、悲しまないでください。私が言えることじゃないけど、君には自分の人生があります。その人生を輝かせてください。ずるいぐらい幸せになってください。私ができなかった分まで。約束してください。私の分まで生きてくれることが、たぶん汐斗くんと出逢えて一番よかったと思う瞬間になるんだと思います。こんなにも、失いたくない人、離したくない人、初めてだったよ。

 最後に一つ。もしかしたら、これは書けないかもしれません。そしたら、ごめんなさい。でも、私はそのことをどこにいても思ってます。汐斗――
                                
                                      君との日々はずっと忘れない白野心葉より

                 PS さよならじゃないからね、信じてる。今までありがとう。私の人生はこれで終点です』

 私の書いた文字はどう、汐斗くんに届いているんだろう。

 自分の想いは届くんだろうか。

 どこにいても、きっと汐斗くんなら私の想い、感じ取ってくれるはずだ。

 でも、まだあのことは書けなかった。手紙の最後の部分、書けなかった。汐斗――の続きが。書けなかった。

「こ、こ、は……」

 私の名前を汐斗くんは噛み締めながら、その手紙に書いてあることを感じ取りながら、どんな声よりも美しい声で言った。でも、汐斗くんは泣いてなかった。たぶん、こんな私の前で泣いたら……とでも思ったのだろう。

 「最後のってさ……いや、無理ならいいや。ごめん。本当に、ありがとう。でもさ、泣くギリギリにいるんだ。こんなにこらえなきゃいけないの、初めてだよ……」
 
 やっぱり、そこが気になってしまったか。最後に書けなかった部分が。何を伝えようとしていたのか。

 汐斗くんはその手紙を私の近くにそっと置いてくれた。

 私は本当は、この手紙で汐斗くんを泣かせたかった。でも、汐斗くんは泣いてくれなかった。私のために心から泣いてほしかったけど、泣いてくれなかった。あの時みたいに泣いてほしかった。

 気を遣わなくてよかったのに……。何でだよ……。

「僕はもっと心葉のことを知りたいし、一緒に笑いたいし、見守りたいし、お互いを成長させていきたい……僕は明日を見えるようになって、心葉は明日を創りたいと思えるようになって……だから、終点じゃなくて、ここがお互いの始まりなんじゃないか。見つけた始まり、簡単になかったことにはできない。心葉、言ってなかったけど、辛いながらも一生懸命に生きる君は、僕の世界を変えてくれた。僕も憧れだったよ……。憧れの人がいなくなったらどうするんだよ」

 汐斗くんが私を泣かそうとしてくれる。でも、泣いたら負けだ。こらえたくないのに、こんなにもこらえなきゃいけないのは初めてだ。

 じゃあ、私は最後に君に泣いてもらうために、力を振り絞ろうかな。私が勝とうかな。負けたくないもん。君は嫌かもしれないけど、泣くという最後のプレゼントを渡そうかな。でも、もう声は厳しい。だけど、腕は少し動く。その腕を使って私は、近くに転がっていた唯衣花からもらったピンク色のペンを取る。これも、大事にできなくてごめんね、唯衣花。そして、海佳ちゃんもさよならを言えなくてごめんね。私を支えてくれたのに。

 いや、このボールペンは大事にできないわけじゃない。私が本当に伝えたいことを書く時に使うんだから……。

 ――皆、こんな私で本当にごめんね。

 私は、そのピンク色のボールペンで、あのときは書けなかった汐斗――の続きを書く。今なら書ける。伝えたい。伝えるのならもう今しかない。私の最後がこれで終われたら、きっとこの世界で一番幸せなんだろう。だって、最後まで君のことを思えるんだから。

 私は、ある文字を汐斗――の続きに書いた。崩れた文字で――最後に伝えたかった、たった2文字の言葉を。そのピンク色の文字が太陽の光で表すことのできないぐらいに輝いた。

 『すき』

 その瞬間、汐斗くんの泣く大きな声がした。

「心葉、まだ終わっちゃだめだろ、まだ約束の時間、終わってないんだから!」

 そう叫ばれた。本当に大きな声だった。その文字に汐斗くんの綺麗な雫が落ちた。私からも気づけば雫が垂れていた。この世界がその雫のせいで美しく見えた。いつかその雫だけで小さな水たまりができるんじゃないだろうか。

 それから、私は瞳を閉じた。これが、最後の力だったみたいだ。でも、幸せだった。

 ――こういう最後でよかったよ。最後は、引き分けだったね。

 汐斗くん――私の世界を最後まで変えてくれて本当にありがとう。最後に恋して終わったんだな。終わることが出来たんだな。