小さな思い出が――幸せが降り注いできた。ずっと残しておきたい物が詰まっているところに今日の思い出が入っていく――そう思うとなんだか特別だった。でも、この思い出も、もしかしたら自分で消すことになってしまうのかもしれない。明日を自分で閉じることになったら……。そう思うと少し悲しい。

 今はもうすぐ集合時間になるので、2人はその前にトイレに行った。私は大丈夫だったのでその近くで待っている。でも、時間の感覚って本当にその時によって変わってしまうものなんだな。楽しいと思える時はすぐに終わってしまうのに、苦しいときは少しも時間が進まないように感じる。今日は時が流れるのが時計の針が壊れてしまったのかと疑ってしまうぐらいすごく早く感じてしまった。

「おっ、心葉じゃん、今日はどうだった?」

「あっ、汐斗くん。すごく楽しかったよ。でも、こういう時間を作れない自分が少し悪いなって思っちゃう。私、本当になんで勉強できないんだろう」

「……そっか。進学できないのはやっぱだめ?」

 汐斗くんが少しおかしなことを聞いてきた。

「うん、親に悪いし。それに、退学するのはやっぱここにこれなかった人にも少し悪いし。でも、もしかしたらそういう選択を取ることも明日を閉じないためには必要なのかもしれないね。だけど、やっぱそんなこと、親には相談できないな」

 私は汐斗くんの問に対してすぐに答えた。この世界には正しい答えがいくつもあるずるい問いが溢れている。

「んー。まあ、心葉の立場に立てばそうだよな……」

 こんなことしか言えなくて、私を支えてくれている汐斗くんには申し訳ない。明日を閉じないために、自分のもしかしたらもう終わりが近いかもしれない命を使ってまでもそうしてくれているのに。でも、私が変わること、本当に現実的なんだろうか。

「じゃあ、集合時間に遅れないようにな。僕はなんか喉渇いたし、自販機で飲み物でも買ってから並ぼうかな」

「うん、じゃあ、また後で」

 そう言うと、汐斗くんは自販機のある方向に向かった。私はそんな汐斗くんに自然と手を振っていた。

 というか、2人とも遅いな。トイレ、混んでるんだろうか。私はそう思いながらトイレの方に視線を移した。

 ――あっ!

 私の目が大きく開く。

 見てはいけないものが、私の視界に入る。

「……あ、あっ……」

 フラフラと、まるでどこからか遠隔操作されているみたいに自分自身で動くことができていない唯衣花がここから数メートル離れたところにいた。それだけならまだいいのだが、その周りには柵がないから下手したら下に落ちてしまう。その下はビルの何階に相当するかは分からないけれど、かなり高いし、この下には交通量はそこまで多くないとはいえ、舗装された道路が広がっている。

 だから、もしここから落ちてしまったら大きな怪我は免れない。もしかしたら、最悪の場合には頭の打ちどころが悪かったり、もしくは偶然通りかかった車に轢かれて明日をもう迎えることができなくなってしまうかもしれない。

 そんなのはいやだ。唯衣花を失うなんていやだ。

「唯衣花! 危ない!」

 どうしてそうなってるのかは分からないけれど、私は心の中から声を出して必死にそう呼びかけた。

 が、反応がない。この声が、唯衣花には届いてないみたいだ。でも、届かせなきゃいけない。私は更に叫ぶ。

 私は唯衣花を助けなきゃ……その思いから、気づけば唯衣花の方へ駆け出した。

 でも、なんで急に唯衣花はこんな風になってしまったの?

 まさか、唯衣花も自分から明日を閉じようとしている? 実は私と同じ立場だったの? 同じような何か苦しみを抱えていたの?
 
 そうと決まったわけではないけれど、もしそうなのだとしたら、このまま唯衣花の好きにしたあげたほうがいいんだろうか。自分の人生なんだから自分で終わり方を決めさせてあげた方がいいんだろうか。汐斗くんだって1ヶ月経っても変わらなかったら、自分の好きにすればいいと言ってくれたんだし。

 でも、だめだ。唯衣花を失うことはしたくない。それが、仮に唯衣花の希望だったとしても。そんなのはよくない。大切な存在になってくれた人を失うのは怖い。私だって、確かにそうかもしれないけど……。

 何度も何度も唯衣花の名前を呼んだ。でも、一向に振り返ってくれそうな雰囲気はない。私の声もどんどんかすれていく。ぐちゃぐちゃだ。

 私は、唯衣花に追いつく。フラフラとしてもうすぐ落ちてしまいそうだった唯衣花を後ろから抱きしめた。

「唯衣花……」

 ――これで、大丈夫だよ。絶対に離さない。



 ――学校の保健室は、少し病院みたいな独特な匂いがする。それが少し嫌いだ。そして、この雰囲気も同じぐらい……いや、それ以上に嫌いだ。

「あー、なんか熱、高いね」

 唯衣花の脇に入れていた体温計を保健室の先生が見て心配そうな口調でそう言った。

 どうやら唯衣花は私みたいに自分で明日を閉じようとしている――そういうことではなく、体調がよくなかったみたいで、フラフラしてしまっていたようだ。確かに、自分で明日を閉じようとしているのなら、すぐにあそこから落ちるという選択肢を取るだろう。本人には言ってないけれど、そうかもしれないと少し疑ってしまったことが申し訳ない。普通の人はそんなことしないのが、当たり前なのに。それぞれが、自分の得意なことを活かして助け合いながらこの世界をよくしていく……そうやって今日も明日も生きていくというのが本来の姿なのに。

「でも、さっきよりは楽になりました」

 唯衣花の言う通り、さっきよりは顔色もよくなっているし、少しだけ動けたりしている気がする。でも、まだ熱は高いし、いつもの唯衣花の表情ではない。

「心葉、落ちそうだったとこを助けてくれてありがとうね。海佳も先生に言ってくれてありがとう」

「うんん。唯衣花、本当に危なかったんだからね! もう少しで落ちそうだったよ!」

「私はそのときは見てないけど、本当に無事でよかった」

 私が唯衣花を後ろから抱きかかえた後、ちょうどトイレから出てきた海佳ちゃんに先生に伝えるようにお願いしたのだ。

「あと、汐斗も……ありがとう。色々気遣ってくれて」

「別に、僕は」

 保健室のドアのところには、ポケットに手を突っ込んだ汐斗くんが寄りかかっている。汐斗くんは遅いなと思って私たちのところに来てくれたようで、その時に後ろから抱きかかえられている唯衣花を見たから、すぐさま駆けつけてくれた。そして、私にどういう状況かを聞いた後に、この体勢の方がいいとか色々と対応してくれたのだ。でも、こういう対応方法を知っていたのはやはり、自分自身が病気を持っているからだろう。その後に、先生が来てくれて、先生の車で学校まで帰るということになったのだ。

「照れないでよ」

「別に、そんなのじゃ……」

 唯衣花は微笑ましく笑った。確かに、汐斗くんは少しだけ照れていた。こんな顔、汐斗くんでもするんだ。あのときの汐斗くん、なんかかっこよかった……。

「まあ今は落ち着いてるけど、一応早退した方がいいかな。親の人とか誰か来られそう?」

「はい、たぶんお母さんなら大丈夫だと思います」

「分かった。じゃあ、電話してくるから少し待ってて」

「はい、ありがとうございます」

 先生は、唯衣花のお母さんの電話番号を書類で確認した後に、電話をかけ始めた。

「唯衣花、なんか元々少し頭が痛かったんだっけ?」

 私はそう言えばの話を思い出して、唯衣花に聞いてみる。確か、公園で青い鳥を見た時にそんなことを言っていた気がする。

「気遣えなくてごめんね」

「うんん、そんなことないよ……。2人も色々気をつけてね。いつ何が起こるか分からないから」

 私と、海佳ちゃんはその言葉にうんと大きくうなずいた。少し経ってから、先生が電話を終え、30分後ぐらいには来てもらえるという報告を受けたらしい。私たちはもうすぐお昼になるからと言われて、汐斗くんとともに教室に返された。

 さっきの時よりは症状は落ち着いたとは言え、少し心配だ。放課後にお見舞いにでも行こうかな。唯衣花は前から知っているけれど、体を壊すことはよくあった気がするから。体の心配と言えば、汐斗くんも……。どうか、2人がよくなりますように。

 お昼は今日は少し寂しいけど、海佳ちゃんと2人で食べることにした。誰か欠けるというのは、こんなにも大きいものだったのかと今知らされる。ぽつんと大きな隙間が空いたようだった。お昼の時間に話した内容はほぼ全部が唯衣花のことだった。たぶん大丈夫なんだろうけど、余計に心配してしまう。 

 お弁当を食べ終えると、早速英単語の練習に取りかかった。公園に行ったり、唯衣花の件があったりして色々と頭の中は渋滞しているけれど、このことは忘れるわけがなかった。でも、海佳は忘れていたみたいで、今日の英単語難しいよねと話していたところ、今日の英語って小テストあるのと言われてしまった。

 お昼休みが終わることを知らせる予鈴のチャイムも鳴り、今は気づけば5時間目がもうすぐ始まるところだった。私はギリギリまで英単語帳に目を通す。前回はいつもほんの少しだけよかったから、そのペースを崩さないようにしたい。ただ、そう考えれば考えるほど自信がなくなってくる。

 もうすぐ、小テストの時間になってしまう。時計の秒針が私の耳の中を刺激する。小テストなんて今までに何回も何回もやって慣れているはずなのに、今日もまた、このような錯覚に襲われる。

 ついに、チャイムが鳴ってしまった。本当のことを言うのならもう少しだけ待ってほしかった。先生の指示でクロームブックと言われるいわゆるパソコンを開く。このクロームブックで、先生の指示でテストの部分に進む。

 全員がテストを開けて、名前なども打ち終わったところで、先生がタイマーを押し、英単語のテストが一斉に始まる。問題数は全部で20問で20点満点だ。私の平均はだいたい16〜17点ぐらい。だから、8割前後はいつも正解している。

 でも、今日はなんだか少し手こずっている。多分こうなんだろうなとは思うが、なんだか少しスペルミスとかをしてる気がする。勉強の量はいつもとあまり変わらないはずなのに、出来はいつもの半分ぐらいだ。なんでだろう。なんで、できないんだろう。

 制限時間が残り一分になったところで私はテストを終了した。クロームブックでやっているから、結果はインターネットがやってくれるので、すぐに出る仕様になっている。

 私は出来が悪かったこともあり、少し心臓がバクバクしている。震えた手でスコアの部分を押した。

 ――7点。

 私は目を疑った。間違ってるのではないかと思い、どの問題が間違えてしまったのか確認したがやっぱり7点だ。今までで一番悪い点だった10点を3点も更新してしまった。10点だったときは体調があまりよくない状況で受けたものなのでしょうがない部分もあるが、今は体調が悪いわけでもないし、勉強を怠ったわけでもないのになんで……。

 この点数が私の心を苦しめた。悪い点ぐらい1回ぐらいいいじゃないと思うかもしれないけれど、私にとってはかなりのことだし、テストであまり点が取れない私にとって小テストでの低得点はかなり痛い。

 最近、私の心は満たされていたはずなのに。明日を閉じようとするのをやめようとしていたのに、人生って楽しいって思ってきた矢先なのに。

 やっぱ私は楽しむことをしちゃいけない人なんだ。この自分よりも高い学校に入ってしまったのなら、断ることができなかったのだから、私は勉強以外してはいけないんだ。

 苦しい。

 苦しい。

 この点数のことがあって後の授業は頭に全く入ってこなかった。確かに英単語の勉強時間は変わらなかったかもしれないけれど、色々と最近楽しんでしまったことで、それで頭がいっぱいになり勉強した内容が十分に入らなかったんじゃないか。……そうだ、そうに違いない。やっぱり私は楽しむことをしてはいけないんだ。きっと支配されているんだ。

 私はまた、こんな自分が嫌になり、急に明日を閉じたくなってしまった。とはいっても、唯衣花のお見舞いぐらいはやらないといけない。実行するとしても、その後なんだろう。

 だから放課後、自転車で近くのスーパーに行き、風邪の時に食べやすいプリンとかゼリー、果物を少し買った。それから、唯衣花の家へお見舞いに向かった。家の場所は聞いてはいるけれど、実際に行くのは初めてなので、少し迷ったが、なんとか唯衣花の家を見つけることができた。でも、私はもう少し時間が経ったら本当にあの時みたいに明日を閉じてしまうのだろうか。自分のことなのに自分でもよく分からない。そんな未来のことなんか。

 ――ピーンポーン。

 ちゃんと表札の名前を確認してから、インターフォンを押す。
 
 古びたトロッコ電車のように少し音が鈍い。

「はーい」
 
 少し経ってから、インターフォン越しに唯衣花のお母さんと思われる人の声がした。

「あの、唯衣花ちゃんと同じクラスの白野心葉といいます。お見舞いに来ました」

「あっ、心葉ちゃん。わざわざ唯衣花の為にありがとう。分かった。今、開けるね」

 そうお母さんらしき人が言ってから、ドアが開いた。それから、唯衣花の病気は特に人に伝染るやつではないということで、唯衣花の部屋に案内された。今の状況はさっき寝たおかげもありそこまで悪くはないそうだ。悪化してないことに安心した。

 唯衣花の部屋に入ると、毛布をかけて横になっている唯衣花の姿があった。お母さんが唯衣花、心葉ちゃんが来てくれたよと言ったところで、唯衣花が私の方を向いてくれた。確かに、学校で見たときよりも顔色はよくなっている気がする。この調子ならあと1日ぐらい寝てればよくなるんじゃなだろうか。よかった。

「あ、心葉、わざわざ来てくれてありがとう。嬉しい」

「別にそれぐらいいよ。海佳ちゃんはどうしても外せない用事があるらしくて来れなかったけど。あと、いらなかったら全然食べなくていいんだけど、食べやすいプリンとかゼリーとか、フルーツも買ってきたから、ここに置いとくね」

 私は、持っているエコバッグに入っているものを1つ1つ見せた後に、もう1回元のようにしまった。病状が悪かったら余計だったかなとも思ったけれど、この様子だと、これぐらいのものは食べられそうだ。

「ありがとう、助かる。じゃあ、お母さん、心葉が持ってきてくれたりんごを食べたいから皮を剥いてくれる?」

「分かった。ちょっと待っててね」

 唯衣花がそうお願いしていたので私はお母さんにりんごを1つ渡した。お母さんはそれを持ってキッチンの方へ向かった。りんごには様々な栄養要素が含まれているから少しでも元気になってもらえたらいい。

「ねえ、心葉、違ってたらごめんね……」

 唯衣花が私の方に少し動いてきた。なので私も唯衣花の方に寄る。そして、唯衣花が私の耳元にこう呟いた。

「――少し元気ない?」
 
「えっ?」

 私の顔色も悪いんだろうか。特に体に異常は感じられない。疲れているわけでも、どこかが痛いわけでも……。

「体というより、心がってこと……」

 私は、唯衣花の言葉にはっとさせられた。確かに、私は今、元気がないのかもしれない。また苦しくなって明日を閉じようとしているし……。そんなことを、唯衣花はいとも簡単に読み取ってしまった。

 それから唯衣花は私の心臓の部分に耳を当てた。私の心臓の音を聞いているかのようだった。ドクンドクンと立てる心臓の音を。この音から、唯衣花はどんなことを感じているのだろうか。まさか、この音だけで今の私の心が何色かを見ているんだろうか。そんなの、人間にできるはずないのに。

 でも、そんなことをばれてはいけない。自分の本当の心を知られてはいけない。まだ、知られてもいいんだとしたら、私の本当の姿を知っている汐斗くんだけだ。

「……何か、分かったの?」

 何かを感じられてたらどうしようかと少し怖かったが、私は恐る恐る唇を震わせながら唯衣花に聞いてみた。

「もちろん、分からないよ」

 マショマロとかみたいなそんな風に柔らかい声だった。じゃあ、なんでまだ私の心臓の音を聞いているんだろう。何かを吸い込むかのように。

「でも、なんかあったらいつでも言ってね」

「うん、分かった……」

 本当に唯衣花は何も分からなかったんだろうか。少しだけ何か吸いこまれた気がするのに、私の姿を何か気づかれたような気がするのに。でも、私は唯衣花には決して言うことができない悩みを抱えている。だから、今、私は嘘をついた。酷いことは承知している。でも、唯衣花には言えない。本当は言いたいのかもしれない。でも、言えない。

「できたよー」

 どうやらお母さんがりんごを切り終わったようだ。近くにあった小さな丸いテーブルに置いてくれた。それから、お母さんは部屋を出ていった。それと交差するかのように唯衣花はベッドに座り、楊枝にりんごを1つ刺して口の中に運んだ。食べている音が響く。シャリ、シャリ。ごっくん。

「うん、みずみずしくて美味しい」

「よかった」

 どうやら、りんごぐらいなら食べられるみたいだし、ただ買っただけなのに美味しいと言ってくれて素直に嬉しかった。

「楊枝もう一本あるから、心葉も少し食べてよ」

「私も?」

「うん」

「じゃあ」

 私はそう言われたので、構わずに楊枝でりんごを一つ指して口に運んだ。これが、私にとって最後の食事になるかもしれないからいつもよりもそのりんごの味を噛み締めた。普段ならここまで感じないけれど、噛みしめるとりんごの味って意外と深いんだな、甘さがゆっくりと広がっていくんだな……そう思う。

 この味に少し目から雫が出てしまいそうだったけれど、流石にここで涙を流したら怪しまれる。唯衣花なら確実に私の心を読み取ってしまう。だから、必死に我慢に我慢した。そのためか、さっきから体が小刻みに動いている。

「うん、美味しい」

 私は唯衣花に真の心を悟られないために、必死に作り笑顔を見せる。作り笑顔をするのは私はある意味特技だ。親に何度も見せてきたんだから。

「よかった。今日はお見舞いに来てくれてありがとうね。すごく嬉しかったよ」

「いいよ。唯衣花が早くよくなりますように」

「うん、早くよくなるように私も頑張るよ」

「じゃあ、私はそろそろ帰ろうかな。唯衣花の顔も見られたし」

 立私はゆっくり立ち上がる。足が少し痺れた。

「うん、気をつけて帰ってね。また明日」

「うん、そうだね……」

 私は急いで帰える準備をする。私は唯衣花にまた明日、とは言えなかった。だから、言葉を濁した。少しずるい。

 私は準備を終えると、唯衣花のお母さんにありがとうございましたを言った。すると、お見舞いに来てくれたお礼と言って、手作りクッキーを渡してくれた。だから、もう一度きちんとありがとうございますを言ってから唯衣花の家を後にした。

 少しの時間しか経っていないから、外の風景はほぼ私が唯衣花の家に入る前と同じだった。でも、私の心はそうではない。お母さんが手作りクッキーを渡してくれたのは嬉しいけれど、それはあっちの世界で食べよう。ここで食べたら、私の心が停止した理由がクッキーだと思われても困るから。他人を巻き込むことは私はしたくない。だから、この展望台みたいに様々な景色を見ることができるマンションから落ちるのも危険だ。疑いが唯衣花たちに向いても困るから。

 だから、私は場所を変えることにした。せめて、最後ぐらいはいい景色を瞳に収めてから、この人生を終えたい。この辺にはちょうどよくそんな景色がある場所があるみたいなので、自転車に再び乗ってそこに向かった。この自転車を漕いでる力は一体どこから出ているのか、私には分からない。ただ、さっきより吐く息が荒い。もう、終わるんだから何でもいいんだ……。私はそう思ってさらに漕ぐスピードを上げる。

 自転車を走らせてから少し経ったところで、その目的の場所についた。最後だからといって、疎かにすることはできない。自転車をその辺に投げ捨てると、事件に巻きこまれたのではと思われる可能性があるので、ちゃんと自転車置場にそれも、あまり人が置かない端っこに止めた。

 ここからは歩いて向かう。私に運が向いていたのか、周りから音が聞こえることはない――人がいそうにはない。

「ふーっ。ふーっ」

 私は美しい景色が見られると調べた時に書いてあった少し小高い丘のような所まで来た。私はその景色を一気に見た。

 ――はっ。

 普段なら一点しか見えない景色が、ここからキャンパスをはみ出して広がっていた。

 私の目が奪われる。

 私の瞳が大きくなる。その瞳がまるでカメラのようになって景色を映しだていく。

 きれいだ。この言葉が一番ふさわしい。

 多くが私の今見ることができている場所で今日も人生を歩んでいる。普通の日常を歩んでいる。

 でも、私はその人々の歩む街を上から見下ろしている――それが今から、現実となる。

 私にはここからもう、先の世界が見えてしまったのだ。

 ほら、この先に広がる空が私を誘導している。このどこまでも同じ色である空の道を通って私はその次の世界に行かなくてはいけないのだ。

 怖くはない。だって、体は震えてないし。

 でも、申し訳ない気持ちはある。

 仲良くしてくれた唯衣花や、海佳ちゃん。それに、私を支えてくれた、明日を見たい汐斗くん。

 もっとたくさんの人に申し訳ない気持ちがある。

 人生は自分のものだ。でも、それは決して人生を自分の好き勝手にしていいわけではないということをこの少しの期間で私は学んだはずなのに。

 そして、悔しかった。こんな自分が。こんなこと考えるようになってしまった自分が。唇を噛む。痛い。痛い。

 それに、汐斗くんはもっともっと恨まれるだろう。自分がこんな立場なのに、君はそれを見捨てるのか、約束を破るのか、僕との日々を無駄にする気かと。たぶん、葬儀に汐斗くんは来てくれないだろう。もしかしたら、唯衣花や海佳ちゃんも呆れてこないかもしれない。でも、そんなのどうだっていい。

 自分が一番いいと思える決断が、これなのだったら。もし、違うのだとしたら誰か私に答えを教えてよ。

 私は、ここから落ちるために前に進む。念のために私は周りを見渡したが、何も感じられなかった。邪魔するものはなにもない。完全に自分だけの世界だ。だから、自分のタイミングで最期を迎える。

 でも、こんな私でごめんなさい。そして、こんな私と関わってくれた人、本当にありがとう。

 自分の人生は色々あったけれど、決して意味のない人生ではなかった。それだけは、分かってほしい。 

 ――私は、今、明日を閉じるのだ。

 さようなら。