「お腹いっぱいだよ」

「2人で食べたら無事に全部なくなったな。意外と食べられるもんなんだよなー。流石に頼みすぎだろって自分も最初は思ってたけど」

「なのにあんな?」

「まあな」

 私は食べられる分だけ、自分のお腹の中にれた。最初はあんなに多くて流石に食べきれないでしょと思っていたが、2人で食べた結果、頼んだものは全て私たちのお腹の中に入ってしまった。それにどれも本当に美味しかった。でも、これらを頼んだ汐斗くん自身も最初はこんなにも食べられるとは到底思ってなかったようで、わざと頼んだとは言え、じゃあなんでこんなにも頼んだんだよと少し思ってしまった。

 だけど、この食べている時間というのは本当に不思議なものだった。例えるのならシャボン玉の中に入っている……そんな感じだろうか。いや、自分じゃない時間を過ごせたそんな感じがする。

「あのさ、満腹のところ申し訳なんだけど、ちょっとネタバラシしてもいい……?」

 ネタバラシ? 意図が分からず私は少しの間ぽかんとしてしまった。これは、なにかのドッキリだったんだろうか。例えば、奢るとか言ったけど、本当は嘘で……とか? でも、汐斗くんがそんな子供じみたドッキリをする人とは私には思えない。

「うっ、うん」

 汐斗くんがわざとらしく咳払いする。その姿、汐斗くんには似合わない。

「実は、今日誰かと遊ぶ約束してたのは嘘で、ここから少しあれな話になるけど、もう自分が抜けてるんじゃないう状態の心葉が屋上の方に向かってったから、危ないかもと思ってそのまま後をついて行ったんだ。そしたら、僕の嫌な勘が当たって、心葉が飛び降りようとしていた……だから、僕はもう何も考えることなく、そのときに出てきた方法で心葉が飛び下りるのをやめさせた。でも、一旦声をかけたところで、またやってしまうかもしれないと思ってさ、とりあえずここに連れてきたって感じ……。ごめん、なんか色々嘘ついたり、無理やりここに連れてきて。だけど、心葉を守りたかった……それだけは分かってほしい。大事なクラスメートだし、それに色々と……」

 あの時、あの言葉からギリギリバレていないと思っていたが、どうやらバレていたようだ。そして、私を助けるために、嘘をつき、少し強引にここに連れてきた。

 知っていて止められたことは分かったけれど、別に汐斗くんを恨んだり、私の計画を無駄にした嫌なやつだとか思うことはない。だって、汐斗くんなりに私のことを思ってくれた結果だし、助けたいと思ってそう行動してくれたのだから。

 だからといって、私がここで生きている価値はない。確かに、汐斗くんのクラスメートという事実は変わらない。でも、ほとんど関わったことないクラスメートなんて皆、気にするだろうか? 別に皆の表に出てもいない私一人抜けたところで、今のクラスが大きく変わるだろうか? ……私にはそうは思えない。

「そんな考えないで……僕だってなんで生きてるのって言われてもちゃんと答えは出せないけど、これからもそのままの自分で生きていきたいと思ってるし」

「……でも、いや、なんでもない……」

 なんて言えばいいのか分からない。もう、私の気持ちを知られてしまった以上、今から明日を閉じに行きますなんて言えないし、今汐斗くんが言った言葉の反論を出せるかもしれないけど、言えない。

「というか、心葉は自分の明日を閉じたいと思ってるかもしれないけど、僕は逆で、いつ閉じられるか分からない明日だから、明日を見たいんだ……」

 急に、汐斗くんは、何かさっきとはほんの少し違う口調で話した。汐斗くんは自分のことについて、明確に話したわけではない。でも、私にはなんとなく分かってしまった。いつ閉じられるか分からない明日という意味が。自分と彼が正反対の悩みを抱えているということが。 そのことが私の胸を一瞬にして締め付けた。

「――あのさ、汐斗くんそれって……」
 
 だめだ、自分の口からは聞けない。私がもし、汐斗くんのいつ閉じられるか分からない明日を持っていても、別に怖くはない。だけど、人の――明日を閉じたくない人のを聞くのは辛い。周りが見づらい。

「――僕ってさ、いつ死ぬか分からない病気なんだ」

 汐斗くんは自ら、比喩で隠していた、いつ閉じられるか分からない明日の意味を誰にでも分かるような言葉に置き換えて告白した。大体分かっていたけれど、いざその告白を受けると、なんて言っていいのか分からない。言葉が見つからない。

 頭の中が白い。何もかも考えられない。思考が停止した。目をパチパチしながらじゃないと汐斗くんの顔を見ることしかできない。

「……驚かせちゃったかな……?」

 数秒の間の後に、汐斗くんは声の大きさはまだ小さかったけれど、口調は元に戻った。私は何も言うことなく、ただゆっくりとうんとだけうなずいた。

 ――明日を閉じたい私と、明日を見たい彼。

 もっと比喩なんてなしで、分かりやすく言うのなら、

 ――死にたい私と、生きたい彼。

 私たちの置かれている立場は真反対。全く違う。何もかも違う。

 いちゃいけない関係の私たちなんだ。

「あー、でも、そんな心配しないで。いつ異変が起こるのかは分からないけど、必ず死ぬというわけじゃないし、現代の技術は進歩してるから治るかもしれないし。まあ、普通の人よりも少し、いつ死んじゃうのかなっていうぐらいだから」

 今の話を聞いて、そこまで深刻な事態にはないのはよかったと思ったけれど、でも、きっと汐斗くんはいつ空から雷が落ちてくるか分からないように、とてもとても怖いと思う。もちろん、普通の人だっていつ死ぬかなんて分からない。だけど、病気でその確率が少し高くなっている汐斗くんはそれと常に向き合わなければいけないのだから。私には到底分かりっこない怖さを持っている。

 なんで、神様はこんなにも優しい彼を病気になんて。生きたいと思う人を病気にしたんだろう。私を病気にすればよかったのに。そうすれば彼を苦しめることはなかったのに。酷いよ。おかしいよ。

 彼の事実を知ってなんだか、自分が馬鹿だと思った。自分はこういう人にとって一番嫌われるような事をしたんだなと思った。一番、心を痛めるようなことをしてしまったんだなと思った。

「ごめんなさい、生きたいと思ってる人の前で、こんなことをして。こんな姿を見せちゃって」

 私は少し泣いてしまった。少し泣きながら汐斗くんに謝った。

 ごめんなさい。

 ごめんなさい。

 ごめんなさい。

 私みたいな人がいて。

 生きたくても生きられない人がいる中で、私はその選択を自らしようとしてしまって。

 この世界に汐斗くんと同じようなものを抱えている人は多くいるはずなのに、私はその人を裏切るかのような行動をしようとしてしまった。

 多分そういう人たちにとって、私の行為は本当に憎いだろう。

 本当に嫌いだろう。

 本当に許せないものだろう。

 本当に、本当に……。

「でも、知ってるよ。心葉も辛いこと、そうするまで追い詰められてたこと」

「ごめん……」

 泣いている私に汐斗くんは優しく頭をさすってくれた。こういう私が憎くて、嫌いで、許せないはずだ。でも、彼はなぜだか私に優しくしてくれた。彼はなんでそこまで優しくしてくれるんだろう。私みたいな人をどう思ってるんだろう。こんな姿の私をどう……。確かに私は追い詰められてた。でも、それがこの世界を閉じていい理由になるわけないのに。私はただ言い訳してるだけなのに。

 汐斗くんがそうやってくれて少し経つと、私はなんとか落ち着きを取り戻すことができた。でも、汐斗くんとしっかり目を合わせることができなくなってしまった。なんか、目を見たら私はもっと、もっと……。

「とりあえず、落ち着いたみたでよかった。今から言うことを、正直に答えてほしい。僕はその答えに対して、決して怒ったりとかしないから、安心して自分の素直な気持ちを言ってほしい。今、僕の話を聞いたところで、もう自分から明日を閉じるのは絶対にやらない、やりたくないと思った?」

「正直な気持ちでいいの?」

「うん」

 ここで言う言葉として適しているのなら、汐斗くんのためにも、もう自分から明日を閉じようとなんて思わないとかだろうけど、本当の自分の気持ちを言うのなら、それは少し違うかもしれない。でも、今の気持ちは――

「今は心が落ち着いてたり、汐斗くんの話しを聞いたばかりだからこの場ですぐに明日を閉じようとなんて思わない。でも、残ってる。そういう気持ちが。何日か経ったら私みたいな人間はまた、明日を閉じようって思っちゃうかもしれない。汐斗くんみたいな人がいるのは分かってるけど、でも、自分の辛さだったりの方がいつか勝っちゃう気がする。つまり、どうすればいいのか分からない。また明日を閉じようって思っちゃう時が怖い。だから、私はごめん、汐斗くんたちみたいな明日を見る人たちを裏切ってしまうかも。どうしたらいいか分からない……それが本音」

 こんな本音を、どう汐斗くんは捉えるんだろうか。

 おかしいことしか私は言っていない。

 酷いな、私。

 どうしてこんな言葉しか言えないんだろう。この世界にはたくさんの言葉があるのに。

「……うん、君の気持ちは分かった。僕はそれについて、特に何か否定したりはしないよ」

 汐斗くん以外の明日を見る人にこんなことを言ったら本当に怒られるだろう。でも、汐斗くんは何も怒らかなった上に、何も否定しなかった。私の本当の気持ちに何も釘をささなかった。ただ、私の気持ちを理解してくれただけだった。

「でも、心の中では怒ってるよね……?」

 それを聞くのは怖いなと思いながらも、本心を確かめるために少し勇気を絞って汐斗くんにそう聞く。

「そんなの分からないよ。でも、一つ心葉に言いたいことがある。それはある意味約束でもあるかな。小指出してくれる?」

「うん……」

 私は汐斗くんに促されて小指を出した。

「僕は別に君に自分から明日を閉じるようなことはするなって言わない。でも、1ヶ月だけは待ってほしい。その1ヶ月の間に、僕は君にあげられるものはできるだけあげる。楽しいも、嬉しいも……。だけどもし、その1ヶ月で君の気持ちが変わらなかったんだとしたら、自由にしていい。そう、約束してほしい」

 1ヶ月だけ待ってくれたら、その後は明日を閉じようが、閉じることをやめようが好きにしていいと汐斗くんは言ってくれた。その汐斗くんが作ってくれる一ヶ月で変われるものなら、変わりたい。でも、私が変わることはできるのか……そういう不安がどうしてもある。

「うん、約束する。でも、こんな私だから変われなかったとしても許してほしい。だけど、変われるようになりたい」

「うん、僕もできるだけ頑張るから」
 
 私はこの瞬間、汐斗くんが私の人生を作ってくれる架け橋のように見えてしまった。出した小指で指切りげんまをした。汐斗くんの体温が温かい。
 
「でも今日はとりあえず、まだ気持ちが不安定な部分があると思うから、またああいう行為に走るかもしれないし、うちに来る? 実質一人暮らしみたいな感じでしょ。もちろん、これは全然断ってくれてもいいやつ」

「でも、迷惑じゃない?」

「あっ、うちは全然迷惑じゃないから、そこら辺は気にしなくていいよ。むしろうちのお母さん、誰か来ると喜ぶし」

「……たしかに、今日は心が不安定かもしれないから、迷惑じゃないならお邪魔しようかな……」

 たしかにと思い、私は汐斗くんの誘いに乗った。

「おう。じゃあ、食べ終わったことだし、そろそろ出るか」

 時計を見たけれど、もうかなりの時間私たちはここのカフェに居座っていたんだなと感じるほど過ぎていた。周りを見渡してみても、最初お店に入ったときにいたお客さんからは様子が変わっていた。

 席を立ち、会計する。ここのカフェ代は私は割り勘でいいよと言ったけれど、最初に汐斗くんが言ってくれた通り、全額汐斗くんが払ってしまった(全部で何円したのかは見せてくれなかった)。

 汐斗くんの家はどうやら高校最寄りの駅から3駅ほど行ったところにあるそうだ。なのでまずは駅に向かった。

 というか、男子の家に行くの初めてじゃん! ということを電車に乗ってから急に気づき少し顔を赤くしていると、それを悟ったのかどうなのかは分からないけれど、3つ年上のお姉ちゃん(大学生)がいると教えてくれた。その他にも汐斗くんの家にはお父さんお母さんに加え、おばあちゃんと、おじいちゃんも一緒に暮らしているいわゆる拡大家族世帯らしい。

 汐斗くんの家の最寄りの駅に着くと、近くの薬局とコンビニで少し必要なものを買った。近くのスーパーで手土産的なものも買おうとしたけれども、そこまでしなくていいよと断られてしまった。

「お邪魔します」

「ただいま」

 汐斗くんが家の鍵を開け、私は汐斗くんに続いて家の中に入る。そこは、一言で言うなら少し古民家カフェ風のおしゃれな家だった。少し汚れが目立つところもあるけれど、私は全然嫌な感じじゃない。むしろこういうのはなんか言葉で言い表せないけれど好きだ。というか、誰かの家に遊びに来た(今回は泊まりだけど)のは何年ぶりだろうか。中学1年の頃に仲のよかった友達とクリスマスのパーティーをした時以来だと思う。
 
「あー、お母さん。お客さん。今日泊まっていくけどいい?」

 この古風な感じとは少し離れた色の洋服を着ていた汐斗くんのお母さんと思われる人が、顔を出した。私は反射的にペコリと挨拶する。汐斗くんと同じで優しそうな人だ。

「泊まるのは全然いいけど、どういう関係の方?」

 泊まることについては何も迷うことなく了承してくれたのでよかったけど、確かに親ならどういう関係で私をここに連れてきたか気になるだろう。ただ、私たちは親友というほど仲がいいわけじゃないし、ましてや恋人とかそういうものでもない。汐斗くんのことだから、私のことを明日を閉じようとしてて心が不安定だから連れてきたとかは言わないだろう。でも、汐斗くんもそれについては考えてなかったのか、一瞬、少し悩んだ顔をしていた。

「あー、なんか学校で課題が出てるんだけど、それが終わりそうにないからどっちかの家でやろうってことになって……。で、なんか彼女の家は親が出張中らしく誰もいみたいだからこっちに連れてきた」

 嘘と事実を混ぜて汐斗くんはそう言った。嘘というのは学校の課題が出てるという部分だ。

 ただ汐斗くんが彼女と言った部分にキュンとしてしまった。もちろん、三人称の意味で彼女と言ったのは分かっているけれど、そうなってしまったようだ。というか、男子は彼と言えるので、彼氏という言葉と区別がつくけど、女子の場合彼女と彼女の区別がつきづらいから少しやめてほしい。

「そうなの。もし親御さんが家にいるなら……とは思ってたけど、そうなんだね。まあ、うちは狭くて少し汚いけど、ゆっくりしていって」

「ありがとうございます」

「ちなみに、名前は何って言うの?」

「……白野心葉って言います」

「あら、素敵で可愛い名前じゃん。まあ、とりあえずあがって、あがって!」

 汐斗くんのお母さんに促されて、私は靴を脱いで家の中に上がった。汐斗くんはとりあえず自分の部屋に連れて行くからと言って、階段を上がっていった。それに私は着いて行く。

 というか、今、少しだけ心の中がオレンジ色に光ってるのかもしれない。その原因は、汐斗くんのお母さんに私の名前が、素敵で可愛いと言われたから。相手からしてみればたったそれだけのことしか言ってないとか思うのかもしれないけれど、私にとってはそれがかなり嬉しい。

 今では私をある意味で苦しめているお母さんだけれど、私はお母さんが嫌いなわけじゃない。むしろ、こんな私のために色々頑張ってくれて、尽くしてくれて、大好きなお母さんだ。そして、私は今までお母さんから小さい頃はパズルだとか、絵本だとか、大きくなっても望遠鏡だとか……色々なプレゼントをもらってきたが、私が今までもらったプレゼントの中で一番嬉しかったのは自分の名前だ。この、心葉という名前。私はこの名前が大好きだ。普通なら生まれてくる子供に付ける名前を決めるのは時間がかかるけれど、お母さんは事前には何も決めずに、生まれてきた時に感じ取った空気や想いだけで名前を決めようと、お父さんと相談したみたいだ。漢字すらも決めずに生まれてきた私を見て、すぐに心葉という名前をプレゼントしてくれた。

 ――その時、お母さんは名前という一生消えることのないものを私にプレゼントしてくれた。

「どうした? 少し、顔、赤くなってない?」

「いや、何でもない」

 私はどうやら顔までも赤くなってしまったようだ。私はとっさにそう言う。

 汐斗くんの部屋に入ると、汐斗くんは座われるスペースをもっと確保するために邪魔なものを端に避けたり勉強机の上に置いた。だからといってものが散乱してるとかそういうことではなく、あくまでものが多いので収納スペースが足りていなくて色んなところに置かれている感じだ。汐斗くんが適当に座ってと言ってくれたので、私は遠慮なく本棚の近くに座った。誰かの家ってやっぱり新鮮な感じがする。でも、新鮮すぎるからなのか、私はさっきから小刻みに体を揺らしている。何か話したほうが、落ち着くかもと思い汐斗くんの部屋を見回して話になるような話題を探す。

「やっぱり、汐斗くんの部屋って工芸関係の本が多いんだね」

 私が話題になりそうだなと思ったのは、本棚の中にあった工芸関係の本だった。さっきカフェで工芸について少し話したのを思い出したのだ。この本棚の中に工芸関係の本が何十冊……下手したらそれ関連で100冊以上はあるんじゃないだろうか。

「あー、うん。まあお小遣いはだいたいそれに費やしてるかな。将来、工芸に携わることをしたい――これが僕の初めて叶えたいと思った夢だから、無理かもしれないけど、この夢に少しでも近づきたいんだよね」

 やっぱりすごいな……そう感じてしまう。部屋をもう一度見渡してみても、汐斗くんが作ったであろう名前は何ていうのか分からないものも多いけど、工芸作品やそれを作るのに必要な機械がいたるところに置かれている。もちろん、完成している作品だけでなく、まだ作り途中の作品も置かれていた。それほど汐斗くんは夢を叶えたいという想いが強いんだろうなってことが自然と伝わってくる。この感情は尊敬……で正しいんだろうか。

「心葉は離したくないぐらい夢中なものはないの?」

「んー、今はないかな。昔はあったけど、色々あってやめちゃったんだ。だから、本当に汐斗くんがすごいと思ってる」

「いや、そんな褒めないでよー!」

 汐斗くんは素直に喜んでいた。そういう人、私は好きだ。素直な人。真っ直ぐな人。

 私もかつては、汐斗くんほどではなかったかもしれないけれど、離したくないぐらいに夢中になっていたものはあったけど、色々あってやめてしまったので今は特にそういうのはない。なくなってしまったが正しいかもしれない。

「今も色々何個か並行して作ってるんだけど、これから、染め物もしようかと思ってるんだよね」

「染め物? 私も幼稚園の時やったかも!」

「一応、僕も。でも、今回のは高校生というか職人の染め物? って感じにしたいなと。色々平行でやってるから時間はかかるかもしれないけど、できたら見てほしいな」

 普通ならここで私はうんと答えるべきだろう。でも、私はそう答えるのを何かに拒否されてしまったのか、答えられなかった。たぶん、私がその染め物が完成するまでいるのか――いや、自分の意志で生きているのかが不安になったからだろう。だから、うんといえば小さな約束をしたことになってしまう。私がその約束を守れる保証はどこにもない。

「なんか、心理学系の本も多いんだね」

 なので、私は汐斗くんには少し悪いけれど、話しを別のものにした。本棚の中には大半は工芸関係のもので占められていたけれど、心理学系の本も少し多くあった。だから、次にそれを話題に出してみた。

「お姉ちゃんが大学で心理学を勉強してるから、それを少しかじってみてるって感じかな。お姉ちゃんはたしか、将来、児童相談所の職員になりたいとか言ってた気がする」

 そうなんだ。汐斗くんのお姉さんは心理学系の勉強をしているのか。そして、将来は児童相談所の職員になりたいのか。私には、そんな未来のことなんて考える力なんてなく、その未来を自分から閉じようとしているのに、汐斗くんや汐斗くんのお姉さん含めて多くの人はその未来を描いているのか……。それをどう考えればいいのか難しい。自分に置き換えるのが難しい。

「まあ、僕は読んでもあんまり理解できないことが多いけど。というか、さっきから本について話してくるけど、心葉は本が好きなの?」

「うん、そうかも……。本は好きだったかな。特に小説が。今は勉強しなきゃいけないから本なんて読む時間はないけど、今も読んだら本の世界に入っちゃうと思う。さっき言った話したくないぐらい好きだったものはまた別なんだけど、私、中学は文芸部だったんだ」

 今は部活には入っていないけど、中学の時はいくつか部活に入っていて文芸部にも所属していた。そこで小説を各自で書いたり、お互いに好きな本を紹介したり、リレー小説といってお互いが書いた文を繋げていくものをやったりしていた。

 なんか、物語は自分の世界に入ることができて、その世界に入ることで色々な大切なものを得ることができて好きだった。

 どんな感情のときも物語は私の心を掴んでくれた。受け止めてくれたのだ。

「へー。僕も好きだよ。まあ、この本棚、工芸関連と心理学関係で9割近く埋まっちゃってるから小説とかはあまり置いてないけど……。まあ、でも少しなら」

「これとか、小説だね」

 私は本棚にあった小説を差した。汐斗くんはうんとうなずく。

 汐斗くんも本が好きなのか。どうやらこれは、仲間……なんだろうか。少しだけ親近感、が……。