「荒木さん? 何を言ってるの……」
真姫は信じられないといった表情で、頭を下げた荒木を見る。彼女は震えながら立っていた。
「分かっている。これが身勝手なお願いということぐらい。だけど俺はもう疲れたんだ。生きるのに疲れた。もう崩壊病について、星の使徒について、お前達について何も考えたくない。最初はどんな目に遭わせてやろうかと考えてこの村まで来たが、仲睦ましそうに、幸せそうに歩いているお前達を見て、俺の中で何かが崩れていった。俺から何もかも奪っておいて、そんな幸せな顔が出来るのかって」
やつれた顔の荒木は、徐々に人間らしさを取り戻していくような気がした。話ながら、元の彼に戻っていくような感覚。
「そういう負の感情と共に、お前達にはなんとか逃げおおせて欲しいという気持ちも芽生えた。矛盾しているだろう? だけどこれが俺の本当の気持ちだ」
「だったらどうして、荒木さんが死ななくちゃいけないんですか!」
真姫は珍しく怒鳴る。久しぶりに本気で怒っているのを見た。
彼女からしたら許せないのだろう。その生きるという行為すらも、大きな代償を払わなくてはいけなかった彼女からしたら、殺してくれなんてもってのほかだ。
「確かに私達が荒木さんの全てを奪ったかもしれない! それは分かってる。だけどそれと、荒木さんを私達が殺すのは全くの別の話! 死ぬなら勝手に一人で死んでください! でも、選べるなら、生死を選べるのなら、可能な限り生きてください! 私達には平凡に生きる権利すら無かったんです!」
真姫は言うだけ言って深呼吸をする。言われた荒木はそのまんま黙ってしまった。
真姫の言葉は強烈だったが、それが間違っているとは思えない。俺達側からしたら真姫の言っていることが全てだし、荒木側からしたら、彼が言っていることが全てなのだろう。
正解はない。そもそもどっちに転んでも被害者が存在している時点で、正解も不正解もない。あるのは視点の違いだけだ。
「荒木さん。貴方の言いたいことも、貴方の気持ちも良く分かるし、理解も出来る。でもどうして死ななくちゃいけないんだ? 俺達に逃げおおせて欲しいという願いと、荒木さんの死が繋がらない」
少し冷静さを取り戻した荒木に、俺はそう語りかける。このまま彼を殺すわけにもいかないが、勝手に死なれたらそれはそれで寝覚めが悪い。
「ああ。冷静に考えてみればそうなのかもしれないな。だけど俺は怖くなったんだ。お前達が捕まって、国民の、人類の敵にされるのを見るのが。殺されるのが。今はまだなんとか平穏を保ててはいるが、いずれそれも無くなる。これ以上のペースで崩壊病が広まれば、星の使徒の情報以上のものを、国民は欲しがる。原因は? というところにまで話が進む。そういう国民の圧力が高まった時、国はお前達を晒すだろう。俺はそれが見たくない。だから死のうと思ったのかもしれない。無茶苦茶なのは理解しているが、理性と感情は別なんだ」
つまり荒木は、捕まって人類の敵として処分される俺達を見たくないから死にたいと? 本人も自分で言っているが、随分とふざけた理由だ。納得なんて出来るわけがない。だけど……そうか。
俺達の安否を気にしてくれる人間が、一人でも残っていたんだな。
「荒木さん。俺達はこの村を出るよ。そして誰にも見つからない遠くでひっそりと暮らす。もうこの文明社会の中に、俺と真姫の居場所は無いということは分かった。荒木さんの言う通り、いずれ国も本気で俺達を探し始める。だからその前に、俺と真姫は別のところで生き延びる。だからもう二度と会うこともない」
「一体どこに逃げるつもりだ? そんな場所、この世界のどこにも……」
荒木は信じられないものを見るような目で俺を見る。
「今は分からない。だけど逃げ続けるさ。最悪追いつかれたら、俺達は自衛のために人を殺すかもしれない。それを避けるためにも俺達は逃げ切る。逃げおおせる。だから、もう二度と会わないということは、荒木さんが俺達の死に際を見る事もない。だから生きてくれ」
俺はそう言って荒木に手を差し出す。いろいろあったが、最後の最後になって俺達の心配をしてくれたのは結局彼だったのだ。彼には死なずに生き延びて欲しい。決して自殺なんてしないで欲しい。これは俺達の本心だ。
「だから……俺達はもう行くよ」
俺と真姫は最低限の荷物だけ持ち、荒木一人を残して家を出る。部屋の中で立ち尽くす荒木は、何ともいえない表情のまま、ただ立ち尽くしていた。俺はそんな彼を一度だけ振り返り、軽く頭を下げてそのまま玄関のドアを閉めた。
「どっか遠くに行こう」
俺は隣を歩く真姫に声をかける。
「うん。とりあえずここから離れよう。他の捜索隊が荒木さんを探してここまで来るかもしれないしね」
浮かない顔をした真姫を隣に座らせ、車のエンジンをかける。この村の近くで購入した軽自動車は、ここぞとばかりにエンジン音を響かせる。田舎の移動には車は必須だと真姫が言っていたが、その理由がよく分かった。
田舎の生活は勿論、逃亡生活にも必須だろう。
俺はいつもより若干スピードを上げて走りだす。向かう先は特に決めていない。携帯の地図も見ない。カーナビも見ない。気ままに田舎道を突き進む。この国の何処にも隠れられそうな場所が無いことは分かっている。
だけど上手くいけば逃げられるかもしれない。海外に逃げるという手もあるが、空港で捕まってしまうのがオチだろう。
「どうする?」
「とにかく南に行きましょう?」
真姫が指し示す方角に向けて、俺達は当てのない旅に出るのだった。
俺達が南に向けて車を走らせて六時間。周囲にほとんど人工物がないほどの自然の中に来ていた。唯一の人工物が、この車が走っている道路だけだ。それ以外には本当に何もない。まさか日本にそんなところがあるとは、思ってもみなかった。
やがて舗装もされなくなった道はどんどん細くなり、道の左右には反比例するように立派な木々がそびえ立つ。水の流れる音で、近くに小川があることを知る。ここまで来ると空気も美味しく感じられた。
「ずいぶん遠くに来たね」
真姫は心なしか嬉しそうに俺の顔を見つめながら口にした。
「そうだな。人なんて俺達ぐらいだろ?」
俺達が逃げると決めた時、選択肢は二つあった。
逃げる先を人がいない今のような自然の中に逃げるか、木を隠すなら森の中という言葉通り、人である俺達が隠れるなら、いっそのこと都会の人ごみの中に隠れるかというものだ。
きっとどっちを選んでも大差ないと思った。都会の中にいた方が生活は便利だろうし、あれだけの人ごみの中なら変装すればそうそう見つからないとは思う。
制星教会の連中があの端末で星の使徒の信号を頼りに俺達を探したとしても、大量に人が歩き回る雑踏から俺達をピンポイントで判別するのは至難の業だ。
そして今回のように自然の中、つまり文明から離れたところに行けば、生活は不便になるがそもそも制星教会の隊員は存在しない。彼らは人を崩壊病から守るのが仕事だ。人がいない山奥などには決していない。
遠すぎれば、俺達が発しているという星の使徒と同じ反応も彼ら端末には届かない。
どっちでも良かった。一長一短だ。そのどちらを選んでも、制星教会や国が本気で俺達を捕まえようと思えば、どうせ逃げられないのだ。
それでも俺達はこっちを選んだ。自然の中で静かに過ごすことを選んだ。理由は何だっただろう? たぶん疲れていたんだ。人と接することに疲れていた。ニュースを聞いたり人と話したり、バレないように変装したり。それに耐えられそうに無かったからこっちを選んだ。後悔なんてない。
「…………」
俺達はそれから無言で山道を走り続けた。俺も彼女も胸中はごちゃごちゃだ。そうして走り続けていると、小汚いトンネルが見えてきた。
「こんなところにトンネル?」
真姫は不思議そうに窓から身を乗り出して、トンネルを凝視する。
もう道はない。ここは完全に自然の中。こんなところにトンネルなんて掘る意味がない。
「通る?」
真姫は嫌な顔をして俺を見る。
「でも先に行くにはここを抜けるしかない。ちょっと不気味だけど……」
「ねえ暮人……トンネルを抜けるのは良いけど、手を握ってても良いかな?」
そう言って真姫は俺の左手を握る。
「俺に片手で運転しろと?」
「別に出来るでしょう? ここには誰もいない。道路もないんだから、交通ルールなんて無視でいいでしょう?」
確かに今さら俺達がルールだ危険だなんて言うのは違う気がする。
「分かったよ。だけどトンネルも狭いからゆっくり行くぞ。スピード出すと片手で制御できないからな」
俺はアクセルをゆっくり踏む。車はのろのろとトンネルに向かって進み始める。車のエンジン音が狭いトンネル内に反響する。
本当に車一台が限度の大きさだ。造りは岩で出来ていて、どことなく自然の洞窟を思わせるが、一定の間隔に設置された薄暗い照明が、ここが人工のトンネルだと教えてくれていた。
トンネルの内部は、岩の亀裂から滴る水滴がポツポツと地面に当たり続け、水たまりが随所に作られていた。今は夏のはずなのに、このトンネル内は妙に涼しく、冷たかった。何か内臓ごと冷やされたような感覚。
「なあ真姫」
「どうしたの暮人?」
「なんか説明出来ないんだけど、このトンネル大丈夫かな?」
俺は不意に不安に感じた。なぜかは分からないけれど、このまま進んでしまって大丈夫なのかと思ってしまった。
「大丈夫って崩落とかってこと? 結構古そうだからちょっと怖いけど、地震とか来なければ大丈夫じゃない?」
俺は真姫の答えにモヤモヤしながらも、前進し続けた。
確証はないが、俺が心配しているのは崩落とかそういった事柄では無いと思う。そういう具体的な事ではなく、もっと漠然とした不安だった。このまま死んでしまうのではないかという、説明できない不安。もっと本能レベルの恐怖。
「そろそろ抜けるぞ」
俺は自身の正体不明の恐怖心を押さえつけ、出口を目指した。ドンドン気温が下がっていくのを感じる。それは真姫も同じらしく、体をさすっている。
「なんだ……ここ?」
俺達は無事にトンネルを抜けたはずだった。そのはずだった。俺達は自然しかない山奥の古びた怪しいトンネルをくぐったはずなのに、その抜けた先はどうだ? 目の前には小さな神社があるだけ。しかも廃墟と言っていい。賽銭箱からはツタが生え、神社そのものも老朽化が進んでいるのか、所々崩れている。
「なんか寒くない?」
真姫はお寺を見て驚きながらも、今現在の最大の疑問を口にする。
そうだ。寒い。今は夏のはずなのに、体感十一月ぐらいの寒さだ。車から降りて上を見上げると、空は雲なのか塵なのかよく分からないものが太陽光を塞いでしまっている。だから寒いのか?
「戻るか?」
そう言って振り向いた先には、トンネルはすでに存在せず、ただの岩壁となっている。
「え!? どういうこと?」
真姫は軽いパニックになる。
「俺達トンネルを抜けて来たよな?」
「うん。そのはず……なんで消えてるの?」
俺達は岩壁の前で呆然と立ち尽くす。一体ここはどこだろう?
俺は真姫を連れて、トンネルがあったはずの岩壁の反対側へと向かう。崩壊した神社を横目に進んでいき、小ぶりな鳥居を潜ると、その先は下が見えないほどの、急勾配で長い階段になっていた。
「どうする?」
「どうするったって……」
後ろは岩壁、左右は森林。このままここに滞在していても死ぬだけだ。とにかくここが何処なのかを把握しないといけない。
「車とはここでお別れだな」
「そうね……とりあえず降りてみよう」
俺と真姫はお互いの顔を見て頷き、手を握りながらゆっくりと階段を下り始めた。
「なんだよ、あれ……」
俺達が階段を降りていると、遠くに巨大なキノコ雲が発生していた。その大きさは、距離があるので確かなことは言えないが、小さな集落一つくらいなら簡単に飲み込んでしまいそうな規模だった。
「あれってキノコ雲?」
「そうだな。でもキノコ雲って……」
キノコ雲が発生する条件は爆発だ。そう爆発。この階段の上に神社があったことから、ここが日本であることは間違いないだろう。ということは、日本でキノコ雲が発生するほどの爆発がおきていることになる。
「見て!」
真姫が指さしたその先に、再びキノコ雲が発生していた。それとともに衝撃波がこちらまで伝わってくる。
間違いない。
ここは俺達の知っている日本ではない。これはしっかりと調べないといけない。そのためにも近くの街に行って、情報を得なくちゃ!
「真姫、危険だけど近くの街に行くぞ! 調べないと、ここがどこだかも分からない」
「うん! 急ごう!」
真姫はハッキリ頷くと、俺と手をつないで階段を一気に駆け下りた。
階段を降りると、意外にも目の前には住宅地が広がっていた。しかし人の気配はほとんどしない。活気が無いというより、そもそも人の気配が無いのだ。
「絶対手を離すなよ」
俺は真姫の手をいっそう強く握り、慎重に住宅地の中へと歩き出す。
おかしい。どう考えたっておかしい。トンネルを潜ったら、急に神社に出ていて、通ってきたトンネルが消えているのもおかしいし、何より遠くで今も発生しているキノコ雲……この住宅地のひとけの無さ。
絶対に普通ではない。まだ星の使徒が作り出した空間だと言われた方がしっくりくる。
「あれって掲示板?」
真姫が発見したのは、田舎の町にはたいてい一つは存在しているあの緑色の掲示板。ちょうど二股に分かれた道の中央の角に設置されている。
「ちょっと見てみようか」
俺はそう言って掲示板に近寄る。
もうこの街に人がいないのは間違いないだろう。
建ち並ぶ家々の外壁には亀裂が走り、庭がある家の敷地内は、雑草が伸び放題になっていて、足元の舗装された道路には、ひびが入っている。
とても人が住める状態じゃないだろう。打ち捨てられた街……そういう表現がピッタリだった。
「これか……」
俺達が掲示板を見渡すと、いかにも俺達が今求めている情報が貼り付けられていた。
そこには経年劣化で変色した貼り紙がいくつも貼ってあったが、特に俺達の興味を引いたのは、ある一枚の記事だった。そこには……。
「崩壊病の原因となった変異種の発生について?」
俺と真姫は、黙ったままその貼り紙を読みだした。
二〇八十年四月二十二日、世界は戦争を始める。理由は発生頻度が多くなってきた崩壊病の原因とされる、変異種の人間たちがその数を増やし始めたからだ。彼らを全員殺すべきと主張する側と、彼らを殺すのではなく、別の道を模索するべきだと主張する側に別れて、世界規模の戦争、第三次世界大戦が勃発した。
貼り紙の内容は、簡単に纏めればそういうものだった。
「二〇八十年? 戦争?」
力が抜けた真姫は、その場に座り込んでしまった。
俺達がいたのは二〇二〇年。そしてあの変色した貼り紙の時点では、六十年後。あの貼り紙だって今の様子から見ると、かなり昔のものだから今は何年だろう? 二一〇〇年は過ぎているかもしれない。そうなると、ここはほぼ百年後の世界ということになる。それも戦争だ。貼り紙によると、変異種の数が増えていったと書かれていることから、俺達が選択を迫られたタイミングとは状況がだいぶ異なっているように思えた。
あの貼り紙を信じるなら、変異種が圧倒的に増えたのだ。そうして当然、彼らも自身の生存を望む選択をしたのだろう。その結果がこの崩壊した世界……遠くで爆発が起こっているということは、今だ人類は存在しているが愚かにも争い続けているという事なのだ。
「関わるべきでは無いのかも知れないな」
俺は一人そう呟くと、座り込んだ真姫を精一杯抱きしめた。
「どうしたの? 暮人?」
真姫は突然の抱擁に驚きながらもしっかりと俺を受け止め、背中をさすってくれた。
俺達が今いるのはおよそ百年後の未来。どうして未来に来たのかは分からない。もしかしたら変異種の新たな能力なのかも知れないし、星の使徒が俺達を未来に飛ばしたのかも知れない。
ただ一つ言えることは、俺達の選択した果てにこの未来がやって来たのだ。全てが俺達のせいというのは、いささか傲慢が過ぎるかもしれないが、結果としてはこの通り、人類は崩壊している。
「真姫、俺達は二人で生きていくしかなさそうだね」
「うん。でも私は嬉しいよ? 暮人と一緒なら何も不安はないから」
真姫はそう言って俺の頭を優しく撫でる。
恥ずかしいようで嬉しいようで、それでいてホッとしている自分がいた。
俺達はこの未来の世界で生き延びなければならない。遠くに見えるキノコ雲、爆発と争いの象徴。俺達のすべきことは、この時代の人達とは一切の関係を断ち、二人で慎ましく生きること。
空を見上げれば、日差しは届かない。爆発で巻き上げられた粉塵が雲のように上空に漂い、日光をカーテンのように遮断している。
「とにかくここから離れよう」
「うん!」
俺達は立ち上がって、回れ右をする。街には用はない。人と出会わない生き方を、二人だけで生きていく。そしてふと気がついたことがある。この未来の世界では人口はかなり減っているはずだ。そうであれば俺達が生き続けて星の寿命を吸い続けても、誰も崩壊病にならなくて済む。
なんとなく未来に来た理由が分かった。俺達が無意識に未来へ逃げたのか、それともあの星の使徒がこっそり未来へ俺達を飛ばしたのかは分からないが、どちらでも構わない。この時代、この環境なら、俺達は気兼ねなく呼吸ができる。生きていける。ここはそういう場所だ。
この時代なら、俺たちが生きているせいで死んでいく命は無い。俺達は何も罪悪感を感じることなく穏やかに暮らせる。
「ねえ暮人」
「うん?」
「この時代に来たのは誰の仕業だろうね?」
真姫は街を離れたひとけの無い通りのベンチに座って、そう俺に問いかけた。
「さあね? 現代を生きるのに限界を感じていた俺かも知れないし、同じように思った真姫かも知れないし、それか俺達を憐れに思った星の使徒の仕業かも知れない。結局答えは分からず仕舞いだろうな」
俺はそう答えた。そう答えるしかなかった。真姫だって分かっていたはずだ。この問いかけに答えなんて無いということを。
「休憩もそこそこにして、そろそろ行かないか? 俺達だけで暮らしていくんだ。せっかくだから良い場所を探さないと」
「うん、そうしよう!」
真姫は元気にベンチから立ち上がる。
俺と真姫は一つだけ、暮らす場所の条件を決めていた。なんてことはない。青空が見える場所で穏やかに暮らそうと決めていた。今空を見上げれば、爆発によって発生した塵が太陽光を遮ってしまっている。
普通の小競り合いで起きるようなものではない。この地域でも戦争の影響が強いのは明らかだ。だから俺達はこの場を離れる。人から離れれば罪悪感を憶えなくて済む。しかし上を見上げれば、空をこんなにしてしまった原因が自分たちにあると思うとやりきれない。だから俺達は青空を目指すのだ。
「おや君達……見慣れない格好だな。どこのシェルターの者だ?」
俺達がベンチを出発してから二、三時間程歩き続けた時、もうすぐ雑木林にぶつかるといったところで、自転車に乗った軍服を着た男に声をかけられた。
ぱっと見五十代ぐらいだろうか? 顔に刻まれた皺がそれ以上の年齢に感じさせるが、声の感じや仕草からしてそのあたりだろう。
「いえ、俺達は……」
なんとか言い繕うつもりだったが、上手くいかない。
何処に行く気だ? とか聞いてくれれば適当に答えるつもりだったのに、いきなり所属しているシェルターを聞かれるとか無理すぎる。
「なんだ? 忘れちまったのか? まあ仕方ないか。この長い長い戦争で、頭がおかしくなった奴も多くいるからな。ちょっと待ってろ。日が沈んだ頃になら俺も任務が終わる。そうしたら一緒に探してやるから」
軍服を着た面倒見の良さそうなおっさんは、そう言い残して、俺達がやって来た方角へ向かって行った。
「今のうちに行きましょう?」
俺は真姫の提案に乗り、雑木林の中に入っていく。
それにしてもまだ人がいるんだな……正直驚いた。確かに遠くでキノコ雲が発生していたのだから、人がいるのは当たり前なのだが、なんというか自転車に乗った人間を見ると少しホッとした。
あのおっさんの言い方だと、一般人はシェルターの中で生活しているようだが、ここまで歩いてきてそれっぽい建物を見ていないということは、おそらく地下に造られているのだろう。
「それにしても泥が凄いのね」
真姫は足元に注意を払う。
泥や自転車や木を見て、少し心が軽くなっている自分に気がつく。少し精神的に参っているのかも知れない。
だけど俺は一人じゃない。俺には真姫がいる。突然未来に飛ばされて、それがほとんど崩壊した世界で、普通なら恐怖と不安で押しつぶされてしまいそうなのに、俺はどこかワクワクしている。
それは真姫という絶対的なパートナーが一緒だからだろう。彼女の存在が、俺を俺として成立させてくれているのだ。
「そろそろ日が落ちるな」
俺は空を見上げる。
「そうね……でもまだ星空は見えないね」
真姫は残念そうに呟く。
そして雑木林を抜けた先、道が二つに分かれていた。分かれ道の中央に古い標識があり、そこにはそれぞれの道の行き先が書かれている。
向かって右側には岬町と書いてあった。
岬町……俺と真姫が育った街。俺と真姫が出会って、様々な人達を失った街。そして以前に星の使徒が、未来の崩壊した世界の代表として、俺達を揺さぶるために見せた街。
今、あの街はどうなっているのだろう? 人はいるのだろうか? それともあの星の使徒が未来の岬町と言って見せたように、人っ子一人いないゴーストタウンになってしまっているのか。
「真姫……」
「行ってみようよ」
「え!?」
「行ってみよう? 私達には見る権利もあれば、見る義務だってあるよ」
真姫は力強く俺の背中を押す。迷っていた俺の背中を押す。俺の体を右の道へと歩ませる。ほらね、やっぱり彼女には敵わない。真姫は強いのだ。
俺と真姫は日が沈んだ暗闇の中、お互いの手を繋ぎながら未来の岬町に向って歩き続ける。崩壊したこの世界に街灯なんてものはなく、外を出歩く人間もいない。今俺達を照らすのは、自然の光。月明りや星の光、蛍の光。
「光が届いてる?」
「本当だ!」
俺の呟きに真姫が反応する。
気づけば空を覆う塵は霧散し、月明かりが届いていた。
どうやら岬町周辺は塵が無いらしい。岬町の周辺がたまたま塵が舞っていないのか、それともさっきまで俺達がいた場所が、珍しく塵に見舞われていたのかは分からない。分からないけれど、とにかく俺達の求める空がここにはあった。
「良かったな!」
「うん!」
俺と真姫は久しぶりに見た空に心をときめかせながら、岬町を目指した。
俺達は月明かりの中黙々と岬町を目指す。過去、俺達が暮らしていた岬町の周辺は、自然に囲まれていた。栄えているのは岬町の中心部くらいで、少し外れれば、意外にのんびりとした田園が広がっていた。
そして今俺達が歩いている未来の岬町周辺は、当時よりも自然の割合が増しているように思えた。
道はアスファルトで舗装されてはいるが、道の白線は薄れてほとんど見えず、所々隆起していて、全くもって平らじゃない。
「やっぱり未来なんだな」
「改まってどうしたの?」
「なんとなくさ、あちこちにガタが来てる道や建造物を見ると、余計にそう思うんだ」
俺はそれを最後に口を結ぶ。
岬町に着くまで俺も真姫も喋らない。道中誰ともすれ違わなかった。もう暗いとは言え、寝静まるような時間じゃない。それでも人影は皆無だった。
「これがあのビルか……」
俺達は記憶を頼りに、この崩壊した岬町の中をさ迷っていた。当然人など存在せず、明かりも無ければ音もしない。アスファルトやビルのコンクリートの隙間から新芽が顔をだし、新たな命の始まりを告げている。まるでお前たち人間の時代は終わったのだと言いたげだ。
そうして俺達は今、制星教会のビルの前に立っていた。別にこの場所を目指していたわけじゃない。ただ、この町でもっとも足繁く通っていたこの場所に自然と引っ張られていたような気がする。
懐かしさと虚しさと一抹の寂しさと。制星教会の前に立った俺の心の中に、様々な感情が去来する。中で濁って、やがて溶けていく。
それは隣にいる真姫も同じのようで、制星教会のビルを見上げながらその瞳を潤ませていた。
「もうこの街には誰もいないのかな?」
真姫はそう言って俺を見る。潤んだ瞳を俺に向ける。
「そんなこと……」
分かっているだろう? 最後の一言は口にするのを止めた。そんなこと、真姫だって分かっている。この制星教会に来るまでのあいだ、散々岬町を見て回ったのだから……ここに人はいない。誰もいないからこそ、空に塵はなく、月明かりが俺達を照らしているんだ。
人がいないから争いが起きない。争いが起きないから塵がない。塵が無いから空が見える。単純な話だ。だけど単純すぎて人は忘れるのだ。
「真姫、行きたい場所があるんだ」
俺が真姫の問いかけに答える代わりに、行き先を示唆する。
「良いよ。私はずっと暮人について行くから」
俺は真姫の言葉に甘え、彼女の手を取って歩き出した。
静寂に包まれた岬町は初めてだった。どこまで行っても無人な岬町。唯一救いだったのが、ここで死んだ人間はいないということだった。人はいないが、その代わり人がここで殺されたりした形跡もない。
おそらくシェルターかどこかに避難しているか、崩壊病で消えてしまったか……いずれにせよ戦争のダメージはこの街には無い。岬町の建物が崩れているのは、それだけの年月によってだ。
「ここって……」
「ああ。俺の家だ。だけど行きたい場所はここじゃないよ。勿論見てみたかったのはあるけど」
俺達は目標地点に向かう道すがら、俺とおばあちゃんが住んでいた家の前を通りがかる。流石に建物は崩壊していたが、当時の名残は存在していた。
俺は家に向けて合掌する。どちらかと言えば家ではなく、わけも分からないまま一人にしてしまった祖母に対してだ。
「行こう。この先だ」
俺はさらに真姫の手を引っ張ってひたすらに突き進む。
まだ残っていたあの公園を横目に、古びた郵便ポストを曲がって、俺達は目的地に向かう。この道順で真姫も行き先が分かったのか、何も喋らなくなった。
時間も過ぎて夜が明ける。鋭角な日差しが疲れ切った俺達の顔を煌々と照らし始める。朝日の到来に街が目覚める。人々の代わりに、生えている草花は太陽に向かって首を向ける。
「やっぱりここね」
「俺達といえばここかなって」
天気は晴れ。絶好の登校日和。俺達はあの日の小学校の校門の前に立っていた。小学校の校庭には錆びついた登り棒が立ち並び、石灰で描かれた円はほとんど消えかけている。
「行こうか」
「ええ」
俺達はそんな校庭には目もくれず、そそくさと校舎に入っていく。目指すは南校舎の三階。このまま階段を登って行けば到着だ。あの頃から時間が停止したかのように、校舎の中は代わり映えがしなかった。
階段を登り切り、廊下の突き当りまで歩を進めると、目の前にはあの時の教室。
「開けるよ」
俺はそう言って教室のドアを開けた。
流石に記憶の通り全く一緒ではないけれど、それでも面影がある。今まで、記憶の中のこの教室は夕暮れの教室。だけど今は朝日が差し込む教室だ。単に時間が違うだけと言われればそれまでだが、どこか一つの呪縛から解き放たれたような、そんな解放感が全身を包み込んだ。
「なんだか変な気持ち」
「え?」
「だって私達の始まりはいつだってこの教室で、それでいて最後にまたここに来ることになるなんて」
真姫と俺は当時のそれぞれの席に座って話す。小学生の時の思い出から、今に至るまで、ありとあらゆる話をし尽くした。
「真姫、ここで一緒に暮らさないか? 学校の校舎だったら易々と崩れたりはしないだろ?」
「言われなくたって、最初からそのつもりだよ」
真姫と俺は立ち上がり、教室のど真ん中で見つめあう。
「崩れゆくこの世界で共に生きよう」
俺達は抱き合って目を瞑り、お互いの唇の感触を確かめた……。
あれから俺達はこの学校を拠点にして、この崩壊した世界を生きている。
他の変異種や人類がどうなったかなんてどうでもいい。俺達は自分達さえ良ければそれで良いのだ。勿論助けを求める人がいれば助けるが、それは自己が保全されている場合の話。生き物は皆そのはずだ。
俺達は善人でもヒーローでもない。自己犠牲の精神なんてものは持ち合わせていない。仮に俺達が自己犠牲をするとなれば、それはお互いの為だけだろう。
この未来の崩れゆく世界で、俺達は悠久の時を生きる。
これは自分たちと世界を天秤にかけさせられた者達のお話。そして選んだ道で罪を背負い、やがて投げ捨てた俺達の物語だ。
「崩れゆく世界に天秤を」 FIN