翌日、恐ろしい般若の顔のお面を着けてた姿で茜は、『幽世』と呼ばれる妖の世界のまるで時代劇のセットのような街並みの一角に居た。

 昨夜、見慣れない妖たちの中を恐怖しながら歩いた賑やかな大通りから外れ、狭い路地を進んだ先、『傘』と書かれた提灯が軒先から吊る下がる長屋の前で立ち竦んでいる。提灯以外に看板は無く、何処か寂しげな雰囲気の店の前で、少しだけ強張った表情の斎が「ハァー」と一つ溜め息を吐く。

 そんな斎の様子を隣で伺いながらも、茜は昨日のことを思い出していた。修学旅行で拝観していた寺で雲龍図に呑み込まれ、いきなり幽世と呼ばれる妖の世界やって来てしまった。そして、この半妖の絵師と呼ばれる斎に出逢ったのだ。茜が元の世界『現世』に戻るためには、幽世と現世を繋ぐ門の番人である龍一族に接触しなければならないらしく、龍一族はこの国から遠く離れた大陸にあるため、旦那様からの伝言が龍一族に伝われるまではこの斎の元で絵の仕事を手伝うことになった。
 
 次から次へと進んで行く自身の状況に、一晩経っても茜は戸惑う頭の中を上手く整理出来ないでいる。そもそも、こんな漫画のような奇妙な状況を直ぐに理解出来るわけがない。

 それでも、不安だらけでどうしようもなかった茜は斎や翠、旦那様に手を差し伸べてもらい、なんとかこの幽世の世界を受け入れることが出来た。それに半妖の絵師だという斎の絵に心を揺さぶれ、今は斎の側で絵を手伝えることを嬉しく思っている。

 翠に連れられて旦那様と会ったその後、斎と共に最初にやって来た斎の部屋に戻ってから、茜はなかなか寝付けないまま一夜を過ごした。修学旅行で集合する筈でいた班員達はどうなったのか、龍一族へ伝言が届けば本当に元の世界に戻れるのだろうかと悶々と考えていたら、いつの間にか夜が開けていた。そして朝が来ると早々に、翠に告げられた「傘職人の元に会いに行く」と斎は茜を外に連れ出して今に至る。

 寂しげな雰囲気の長屋は、本当に店なのかと疑う程に静かで誰かの居る気配が無い。引き戸の前に立ち竦んだ斎は何かを決意したように「行くぞ」 と小さく呟くと、目の前の引き戸をその異形の右手で叩いた。
 
 暫くすると、中から「はいよ」と酷く掠れた低い声が聞こえて来た。ガラッと引き戸が開けられ出てきたのは、茜の着けている般若の面と引けを取らず、ゴツゴツとした大きな身体にモジャモジャの髭を生やし、睨み付けるように深い皺を寄せた恐ろしい表情の三つ目の男だった。

「ひぃっ!?」

 茜はその風貌に思わず悲鳴を上げて、斎の背中に隠れる。

「あ?なんだ?」とギョロリとした三つの目で探るように、恐ろしい風貌の妖は斎の背中に隠れた茜に視線を向けた。斎の背後でガタガタと震える茜に斎はまた一つ溜め息を吐くと、茜に向けられた妖の視線を遮るように斎は声を掛ける。

「…翠から話を聞いた絵師の斎だ。依頼された傘について話がしたい。」

「おー!そうか、そうか!噂に聞く半妖の絵師とはお前のことか!」

 妖は大きな三つの目玉を上から下へと斎に向けると、どこか納得したように頷いた。その眼力の強さに斎でさえ、一歩後退る。

「俺はここで傘屋を営む唐々(からから)だ。翠の奴から話は聞いている。半妖の絵師は妖嫌いで有名だったからな、まさかこの依頼を引き受けるとは思ってなかったぜ!」

 唐々と名乗った妖は溌溂とした声で、斎に告げる。妖嫌いだと指摘された斎はニヤリと笑う唐々をジッと見つめると、少し居心地悪そうに眉を寄せた。

「で、そんな半妖の絵師が連れてるお前は一体何者だぁ?」

「っ!」

 斎から視線を外した唐々は、その恐ろしい三つの目玉を今度は茜に向けてきた。ギョロリと此方を見つめられ、恐怖で何度も叫びそうになるのを必死に耐えながら震える唇を開いた。

「いっ、斎の絵の手伝いをすることになりました!茜です!」

「ほぉう!弟子ってところか!珍しいこともあるもんだ!」

「…珍しい?」

「あぁ。何でも半妖の絵師は、誰とも関わらねぇで引き籠もって絵ばっか描いてるって。依頼も、昔から九尾の旦那のばかりでよ。だから、弟子なんて取るもんかと驚いたわ!」

 唐々の話は、昨夜旦那様から聞いた斎の様子そのものだった。どうやら他の妖にも、斎は誰とも関わりを持たないと認識をされているらしい。そんな斎の様子は現世での茜の姿に重なり、なんだか他人事に思えなかった。

「…おい。そんな話より、早く仕事の話がしたいんだが。」

 三つの目玉を歪めてニヤリと笑う唐々の話を、斎は不機嫌さを隠さず遮るように声を放った。斎に睨まれた唐々は「あー、分かった。分かった。」と、それを気にする事もなく軽く受け流す。

「まぁ、店の中は少し狭いが、我慢してくれよ。」

 そう言って開けられた引き戸に、斎が遠慮なく足を踏み入れる。その背中を追いかけるように、茜も店の中へと続いた。室内は少し薄暗い印象があったが、よく見ると部屋隅にはたくさんの傘が立て掛けており、竹串や紙など傘を作るための材料や道具が大量に置かれていた。店というよりも、傘を作るための製作所というような店内だ。

 そして畳の上には一つの和傘が、開かれた状態で置いてある。

「翠の奴に言われて、作ったやつがこれだ。」

 唐々はそう言うと、そのゴツゴツとした大きな手でその和傘を斎に手渡した。斎は黙ってそれを受け取り、じっくりと和傘の隅々まで眺め始める。その横から、茜も斎が持つ和傘をそっと覗き込んだ。

 少し大きめの和傘は、分厚い白い紙が一つの皺も無く綺麗に貼られている。細い竹を何本も使った内側の骨組みはとても細かく、色鮮やかな糸を何本も使い仕上げられていた。一見武骨そうな唐々が作ったとは思えないほどに、繊細な細工が施された和傘はとても美しく、職人の魂が込められているのがよく分かる代物だった。

 美しい和傘の仕上がりを見るに、翠は随分と前から唐々にこの和傘の依頼をしていたのだろう。斎を少し伺うように見れば、何とも言えないような複雑そうな顔をしていた。

「…これに、俺がそのまま絵を描いても大丈夫なのか?」

「安心しな、この傘に貼られた紙は唯の紙じゃねぇ。幽世でも一級品の『彩雨紙(さいうし)』を使ってるんだからな!」

「彩雨紙…?」

「あぁ、彩雨紙は非常に水に強く、丈夫な素材の紙だ。豪雨が降ろうが、荒ぶる嵐の中でも破れない。傘としての持続性も高いし、絵付けをするのも最適でな。描きやすさは保証するぜ。」

 唐々の言葉に、和傘を不思議そうに斎は眺める。『彩雨紙』なんて初めて聞く紙の名前に、茜もとても興味が湧いた。現世でそんな名前の紙は聞いた事もないから、きっと幽世ならではのものなのだろう。

「まぁ、なかなか採取困難な珍しい素材から作られる紙故に値もかなり張るがな。仕上げとして、半妖の絵師殿の絵の上から防水用の油を塗って完成させるつもりだ。こんな店だが、俺は傘を作って二〇〇年は経つ!腕はあるから任せとけよ!」

 ガハハッと笑い、力強く発せられた声は静かな室内でよく響く。唐々の勢いに斎は少し圧倒されつつも、その後も淡々と和傘について会話をしていた。

 二人が話しているのを横目に、茜はその和傘に目を向ける。茜が思っていたよりも大きな和傘は、汚れを知らない雪のように真っ白だ。この和傘のキャンバスに、斎は一体どんな絵を描くのだろうか。翠の姉だという狐の嫁入りも、一体どんなものなのか今のところ全く想像もつかない。けれど、茜は少しわくわくしていた。

 今までに経験したことない出来事の連続で想像力が感化され、なんだか凄く絵を描きたくなるような衝動に駆られる。友達も居なく何も変わり映えしない毎日をひっそりと過ごしていた茜が、まさかこんな非日常を味わうなんて思いもしなかった。得体の知れない妖というものは怖いけれど、見たことないものへの好奇心が少しだけ湧き上がる。この気持ちを早く描いてみたい。

 そんな事を考えていたらいつの間にか、斎と唐々の話は一段落着いたらしい。

「半妖の絵師殿が万が一失敗した時は、また同じものを作ってやるからよ。最高な絵を頼むぜ!」

 和傘を汚れないように綺麗な布に包んで、唐々は斎に渡す。手渡された斎は、それを丁寧に受け取った。

「じゃあ、また何かあったら来いよ!」

「…あぁ。」

 大きな三つ目を少し和らげた唐々は、ゴツゴツとした手を軽く上げて見送る。そんな唐々の様子に、第一印象で受けた怖いというイメージは少し払拭されて、見た目からは想像も出来ないくらいに面倒見が良さそうな一面を見た。

 それとは逆に、斎は唐々の溌溂とした態度に圧倒されたのか何処か疲れたような表情をしていた。妖と関わることを避けていた斎にとっては、初対面の唐々とじっくりと仕事の話をするのは少なからず気を使っただろう。昨日あれだけ依頼を受けることを拒んでいたけれど、真剣に依頼を取り組む斎の姿に何も心配することは無さそうだ。

「そういえば、嬢ちゃん。」

「は、はいっ!?」

 斎の様子を横目に見ていれば、不意に唐々から声を掛けられた。ギョロリと三つの目玉を向けられると、やっぱり恐ろしく茜はビクリと肩を揺らす。自分に一体何の用だとビビりながらも視線を向ければ、唐々は三つ目の己の顔を人差し指でツンツンと指差した。

「最高にいかしてる面だな!」

「へ!?」

 一瞬唐々の言葉が理解出来ずに、茜はポカンと口を開いた。その茜の隣で「ブフッ!」と吹き出した斎がクスクスと肩を揺らしている。

 そんな斎の姿と唖然としつつ、茜は自分の顔にゆっくりと手を伸ばした。コツンと触れた面の感触に、そこに描かれた恐ろしく強烈な鬼の顔を思い出す。幽世という妖の世界で、この鬼のお面を着けている事をさほど気にしていなかったが、いかしている顔と指摘されてじわじわと羞恥心が湧き上がる。

 そんな茜の姿を見て、再度吹き出し笑っていた斎を鬼の面の下から睨み付けるが、茜の視線は斎には全く届かないようだ。暫く肩を揺らした後、斎は何でもないような表情をして店の引き戸を開けた。

「邪魔したな。」

「おう。」

 布に包まれた和傘を大事そうに持ったまま店を出て行く斎に、少しムスッとしながらも茜も続く。外に足を踏み出して引き戸を閉めようと振り返れば、店の中で和傘の材料になる竹に触れた唐々の姿を見た。ゴツゴツとした大きな手で、信じられないほどに優しく竹に触れる唐々に、翠がこの和傘を依頼した理由が分かったような気がした。

「おい、何してる?」

 斎の声に、茜は慌てて引き戸を閉める。和傘を大事そうに抱えていた斎は、澄んだ瞳で茜に視線をやった。

「次は、画材を集める。早く付いて来い。」

「う、うん!」

 斎はそう淡々と告げると、背を向けて歩き出す。茜はその背中を真っ直ぐに追いかけた。唐々が丹精込めて作った和傘に、斎の絵が描かれるのが酷く待ち遠しい。突然始まった幽世での生活に戸惑いながらも、茜は現世に居た時よりも心が弾むように軽くなっているのを感じた。