屋内から外に出れば暗い夜の闇も気にならないほどに、軒先から釣る下がる幾つもの提灯の灯りが煌々と街を照らしていた。先程、斎の部屋の窓から幽世の街を眺めた時のように、街の大通りには祭りのように賑やかな屋台が建ち並び、百鬼夜行のようにたくさんの妖たちが蔓延っている。

 一つ目が恐ろしい形相の妖、空中を舞う布のような者や不気味な火の玉。獣のような見た目の大男に、着物て同じ顔のお面を被った童たち。そんな妖たちの間を、縫うように進んで行く翠と斎の背中を見失わないように必死で追いかける。

 改めて「凄いことになったなぁ」と茜は目元に開けられた二つの穴から、外の光景を眺めて強い衝撃を受けた。

「おい、絶対に逸れるんじゃねぇぞ。」

「う、うん!」

 前を歩く斎が定期的に振り向いて、茜がちゃんと付いて来ているかを確認してくれる。それを有り難く思っていれば、斎は此方を見たまま「クククッ…」と喉を鳴らして肩を震わせた。

「俺が描いといてあれだけど、すげぇ顔だな。」

「なっ!?」

 斎が心底可笑しそうに言った「顔」というのは、私の顔を覆うように付けられたお面ことだ。狭い視界の目元に手を触れれば、お面の硬い感触がする。このお面は外に出るにあたって、他の妖に茜が人間だと気付かれないようにするために斎が考えたものだ。斎の異形の右手で絵を描くと妖気が込められるので、斎が絵を描いたお面を身に着けると絵に込められた妖気により、人間の匂いを少しだけ抑えることが出来るらしい。そのため部屋を出た後、斎が速攻で描き上げたお面を茜はしっかりと顔に着けていた。

「…そんなに笑うほど可笑しい?」

 今だに肩を震わせ続ける斎は、茜のお面姿が相当可笑しかったようで茜の顔に視線を向けるたびに笑っている。今までずっと不機嫌そうな表情しか見ていなかったので、斎はこんなに笑うことが出来るのかと正直驚いた。それでも、流石にそこまで笑われると少しだけ腹立たしくなる。

 斎がここまで笑うのは、きっと茜が着けているお面が「般若」の絵だからだろう。人間だとバレてしまわないように、斎いわく出来るだけ険しく恐ろしい顔を描いたそうだ。クワッと大きく開いた口からは鋭い牙が覗き、歪んだ瞼の下からはギョロリとした目が睨みつける。そして、極めつけには額から生える二本の角。今の茜の顔は、何処からどう見ても般若だった。

 そんな般若のお面を着けたお陰か、今のところ茜が人間だと気付く妖はいない。妖たちが賑わう大通りの中でも、特に大きな問題も無く歩けている。けれども、斎や翠と違って人間の姿をしていない異形の姿に茜は内心震え上がっていた。見たことも無い姿形をした妖の集団が、恐ろしくて仕方がない。不意にこちらを振り向いた女の人は、のっぺらぼうで茜は思わず「ひぃっ!?」と悲鳴を上げてしまった。

 こんな場所にとても長く居られない。バクバクと飛び出しそうな心臓を押さえながら、恐怖で力が抜ける足に無理矢理に力を入れて翠と斎の後にぴったりと付いて行く。なるべく周りの妖を視界に入れないように俯きがちで暫く歩いていれば、一軒の建物の前で二人が足を止めた。

「さて、着きましたよ。」

 翠の声に視線をゆっくりと上げれば、まるで城のような大きな建物が茜の目の前に立ちはだかっていた。五階建てほどあるだろうか、高さのある建物は幾つも窓から灯りが溢れて暗い夜の中でもキラキラと輝いている。その窓から時折、人影のようなものが行ったり来たりと屋内を往復し忙しなく動き回っていた。正面にある広い玄関口には、多くの妖たちが出入りをしていて一際騒がしい。この建物は周りの日本家屋とは、まるで規模も様子も違うことが分かる。

「…凄い。」

「此処は日照雨屋(そばえや)。私の旦那様が営む、この街で一番大きい旅館です。私の職場でもあります。」

 建物の大きさに呆気にとられていれば、翠からそう説明を受けた。

「では茜様、旦那様の所へと参りましょう。」

 正面の広い玄関口へと向かう翠に、斎も茜も続く。玄関口に垂れ下がった大きな暖簾には、【日照雨屋】と達筆な字で書かれていた。その暖簾を潜ると、旅館の中ではたくさんの妖たちが忙しなく行き交っている。翠はそんな妖たちの中を慣れたように歩き、狐の姿をした番頭の妖に声を掛けた。

「半妖の絵師殿とお客人がお見えです。旦那様は今どちらにいらっしゃいますか?」

「おお、翠か。今、旦那様は霧の間にいらっしゃるぞ。」

「分かりました。ありがとうございます。」

 番頭の妖と短いやり取りをした後、翠は「お二方、此方です。」と旅館内を案内してくれる。翠の案内のまま旅館の廊下を歩いていれば、壁に一枚の絵が飾られていた。川辺を歩く妖たちが、雨に降られている風景画だ。窓ガラスのような大きな絵からは、幾千もの糸のような雫がザァザァと雨音を奏でている不思議な絵で、妖たちが雨に打たれて慌てふためく様子が面白い。雨に打たれた水面は、激しく飛沫を上げて揺れ動く。茜はこの風景画が、一目で斎の絵だと分かった。

「旦那様は昔からは斎殿の絵をよく好まれましてね、絵の依頼をしてはこうして旅館内に飾られているのですよ。」

 翠の言葉に斎に視線を送れば、居心地悪そうに眉を歪めている。やはり、誰が見ても斎の絵は魅力的なのだろう。茜が斎の絵に強く惹かれたように、翠の旦那様もきっと斎の絵に特別な感情も持ったに違いない。まだ会ったことも無いのに、斎の絵を好きだと言うだけで旦那様の人柄が見えてくるような気がした。

 そんな事を思いながら翠の後を付いていくと、いつの間にか一つの部屋の前までやって来た。

「旦那様、翠です。半妖の絵師殿とお客様がいらっしゃいました。」

「おう、入れ。」

「失礼いたします。」

 襖を丁寧に開いた翠が、斎と茜に部屋の中へと入るように促す。それに従って、茜は恐る恐る斎の後に続き部屋の中へと足を踏み入れた。 

「斎、よう来たな。そして、珍しいお客人もいらっしゃるようだ。」

 腹の底に響くような低い声が掛けられて思わず顔を上げれば、床の間に天井まで届きそうなほど背丈の大きな狐の妖が居た。背後には九本の尻尾がふさふさと揺れて、まるで別の生き物のように蠢いている。金色の毛並みはキラキラと輝き、やはり人間を真似るように豪華な花柄が染められた着物を纏っている。そして、宝石のような赤眼は茜を見定めるように細められた。

 お面をしているのに関わらず、狐としっかり目が合ったような気がして心臓が跳ねる。この大きな狐が、きっと翠の言う【旦那様】なのだろう。部屋の中の空間を完全に支配下に置いているような旦那様の存在に圧倒されて、茜は呼吸がしづらくなったのを感じた。

「…人間か。久しく見てないからのう、実に懐かしい。」

「っ!?」

 茜の正体を一瞬で見破った旦那様に、思わずビクッと肩が上がる。愉快そうに笑い始めた旦那様の存在に完全に飲まれてしまった茜を見かねて、翠が助け船を出すように狐に向き合う。

「旦那様、この人間様は斎殿の絵の中から出てきてしまったそうなのです。宜しければ、話を聞いて頂けませんか?」

「ふむ、よかろう。話してみよ。」

「私も、実際に人間様が絵の中から出てきた瞬間は見ていないのですが…」

 翠は茜の身に起きた奇妙な出来事について、旦那様に説明をし始めた。








「ふむ、なるほどな。話は大体理解した。それで、人間よ。そなたは現世に一刻も早く戻りたいのだな?」

 翠から話を聞き終えた旦那様はすぐに状況を理解し、茜にその赤い瞳を向けて問いかけてくる。

「はっ、はい!どうすれば、元の世界に戻れますか!?」

 突然に話を振られて一瞬戸惑ったが、妖でありながらもきちんと話を聞いてくれた旦那様に、茜は今まで着けていたお面を外して懇願するように言う。

「幽世に迷い込んだ人間が、現世に戻ることは出来る。だが、今の幽世ではそう簡単に幽世と現世を渡り歩くことが出来ないのだ。」

「どうゆう事だよ?」

 狐の言い回しに、今まで黙って成り行きを伺っていた斎が口を挟む。幽世から現世へと戻ることは出来ると断言されたことに、茜は少しだけホッとしたが、簡単には戻れないとは一体どうゆう事なのかと若干の不安に襲われる。

「人間も妖も現世と幽世を行き来するためには、二つの世界を繋ぐ門を通らなければならないのだ。その門を通らなければ、人間は幽世に来ることは出来ぬ。妖もまた同じようにな。」

「…門ですか?」

 旦那様の話を聞いて、茜は思わず首を傾げた。茜が幽世に来る際に雲龍図の龍に飲み込まれはしたものの、何か門らしきものを通った記憶は全く無い。

「昔は幽世の国ごとに現世へ繋がる門が存在したのだが、今はその門は封鎖されていてな。というのも、現世と幽世を繋ぐ門を管理している龍一族が、ある時を境に全ての門を封鎖したのだ。」

「龍一族、ですか?」

「あぁ。古の頃より龍一族の生業は、この幽世と現世を繋ぐ門の番人だからな。」

 旦那様の口から『龍一族』という言葉が出て、斎は何故か大きく目を見開いた。翠も初めて聞く事柄なのか、旦那様の話を真剣に聞いている。その様子を見るに、現世と幽世を繋ぐ門は随分と昔から封鎖されているような気がした。

「その門が封鎖されたために我々妖も、もう長いこと現世に足を踏み込めたことはない。それ故に門を封鎖した現在は幽世に迷い込む人間を見たことはなく、そなたの居た現世に現れる妖も殆どおらんかっただろう。そなたのように門を通らずに幽世に迷い込んだ者は、龍一族に門が封鎖されてからは見たことも聞いたこともないのだ。斎や翠が、初めて見る人間の対処に困るのも頷ける。」

「…じゃあ、何で私は幽世に?」

 二つの世界を繋ぐ門を通らなければ来ることが出来ない幽世に何故迷い込んでしまったのか、旦那様の話を聞いて茜は尚更分からなくなった。そして、あの雲龍図への謎がより一層深まり、無意識に眉間の皺が寄る。

「さぁな。だが、戻りたいのであれば、幽世と現世を繋ぐ門を通らなければならん。…よし、儂から龍一族に門を開けてもらうように伝言を届けよう。」

「本当ですか!?」

「あぁ、こんな事は今だかつて無い現象だからな。龍一族も取り合ってくれるだろう。ただ、この国は龍一族の居る国からかなり離れていてな、伝言が届くのに数週間は時間がかかる。一刻も早く戻りたいだろうが、そこは我慢してくれ。」

「…数週間。」

 想像していたよりも長い間、この幽世に居なければならない事実に茜は動揺を隠せない。それでも、ちゃんと現世に戻れるという確証を得て、幽世に来たばかりの時よりも少しは気持ちが楽になった。

「この国は謂わば島になっていましてね、龍一族の居る国には海を渡って行かなければならないのですよ。」

「えっ、そんなに遠いんですか!?」

 幽世について全く無知の茜に、翠が分かりやすく説明するように幽世の世界地図らしきものを何処から持ってきて畳の上に広げる。

「はい、こちらの島が我らの旦那様の治める国です。そしてこの広い大海原の向こう、大きな領土を持ちたくさんの妖たちが住まうの豊かな国が龍一族の治める国になります。」

 幽世の世界地図の上を、翠の白い指が指差す。海に浮かぶ小さな離島からその指先を、海の向こうの随分離れたところに位置する大陸へと滑らせた。現世の世界地図で言うならば、日本からアメリカといったところだろうか。茜が想像していたよりも、此処から龍一族の国とはかなり距離があるようだ。

「昔は、各国々に門があったと言っただろう。龍一族は皆が空を飛べ、素速く長距離移動出来る故に、古の頃より門の管理者となっているのだ。龍一族以外の妖は、船で何週間もかけて海を渡るしかないからな。」

「なるほど。」

 旦那様の説明から龍一族というものが、幽世の世界でどうゆう立ち位置なのかは理解できた。とりあえず今の状況では、龍一族に旦那様の伝言が伝わるのを待つしかなさそうだ。

「時間はかかるだろうが、案ずるな人間殿。龍一族に伝言が伝わるまでは、この国で過ごせば良い。それまでのそなたの生活は、この国を治める九尾が保証しよう。」

 そう言うと旦那様は九本の尻尾を揺らしながら、赤い瞳を細めて微笑んだ。最初はその大きな背丈の存在に圧倒されたけれど、きちんと茜の要望に答えてくれた旦那様には感謝しかなく「ありがとうございます!」と素直に告げる。

 幽世に来てからの緊張感や不安が、一気に柔らいでいく。ホッと肩の力を抜く茜の姿を見た翠は、面白い事を思い出したと言わんばかりに手のひらに拳をポンッと打ち付けた。

「そういえば!茜様は絵を描くことができるそうなんですよ、旦那様。」

「…翠、てめぇ!」

「そうなのか?人間殿よ。」

 翠の言葉に斎は、余計な事を言うなと言わんばかりに眉間に皺を寄せて睨んだ。しかし、そんな斎を気にすること無く旦那様は翠の話の先を聞きたがるように瞳を細める。斎と旦那様の真逆の反応に戸惑いながらも、茜は旦那様からの問いかけに「はい。」と答えた。

「そなたは、絵を描くことが好きか?」

「はい!好きです。」

「ほぉう。それは良い事を聞いた。ならば、現世に戻るまでの間はこの斎のところで絵を描けば良い。」

「え!?」

 今だに鋭い視線を向ける斎を一瞥してそう言い放った旦那様に、茜は驚いてポカンと口を開ける。その隣で旦那様に指名された斎は、澄んだ瞳を釣り上げて怒りをぶつけるように叫んだ。

「はぁ!?勝手なこと言うなよ!」

「だが、半妖のお前が一番適任じゃろう。絵が好きならば、尚良い。」

「それは素晴らしいですね、旦那様!斎殿のお弟子さんとして、茜様には絵の仕事の手伝いをしてもらいましょう!」

「良い案じゃな。」

「だから、勝手に決めるなって言ってんだろ!」

 名案だと頷き話し合う二人に、斎が噛み付きそうな勢いで抗議した。賑やかな三人のやり取りを聞きながらも、茜は二人の提案に密かに惹かれていた。斎の絵の仕事を手伝うことが出来るなんて、思ってもいなかった素敵な機会だと心が踊る。先程、斎の絵を見た時から茜はずっと胸の奥が疼くような熱を持っていた。こんな絵を描きたい。誰にも描けない、唯一無二の自分の絵を描いてみたいと。斎の絵に茜は強烈な憧れを抱いたのだ。そんな斎と共に絵を描くことが出来たら、どれだけ楽しいことだろうか。

「それに、ちょうどお前に頼みたい仕事がある。そのためには人手が居たほうが良いと思ってな。」

 少し声のトーンを変えて話し出した旦那様に、斎は眉間の皺を深くする。

「やっぱり、お前ら何か企んでるんだろ!?」

「企むなんて程のもんじゃない。ちょっとした頼み事じゃ。」

「同じようなもんだろうが!」

「…斎殿。」

 進んで行く話に苛立つ斎に、不意に翠が真面目な表情で畳の上に指先を揃えて深々と頭を下げた。その拍子に翠の白い生糸のような髪がサラリと揺れる。

「どうか、依頼の話を聞いて頂けないでしょうか。」

 先程と打って変わった真剣な翠の姿に、依頼の話というのが本当に大事なものだと茜にも分かった。どうやら、茜に斎の元で絵の仕事を手伝うように進めたのも理由があるようだ。部屋の中の空気感が少しだけ変わったのを感じながらも、茜は黙って斎の様子を伺った。やがて少しの無言が生まれた空間に、大きな溜め息が落ちる。

「…チッ、聞くだけだからな。」

 そう吐き捨てられた言葉には優しさが含まれていて、それは斎の人となりが分かる一瞬だった。