茜と半妖の絵師 〜現世と幽世を繋ぐ龍の物語〜

「ねぇ!お寺なんか見るよりも、ショッピングしようよ!彼氏の班とも合流したいし!」

 短い制服のスカートを揺らしながら、坂野(さかの)さんが女子特有の高い声で言った。サラサラにケアされた髪にくっきりとした二重の坂野さんは、クラスの中でも垢抜けていて女子のリーダー的な存在だった。

「それ賛成!せっかくの京都だから可愛いお土産買いたいし、神社とか寺ばっかり見るの飽きちゃったよね!」

 そう坂野さんに続いたのは、今日もバッチリとメイクをきめた小田(おだ)さんだ。小田さんは坂野さんの腕を取ると、持っていたスマホの画面を見せて「ここ行きたくない?」とあらかじめ決めていた予定に無い行動をしようとする。

 自由気ままな二人の様子に賛同するように、他の女子数人も片手に持っていた冊子を邪魔だと言わんばかりにリュックに戻して、キャッキャッと二人を囲みはしゃぎ始めた。

 そんな楽しげな輪に加わることもできず、少し離れたところからその光景を一人ポツンと眺めている立原茜(たてはらあかね)は、悲しいくらいにこの集団で浮いていた。高校二年生の最大イベントでもある修学旅行は、茜にとって地獄そのものだった。

 三泊四日の修学旅行。その中でも、最終日の班行動がメインイベントとされていて、班であらかじめ観光するルートを決めて京都での楽しい思い出を作ることになっている。

 しかし、茜は昔から人見知りで、人と打ち解けるのに時間がかかる質だった。高校に入学してから友達を作ろうと必死に努力はしたものの、緊張して上手く話せなかったり、なかなかクラスメイト達の会話の中に入っていけなかったり。趣味の話は驚く程に合わなかったし、もう既に仲の良いグループに割り込む度胸も無く、気付けば高校二年生になっても友達と呼べる存在はクラスに一人もいなかった。

 そんな中、望んでもいないのにやって来てしまった修学旅行。もう半年も一緒の教室で過ごしたのにも関わらず、ちっとも打ち解けることが出来ていないクラスメイト達と京都を巡る班決めは最初の難関になった。

 案の定、茜はどこのグループにも属すことが出来ずに一人あぶれてしまい、それを見かねた担任教師が何を思ったか、このクラスでも活発的なスクールカースト上位の女子グループの班に茜を入れたのだ。教師のやることは恐ろしい。

 リーダーの坂野さんを含めた他のメンバーからの、「なんでお前が」という冷たい視線が本当に痛かった。だから茜は、なるべく班員たちの邪魔にならないように息を殺して空気のような存在になり、修学旅行という地獄の時間が終わるのをひたすらに待っている。

「じゃあ、これから別行動とらない?」

 坂野さんが弾けるような明るい声で提案をした。

「…え?」

「いいね!私達はショッピングに行くから、立原さんも自由に行動した方が良いんじゃない?」

 坂野さんの発言に続いて、小田さんがにこやかに告げる。にこやかなのは口角と声色だけで、その目はちっとも笑っていない。やっぱり坂野さんも小田さんも、スクールカースト上位集団のこの班にノリの合わない茜が居ることが不服だったようだ。良く思われていないことは最初から分かっていたので、茜は向けられたその笑顔の圧に頷くことしか出来なかった。

「うん…。」

「おっけー!それじゃあ、三時に京都駅に集合しよう!」

「じゃ!解散!」

 坂野さんの溌剌とした合図ともに、今まで通りにキャッキャッとはしゃぎながら班員たちは歩き去っていった。その嵐が過ぎ去っていくような様子を、茜はポカンと口を開けて見送る。

 少し寂しいような気もするけれど、正直なところ、もう気を使ったり気を使われたりするのはとても疲れていたので、別行動は茜にとっても有り難かった。茜自身のせいで班員のみんなが楽しめなくなったりするよりも、自分一人でいた方が気が楽だ。それにいつも学校では一人なので、一人行動には慣れている。

 肩の力が抜けて、手に持っていた【修学旅行のしおり】と大きく印刷された冊子になんとなく目を向ける。ずっと気を張っていたため無意識に手に力を入れてしまっていたのか、修学旅行のしおりは茜の心情と同じようにクシャリと皺が寄り、力無く歪んでしまっていた。

 その皺を手で伸ばすように、そっと表紙に触れる。そこには何本もの鳥居が連なる伏見稲荷大社に、眺め良さそうな清水の舞台。竹林が靡く嵐山に、水面にも反射した金閣寺。五重塔を背にして華やかな着物を着て歩く舞妓の姿など、京都の有名な観光名所を背景に制服姿の男女が楽しそうに微笑むイラストが描いてある。それは、茜が描いたものだった。

 絵を描くことが好きな茜は、美術部に所属していた。人と関わることが上手く出来ずに小さい頃からたくさんの絵を描いたり、一人の時間に没頭しがちだった茜は、そのままの流れで自然と美術部に入部したのだ。絵を描くことは楽しくて、どこか居心地の悪い教室を忘れて自由になれる部活の時間は、憂鬱な学校生活の中で一番好きだった。

 美術部はもともと部員が少なく、そのほとんどが幽霊部員だった為に、唯一の美術部員だった茜は担任教師に修学旅行のしおりの表紙絵の制作を頼まれたのだ。それは茜にしてみたら物凄いプレッシャーだったが、絵を頼まれたことが嬉しくて精一杯にペンを走らせた。

 修学旅行のしおりを配布する日、緊張しながらクラスメイトのリアクションを待っていれば、「すげぇー」とちらほら聞こえてきた声に内心めちゃくちゃに喜んだ。初めて自分が認められたような感覚に、茜は嬉しくて仕方なかった。自分に少し自信が持てたような気がして、苦手意識のあった修学旅行にも前向きな気持ちで臨んだのだが、やはり現実はそう甘くないようだ。

 茜は「ふーっ」と殺していた息を吐き出して、これからどうするかとその表紙絵を開きながら考える。今から集合予定の三時までは結構時間があるので、時間を潰すのが大変そうだ。そんなことを思いつつ、とぼとぼと京都の街並みを歩いていれば、アスファルトだった地面がいつの間にか情緒のある石畳へと変わっていた。修学旅行のしおりに視線を向けていた為に、あまり周りを見ていなかったが、ふと気付けば、すぐそこに大きな門がそびえ立っていてもの凄い存在感を放っている。

 こんなところにお寺なんてあったのかと、茜はついその門の前で立ち止まった。門の向こうは、大きなお堂のような建物がいくつか連なっている。人も疎らで、中には犬の散歩をする人なんかもいて随分と拝観しやすそうな雰囲気だ。

 京都は歴史が色濃く残る街だ。道の曲がり角がいきなりタイムスリップしたような景色に変わったり、街を歩けば所々に歴史のある建造物が現れる。この寺もそんな歴史あるものの一つかもしれないと、茜は門の向こうへと足を踏み出した。どっちにしろ、集合時間の三時までたくさん時間はあるのだから、少しでも時間を潰せたら良い。

 そんな軽い気持ちで、門から真っ直ぐに続く石畳を茜はゆっくりと歩く。綺麗に瓦が並ぶ屋根が連なり、木の木目さえも芸術の一つような大きな歴史のある建造物は見ていて壮観だった。周囲の木々の放つ自然の香りを深く吸込めば、すーっとした爽やかな空気が体内に溶け込みとても心地が良い。

 先程の苦い思い出も少し和らぎ、晴やかな気分で歩いていると【法堂、雲龍図の拝観受付は此方→】と書かれた案内板が目に入った。『雲龍図』その言葉に、茜は歴史の教科書の端で何度か見かけた写真を思い浮かべる。法堂の天井に描かれた迫力のある龍の絵を教科書では見たことがあるが、実物は今まで見たことがなかった。何十年、何百年と前に名のある絵師が何年もかけて描いた龍。それは絵を描く者としてとても興味深いし、後学のためにもぜひ拝見したいものだ。

 茜はその案内板の矢印に釣られるように進み、一つの建物に辿り着いた。恐る恐るその中に入ってみれば、受付口からひょこっと一人のおばさんが顔を出している。

「あら学生さん、雲龍図の拝観ですか?」

 そう丁寧に聞かれて、少し緊張しながらも「はい!」と答えれば拝観料の説明とパンフレットを渡してくれた。財布から拝観料を支払い、パンフレットを手にする。手にしたパンフレットには、これから拝見できるであろう勇ましい雲龍図が印刷されていた。その龍の姿に、早く実物を観たい気持ちが大きくなっていく。

「今日は人が少ないみたいでね、この時間に拝観される方は貴女一人なんですよ。」

「…そうなんですか?」

「良い時に来ましたね、雲龍図を独り占めできますよ!」

 そう言ったおばさんの柔らかな表情に、これは本当に良い時に来たかもしれないと茜はこの修学旅行で一番心が踊った。

 受付のおばさんに案内され、ローファーで石畳を鳴らしながら歩いていく。秋とも冬とも言えない澄んだ風が、高揚する茜の頬をするりと撫でた。暫くすると屋根の四隅の軒先が綺麗にカーブし釣り上がり、何本もの大きな柱で建った威厳のある法堂に辿り着いた。

 そこへと続く渡り廊下は風通しが良く、紅葉間近のほんのりと赤く色を変え始めた葉も身近に感じることができる。歴史のある寺ならではの厳かな雰囲気が何処からともなく漂い、スッと背筋が伸びるのを感じた。

「こちらが法堂になります。靴を脱いで、お進みください。」

案内人のおばさんが、優しそうな笑みを浮かべ此方を振り返った。

「はい…!」

 茜は言われたとおりに脱いだローファーを法堂の入口付近に設置された下駄箱に入れて、少し緊張しながら薄暗い室内に足を踏み入れる。いよいよこの先にある雲龍図を拝見できるのかと、茜はグッと気を引き締めた。

 開けた法堂内は、法席を囲むように石畳が敷かれていた。開かれたいくつかの窓から光が差し込んでいて、少し薄暗いけれどよく見渡せる範囲だ。初めて足を踏み入れたのにも関わらず、その空間は何処か茜に安心感をもたらした。

「上をご覧ください。」

 案内人のおばさんの声にゆっくりと顔を上げれば、天井に一頭の龍がいた。

「…っ!?」

 茜は思わず息を呑む。そこに居たのは、由緒正しい寺にあるはずの雲龍図ではなかったからだ。

 長い長い胴体を悠々と捻らせて、張り付いた鱗が法堂の開けられた窓から入り込む光に煌めいた。長い爪が生えた鷹のような手が掻くような動きをし、鯰のような髭を踊らせる。大木のような角を宿した頭が揺れて、ふさふさとした眉毛の下の大きな目がぎょろりと動く。牙が覗く大きな口から吐き出された息は風となり、ゴォォと空間を振動させて茜の前髪やスカートの裾を揺らした。

 その光景に茜は心臓がバクバクと鳴り、ひやりと背中に冷たい汗が流れるのを感じた。これは絵なんかじゃない、本物の龍だ。あまりにも現実離れしている光景に、全く頭がついて行かない。一体、何が起きているのだろうか。茜は震える手で縋るように、持っていた修学旅行のしおりを抱え込んだ。

 そんな茜を知る由もない天井の龍は、大きな鼻からブォォと生温かい風を吹き出す。その衝撃により、茜の視界が不安定に揺れた。恐怖により固まってしまった身体をなんとか動かそうと、ギギギと首を横に動かせば、何事もないように穏やかな声で案内人のおばさんが雲龍図についての説明を始めている。

「この雲龍図は、今から約四〇〇年前に描かれたとされています。」

 もしかして、この人にはこの恐ろしい龍が見えていないのだろうか。涼しい顔をして龍を見上げ説明に励む案内人のおばさんに、茜はより恐怖した。

 不意に、水晶を埋め込んだような大きな目と茜の小さな目が合う。その途端に龍はふさふさに茂った眉をグワッと寄せて、大きな目で茜を睨みつけるように見据えた。その視線の鋭さに呼吸が止まり、射殺されるような感覚にビクッと肩が上がる。細くなった闇のように深い瞳孔は開かれ、ヴヴ…と獣が威嚇するような呼吸に全身が震えた。

「ほぉー小娘、我が視えるか。」

 龍はその一瞬を逃さないとばかりに、茜に向けて言葉を発した。極度の緊張と恐怖に目を逸らすことができないまま、茜は大きく目を見張った。

「嘘っ…!?」

 雲龍図が動き、喋っているという目の前の光景が、とてもじゃないけど信じられない。

「我を視える人間が現れるとは、ついに時は来た。」

 茜を視界に捉え、そう告げた龍は牙を出すように裂けた口角を上げ、腹の底に響くような低い声を振動させる。時は来たとは、一体どうゆうことなのだろうか。訳の分からないまま、未知の恐怖にガタガタと身体が震える。大太鼓を叩き鳴らすような大きな鼓動が、茜の体内に響き渡った。

「四〇〇年、長いようで短かった。お前の想いは我に宿り、この小娘に託された。」

 龍が言葉を放つたびに空気が大きく振動して、震えた法堂内の柱がキシキシと音を立てた。

「すまんな、小娘。お前に拒否は与えぬ。」

 雲龍図の雲が煙のように法堂の天井を覆い、龍の放った言葉の震えは止まらない。まるで、法堂内は沸騰した熱い湯のように騒がしい。龍が何を言っているのか意味が分からず、茜はただただ目の前で起こっている異様な光景に怯えるしかなかった。

「我は、幽山(ゆうざん)の力を宿す妖し者。此れより、その役目果たす時が来たり。」

 龍はそう告げると、天井から剥がれるように動き出す。ビュッと肌に当たる凄まじい風に、身体が吹っ飛ばされそうになる。鋭い牙が生える大きな口を開けた龍が、勢いよく茜に向かって突っ込んで来た。

 このままでは食われると茜は本能的に思い、近づく牙にギュッと目を瞑り身を固くした。衝撃を待つ身体は震えて、血の気が引く。生温かい風が全身を包み深く大きな闇に呑み込まれる寸前、その巨体から低い声が鳴った。

「…小娘、頼んだぞ。」








 暖かな日差しを遮るように閉ざされた障子には、咲き始めた桜の影が美しい障子絵のように浮かび上がっていた。畳の匂いと墨の匂い、そして絵の具の独特な匂いが漂う室内は少し淀んでいる。

 壁や襖には大きな巻物や紙を張った板がいくつも立掛けられて、たくさんの和紙が畳を埋め尽くすように散乱していた。あちらこちらに転がる小瓶には、絵の具の元となる様々な鉱石の粉が入れられていて何とも色とりどりだ。絵筆が転がり畳を鮮やかに染めあげているのにも気にすることなく、室内にいる人影は画架に立て掛けた一枚の絵に向かっている。

 涼し気な黒髪に紺色の着流しを着た男は、澄んだ瞳を真っ直ぐに絵筆の先に向けて迷うことなく筆を動かしていた。周りに置かれたいくつもの小皿には朱色、金色、白色などの様々な色が入れられていて、男はそれを絵筆で取っては紙の上に乗せていく。

 ただ、その男が絵を描いている光景に異様な点を上げるとするならば、その男の右手だ。絵筆を持つその右手は、肌色の皮膚ではない。青黒く淀み、皮膚はひび割れ亀裂を産んでいる。硬い鱗のような破片が所々にへばり付き、爪は腐ったように黒い。

 男は人の形から離れたその手でそっと朱色を筆先に乗せて、優しく紙を撫でるように絵を描く。男が絵筆で触れた先には、二匹の美しい錦鯉が居た。鮮やかな朱色の錦鯉と、白色に朱色の斑模様の入った二匹の錦鯉は和紙の中で優雅に泳いでいる。

 男の持つ絵筆が描いている錦鯉に触れた瞬間、まるで雫が水面へと落ちるように紙が揺れた。不思議とその揺れは波紋のように紙いっぱいに広がり、不思議な淡い光が錦鯉の絵から溢れて来る。 

 男がゆっくりと絵筆を離すと、和紙から朱色の錦鯉が出てきた。和紙に大きな波紋を作り、錦鯉は絵の中から飛び出して空中を自由に泳ぎ出す。ゆらゆらと尾ひれを揺らして、部屋の中を気持ち良さそうに一周した。

 その不思議な光景を見て男は絵筆持ったまま、満足そうに微笑む。泳ぎ回る錦鯉をそのままに、男は再び絵に向き合い始めた。先程のように絵筆で、もう一匹の錦鯉に触れる。

 しかし、今度は錦鯉に何も変化が起こらなかった。和紙から出てくる様子の無い錦鯉に、男は不思議そうに首を傾げた。

「どうした?出て来いよ。」

 そう呟くと男は錦鯉から絵筆を離して、もう一度和紙に朱色を重ねる。

 すると、絵筆が触れた先から波紋が広がるように和紙が大きく揺れた。淡い光が和紙全体から溢れて、次第に画架に立て掛けた絵がカタカタと震え始める。

 その様子に男は絵筆を離して、怪訝そうに眉をひそめた。絵の中心が不安定に揺れて、盛り上がるように何かが突き出して来る。

「…は?」

 朱色を塗ったその中心から、するりと細く白い手が現れたのだ。驚く間もなく、その手から腕、腕から肩と徐々にその姿を現し、ひょっこりと絵から女が顔を出した。色素の薄い髪が揺れ、丸く開かれた優しげな瞳と目が合った瞬間、まるで時が止まってしまったかのような錯覚を起こす。

 そう思ったのも束の間、絵から飛び出して来た女の身体がぐらりと揺れて、男の身体にガッと重たい衝撃が走った。









「痛てぇ…」

 突然のことに頭が真っ白になりつつも、耳元で聞こえた低い声にバッと上体を起こす。茜の下には、打ち付けた頭を片手で抑えて倒れ込んだ着流しの男がいた。

 これは一体どうゆう事だと茜は、パニックになる頭を抱えた。修学旅行の途中、たまたま見つけた寺で雲龍図を拝観しようとしたら、法堂で遭った本物の龍に呑み込まれてしまった。その恐ろしい体験に、今だに手が震えている。龍の鋭い牙が生えた大きな口が迫った瞬間、ギュッと目を瞑って闇に呑み込まれた。そして気付くと、目の前にこの男が居たのだ。

 此処は一体何処なんだと周りを見渡せば、先程まで居たはずの寺の法堂とはかけ離れた和室の部屋だった。たくさんの画材が散らばっている畳に、茜は顔を顰める。此処はあの寺の中なのか、この男は何者なのか茜には分からないことだらけだ。

「おい、邪魔だ。」

 不機嫌そうなその声に、ビクっと震えて茜は勢いよく立ち上がり退く。キャパオーバーした頭は使い物にならず、クラクラしながらも声がした方へ顔を向ければ、男に鋭く睨みつけられた。

「お前、一体何者だ。」

 茜に冷たい視線を浴びせながら、立ち上がった男は着流しを整えた。

 何者だと言われても、それを問いたいのは茜の方だった。状況が飲み込めず上手く働かない頭をなんとか動かして、茜は目の前の男を観察する。年齢は同じくらいだろうか。綺麗な顔の輪郭を持つ白い肌をした男は、目鼻立ちがとても整っていていた。所謂美形だ。スラリとした細身の体型に、涼やかな紺色の着流しがよく似合っている。

 そして無意識に視線を彷徨せた茜は、男の右手を見た途端に大きく目を見開く。黒い爪に青黒く鱗が張り付いたような肌は、まるで異形のようだ。思わず息を呑み、その右手から視線を離せないでいると、男は薄い唇を開いた。

「 …お前、」

 黒髪の下から覗く澄んだ瞳が、真っ直ぐに茜に向けられる。

「まさか、人間か?」

「……え?」

 男の言った言葉の意味が分からずに、茜は眉を寄せた。一体、人間以外の何に見えるのだろうか。生まれて初めて聞かれた問いに、戸惑いを隠せない。そんな事を聞いてくるなんて、まるで自分が人間じゃないとでも言うようだ。

 先程まで視線を向けていた男の異形のような右手の存在が、茜をより一層不安にした。

「あ、あの!私、雲龍図の拝観に来てて、気付いたら此処に居たんですけど、此処は寺内の一室ですか?」

「は?」

「どちらの方向に進めば外に出れるか、ご存知ですか?」

「…何言ってんだ、お前。」

 兎にも角にも、茜はこの状況から抜け出したくて声を上げる。この男が居る部屋から一刻も早く寺の外へ出ようと出口を聞けば、男は眉間に皺を寄せて呆れたように吐き捨てた。

「此処は寺なんかじゃねぇし、お前が外に出たところで食われるだけだぞ?」

「はぁ?」

 お前が何言ってるんだと、茜は顔を顰めた。何故外に出ただけで食われるのか、意味が分からない。あの寺ではないのなら、此処は一体何処なのだろうか。

 そんな茜の表情を見た男は複雑そうな顔をして、その異形の様な右手で額を覆い深く溜め息を吐く。

 その姿に、溜め息を吐きたいのはこっちの方だと茜は心の中で思った。雲龍図の龍に呑み込まれたり、全く知らない場所に居たりと信じられないようなことの連続で、茜の精神は疲れ切っていた。

「噂には聞いたことあるが、まさか本当に人間が迷い込むとはな。」

「…えーと?」

 先程から男の言葉の意味がちっとも分からない茜は、困惑気味に聞く。もう一層のこと、この部屋を出て自分の力で寺から外への出口を探そうかと、畳に散らばっている画材を踏まないように静かに歩いた。すると、足元をスルリと朱色の何かが撫でる。

「うわっ!?」

 その奇妙な感触に驚いて飛び上がれば、畳に散らばっていた絵筆に足を取られて茜は派手に尻餅を付いた。「おい!何やってんだよ。」と男が呆れた顔で言うのを、茜は畳にぶつけた尻を「いたた、」と撫でながら聞く。

 今度は一体何だと足元を見れば、朱色の錦鯉がゆらゆらと尾ひれを揺らしていた。

「へ?」

 錦鯉は茜の足元から、ゆっくりと部屋の中をまるで水中に居るように優雅に泳ぎ始めた。その幻想的な姿に、茜は瞬きを忘れて目を見張った。自由に泳ぎ回る錦鯉の鱗が、光の加減で金色に煌めく。錦鯉が空中を泳ぐなんて何かの間違いだと、ゴシゴシと目を擦っても錦鯉は消えない。

「な、何なのこれ…!?」

 そんな茜を嘲笑うように錦鯉は茜の周りを一周すると、画架に掛かった一枚の絵の中に吸い込まれるように入っていった。元居た場所に帰るように、絵の中に収まった錦鯉に茜はポカンと口を開けたまま言葉が出ない。

 絵の中では、二匹の錦鯉が寄り添って泳ぐ姿が描かれている。なんとも繊細で美しすぎるその絵に、茜はゾクリと鳥肌が立った。絵が動き出すなんて、まるであの雲龍図の龍のようではないか。その光景になんだか恐ろしくなった茜は力が抜けて、尻餅を付いたまま情けなく震える。

 そんな茜を男は一瞥すると、窓際にゆっくりと足を進めて障子を開けた。

「ちょっと、こっちに来い。」

 その声に茜は困惑しつつも、なんとか足に力を入れて立ち上がる。男に言われるがままに恐る恐る窓際に足を進めると、窓から入り込んで来た風が茜の前髪をサラリと揺らした。

 男は「外を見てみろ」と言わんばかりに素っ気なく首を振り、茜に窓の外を覗くように合図をする。それに従うように、茜は開けられた窓の外を覗き込んだ。

「…桜?」

 どうやら茜は二階の部屋に居るようで、すぐ外には満開の桜が咲いていた。ひらりとひらりと薄紅色の花弁を散らす姿は、見惚れる程に美しい。

 しかし、修学旅行で京都やって来た現在の季節は、秋と冬の中間期であったのに何故桜が咲いているのだろうか。茜はそんな不気味な違和感を感じながらも、窓の外を見下ろせば大きな街が広がっていた。

「…え、」

 視界に入って来た街並みは、茜の知っている京都の街ではなかった。太陽が傾きかけて、橙色の空を少しずつ藍色へと染め上げている黄昏時。何軒もの和風家屋がずらりと建ち並び、その軒に吊るされたいくつもの提灯に仄かな灯りが宿り始める。大通りには屋台のような出見世が出ていて、何処からともなく楽しげな声が聞こえて来た。

 けれど、その賑わう大通りを行き交うのは人ではない。人間の真似をするように着物を着た動物や首の長い女、頭に角を生やした化け物に宙を舞う炎の塊など、人の形をしていない異形たちが街を行き交っている。それはまるで、幼い頃に怪談話で聞いた百鬼夜行のような光景だった。

 雲龍図から続く信じ難い光景に、茜はゴクリと息を呑む。背中に、冷たい汗が流れた。

「此処は幽世(かくりよ)。見て分かるだろうが、人間のお前が居て良い場所じゃねぇ。」

「…か、幽世。」

 言い慣れない言葉は、か細く茜の口から溢れた。

「妖の世界だ。なんでこんな所に来たのか知んねぇけど、とっとと帰れ。」

 男はそう告げると、不機嫌そうに眉を歪ませて茜に視線を向ける。突然『妖の世界』だなんて言われても、茜は到底理解出来なかった。今までそんな妖なんてものを見たことが無ければ、次から次へと起こる現実離れした出来事も質の悪い夢のようだ。しかし、眼前に広がる異様な世界は、茜が元に居た世界ではないのだと一目で分かった。

「冗談でしょ…?」

 そう思いたくても、ドクドクと波打つ苦しい程の自身の心音が決して夢ではないと叱咤する。目の前の光景に軽く目眩を覚えながらも、不安を押し込めるようにグッと手を握りしめた。掌に喰い込んだ爪の痛みが、より一層茜に現実を感じさせる。

「あ、あの!私は、どうやったら元の世界に戻れますか!?」

「知らねぇ。」

「そ、そんな…!」

 茜の必死な願いを、男は面倒くさそうに一蹴した。

「ごく偶に人間が幽世に迷い込む話を聞いたことがあるが、その後人間がどうしたかなんて俺は知らねぇ。」

「じゃあ、私は…」

 これから、一体どうなってしまうのだろうという大きな不安が茜を襲う。こんな妖の世界にいきなり飛ばされて、元の世界に戻る方法も分からないなんて、そんな理不尽があるだろうか。あまりの絶望感に握りしめていた手の力が抜けて、指先は力無く震えた。血の気が引け青ざめた表情で、ただただ呆然と窓の外を眺めることしか出来ない。

 そんな茜の様子を、男は眉間に皺を寄せて何とも言えない表情で見ていた。

(いつき)殿ー!半妖の絵師殿ー!」

 その時、不意に二人の空間を裂くように「ドンドンドンッ!」と部屋の引き戸を叩く音がした。その音に、ビクリと肩が上がる。これ以上心臓に悪いことは止めてほしいと、茜は両手で胸を抑えながら切実に願った。

 引き戸の向こうから聞こえて来た声に男は深く溜め息を吐くと、畳に散らばる絵筆や画材を器用に避けて、ガラッと勢いよく叩かれた引き戸を開ける。

「あぁ、斎殿。依頼の絵を引き取りに来ました。」

突然現れた訪問者の姿は、男の背に隠れて茜の位置からは見えない。しかし、聞こえて来た声は酷く穏やかなものだった。

「…(すい)か。」

 訪問者に向かい、男は低い声でそう告げる。不機嫌そうな声からは、男が先程のように眉間に皺を寄せて顰めっ面をしているのが容易く想像出来た。

「何かあったんですか?」

そんな男の態度に訪問者は腹を立てることもなく、先程と変わらない穏やかな声で話す。

「…。」

「…斎殿?」

 訪問者の問いに対して、男は何故か固く口を閉ざす。表情は見えないので男が何を考えているのかは分からないが、部屋の中は少しの沈黙に包まれた。突然に黙ってしまった男の様子を、訪問者も不思議に思ったのか伺うように声を掛ける。

 そんな二人のやり取りを、茜は部屋の片隅で息を潜めるように聞いていた。黙り込んだ男の様子も気になるが、突然現れた訪問者も、この幽世の世界に生きる妖なのだろうかと思うと茜の不安は積もる一方だ。先程、窓から見下ろした異形だらけの世界を思い出しながら、訪問者の姿が人から離れた恐ろしい形相をしていたらどうしようかと背筋が震える。

「おや、なんだか変わった匂いがしますね。」

 茜が背筋を震わせたその時、スンスンと鼻を鳴らした訪問者の声が部屋の沈黙を破った。そして、隠れていた男の背からひょこっと顔を出す。

「ひぃっ!?」

 いきなり向けられた視線に、茜は無意識に声を上げる。真っ直ぐに向けられる翡翠色の瞳に、白く生糸のような髪。その頭には髪と同様に白くふさふさの耳が生え、背後にはこれまた触り心地の良さそうな白い尻尾がふわりと揺れていた。

 窓の外を歩いていた妖たちとは違い、顔を見せた訪問者は中性的な顔立ちをしていて、頭に生えている耳以外は人間の姿をしている。そして、男と同様に訪問者もとても整った顔立ちをしていた。背丈は茜よりも少し高いくらいで若草色の着物を着た訪問者の見た目が、茜が想像していた妖のように恐ろしくはなかったことにひとまず安堵する。

「もしかして、人間ですか?」

 訪問者は茜を観察するように視線を走らせると、肩口辺りで切られた生糸のような髪をさらりと揺らす。

 その言葉に、茜は恐る恐るもコクリと頷いた。

「…なるほど。斎殿の様子がおかしかったのは、貴女が理由ですね。」

 訪問者はすらりとした指先を顎に当てて、納得するように頷いた。それを横目で見た男が、眉間にグッと皺を寄せる。

「…コイツが、俺の絵の中から出て来たんだよ。」

「ほう!斎殿は遂に人間までも、絵から呼び寄せることが出来るようになったと!」

「違う!人間なんて描いてねぇよ。勝手にコイツが出て来たんだ!」

 男は茜を指差し、訪問者に向かって語尾を強めて言い放つ。しかし、そんな男に対して訪問者は、何故か感心したようにキラキラとした眼差しを向けていた。

「流石、半妖の絵師殿!描いてもいない人間を絵から呼び出せるなんて…これはまた一儲け出来そうですね!」

「お前は、そうやってすぐに金の話をするな!」

「あ、あの!」

 ちぐはぐな二人のやり取りに全く付いていけない茜は、頭を抱えながらも声を上げる。向けられた二人の視線にたじろぎながらも、茜は会話の中の「絵の中から出て来た」という言葉がどうにも引っ掛かった。絵の中から出てくるなんて、この幽世に来る原因になった雲龍図を思い出す。茜はゴクリと無意識に喉を鳴らし、覚悟を決めながらも口を開く。

「…私って、絵の中から出て来たんですか?」 

 茜の言葉に、男は一つ瞬きをして澄んだ瞳を隠すと「あぁ、そうだ。」と頷いた。

「あの絵から、お前は出て来た。」

 そう言うと男は、異形のような右手の指先を一つの絵に向ける。その絵には、先程見た二匹の錦鯉が描かれていた。二匹の錦鯉は相変わらず絵の中で、部屋の騒がしさなんて関係ないとでも言うように優雅に泳いでいる。先程、空中を泳いでいた錦鯉が絵の中へと戻っていったように、茜もあの錦鯉の様に絵の中から出てきたというのか。茜自身、気付いたらこの場所にいたので自分が絵の中から出てきたという自覚はなかった。

「なんで、絵から…」

 絵に視線を向けながらも思わず溢れた茜の言葉に、訪問者が答えるように口を開く。

「半妖の絵師の斎殿は、特別なのです。」

「…半妖の絵師?」

 初めて聞く呼び名に、眉を寄せながら首を傾げる。そんな茜の反応に、目の前に居た男が少し肩を揺らした。訪問者はちらりと男を見てから、改めてその翡翠色の瞳を緩く細めて茜に向ける。

「ええ。斎殿は妖と人間の血が混ざった、この幽世でも珍しい半妖の絵師殿なのですよ。」

 訪問者の言葉に、男は何処か居心地の悪いような顔をしてそっぽを向く。その様子を、茜はポカンと口開けたまま眺めていた。






 
 そんな茜の様子に、訪問者はクスリと一つ笑いを零すと「斎殿が描く絵は、不思議と紙から離れて自由に動き出す唯一無二の作品なのです。」と続ける。

 それに対して、半妖の絵師と呼ばれる男、(いつき)は一つ溜め息を吐き「そんな大層なもんじゃねぇよ。」とぶっきらぼうに呟いた。先程、絵の中に戻っていった錦鯉は、訪問者の話を聞くにどうやらこの斎が描いた絵のようだ。

 描いた絵が紙の中から出て来るなんて、まるで神の御業ではないかと思わず目の前の斎に視線を向ける。そんな茜の視線を受けてか、斎は少し肩をすくめると「見てろよ。」と言わんばかりに、畳に散らばっていた和紙と筆をその異形の右手で取った。
 
 そのまま畳に座り込み、さらさらと流れるような手付きで墨を含ませた筆を走らせる。斎が和紙に筆を走らせた途端に、部屋の空気が何処か緊張感を含んだものに変わった。それを肌で感じる程に、斎の絵に向かう姿勢が美しかったのだ。異形のような鱗が張り付いた指先は丁寧に筆を持ち、迷いのない動きから次々と絵の片鱗が産まれていく。その一瞬、一瞬は、まるで舞踊を見ているようで茜の心を強く惹きつけた。澄んだ瞳は真っ直ぐに和紙に向けられ、筆先が真っ白な和紙の上を染める。静かに淡々と筆を走らせる斎の姿は、芸術そのものようだと茜は思った。

 そして、あっという間に和紙の中には、一羽の鳥が現れた。繊細な線で描かれた鳥の絵は墨の濃淡がなんとも美しく、羽根を休めるように穏やかに佇んでいる。斎はその鳥に向かって筆先でそっと撫でるような仕草をすると、ポタリと見えない雫が落とされたように和紙の中に波紋が広がった。絵から淡い光が漏れ出し、和紙の中から一羽の鳥がパタパタと羽根を羽ばたかせて飛び出して来る。

 見たこともないその不思議な光景に、茜は瞬きも忘れて目を見開く。魂が込められたように動き出した鳥はゆっくりと部屋内を旋回すると、斎の肩に降り立った。斎はそれを穏やかな表情で見つめると、その異形の指先で自分で描いた鳥に優しく触れる。

「俺は半妖だ。妖としては半端者だし、妖気も少なく殆ど人間に近い。」

 自分のことを『半端者』と言う斎は、少し目を伏せる。その表情は何処か寂しげに見えた。

「でも、何故かこの右手だけが妖の力を持ってる。理由は分かんねぇけど、この右手で絵を描くと妖気が込められて絵が勝手に動き出すんだ。」

 そう言った斎は異形のような己の右手に、グッと力を込める。話を聞くところ、絵が和紙の中から出て来るのには、斎のその異形のような右手が重要なのだろう。そんな斎の話を聞きながらも、茜は先程目の前で起こった光景の余韻が消えなかった。描いた絵が出てくるという、不思議な力を持った半妖の絵師。その斎が描いた絵に、茜は心の底から魅せられてしまったのだ。

 斎が筆を走らせることで、その絵は本物になる。茜自身、絵を描く者として斎の絵はとても興味深いものだった。そして、茜はこの幽世に来る原因になったあの雲龍図のことを再び思い出した。これまでの話を聞いて、茜が呑み込まれてしまったあの雲龍図の龍は、もしかしたら斎が描いたものなのかもしれないと。確証はないけれど、茜は雲龍図の龍に呑み込まれた後、斎の絵から出て来たのだというから、何か繋がりがあるような気がするのだ。この半妖の絵師が、現世に帰る手がかりになるかもしれないと茜は意を決して斎に向き合った。

「あの、聞いてほしいことがあるんですが…」

 茜の言葉に、斎の澄んだ瞳が向けられる。それを見つめ返しながらも、「実は…」と茜はこれまでに起きた出来事を二人に説明し始めた。







「なるほど。では、貴女はその雲龍図の龍に飲み込まれて幽世に来てしまったのですね。」

 話を聞き終えて、訪問者の妖が今一度茜の置かれた状況を確認するように聞く。それに茜はコクリと一つ頷いた。

「はい。それで、その雲龍図が斎さんの描いた絵なんじゃないかと…」

「いや、俺じゃねぇよ。」

「え、」

 茜の言葉に対して直ぐ様否定した斎に驚き、思わず言葉を失った。では、あの雲龍図は一体何なのだろうか。

「俺は現世に行ったことねぇし、絵が動くって言ってもこの右手が込められる妖力には限りがあって、雲龍図みたいに天井いっぱいに描かれた大きな絵は動かせねぇんだ。」

 そう言った斎に、付け足すように訪問者も続く。

「斎殿の絵は、先程描いていた小鳥のように比較的小さいものしか動くことはないのですが、大きな絵でもそれはそれは美しい作品なんですよ。」

 訪問者はまるで自分のことのように、斎の絵を語る。確かに、斎の絵は素晴らしいものだった。絵が紙から出てくる光景は神秘的で美しく、ただの人間にはとても成し得ないものだ。

 しかし、そんな斎の絵ではないというのなら、あの雲龍図は誰が描いたものなのだろうか。それに、あの龍は茜に向けて何やら言葉を発していたような気がする。何故、あの場で茜だけが龍の姿を見て呑み込まれたのか、そして幽世なんて場所に飛ばされてしまったのか理由がますます分からない。まぁ、こんな不思議な現象にたいして理由なんて無いのかもしれないけど。

 理由はどうであれ、やはり茜の中にあるのはこの幽世の世界で、これから自分はどうなってしまうのだろうという不安ばかりだった。

「…翠、コイツを現世に戻したい。」

 その声に、自然と下がっていた顔を上げる。茜の不安げな表情を見かねてか、斎は訪問者に向けてそう声をかけていた。

「そうですね。人の子が、この幽世に長く居るのはあまり良くないですから。」

 訪問者の言葉に斎は少しだけ眉間に皺を寄せると、「…あぁ。」と小さく呟いた。二人のやり取りを恐る恐る聞いていれば、茜の視線に気付いたのか訪問者が茜にも話が通じるように教えてくれた。

「幽世は現世と違って、人の子は妖に狙われやすいのです。私や斎殿は人間を襲うことはしませんが、妖の中には人間を喰らう者も多いですから。」

「に、人間を喰らう!?」

「はい。私もごく偶に幽世へと迷い込んでしまう人間が居るという話を聞いたことがありますが、運悪く妖と遭遇してしまったら現世へと戻ることは難しいでしょうね…。ですから、幽世で人間を見かけることは殆どありませんね。人間にとって、幽世は危険な場所なのです。」

「そっ、そんな…!」

 恐ろしい事実にゾクゾクと背筋が震えて、再び血の気が引いていく。この世界が、それほど危険な場所だとは。理由も分からずこんな場所に来てしまって、果たして自分は本当に生きて帰れるのだろうか。先程から感じていた不安はより一層重くなり、茜は恐怖に押し潰されそうだった。

 茜の真っ青になった顔を見た訪問者は、慌てて両手を振り「でも、心配しないでください!そうならないように、私も斎殿も、貴女が一刻も早く現世へ帰れるように手助けしますから。」と励ましてくれる。

 そんな訪問者に続けるように、斎も眉間の皺を緩めると一つ溜め息を溢して、仕方が無いとでも言うように肩をすくめた。

「…まぁ、ここで見放して何かあったら後味悪いしな。」

「…あ、ありがとうございます。」

 訪問者と斎の言葉に、少しだけ強張っていた肩の力が抜ける。訪問者の話を聞くところ、運が悪ければ妖に喰われてしまっていたかもしれないのだ。それに比べたら、茜が現世に帰るための手助けをしてくれると言ったこの二人に遭遇したのは本当に奇跡的だった。茜は運が良かったのだと思う他ない。

 少しだけ安堵の表情を浮かべた茜に対して、訪問者もホッと息をつくと翡翠色の瞳を細めた。

「申し遅れました、私は(すい)と申します。見ての通り、狐の妖です。」

 訪問者こと翠はそう茜に告げると、白いふさふさの尻尾をふわりと揺らす。

「…翠さん」

「はい。人間様、貴女の名を伺っても?」

「茜です。立原茜。」

 翠の穏やかな声に従って素直に答えると、翠は「茜様ですね。」とにこやかに頷いた。そして、その視線を畳の上に滑らせると一つ瞬きをする。

「それと気になっていたのですが、それは茜様のものですか?」

「…あ!」

 翠の視線を辿るように畳の上を見下ろせば、一冊の冊子が力無く落ちていた。京都の有名な観光名所を背景に、制服を着た男女が微笑むイラスト。茜が描いた表紙絵の修学旅行のしおりだ。思えば雲龍図を拝観した時からずっと胸に抱えていたので、一緒に龍に呑み込まれて幽世へ来たのだろう。自分で絵を描いただけあって、再び胸に抱えると少しの安心感に包まれた。

「この表紙の絵、凄く素敵ですね。」

「え?」

 翠は、茜の胸に抱えられた修学旅行のしおりに視線を向けてそう言った。その言葉に少し驚いて、抱えていた修学旅行のしおりを改めて眺めた。

「茜様が描いたのですか?」

「は、はい!」

「茜様は絵が描けるのですね!…これは、まさか狐ではないですか!素晴らしい!」

 翠は茜の手元を覗き込むと、興奮したように耳をピンッと立てて声を上げる。金閣寺や竹林など、茜が表紙に描いた京都を連想させる絵。伏見稲荷大社をイメージした千本鳥居の横、小さな狐の絵が描かれているのを見て翠は嬉しそうに微笑んでいた。

 その様子に、茜はなんだか気恥ずかしい気持ちになる。こうやって、自分の絵を誰かに見てもらうのは少し緊張するけれど、やっぱり嬉しい。

「斎殿も、茜様の絵を見てくださいよ!」

 翠は茜の手元を覗きながら、斎の着物の袖を緩く引っ張る。その様子は兄弟のように微笑ましく見えた。翠の呼びかけに斎はまた一つ溜め息を吐くと、茜に視線を向けた。

 まるで此方を見定めるかのような視線に、ドキッと心臓が鳴る。そして諦めたように眉を下げると、茜に向けて青黒く鱗の張り付いた右手を差し出した。それに少し緊張しながらも修学旅行のしおりを手渡せば、斎はそれを受け取りまじまじと眺め始めた。

 斎の澄んだ瞳に自分の絵が見られていると思うと、茜は翠に見られた時の何倍も緊張した。半妖の絵師だという斎の絵は、先程も見たがとても美しいものだった。最初に見た錦鯉の絵も、茜の目の前で描き上げた鳥の絵もまるで本物のように繊細で豊かな色使い。美術の教科書に載っているどの絵よりも、飛び抜けて魅力的だと思った。

 半妖だから成せる業なのか知らないが、描いた絵が本物のように動き出す有り得ない光景を見た時、茜は驚きと共に感動したのだ。何も囚われることない自由な絵は、命を宿したように幻想的で目を奪われた。

 そんな凄い能力を持つ男に自分の絵を見られることに茜は少し自信がなかった。何を言われるのかドキドキしながらも、茜は男の反応を待つ。

「ふーん。まぁ、良いんじゃねぇの?」

 男は一通り絵を見終えると、ほんの少し口角を上げて言った。瞳は穏やかに緩められていて、真っ直ぐに茜の絵を見つめている。 

 その様子に茜は、胸が高鳴るのを感じた。体中の細胞が踊り出すように、じんわりとした熱が茜の心を優しく温める。

 そんな茜の様子を不思議そうに見ながらも、男は修学旅行のしおりを茜に手渡した。それを茜は少し震える手で受け取る。

 茜にとって絵というものは、唯一自分の中で誇れるものだった。自分の絵を良いと言われることは、自分のことを認めてもらえたように思えて震えるほどに嬉しい。それが、自分が凄いと思った人に言われるのなら尚更だ。

「これは、一つ良い事を思い付きました!」

 二人の様子を眺めていた翠は不意に声を上げると、手のひらに拳をポンッと打ち付けて何かを閃いたような表情をしている。それに対して「何だよ?」と斎が聞けば、フフンと得意げに鼻を鳴らした。

「旦那様に、会っていただきましょう。」

「…旦那様?」

 翠の言葉の意味が分からずに首を傾げると、翡翠色の瞳をキラキラと輝かせて話しを始めた。

「幽世という世界は広く、その土地その土地を治める強い妖がいるのです。この土地を治める大妖怪が、私の旦那様にあたります。旦那様はとてもお優しい方なので、きっと茜様が現世に帰る方法も教えてくださいますよ!」

「それじゃ…!」

 帰れるのかもしれない、と茜は湧き上がる喜びに拳を握った。その旦那様に会って今の茜の状況を説明すれば、すぐにでも身の危険の無い現世に戻れるのではないか。そう茜が喜んだ矢先、「ちょっと待て、翠。」と斎が低い声を出した。

「お前、何企んでる。旦那様は確かに優しい人かもしれないが、何の利益も無しに人間を助けることなんてしないだろ。」

「はぁ…、斎殿は旦那様を誤解していますよ。それに私は何も企んでなんかいません。」

「どうだかな、お前も旦那様の手下だろ。」

 『旦那様』という名前が出てから、斎の対応が不機嫌に変わった。翠はそんな斎の対応に慣れているのか変わらずに接しているけれど、茜は少し空気がピリついている気がして落ち着かない。

「では、斎殿は茜様を無事に現世まで帰す方法があるのですか?」

 翠のその一言に斎は、悔しそうに押し黙ると眉間の皺を一層深くした。そして、諦めたかのように顔を背けて吐き捨てる。

「…チッ、勝手にしろよ。」

「では、茜様。旦那様のところに向かいましょうか?」

「えぇ!?はっ、はい!」

 突然の話を振られて慌てて返事をすれば、「そんな緊張しなくても、旦那様はお優しい方ですから。」と、クスリと翠に笑われた。そのまま穏やかな声で、襖の外へと向かうように案内されると茜は無意識に従ってしまう。

 色々と思うことあるけれど、とりあえず翠の言う旦那様に会わないことにはどうにも話が進まない気がした。散らばった絵の具を踏まないように畳を歩き、翠が開いた襖の外へ出ると「…おい。」と部屋の中から声が掛けられる。

 腕を組み深く項垂れた斎は、チラリと茜に視線を送る。

「…俺も行く。」

 そう小さく一言告げた斎は、ズカズカと足を進めて茜の側までやって来た。その様子をポカンと見つめていた茜に対して、「何か文句あるか!?」と言わんばかりに斎は顔を顰める。絵に書いたような不機嫌さを隠そうとしない斎に、翠は可笑しそうに肩を震わせる。

「珍しいですね、斎殿が旦那様にお会いになるなんて」

「うるせぇ。」

 そんな二人の会話を耳にしながら廊下を歩けば、中庭から空が見えた。先程、部屋の窓から見た黄昏時を思わせる茜色の空は、この少しの間に深い藍色へと変わっていた。ちらほらと瞬き始めた銀色の星々も、現世と変わらない姿で少しだけホッとする。それでも、これから向かう幽世の世界に茜は、身体に纏わり付くような緊張を感じていた。







 屋内から外に出れば暗い夜の闇も気にならないほどに、軒先から釣る下がる幾つもの提灯の灯りが煌々と街を照らしていた。先程、斎の部屋の窓から幽世の街を眺めた時のように、街の大通りには祭りのように賑やかな屋台が建ち並び、百鬼夜行のようにたくさんの妖たちが蔓延っている。

 一つ目が恐ろしい形相の妖、空中を舞う布のような者や不気味な火の玉。獣のような見た目の大男に、着物て同じ顔のお面を被った童たち。そんな妖たちの間を、縫うように進んで行く翠と斎の背中を見失わないように必死で追いかける。

 改めて「凄いことになったなぁ」と茜は目元に開けられた二つの穴から、外の光景を眺めて強い衝撃を受けた。

「おい、絶対に逸れるんじゃねぇぞ。」

「う、うん!」

 前を歩く斎が定期的に振り向いて、茜がちゃんと付いて来ているかを確認してくれる。それを有り難く思っていれば、斎は此方を見たまま「クククッ…」と喉を鳴らして肩を震わせた。

「俺が描いといてあれだけど、すげぇ顔だな。」

「なっ!?」

 斎が心底可笑しそうに言った「顔」というのは、私の顔を覆うように付けられたお面ことだ。狭い視界の目元に手を触れれば、お面の硬い感触がする。このお面は外に出るにあたって、他の妖に茜が人間だと気付かれないようにするために斎が考えたものだ。斎の異形の右手で絵を描くと妖気が込められるので、斎が絵を描いたお面を身に着けると絵に込められた妖気により、人間の匂いを少しだけ抑えることが出来るらしい。そのため部屋を出た後、斎が速攻で描き上げたお面を茜はしっかりと顔に着けていた。

「…そんなに笑うほど可笑しい?」

 今だに肩を震わせ続ける斎は、茜のお面姿が相当可笑しかったようで茜の顔に視線を向けるたびに笑っている。今までずっと不機嫌そうな表情しか見ていなかったので、斎はこんなに笑うことが出来るのかと正直驚いた。それでも、流石にそこまで笑われると少しだけ腹立たしくなる。

 斎がここまで笑うのは、きっと茜が着けているお面が「般若」の絵だからだろう。人間だとバレてしまわないように、斎いわく出来るだけ険しく恐ろしい顔を描いたそうだ。クワッと大きく開いた口からは鋭い牙が覗き、歪んだ瞼の下からはギョロリとした目が睨みつける。そして、極めつけには額から生える二本の角。今の茜の顔は、何処からどう見ても般若だった。

 そんな般若のお面を着けたお陰か、今のところ茜が人間だと気付く妖はいない。妖たちが賑わう大通りの中でも、特に大きな問題も無く歩けている。けれども、斎や翠と違って人間の姿をしていない異形の姿に茜は内心震え上がっていた。見たことも無い姿形をした妖の集団が、恐ろしくて仕方がない。不意にこちらを振り向いた女の人は、のっぺらぼうで茜は思わず「ひぃっ!?」と悲鳴を上げてしまった。

 こんな場所にとても長く居られない。バクバクと飛び出しそうな心臓を押さえながら、恐怖で力が抜ける足に無理矢理に力を入れて翠と斎の後にぴったりと付いて行く。なるべく周りの妖を視界に入れないように俯きがちで暫く歩いていれば、一軒の建物の前で二人が足を止めた。

「さて、着きましたよ。」

 翠の声に視線をゆっくりと上げれば、まるで城のような大きな建物が茜の目の前に立ちはだかっていた。五階建てほどあるだろうか、高さのある建物は幾つも窓から灯りが溢れて暗い夜の中でもキラキラと輝いている。その窓から時折、人影のようなものが行ったり来たりと屋内を往復し忙しなく動き回っていた。正面にある広い玄関口には、多くの妖たちが出入りをしていて一際騒がしい。この建物は周りの日本家屋とは、まるで規模も様子も違うことが分かる。

「…凄い。」

「此処は日照雨屋(そばえや)。私の旦那様が営む、この街で一番大きい旅館です。私の職場でもあります。」

 建物の大きさに呆気にとられていれば、翠からそう説明を受けた。

「では茜様、旦那様の所へと参りましょう。」

 正面の広い玄関口へと向かう翠に、斎も茜も続く。玄関口に垂れ下がった大きな暖簾には、【日照雨屋】と達筆な字で書かれていた。その暖簾を潜ると、旅館の中ではたくさんの妖たちが忙しなく行き交っている。翠はそんな妖たちの中を慣れたように歩き、狐の姿をした番頭の妖に声を掛けた。

「半妖の絵師殿とお客人がお見えです。旦那様は今どちらにいらっしゃいますか?」

「おお、翠か。今、旦那様は霧の間にいらっしゃるぞ。」

「分かりました。ありがとうございます。」

 番頭の妖と短いやり取りをした後、翠は「お二方、此方です。」と旅館内を案内してくれる。翠の案内のまま旅館の廊下を歩いていれば、壁に一枚の絵が飾られていた。川辺を歩く妖たちが、雨に降られている風景画だ。窓ガラスのような大きな絵からは、幾千もの糸のような雫がザァザァと雨音を奏でている不思議な絵で、妖たちが雨に打たれて慌てふためく様子が面白い。雨に打たれた水面は、激しく飛沫を上げて揺れ動く。茜はこの風景画が、一目で斎の絵だと分かった。

「旦那様は昔からは斎殿の絵をよく好まれましてね、絵の依頼をしてはこうして旅館内に飾られているのですよ。」

 翠の言葉に斎に視線を送れば、居心地悪そうに眉を歪めている。やはり、誰が見ても斎の絵は魅力的なのだろう。茜が斎の絵に強く惹かれたように、翠の旦那様もきっと斎の絵に特別な感情も持ったに違いない。まだ会ったことも無いのに、斎の絵を好きだと言うだけで旦那様の人柄が見えてくるような気がした。

 そんな事を思いながら翠の後を付いていくと、いつの間にか一つの部屋の前までやって来た。

「旦那様、翠です。半妖の絵師殿とお客様がいらっしゃいました。」

「おう、入れ。」

「失礼いたします。」

 襖を丁寧に開いた翠が、斎と茜に部屋の中へと入るように促す。それに従って、茜は恐る恐る斎の後に続き部屋の中へと足を踏み入れた。 

「斎、よう来たな。そして、珍しいお客人もいらっしゃるようだ。」

 腹の底に響くような低い声が掛けられて思わず顔を上げれば、床の間に天井まで届きそうなほど背丈の大きな狐の妖が居た。背後には九本の尻尾がふさふさと揺れて、まるで別の生き物のように蠢いている。金色の毛並みはキラキラと輝き、やはり人間を真似るように豪華な花柄が染められた着物を纏っている。そして、宝石のような赤眼は茜を見定めるように細められた。

 お面をしているのに関わらず、狐としっかり目が合ったような気がして心臓が跳ねる。この大きな狐が、きっと翠の言う【旦那様】なのだろう。部屋の中の空間を完全に支配下に置いているような旦那様の存在に圧倒されて、茜は呼吸がしづらくなったのを感じた。

「…人間か。久しく見てないからのう、実に懐かしい。」

「っ!?」

 茜の正体を一瞬で見破った旦那様に、思わずビクッと肩が上がる。愉快そうに笑い始めた旦那様の存在に完全に飲まれてしまった茜を見かねて、翠が助け船を出すように狐に向き合う。

「旦那様、この人間様は斎殿の絵の中から出てきてしまったそうなのです。宜しければ、話を聞いて頂けませんか?」

「ふむ、よかろう。話してみよ。」

「私も、実際に人間様が絵の中から出てきた瞬間は見ていないのですが…」

 翠は茜の身に起きた奇妙な出来事について、旦那様に説明をし始めた。








「ふむ、なるほどな。話は大体理解した。それで、人間よ。そなたは現世に一刻も早く戻りたいのだな?」

 翠から話を聞き終えた旦那様はすぐに状況を理解し、茜にその赤い瞳を向けて問いかけてくる。

「はっ、はい!どうすれば、元の世界に戻れますか!?」

 突然に話を振られて一瞬戸惑ったが、妖でありながらもきちんと話を聞いてくれた旦那様に、茜は今まで着けていたお面を外して懇願するように言う。

「幽世に迷い込んだ人間が、現世に戻ることは出来る。だが、今の幽世ではそう簡単に幽世と現世を渡り歩くことが出来ないのだ。」

「どうゆう事だよ?」

 狐の言い回しに、今まで黙って成り行きを伺っていた斎が口を挟む。幽世から現世へと戻ることは出来ると断言されたことに、茜は少しだけホッとしたが、簡単には戻れないとは一体どうゆう事なのかと若干の不安に襲われる。

「人間も妖も現世と幽世を行き来するためには、二つの世界を繋ぐ門を通らなければならないのだ。その門を通らなければ、人間は幽世に来ることは出来ぬ。妖もまた同じようにな。」

「…門ですか?」

 旦那様の話を聞いて、茜は思わず首を傾げた。茜が幽世に来る際に雲龍図の龍に飲み込まれはしたものの、何か門らしきものを通った記憶は全く無い。

「昔は幽世の国ごとに現世へ繋がる門が存在したのだが、今はその門は封鎖されていてな。というのも、現世と幽世を繋ぐ門を管理している龍一族が、ある時を境に全ての門を封鎖したのだ。」

「龍一族、ですか?」

「あぁ。古の頃より龍一族の生業は、この幽世と現世を繋ぐ門の番人だからな。」

 旦那様の口から『龍一族』という言葉が出て、斎は何故か大きく目を見開いた。翠も初めて聞く事柄なのか、旦那様の話を真剣に聞いている。その様子を見るに、現世と幽世を繋ぐ門は随分と昔から封鎖されているような気がした。

「その門が封鎖されたために我々妖も、もう長いこと現世に足を踏み込めたことはない。それ故に門を封鎖した現在は幽世に迷い込む人間を見たことはなく、そなたの居た現世に現れる妖も殆どおらんかっただろう。そなたのように門を通らずに幽世に迷い込んだ者は、龍一族に門が封鎖されてからは見たことも聞いたこともないのだ。斎や翠が、初めて見る人間の対処に困るのも頷ける。」

「…じゃあ、何で私は幽世に?」

 二つの世界を繋ぐ門を通らなければ来ることが出来ない幽世に何故迷い込んでしまったのか、旦那様の話を聞いて茜は尚更分からなくなった。そして、あの雲龍図への謎がより一層深まり、無意識に眉間の皺が寄る。

「さぁな。だが、戻りたいのであれば、幽世と現世を繋ぐ門を通らなければならん。…よし、儂から龍一族に門を開けてもらうように伝言を届けよう。」

「本当ですか!?」

「あぁ、こんな事は今だかつて無い現象だからな。龍一族も取り合ってくれるだろう。ただ、この国は龍一族の居る国からかなり離れていてな、伝言が届くのに数週間は時間がかかる。一刻も早く戻りたいだろうが、そこは我慢してくれ。」

「…数週間。」

 想像していたよりも長い間、この幽世に居なければならない事実に茜は動揺を隠せない。それでも、ちゃんと現世に戻れるという確証を得て、幽世に来たばかりの時よりも少しは気持ちが楽になった。

「この国は謂わば島になっていましてね、龍一族の居る国には海を渡って行かなければならないのですよ。」

「えっ、そんなに遠いんですか!?」

 幽世について全く無知の茜に、翠が分かりやすく説明するように幽世の世界地図らしきものを何処から持ってきて畳の上に広げる。

「はい、こちらの島が我らの旦那様の治める国です。そしてこの広い大海原の向こう、大きな領土を持ちたくさんの妖たちが住まうの豊かな国が龍一族の治める国になります。」

 幽世の世界地図の上を、翠の白い指が指差す。海に浮かぶ小さな離島からその指先を、海の向こうの随分離れたところに位置する大陸へと滑らせた。現世の世界地図で言うならば、日本からアメリカといったところだろうか。茜が想像していたよりも、此処から龍一族の国とはかなり距離があるようだ。

「昔は、各国々に門があったと言っただろう。龍一族は皆が空を飛べ、素速く長距離移動出来る故に、古の頃より門の管理者となっているのだ。龍一族以外の妖は、船で何週間もかけて海を渡るしかないからな。」

「なるほど。」

 旦那様の説明から龍一族というものが、幽世の世界でどうゆう立ち位置なのかは理解できた。とりあえず今の状況では、龍一族に旦那様の伝言が伝わるのを待つしかなさそうだ。

「時間はかかるだろうが、案ずるな人間殿。龍一族に伝言が伝わるまでは、この国で過ごせば良い。それまでのそなたの生活は、この国を治める九尾が保証しよう。」

 そう言うと旦那様は九本の尻尾を揺らしながら、赤い瞳を細めて微笑んだ。最初はその大きな背丈の存在に圧倒されたけれど、きちんと茜の要望に答えてくれた旦那様には感謝しかなく「ありがとうございます!」と素直に告げる。

 幽世に来てからの緊張感や不安が、一気に柔らいでいく。ホッと肩の力を抜く茜の姿を見た翠は、面白い事を思い出したと言わんばかりに手のひらに拳をポンッと打ち付けた。

「そういえば!茜様は絵を描くことができるそうなんですよ、旦那様。」

「…翠、てめぇ!」

「そうなのか?人間殿よ。」

 翠の言葉に斎は、余計な事を言うなと言わんばかりに眉間に皺を寄せて睨んだ。しかし、そんな斎を気にすること無く旦那様は翠の話の先を聞きたがるように瞳を細める。斎と旦那様の真逆の反応に戸惑いながらも、茜は旦那様からの問いかけに「はい。」と答えた。

「そなたは、絵を描くことが好きか?」

「はい!好きです。」

「ほぉう。それは良い事を聞いた。ならば、現世に戻るまでの間はこの斎のところで絵を描けば良い。」

「え!?」

 今だに鋭い視線を向ける斎を一瞥してそう言い放った旦那様に、茜は驚いてポカンと口を開ける。その隣で旦那様に指名された斎は、澄んだ瞳を釣り上げて怒りをぶつけるように叫んだ。

「はぁ!?勝手なこと言うなよ!」

「だが、半妖のお前が一番適任じゃろう。絵が好きならば、尚良い。」

「それは素晴らしいですね、旦那様!斎殿のお弟子さんとして、茜様には絵の仕事の手伝いをしてもらいましょう!」

「良い案じゃな。」

「だから、勝手に決めるなって言ってんだろ!」

 名案だと頷き話し合う二人に、斎が噛み付きそうな勢いで抗議した。賑やかな三人のやり取りを聞きながらも、茜は二人の提案に密かに惹かれていた。斎の絵の仕事を手伝うことが出来るなんて、思ってもいなかった素敵な機会だと心が踊る。先程、斎の絵を見た時から茜はずっと胸の奥が疼くような熱を持っていた。こんな絵を描きたい。誰にも描けない、唯一無二の自分の絵を描いてみたいと。斎の絵に茜は強烈な憧れを抱いたのだ。そんな斎と共に絵を描くことが出来たら、どれだけ楽しいことだろうか。

「それに、ちょうどお前に頼みたい仕事がある。そのためには人手が居たほうが良いと思ってな。」

 少し声のトーンを変えて話し出した旦那様に、斎は眉間の皺を深くする。

「やっぱり、お前ら何か企んでるんだろ!?」

「企むなんて程のもんじゃない。ちょっとした頼み事じゃ。」

「同じようなもんだろうが!」

「…斎殿。」

 進んで行く話に苛立つ斎に、不意に翠が真面目な表情で畳の上に指先を揃えて深々と頭を下げた。その拍子に翠の白い生糸のような髪がサラリと揺れる。

「どうか、依頼の話を聞いて頂けないでしょうか。」

 先程と打って変わった真剣な翠の姿に、依頼の話というのが本当に大事なものだと茜にも分かった。どうやら、茜に斎の元で絵の仕事を手伝うように進めたのも理由があるようだ。部屋の中の空気感が少しだけ変わったのを感じながらも、茜は黙って斎の様子を伺った。やがて少しの無言が生まれた空間に、大きな溜め息が落ちる。

「…チッ、聞くだけだからな。」

 そう吐き捨てられた言葉には優しさが含まれていて、それは斎の人となりが分かる一瞬だった。









 斎の声に畳からそっと顔を上げた翠の表情は、眉をハの字にしながら嬉しそうに微笑んでいて「ありがとうございます!」と緩く口角が上がっていた。

 その様子を見ながら、斎は「で、人手が必要な依頼ってのは一体何だよ?」と口を尖らせた。

「実は、私の姉の結婚が決まりまして…」

催花(さいか)の?」

「はい!」

 斎の言った『催花』というのは翠の姉らしく、翠は話しながらも自分のことのように嬉しそうだった。

「へぇ、そいつはめでてぇな。相手は誰なんだよ?」

「儂の倅じゃ。」

「は?」

 低い声でそう告げた旦那様に、斎は目を見開いて驚いた。突然の報告に茜は思わず、「えっ、おめでとうございます!」と口走る。そんな茜に旦那様は「うむ、礼を言う。人間殿。」と、律儀に頭を下げてくれた。

「嘘だろ…」

「儂とて、こんな嘘吐かんわ。」

 今だに信じられないと言わんばかりに異形の右手で額を抑えた斎に、旦那様が鼻で嗤う。斎は旦那様を何処か警戒しているようにも見えたけれど、なんだか今のこの二人のやり取りは親子のようにも見えて不思議だった。

「それで、催花の結婚と俺への依頼はどう繋がるんだよ?」

 無理矢理に話を切り替えるように斎は、腕組みをして軽く首を傾げた。翠は再び真剣な表情をして、一つ頷くと口を開く。

「私からの依頼は、…姉上に傘を差し上げたいのです。」

「傘?俺は、傘は専門外だぜ?」

「それを承知で、お頼みしたいのです。傘と言ってもただの傘ではありません。白無垢の花嫁に、よく合う傘を。」

「…白無垢?」

 翠の言葉に、今度は茜が首を傾げた。白無垢の花嫁に、そこまで傘が必要だっただろうかと考える。確かに神前式を挙げる夫婦が和傘を使って記念写真を撮ったり、花嫁が和傘を差しているような光景を見たことがあるような気がする。結婚式の和傘には「降り注ぐ困難から守ってくれる」という意味もあるようで、よくよく考えてみれば和傘は必要なアイテムだとは思う。それでも、傘に対しての翠の表情は真剣そのもので斎を必死に見つめていた。

「狐の嫁入りには、必ず雨が降ると云われています。私の母もそうだったと聞きました。狐の嫁入りに、傘はどうしても必要なものなのです。」

 『狐の嫁入り』聞いたことのある言葉に、茜は耳を傾けた。天気雨のことを狐の嫁入りと言うのを聞いたことはあるが、実際に妖の狐の嫁入りも雨が降るとは驚きだ。知らなかった妖事情に、茜は少しだけ興味が湧いた。

「それ故に狐の嫁入りには、白無垢と同様に特別な傘を用意します。その傘を、斎殿の力をお借りして唯一無二の素晴らしいものにしたい。」

「…、」

「私の両親は私が幼い頃に亡くなってしまって、それ以来は姉上が一人で私を育ててくださいました。だから、この嫁入りは姉上への恩返しなのです。私は姉上を、幽世の中で一番幸せな花嫁にしたいのです。」

 翠の話を斎は静かに聞いていた。その表情は何を考えているのか分からないが、翠の思いを受け止めているように茜には見えた。

「儂からも頼む。斎、この依頼を受けてはくれぬか?」

 翠に続くように旦那様もそう言うと、その赤い瞳に俯いた斎の姿を映す。斎はじっと畳を見つめたまま、うんともすんとも言わなかった。

「斎殿の絵で、花嫁に似合うような素敵な傘にして頂けないてしょうか!」

 翠は祈るようにまた深々と斎に頭を下げた。その様子を斎は黙ったまま暫く見つめていたが、やがてムッと一文字に閉ざしていた口をゆっくりと開いて一言告げる。

「無理だ。」

「…え?」

 斎の発言に茜は驚いた。あのような絵を描くことが出来る斎が、何故翠の依頼を断るのか茜には分からなかった。

「そこをなんとかお願い出来ませんか!」

 必死に頭を下げ続ける翠に、斎は眉間に皺を寄せる。

「お前の頼みでも無理なもんは、無理だ。傘に絵なんて描いたことねぇし、だいたい傘はどうすんだよ?」

「承知しています!傘については、腕の良い職人に既に話を通しています!斎殿にはその職人と協力して、傘を作って頂けたらなと…!」

「はぁ!?協力してだと?尚更無理に決まってんだろ!俺は誰かと共に作品を作る気は無い!」

 強く翠を突き放すように言った斎に、茜は目を見開く。こんなに頼み込んでいるのに、斎がどうして依頼を受けないのか茜には全く分からなかった。それに、傘職人と協力して作品を作ると聞いた途端に一層強く反対した斎に疑問が浮かぶ。そこまで頑なに、この依頼を断るには何か理由があるのだろうか。

 ふと、この状況を静観している旦那様を見れば、斎の反応は想定済みだったように小さく溜め息を吐いている。胡座をかいて膝に肘を付き頬杖をついている姿は、斎への依頼を完全に諦めているようにも見えた。それでも尚、翠は必死に斎へと頭を下げていて少し気の毒に感じる。斎に睨まれながらも縋るような翠の視線に、茜は思わず声を上げた。

「あの!私も精一杯手伝うから、翠さんの依頼を受けてみませんか!?」

 茜の言葉に、部屋はシーンと静かになった。あぁ、言ってしまったと後悔した時には遅く、斎に鋭い視線で睨まれる。それは明らかに、茜を敵視するような冷たいものだった。その視線に驚き、茜は思わず怯む。

「そもそも俺はお前に仕事をさせる気もねぇし、誰とも馴れ合う気もねぇ。」

「…っ、」

 強い拒絶に茜は言葉を詰まらせる。斎から放たれた言葉は、予想以上に茜の胸に突き刺さった。それは修学旅行で班の皆に別行動を提案された時よりもずっと悲しく、一人で京都の街を歩いた時よりもずっと孤独に感じるものだった。そして、そう感じるのと同時に何故今日会ったばかりの斎に対してそんなことを思うのかと、茜は自分の事ながらに戸惑う。

「誰とも馴れ合う気も無い…か。随分な物言いだな、斎。」

「あ?」

 旦那様は座っていた座布団の上からゆっくりと立ち上がり、畳の上の斎に近付いた。天井すれすれの高さまで上がった顔は影になり、その表情はあまり伺えない。九本の尻尾が怪しく蠢いたかと思うと、次の瞬間には大きな手が容赦無く斎の顔を鷲掴んでいた。

「妖でも人でも無いお前には、誰かと馴れ合うことなど出来ないと申すか。己を知ろうともしない小童が。」

「っ!」

「お前だからこそと願う者の言葉も、お前と共に成し遂げようと勇気を出す者の言葉も届かないのなら、お前は本当にいつまでも半端者なのだろうな。」

 旦那様が言う『半端者』の言葉に、斎は酷く顔を歪めた。先程、斎の部屋にて自分は妖としては半端者だと話していた斎の少し寂しそうな表情を思い出す。その表情には、何処か見覚えがあるような気がした。

「斎殿に負担がかかることは、承知しています。…それでも私は、斎殿以上の絵師は知らないのです!斎殿しか居ないのです!」

 静かに顔を上げて話す翠の声が、部屋に響く。グッと力強く向けられた真っ直ぐな翡翠色の瞳に、斎は思わず目を見開いた。それでも、直ぐにその瞳から逃れるように、斎は顔を鷲掴んでいた旦那様の手を振り払い勢い良く背を向ける。

 その背中に、茜は現世での自分を思い浮かべた。修学旅行の班員の中で、ポツンと一人浮いていた自分の姿を。クラスメイトと上手く馴染めず、修学旅行の班員とも仲良くなれるわけがないと最初から必要以上に関わることを避けていた。お互いに居心地が悪いなら、自分一人の方がよっぽど気楽に思えた。けれど、本当は誰かと関わることを酷く恐れていただけなのかもしれない。

 そして今、翠が斎にしか頼めないと必死に訴える姿を羨ましくも思ったのだ。誰かにこんなにも必要されている斎が羨ましくて、自分には無い繋がりが寂しくて仕方がなかった。今まで感じたこともないような惨めさが、一気に茜の中から溢れて来る。

 そんな茜の心情を知らない斎は、背中を向けたまま悔しげに舌打ちすると「おい、茜!」と声を上げた。

「はっ、はい!?」

 突然呼ばれた名前にビビりながらも、茜は返事をする。暗くなっていた気持ちに一旦蓋をして、何事かと身構えれば、斎は茜に振り向き勢い良く告げた。

「明日、傘職人に会いに行く!お前の宣言通り、ビシバシ手伝ってもらうからな!弱音吐くなよ!」

「…えっ!?は、はい!」

 そう叫ぶと斎は、バッと襖を開けて足早に部屋を去って行く。茜はその様子を、ポカンと口を開けたまま見送った。一体、何が起こったんだ。突然斎から告げられた言葉を理解するのに、少し時間が必要だった。茜の隣からは、深々と頭を下げて「ありがとう、ございます!」と噛み締めるようにお礼を言う翠の声が聞こえる。

 それにハッとして、斎が翠の依頼を受け入れたことに気付くと、今まで強張っていた茜の表情は思わず緩んだ。
 
「はっはっはっ!誠に愉快な奴だ。」

 閉ざされた襖の向こうを見やり、笑いを隠せない旦那様は心底嬉しそうに瞳を細めた。その優しげな視線は、まるで息子の成長を見据える父親のように温かいものだった。

「人間殿…いや、茜殿。必ず、そなたを現世へお返しすると約束しよう。だが、それまでの間だけ斎を頼んでも宜しいだろうか?あんな事を言っても根は真面目で良い奴なんじゃ、ちょっと不器用なだけでのう。」

「…むしろ私が、斎さんの手伝いをしても良いですか?」

「先程、あやつもそなたを認めていただろう。儂は
、人間のそなたに頼みたいのじゃ。」

 そう言うと、旦那様は「よっこいせ」と元々座っていた座布団の上に腰を降ろした。九本の尻尾は、その背後で穏やかに揺れている。

「あやつは、半妖ということに凄く劣等感を感じていてな。まぁ、今の幽世に人間は居ないし、妖たちの中で上手く馴染めないのは仕方なかろう。他の者と関わることを極端に嫌がって、常に一人で部屋に籠もり絵を描いている。そこへ、急にそなたが現れてあやつも酷く動揺しただろう。けれどな、儂はそんな人間のそなたが現れてくれたことが斎にとって良い機会だと思うのじゃ。」

 旦那様の話を聞くに、半妖という斎の存在は幽世でも異色なものなのだろう。人の輪から外れてしまう気持ちは、茜にも痛いほど分かる。茜が現世で人と上手く関わりを持てなかったように、斎もまた幽世で妖と上手く馴染めなかったのだ。

「もちろん、儂の倅と翠の姉、催花との結婚の場に、斎が描いた傘があったら本当に嬉しく思うしな。翠も斎の描いた傘でなければ、納得がいかぬだろうよ。改めて、茜殿。斎と共に作品を作ってはくれぬか?」

「はいっ!」

 此方を伺うように赤い瞳で見つめる旦那様に、茜は自然と笑って返事をした。斎のことを気にかけている旦那様は、妖ではあるが本当に優しい表情をしていてこの依頼を断る理由が見つからない。何より、茜は斎の絵の手伝いが出来ることがとても嬉しかった。けれど、旦那様の話を聞いて茜の中で一つの疑問が生まれた。

「でも何故そんな初対面で、しかも人間の私をそこまで信用してくださるのですか?」

「…そなたが龍の絵に呑み込まれて、斎のところへやって来たと言ったからな。」

「え?」

 少し曖昧な旦那様の言葉に、茜は首を傾げる。龍の絵と斎の元へやって来たことに、何か関わりがあるのだろうか。何処か話に引っ掛かりを感じてあの雲龍図を思い浮かべていれば、不意に隣に座っていた翠が茜に向かって深く頭を下げた。

「茜様、改めて礼を申し上げます。斎殿と共に作品を作ってくださること、本当に感謝しています。」

「いえいえ!私も現世に戻るまでの間、斎さんの絵の手伝いが出来るのは嬉しいです!」

「そう言って頂けると、有り難いです!」

 翠はそう告げてから頭を上げると、その美しく細い髪がサラリと揺れた。そして、その頭の上に生えたふさふさとした白い耳をヒョコリと動かし、キュッと口角を上げて柔らかく微笑む。その様子は非常に可愛らしいもので、茜はついつい魅入ってしまった。

「さて、今夜はもう遅い。翠よ、茜殿を斎の元へと送ってさしあげろ。斎の事だ、どうせまだ帰っとらんだろう。」

「はい。…では、茜様。参りましょう。」

「はい!」

 旦那様の一言で、この場は一旦解散になった。部屋から出る時に旦那様から「傘の仕上がりを楽しみにしている。」と声を掛けてもらい、茜は俄然やる気が湧いて来る。一時はどうなる事かと思ったが、とりあえずこの幽世での過ごし方が見つかって本当に良かったと思う。斎に描いてもらった般若のお面を着けて、来た時と同じように旅館の廊下を歩いていれば、廊下に飾られた斎の絵の前で隣を歩く翠がポツリと言葉を溢した。

「私も姉上も、ずっと昔から斎殿の絵が本当に好きなんです。」

 そう言った翠は何処か懐かしむような表情で、廊下に飾られた斎の絵を見つめていた。

「だから、姉上の嫁入りの傘は、絶対に斎殿に絵を描いて頂きたいと思っていたんですよ。でも、傘は斎殿の専門外ですし、きっと人手も必要になると思ったので、この依頼を受けて頂けないかもしれないって…」

「そうだったんですね。」

「だからこそ、絵を描くことが出来る茜様が斎殿の元へ現れて、この方が斎殿を手助けしてくださるのなら、もしかしたらこの依頼を受けて頂けるのではないかと思ったのです。斎殿が言ったように、私にはこの企みがありました。正直焦っていたとはいえ、突然幽世の世界にやって来た茜様を強引に巻き込むような形になってしまって申し訳ないです。」

 肩を下げてハの字に眉を寄せた翠に、茜はグッと拳を作って見せる。

「私、斎さんを手伝って、きっと良い傘を翠さんのお姉様に渡してみせます!」

 確かに突然幽世にやって来て、初めて見る妖の存在や元の世界に帰れるのかという不安で凄く戸惑ったけれど、こうして元の世界へ戻れるように手を貸してくれる斎や翠、旦那様には感謝している。それに斎の絵に対しての翠の話を聞いて、どうにかその想いに応えられれば良いと茜は思った。そんな茜の言葉に、翠は翡翠色の瞳を大きく開いてパチパチと瞬きをする。そして、噛み締めるように口角を上げた。

「ありがとうございます!きっと姉上も喜びます!」

 旅館の玄関口までやって来ると、翠は「きっと外で斎殿は茜様を待っておられます。私は、この辺りで失礼させて頂きますね。」とにこやかに告げる。

「はい!」

「では茜様、また。」

 そう言ってひらりと手を振る翠を気にしつつ、茜は背を向けて旅館の外へと出た。すると、翠の言っていた通りに、旅館の柱に背中をぶつけて佇んでいる斎を見つけた。その姿に「あっ、あの!」と声を掛ければ、斎は黙って此方を一瞥する。澄んだ瞳が静かに茜を見つめて、暫しの沈黙の末に「…帰んぞ。」とぶっきらぼうに声をかけられた。

「はっ、はい!」

 突然やって来た幽世の世界に居場所なんてあるはずも無いのに、斎の言葉で茜は自分の帰れる場所が出来たことに心底安堵する。

「…それと、さっきは悪かった。」

 罰が悪そうに眉を寄せてそう告げた斎に、先程拒絶するように言われた言葉を思い出す。鋭く敵意を持って睨まれた視線は、茜に強く突き刺さった。けれど、今茜の目の前で此方を伺う瞳は、少し落ち着きを取り戻したのか随分と穏やかなものになっている。反省するように眉を下げた斎に、もう先程のような怖さを感じない。こうしてちゃんと謝ってくれるあたり、旦那様が言うように不器用なだけで根は真面目なのだろう。

「はい!改めて、よろしくお願いします!斎さん!」

「斎で良い。敬語も要らねぇから、普通に話せよ。」

 元気良く挨拶をした茜に、斎は呆れたように苦笑する。そんな斎に現世ではこんな風に誰かと距離を縮められたことがあっただろうかなんて、他人事のように茜は思った。それと共に、じわじわと嬉しさが湧き上がる。未知の世界の幽世で、こんな気持ちになるとは思いもしなかった。
 
「うん…!」

 茜の声を聞くと、斎は小さく頷いて歩き始める。その紺色の着物を着た背中を追いかけながら、茜は般若のお面の下で密かに微笑んだ。こうして茜の、前代未聞の幽世での生活がスタートしたのだった。







 翌日、恐ろしい般若の顔のお面を着けてた姿で茜は、『幽世』と呼ばれる妖の世界のまるで時代劇のセットのような街並みの一角に居た。

 昨夜、見慣れない妖たちの中を恐怖しながら歩いた賑やかな大通りから外れ、狭い路地を進んだ先、『傘』と書かれた提灯が軒先から吊る下がる長屋の前で立ち竦んでいる。提灯以外に看板は無く、何処か寂しげな雰囲気の店の前で、少しだけ強張った表情の斎が「ハァー」と一つ溜め息を吐く。

 そんな斎の様子を隣で伺いながらも、茜は昨日のことを思い出していた。修学旅行で拝観していた寺で雲龍図に呑み込まれ、いきなり幽世と呼ばれる妖の世界やって来てしまった。そして、この半妖の絵師と呼ばれる斎に出逢ったのだ。茜が元の世界『現世』に戻るためには、幽世と現世を繋ぐ門の番人である龍一族に接触しなければならないらしく、龍一族はこの国から遠く離れた大陸にあるため、旦那様からの伝言が龍一族に伝われるまではこの斎の元で絵の仕事を手伝うことになった。
 
 次から次へと進んで行く自身の状況に、一晩経っても茜は戸惑う頭の中を上手く整理出来ないでいる。そもそも、こんな漫画のような奇妙な状況を直ぐに理解出来るわけがない。

 それでも、不安だらけでどうしようもなかった茜は斎や翠、旦那様に手を差し伸べてもらい、なんとかこの幽世の世界を受け入れることが出来た。それに半妖の絵師だという斎の絵に心を揺さぶれ、今は斎の側で絵を手伝えることを嬉しく思っている。

 翠に連れられて旦那様と会ったその後、斎と共に最初にやって来た斎の部屋に戻ってから、茜はなかなか寝付けないまま一夜を過ごした。修学旅行で集合する筈でいた班員達はどうなったのか、龍一族へ伝言が届けば本当に元の世界に戻れるのだろうかと悶々と考えていたら、いつの間にか夜が開けていた。そして朝が来ると早々に、翠に告げられた「傘職人の元に会いに行く」と斎は茜を外に連れ出して今に至る。

 寂しげな雰囲気の長屋は、本当に店なのかと疑う程に静かで誰かの居る気配が無い。引き戸の前に立ち竦んだ斎は何かを決意したように「行くぞ」 と小さく呟くと、目の前の引き戸をその異形の右手で叩いた。
 
 暫くすると、中から「はいよ」と酷く掠れた低い声が聞こえて来た。ガラッと引き戸が開けられ出てきたのは、茜の着けている般若の面と引けを取らず、ゴツゴツとした大きな身体にモジャモジャの髭を生やし、睨み付けるように深い皺を寄せた恐ろしい表情の三つ目の男だった。

「ひぃっ!?」

 茜はその風貌に思わず悲鳴を上げて、斎の背中に隠れる。

「あ?なんだ?」とギョロリとした三つの目で探るように、恐ろしい風貌の妖は斎の背中に隠れた茜に視線を向けた。斎の背後でガタガタと震える茜に斎はまた一つ溜め息を吐くと、茜に向けられた妖の視線を遮るように斎は声を掛ける。

「…翠から話を聞いた絵師の斎だ。依頼された傘について話がしたい。」

「おー!そうか、そうか!噂に聞く半妖の絵師とはお前のことか!」

 妖は大きな三つの目玉を上から下へと斎に向けると、どこか納得したように頷いた。その眼力の強さに斎でさえ、一歩後退る。

「俺はここで傘屋を営む唐々(からから)だ。翠の奴から話は聞いている。半妖の絵師は妖嫌いで有名だったからな、まさかこの依頼を引き受けるとは思ってなかったぜ!」

 唐々と名乗った妖は溌溂とした声で、斎に告げる。妖嫌いだと指摘された斎はニヤリと笑う唐々をジッと見つめると、少し居心地悪そうに眉を寄せた。

「で、そんな半妖の絵師が連れてるお前は一体何者だぁ?」

「っ!」

 斎から視線を外した唐々は、その恐ろしい三つの目玉を今度は茜に向けてきた。ギョロリと此方を見つめられ、恐怖で何度も叫びそうになるのを必死に耐えながら震える唇を開いた。

「いっ、斎の絵の手伝いをすることになりました!茜です!」

「ほぉう!弟子ってところか!珍しいこともあるもんだ!」

「…珍しい?」

「あぁ。何でも半妖の絵師は、誰とも関わらねぇで引き籠もって絵ばっか描いてるって。依頼も、昔から九尾の旦那のばかりでよ。だから、弟子なんて取るもんかと驚いたわ!」

 唐々の話は、昨夜旦那様から聞いた斎の様子そのものだった。どうやら他の妖にも、斎は誰とも関わりを持たないと認識をされているらしい。そんな斎の様子は現世での茜の姿に重なり、なんだか他人事に思えなかった。

「…おい。そんな話より、早く仕事の話がしたいんだが。」

 三つの目玉を歪めてニヤリと笑う唐々の話を、斎は不機嫌さを隠さず遮るように声を放った。斎に睨まれた唐々は「あー、分かった。分かった。」と、それを気にする事もなく軽く受け流す。

「まぁ、店の中は少し狭いが、我慢してくれよ。」

 そう言って開けられた引き戸に、斎が遠慮なく足を踏み入れる。その背中を追いかけるように、茜も店の中へと続いた。室内は少し薄暗い印象があったが、よく見ると部屋隅にはたくさんの傘が立て掛けており、竹串や紙など傘を作るための材料や道具が大量に置かれていた。店というよりも、傘を作るための製作所というような店内だ。

 そして畳の上には一つの和傘が、開かれた状態で置いてある。

「翠の奴に言われて、作ったやつがこれだ。」

 唐々はそう言うと、そのゴツゴツとした大きな手でその和傘を斎に手渡した。斎は黙ってそれを受け取り、じっくりと和傘の隅々まで眺め始める。その横から、茜も斎が持つ和傘をそっと覗き込んだ。

 少し大きめの和傘は、分厚い白い紙が一つの皺も無く綺麗に貼られている。細い竹を何本も使った内側の骨組みはとても細かく、色鮮やかな糸を何本も使い仕上げられていた。一見武骨そうな唐々が作ったとは思えないほどに、繊細な細工が施された和傘はとても美しく、職人の魂が込められているのがよく分かる代物だった。

 美しい和傘の仕上がりを見るに、翠は随分と前から唐々にこの和傘の依頼をしていたのだろう。斎を少し伺うように見れば、何とも言えないような複雑そうな顔をしていた。

「…これに、俺がそのまま絵を描いても大丈夫なのか?」

「安心しな、この傘に貼られた紙は唯の紙じゃねぇ。幽世でも一級品の『彩雨紙(さいうし)』を使ってるんだからな!」

「彩雨紙…?」

「あぁ、彩雨紙は非常に水に強く、丈夫な素材の紙だ。豪雨が降ろうが、荒ぶる嵐の中でも破れない。傘としての持続性も高いし、絵付けをするのも最適でな。描きやすさは保証するぜ。」

 唐々の言葉に、和傘を不思議そうに斎は眺める。『彩雨紙』なんて初めて聞く紙の名前に、茜もとても興味が湧いた。現世でそんな名前の紙は聞いた事もないから、きっと幽世ならではのものなのだろう。

「まぁ、なかなか採取困難な珍しい素材から作られる紙故に値もかなり張るがな。仕上げとして、半妖の絵師殿の絵の上から防水用の油を塗って完成させるつもりだ。こんな店だが、俺は傘を作って二〇〇年は経つ!腕はあるから任せとけよ!」

 ガハハッと笑い、力強く発せられた声は静かな室内でよく響く。唐々の勢いに斎は少し圧倒されつつも、その後も淡々と和傘について会話をしていた。

 二人が話しているのを横目に、茜はその和傘に目を向ける。茜が思っていたよりも大きな和傘は、汚れを知らない雪のように真っ白だ。この和傘のキャンバスに、斎は一体どんな絵を描くのだろうか。翠の姉だという狐の嫁入りも、一体どんなものなのか今のところ全く想像もつかない。けれど、茜は少しわくわくしていた。

 今までに経験したことない出来事の連続で想像力が感化され、なんだか凄く絵を描きたくなるような衝動に駆られる。友達も居なく何も変わり映えしない毎日をひっそりと過ごしていた茜が、まさかこんな非日常を味わうなんて思いもしなかった。得体の知れない妖というものは怖いけれど、見たことないものへの好奇心が少しだけ湧き上がる。この気持ちを早く描いてみたい。

 そんな事を考えていたらいつの間にか、斎と唐々の話は一段落着いたらしい。

「半妖の絵師殿が万が一失敗した時は、また同じものを作ってやるからよ。最高な絵を頼むぜ!」

 和傘を汚れないように綺麗な布に包んで、唐々は斎に渡す。手渡された斎は、それを丁寧に受け取った。

「じゃあ、また何かあったら来いよ!」

「…あぁ。」

 大きな三つ目を少し和らげた唐々は、ゴツゴツとした手を軽く上げて見送る。そんな唐々の様子に、第一印象で受けた怖いというイメージは少し払拭されて、見た目からは想像も出来ないくらいに面倒見が良さそうな一面を見た。

 それとは逆に、斎は唐々の溌溂とした態度に圧倒されたのか何処か疲れたような表情をしていた。妖と関わることを避けていた斎にとっては、初対面の唐々とじっくりと仕事の話をするのは少なからず気を使っただろう。昨日あれだけ依頼を受けることを拒んでいたけれど、真剣に依頼を取り組む斎の姿に何も心配することは無さそうだ。

「そういえば、嬢ちゃん。」

「は、はいっ!?」

 斎の様子を横目に見ていれば、不意に唐々から声を掛けられた。ギョロリと三つの目玉を向けられると、やっぱり恐ろしく茜はビクリと肩を揺らす。自分に一体何の用だとビビりながらも視線を向ければ、唐々は三つ目の己の顔を人差し指でツンツンと指差した。

「最高にいかしてる面だな!」

「へ!?」

 一瞬唐々の言葉が理解出来ずに、茜はポカンと口を開いた。その茜の隣で「ブフッ!」と吹き出した斎がクスクスと肩を揺らしている。

 そんな斎の姿と唖然としつつ、茜は自分の顔にゆっくりと手を伸ばした。コツンと触れた面の感触に、そこに描かれた恐ろしく強烈な鬼の顔を思い出す。幽世という妖の世界で、この鬼のお面を着けている事をさほど気にしていなかったが、いかしている顔と指摘されてじわじわと羞恥心が湧き上がる。

 そんな茜の姿を見て、再度吹き出し笑っていた斎を鬼の面の下から睨み付けるが、茜の視線は斎には全く届かないようだ。暫く肩を揺らした後、斎は何でもないような表情をして店の引き戸を開けた。

「邪魔したな。」

「おう。」

 布に包まれた和傘を大事そうに持ったまま店を出て行く斎に、少しムスッとしながらも茜も続く。外に足を踏み出して引き戸を閉めようと振り返れば、店の中で和傘の材料になる竹に触れた唐々の姿を見た。ゴツゴツとした大きな手で、信じられないほどに優しく竹に触れる唐々に、翠がこの和傘を依頼した理由が分かったような気がした。

「おい、何してる?」

 斎の声に、茜は慌てて引き戸を閉める。和傘を大事そうに抱えていた斎は、澄んだ瞳で茜に視線をやった。

「次は、画材を集める。早く付いて来い。」

「う、うん!」

 斎はそう淡々と告げると、背を向けて歩き出す。茜はその背中を真っ直ぐに追いかけた。唐々が丹精込めて作った和傘に、斎の絵が描かれるのが酷く待ち遠しい。突然始まった幽世での生活に戸惑いながらも、茜は現世に居た時よりも心が弾むように軽くなっているのを感じた。








「あー!駄目だ!」

 斎はそう叫んだかと思えば、クシャクシャに和紙を丸めて部屋の隅にポイッと投げ捨てた。丸められた和紙の塊は一つどころではなく、もう部屋中に転がっている。

 傘職人の唐々に会いに行ってから、数日が経った。あれから、斎は和傘に描く絵を毎日のように考え続けている。しかし、なかなか納得の行くデザインが決まらないのか、描いては和紙をクシャクシャに丸めて、また描いては丸めてをずっと繰り返しているのだ。

「全然、描けねぇ…」

 苦しそうに呟き、頭を抱えて悩み続ける斎。それを横目に見ながら、茜は和紙が散乱する部屋をてきぱきと片付ける。クシャクシャに丸められた和紙を何枚か広げると、そこには縁起の良い美しい鶴や華麗に舞う蝶々、さらに色とりどりの花が描かれていた。

 「綺麗…!」と素直に呟く茜に、斎は何処か不服そうに眉を潜めて「はぁー」と深く溜め息を吐く。一体、斎はこの絵の何に納得がいっていないのか、茜には全く分からず首を傾げるしかない。絵筆で色鮮やかに描かれている鶴や蝶、花などの絵のデザインは豪華でおめでたい結婚式には相応しいと思うのだけど。

 幽世にやって来て斎の元に置いてもらってから数日経つが、龍一族に旦那様の伝言が届いたという報告は無く、今だ元の世界に戻れる様子は無い。けれど、こうやって斎の描く絵を近くで眺めていられる日々は、学校生活の何倍も充実しているように思えた。

 茜は主に斎の作業部屋の片付けをしたり、画材を買いに行く手伝いをしたりして過ごしている。斎が受けた依頼の絵のデザインに深く携わる事はないけれど、雑用をする傍ら密かに自分でも絵を描いたりしていた。

 数日間斎と共に過ごしているとは言っても、斎は翠の依頼のデザインに相当悩んでいるらしく、唐々に会いに行った日からずっと部屋に籠もりっぱなしだった。会話も本当に必要最低限しかしなく、茜に雑用を頼む時だけ一言二言話す程度だ。

 茜は今まで誰かと親しい関わりを持てたことが無いため、斎とのコミュニケーションが上手く取れないことに悩んでいた。そして、斎も幽世の世界で誰かと深く関わることを避けてきたようだから、お互いにコミュニケーションを取ることは苦手な分野なのだろう。それでも、斎の元で少しでも絵を学べたらと考えている茜にとっては、もう少し斎と親睦を深めることが出来たら良いと思っていた。

 せっかく大好きな絵について分かり合えそうなのに、斎はここ数日絵のデザインが決まらずにピリピリとしていて、とても話しかけれる状況ではなかった。また故意なのか無意識なのか分からないが、斎は少し素っ気ないような態度をとって茜と距離を置こうとしているようにも思えた。まるで見えない壁が、茜と斎の間に張られているようだ。

 やはり茜が此処で過ごす事は斎にとって、多少なりともストレスを感じているのだろうか。旦那様も言っていたが、斎は元来誰かと関わることを極端に嫌がって、一人で部屋に籠もり絵を描いていたようだ。そんな斎の絵を描く環境を、自分が邪魔してしまっているように思えて茜は少し落ち込む。思わず出てしまいそうになった溜め息を、慌ててゴクリと呑み込んだ。

 すると不意に、店先の方から「御免ください。」と声が聞こえてきた。部屋では散乱する和紙の塊の中で、頭を抱えたままの斎が居る。この状況では客の前に出れないだろうと、斎に代わって茜は仕方なく店先に向かった。

 その前に、斎にもらった鬼の面も忘れずに着ける。この面を着けていると、斎の絵に込められた妖力のおかげで、人間だと気付かれずに妖と対話できるのだ。着けることを躊躇するくらいに強烈な鬼の顔でも、幽世で難なく過ごせているので有り難い。

 店先へ向かうと、暖簾を潜りチラリと顔を見せた翠が居た。

「茜様!」

 妖が翠だと分かった瞬間、茜は着けていた鬼の面を素早く取って近寄る。

「翠さん!どうしたんですか?」

「依頼した傘の進行はどうかと思いましてね。ちょっと、無理にお願いしてしまいましたから。」

「…あー、ちょっと行き詰まっているみたいです。」

「…そうですか。」

 翠はそう呟くと、その翡翠色の瞳を伏せた。ふさふさの耳を少し動かして、翠は何か考え込むように黙り込む。そんな翠に、部屋の中で頭を抱え込んでいた斎の姿が思い浮かび、茜は小さい声で聞いた。

「…やっぱり、私は此処に居てもいいのでしょうか。」

「え?」

「なんだか、私が居ることで斎の仕事を邪魔してしまっているように思えて…」

「そんな事、ありません!」

 お面を両手で抱えて肩を落とす茜に、翠はきっぱりと言い放った。そして、苦笑するように翡翠色の瞳を柔らかく細める。

「斎殿はずっと一人で絵を描いて来たので、きっと誰かと共に居ることに戸惑っているのだと思います。」

 開けっ放しの店先の入口から緩やかな風が入り込み、翠の背後の暖簾がゆらりと揺れる。

「斎殿の母上は妖で、しかも龍一族の方でした。」

「え?」

 翠の口から出てきた『龍一族』の言葉に、茜は驚きを隠せなかった。以前、旦那様から『龍一族』の話を聞いた時に、驚いたように目を見開いていた斎の姿を思い出す。

「斎殿は半妖とは言っても、右手以外は殆ど人間に近い存在です。妖力も普通の妖は身体全体に流れていますが、斎殿は極僅かな妖力しか流れておらず、その妖力の大半があの右手に集中しています。斎殿の右手だけは、龍一族の血を強く引き継いだのでしょう。」

 肌は青黒く淀み、硬い鱗のような破片が所々にへばり付いた斎の右手。その右手から生まれる斎にしか描けない、唯一無二の絵を茜は知っている。

「そんな斎殿を龍一族は妖とはお認めにならず、斎殿の母上は故郷を遠く離れたこの地で一人で斎殿をお育てになったのです。ずっと親子二人きりで生活をしていらっしゃったのですが、もう何十年も前に斎殿の母上は亡くなってしまいましてね。斎殿はそれっきり、お一人で絵師を営みながら暮らしています。やはり半妖ということもあってか、昔から周りの妖達に対して斎殿は無意識に距離を置いてしまうようで…。斎殿の母上が亡くなってしまった今では、斎殿と軽口を叩ける仲なのは私くらいなのですよ。」

 話しながら少し寂しげに微笑む翠に、茜は以前自分は『半端者』だと言っていた斎の気持ちが少しだけ分かったような気がした。それは、斎だけじゃなくて茜にも通じるものがあったからだ。

 現世に居た頃の茜は、斎と同じように『半端者』だった。同じ人でありながらも、何処か浮いていて常に自分だけが上手く世界に馴染めていないような気がしていた。クラスメイトとは仲良く出来ず、人の輪に加わることの出来ない自分を情けなく思った。普通のことが出来なくて、それが当たり前に出来る普通の人間になりたかった。斎も茜もただ生きているだけなのに、何故こんなに自分を不完全な者だと思ってしまうのだろう。それは酷く悲しいことのように思えた。

「これから先、きっと誰かと関わる時が来るのでしょう。これは、いつか向き合わなければいけない斎殿の問題なのです。ですから、茜様が気にすることはありませんよ。」

 透けるような翡翠色の瞳は、相変わらず穏やかだ。翠のスゥーッと心に染みるような優しさに、茜は幽世に来てから随分助けられている。

 そして、翠の言葉は茜自身にも言われているように感じた。学校生活で馴染めないと嘆き、無意識に他者から距離を取りながら過ごす日々。気を遣わせて嫌な思いをさせるくらいなら、一人で居る方が気楽で良かった。だからこそ茜は、ずっと一人で絵を描き続けたのだ。

 でも、ふとした瞬間にそれは少し寂しいものだと何処かで気付いていた。だから、同じように絵を描いている斎に心が惹かれたのかもしれない。斎の絵を見た時に、彼の元で彼と共に学びたいと強く思ったのだ。斎も、そして茜も戸惑いながらも、必死に変わろうとしている。

「…翠さん、ありがとうございます。」

「いえいえ!私が少々強引に、斎殿に依頼を頼んでしまいましたからね。茜様にも、負担をお掛けします。」 

「そんな事ありません!私、翠さんの依頼の傘の完成が凄く楽しみなんです。斎の描く絵を早く見たいですし、私も斎みたいに誰かの心を動かすような絵が描きたい。」

 そう話す茜の真剣な眼差しに翠は少し目を見開いてから、嬉しそうに微笑んだ。

「茜様なら、きっと良い作品が出来ます。」

 それから暫く会話をしていた後、翠は「そろそろ休憩時間が終わってしまうので、私はこれで失礼させて頂きます。」と軽く会釈して店先の暖簾を潜る。その背中に「また、来てください!」と笑って応えれば、ふさふさとした尻尾を揺らして「はい、また!」と優しげに翡翠色の瞳を細めてくれた。










 翠が帰ってから、茜は斎との接し方についてよく考えてみた。苦手なコミュニケーションはともかく、せめて斎が悩んでいる和傘のデザインについて何か力に成れることは無いのだろうか。いつ元の世界に戻れるか分からないけど、この和傘の完成はやっぱり見届けたいと茜は強く思った。

 あれやこれやと悩みながら、日が少し傾いた空の下、店の側に佇む桜の木を部屋の窓から眺める。斎は相変わらず作業部屋に籠もりっきりで、茜は雑用仕事を終えて特にやることもなく時間を持て余していた。

 そんな時はやっぱり絵を描くことに限るなと、茜は修学旅行の時から背負っていたリュックの中から、スケッチブックと水彩色鉛筆を取り出した。茜と共に雲龍図の龍に呑み込まれて幽世にやって来たのは、この背負っていたリュックと修学旅行のしおりだけだ。

 修学旅行とは言っても、やっぱり気分転換に絵が描きたくなるだろうと、リュックにスケッチブックや水彩色鉛筆を忍ばせて置いて良かったなと今では思う。本来、修学旅行先の旅館での空き時間なんかにこっそり絵を描こうと思っていたのだが、幽世に来てから斎が作業部屋に籠もりっきりなので暇な時間が多くこの画材は大活躍をしていた。

 グラデーションを作るように、綺麗に並んだ水彩色鉛筆をそっと撫でる。この水彩色鉛筆は、何年か前に茜が画材屋で一目惚れしたもので、当時お小遣いを頑張って貯めて購入した思い出深いものだった。すらすらと描きやすくて、色鮮やかで使い勝手の良い水彩色鉛筆は今でも茜のお気に入りだ。

 パラリとスケッチブックを捲って、何を描こうかと思いながら視線を彷徨わせれば、目の前に咲き誇る桜に目が止まる。いつまでも散る気配の無いそれは、生命力に満ち溢れていてとても美しい。題材は即決した。

 綺麗に並んだ水彩色鉛筆の中から、薄いピンク色を一本選び丁寧に色を塗る。花の濃淡を意識するように、濃さの違うピンク色を重ねて目の前で咲き誇る桜を描いていく。色々ゴチャゴチャと考えていた頭の中が、絵を描いていると徐々に落ち着いていくようで心地良い。

 水彩色鉛筆であらかた塗り終えると、茜は筆箱の中から一本の筆を取り出した。その筆は便利なことに、持ち手の部分がスポイト状になっていて水を入れられるようになっている。軽く持ち手のスポイト部分を押すと、筆先から水が出てきて何処でも筆を使うことが出来る優れものなのだ。

 便利な筆先を水で濡らし、スケッチブックに描いた桜を塗っていく。筆先で薄いピンクを塗るとどんどんと色が溶けていき、まるで透明水彩のような仕上がりになるのだ。桜の濃いピンクと薄いピンクの濃淡の境が溶けて混ざり、より綺麗なグラデーションになる。夢中になって筆先を走らせれば、あっという間にスケッチブックの中では美しい桜が咲いていた。

 水彩色鉛筆は普通に色鉛筆としても使えるが、水彩画のような仕上がりも両方楽しめるところが面白くて、茜の好きな画材の一つだ。

「おい、それ…」

 窓の外の桜を眺めながら、ひっそりと絵を描いていれば、突然声を掛けられた。その声に顔を上げれば、ずっと作業部屋に籠もっていた筈の斎が、絵を描く茜のすぐ近くに居た。いつの間に、この部屋にやって来たのだろうか。絵を描くことに集中していた茜は、開けっ放しの襖から部屋の中へと入って来た斎の存在に全く気付かなかったようだ。

 斎は少し乱れた黒髪をそのままに、静かに近寄って来ると茜の手元を覗き込む。その様子に茜は驚いて、思わず斎の横顔を凝視した。長いまつ毛が囲む澄んだ瞳が茜の絵を見た瞬間、光を得たように瞬く。

 暫く間、斎の視線は茜の手元にあるスケッチブックから離れなかった。どれくらいの時が過ぎただろうか。数分間にも、一瞬にも思えたような何とも不思議な時間だった。

 そして、斎は何か確信を得たように口を開く。

「これだ。」

「え?」

 斎の言葉の意味が分からずに思わず聞き返せば、斎はずっとスケッチブックに向けていた視線を茜に向ける。

「和傘のデザイン、これにしたい。」

「えっ!?」

 想像もしていなかった発言に驚く。いきなりどうゆうことだと混乱していると、斎は畳の上に置かれている綺麗に並んだ水彩色鉛筆を、その青黒く鱗が張り付いた異形の右手で指差した。

「これは、一体なんだ?」

「この画材の事?『水彩色鉛筆』って言うんだよ。」

「水彩?」

「見た目は普通の色鉛筆なんだけど、これは紙に塗ると水に溶けて水彩絵の具みたいに描けるの。」

「こんなの幽世じゃ見たことねぇな。」

 物珍しそうに「もっと見ても良いか?」という斎に、茜は喜んで水彩色鉛筆とスケッチブックを手渡した。

「幽世に、こんな透明感の出る絵の具はねぇよ。元の紙の素材を隠すような、もっと濃くて強い発色になる。」

 斎の言葉に茜はふと、斎の部屋に散らばった色とりどりの小瓶を思い出す。幽世に存在する鉱石を砕いた粉状のそれは、現世でいう『岩絵具』というものに似ているが素材は全く違うもので、確かに水で薄めても少し強い発色のする不思議な絵の具だった。

「あの、和傘のデザインでずっと悩んでたことって…?」

「和傘の彩雨紙の質が良いものだから、どうしても生かしたかった。しかも今回の依頼は和傘で、あくまでも白無垢の花嫁を際立たせるものじゃねぇとな。」

 斎は持っていたスケッチブックをそっと置いて茜を見る。分厚く丈夫な彩雨紙と斎の普段使ってる紙では、また違った絵の表現になるのだろう。作業部屋にたくさん転がっていた和紙の塊は、斎が翠の依頼に一切妥協することなく取り組んでいた証拠なんだと改めて知った。

 けれど、茜の中で水彩画に対する一つの不安が生まれる。

「でも、水彩画は『絵の具で塗る』っていうよりも『色水で塗る』っていう感じだから、傘に描いたら絵が雨で滲んで全部落ちちゃうかも…」

「それは大丈夫だ。傘職人の唐々に詳しく聞いたが、俺が絵を描いた後に特殊な油を塗るそうだ。特殊な油は、おそらく妖から作られている。その油を塗ればどれだけ雨が降ろうが傘は破れないし、絶対に水を通さないから絵を傷付けることは無いらしい。」

「そうなんだ、凄い!」

 幽世にそんな便利なものが存在するとは、普通に驚いた。きっと、現世での常識では考えられない特別なものが、幽世にはたくさんあるのだろう。何はともあれ、そんな油があるなら傘に水彩画を描いても安心だ。

「俺の作品はいつも絵が主役だ。でも、今回は違う。それでも花嫁を目立たせながら、雨が降ってる中でも輝きを消さないものが良い。」

 そう言った斎の真っ直ぐな瞳は、まるで水彩画のように透き通るような輝きを秘めていた。やっぱり、此処に置いてもらえて良かったと茜は思う。こんなに真摯に絵に向き合っている斎に、出逢えて良かったと。

「じゃあ、水彩絵の具を買いに行かないとね!」

 茜は元気よく声を上げた。突然の茜の提案に斎はパチパチとゆっくり瞬きをして、不思議そうな表情をする。

「この水彩色鉛筆じゃあ、あの大きな和傘は塗りきれないから。幽世の画材屋さんを回って、水彩絵の具を見つけに行こう!」

「俺だって長年絵を描いてるけど、こんな画材見たことねぇんだ。…正直見つかるか、分かんねぇぞ?」

「私は此処で、斎の仕事を手伝いたいって本気で思ってる。何でもするって宣言したしね。それに何より、斎が本気で描いた絵が見てみたい。」

「っ!」

「翠さんの依頼を成功させる為にも探そうよ!きっと水彩絵の具じゃなきゃ、斎の思い描いた絵は生まれない!」

 茜の言葉に斎は目を見開く。そして、覚悟を決めるように強く頷いた。

「よし、今からその水彩絵の具ってやつを探しに行くぞ!」

「うん…!」

 緩く口角を上げて颯爽と歩き出した斎の背中を、茜は素早く立ち上がって追いかける。ようやく斎の力に成れそうなのが嬉しくて、じんわりと胸が熱を持つ。翠の依頼と共に、斎と茜の関係も少しずつ進み始めていた。







 




 色とりどりの絵の具や大量の紙、大小さまざな絵筆が並べられたこじんまりとした店内を、ぼんやりとした行灯の灯りが照らす。その中心で茜が描いたスケッチブックの桜の絵を見ながら、人間のように着物を着た三毛猫の妖が心底うんざりとした表情で声を上げた。

「だから、そんな絵の具はウチには置いてないよ!」

「何か似たような絵の具の話を聞いたとか、どんな情報でも良い!何か知ってることはねぇのか!?」

 三毛猫の妖に掴みかかる勢いで聞く斎に、茜は慌ててその異形の右手を掴んで止める。咄嗟に触れてしまった斎の右手は、鱗が少し固くて不思議な肌感だったけれどちゃんと温もりを感じた。

「ちょっと落ち着いて!」

そう声を掛ければ、斎はムスッとしながらも息を深く吐き出して心を落ち着けようとする。もう何度目か分からないこのやり取りに、二人は相当疲弊していた。

 水彩絵の具を見つける為に、この街に存在する全ての画材店をひたすらに探し続けて数日が経った。長年、絵を描き続ける斎でさえ見たことがないという水彩絵の具は、やはりどの店を探しても見つけられずにいた。毎日般若のお面を着けて、疲労で足が震えそうになる程に何件もの店を訪ねては、良い結果が得られずに肩を落として帰宅する日々を送っている。そんなに直ぐに見つかるとは思っていなかったけど、こんなに難航するとは…。数日間の疲れがピークに達したのか、先程のように斎は度々店員に掴みかかりそうになっている。

 そして今日も何の手掛かりも無く一日が終わり、気付けばもうすっかりと日が暮れて夜の帳が降りている。店内の窓から暗くなった外の景色を見て、茜は重たい溜め息を吐いた。茜たちが行ける範囲の画材店では、この店が最後の一軒だ。この画材店にも水彩絵の具が無いとしたら、きっとこの旦那様が治める国の外にまで探しに行かなければならないだろう。そうなってしまえば、翠の依頼にとても間に合いそうにない。

 だからこそ、この画材店に懸ける想いが斎も茜も強かった。斎が描きたい絵を描く為には、どうしても水彩絵の具が必要なのだ。ピリピリとした緊張感を纏いながら、険しい表情で必死に頼み込む斎の様子に、店員の三毛猫の妖は潰れた鼻でフフッと笑った。

「あの妖嫌いで有名な半妖の絵師とやらが、最近は弟子を取ったりと活動の幅を広げてると聞いてはいたが…まさか、そんな必死に頼まれ事をされる日が来るとはね。」

「…頼む!何か手掛かりでも良いから、教えて欲しい!」

 深々と頭を下げた斎に、茜も「お願いします!」と一緒に頭を下げる。

「まぁ、何か知ってたら教えてやりたいんだけどさ、本当に聞いたこともないからね。」

 三毛猫の妖は、片手の肉球をプニッと頬に当てて困ったように言う。本当に知らないような妖の様子に、斎と茜はガックリと項垂れるように肩を落とした。やっぱり、この幽世には水彩絵の具なんて画材は存在しないのだろうか。失われていく希望に、眼の前が真っ暗になりそうだった。

「あ!でも、ウチの爺さんなら、もしかしたら知ってるかもね。」

「本当か!?」

「本当ですか!?」

 パチリと大きな瞳で瞬きして、そういえばと言わんばかりに話す三毛猫の妖に斎と茜は勢い良く詰め寄った。何でも良いから、水彩絵の具への手掛かりが欲しい。三毛猫の妖はそんな二人に焦りつつも、「まぁ、落ち着けって!」と斎の額にプニッと肉球を押し当てて静止させる。

「ちょっと爺さーん!来てくれない!?」

 三毛猫の妖が大きな声で店の奥へと呼び掛ける。暫くすると、店の奥からドスンッドスンッと音を立てて、何かが徐々に此方へと近付いて来る気配を感じた。

「なんじゃ騒がしい!落ち着いて飯も食えんわ!」

 重い足音を立てながら現れたのは、まるで招き猫のような寸胴の猫だった。丸っこいフォルムの猫は、着物をだらしなく着て大きなお腹に腹巻きを巻いている。細い瞳は、長く伸びた眉毛に隠れて微かに見える程度だった。

「半妖の絵師が、絵の具を探しているらしいよ。顔料少なめで、水に溶けやすいやつ。描き味がこんなふうになるんだ。」

 茜が描いたスケッチブックの桜の絵を見せながら、三毛猫の妖は「爺さん」と呼んだ招き猫のような寸胴の妖に聞いた。爺さん猫は茜のスケッチブックを見ると、眉毛に隠れた細い目をシバシバと瞬かせて大きく見開く。

「何か知ってるのか!?」

 まるで何か心当たりがあるかのような爺さん猫の反応に、斎が間髪入れずに詰め寄った。それに対して、爺さん猫は口をモゴつかせて何処か煮えきらないような態度で言う。

「…似たような絵の具を持ってはいるが、」

「本当か!?いくらだ!?出来れば、今すぐにでも欲しい!」

「売り物じゃねぇんだよ。」

「は?」

 爺さん猫は、斎の勢いを削ぐようにきっぱりと言った。その言葉に、斎は眉間に深く皺を作る。

「俺は趣味で珍しい画材を集めてる。その絵の具は、その一つだ。」

「買い取らせて頂くことは…?」

「駄目だ!あれを手に入れるのにどれだけ苦労したことか!そもそも、幽世と現世を繋ぐ門が閉ざされてから、新たな画材の調達なんて出来なくなったんだ!」

 絵の具を売るつもりは無いと激しく抗議する爺さん猫の口から、いきなり幽世と現世を繋ぐ門の話が出て来て茜は思わず目を見開いた。その横で少し真剣な眼差しになった斎が、落ち着きを持った声で聞く。

「ちなみに、その絵の具を見せてもらうことは出来るか?」

「はぁ!?売りもんじゃねぇって言ったんだろ!」

「爺さ〜ん、見せるくらい良いじゃない。持って来てやんなよ!」

「むー…仕方ない!特別じゃぞ!」

 爺さん猫は斎の提案に文句を言っていたが、三毛猫の妖の一言で部屋の奥へと重たい足音を響かせて例の絵の具を取りに向かう。その背中に茜は「ありがとうございます!」と礼を言って、爺さん猫が戻って来るのを待った。

 暫くして、両手に木箱を持った爺さん猫が再び店内に戻って来た。大事そうに抱えられた木箱の中身を見せてもらうと、そこには現代の現世では見たことがない錫製のチューブに入れられた絵の具が綺麗に並べられていた。かなりの年代ものと見られる絵の具の箱には『みづゑ』と小さく書かれていて、それに茜はこの絵の具が水彩絵の具だと確信する。その昔、日本では水彩画のことをみづゑと呼んでいたらしい。

「門が封印されてから数十年後、龍一族の取り決めを知らず現世に滞在していた妖が幽世に帰るために龍一族に頼み込んで、秘密裏に門を開けさせたのだという。それで、もう二度と現世に戻れないかもしれないと思ったその妖は、当時の現世でしか手に入らない貴重な物を大量に持ち込んで幽世に帰って来たのだ。その一つが、水に溶ける絵の具なんじゃよ。」

 爺さん猫の話を聞きながら、茜はふと考える。確か水彩絵の具が西洋から日本に伝わったのは幕末から明治時代の頃だったはずだ。仮に門が封印された後、現世の日本で水彩絵の具が伝わったのだとしたら…つまり、幽世と現世の門が封印されたのは、今から少なくとも一五〇年以上は前のことになるのではないか。そんな憶測が、茜の中で浮かび始めた。

「とにかく!本来、手に入るはずが無かった貴重な絵の具じゃ!絶対にやらん!」

 爺さん猫の言い分はよく分かった。けれど、斎も茜もこの水彩絵の具はどうしても譲れない。

「そこを何とか頼む!」

「どうか、お願いします!」

 斎と茜は、二人揃って本日何度目かの頭を下げた。これを手に入れる事が出来れば、斎の思い描く和傘のデザインに近づくのだ。

 祈るように頭を下げる二人に三毛猫の妖は、ペロペロと呑気に毛づくろいをしながら面倒くさそうに爺さん猫に声掛けた。

「爺さん、アタシからも頼むよ。そろそろ店閉いたいのに、コイツら中々帰ってくれなくてさー。」

「あの絵の具が、どれだけ貴重なものかお前に分かるのか!」

「そうは言ったって、爺さんは集めるだけ集めてどうせその絵の具を使いはしないんだろ?貴重な絵の具って言っても使わなければ、価値も分かんないじゃないか!」

「それは、そうだがな…」

「それに、あの半妖の絵師が絵を描くんだよ?どんな絵を描くのか見たくないの?」

「むー…」

「爺さ〜ん!」

「…チッ!可愛い孫の頼みじゃあ仕方ねぇな!分かった!くれてやるよ!」

 三毛猫の妖の猫撫で声での説得が効いたのか、渋々ながらも爺さん猫は叫んだ。店に響いた言葉に、勢い良く顔を上げた斎と茜は思わず顔を見合わせる。

「本当か!?」

「但し、十五両だ。」

「は?」

 一瞬、何のことを言われているのか分からずに斎と茜は呆けた。

「もともと売り物じゃねぇからな。代金はきっちり頂くぜ!」

「はぁ!?高すぎないか!」

 フンッと踏ん反り返る爺さん猫に、斎は反論する。幽世では『十五両』がどのくらいの値段になるのか茜には分からないが、斎の険しい表情を見るにおそらくかなりの高値なんだろう。少しピリついた店内の空気に見兼ねた三毛猫の妖が、もううんざりだと言わんばかりに再び声を上げた。

「爺さん、もっと敗けてやんなよ!集めるだけ集めて、どうせ使わない絵の具なんだからさ!」

「むー…じゃあ、十三両!」

「爺さ〜ん!」

「ええい!十両!十両だ!これ以上は無理じゃ!この絵の具が欲しけりゃ、十両持って来い!」

 三毛猫の妖の一言により、やけくそ気味に爺さん猫は言い切った。腕を組んで不機嫌そうにしているが、それでも孫の言葉には弱いらしい。なんとか、十五両から十両までの値下げを許可してくれた。五両も安くなったというのに、斎の表情は少し硬さを残したままだ。

 フンッと鼻息荒く眉間の皺を深める爺さん猫に、斎は力強く頷き決意するように言った。

「分かった…!少し時間がかかるが、必ず持って来る!」
 
 








「十両か…」

 画材店からの帰り道、ぼんやりと星が瞬いている暗くなった空の下を歩きながら斎は呟いた。この幽世の街でも大通りに当たる道は、店の軒下に吊るさがる提灯の灯りに照らされてたくさんの妖たちが行き交っている。茜が幽世にやって来た日と同じように、相変わらず賑やかだ。

「十両って、そんなに大金なの?」

 鬼の面の目元に空いた穴から、もう慣れた幽世の街を眺めつつ茜は斎に聞く。それに斎は「んー、」と少し周りを見渡して、大通りを優雅に進む大きな牛車を指差して言った。

「幽世で十両っていうと、あの牛車が三台は買えるな。」 

 黒く艶のある毛並みの牛は金色の瞳を光らせて、音も無く茜の横を過ぎ去って行く。豪華な和柄の装飾に、細やかな木彫りの細工が施された存在感のある牛車は、とても美しく雅な雰囲気だ。擦れ違った際には、お香のような良い匂いが鼻を掠めた。

 不意に緩やかな風が吹き、後方の簾が捲れて一瞬
首の無い人影が見えた。茜はそれにギョッとして、背筋を震わせる。

「へ、へぇー。」

 見えてしまった妖の恐ろしさに、思わず声が上擦った。斎の例えは、いまいちピンと来なかったが、美しい牛車を見るに多分それなりに高い値段なのだろう。斎は異形のような右手で、クシャリと頭を抑える。

「何か金貯める良い方法ねぇか…こんなところで躓いてる暇はねぇんだよ!」

「もっと絵の依頼を受けるとか…?」

「翠の依頼もあるからな、あまり大規模な依頼は控えてぇな。」

「そうだよね…」

 幽世にやって来た日に窓から見た街の大通りは、あの時のように毎晩いくつかの屋台が並び賑わっている。屋台に並ぶ妖たちの表情はとても楽しそうで、時間が経つに連れて妖の数は徐々に増えていく。主に食べ物系の屋台が多くて、元の世界では見たことが無いような食べ物も見かけた。

 まるで毎日がお祭りのようだなと、その光景を眺めていると茜は一つの案を閃いた。

「あっ!斎も屋台を出せば良いんだよ!」

 突然の茜の提案に、斎はポカンと口を開けて眉を寄せた。

「屋台?お面でも売れってか?」

「似顔絵を売るんだよ!」

「似顔絵を売る?」

「そう!現世ではよく屋台とか出店で、似顔絵を描いてくれるんだ!」

 お祭りの時や何かのイベントの時に、出店で似顔絵を描く画家が居ることを茜は思い出した。

 斎の画力なら短時間で、妖の顔を描くことくらい造作もないだろう。むしろ幽世にその風習が無ければ、物珍しがって客が集まるんじゃないかと茜は考えた。毎晩、屋台に集まって来る妖たちの注目を集められたなら、きっとそこそこの収益を望めるのではないだろうか。

 茜の話を聞いて、斎は考え込むように口元を片手で抑えた。暫くすると、斎の真っ直ぐに澄み渡った瞳を向けられる。

「…なるほどな。それ、試してみるか!」

 その声に茜は、「うん!」と強く頷いた。






 日が暮れて空が橙色から藍色になった頃、妖たちを夜の街に誘うように、大通りに連なる建物から吊る下がった提灯には一斉に灯りが灯った。夜になり、いくつかの屋台の出見世が用意されて、今夜も妖たちは祭りのような賑わいを見せていた。

 そんな中で、ぞろぞろと大通りに増えていく妖たちの群れに、茜は顔に着けた鬼の面を不安そうに撫でる。手に触れた固く冷たい感触を確かめると、緊張を吐き出すように深く息を吐いた。

「いっ、いらっしゃいませ〜!似顔絵は要りませんか〜?」

 出し慣れてない大きな声は情けなく震えて、雑踏に消えていく。

 三毛猫の妖の画材店に行った日から数日後、大通りに並ぶ屋台の一角で、『似顔絵』と書かれた看板が立て掛けられた簡素な屋台に茜たちは居た。水彩絵の具を買い取る為の資金調達として、茜と斎はこの大通りで毎晩似顔絵を売ることにしたのだ。この大通りの屋台は誰でも出店して良いらしく、割りと簡単に屋台を出すことが出来た。そして、今夜はその似顔絵の屋台オープン初日だ。斎も茜も似顔絵の店を出すのは初めてのことなので、少しだけ緊張していた。

「…おい、そこのお前。似顔絵に興味は無いか?」

 斎は賑わう妖たちに戸惑いつつも、水彩絵の具の事もあるからか、積極的に屋台から声を掛けていた。

「似顔絵だぁ?」

 声を掛けられた全身鱗まみれの河童は、斎の言葉に不思議そうに首を傾げた。やはり、この幽世では屋台で似顔絵を売るという発想は珍しいものなのだろうか。河童は水掻きの付いた足を止めて、ペタペタと簡素な屋台に立て掛けられた看板を覗き込む。

「時間はかからない、一回この値段でやってる。…どうだ?」

 看板の下に小さく書かれた似顔絵一回分の値段を指差して、斎は少し自信無さげに河童の妖に聞いた。

 ずっと他者との関わりを避けながら、ひっそりと絵師として生きてきた斎にとって、賑わう屋台で商売したり積極的に客を捕まえたりなんて当然慣れない行動なのだろう。それでも戸惑いながら、真剣な眼差しで河童を見つめる斎の姿に茜は少し感動を覚えた。

 斎の接客に半分ほど瞼が降りていた河童は、ギョロリとした瞳を見開いて気分良く言った。

「へぇー、似顔絵なんて珍しいな。乗った!すげぇ格好良く描いてくれよ!」

「あぁ…!任せとけ。」

 河童の言葉に、ホッとしたように瞳を緩めた斎は強く頷く。屋台の前に設置された椅子に河童を座らせて、斎は早速似顔絵を描き始めた。

 先日、三毛猫の妖が営む画材店で大量に購入した色紙に、流れるように絵筆を滑らせながら河童を描いていく。短時間で描きあげるべく、異形の右手の迷いのない筆さばきは見ていて気持ちが良い。そんな斎の描く姿に、茜も河童も自然と目を奪われていった。

 あっと言う間に河童の姿が、色紙の中に浮かぶ。粗方描き終えると斎は絵筆を置いて、茜が持っている水彩色鉛筆を借りて色塗りを始めた。陰影は意識しながらも柔らかい印象を与える色鉛筆は、河童のゆったりとした雰囲気を捉えていてとても良く似ている。

 暫くして描き上げた似顔絵を、斎は河童に手渡した。河童は水掻きの付いた手で似顔絵を受け取ると、ゴクリと息を呑んだ。

「す、すげぇ!何だコレ!?」

 河童の嘴から放たれた大きな声は、賑わう大通りでもハッキリと響き渡る。その声に「何だ?あの屋台か?」と不思議そうに行き交う妖たちも足を止めた。

「こんなすげぇ絵は見たことねぇ!」

 河童が掲げた色紙には、斎が描いたそっくりの河童が居た。丸い皿を頭に乗せた河童は色紙の中で、半分ほど瞼を下ろしてから目を細めてケラリと笑う。半妖の絵師の斎だからこそ描くことが出来る、表情が変わる不思議な絵に河童は大興奮だった。

「何だ、あれは?」

「似顔絵らしいぜ。描いてるのは誰だ?」

 そんな河童の様子に、妖たちは釣らるように似顔絵の屋台に集まって来る。毎晩のように並ぶ屋台の中でも、やはり似顔絵の屋台は珍しいようで興味深そうに此方を伺っていた。

「あれは、噂の半妖の絵師じゃないか?」

「あの妖嫌いのか?こんな場所に居るわけなかろう。」

「いや、この街に半妖なんてあの絵師しかおらんわ!」

「フンッ!半妖だなんて、半端者は家に引っ込んどけ!」

 妖嫌いの半妖の絵師というのはやっぱり此処でも有名らしく、斎の姿に妖たちはざわめいた。以前の斎ならば、きっとこんな妖だらけの大通りで必要以上に妖たちと関わることなんてしなかっただろう。斎を見た妖たちの反応は様々で、半妖の絵師を面白がる者や絵を描く斎の姿を一目見ようと近付く者も居れば、半妖という事で斎を差別する者や馬鹿にする者も居た。

 その様子に以前、斎が言っていた『半端者』と言う言葉の意味もより深く理解してしまった。幽世にて半妖という存在がどうゆうものなのか、この妖たちの態度で強く思い知らされたのだ。それはあまりに、理不尽なことに思えた。好き勝手に言う妖たちに茜は、言い様のない怒りが込み上げて来る。そして、何より斎の凄さを知りもしないのに、半妖というだけで『半端者』だと評価されるのが悔しかった。

 屋台に座る斎を横目に見れば、水彩色鉛筆を持つその異形の右手が小さく震えている。妖たちの視線から逃れるように深く俯いた斎の表情は、暗く影になり茜からは見えなかった。投げかけられる言葉や視線に、静かに耐えている斎の姿が辛くて苦しい。誰かを平気で傷付けるのは、人も妖も変わらないのだと茜は思った。

 その時、一人の小さな影が斎への視線を遮るように立ちはだかった。

「おい!お前ら!そんな事より、これを見てみろよ!俺にそっくりだろ!すげぇだろ!これが、半妖の絵師の絵なんだぜ!」

 好き勝手な事を言っていた妖たちに、斎に似顔絵を描いてもらった河童が大きな声で言う。水掻きが付いた両手で掲げられた似顔絵は、提灯の灯りに照らされて暗い夜でもはっきりと見えた。河童の行動により、自然と斎の描いた似顔絵が妖たちの注目の的になる。

 色紙の中の河童は、本物と大差ないように表情を変えて誇らしげな表情をしていた。まるで生き物のような絵は、繊細な線と優しい色使いで描かれていて、描き手の人柄を映しているようだ。

 河童の掲げた似顔絵に、周囲の妖たちが目を見開いて息を呑むのを感じた。それはきっと、茜が最初に斎の絵を見た時と同じ反応だっただろう。一瞬にして心を奪われてしまった、あの時の感覚を懐かしく思った。それから、そんな妖たちに届くように、茜は意を決して腹の底から声を出した。

「いらっしゃいませ〜!半妖の絵師に、似顔絵を描いてもらえる機会なんて今しかないですよ!凄く素敵な絵なので、ぜひ思い出にどうですか〜?」

 大通りに響き渡った茜の声に、隣に居た斎が顔を上げる気配を感じる。茜の呼び掛けに、斎の似顔絵を見た周囲の妖たちは再びざわめき始めた。

「いやー、あの絵は鳥肌ものだ!今すぐにでも似顔絵を頼みたい!」

「あんな凄い絵、私にも描いてほしいわ!」

「確かに、あの妖嫌いの半妖の絵師に描いてもらえる機会なんてなかなか無いだろう。これは良い機会かもしれんな!」

「まさか半妖の絵師に、こんな場所でお目にかかれるとは…!」

 斎の似顔絵を見た妖たちは、再び様々な反応を見せた。その様子に、先程半妖を馬鹿にするかのように好き勝手に言っていた一部の妖は、面白くなさそうに眉間に皺を寄せて黙って去って行く。

 そして、それ以外の妖たちは屋台で似顔絵を描く斎を見ると、興奮したようにわらわらと駆け寄って来た。いつの間にか似顔絵の屋台には、斎を取り囲むように沢山の妖たちが集まっている。その多くの視線に斎も茜も驚き肩を震わせるが、妖たちの視線は先程のように半妖だと差別する冷たいものでは無く、斎の描く作品をまだかまだかと心待ちにしている温かいものだった。

 河童が斎の描いた似顔絵を見せたことにより、似顔絵の屋台にはあっという間に長蛇の列が出来た。妖たちは徐々に増えていき、様々な姿をした妖たちが群れを成していく様子はまるで百鬼夜行のようだ。

 その光景に圧倒されていたら、似顔絵を描く斎から声が掛けられる。

「茜!お前も手伝え!」

「え!?…でも、私は斎みたいな絵は描けないよ?」

「この妖たちを、俺一人で捌くのは無理だ!お前だって絵は描けるだろ?」

 斎は慌ただしく絵を描きながらも、筆付きは優雅で流れるようだ。一人一人の妖を、丹精込めて丁寧に描いている。

「けど、そんな自信ないよ!」

 昔から絵を描くのは好きだが、斎のような絵が描けるのか茜には自信が無かった。斎のように絵が動くような芸当は出来ないし、斎の絵と比べれば自分の絵はまだまだ未熟だと茜は思う。そんな自分が、果たして妖たちの満足がいく絵を描けるだろうか。

 不安そうに眉を寄せた茜に、斎は似顔絵を描いていた手を止めて真っ直ぐに視線を向ける。

「お前は、お前の絵を描けば良い。…俺の弟子だろ。」

 穏やかな声で告げられた言葉に、茜はハッとして斎を見た。夜空のように澄み渡った美しい瞳が茜を射抜く。

 斎のような絵を描けるのかという不安は、月を覆っていた雲のように緩やかに流れていった。顔を出した優しい光が、茜を照らす。

 いつも一人で絵を描いてきた茜にとって、斎が『弟子』だと認めてくれたことが、どうしようもないくらいに嬉しかった。じわじわと胸を満たす熱が、身体中に広がっていく。

「うん!分かった!」

 茜は力強く答えると、屋台に並ぶ妖たちにを相手に水彩色鉛筆を手に取った。自分の画力は、まだまだ未熟だと分かっている。それでも、自分を認めてくれた斎の為にも茜は精一杯絵を描きたいと思った。斎の弟子として、自分の絵を描こうと強く心に誓ったのだ。

 








 あれから数時間が経ち、妖たちの列もだいぶ落ち着いてきた。まさか思いつきで始めた似顔絵の屋台が、ここまで人気が出るとは思わず、茜は若干疲弊していた。

 夜も更けていき、大通りに出ていた屋台も徐々に灯りを消して店仕舞いを始めている。賑やかだった妖たちも、一人また一人と家路につく。フゥーッと一息吐いた茜の隣で、妖の似顔絵を描き終えた斎が絵筆を置いた。

「お前のおかげで、思ったよりも早く絵の具が買えそうだ。」

「本当に?それは良かった!」

「あぁ、本当に助かった。ありがとうな。」

「…うん!」

 斎の言葉に茜は、やっと斎の役に立つ事が出来たんだと嬉しくなる。突然幽世にやって来てしまってから斎の元に置かせてもらっていたが、仕事の邪魔になっているんじゃないかと不安はずっとあった。

 それでも、今回のことで少し自分に自信が持てた気がする。たくさんの妖たちの似顔絵を描いていく中で、「お前絵が上手いな!」と茜の絵を喜んでくれる妖も居た。自分の描いた絵を喜んで貰えるのが嬉しくて、それは茜が生まれて初めて味わう温かい感情だった。

 先程までの出来事を振り返りながら、少し微笑む。チラリと盗み見た斎の横顔も緩く口角が上がっていて、また茜は嬉しい気持ちになった。

「これは驚きました、まさか噂が本当だったとは…!」

 不意に聞こえた聞き覚えがある声に顔を向ければ、ふさふさとした尻尾を揺らす翠が屋台の前に立っていた。

「翠さん!来てくれたんですか?」

「えぇ、何でも半妖の絵師が屋台を出していると噂で聞きましてね!本当に斎殿がいらっしゃるとは思いもしませんでしたが。」 

 翡翠色の瞳をチラリと斎に向けて、心底驚いたという表情で話す翠に斎は「チッ!」舌打ちをした。そんな斎の様子に、翠は軽く肩をすくめる。

「翠さんは似顔絵いかがですか?」

「いえ、今日はもう遅い時間なので、後日また伺っても良いですか?」

「はい!ぜひ、お待ちしています!」

 店仕舞いを始めた周辺の屋台を見ながら、申し訳なそうに眉をハの字にした翠に茜は元気良く告げた。

「そろそろ、俺たちも片付けるか?」

「そうだね!」

 立て掛けていた看板を外して、絵筆や水彩色鉛筆などの画材を片付ける。茜と斎が片付けるのを翠は手伝ってくれた。

「あら、一歩遅かったかしらね。」

「本当だ、ちょうど終わってしまったようだね。」

 屋台の灯りを消したところで聞こえて来た声に振り向けば、二人組の妖が居た。二人共、頭に二つの耳が生えていて背後ではふさふさとした尻尾が揺れている。一人は渋い深緑色の着流しをサラッと着こなした男前で、もう一人は華やかな着物を着て片耳に花飾りを着けている美人だ。二人寄り添う姿はとてもお似合いで、仲睦まじい夫婦のように見えた。

「姉上!」

 二人組の妖を見た瞬間に、翠は手伝っていた手を止めてそう呼んだ。

「やっぱり、翠も来ていたのね。」

 翠に『姉上』と呼ばれた妖は、翠と同じように耳も尻尾も白く、艶やかな生糸のような髪に薄い桃色の瞳をしていてとても美しい。ふさふさとした尻尾を揺らす二人の見た目がそっくりで、茜はすぐに二人は姉弟だと気付いた。

「少し時間が出来たから、斎殿に私達の似顔絵を描いてもらいたかったのだけど、ちょっと遅かったみたいね。またの機会にするわ。」

 翠の姉は屋台の片付けをしていた斎にそう言って微笑むと、「あぁ、そうしてくれ。」と斎も翠の姉と顔見知りのようで、先程までの少しだけぎこちない接客と比べてに気軽そうに話していた。

 その様子を黙って伺っていれば、不意に翠の姉と目が合った。翠とよく似て整った顔立ちは、思わず見惚れてしまう。薄い桃色の瞳は、柔らかく弧を描くように細められた。

「貴女が、斎殿の弟子になったという茜様ですか?」

「は、はい…!」

「翠から、色々とお話を伺っています。私は翠の姉の催花《さいか》と申します。此方は婚約者の玄天《げんてん》です。」

 催花は丁寧に茜に向かってそう告げると、隣に居た妖を紹介した。

「茜様、はじめまして。催花の婚約者で日照雨屋の九尾の息子、玄天と申します。以後お見知りおきを。」

 切れ長の狐目を緩めて礼儀正しく頭を下げてくれた玄天に、茜はとても真面目な印象を受けた。翠や催花と違って、玄天の耳と尻尾は金色で毛並みがとても美しい。そして、旦那様と同じように玄天も赤い瞳を持っていた。

「催花さん、玄天さん。はじめまして、立原茜です。」 

 茜が少し緊張しながらも挨拶をすると、催花も玄天も笑って受け入れてくれた。それが、なんだか気恥ずかしくも感じる。幽世に来てから、茜は現世に居た時以上に誰かと繋がりを持てているような気がするのだ。

「斎殿、茜様。この度は嫁入りの傘に絵を描いてくださるということで、誠にありがとうございます。」

「…俺からの祝だ。気にすんな。」

 催花からの感謝の声に、斎は少し照れ臭そうにそっぽ向いて答える。そんな斎に続き、茜も「本当に、おめでとうございます!」と二人に告げた。

「ありがとうございます!当日、斎殿の作品を拝見出来るのが楽しみです!」

 二人が微笑むのに釣られて茜も自然と笑顔になっていれば、不意に玄天が赤色の瞳を輝かせて茜に視線を送ってきた。一体何だろうと不思議に思えば、玄天は感激したように口を開く。

「立派な鬼の面ですね!」

「へっ!?いえ、あの、これは…!」

 玄天と催花は、茜の顔を見て優雅に微笑む。それに対して、茜は自分が強烈に恐ろしい鬼の面を着けていたことを思い出し、じわじわと羞恥心に駆られた。やっぱり姿形が様々に異なる妖でも気になる程、この斎が描いた面の迫力は強いのだろう。

 そんな慌てる茜を見ながら、斎は傘職人の唐々に鬼の面について言われた時のように「ブフッ…!」と吹き出して、あの時よりも表情豊かにケラケラと肩を揺らしながら笑った。そのあからさまな様子にムカッと来た茜は、鬼の面の下で斎をギロリと睨みつける。この強烈な鬼の絵を描いたのは、斎だというのに全く酷いことだ。

 フンッとそっぽを向くように周りを見渡せば、翠も催花も玄天でさえ、いまだに笑い続けている斎を驚いたように見つめた。

「斎殿が、笑ってる…」

 目を見開き、ポツリと零すように翠が言う。斎が笑うのはそんなに珍しいだろうかと、茜は首を傾げた。確かに、ここまで豪快に笑っている姿はあまり見たことがないが、最近の斎は瞳を緩めたり口角を上げたりと以前よりも表情が増えた気がする。

 整っている顔をクシャリと歪めて、可笑しそうに笑っている斎にムッとしつつも、こちらまでその笑いが伝染してしまうような少し穏やかな気持ちになった。

「やっぱり、茜様が幽世に来てくれて良かったです。」

 翠は斎から目を離して、茜を真っ直ぐに見て言う。そう言う翠に茜は、翠が以前、打ち明けてくれた斎の話を思い出した。

 半妖ということもあるのか、あまり妖たちと関わることをして来なかったという斎。そんな斎が妖たちが賑わう大通りで屋台を出してぎこちない接客をする姿も、こうやって腹抱えて笑う姿も今までに無かった姿なのかもしれない。

 翠は茜が幽世に来てくれて良かったというけれど、茜の方こそ此処に来れて良かったと思う。

「おい、そろそろ帰んぞ。」

 ようやく笑いが収まったのか、斎はゴホンと一つ咳をして口角を緩く上げて言った。

「では、私達も失礼しましょうか。」

 催花も斎の言葉にそう続けた。玄天は催花の手を優しく握ると、「結婚の準備でなかなか来られないかもしれませんが、またの機会に絶対に似顔絵を描いてもらいに行きますね。」と斎と茜に会釈した。

「では、また。」

 そう言って去って行く二人の後ろ姿は、本当に仲睦まじくて幸せの形を表しているようだった。

 お似合いな二人の結婚を、和傘という作品で携われるのは素敵なことだなと改めて思う。傘職人の唐々が作った繊細な和傘に、半妖の絵師の斎が絵を描いた唯一無二の作品。それが嫁入りする催花さんの手元に届くのが待ち遠しく感じる。

「あっ!そうだ!」

 そんなことを思っていたら、不意に一つの案が茜の頭に浮かび上がってきた。一度、浮かんでしまった案を放棄することは出来ずに、茜は思うがままに走り出す。「おい!何処に行く!?」「茜様!?」と、片付けた荷物を手にした斎と翠が叫ぶのも気にせずに茜は動いた。

「あ、あの!ちょっと良いですか?」

 追いついた背中にそう問いかければ、「ん?」と催花と玄天の二人がゆっくりと振り返る。

「あら?茜様、どうかしましたか?」

 慌てて追いかけて来た茜を、不思議そうに見つめながら催花は茜に聞く。茜はポケットから、幽世に来てから全く触れることも無くなったスマートフォンを取り出して二人に見せた。

「写真を、撮っても良いですか?」

「写真?」

 茜の言葉に、催花も玄天もコテリと首を傾げた。