どのくらい、闇の中をさまよっただろうか。確実に減り続けるロウソクに怯えながら、ひたすらすみれの名前を叫びながら前へと進んでいく。一歩踏み出す度に頭痛は増していき、記憶の混濁が始まったことで不安さらに胸を締めつけていた。

 まともな神経はすり減っていき、気を抜くとなぜここにいるのかわからなくなりそうになる中、かすかに残った耳の神経がとらえたのは、残りわずかな火を灯すカンテラを抱きかかえてうずくまるすみれの泣き声だった。

 ――すみれ

 かける声が圧迫されてうまく出なかった。丸くなった小さな背中は小刻みに震え、『パパ、ママ』と繰り返すその声は、この世の絶望を余すことなく伝えていた。

「すみれ、ここにいるよ」

 膝から落ちそうになる体を無理やり引きずり、すみれの肩に手を置きながら声をかける。すみれは泣き腫れた顔に驚きの色を広げると、息が止まったかのように固まってしまった。

「パパ?」

 突然姿を見せた僕に、すみれが戸惑いながらも不思議そうな表情を向けてくる。余程不安だったのか、あるいは怖かったのか、その顔色は暗闇でも青白さが際立っていた。

「そうだよ、すみれ。ごめん、パパ、本当になにも気づいてやれなくて」

「パパ……」

 よろけながら立ち上がったすみれが、ふらふらと近づいてくる。その身体を力一杯抱きしめると、すみれは再び胸に顔を埋めて泣き声を漏らした。

「すみれ、辛い思いをさせてごめんね。パパ、なんでこんな大事なことを忘れてしまってたんだろう。ママもすみれも、パパにとっては一番大切な人だったのに」

 すみれの頭を撫でながら、自分の不甲斐なさに言葉が詰まってしまう。すみれは、突然母親を失っただけでなく、僕が記憶障害になったことで孤独になってしまった。その苦しみと悲しみを思うと、慰めの言葉を考えることさえできなくなっていた。

「すみれ、よく聞いてほしい」

 再びくらくらと視界が揺らぎだしたところで、もうあまり時間がないことを感じた僕は、すみれの両肩を掴んですみれの顔をまっすぐに見つめた。

「すみれ、この遺書はパパが預かっておくよ」

 ポケットから取り出した遺書をすみれに見せると、すみれは「あっ!」と声を漏らして顔を伏せた。

「すみれの気持ちはよくわかっているつもりだ。だから、すみれがこんなことをしようとしたことを、パパは責めたりしないよ。でも、これから話すことはよく聞いてほしいんだ。どうやらパパはもう記憶を維持できなくなるかもしれないみたいだから、どうしても伝えたいことがあるんだ」

 懸命に感情をおさえながら、自分の身に起きていることを告げると、すみれは驚いたように顔を上げた。

「すみれ、パパによく顔を見せて」

 困惑するすみれを落ち着かせながら、すみれの顔を改めて眺めてみる。この愛する娘の顔を再び忘れてしまうことになるかと思うと、自分の運命に失望するしかなかった。

「せっかく思い出したというのに、ママやすみれのことをもう二度と認識できなくなるかもしれない」

「パパ……」

「でもね、それでもパパはこの世界ですみれと生きていたいと思うんだよ。これからも一緒に暮らすことはできないとしても、もう二度とすみれのことをわからなくなってしまうとしても、パパはすみれのいる世界で生きていたい。だから、すみれも辛いとは思うけど諦めずに生きてほしい」

 わずかに灯るカンテラを掲げて、薄れていく意識の中にすみれの姿を刻み込んでいく。死を覚悟した人間を説得するにはあまりにも弱い言葉だけど、僕にはわずかな希望があった。

「すみれ、パパは今度目をさましたら全てを忘れていると思う。でも、あのエッセイだけは続けようと思うんだ。たとえその日の出来事しか書けなくても、たとえその全てを忘れていくとしても、パパはエッセイになにかを残していこうと思う。だから、なんでもいいからすみれもメッセージを残してほしいんだ」

 徐々にかすんでいくすみれの顔を見つめたまま、最後の言葉を伝えていく。宿の主人は、『人の幸せの形とは、ここにいて誰かに影響を与えることではないかと思うのです』と教えてくれた。その意味をはっきりと理解できたわけではないけど、僕はもう一つの世界であるネットにあるエッセイという媒体を通じて、少しでもすみれに影響を与えることに希望を持つことにしたのだ。

「すみれ、こんなパパで本当にごめんね。でも、これだけは記憶を失うことになってもはっきり言える。すみれは、パパの人生で一番の宝物だってね」

 もう限界まできていた意識が霞んでいく中、最後の想いをすみれに伝えていく。一際強くなった頭痛が容赦なく最後の意識を奪っていく寸前、カンテラの最後の灯りが照らしたのは、なにかを呟いているすみれの姿と、最愛の妻の笑う姿だった。