一気に脱力した体を地面におろし、震える手で封筒を開く。カンテラを持ち上げてその中身を確認すると、数枚の薄いピンクの用紙が折りたたまれて入っていた。

 ――遺書や死にたいというワードは、僕ではなくすみれのことだったのか?

 否応なくせり上がる心音に耳が塞がれる中、手帳にあったワードが頭の中をぐるぐると回り始めていく。あのワードは、なにかの表紙にすみれが口にしたのを拾っていたのだろう。確かにすみれの環境は良いとはいえないとしても、死を覚悟しているような雰囲気はなかったはず。

 でも、それはあくまでも僕の感覚でしかない。すみれは、本当は極めて重大な問題を抱えていたのかもしれない。現に、すみれはここに来る理由や目的を教えてくれなかった。仮に最悪な結末を考えていたとしたら、それを隠すのは当然のことだろう。

 急に直面する現実に、頭痛がひりひりと頭蓋に広がっていくのを感じた。強い刺激は避けるべきたけど、すみれの遺書には目を通さなければならないという強迫観念に似た思いが、わきあがる不安を消していった。

『わたしを忘れたパパへ

 わたしのパパは、高校の先生をしていました。けど、交通事故に遭ってママと記憶を失い、さらには記憶障害を患って生きていくことになりました。
 おかげで、わたしはパパとママを失い、親戚の家で暮らしていくことになりました。
 パパとママがいなくなってからのわたしの日常は、それまでの幸せな日々とは真反対の日常になりました。家にも学校にも居場所がなく、生きる意味も目的もないまま、ただ、漠然とした時間の中で溺れるように息をするのが精一杯でした。
 そんな生活にわたしはもう限界を感じ、生きていくことが嫌になりました。このまま、どこか遠くに行って消えてしまいたいと思います。
 最後に、記憶を失ってわたしを忘れてしまったパパへ伝えたいことがあります。
 パパ、言うことをきかなくてワガママなわたしを今まで優しく育ててくれてありがとね。こんな結果になってしまうけど、パパとママと過ごした日々は本当に幸せでした。パパが、大切な人の影が二人いるとエッセイに書いているのを見た時は、わたしやママのことを完全には忘れてなかったんだなって思えて嬉しかったよ。
 これから、パパはまだまだ病気と戦い続けることになると思います。その日々にはわたしの存在は邪魔だと思うので、パパが少しでも良くなることを祈りながらこのままお別れしたいと思います。

 PS パパと最後の旅行すごく楽しみにしています。ママに会えることを願って――
                   すみれ』

 ――え? これって、どういう……

 遺書を読み終えた瞬間、言葉にならない衝撃と息苦しさに、僕は叫びとも呻きともわからない声を上げた。

「おいおい、まってくれよ、ちょっとまってくれよ!」

 明かされた事実を前に、自分の不甲斐なさに全身が震えるほどの怒りを感じた。記憶を失ったとはいえ、最も忘れてはいけない存在を忘れてしまっていた事実に、呆然としながら地面を叩き続けた。

 ――すみれ

 漆黒に染まる天井を見上げながら、胸に宿る二つの影を思い浮かべてみる。それまで漠然としていた影がはっきりとした色を帯び始め、やがてすみれの姿になるのと同時に、もう一つの影がすみれと同じ瞳をした妻の姿に変わっていった。

「ああ、なんでこんな大切なことを忘れていたんだ?」

 力なく持ち上げたカンテラが照らす淡い光の空間に浮かぶ家族の姿。その屈託ない笑顔で見つめてくる二人に、嗚咽をもらして泣くしかなかった。

 ――いや、泣いてる場合じゃないだろ!

 打ちひしがれる絶望感にのみ込まれていく中、カンテラを手に急いで立ち上がった。すみれの遺書がここにあるということは、すみれは近くにいるはずだ。だとしたら、なんとしても最悪の結果は避ける必要があった。

 そう自分を奮い立たせた時だった。

 ――っ、落ち着け!

 突然、雷のように走った頭痛に、駆け出した足がもつれて前のめりに倒れそうになる。なんとか身を持ち直し、息切れするほど速くなった鼓動を落ち着けようとしたが、頭痛はおさまるどころか目眩まで引き起こし始めた。

『強い刺激は記憶障害を悪化させる――』

 不意に過ぎる医者の声。このまま進めば、記憶障害がどうなるかは絶望しかないだろう。だが、それでも構わなかった。今ここですみれを助けることができるのは、父親である僕だけだった。

 そのために犠牲がいるなら甘んじて受けるつもりだ。すでにすみれは多くの犠牲を払っているから、それに比べたら僕の犠牲など些末なことだった。

 そう覚悟を決め、震える足にムチを打って立ち上がる。

 タイムリミットを告げ始めたカンテラを手に、闇の中をすみれの背中を目指して走り出した。