――軍艦と遭遇する数十日前に時は戻り、日本の瀬戸内の海。
そこに元の俺が無邪気に釣りを楽しんでいた――
◇◇◇
「みぃ~てみなよ、お前さんはコイツに負けたんだ。わかるか?」
そう言いながら俺が掲げたのは、虹色に光る釣り竿と、23式電子制御でモンスター仕様の糸巻き機械。
太陽光にギラつく虹色の輝きは、どこかの王族のお墨付きがあると言われるほどの一品だ。
しかもリールはベイトタイプなのに、とにかく、ハデに、疑似餌がぶっ飛ぶ!!
そう、こいつはモンスターと二つ名があるほどの、やばいリールだ。
「釣り竿は完璧だが、リールは色が気に食わないのよ。分かるだろ? 下品なくらいビカビカの鏡面仕上げが、このリールには相応しい。だがどうだ、WSLに乗せると妙な色気すらある。天空の破片に相応しい漆黒の輝きだ」
磯の上で恍惚とした桜色を浮かべ、頬まで染まって足元に転がっている真鯛にアツク語る。そう、激アツにだ。
だって当然だろ? 毎日カップラと半額の惣菜で食いつなぎ、ストックしておいた冬のボーナスで購入した、総額十九万円ほどの装備だぜ? そりゃアツク語ろうってものだ。
だからタックルを高らかと掲げ、もう一度同じことを繰り返す――が。
「おい……お~い。島野大和、聞いちょるか? おめぇさんが釣った真鯛が干物になっとるぞい?」
「……あ゛!? 刺し身でいただこうと思ったのに、どうしてこんな酷いことになってんだオイ!!」
見れば今釣ったばかりの八十センチオーバーの大物が、なぜか表面が干からびて酷いことになっていた。
「くッ゛やっぱりここは怪奇現象多発地帯なのか? 以前も同じことがあった……」
ゾクリと背中に悪寒がはしり周囲を青い顔で見回すが、いま来た馴染みの爺さんが呆れた声で話す。
「ハァ~、大和。おめぇさんも四十過ぎた油の乗ったいい男なんだから、そろそろ落ちつけぇ」
「なんだよ、失礼だなぁ山爺は。落ち着いてるってよ」
「落ち着いてるやつが、時間も忘れて足元に転がせて干物にするかねぇ。さっきお前さんがその干物を釣り上げたのは三時間前だぞ?」
「……マジ?」
「あぁ本当じゃよ。さっき車で走ってるとき、崖の上から大和が釣り上げたのが見えたのがそんくらいじゃったわ」
そっとスマホの画面を見ると、なぜか九時近かった。
「マジカヨ……海は魔物と言うけどさ、本当だったんだな」
「魔物はお前の頭の中に住んどるんじゃよ。バカなこと言ってねぇで、さっさと干物連れて帰ぇれ」
解せん。俺は少しアツク語っていただけだと言うのに。一体何があったのか……。
そうまぶたを閉じながら考えていると、山爺が竿を出しながら思い出したとばかりに話す。
「魔物といやよ、聞いたかあの噂?」
「ん、何のことよ」
「なんだ知らねぇのか。弁天島あんだろ? そこに馬鹿でけぇ真っ赤な魚がいるらしくてな、そいつが釣り人のタックルを飲み込んじまうんだと」
「はぁ? なんだよそれ。魚が竿とリール持っていくってのか?」
「んだ、持ってくらしい。エサに食いついた瞬間、思いっきり竿ごと海中へ引きずり込むんだと」
引き込む? 魚が? いや、実際そういう事故はあるか。
ブレーキを固くして竿を置いておくと、釣り糸がリールから出ずに引っ張られて、海へ引きずり込まれる事があるからな。
「まぁたまにあるからなぁ。不幸な事故だったな」
「勘違いしてるようじゃが違うぞ? 置き竿をしていたわけじゃなく、手に持っている状態から引っこ抜かれたんだ」
「ま、マジかよ山爺!? それって大物すぎるだろ!」
思わず震えた。そんなバケモノみたいなのが近くにいる。
それだけで釣り人としては最高にして最大の獲物だからだ。
だけどそんな俺のたぎる心へと、山爺は真冬の海水をぶちまける。
「大和おめぇ行く気だろう? やめとけやめとけ。万が一その虹色の釣り竿と、黒光りのリールもってかれたらどうすんだ」
その言葉に「うッ……それは」と言葉につまる。
山爺は困った顔をして、「やっぱなぁ」としたり顔のあと、真剣に口を開く。
「ええか大和。わしの感じゃが、あれは海神様じゃよ。チラリとお姿を見たが――」
山爺は冗談みたいな話を続ける。
どうやら今回みたいな事は昔からあるらしく、海が大荒れになる前兆らしい。
しかも必ず誰かが行方不明似なるらしく、その行方不明なるのが釣り好きなヤツだという。
「――つまり俺みたいなヤツだって?」
「そうじゃ。しかも並大抵の好きってだけじゃ、そうはならん。おまえさんくらいに、釣りに人生突っ込んでるバカじゃねぇとな」
「失礼だな! と、言えねぇのが悔しいんですがね」
そう。俺は自他ともに認める、釣りが三度のメシより好きな男だ。
おかげで誰よりも釣りがうまく、誰よりも魚を愛している。
俺より釣りが上手いのは釣り王族のあの人だけで、魚の知識で負けるのはフィッシュ君さんだけだ。
そんな自分の腕前と知識にうっとりとしつつ、左側の口角が少しあがる。
「……おめぇ、わかってねぇな? ええか大和。おめぇならどっかでこの噂を聞くじゃろ。すると必ず釣りに行く」
「そりゃぁそんなヤバイのがいたら、釣り上げるのがアングラーの義務っても――」
そうおどけて言うと、山爺は言葉をかぶせてさらに真剣に話す。
「――じゃから教えた。ええか大和、アレには関わってはならん。海神様の贄になりたくねぇなら、次の嵐が過ぎるまで弁天島には近寄るな……ええな!?」
裂帛の気迫。恐ろしいまでの高まった気迫で念を押され、思わず「あ、あぁ分かったよ」と二度うなずく。
「ならええわ。おめぇみたいな気持ちのいい男を、海で亡くすのはおしいでの」
「いや……なんか心配かけて悪かったな。じゃあまた明日な、山爺長生きしろよ」
「まだまだ長生きするわい! ほれ、それ以上干物になるまえに帰れ」
「わかったよ、じゃあな」
そう言いながら車へと向かう。
なんとなくロッドを立てると、リールの光沢のある表面が背後を映す。
そこには山爺が心配そうに見つめている姿があり、小さく「また明日来いよ」と聞こえた。
地磯を登り、背後を見るとまだ山爺はこっちを見ている。
だから手を大きく振りつつ、「すまねぇ」と小さくつぶやく。
そう……これだけ心配してもらったにも関わらず、俺の行動はすでに決まっていた。
「たく、ほんと俺の釣り好きは死んでも治らねぇのかもな」
呆れながらつぶやきつつ、車へと乗り込みドアを閉める。
「さ、行くか。その魔物って奴に会いにな!!」
◇◇◇
遠ざかる黒い車を見送りながら、わしは確信していた。
あの崖の上からわしを見た顔は、弁天島へ行くのだと。だからそれが最後の別れを告げたように見えた。
「ばかもんが……遅かれ早かれ、こうなるとは思っちょったが」
ため息一つ、既にいなくなった馬鹿者の影を追う。
そして大和のライフジャケットの背中のファスナーへ、先程しのばせたモノを思い出す。
「アレが役に立てばええが……」
そう言いながら、いつまでも、いつまでも、すでに去った大和を見送った。
◇◇◇
「やって来ました弁天島!! 待っていろよ赤い魔物ちゃん。今すぐ釣り上げて魚拓にしてやるからな♪」
駐車場から海岸へ行き、目指すは真っ赤な橋のある弁天島。
生臭い潮風がいつもよりキツく感じたが、そのまま進むと確かに妙な気配がした。
橋の上から海面をのぞく。すると――。
「――いた。マジかよ、あれはメーターを余裕で超えているぞ」
ゴクリとのどを鳴らし、握っていた釣り竿のグリップに力が入る。