出発の朝、住み慣れた我が家の門前で、私たち姉妹は父上に見送られ馬車に乗り込もうとしていた。煌(こう)の兵士の一団が国境を越えようとしているとの知らせがあって、みなで一緒に発つことができなくなったのだ。
「ちょうどいいから後任の林(りん)将軍と煌の連中を叩いてくる。すぐに後を追うし護衛を多めに残していくから安心しなさい」
「はい、大丈夫ですわ。父上の方こそわたくしたちの心配はなさらないでください」
「思いっきり敵をやっつけてきてくださいね」
「はは。まったくおまえたちときたら」
姉たちと言葉を交わした父上は、黙ったままの私をじっと見つめた。外套の下に隠しているけれど、私がしっかり剣を持っていることはお見通しなはずだ。
「子豫(しよ)は嬉しそうだな」
表情に出しているつもりはないのに父上に見抜かれてしまう。
「初めての長旅が楽しみなのです」
無難に返事をしたけれど。そりゃだって、期待するに決まっているではないか。
ただでさえ治安の悪いこの世界、山賊に襲われるくらいのことは想定内であるけれど、出立の朝になって私たち姉妹の守護神といってもいい父上が足止めを食らうだなんて、なんらかの作為があるに決まってる。
間違いなく襲撃がある。そして、今後の私たち姉妹の運命を左右することになる人物との出会いへとつながるはず。いよいよ、乱世の物語の本筋が動き出すのだ。
内心では瞳を爛々と、外見はあくまで無表情を保っているつもりの私を憂いを帯びた眼差しで見つめ、父上はそっとため息をついた。
「無茶はするんじゃないぞ」
そうは言うけど、私たちに剣術を教えたのは父上だ。自分の身を守るためなら無茶はするものだ。そう思って返事を返さずにいる私の頭をぽんと撫でてから、父上は私たちに馬車に乗り込むよう促した。
城壁を出るとそこは背の低い灌木や草むらが点在する乾いた平原だ。白っぽい岩肌の山脈の裾に沿って荷物と人を乗せた十数台の馬車は東へ進む。
行列は一度休憩のために止まってから再び前進を始め、太陽が天空のいちばん高い場所へとあがるころ、騒ぎが起きた。
来た。私は覆いの布を持ち上げて前方に視線を走らせた。野太い叫びをあげながら山の斜面を滑るように駆け下りてくる騎馬が数騎。目視できないが、物音からして他にも騎兵がいて護衛の兵士と既に斬り合いが始まっているようだ。
「馬を止めて! 降りてさっさと逃げるのよ!」
御者に向かって叫んだ私に、同乗していた侍女の子宇(しう)が目を丸くした。
「山賊じゃないのですか?」
山賊程度なら返り討ちにできるから逃げる必要などないと言外に告げている。私はそれをきっぱり否定した。
「遊牧民の騎兵よ」
彼らは強いうえに略奪を良しとする。ならず者集団よりもずっとずっと恐ろしい。子宇はさっと顔を強張らせ自分も剣を手にした。私が教えているから子宇も剣術は達者な方だ。
ふたりで馬車から飛び降りて見回すと。淑華(しゅくか)姉上はとっくに脱出して数人の護衛に囲まれ戦闘の間から抜け出していた。
一瞬振り返った姉上と目が合う。私が力強く頷くと、姉上もまたこっくり頷いて外套を頭からすっぽりかぶり、侍女に背中を押されながら平原を駆けて行った。
都へと付き従うことを選んで同行してきた使用人たちも、数人ずつグループになりながらてんでバラバラに逃走を始めている。だがその中に、芝嫣(しえん)姉さまの姿が見つからない。
「子豫さま」
震える子宇の腕に手を添えながら、私は悲鳴と怒号と金属音が飛び交う戦場に目を戻した。薄紅色の布を垂らした馬車の中に、遊牧民の男がひとり乗り込もうとしていた。
刀身を鞘走らせながら地面を蹴り、駆け寄る。抜き身の剣で無防備な背中を勢いよく斬り付ける。
「姉さま!」
倒れた男の体を踏みつけながら中を覗くと。
「しよおぉ~」
侍女の桂芝(けいし)と抱き合って芝嫣姉さまはべそをかいていた。
「芝嫣(しえん)姉さま! 泣いてる場合じゃない、逃げなきゃ!」
手をのばしてグイっと芝嫣姉さまの腕を引っ張る。袖口から玉(ぎょく)の腕輪が三本ものぞいて私は少し驚いた。
「これは絶対に持っていくのよ、亡き母上の形見なんだから」
はいはい。そんなことより。
「姉さま、上着を脱いで」
「こ、こんなときになによ!?」
「派手過ぎて目立つのよ。早く脱いで」
泣きべそをかきながらもあーだこーだ反抗されるのが面倒で力づくで上着をひっぺがした。桂芝(けいし)も手を貸してくれたし。
更に問答無用で私の黒い外套を頭からかぶせ、いざ馬車を降りようとしたとき、新手の髭面の男に行く手を塞がれた。
狭い空間で剣をうまく持ち上げられない。懐から短刀を抜く。が、それを投じる前に男は倒れた。
「お嬢様方、早く逃げてください! ここはもう持ちません」
護衛兵のひとりが必死の形相で私たちを急かした。
私たちを見送り、死を覚悟した者の気迫を漲らせて彼は戦闘に戻ろうとする。
「ありがとう」
短く告げると、汗と血できらきら濡れたその顔が、一瞬だけ笑いの形に歪んだ。
「早く行きましょう」
主従四人で支え合うように手を取り合いながらとにかく走る。
背後から馬の蹄の音。どう対処するか迷ったのが命取りだった。左手に握っていた芝嫣姉さまの手をもぎ取られていた。
「――――っ!!」
悲鳴を上げる間もなかったのか、ひゅっと呼吸音だけを残して芝嫣姉さまは消えた。視界の中で、私たちを追い抜きざま姉さまを馬上にすくい上げた騎兵がそのまま駆け去っていく。
ふざけるな。私はすぐさま乗り手をなくした馬をさがして目を付けた。
「あなたたちはふたりで逃げて。淑華(しゅくか)姉上たちはこの先の邑(ゆう)を目指してるはずだから後を追うの。運が良ければ警備隊と行き合えるかもしれないし、そしたら助けを求めるのよ」
「わたしは子豫(しよ)さまと一緒に……」
「行けないことはわかってるでしょう!?」
手綱を握りながら振り返ると、子宇(しう)は目をうるうるさせていた。
「きっとすぐ戻るから。だから先に行ってて」
私はぐずぐずされることがいちばん嫌い。わかっている子宇は「はい」と頷いて桂芝と手を握り合った。
馬に飛び乗り、芝嫣姉さまをさらった騎兵の追跡を開始したものの、追いつける気はまずしない。でもここで追いかけておかなければ私がこの場にいる意味がない。そんな気がして馬を走らせる。
びゅっとも、きゅんっともつかない音が大気を震わせ耳につく。首筋がひきつるような危険信号。私は馬足を止めないまま振り向きざまに剣を振る。
飛んできた矢の一本目は払い落した。二本目、とっさに背中をよじって避けた。そこでバランスを崩し落馬した。
あごをひいてからだを丸め、頭を打たないようにして地面を転がったが、最初に打ち付けてしまったわき腹が痛い。立ち上がれない。ねそべったままの耳に蹄の振動。
ぐいっと髪をひっぱられ、首が痛い、と感じたのと同時に私の意識は途絶えた。
「子豫(しよ)。ねえ起きて、子豫ったら」
耳元でしきりに呼びかけられ、私はそっと目を開けた。光がまぶしい。屋外なことはわかるけど、ここはどこ。そして猛烈に首から両肩にかけてが痛い。
「子豫? 起きたの?」
「姉さま、ここはどこ?」
「山脈のふもとのどこかってことしかわからないわよ」
芝嫣(しえん)姉さまが囁きながらもぞもぞと身動きするのが直に伝わってきて、今の自分の体勢を把握した。地面に座った姉さまのからだに凭れて眠っていたのだ。
「動ける?」
「大丈夫です」
上半身を起こしてみれば、太陽は既に傾いていて、黄色い斜陽を平原に投げかけていた。岩山の陰になった場所は薄暗く、そこに焚き火を囲む五つの人影があった。
「自分たちばかり温まって」
「私たち、縛られてもいないのですね」
「逃げても叫んでも無駄だって思われてるのでしょう」
「それで芝嫣姉さまはおとなしくしてたの?」
「暴れなければ何もしないって言うのですもの」
けろっと姉さまは肩にかけた外套の端をかき合わせた。この合理的な計算高さと順応力、さすが芝嫣姉さまだ。
「寒いわ、上着を剥かれてしまったから」
「根に持たないでください」
私はごそごそと自分の上着を脱いで姉さまに差し出した。何枚も衣類を重ねているから上着くらいなくても私は平気だ。
この世界の衣装はとにかく重ね着する。腹かけとズボン型の肌着の上に、裾がかかとまである長い衣を着て、その上に上衣と巻きスカートを着用する。人によって更にその上に袖と裾が長いゆったりした上着を羽織る。
アイテムひとつひとつは着るのが簡単なものばかりだが、枚数が多くて面倒だ。あ、次の派遣先は薄着文化の世界がいいってルカにリクエストしようかしら。
なんてたわいないことを考えていたせいで芝嫣姉さまの台詞を聞き流しそうになってしまった。
「べつに。あんたがいるからおとなしく座ってたわけじゃないんだからね。くっついてるのが暖かったからだし。わたし一人で逃げられるなら、そうしてたし」
「ええ、そうですよね」
「だから、助けに来てくれたのはちょっと、嬉しかった。ありがと」
でたー。ツンデレ姉さまキター。私が芝嫣姉さまの好感度を上げてもしょうもないのだけど。ていうか、私は私の好奇心で後を追ってきただけなのだけど。
と本音を口にするわけにもいかないから適当に相槌をうって、私は焚き火を囲む男たちを観察した。
独特な柄の上衣にズボン型の下衣、皮の長靴。仕立てていない毛皮を肩や腰にかけ、伸ばしっぱなしのやはり独特な縮れ毛に木のビーズをいくつも通している。山脈の向こうの草原に住む遊牧民族の衣装だ。
それから芝嫣姉さまの腕に残ったままの玉(ぎょく)の腕輪を確認する。略奪が彼らの目的ではなく、旅の行列を襲った隊とは別行動というふうに思われる。
そんな遊牧民の男たちの中に、私たちと同じ身なりの人物がひとり交っていた。その男が焚き火から離れてこちらにやってくる。纏っているのが光沢のある布地であることが西日の反射でわかる。
「お目覚めでしたか」
低音の穏やかな声音。だが表情は、面に差す陰影のせいか得体が知れなかった。
「棕(そう)将軍のお嬢様方ですね」
「……」
芝嫣(しえん)姉さまは膝を抱えて丸くなったまま、無言で男を見上げている。それならばと、私が立ち上がって男と対峙した。
「そういうあなたは? そちらから名乗るのが礼儀ではなくて?」
「これは失礼しました。わたくしは坩何(かんか)と申します」
「どちらの国のかた?」
「壅(よう)から参りました」
「嘘ね」
ぴしゃりと断定すると、男は片方の眉をぴくりとあげた。
「なぜそのようにおっしゃるのか」
「今朝、国境を越えたのが煌(こう)軍だからですわ」
それだけ言えば十分と私はじっと男を睨み上げた。煌と壅は共同作戦ができるほど仲が良くない。父上と私たち姉妹を引き離すためとしか思えない陽動は、煌の隠密作戦の一部に他ならない。国内の勢力が煌軍の偉い人の協力を取り付けた可能性も捨てきれないけど、確率は低い。ならばハッタリをきかせるだけのことだ。全部お見通しだと。
「偽名もやめてくださる? 我が父上との交渉材料にしたくて私たちをさらったのなら、私たちに不快な思いをさせるべきではないし、私たちは子どもなのでもって回った言い方は通じません。でもウソは見抜けます。ですから率直に話してくださらないと」
男は顎を引いて俯くようにしながら黙っている。今日最後の残照が一筋の光を投げかけて消えると、男の顔からは得体の知れない陰影が消えていた。
「俺は赬耿(ていこう)。ご推察の通り煌の廷臣だ」
雰囲気も口調もがらりと変えて、男は胸の前で両手を組んで礼をした。薄暮のせいで細部は見えないけれど、髭はないしとても若いようだ。
「棕(そう)子豫(しよ)です。こっちは姉の棕芝嫣。上の姉の淑華(しゅくか)は無事に逃げてくれたようですね」
「ええ。なんとも迅速な行動で」
「私たちは辺境暮らしでしたから荒事には慣れています。それで、私たちの誰に御用があったのです? それとも交渉相手はあくまで父ですか? それなら、きっとそろそろ私たちを救いに駆けつけてくるはずですわ」
赬耿はまたじっと私を見つめてから、ふっと口元を緩めた。
「そのつもりだったが、なんなら今、話してしまった方が手っ取り早い気がしてきた。お聞かせ願えるだろうか?」
「何をでしょうか?」
「棕家の姉妹にまつわる予言について」
思わぬ言葉に私はちょっと反応が遅れてしまった。
「……予言とおっしゃると?」
「棕(そう)将軍が天子救出の出兵に迷っていたおり、老巫から得たという予言だ」
――ひとりの安寧を願うならば動かず、女子の栄達を願うならば今こそ世に出るべし。
あの予言については、昔語りで父上は私たちによく聞かせてくれたし、身内の宴席で酔った勢いで周囲に漏らしたりもしていた。父上の英雄的決断の背景が気になるのは人情だろうし、与太話のようにして兵士たちの口から口へ回っていたのも知っている。
曰く、将軍はお嬢様たちの将来を願って決断したのだ! と。棕家のおひざ元では、父上の子煩悩エピソードな扱いのそれが、どうして誘拐の理由になるのか。
「ちょっと待ってください」
私は思わず手を挙げて確認せずにはいられなかった。
「廷臣と自己紹介したからには、赬(てい)様の行動は煌(こう)王様もご承知おきのことと思ってよいのですよね?」
「ごまかしても無駄だろうから、そうだと言っておこう」
「煌王様があの予言をご存じだと? 予言の話をするために私たちをさらい、私たちをさらうために兵を動かし、彼らにも協力してもらったと?」
遊牧民たちへの協力要請については、彼らは非常にドライなので、見返り次第でどんな依頼も請け負う。彼らの強力な機動力欲しさに各国が物品を差し出すのはよくあることで、冬を前にした今、煌国は穀物を草原に輸送する約束をしたのに違いない。
「そうだ。腹を割って話すと決めたのだから言ってしまうが、我が煌(こう)にとって天子の継承問題は最大の関心事だ。壅(よう)王は兵力で天子の位を奪おうとしたが、煒(い)王家と同姓の煌(こう)王家には奪うまでもなく道理がある」
そう。都では今、天子の代替わりが始まろうとしているのだ。父上が都で要職に就くことになったのはそのためで。
「天子が譲位の意志を固めたことは諸国に伝わっている、諸侯が動き出す前に先手を打ちたいと? でもそれとあの予言になんの関係が?」
「大ありだろう」
赬耿(ていこう)は少し苛立っているようで声音が荒くなる。いや、そういわれても。
確かに。忠臣である父上に、次期天子の後ろ盾を任せようという意図があっての都への召還であることは明白で。と同時に、私たち姉妹を次期天子のお妃候補に、という流れも見え見えな都行きなのである、ぶっちゃけ。
――女子の栄達を願うならば……
女子の栄達といえば、それは王の妃となり次代の王を産んで国母となることだ。この世界では女子は王になれないのだから。王の中の王である天子の妃ともなれば、この世界では女性たちの頂点ということ。
つまりは私たち姉妹がお妃候補となることは予言によって決まっているのだ。なんというお約束感。引っかかるのは、私たち姉妹のうち誰が王后(おうごう)になるのか、という点なのだが、この問題は今は置いておく。
「私たちを、未来の王后とみなすと?」
「あの予言はそういうことだろう」
「ええ、まあ。ですけど、煌(こう)が注視しているのは次期天子の座でしょう? どなたが後継者なのか決まってもいないのに、さらにその妃候補であるらしい、という立場でしかない私たちを重視する意味がわからないのですが」
そうなのだ。譲位の意志があっても、天子には王太子がいないのだ。公子はたくさんいるのに肝心の王太子を立てていない。このあたりの天子の考えは私にはさっぱりわからないが、事実として後継者は決まっていない。
すると、赬耿は呆れの色を声に滲ませた。
「何を言ってる、次の天子を決めるのはそなたら姉妹なのだろう?」
…………は?
「棕(そう)家の娘を娶る者が天子となる、そういう予言だろう」
違うでしょ。あれは〈あんたの娘が将来国母になれるかもしれないから、いま天子を助けておいた方がいいかもよ〉って程度の内容だよね。
なのになんで私たちがキングメーカーみたい扱いになっているのか。背びれ尾ひれどころではなく解釈としておかしなことになっている。
と私は絶句してしまう。しかし赬耿(ていこう)は大真面目な様子だ。
いやいやいや、ちょっと待ってくださる?
私たちは、例えば、神殿の巫女とか、神のお告げを得た聖女とか、星を見て未来を予想するとか、そいう神秘的な出自の存在ではない。それってむしろ正ヒロインの役目だし。
私たちは武骨な軍人家系の娘で、打算と計算と損得勘定が得意で、感情論を鼻で笑って合理性を尊重する、というのが姉妹で共通の性質だ。
そんな私たちのどこに神秘性があるというのか。そんな私たちに関する予言が、どうしてそんな解釈で流布したのか。そして、そんな私たちの姿を見て、どうして予言の信憑性を疑わないのか。
一見して切れ者っぽい目の前の男も、予言に対して猜疑心がないから、私たちを操作しようとしている。こんなことのために軍事行動を起こした煌(こう)王しかりだ。
そう呆れる一方。この世界はそうなのだ、と十三年間を生きてきた子豫(しよ)の肌感覚では納得できてもいる。
諸侯のトップである天子には、レガリアの九鼎(きゅうてい)の他にも様々な秘術が伝えられるという。亀卜(きぼく)や遁甲式(とんこうしき)など未来予想をする占術だ。
天子の行動の多くは占術によって決められている、という。そんな世界なのだから、天子と同じ血筋の煌王家が特に予言の噂を気にするのは真っ当なことなのだ。
しばしの黙考の後、私はようよう口を開いた。
「いろいろ疑問な点はありますが、状況はわかりました。それで、私たちの身柄をおさえてどうなさろうと?」
「話は簡単だ。そなたら三人が煌に嫁げばそれでよい」
あー、そーなりますよね、カンタンカンタン。
「嫌だと言ったら?」
「嫌とは言わせない」
「我が父上が承諾するとでも?」
「そのための人質だ」
「私たちは人質であり戦利品そのものであると? それは素敵」
「無駄だ。会話で気を反らせて隙を作ろうとしてるだろう」
「……じきに父が駆けつけてきますわ。勇猛果敢な棕将軍が人質の存在にひるむとでも? 交渉の間もなくあなたなんて真っ二つですわ」
「だから今すぐ、うんと言ってくれ」
「嫌です」
「力ずくで国へ連れて行ってもいいのだぞ」
「嫌です」
「ならば殺すしかない」
すうっと声音を落として赬耿は脅しをかけてきた。まったく殿方というのは、結局最後はこれだ。
「ねえ、思ったのだけど」
そのときすっくと、それまで終始無言だった芝嫣(しえん)姉さまが突然立ち上がった。
「この場での、あなたにとっての最善の決着ってなあに? わたしたち三人が……三人よね? 予言がいうところの〈女子〉は特定されてないけど、三人のうちの誰かなのだから、三人とも確保しておきたいのよね?」
それまでぼやかしたままで議論していた点を芝嫣(しえん)姉さまはまず確認する。
「そうなります」
「ええと。わたしたちの夫となる人が天子になるのだから、天子になりたいから、わたしたちと結婚したい」
芝嫣姉さまは軽く握った左右の手をくっつけて話す。
「煌(こう)の人の希望はそうよね?」
「おっしゃるとおりです」
「でも煌王様はおじいさんでしょう? 天子様よりはお若いけど、わたしから見たらおじいさんだわ。父上よりも歳が上の方に嫁ぐのはちょっと」
「公子の中から選んでいただいても良いのですよ。みな眉目秀麗で優秀な方ばかりです」
どうでもいいけど、赬耿(ていこう)は姉さま相手には最初の丁寧な物腰になっている。どうでもいいけど。
「あら。選べるの? ってことは、相手は煌王家の方なら誰でもいいということ?」
「煌王か王太子に嫁いでいただくのがいちばんですが、そこは無理は申しません」
「煌に王と天子とが別々に在位することになってしまわない?」
「過去にはそういう例もありますゆえ」
「そうなんだ。わたしたち三人がそれぞれお相手を選んでいいということね?」
「さようです」
「ん~、それだとやっぱりおかしなことにならないかしら? わたしたちが選んだ三人が三人とも天子になれるわけもないでしょう? それだと無用な争いを招くことになってしまうわ」
「…………」
至極端的な一問一答を重ね、芝嫣姉さまは赬耿を黙らせてしまった。さすがだ。相手の要望に応じる素振りを見せつつ、のらりくらりとかわしていく高等テクニックだ。
これを天然でやっているのか計算なのか、わからないところが姉さまのすごいところだ。
「よくわからないわ。やっぱり父上の意見を聞かないと。ねえ、子豫(しよ)?」
「そのとおりですわ、芝嫣姉さま」
ふたり寄り添って、じりじりと後退を始めた私たちの前で、赬耿がぶるぶる肩を震わせ、叫んだ。
「ふざけるな! あんな無能になぜ仕えようとする! 諸侯のいただきに存在する天子があのような能無しでいいのか!? 譲位するならするで、また煒(い)王家の能無しに居座られるのは我慢がならん。俺たちはいい加減腹に据えかねてるんだっ」
両腕を振りながらがなりたて、清々しくぶちまけた赬耿は一瞬口をつぐみ、薄闇の中でもそうとわかるギラギラした目で私たちを見た。
「棕(そう)家がまたしょうもない天子を選ぶというなら、ここで殺してやる」
物騒な男だ。こちらとしても危険人物となりそうな輩は早めに始末しておくに限る。父上が来てくだされば……。
思案しながら芝嫣姉さまの柔らかな腕に手をかけたとき、また姉さまがずいっと進み出て口を開いた。
「あなたにとって最悪なのは、わたしたちが煒(い)王家に嫁いで、その夫が天子になることなのね?」
平然とした姉さまの素振りに昂ぶりが冷やされたらしく、赬耿は肩で息をつきながら抑えた声で頷いた。
「そうだ」
「それなら、あなたがわたしたち三人を娶ってしまえばいいんじゃない?」
突拍子もない姉さまの意見に、赬耿ばかりか私も絶句してしまった。
「そうすれば、煒(い)王家の方が天子になることはないし。それに、あなただって煌(こう)王家に連なる方なのでしょう?」
にこりと芝嫣(しえん)姉さまが微笑んだ気配。
さっき激高した赬耿(ていこう)は「俺たち」と口走っていた。自分にも権利のあるものを自分より劣るものが占有しているのが気に食わない、と自分も当事者であるかのような鬱憤の溜まり具合だった。
赬氏も、棕(そう)氏と同じく、煒(い)王家と煌(こう)王家と同じ姓から生じた氏族なのだ。
母系の姓と父系の氏。出自がものをいうこの世界では、このふたつは絶対だ。生まれながらに歩む道は限られてしまう。
南斗星君の〈さだめ〉から信憑性のない〈予言〉まで。用意された道筋を安易に呑み込もうとする習性みたいなものも、だから仕方ないのかもしれない。
「確かに、末端ではあるが、いちおう」
指摘されたことに驚いた顔のまま赬耿が肯定した。
そもそも最初に偽名を名乗ったのは、この情報を隠したかったからではないのか? 本名をあっさり明かした時点で察しているべきことなのに何を驚いているのか。私たち姉妹に知識がないと思っていたのか、本人がマヌケなのか。
どうもこの男は頭は良さそうなのに、感情的になるとスコンと抜けてしまうタイプみたいだ。
「ならばあなたが天子になればいいわ。わたしたちを娶って」
ゾッとするほど無邪気な口ぶりで芝嫣姉さまは続けた。なんて恐ろしい。
今は乱世。運と実力とがほんの少し噛み合えば、誰でも諸侯に成り上がれる。が、その先となればそうはいかない。でも赬耿には血筋が伴っている。野心もあるようだ。
こういう男を唆すのは簡単。姉さまはそう思っているだろう。事実、荒々しい気配が消えて、赬耿は笑っているようだった。
「お嬢様はわくしめの妻になってくださると?」
「ええ、いいわ。あなたはおじいさんではないし、顔もいいもの」
「ハハッ。あなたはそうおっしゃってくれてますが、妹御はそうではないようです」
「あら、そんなことないわ。ねえ、子豫(しよ)? あなたも赬耿さまに嫁ぎたいわよね?」
なんで願望になってるんですか、希望した覚えはありません。
憮然と無反応でいる私の耳に、馬蹄の響きと人声のざわめきが届いた。はっとして目をあげれば、まだ遠い岩場の陰から松明の火らしい光が出てきたところだった。
「父上だわ!」
脱兎のごとく芝嫣姉さまが光の方へと走り出す。さっきと比べて逃げ足が速すぎる。
赬耿とその他の行動も早かった。
「引き上げるぞ」
手振りを加えて赬耿が指示すると遊牧民の男たちは焚き火を踏みつけて明かりを消し、あっという間に馬上の人となって暗がりの中へと消えた。
「何か言いたそうだな」
取り残されてふたりだけになったところで、赬耿は私を振り返った。
「私たちを人質にして父上と交渉するのじゃなかったの?」
「そんな気力はもうないさ。どうでもよくなった」
「どうでもって」
「いやはや。子どもと女性とはまともに話し合うべきではないということを学んだよ」
言葉尻に笑い声をにじませて赬耿は続けた。
「棕家の姉妹に関する世間の評価は当てはまっているな。いちばん上の娘は聡明で大人顔負けの見識の持ち主で辺境育ちとは思えない気品がある。まんなかの娘は可憐で話術が巧みで人から好かれやすい。末の娘は、将軍の秘蔵っ子だが言動が読めず何を考えているのか得体が知れない、と」
得体の知れない男に得体が知れないと言われた。そっちの方こそ、不気味な雰囲気だったり物腰が柔らかかったり、いきなり闊達な調子になったりとわけがわからないのに。
やけに楽し気な笑い声を残し、赬耿は自分の馬へと駆け寄った。
「ここで話したことをありのままに父上に報告しますよ!」
怒鳴ってやると、暗がりから返事があった。
「そうしてくれ! 煌(こう)はいつでも棕一族を迎え入れることができるとな!」
続けて軽い蹄の音が遠のき。後ろからは松明をかがげた兵馬の一団が駆けつけてきて。
「無事か? 子豫!」
今朝ぶりに聞いた父上の頼もしい声に、さすがの私もほっと息をついた。
今夜宿泊する予定の邑(ゆう)に辿り着く頃には、まだ満ち足りていない月が藍色の夜空に冴え冴えと輝いていた。
周囲にものものしく篝火(かがりび)が並んだ宿の前で淑華(しゅくか)姉上が心配そうな面持ちで私たちを待っていた。
姉上は着の身着のまま逃げる途中で商人の荷馬車に出会い、助けを求めることができたそうだ。さすがの強運だ。
こういうところがあるから、実は淑華(しゅくか)姉上がこの物語のヒロインなのでは、と考えもするのだが……。
散り散りに逃げてきた使用人たちの中に、私の侍女の子宇(しう)と芝嫣(しえん)姉さまの侍女の桂芝(けいし)もいてとりあえず安心した。
逗留を一日延ばして出発は明後日の明け方になることを父上から聞かされ、今夜はとにかく早く休むよう言われた。
が、芝嫣姉さまが頭が砂だらけでこのままでは眠れない、とわめいたので、私も一緒に髪を洗ってもらった。
「こんなに肝を冷やしたことは後にも先にもないわ」
淑華姉上の声音には珍しく実感がこもっていた。
中庭から差し込む月明かりの中で姉上は私の髪を櫛で梳いてくれている。隣では順番待ちしている芝嫣姉さまが肩から前に垂らした毛先を自分で梳いていた。
「なによ、さっさと逃げちゃったクセに」
大して怒ってはなさそうな口ぶりで芝嫣姉さまがつぶやくと、淑華姉上は「ごめんなさい」と小さな声で言った。
「姉上の判断は正しいです」
私が取りなすと、姉上が微笑んだ気配を背中に感じた。
実際、淑華姉上も一緒に赬耿(ていこう)と対峙していたら、ああも簡単に彼をいなせたかどうかはわからない。それはそれで、どう話が転がっただろうかと興味深くはあるけど。
「煌(こう)王がここまでするなんて。本気で天子の位を狙ってるのね」
「それよりも、予言の中身がおかしなことになって広まっていることの方が私たちには問題です。どうしてなのか」
私が発した疑問には淑華姉上は反応しなかった。別のことを考えているようすで黙って櫛を動かしている。やっぱり、と私は疑いを深めないわけにはいかなかった。
――棕(そう)家の娘を娶る者が天子となる。
父上が得た予言の解釈を、そんなふうによじって拡散した犯人は、淑華姉上ではないかと。
根拠は簡単。こういうことをやりそうなのが淑華姉上だからだ。目的は明白。棕家の姉妹に箔をつけるためだ。
「どうしてもなにも、もう他国にまで広がっちゃってるんだから、考えてもしょうがないじゃない。相手を選ばせてくれるっていうならそっちのほうがわたしは嬉しいし」
めんどくさそうに芝嫣姉さまが口を開き、だから、と私たちの方を見ずにはっきり言った。
「ここで決めておきましょうよ。わたしたち三人のうち誰が王后(おうごう)になるのか」