女神墜落~あなたがわたしを好きになるまで~

「うう。腰と背中が痛い」
 両の手で腰をさすさす撫でながらだんだんと腰を伸ばしていかれます。なんでしょうね、このお姿。生まれたての仔馬みたいな。

「ふひー。助かった。ありがとう」
 ようやくおからだを伸ばした女神さまは男性たちにお礼をし、それから相変わらず腕組をしたまま黙っている大柄な男性に手を突き出しました。
「やい、禿ちょろびん。駄賃をよこせ」
「あ? ああ、はいはい。そうでしたね」

 禿ちょろびんの男性からお金をせしめた女神さまはにんまり笑います。リハーサルが再開され、そちらに目を奪われているデニスに向かっておっしゃいます。
「デニス、ゆっくり観劇しているがよい」
「え、いいの?」
「わらわは広場で麦菓子を買い食いしている。それをみなに黙っているなら、おまえのことを待っていてやる」
 取引にもなっていないような持ちかけでしたが、デニスは女神さまのあくどい雰囲気に押されてこくこく頷いてしまいます。女神さまは機嫌よく笑って広場へと駆けだしました。
 いいんですかあ? 大事なこと忘れてませんかあ?




「どうしてじゃあああ!?」
 好きなだけ芝居を堪能したデニスに呼ばれ陶工区に戻ったころには遅かったのです。
「ごめんね」
 エレナは申し訳なさそうに肩をすぼめて謝っていましたが、滂沱の涙を流す女神さまには聞こえていなかったようです。

 仕方がないです。祭儀の生贄のお相伴は、貧しい人々にとっては肉を食べられる貴重な機会です。早い者勝ちで、いつまでも残っているわけがないのです。その場にいない者の分まで取っておくだなんて許されなかったことでしょう。じっと女神さまとデニスが来るのを待っていたエレナたちだって、お肉にありつけなかったのです。責めるのはかわいそうです。

 そう思ってわたしは内心はらはらして見守っていましたが、さすがに女神さまもそれ以上エレナに詰め寄るようなことはなさいませんでした。御自分だけ隠れてお菓子を食べた負い目はあるはずでしょうし。麦菓子ならこちらの天幕でも供されていて、子どもたちもおいしそうに食べていたのは喜ばしいことでした。

「ニンニクソースの残りはもらったよ。お粥にかけて食べようよ」
「粥が肉の代わりになるか」
 力なく女神さまはつぶやかれました。



 その夜、帰宅したテオにいつになく硬い表情でデニスが何か相談していました。寝床でうとうとしている女神さまに言われ、わたしはふたりの話を聞いていました。

 なんでも、あの禿ちょろびんの男性が、そんなに芝居が好きなら手伝いをしないかとデニスを誘ってくれたのだそうです。俳優はみな市民で雑事には手を回しません。かといって専用の家事奴隷を置くほどでもない。デニスの時間が空いているときでいいから溜まった雑用を片づけてくれるのなら、その分の日当は払ってくれるというのです。悪い話ではないでしょう。

 デニスはおずおずと、通っている家の仕事を減らしてもらってでも、劇団の仕事の方に行きたいとテオに相談したのです。テオは首を横に振りました。今請け負っている仕事はきちんとこなすべきだと。

 ここで他の二人の子どもたちがデニスに加勢しました。特にいちばん年下のミハイルは、自分は仕事が早くなったからデニスの分の仕事を手伝うとテオに訴えました。
 それならとテオも考えたようで、どこの仕事だろうときちんとするように、と念を押してデニスに劇団を手伝う許可を出したのです。




 この話に誰よりも驚きを示したのはエレナでした。
「すごいなあ、デニスは」
 篭を抱えて城外の農園へ向かいながらエレナはぽつりとつぶやきます。
「自分のやりたいことをやれるんだね……」
「エレナだって、壺絵を描いてみたいのだろう。弟子入りでもなんでも頼んでみれば良いではないか。その女職人に」
「うん……」

 歯切れ悪く頷き、エレナはでも、と反駁します。
「テオは許してくれるかな」
「そなたがやりたいことをするのにテオの許しが必要なのか? 家主ではあっても父親ではあるまいに」
 女神さまの言いようにエレナは驚いて目を見開きました。
「だって……」
「だってもさってもない。居候でも自分の食い扶持は自分で稼いでおるし家事だってしておる。少しくらい自分の主張をしたって罰はあたらないぞ」

「そ、そうかな……」
 目を潤ませてエレナは頬を染めます。
「いいのかな、わたし。陶磁器のお仕事がしたいって言っても」
「もちろん、言うだけならタダじゃからなあ」
 無責任に大口を開けて、女神さまはからからとお笑いになったのでありました。
「肉、肉、うるさい。そんなに肉が食いたいなら山ウズラでも獲りにいけばいいだろう」
 いまだに豚肉を食べられなかったことをくどくどつぶやく女神さまのうっとうしさに業を煮やしたのか、テオが叫びました。
「山ウズラか」
 ぱっと女神さまが目を輝かせます。

「岩場まで行かなきゃならないよ」
 エレナが心配そうに眉をひそめます。
「大丈夫じゃ。では農園の仕事が終わったら行くとするか」
 おでかけ気分なのか女神さまは狩りに行く気まんまんです。
「大丈夫かよ」
 自分が言い出したくせにテオも不安げです。
「面倒を増やすなよ」
 言い置いて家を出ようとしたところ、
「どうした? いきなり……」
 テオが路地に出る手前で叫んでいます。

「よお」
 そんなテオの肩にがっしり腕をまわして顔を出したのは、リュキーノスです。
「急に思い立って来た。土産もあるぞ」
 彼が手にぶら下げていたのは大きな山ウズラです。わっと三人の子どもたちが声をあげます。
「すごい! おじさん」
「おにいさんだ」
「今日ファニが獲りに行くって話してたところなんだぜ」
「そうかそうか。ならちょうど良かった」
「ありがとうございます」
 エレナの手に山ウズラを渡してリュキーノスはにやりと笑います。

「テオよ。今から仕事だろ。ついていっていいよな」
 腕を肩にまわしたまま、さらに顔を寄せてくるリュキーノスにテオは少し戸惑ったように頷きます。
「あんたならかまわないだろうが。……暇なのか?」
「まあな。じゃあ行こうぜ」
 体を密着させてテオを引っ張っていくリュキーノスを、女神さまは大きな瞳でじいっと見据えておられました。




 昼下がり、農場の仕事の後にエレナはさっそく山ウズラの料理にとりかかりました。摘んできた野草と一緒に肉を丸ごと穴あき釜で焼きます。いつもは昼寝をする子どもたちが火の番をかってでました。
「うまそおおおお」
 いちばん元気の良いハリがこらえきれないように地面を蹴ります。
「まだまだだよ。おいしいお料理が食べたいなら我慢して」
「はあい」

 賑やかに協力しあっているところへ、またまたリュキーノスがひょっこり顔を出しました。
「あれ? テオのお仕事は終わったんですか?」
 目を丸くしてエレナが尋ねます。
「いや、まだやってるよ。飽きたから先に戻ってきた」
 びっくりしたようにエレナはリュキーノスを見つめます。朝方テオが戸惑っていたのと同じです。言動がいつもの彼らしくないのでしょう。
「ちょっとこっちに来てくれ」
 エレナがかまどの方へ戻った隙に、女神さまがリュキーノスに低く囁きます。リュキーノスはにこりと笑って先導する女神さまの後について路地に出ました。

「なんのつもりじゃ?」
 人気のない袋小路に入るなり、女神さまは腰に手をあてリュキーノスを振り返ります。
「なんのこと?」
「いいかげんにせい。おまえはリュキーノスではないだろう」
「……」
 目を細めて微笑むなり、はらりと布地が落とされるように彼の姿かたちが変わりました。山ウズラの羽の色と同じ褐色だった髪は豪華な金髪に。いかつかった肩はすんなりした細身のものに。

「やだなあ、姉上。そんなに怒らないでよ」
 蒼い瞳にはいたずらっぽい光が踊っています。輝ける頭の御方、うるわしの女神さまの弟神さまでいらっしゃいました。
「わざわざリュキーノスなんぞに化けおって、趣味が悪いぞ」
「だって、普通に来たのじゃおもしろくないじゃない」
「わらわを馬鹿にしに来たのか」
「いつまでも戻ってこないんだもの。何をしてるのかと思って」
 まさか農作業や家事をしているとは、と弟君は大仰に肩を持ち上げてみせます。
「やっぱり馬鹿にしに来たのではないかあああっ」

「ファニ?」
 女神さまの叫びにかぶせるようにエレナが角から顔を出しました。
「なんでこんなところに……。ねえ、リュキーノスさまは? 一緒にごはんを食べるか訊きたいのだけど、どこ行っちゃったのかな」
 エレナには本来のお姿の弟君のことが見えていません。
「……帰った」
「ええっ。そんないきなり……」

 納得いかなげにエレナは眉根を寄せます。そんなエレナに弟君が顔を近づけ、ふうっと霧の息を吹きかけました。とたんにエレナの表情が変わります。
「そっか。わかった」
 素直に頷いて路地を戻っていきます。それを見送り、女神さまははあっと肩を落とされました。

「おぬしもさっさと帰れ。目障りじゃ」
「ひどいなあ、姉上。せっかく応援しにきてあげたのに」
「なにおう」
「人間の男に好かれなくちゃならないのだろう? そんなの簡単だよ。その棒切れみたいな体をお好みな男のところへ行けばいいんだ。ぼくが捜してきてあげるよ」

「愚かじゃなあ、おぬしは」
 女神さまは訳知り顔でふるふると頭を振ります。
「そう事は簡単ではないのじゃ。姿かたちを見て好きだと言われてもしようがないのじゃ。わらわの身も心も好いてもらわねばならないようなのじゃ、どうやら」
 ――わらわを好きか?
 下界に落とされた当時、さんざんな目にあってようやく女神さまが悟られたことがそれでした。
「またまたー。こんな棒っきれに恋する男がいるとでも?」
「だろう? まったく父さまも人が悪い……って、誰が棒っきれじゃ!?」

「そりゃあ、姉上の本来の姿なら男を魅了するなんて朝飯前だけど」
 女神さまのつっこみはきれいに流し、弟君は「なるほど」とあごに手を当てました。
「外見では気を引けないから、その分中身を磨けよって課題なんじゃないのかな、これは」
 ああ、言われてしまいましたか。御自分で気がつかなければ意味はないと、わたしがせっかく黙っていたというのに。

「あっはっは。馬鹿を申すでないわ」
 女神さまはそれを豪快に笑い飛ばされました。
「わらわは中身も完璧じゃ! つまりは、ありのままのわらわを愛する男を見つければ良いということじゃろう? 簡単簡単」
「ううん。そうかな。それは違うと思うんだけど」
「愚弟よ、黙っておれ。姉はほどなくまことの愛を得て天上に戻るがゆえ」
 はあ、そうですよね。やはり御自分で気づかなければわからないのです。
「簡単って言うけど。それができないからいつまでもぐだぐだしてるのでしょう?」
「なにおうっ」

 おふたかたの変わらぬやりとりに、わたしはやれやれと息をつきます。それで遅れてしまったのです。こちらをじっと見つめている小さな影に感づくのが。
「女神さま。あちらに」
「……ミハイル?」
 女神さまが呼びかけます。ですがミハイルは女神さまの頭越し、人間には見えないはずの弟君の姿にじっと見入っていたのです。

 実は、思い当たることはそれまでにもありました。
 見咎める者などいないからと安心し、わたしが気ままに飛び回っていると、視線を感じることがありました。見えているのではないか? そう感じさせる視線。それはいつもミハイルのものでした。

 茶色とも琥珀色とも映える静かな目がわたしを見ている。そう感じてからは、なるたけ死角でおとなしくしているようにはしていました。ミハイルは口に出しては何も言わなかったから、見えているわけではないのだと女神さまのお耳にも入れずにいたのですが。

「その人だあれ?」
 普段から口数が少ないせいでしょう。たまに発するミハイルの声は小さくかすれています。
「ぼくのことかい?」
 のほほんと弟君が尋ね返します。こっくり頷いて、ミハイルはその静かなまなざしをわたしの方へも向けました。はっと女神さまが瞠目なさいます。
「ミハイル? そこに何がいるのか見えるのか?」
「……小さな人。にじいろの大きなはね。きらきらしてきれい」
「ふうん。見える子なんだね」
 そういうこともあるだろう、と弟君は実にのんきにおっしゃいます。

「……ファニはときどき、なんでかとってもきれいに見える。きんいろの髪。みどりの目、神殿の女神さまみたい」
「ミハイル……っ」
 ミハイルの言葉に女神さまは感極まったごようすで彼をひしっと抱きしめました。
「良い子じゃのう。良い子じゃ、ミハイル」
「くるしい……」
 まだ物足りぬように腕をゆるめ、女神さまはミハイルの前髪を撫でます。

「あの小さな人のなまえは?」
「あれか? あれはティアじゃ」
「ティア……。ティアのことはみんなにはないしょなの?」
「自分が見えぬものを見えると言われても普通は信じないだろ? 面倒なだけだから黙っているのが賢明かのう」
「おかあさんの言った通り」
 そのとき初めて瞳を揺らして、ミハイルは瞼を伏せました。

「おかあさん、死んじゃう前に言ってた。なにか見えても、見えないふりをするんだよって。見えることがばれると怖いところにつれていかれてしまうかもって」
「ミハイルの母上は聡明じゃ」
 いっそう優しくミハイルの頭を撫でて、女神さまは微笑まれました。
「その言い付けをずっと守っていたのじゃな」
「うん」
「ミハイルも賢い子じゃ」
 褒められて嬉しかったのか、ミハイルはそっと小さく笑いました。この子が笑うなんて珍しい。それだけに、なんともかわいらしゅうございます。

 そのかわいらしい顔のままミハイルは弟君に問いかけました。
「おじさんは……」
「おにいさんだよ」
「……おにいさんは、もう帰っちゃうの?」
「帰るに決まってるだろう。はよう帰れ、しっし」
「って、姉上がおっしゃるからなあ」
「……ぼく、その音を聞きたい」
 ミハイルは弟君が持つ竪琴を見つめています。
「これ? そうだなあ、夜になってからじゃないと」

 それなら夜までいて、とミハイルは目で訴えます。それは姉上次第だよ、と弟君は女神さまに目をくれます。三すくみのような状態の中で、女神さまはむうっとくちびるを尖らせたのでありました。



「おまえも苦労が多いね。ティア」
 中庭の木の枝の上で優雅にくつろがれながら、弟君がおっしゃいました。
「めっそうもございません」
 わたしは女神さまの手の中から生まれたのです。どんなときにも女神さまのおそばにいるのは当然です。わたしは女神さまのためだけに動くのです。そこらの妖精たちとは違うのです。わたしのすべては女神さまだけのため――。

「テオフィルスねえ」
 早めの夕食でお肉を堪能し、満足した家の者たちは早々に寝静まっておりました。月明かりに照らされてしんとしている中庭に、弟君の声が溶け込んでゆきます。
「変わった奴だよね」
 竪琴をつま弾いて弟君はさらにおっしゃいます。
「そうお思いになられますか」

「うん。あれだよね、半神の連中みたいだ」
 それは、テオがおのれの出自を呪い運命に翻弄されている、ということでしょうか。ですが弟君の口振りはそこまで深刻そうでもありません。ちゃらんぽらんな御方ですから、万事がこんな風なのではありますが。
「不幸面した奴ってぼくは大嫌いだけど、姉上は気に入ってるのかな」
「どうでしょうねえ」
「四苦八苦する姉上を見てるのは楽しいから、ぼくはどうでも良いのだけど」

 弟君が弦をかき鳴らすと、澄み切った旋律が中庭から路地の隅々、そして天空の月光の矢をなぞるように広がってゆきます。人間の耳にその音は聞こえません。聞こえませんが、安らかな穏やかな気持ちを人々に届けていることでしょう。

「いちばん早起きの女神があかつきを引き連れてくるまでは夢の中にいるがいい。人はみんな夜の子どもさ」
 ミハイルも夢の中で弟君の竪琴を聴いて満足しているでしょうか。夜は静かに更けてゆきます。




「なんでおぬしがまだここにいるのじゃ!」
 この数日間繰り返している文句を女神さまがまたおっしゃいます。
「だって、他にすることもないし」
「暇人めっ。そこまで言うなら少しは手伝ったらどうじゃ」
 まさかお手伝いする気になったのでもないでしょうが、弟君は興味を引かれたように中庭の木から下りられました。井戸のわきでは女神さまが小さなおみ足で洗濯物を踏みつけていらっしゃいます。

「ちびっこいといろいろ大変だね」
「なんだとおう!」
 今日はエレナがいないので感心にも女神さまはおひとりで洗濯や掃除に励まれました。
「ふひい。夕餉のしたくまでには帰ってくると申しておったが、エレナのやつめ、遅いのう」
「どこに行っちゃったのですかね」
「ねえ、エレナは? 腹減ったよう」
 昼寝から起きだしてきたハリが訴えます。
「捜しに行ってくる」
 自分も空腹を感じたのでしょう。女神さまは率先して路地へと出ました。

「とはいえ、エレナはどこに行ったのやら」
 農園からの帰り、いつものように広場で買い物した物を女神さまにあずけ「用があるから先に帰っててね」とエレナは行ってしまったのです。こんなことは初めてでしたから、行き先くらい聞いておくべきだったかもしれません。

「女神さま、エレナの行きそうなところといえば」
「陶工区かのう、やはり」
「どうしてだい?」
 後ろにくっついてきた弟君がのほほんとお尋ねになるのを無視し、女神さまは陶工区へと足を急がせました。




 城壁に接した陶工区の路地裏は、傾いた日差しがすでに遮られ薄暗くなっていました。お店を営む家々の軒先でランプが灯っています。
 陶磁器の工房が並ぶ通りに、案の定エレナの姿がありました。胸毛の濃い男性に絡まれています。大変です。
 いつものように上空からエレナを見つけたわたしは、慌てて女神さまにご報告しました。

「エレナの危機じゃ!」
 心持ち声を弾ませ女神さまは駆けだします。今回は薄暗くてコントロールに自信がなかったのでしょう。走り寄った勢いそのままに、女神さまは胸毛の濃い男性に体当たりなさいました。

「おお。姉上カッコいい」
「もう。また危ないことをなさって」
 そのまま足を蹴りあげて攻撃する女神さまに胸毛の濃い男性が逆上します。
「生意気なちんちくりんめ!」
「誰が生意気じゃああ!」
 あれ? 怒るとこ違ってませんか?

「小汚い手でエレナに触るな!」
「ああ? こんなとこにぽつんと立ってたら客引きだと思うのは当然だろう?」
 まあ、そうだよね。わたしの隣で弟君が独り言ちます。この陶工区には公の娼館があります。この男性はそれを目当てにやってきたのでしょう。
「エレナは違うと言うとろうが!」

「まあまあ、あんた」
 騒ぎのようすを見ていた通りすがりの男性が取りなしに入ってくれました。
「こんな棒っきれみたいな娘たち相手にムキになるなよ。出るとこ出たイイ女がいる店教えてやるから」
「そ、そうだな」
 胸毛の濃い男性は顔を赤らめて踵を返しました。
「こんな時間に出歩くおまえたちが悪いんだぞ」
 取りなしてくれた男性がそっけなく女神さまたちに言い捨てます。エレナは真っ赤な顔で涙目のまま、その男性に向かって深々と頭を下げたのでした。




「女職人を捜しに行ったのじゃな」
「うん……」
 くすんと鼻をすすりながらエレナは頷きます。
「言ってくれれば一緒に行ったのに」

 帰る道すがら、くちびるを尖らせて怒る女神さまにエレナはごめんね、と力なくつぶやきました。
「家事もあるし、すぐ戻るつもりだったの。でもあの女の人が見つからなくて、なかなか踏ん切りがつかなくて。留守にしてるおうちの人かもしれない。戻ってくるかなって、待ってみようかなって。気がついたらこんな時間に……」

「しようがないのう」
「ごめんなさい」
 また謝るエレナの頬に、女神さまはぺとっと手のひらをそえられました。
「謝るな。別にそなたは悪いことはしておらぬ」
「でも……」
「でもそうじゃな。はっきり言わないことはエレナが悪い。自分の望みははっきりと口に出すのじゃ」
「でも……」

「テオに話す前に弟子入りを頼もうとしたのだな?」
 女神さまのご推察にエレナは目を瞠ってから恥ずかしそうに頷きました。
「わがままを言うのなら、自分でしっかりやってからだって思ったの」
 外堀を埋めてからとも言えましょう。密かに行いたかったのに失敗したからエレナは恥じ入っているのでしょう。女神さまは嘆息なさってそれ以上は何もおっしゃいませんでした。

 黙ったままふたりはテオの家に帰ります。わたしもいつものように静かに女神さまの肩の上を飛び、弟君はいまだにものめずらしそうに路地のあちこちを眺めておられました。

 住宅区はかろうじて西日が差して、家々のかまどからの煙が暮色の空へとのぼっていました。
「急いでごはん作らないとね」
 気を取り直すようにエレナが口を開き、女神さまもそれに応じようとなされたとき、先を歩いていたエレナの足がぴたりと止まりました。
 家の前、明るい金髪に斜陽を反射させながら、テオが怖い顔をして立っていました。

「こんな時間までどこへ行ってたんだ?」
「ごめんなさい」
「……どこに居た?」
 か細い声で謝罪したきりうつむいて硬直しているエレナから女神さまへと視線を移し、テオは質問を変えます。
「陶工区じゃ」
 しれっと女神さまが答えてしまったので、エレナはますますからだを竦ませます。これで退路は断たれました。