「逃げられるわけがないのに」
 男性の言葉を聞くまでもなく、交易品として運ばれてきた奴隷のひとりが逃げ出したことは明白でした。
「バカ……ッ」
 吐き捨てたテオが逃げた奴隷が泳ぎ着こうとしている岸の方へ走り出します。波止場前の倉庫の向こうです。

「ティア」
 いつになく固い声音で呼ばれ、わたしがお顔を覗き込むと、女神さまは意地悪く頬を吊り上げて仰せになりました。
「おまえは先に飛んで行ってあの奴隷を見失わないようにしろ。テオのやつを出し抜いてやるのじゃ」
 ああもう。何を考えておられるのやら。数日前にはそのテオを口説こうとしたのはどこのどなたやら。そんな反論をするのも面倒で、わたしは背中のはねをめいっぱい動かして倉庫の屋根の上を目指して飛び上がったのでした。

 そもそも女神さまは性格の悪さが災いして天上から落とされてしまわれたのです。どうにかして人を慈しむ心をわからせたいと、父神さまは『人間の男性に心から好かれたら』と課題を出されたのに違いないのです。それをあの方はなんと心得ておられるのか。『好かれる』ということがおわかりになっておられないのでしょう。まこと嘆かわしいことにございます。

 あれこれ思い悩みながら見下ろすと、波止場を避けて浜辺の岸に泳ぎついた黒髪の奴隷の元に、何人もの男たちが駆け寄っていくところでした。捕まえようというのでしょう。その男たちの誰よりも奴隷の体は小柄です。どうやらまだ幼い少年のようです。
 飛びつこうとする男たちに向かって少年は目つぶしの砂を投げ続けました。砂煙に怯む男たちの間を潜り抜け、少年は倉庫の雑踏の中へ突っ込んでいきました。屋根を支える柱の間や荷物の間を器用にぬって波止場とは反対側に飛び出します。

 少年の斜め上からわたしは必死に追いかけます。すると少年は何かにぶつかり、尻もちをつきました。少年がぶつかった女性の抱えていた篭からリンゴが雪崩を打って転がります。

「またリンゴか」
 偉そうに腰に手を当てて、先回りしていた女神さまがやれやれと首を振られました。リンゴを頭にぶつけ目を白黒させている少年の腕を取って立ち上がらせると、女神さまは一目散にその場から逃げ出しました。逃げ足が速いのは、女神さまの七つの特技のうちのひとつです。
 何か喚いている少年には一向にかまわずに、女神さまは町はずれの岩場まですたこら駆けて行かれました。