「たいしたことではない。金持ちのおジジが、足を舐めさせてやったらパンをくれるというから、そうさせてやっただけじゃ」

「なんてことをしたんだっ!」
 女神さまの背後にいつの間にかテオがいました。今帰ってきたようです。
 月明かりとエレナが手にした乏しい灯りの中で、テオの顔は暗く、たいそう歪んで見えました。

「そんな大騒ぎすることではなかろう? 普通のことだ。ほれ、おまえもパンが食えて嬉しいだろう?」
 女神さまが差し出したパンを払って、テオはくるりと背を向けて飛び出していきます。

「なんじゃ、あやつは。あんなに怒って」
 呆然とする女神さまに、後ろからエレナがおずおずと話しかけます。
「わたしのときもそうだったの……」
 かすれた囁き声に、女神さまはおからだを返して耳を澄まされます。

「果物さえ手に入らないときがあって、わたしが、体を売るからって……。テオはすごく怒って、自分がなんとかするからそんなことは二度と考えるなって。あのときテオ、たぶん泣いてた。今もきっと……」
「何故泣くほど怒るのじゃ?」
「わからないけど……心を壊すことだって」
 涙ぐんでうつむくエレナを、彼女より背が低い女神さまはじっと見上げます。

「おまえはそのとき、何故体を売っても良いと思ったのじゃ?」
「そりゃあ、みんなに……テオに、お腹いっぱい食べてもらいたかったから」
「わらわも同じじゃ」
 まなざしを優しくして女神さまは話されます。
「おまえたちにパンを腹いっぱい食べさせたかった」
「ファニ……」

「テオは愚かじゃ。弱き者にも思いがあることがわからないのじゃ。ちいと教えてやらねばのう」
 女神さまは指を伸ばしてエレナの頬の涙を拭ってやると、パンをいくつか持って駆けだされました。




 城壁近くのプラタナスの木の影にテオはうずくまっていました。
「おまえのそれは、なんなのじゃ?」
 すぐ脇に立って女神さまは目を細めてテオを見下ろします。
「自分の思い通りにならないから怒っているのではないのか? おまえの憐れみは、馬鹿にして見下すことと同じなのか?」
「……なんだと?」
 月と星々の明かりの下で、テオの眼が据わっているのがわかります。もちろんそんなことで怯む女神さまではありません。

「おまえ一人の考えで可愛い願いを踏みにじる、それは支配欲とは違うのか?」
 厳かな声の響きに、テオの方が怯む色を顔に浮かべます。