上に昇れば昇るほど頭が痛くなってきます、耳鳴りがします。唾を呑むこともできません。けれどもわたしは天空を進みます。大神さま、この声を聞いて。
真っ青な天蓋に黄金の光が現れました。光は膨らむと大きな輪になりました。その輪がどんどん広がっていきます。わたしはその真ん中を目指します。苦しくて、まぶしくて、目の前が真っ白になって。
「ティアー!!」
わたしの名を叫ぶ、女神さまの声が聞こえた気がしました。
――ティア、ティア。
――なんですか? 女神さま。
――わらわはずっとおまえのような小さくてかわゆい近侍が欲しかったのじゃ。おまえがこの手のひらから生まれたとき、どんなに嬉しかったか。
――それはよろしゅうございました。
――ティア。ずうっとわらわのそばにおれ。勝手にどこか行ったりするなよ。いつでもわらわの声が届く場所にいるのだぞ。
――はい、女神さま。もちろんです。
――そこにいるのはティアか? なんだ、暗い顔をして。
――大神さま……。
――うるわしの娘はどこにおる?
――女神さまなら地上です。お気に入りの羊飼いをからかいに行ってます。
――またか。あの娘はしかたないのう。
――しかたありません。女神さまが素敵すぎるのがいけないのです。みんなが誑かされしまうのもしょうがないです。
――うう。そういう問題かのう。そうは言ってもほれ、あの娘は誰とも枕を交わさないではないか。
――そういえば、そうですね。
――神も半神も産んだことがない。唯一の例外といえばおまえだが。魅了するだけして愛を交わすことはない。だからあの娘はいつまでもああなのじゃ。
――イチャモンですか? 何かいけませんか?
――な、なんでわしが怒られるんじゃ。
――……大神さま。
――おおお。なんじゃ、ティア。悲しそうな顔をして。
――女神さまがつまらないつまらないとおっしゃるのです。
――ううむ。まあ、わしも暇だからのう。地上に干渉しないとなると今までのような遊びは……いやいや。今までのようにマメに神力を使うこともないからのう。
――腕が鈍りませんか?
――そうじゃのう、人間の真似をして競技会でも開いてみるかの。雷の的当てとか、つむじ風の速さを競うとか。
――みなさん面倒だってのってはくれませんよ。
――そうだよなあ。で、おまえは何がそんなに悲しくてそんな顔をしているのだ?
――わかりません。
――おい。
――ただ、女神さまが楽しそうにしているとわたしも楽しいのに、ときどき胸がちくっとするんです。
――ほう?
――女神さまはおもしろいことに夢中になると、すぐにわたしのことを忘れてしまわれるのです。
――うむ。
――おそばにいてもわたしは置いてけぼりです。
――ふむふむ。なるほど。
――別にいいのですけど、ときどき胸がちくっともやっとなるんです。
――しかたないのう。
――しかたないです。わたしが我慢すればいい話です。
――今はな。じゃがのう……。わが娘はほれ、あの容姿だけで誰からも愛されてしまうじゃろう。
――なんですか、いきなり親バカぶっこまれて。
――まあ、聞け。愛さなくても愛されてしまうから、おまえの言うちくっともやっとがわからないのだ。あれは自分で感じてみなければわからんことだからな。
――はい……。
――その高慢さがかわいいといえばかわいいが。のう、ティア。人間はな、ちくっともやっとがいきすぎて死んでしまったりするのだぞ。
――ええ、そうなんですか!?
――それがわからないから弄んでしまい、後悔したことが何度あるか。
――一度の後悔では反省なさらなかったわけですね。
――うるさい。とにかくじゃ。神々と人がたわむれに交わる時代はすぎた。我らは見守ることに徹しなければならない。
――はい。
――ならば見守る者どものことを理解していなければならない。
――女神さまは人間のことにお詳しいですよ。
――そんなのは上辺だけの知識じゃ。なにせあの娘は、ちくっともやっとも知らないのだから。そこでじゃ、ティア……。
――おおー。真っ逆さまじゃな。ほんじゃ頼んだぞ、ティア。……ティア? なんだ、浮かない顔して。
――大神さまはひどいです!
――なにおう?
――わたしがちくっともやっとで死んでしまったらどうするんですか!?
――ははは。そんなことにはなるまいて。
――どうしてそんなことが言えるんですか?
――あの娘は筋金入りじゃ。そうそう男を好きになると思うか? 姿とてあれでは、言い寄られることもあるまい。
――で、でも。それなら女神さまはどうしたら戻れるのですか?
――ちくっともやっとがわかったら、かの。そう言ってもあの娘にはぴんとこないだろうから、地上の男に好かれたら、とでも言っておけ。
――地上の男に好かれたら……。
――好かれたいと自分から思ったなら、ちくっともやっとをたくさんするだろうからな。
――好かれる努力ってことですか? そんなことしなくてもわたしは女神さまが大好きですが。
――おまえの真心があの娘に通じれば、事は早いかもしれんなあ。
「ティアー!!」
巨大な光の輪の縁で、ちりちり光が瞬いています。間を置かず、そこからものすごい数の稲光が走って地上を打ち据えました。
耳をつんざく響きは、まさに大気を引き裂くようでした。地表は波打っているかと思うほどの鳴動にさらされています。
「雷霆(らいてい)……」
囁く声が聞こえた気がしましたが、この轟音の中では心もとないです。よくよく見下ろしてみれば、稲光の一本一本は、地下からの霧の息が噴き出る穴のひとつひとつを直撃しているようでした。さすが大神さまです。雷の的当て競技が行われたなら優勝間違いなしです。
視界中が上下するかのような衝撃がすぎ去ってしまうと、天空の光の輪は跡形もなく消え去り、地上には呆然と腹ばいになったり尻もちをついたりしている兵士たちが残されました。
霧の息に操られ人形のようになっていた隣国の兵士たちも、夢から覚めたように目をぱちぱちさせて蒼穹を見上げています。彼らを包んでいたあのもやはすっきりと晴れ、地面には穿たれた跡がいくつも残っていました。
「見たか!? 我らの大神がご照覧だ! 裁決は下された、戦は引き分けだ! 両軍兵を引け! 引き分けだ! 負傷者を早く運べ!」
あの振動の最中でも落馬せずにいたリュキーノスが声を限りに怒鳴っています。敵軍の後方に控えていた将校が騎乗してリュキーノスに近づいてくるのが見えます。
リュキーノスが短く言葉を交わした後、その将校は自軍の兵士に指示を与えて引き上げていきました。この後の話し合いは、場を改めてということなのでしょう。
敵兵も、こちらの兵も、負傷した体を引きずるように移動を始めます。重症の兵士を無傷な者たちが担ぎ上げて運びます。
そうやって運ばれる負傷兵の中に、テオの顔がありました。ポロが走り寄って何か話しているのがわかります。どうやら命は無事のようです。
ほっとして、わたしはそこでようやく気がつきました。自分が誰かの手のひらの上に乗っているということに。
「ティア……。この馬鹿、ムチャをしおって」
かすれがちで消え入りそうな囁きが降ってきます。誰の者よりも聞きなれたお声です。
「女神さま」
見上げたわたしの頬にしずくが落ちてきます。
「馬鹿が……っ。わらわを置いて、行こうとしおってからに」
「女神さま……」
緑の瞳が濡れて、そこからいくつもしずくがこぼれます。女神さまが泣いていらっしゃいます。
「ごめんなさい、女神さま。もう二度といたしません」
「あたりまえじゃ。このようなこと」
わたしが自力で舞い上がって女神さまのおでこに触れると、女神さまは右手の甲で濡れた頬をぬぐわれました。白い頬に淡い金の御髪(おぐし)が張り付いてしまっています。わたしは少し移動してその御髪を梳いて差し上げます。豊かな金髪は柔らかく華奢な肩を覆って……。
「あれ?」
わたしはすっとんきょうな声をあげてしまいます。
「め、女神さま。お姿が戻ってます!」
「なにい?」
女神さまは目を丸くしてご自分のおからだを見まわします。
すらりとした長い手足にほっそりした腰つき。ぺったんこのお胸……そうでした、女神さまのお胸が小さいのは元からなのでした。
「ううむ。戻っておる」
指先に光を灯して神力を出せることも確認され、女神さまは行儀悪く頭をかきました。
「なんでじゃ? 誰ぞ、わらわを好いた男がいたというわけか?」
「…………」
「おかげでおまえを止められたのだがな。まったく肝を冷やしたぞ」
「うう、すみません……」
「おおー。姉上、戻ってる」
傍らにいらした弟君も目を丸くされています。
「どうして?」
「さあなあ、ヒャッハーのついでに父さまが戒めを解いてしまわれたのだろうか」
勝手に解釈してうんうんと決めつけている女神さまの横から、弟君がわたしに疑いの目を向けているのを感じます。いえ、ほんとのところはどうかなんてわたしにだってわかりませんし。
「また兄上においしいところを持っていかれたな」
煌めく瞳の叔母君はお怒りのごようすです。
「自分ばかりやりたい放題。あの人はいつもそうだ。今度こそ皆で抗議しないか?」
「いいですね! ぜひやりましょう」
「あまり大事にはするなよー」
すっかり砕けたごようすでお三方は相談を始めます。その足元では、秩序を取り戻した兵士たちがそれぞれの帰路につこうとしていました。
兵士たちの帰還の知らせを受けた街の人々が、城壁の正門前に集まっていました。そわそわと落ち着きなく何度も首を伸ばして坂道の先を見やっていた人々の輪の合間から、ついに歓声が巻き起こります。
帰還兵の行列が見えました。騎乗したリュキーノスに続いて整然と歩兵とその従者たちが続きます。城壁の前に自分の家族の姿を見つけると、兵士たちは顔を輝かせて挨拶を交わします。
とはいえ、ここに集まっているのは男性だけです。慎ましくそれぞれの家に待機しているご婦人方は、もっともっと気を揉みながら自分の夫や息子の帰りを待っているに決まってます。
早くそっちに向かってあげなさいよー。わたしが思うまでもなく、帰ってきた男性たちは今度は居住区に向かって路地を走ります。
行列の中から直接、城門に走り込む明るい金髪の頭を見つけました。テオです。後ろには武具の入った大きな袋を抱えたポロの姿も見えます。もちろんわたしはその後を追います。
すっかり見慣れた路地裏では、家々の門の前に女性たちが佇んでいました。別れの盃のお酒を注いだその場所で、今度は明るい抱擁が交わされます。
「テオ!」
「テオ」
「ポロ―! 良かったあ!」
走り出てきた三人の子どもたちに囲まれて、テオは自分の家の中庭に入ります。
「テオ……」
泣き笑いで既に頬を濡らしながら、エレナが彼を迎えます。
「テオ、テオ」
安堵のあまりか、崩れそうになるエレナをテオが抱きしめます。
「エレナ」
「テオ。良かった。帰ってきてくれた……テオ……」
「おまえの元に帰りたかったんだ。エレナ」
その言葉を聞いたエレナは、彼の肩に顔を伏せてひと通り泣きじゃくり、それから顔を上げてしっかりと言いました。
「おかえりなさい。テオ」
冬は和やかにすぎていき、春の日差しが農耕地に降り注ぐ頃、街の人々はまた忙しく働き始めます。
テオの家のかまどの前にはまっぷたつに割れた護符のブローチが供えられています。あの戦で胸当てに槍先を受けたとき。懐のこのブローチが衝撃から自分の身を守ってくれたのだとテオは考えているようでした。
母親の形見の品が守ってくれた。その出来事が彼にとって大きかったのでしょう。以前のとげとげしさや思いつめた気配が薄れ、彼は穏やかになったようでした。
そんなテオも、ときおりあの名前が話題に出ると頬を膨らませます。
「ファニはどうしちゃったんだろう」
「知るか、あの恩知らずめ」
「…………」
「ファニはたくましいからどこに行っても大丈夫だよね。きっと」
「ひょっこり戻ってきたりしないかなあ」
エレナと子どもたちは、中庭の食卓から門の方を眺めたりします。
「ふん。帰ってきても寝床はないと言ってやれ」
「テオったら……」
憎まれ口をたたくテオがいちばん寂しそうだということを、エレナはお見通しのようでした。わたしも、感じるのですよ。テオは少しは、女神さまを憎からず思っていたのかな、なんてね。
どちらにしても女神さまご本人は街にいる間、ちくっとやもやっとを感じておられたのではないでしょうか。それがあったから父神さまからお許しをもらえたのではないでしょうか。そしてやっぱり少しは、建前であった男性に好かれるという課題を達成できていたのではないかと思うのです。
冬を越えて少したくましくなった子どもたちは、相変わらず元気に働いています。劇場に通うデニスも、仕事の合間に弓矢を持って岩場にでかけるハリも。
ハリの弓の師匠であるミマスは戦の後、護衛の弓兵としての給金をたっぷりもらい、リュキーノスからの褒美の立派な馬に乗って故郷へ帰っていきました。戦はどこの地でも行われています。ひとまず故郷で休んだら、また傭兵志願に国々をまわると話していました。
子どもたちの中でもポロはぐんと背が伸びて、急に勉学にも励むようになりました。文字の読み書きを覚えた彼は、銀山の労働を卒業し、テオの近侍のような立場になっています。たいした出世です。ポロが彼の故郷に帰る日も、そう遠くないかもしれません。
わたしがこうしてようすを見に来るたびに嬉しそうな顔をしていたミハイルですが、実は近ごろ、わたしの姿に気がつかないことが増えていました。だんだん見えなくなる。そういうものなのでしょう。こちらとしては寂しい気もしますが、これが彼の成長ならばしかたがないです。
冬の吉日に盛大な婚礼で嫁いだアルテミシアは、今は名家の主婦として手腕をふるっています。豪華な金茶の巻き毛をすっきりと結い上げた姿は、これまで以上に凛として頼もしいです。
アルテミシアが宣伝してまわったおかげで、エレナの名前はあの聖衣の模様を考えた者として知られるようになりました。ピリンナの人物画とエレナの文様を合わせた陶磁器の絵は、貿易先の富裕層にも気に入られ、エレナは街の稼ぎ頭となったのです。
正式に成人したテオは、議会議員選挙への立候補を考えているようでした。当選は確実視されていて、いよいよここから、テオの本当の戦いが始まるといえるでしょう。戦場の英雄ではなく、街を代表する名士になるために。
「戻ったか、ティア」
「はい、女神さま。みんな元気そうでしたよ」
「そうか、そうか」
雲の上に腹ばいになってあくびをしている女神さまの後方では、父神である大神さまが、高御座(たかみくら)を囲んだ神々から愚痴や抗議や詰問を受けておられました。
「わかった、わかった。わかったから」
「わかっておられないから何度も言ってるのです。兄上は自分勝手すぎるのです!」
「父上、ぼくの神殿どうにかしてよ」
「もう、なんでもいいから宴会でもしようや。大戦争ができないならそれくらいは」
「海原の弟よ、おまえは酔っぱらうと地震を起こしてしまうじゃろうが」
「父上ー。ぼくの神殿」
「ああもう、うるさい! 人間に迷惑かけないためにも地上をしっかり監視しろと命じたばかりじゃろうが!」
下界に干渉しないことは既に決まったことであり、そうであるならば二度と神々の事情に人間を巻き込まないようにする。それがこれからの神々の在り方ではないかと模索中なのです。時はめぐって時代は変わる。だとしても、良い関係でいられるように……。
「はあ。もう煙は懲り懲りなのに。どうして人間は懲りないのさ?」
あの戦の最中に放たれた雷は、神託の神殿のあの霧が噴き出る岩にも落下していました。建物を貫通して直撃を受け、粉々になった岩の下からは何も出てこなくなったのです。
すると神官たちは、なんと今度は怪しげな薬草を燃やし始めたのです。今でも地下のあの部屋では、煙で意識をもうろうとさせた巫女が託宣としてなにやら告げているそうです。
「勘弁してくれええ」
弟君のお嘆きももっともです。
「しょうがないのう」
女神さまはつぶやかれます。しようがないですよね、人間て。だからやっぱりしばしば、神々は下界を見守っていらっしゃるのです。
「みなが元気ならそれがいちばんじゃ。そのうちこっそり下界に降りてみるかのう」
「その前にまたお仕置きで蹴り落されないようになさらないと」
「なにおう」
なにはともあれ、こうして女神さまは天上に戻られ、下界も今は希望に満ちております。
聞いた話では、こうした物語の最後はある言葉でしめくくるのが良いそうですね。なのでわたしも、それに倣ってみましょうか。
それではみなさま。
めでたし、めでたし。