「それで、まだその子のことを想ってここに通ってるんですか?」
カフェの店員の女性が、僕にラテアートの描かれたカプチーノをテーブルに置きながらそう問いかけてくる。閉店時間も近いからか彼女は僕の向かいの席に座った。僕はラテアートを崩しながらそんな彼女を見て小さくため息をつく。
「今話しましたよね? そこはあの子の席です」
「まあいいじゃないですか。誰にも座られないのは、店員から見てもこの席が可哀想ですし」
彼女は無邪気な幼い笑みを向けてそういった。長い髪を後ろで一つにまとめていて、綺麗だと思うその白い肌。窓際のこの席では雨が降っていても、窓からの光で陰影を強調させてその顔が整っていることがわかる。肘をついて窓の外の雨を見ている彼女の姿に、あの子が重なった。
「その子のこと、今でも何も知らないんですか?」
「僕の一生の後悔の話を聞いて楽しいですか」
「はい。ここでいつも私の頑張って作ったラテアートを崩しているあなたの理由がわかって楽しいです」
彼女はまた笑う。悪気のない顔で。
僕はあの子が死んでから、少しだけ、このカフェを避けて通わなかった。けれど結局、雨が降ると足を運んでしまって、まだあの子がいるんじゃないかと、あれから数年たった今でも、そんな希望を抱いてここにいる。
「……やっぱり崩すのは、もったいないですよね」
「はい。見て楽しむものですから。……でもその子はわざわざ今のあなたと同じようにラテアートを頼んで崩していたんでしょう? その理由、気になりますね」
「僕もずっとそれが分かりません。同じことをしても、僕にはやっぱり、もったいないとしか思えない」
そう言うと、そりゃそうですよ、と彼女が席を立って片付けをしながら言う。
僕はカプチーノを飲みながら彼女の話に耳を傾けた。
「だってあなたはその子じゃないし、今はもう、思春期の高校生でもないんですから」
「どういうことですか」
「……話を聞いていたら思ったんです。あぁ、これは、あくまで私のその子に対する印象ですよ? あったことも無いですし」
「はい」
「……なんだか、不安定な子だなって、思ったんです。いきなりあなたに自分は死にたがりだ、って言うところとか、ラテアートを、もったいないとも思わず崩してしまうところとか。……なんだか、自殺したって言われても、納得してしまうような子ですね」
「……言われてみれば、おかしな人でした。明るかったから、あの時は本当に死ぬなんて思わなかったけど」
「その明るさが、不安定な部分を隠してたんですよ、きっと。そんな特殊な子の気持ち、あなたみたいな真面目な人には分からないのが当然です」
空いたテーブルを拭きながら彼女はそう話して、僕はカプチーノを飲み終えた。
お会計を済ませて店から出ようとすると、彼女に呼び止められる。
「常連さん」
「はい、なんですか」
「名前、教えてください」
ふと、その言葉に固まってしまった。このカフェでそんなセリフを聞くなんて、思っていなかったから。僕も、死んだあの子も、お互いの名前を、名乗ったりなんかしたかったから。
「水戸瀬優希です」
「水戸瀬さんですね。覚えておきます。私は、未城花那です。まぁ覚えても覚えなくても、いいですけどね」
ふわりと笑った未城さんは、そのまま僕を店の外まで送ってくれた。
傘をさして家まで歩く。ふと、あの子が死んだ時のネットの反応を思い出した。すぐに検索をかけて、スマホを見つめていた。
傘に弾かれる雨の音が嫌に響く。
あの子の名前は未成年だから載っていなかったけれど、ネットは情報の宝庫だ。コメントを遡ればわかる。
そこにあった彼女の名前を見て、僕の心臓は大きく鼓動を打った。
「未城、由那……?」
僕はその名前を見えて驚いた。あまりにも、さっきの未城さんと名前が似ているから。決してありきたりな名前じゃない。こんな偶然、あっていいんだろうか。僕は急いでカフェに戻った。けれど、カフェはもう電気が消えていて、閉店していた。
確かめることはできず、僕は仕方なく帰った。
高校の時に会っていた彼女と、あの未城さんは、一体どんな関係なのだろう。思い出してみれば。未城さんと彼女は、どこか似ていたかもしれない。未城さんのことは何も知らないが、死んでしまったはずの由那の血縁か何かなのだろうか。
家に帰ってきて、パソコンを開き、由那の自殺について調べた。原因がわからなかったからか、推測で色々なことが書かれていた。いじめや恋愛関係のせいだとか、家族のせい、なんて、どれが本当なのかわからない。自殺だから、警察も調査はそんなにしなかったらしい。そうして調べていると、インタビューの動画が出てきた。気分のいいものじゃないから、再生ボタンを押すか悩んだが、ここまできて引き下がれるわけもなく、クリックした。
『由那、は……自殺するような子じゃないです。明るくて。みんなに好かれていました』
そう泣きながら答えたのは彼女の親友らしき人だ。顔は当時未成年だったからか映っていなくて、わからない。でも、死にたがりだった彼女は、確かに明るくて、人に好かれそうな性格だった。だから、ネットに書かれているような原因で死ぬような人じゃない、そう思う。
色々な情報が頭に入ってきて、今日はもう調べるのをやめた。
調べてから数日後、僕はあのカフェに行った。閉店時間の近い、客のいない時間にわざと行く。そうすれば彼女と話せるから。いつもの席に座って、カプチーノを頼んだ。
「水戸瀬さん、なんだか久しぶりですね」
「そうですか? 前は毎日のように来ていたからですかね」
「今日はラテアート、崩さないんですね」
未城さんが運んできてくれたラテアートを指差しながら言う。僕は、まあ、とそっけない返事をして彼女が僕の前の席に座るのを何も言わなかった。
「未城さん」
「はい」
「……未城由那さんをご存知ですか?」
そう言うと彼女は小さく笑って、はい、と言った。
「私の姉です。双子の」
「……じゃあ、僕のことを知っていたんですね」
「はい、知ってました。名前を知ったのは、この間ですけどね」
「由那さんに聞いてたんですか?」
「……水戸瀬さんは、質問が大好きですね。自分で考えたらどうですか?」
未城さんは楽しそうに笑って言った。その無邪気な笑みは双子だからか、由那さんにそっくりだった。僕はラテアートを崩さずに、彼女に言われた通り、自分で考えた。彼女は閉店時間も気にせずに、そんな僕を見ていつの間にか淹れたコーヒーを飲んで僕の答えを待っていた。カフェのマスターは僕らの様子を見て、何も言わずにただじっとしていていて、僕らの時間だけこのカフェで止まっているみたいだった。
「由那さんが死んだのは、僕が原因なんじゃないかと、どこかで思っていたんです」
「どうして?」
「僕は、彼女が、明日来て、と言ったのに、行かなかった。彼女は僕に話したいことがあったのに」
「……それだけで人が死ぬと思いますか。約束をしたわけでもないんでしょう?」
「そうですけど……どうして死んでしまったのか、知りたいんです。あの時からずっと、後悔していました。未城さんは、何か知っていますか? 知っているなら、教えて欲しいんです」
そう言うと彼女は飲んでいたコーヒーにさらに砂糖を入れて、それを一口飲んでから、小さくため息をついた。
「案外答えは単純なものだと思いますよ。この間も言ったでしょう? 思春期で不安定で、そう言うものなんじゃないんですか?」
「言ってましたね。由那さんの他人のふりをして僕の話を聞いてから」
「あれ、怒ってます?」
「いえ、別に。……でも、そんなんじゃないと思うんです。家族なら、そんなことで死なないってわかってるんじゃないんですか? 短い付き合いの僕でさえ、そう思うんですから」
未城さんは困った顔をしてまたコーヒーを飲む。彼女の表情を見て、何か知っているな、と思った。でも、きっと話したくはないのだろう。家族が死んだんだ、きっと嫌なはずだ。僕もこれ以上は踏み込めなかった。
僕は最初、僕のせいで姉が死んだから、近づいてきたのだと思った。でも、さっきの会話の反応を見るに、そうじゃないのだろう。
「……由那が死んだ原因、知って欲しいんです。だから、水戸瀬さんが、調べてください。私はそのサポートをします」
「知ってほしい? じゃあ、未城さんは知ってるんですか」
「双子なのに情けないんですが、詳しくは知らないんです。でも、由那は水戸瀬さんに話したがっていました。だからこのカフェに来てほしいと、頼んだんじゃないんですか? だから、水戸瀬さんが調べて、その原因を知ってほしいんです。私が知っていることは話しますから」
コーヒーカップを置いて、その丸い形を指先で撫でる。彼女がなんとなく嘘をついているのは、わかった。でも全てが嘘じゃない。半分以上は本当だろう。でも何か、どこか、大切な部分を隠されているような気がした。
「わかりました。ずっと後悔していましたし、貴女と会えたのもいいきっかけです。由那さんが死んでしまった原因を、僕なりに調べてみます。……まあ、一般人なので、できることは限られていると思いますが」
「ありがとうございます。水戸瀬さんなら、そう言ってくれると思ってました」
彼女は微笑む。由那さんにそっくりなその顔で。僕はその笑みを見て、胸が苦しくなった。
僕の、救えなかった笑顔だからだろうか。
「……では、僕は質問が大好きなのでさっそく由那さんのことを聞いてもいいですか?」
「いいですよ。私に答えられることなら」
彼女はなにか知っている。でも、それを僕には話してはくれないだろう。あの時の由那さんのように、どこか子供っぽく隠し事をしているのだ。
「由那さんは、未城さんの前でも、死にたいと言っていたんですか?」
「……いいえ、私が聞いたのは死ぬ少し前に一度だけ。由那は、毎日楽しそうに日々を過ごしていましたから、驚きました」
「どんなふうに言っていたんですか」
そう問いかけると彼女は困ったような表情をしてから苦笑をした。
「“もう十分かな”って、前振りもなく言ったんです、由那は」
「……」
「……それで、死にたいなって。突然何を言い出すのかと、私は笑いました。……だって、女子高生ってよく、死んだ、とか、死にたい、っていうじゃないですか。由那にも何か嫌なことがあったんだろうな、くらいにしか思ってなかったんです」
彼女にとって、そこで由那さんに死にたい理由を聞かなかったのは痛い思い出なのだろう。だから、ひとつ話しては言葉が止まる、その繰り返しだ。
「その後、由那は水戸瀬さんの話をしました。……カフェで、ある男の子と出会ったんだって。自分の話を聞いてくれる、名前の知らない男の子……」
「そうだったんですね。……でもどうして、死にたいって言った後に僕の話をしたんでしょう?」
「……水戸瀬さんは、“死にたい私”を受け入れてくれるって言ってました。私にはそれが、救いに思えたし、残酷にも思えました」
彼女の話す意味が、よくわからなくなっていく。彼女が言うには僕が原因ではない。でも、死にたい由那さんを受けいれた僕は、救いでもあり、残酷な人でもあった。
僕はこのぐちゃぐちゃの思考回路をどうにかしようと、綺麗なラテアートをぐるぐるに混ぜて崩した。もう、これが癖になっているようだ。そしてそのまま一口飲む。話していたせいでぬるくなったカプチーノは、何だかいつもより苦く感じた。
「……僕は、救えてないので、残酷な人だったんでしょうね」
「水戸瀬さんを責めているわけではないんです。……ただ、由那と水戸瀬さんは、言葉では言い表せない特別な関係だったんじゃないかと、私はそこで思いました。いつ切れるかも分からない細い糸で繋がってるみたいな、そんな危うい関係……だって、名前すら知らなかったんでしょう?」
僕は小さく頷いた。当時の僕たちの関係に名前なんてない。友達だったのか、いや、名前も知らないのに友達だったわけがない。死にたい由那さんと、その話を聞き流す僕、ただそれだけ。なのに、学校で一緒に過ごす誰かとの時間よりも、由那さんと過ごす数十分が心地よかったのは確かだった。
「由那さんのことを知らなかったのは、罪なんでしょうか」
「……それは、私に聞くのは間違っていますよ。双子で家族で……それなのに私は由那のことを何も知らなかったんですから」
彼女は笑っていた。貼り付けたような笑顔だった。それは双子なのに自然に笑っていた由那さんとは似ても似つかないように感じる笑みだった。きっと悲しみを乗り越えられずにずっと生きているからだろう。
その日僕はそれ以上何も聞かずにカフェを出た。カプチーノはあまりにも苦く感じて飲めずに残してしまった。もう二度と、あんなカプチーノは飲みたくないと思った。
それから数日、雨が降らないを言い訳に僕はカフェに行かなかった。その変わり、由那さんの自殺について調べていた。狭い友人関係をなんとか使って当時の由那さんの親友の名前がわかった。あの、ニュースに出ていた子らしい。
その子に会うのは案外簡単だった。彼女は今、レンタル彼女というのを仕事にしているらしかったから。
女子に無縁の僕がそれを頼むのに数時間悩んだのは未城さんにだけは知られたくないと思った。
「ミトセさんですか?」
駅前のベンチで夕方18時に待ち合わせ。
当時の由那さんの《《親友》》、眞鍋果凛は僕の前に現れた。
明るいミルクティーのようなボブの髪、少し猫みたいなつり目、整った顔立ちなのか、メイクの技術なのか、彼女はとても綺麗だった。
「……あの、ミトセさんですよね?」
「あ、はい」
「ご指名ありがとうございます、リンです」
あまりにもプロな彼女の笑みに僕は苦笑いで返す。彼女は綺麗だが、僕のタイプではないようだ。女性との付き合いなんてそんなにない僕がそんなことを思うのはとても失礼だと思ったけれど、少しでもこのレンタルの時間を楽しもうとするのならば人選ミスだった。
今日は初回のメニューだからそんなにお金はかからない。先にお金を渡してからちょっとしたデートをして、彼女が行きたいと言ったカフェに入る。いつもの穏やかなカフェとは違い、少し混んでいた。
「……もしかして、あんまり楽しくないです?」
「いや、そうじゃないんですけど」
「ミトセさん、なんだか気まずそうですよ」
頼んだパンケーキが来て彼女は写真を撮りながら僕にそう言った。もう自分を指名しないと思っているからか最初よりか彼女は自然体だった。
「……実は君に聞きたいことがあって」
「あ、元彼の人数くらいならいいですよ?」
「そんなの聞かないです」
彼女は違うのか、なんて笑う。写真を撮り終わったからか食べ始めていて、僕は目の前に置かれたアイスコーヒーを飲み始めた。
「じゃあなんです?」
「……未城、由那さんの事です」
美味しそうに食べる彼女の表情は僕を見て固まっていた。でも数秒後、また彼女はパンケーキを食べ進めた。
「私のせいじゃない」
「……え?」
「由那が死んだのは、私のせいじゃないから」
少し怒ったような声色で彼女は言う。その言葉の意味が僕にはわからなかった。
「由那さんと何かあったんですか?」
「……ミトセさん、貴方由那とどういう関係ですか」
僕の問いかけには答えずそんなふうに聞かれ、僕は口を閉ざす。僕らの関係は、僕が聞きたいくらいだから。
「……知り合いです」
「友人でも、元恋人でもなく?」
「僕はそのどちらにも当てはまらないです」
パンケーキをひと口食べたあと、彼女はフォークを置いて机に頬杖を着いて僕を見つめた。
「どちらにも当てはまらないのなら、私が貴方に話すことは無いです。面白半分であの子のことを調べないで」
吐き捨てたように言われ、それに驚いていたら注文の紙を持って彼女はレジの方に行ってしまった。
僕は女性と接すること自体、由那さんと花那さん以外滅多になかった為、怒らせてしまったあとどう声をかければいいのか分からなかった。そして、追いかけ方も、知らない。
女性に奢らせ、さらに振られたように一人で店を出る。なんとも言えない気持ちになった。やはりあのカフェは落ち着かなかったからか、僕はその後いつものカフェに向かった。
「あ、水戸瀬さん。今日は随分早い時間に来ましたね?」
「……今日は仕事休みだったので由那さんのことを調べていたのですが……」
そう言って僕は先程あったことを花那さんに話した。花那さんはそれを聞きながらいつものようにラテアートをつくり、僕の席に出す。そうして向かいの席に座った。
「あははっ、レンタル彼女やったんです?」
「僕の話聞いてましたか? 由那さんのことを調べるために仕方なく……」
「はいはい、あんまり楽しくなかったってことはわかりましたよ」
ふふ、と彼女は笑って僕を見ていた。まるでからかうように。僕はため息をついてラテアートを崩そうとスプーンをカップに入れようとして、ふと疑問が浮かんだ。
「花那さんは、果凛さんと友達ではないんですか?」
双子、なら同じ学校だったかもしれない、そう思って問いかける。入れようとしたスプーンはまた置いて、彼女の方を見つめた。
「……違いますね。そもそも名前を見なければ私と由那が双子だったことも気付かなかったでしょうし」
それはおかしい。だって彼女は、まるで由那さんが大人になって綺麗にメイクをしたような顔をしているのだ。僕はあの頃の由那さんばかりを思い出すから、彼女に言われるまで気付かなかったけれど。
いや、でもそっくりだと思うのに僕はどうして気付かなかったのだろう。考え事をしているせいか口は閉じ、言葉は出ず、綺麗なハートのラテアートを僕はぐるぐるに混ぜていた。
「そんなに難しい話じゃないですよ」
考えている僕を見て、彼女はそう言って僕の手を止めるように手を重ねていた。ハッとして、向かいに座る彼女の顔を見る。
「私と由那は二卵生双生児。似てない双子です」
「いや、でも……僕には似ているように見えるんですが……」
僕がそう言うと今度はなんだか悲しそうな、諦めたような笑みを浮かべた。出来れば言いたくなかったけれど、と小さく呟いたのは、向かいに座る僕にしか聞こえなかっただろう。
「……整形したんです、由那に似るように」
「整形……?どうして」
彼女は気まずそうに目を逸らし、あまり話したくなさそうに口を閉じていた。でもここまで聞いてそれ以上踏み込まないというのは僕には出来ない。
「……」
「未城さん、どうして由那さんの顔にしたんですか」
もう一度、僕は彼女に問いかける。すると彼女は小さくため息をついて、わかりました、と言ってから自分の分のカフェオレを持ってきて話しを始めた。
「由那が死んでから、全部が変わりました。両親は由那が死んだことをお互いのせいにして喧嘩をし始めて、母は私を見るたび由那を思い出して泣きました。似てないとはいえ、双子として生まれたから、由那と私はセットとして考えられていたみたいです」
カフェオレを飲まずカップを指で撫で彼女は話しを進めた。僕もカップには口を付けず、彼女の話しを聞いていた。静かなカフェは、元々あまりお客さんも入っていなかったのだが、気付けば僕らだけだった。
「でも未城さんは由那さんじゃない」
僕がそう言うとこく、と彼女は頷いてやっと目を合わせてくれた。なんだか少し悲しげに見えるのは、由那さんの話をしているからだろうか。カチ、カチ、と秒針の音がやたら響く。店内の音楽が次の音楽に切り替わるまでのほんの数秒。その一瞬が、沈黙が、重く感じる。
「……はい、私は由那にはなれません。それは顔を変える前からわかっていましたし、顔を変えてからもっとよくわかりました」
「ならどうして」
僕は、彼女が由那さんになりたいのだと、勝手にそう思っていた。だって、男の僕の偏見で申し訳ないけれど、整形はなりたい自分に近づくための手段だと思ったから。彼女のなりたい自分は、姉の由奈さんだったのではないだろうか。
「由那が死んでしまってから、私はその環境の変化について行くのが辛くなってしましました。それである日……」
彼女が一度口を閉ざし、小さく息を吐いてから、少し目を伏せた。僕はその言葉の続きを待った。
「事故に遭いました」
トラックの、と苦笑して言葉を続ける。何が何だかわからないまま、赤信号の横断歩道にフラフラと歩いて行ってしまった。そうしてトラックと衝突して、顔に傷ができてしまった、彼女はその話を僕と目を合わせないまま話し続ける。
それから大人になって、顔に傷があるのは、と両親の出してくれたお金と自分の貯めていたお金で整形をすることにしたそうだ。似てないとはいえ遺伝子は同じ両親のものだから、パーツを少し弄るだけで由奈さんっぽくなったらしい。
「由那がいれば、家族みんながまた幸せになると、思っていたんですが……」
「そうはいかなかった、ってことですか?」
「はい。まぁそうですよね。だって本物じゃないし」
彼女は冷めてしまったカフェオレを一口飲んだ。そしてカップを置いてから、やっとまた僕の方を見てくれた。
「トラックの事故があった時、私は死ぬのが怖かった。だから、どうして由那がそれを選んだのか、知りたいんです。そして、水戸瀬さんにも知って欲しい」
知りたい、の言葉の重みが僕の中ではっきりと変わった瞬間だった。それに、僕ももっと知りたいと思った。深く関わろうとしなかった未城由那という過去の少女のこと、そして今目の前にいる未城花那さんのことを。
由那さんが死を選んだ理由だけじゃなくて、由那さんを知りたいと思ったのだ。今更すぎて、遠くで笑われているかもしれないけれど。
「水戸瀬さんは、ずっと由那を忘れないでいてくれた。ここで働く前から、私、水戸瀬さんがこの席にいたのを知ってたんですよ」
「え、そうだったんですか」
「由那が言っていた男の子が水戸瀬さんだったことは、ラテアートを混ぜているのでわかりましたから」
由那さんの癖は、由那さんがいなくなってから僕のものになっていた。もったいない、とは、未だに思うけれど。
「由那と過ごした時間はきっと誰よりも短いのに、由那を忘れないでいてくれる、そう思ったから私、水戸瀬さんにお願いをしたんですよ」
「買い被りすぎですよ。僕はここが好きで、このカフェには由那さんとのことがあるから、忘れられないだけです」
僕は冷め切ったカフェラテを飲んで、小さく息を吐いた。冷めてしまってはなんとなく味が苦い気がした。
「僕は由那さんのことを調べるには限界があります。果凛さんにあった時も、とても警戒をされました」
「まぁ、同級生でもないですしね……」
うーん、と腕を組んで彼女は考える。僕は彼女の方を見て、手を差し出した。
「協力していただけますか」
「協力? 私も果凛さんとは面識がありません」
少し困った表情をして彼女は僕を見る。僕の差し出した手を取るのも躊躇っているようだ。
「こういう言い方は失礼かもしれませんが、未城さんにはその顔がありますから」
僕の言葉に驚いた顔をして、それからクスリと彼女は笑った。そして、僕の手を取る。
「さっきの話を聞いてそんなことを言うなんてデリカシーがないのですね? まぁいいですよ、水戸瀬さんは常連さんですからね」
手を離して、僕らは顔を見合って笑った。僕らはしばらく話をして、お互いのカップが空になって、解散をした。家に帰り、シャワーを浴びてリビングでテレビを見ていると、スマホの通知音がなる。連絡は、未城さんからだった。
今度の週末、お休みが取れました。
その連絡を見て、僕はまたあのレンタル彼女のサイトを見て、果凛さんを指名した。
週末、僕と未城さんは駅前で待ち合わせをした。カフェじゃない場所で会うのは初めてだったから、その私服に見惚れてしまったのは、きっと彼女にもバレてしまっているだろう。
「あんまり見ないでください……普段と服装が違うので恥ずかしいです」
「そう、ですよね」
「あ、えっと……由那が好きそうな服を選んだんです。だから着なれなくて」
由那さんが好きそう、と言われまたその服装を見つめていると流石に、見ないでください、と言われてしまった。由那さんは意外と清楚な服装が好きだったらしい。元気なイメージの彼女は、もっとストリートなファッションを好むかと思っていた。いや、今思った。
「水戸瀬さん?」
「……あ、いやなんか、今更由那さんのことをたくさん考えるようになったな、と思いまして」
そう苦笑すると、彼女は微笑んで、いいと思います、と僕に告げた。そうして僕らが話していると、ハイヒールの音が僕らに近づいてきた。
「レンタルしておいて彼女を連れてくるってどうなの、ミトセさん?」
不機嫌そうな顔で僕を見つめ、腕を組んでいるのは果凛さん。未城さんとは違い清楚な感じではない服装を見ると、やっぱり僕の好みではない、なんて心の中で質礼なことを考えてしまった。まぁ、とても綺麗で、おしゃれだとは思うのだが。
「なんで真顔なの! なんか答えたらどうなの?」
「あ、今日はきてくれてありがとう。これ、今日の分のお金」
封筒に入れた今日のレンタル料金を果凛さんは確認して、僕を睨むように見た。この前のことがあるからだろう。
「由那の話ならしないけど。それに、なんで彼女連れてきてんの。それって常識的におかしいと思うんだけど」
確かに、未城さんが僕の彼女であればレンタル彼女とのデートに連れてくるのは常識的におかしい。だが、彼女でもないし、果凛さんの話を聞くには未城さんが必要なのだ。
「彼女じゃない。君と話すには、この子を連れてくるしかないと思ったんだ」
未城さんは緊張した表情で僕の前に出た。でも彼女は笑う。由那さんに似た顔で。
「初めまして、未城花那です。由那の、妹です」
果凛さんは驚き、固まった。由那さんに双子の妹がいるのは知っていたのだろう。
未城さんと果凛さんと話すためにもう一度会うと決めた時、果凛さんとどうして接点がないのか聞いた。高校は由那さんと違うところに進学したらしい。そして、お葬式にも果凛さんは来なかったらしく、一度も会ったことがなかった、とのことだった。
「果凛さん、貴女は由那の親友でしたよね?」
「……えぇ、少なくとも私はそう思ってた」
未城さんが果凛さんに一歩また近づいてしっかりとその目を見つめた。そして小さく息を吸った後、また口を開く。
「ならどうして、由那が死んだ後、一度も会いにきてくれないんですか」
未城さんの言葉に僕も驚いた。お葬式はショックで来れないことがあるというのは何となくわかるが、その後一度も来ていないことがあるだろうか。親友なら、尚更。
「……それ、は」
彼女は目を逸らし、視線を下に向けた。答えにくいことなのだろう。未城さんにも答えにくいことがあった、だから、察して、わかりました、と言葉を続ける。
「ここでは話しにくいと思いますので、人目のないところに行きましょう」
僕はてっきりあのカフェに行くのだろうと思ったのだが、三人で入ったのはカラオケ。確かに防音だし人目はないが、こういった場所になれていない僕はこの独特な空間に緊張した。
「由那は、確かに貴女の話をしていました。親友がいるって、昔写真を見せてくれたこともあります」
「……」
果凛さんは俯き、座った膝の上に置いた手は拳を握っていた。僕には俯いている理由が、何となくわかった。
「未城さんを見ると、由那さんを思い出しますか?」
僕がそう問いかけると僕の方を見て、また視線を落とした。図星、だったのだろう。やはり未城さんを連れてきてよかった。彼女がとても大人しく逃げずに話をしてくれる。
「……えぇ、だって似ているもの」
「双子ですから、私と由那は」
なんだか今日の未城さんは僕と話す時よりもその柔らかさがなくなっている気がした。本気で、由那さんの事を考えているからだろう。
「双子……そういえば、言ってたかも、妹がいるって」
「……教えて頂けますか、どうして由那に会いにこないのか」
いつまでも自分から話そうとしない彼女に未城さんは待てずにそう問いかける。僕はそれを見守ることしか出来ない。
「……会いに行けないの。私は由那に許されていないから」
「……どういうことですか」
きゅ、と彼女が唇を結んだ。思い出したくない、言いたくない、そういった表情だ。僕が彼女に由那さんのことを聞いた時も、まず最初に、私のせいじゃない、そう言っていた。
「由那さんが死ぬ前、何があったんですか」
僕は見守ることをやめ、できるだけ穏やかな声で問いかける。私のせいじゃない、は、まるで自分に言い聞かせているみたいだと思ったから。
でも彼女はまた黙った。僕は少し困ったが、ここで引くわけにもいかない。
「教えて欲しいんです。由那さんがどうして自分から死を選んだのか、僕らはずっと知らないままだから」
お願いします、と僕は頭を下げる。彼女が何かを言うまで、頭を上げない。しばらく、嫌な沈黙が続いた。
「……わかった。私も、ずっと引きずるのは嫌だし、何回もミトセさんみたいな厄介な客の相手はしたくないしね」
大きなため息の後、彼女はそう言ってくれた。僕は厄介と言われたことは忘れることにして、ありがとう、とお礼を言う。
そして、昔話が始まった。
その日は、雨だった。いつもは部活だけど、あまりにも雨が酷くて無くなったから、由那と一緒に帰ろうとしたの。
「由那、一緒に帰ろうよ」
「あー……ごめん! 今日用事があるの」
最近の由那は早く帰るから、また例のカフェの友達に会いに行くのかと思った。でもこの雨だし、カフェは少し遠くの駅だって言っていたから、その日は止めようと思った。
「雨、夜になるとだんだん酷くなるみたいだから今日はカフェに行くのやめなよ。一緒に帰ろう?」
私がそう言うと由那は少し困った笑顔で、ごめん、とだけ。
何その態度、私は心配してるのに迷惑ってこと?
「……最近変だよ、由那」
思ったよりも低くなった声に自分でもびっくりした。でも、なんだかモヤモヤしたから。
「今日はカフェに行くわけじゃないの。……友達と用事があって……」
また、ごめん、と由那は謝ってきた。謝って欲しいわけじゃないのに。
この頃の女友達というのは恋人と同じで、取られるのも自分の知らないことがあるのも、嫌だった。今思えばおかしな嫉妬心だけれど。
「誰と?」
ここまで聞く必要なんてない、それはわかっていた。けれど、聞かずにはいられなかった。
由那もそこまで踏み込まれたくないのか目を逸らして口を閉ざす。親友とはいえ、由那が本気で怒るところをみた事がない。由那はいつも、嫌な事を言われても笑って流す子だったから。
「待たせるのも悪いからさ、果凛は先に帰って?」
苦笑して、私にそう告げる由那は何かを隠したがっていた。
「ねぇ、何を隠そうとしてるの」
教室に、私たち二人の声だけが響く。雨音も、少しずつ大きくなっていた。
「隠そうとなんて……」
由那がそう言葉を続けようとした時、ドアの方から足音が聞こえた。由那の笑顔が崩れて、ドアの方を睨んでいた。
私も振り返ってそちらを見る。
「……なんで果凛もいるんだよ」
私たちの視線の先に居たのは、私の彼氏だった。私がいることが嫌だったのか、舌打ちをこぼす。
「……どういうこと? 由那、私に秘密で私の彼氏と会ってたってこと?」
由那は、もう困ったように笑ってごめんなんて言わなかった。ただ気まずそうに、私から目を逸らして視線を下に下げるだけ。
「アンタはなんで由那に会ってんの!? 今日バイトって言ってたよね?」
この二人は私になにか隠している、そう思って私は何も言わない由那ではなく彼氏の方に行って怒った。
「うるせーな、別に誰と会おうが俺の勝手だろ」
「何それ、浮気ってこと?」
ずっと、どこか自分勝手な彼氏だとは思っていた。けれど変に束縛してこないし、私といる時はそれなりに楽しそうだったから気にしてなかった。でも、浮気をされたのでは今までのことも含め怒りが沸いてくる。
「お前もうめんどくさい、別れよ」
「は? なんにも説明しないでなんで勝手に決めるの」
「……別れなよ、果凛」
ずっと黙っていた由那が、口を開いた。いつもの明るい声でもなく、優しい話し方でもなく、ただただ淡々とした冷たい声。
何が起こっていて、どうしてそうなったのか分からず、私は頭が真っ白になった。
その日はどうやって家に帰ったのか、覚えていない。
それから数日、私は風邪で寝込んだ。体調が元気になっても、心は追いついていなくて、学校に来たらますます気分は落ち込んだ。
「おはよう果凛」
「あぁ、うん、おはよう」
私に一番に挨拶したのは、由那じゃなかった。
「ねぇ果凛、アイツと別れたってほんと?」
「……うん、別れた」
なんで、と戸惑う声。教室に向かいながら私は必死にその理由を誤魔化した。
だって、親友と彼氏が浮気したなんて信じられないし言いたくない。
教室について、自然と由那の席に視線を送るが、由那はいなかった。いつもは私より先か、私より早く学校に着いているのに。
結局由那は、授業は始まるギリギリに登校してきた。だから、朝は話ができなかった。由那の頬にはガーゼが貼られていて、その表情はなんだか暗く見える。
「由那」
お昼休み、やっと私は由那に話しかけることが出来た。時間ごとの休み時間は私を避けるように由那はどこかへ行ってしまったから。
「……お昼、一緒に食べよ?」
いつも一緒の私たちが今日は会話をしていなかったからか、クラスは少し落ち着きのない感じがした。だから、そう言って由那を誘い、人の少ない空き教室でお昼を食べることにした。
「……果凛、別れたんだよね?」
「別れたから安心して。由那がアイツと付き合おうがなんとも思わないから」
「付き合わないよ」
そう言って、由那が小さなミートボールを口に入れる。由那のお弁当には珍しくトマトが入っていた。
「付き合わないってどういうこと? 浮気してたんじゃないの?」
「……そう思われても仕方ないと思ってる。でも、浮気じゃない」
お弁当のミニトマトを避けながら、由那は言い切った。いつもの明るい様子は、やっぱりない。
「そっか、勘違いだったんだ」
いつもなら楽しくお昼を過ごしているのに、私も由那も笑わないから、楽しくないし、私は食事も進まない。
「由那、その頬どうしたの?」
「……転んじゃって、大丈夫だから」
食べ終えたお弁当を閉じて、片付けをする由那の顔を見る。今日は一度も目が合っていない。
誤解も解けたし、由那に対する怒りもなくて、だから、いつも通りにしてほしかった。
「トマト、嫌いじゃなかったっけ」
何を話せばいいのかわからずそんなことを言う。避けたトマトを残していたから、思い出したのだ。
「うん、嫌い……お母さんが妹のお弁当と間違えたんだと思う。いつも私の嫌いなもの入れないから」
むっとした表情の由那は幼く見えて、ほんの少しだけいつもの由那に見えた。
私はそれで安心してしまった。そして、元彼のことなどどうでも良くなって、由那とアイツがどうして待ち合わせしていたのか、どんな関係なのか、なにも聞かなかった。
それから何日か、由那はいつものように、戻ったり、戻らなかったり、そして次第に不安定になった。
でも私は心配しながらも、何も、聞くことは出来なかった。
思春期特有の悩みか何かだと思ったから。
そして由那は、元通りに戻った。
その数日後、由那は死を選んだ。
私はその理由がわからず、何も聞かなかったことを酷く後悔した。
そして同時に、私に普通に接してくれた由那を思い出して、私のせいでは無いのだろうとどこか安心もしていたのだ。
思い出す度苦い味のする高校時代は、まるで子供の時に何も考えずに飲んでしまったブラックコーヒーみたいだと、思っていた。
苦くて苦くて、飲みきれない。
そんな、最低な思い出。
忘れたいけれど、苦味は喉に残るもの。
早く飲み干してしまいたいけれど、カップの中身はいつまでたってもなくならなかった。