孔雀とナイフとヒエラルキー

「娘がいなくなって喜ぶ親がどこにいるっていうんだ!」
 立ち上がるなり私は隣にいた男女に向かって怒鳴りつけた。私なりの全力の大声だった。
「あんた誰?」
 驚かれつつも男性の方から問いかけられた。

「誰って、石崎友美の友達です」
 私は堂々と答えた。
「ああ、君か。友美を殺した人の友達っていうのは」
 彼は手に持っていたジュースを口に含んだ。

「どうしてそんな冷静なんですか……」
 私は思ったことをそのまま口に出した。
「だって事実でしょ」
 そう言う男性の言葉には自暴自棄のようなものが含まれているような気がした。
 だが、この時の私にはそれを受け止められるほどの冷静さはなかった。

 あまりにもいなくなった娘に対して失礼すぎる。私はこの二人に対して怒っていた。
「そうですけど、その態度は友美に失礼過ぎるのでは」
「失礼過ぎるって、それはあんたが決めることではないでしょ」

 男性の意見には確かに一理あった。これは私が勝手に決めつけていいことではなかったし、ましてや死人の気持ちはわからないからだ。そう思いつつ私は彼らに対しての怒りがさらにこみ上げていた。
 
 男性の方は平気そうな顔をしていた。もう一人の女性の方も平然そうにしていた。だが、二人の態度のどこかがおかしいと直感が告げていた。

「だって、私たちはあの子を産もうと思って産んだわけじゃないからさ、いなくなってもらって清々したのよ」
 女性の方が私の目を見ながら軽い口調で語った。
「じゃあ、テレビで謝った時は何も感じてなかったってことですか」
 私は思わず聞き返した。

「そうだよ。世間体を気にしてああしなきゃならないからああしただけ」
 友美の両親は何も感じていないようだった。娘の死についてまるで他人事のように語っていた。彼らは平気そうにジュースを飲んだ。私の中でますます違和感が大きくなった。やはりこの大人たちを許せることができそうになかった。

 私は友美の父親の頬を勢いよく叩いた。彼が飲んでいたジュースが地面にこぼれた。
「痛っ! 何するんだ!」
 男性の方が私を怒鳴りつけた。私はそれに怯まないように強い口調で言い返した。
「何するんだって。当たり前のことをしたの!」

 彼は拳を握って私のことを殴りかかろうとした。幸い友美の母親の方が彼の手を押さえてくれた。この瞬間、なんとなくだが彼が殴りかかろうとしたのは自分のことを責められたからだけじゃないような気がした。なぜなら二人の態度にはどこか矛盾したようなものがあったからだ。

「当たり前のことだって……」
「そう! こんなことになったのは何のせい? あなた達が友美のことを放っておいたからこんなことになったんでしょ! 私はあなた達を許したくない!」

 私は全力で宣言した。私はこの二人を決して許したくない。そう固く思っていた。

「俺らのせいでこうなったって、言いがかりにも程がある」
 友美の父親からは直前までの余裕が感じられなかった。言い返したいことがあるようだった。

 だが、
「事実でしょ」
 私がそう言った途端に彼は黙り込んでしまった。彼は頭を抱えて何かをか考え込んでいるようだった。彼は空を見上げて涙を浮かべた。その涙には何か苦しい物が感じられた。

 やがて、友美の父親は空を見上げながら心の内を明かしてくれた。

「ああ、そうだな。確かに事実さ。もちろん、あんたの言う通り俺たちにも非がある。俺たちの無責任な態度のせいで友美を苦しめてしまった。だがな、あいつが苦しんでたのは俺たちのこともそうだが、学校のこともあったのじゃないかと今になって思うのさ」

 彼は本当に悲しそうだった。

 私は頭が真っ白になってしまった。
 訳のわかならない感情が頭の中で駆け巡っていた。

 その間に今度は母親の方が辛そうな顔をして、私に教えてくれた。

「私たちは友美のことをほったらかしにした。友美はだんだん壊れていったから次第に関わるのが面倒になってしまった。友美は気づいていたんだろうな、私たちがちゃんと自分と向き合ってくれていないことにね。心が壊れていく友美が怖かった。どうしていいのかもわからなかったから……」

 はじめ、私は彼らは責任逃れのためにデタラメを言っているのではないかと思った。だが、二人の苦しそうな顔や言葉には嘘が無さそうだった。それに気づいた瞬間、私はその場で膝から崩れ落ちた。
「じゃあ、私はあの二人が死んだ責任をどこに求めたらいいの……」

 思わず口に出してしまった。言ってしまった後で、これは許される言葉ではないと気づいた。友美の両親は私のことを怒ってもいいところだった。それでも彼らは怒らなかった。いや、怒れなかったのだと思う。

「責任か。俺たちにもこうなった責任はあるさ。頼むから俺たちのことを許さないでくれ。それが、君なりの弔い方なのなら」

 彼らは友美が死んで苦しんでいたのだ。自分達の無責任さが原因でこうなってしまったと負い目を感じていたのだ。だからこそ、どうしたらいいのかわからなくなって、あんな態度になってしまったのではないか。私はそう思った。

 そう思った瞬間、私の中で怒りが鎮まった。徐々に冷静さを取り戻して、やがて友美の両親に対して申し訳のないことをしてしまったと反省した。

「ごめんなさい。お二人のことを責めてしまって……」
 私は彼らに向かって深く頭を下げた。

「いいんだ。友美が居なくなってから上手くいくようになったと言った俺たちの方も謝らないといけない。申し訳ない」
 彼らは私に向かって頭を下げた。私はそれに対して何も返す言葉がなかった。


 春の空は澄み渡って綺麗だったが私の心はぐちゃぐちゃのままだった。
 友美の両親に謝られた後、自転車を押しながら私は考えた。

 私たちにはああいう結末しか有り得なかったのか。
 どうすれば、あの結末を回避できたのか。
 
 この頃になると私の頭の中には、考えていても仕方のない、途方のないたらればしか出てこなくなっていた。
 私は自転車に跨って、全速力で漕いだ。
「うわああ!」
 行き場のない感情を叫びながら。


 家に帰っても自分の部屋でずっと考え込んでしまった。
 咲と友美の死には私たち全員が責任を負わなくてはいけないような気がしていた。私や二人の家族、学校の皆んなに刑事。その全員が最終的には二人を死に追いやってしまったからだ。二人のいた日々はもう戻ってこない。それが悔しかった。

「ねえ、二人とも。どうしていなくなっちゃったの……」
 独り言だった。彼女たちがいなくなってしまった理由はなんとなくわかっていた。だけどどうしても納得することができなかった。

 咲が死んでしまった直後に夢で見た、地獄へ向かうと言っていた二人の安らかな声がなんとなく頭の中で再生された。どうして、あんなに安らかそうだったのだろう。気がついたら夢の中の話なのにどうしても真剣に考え込んでしまっていた。

 なんとなく思い立ってクローゼットの中に仕舞ってあった、咲から借りたままの衣服を取り出した。あれ以来着ることはなかったが、終ぞ彼女に返すことができなかった。それから更に思い返して、咲と一緒に買ったアクセサリーをタンスの中から取り出して机の上に置いた。

 私はなんて大切な時間を彼女たちから貰ったのだろうか。二人との思い出の品々とスマホに保存されていた写真の数々を眺めて、あの二人が生きていた時間は二人がどれだけ喧嘩をしていようと、二人から傷つけられようと大切な時間だったと思う。

 二人との日々を思い返して私は泣いた。泣いて泣いて、枕を濡らした。
 一通り泣き終えて咲から借りた服を見つめた。

 私は、彼女から借りたままだった服を今度こそ返そうと思い立った。
 翌日の正午過ぎ、私は借りたままだった服が入っている袋を持って、咲の家の前にいた。チャイムを鳴らす勇気が出せずに十分以上立ち尽くしていたら、先に玄関が開いた。中から出てきたのは咲のお母さんだった。
「どうしたの? うちに用があるのなら上がって」
 彼女は何気ない顔で私を招き入れてくれた。私はどんな反応をしていいのかわからず、無言のままで家の中へと入った。

 家の中に入るとそこには数ヶ月前には無かった咲の後飾りの祭壇が置かれていた。彼女が死んだという事実が私の心に再び迫ってきた。咲のお母さんは祭壇に手を合わせてから、キッチンの方へと向かった。私は部屋中を訳もなく見回してみた。よく見ると、未使用のダンボールが何枚もあり、引越し業者のロゴが書かれたダンボール箱にはいくつかの物が詰められていた。

 ダンボール箱に目を向けていると後ろの方から咲のお母さんが戻ってくる気配があった。
「ああ、ごめんなさい。目につくようなところにダンボールが置かれてて」
「いえ、大丈夫ですよ……、それよりどうしてですか?」
「うーん、今度引っ越すのよ。ここに居続けてもあんまり意味がない気がして……」
「そうだったんですね……」
 私は、咲が居なくなってしまってから、この家は大変だったのだろうとなんとなく察した。直接は聞けなかったがもしかしたら咲が事件を起こしたということがこの家や周りの関係を破壊してしまったのかもしれなかった。
 それからしばらくの間、この部屋が静かになった。私はただ、彼女の遺影を見ることしかできずにいた。咲の遺影は少しばかり微笑んでいる。
 先に話を切り出したのは咲のお母さんだった。
「最近の写真で笑ってるのが、これくらいしかなかったの。あの子の笑う姿をしばらく見ていなかったわ」

 咲のお母さんは用意したお茶を一口飲んだ。それから彼女の話は続いた。
「でも、最後の数日間はあなたのおかげで笑顔の咲を見ることができたわ。佐野さんには感謝してもしきれないわね」
 私の中で楽しそうな彼女の姿が思い浮かんだ。
「ありがとうございます」
 私は最大限の気持ちを込めて頭を下げた。私は、咲にどれだけのことをしてやれたのだろうか。頭の中でこの考えがずっと場所を取っている。私はそれを正直に咲のお母さんに言ってみることにした。
「今、こんなことになってしまって、私は、咲にどれだけのことができたのだろうって考えてしまうんです」
「いや、あの時の咲にとっては十分なことをしたのだと思うわ」
「それなら、それなら幸いです」
 私はまた頭を下げた。すると、彼女は何かに気づいたような顔をした。
「何か、あなたは心の奥で辛い物を抱えてる気がするわ。せっかくだから、どんなことを考えているのか教えてくれない?」

 そう言われて私は頭の中にあるモヤモヤの正体が何なのかわからなくなってしまった。
「じゃあ、こんなことになって辛かったことって何?」
 彼女が言い換えてくれた。言い換えてくれたおかげなのか、頭の中にあった物が噴き出てきた。いくつかの言葉が頭の中で再生される。


「なんも言わないのね、お前。この死神が!」

「これで少しは人の痛みがわかったか死神め」
「しーにがみ! しーにがみ!」


「今回の件で刑事さんや同級生から死神とかって言われたんです。事実そうかもしれないですよね。だって、私の友達だった二人が一斉に居なくなってしまったから。私は私のことを死神だってこれからずっと思うのでしょうか? 私のせいでこうなったのならば、私には大きな罪があるのでしょうか? それが頭の中でつっかえています……」
 咲のお母さんは私の答えを聞いて私のために真剣に返事を考えてくれた。
「あなたは別に死神でもなんでもないんじゃないかな。あなたは咲と友美ちゃんを助けようとしただけでしょ。どうして死神呼ばわりされなきゃいけないわけ?」
「それは、私が……」
「あなたが責められる筋合いは無いんじゃないかな。少なくとも私はそう思っているけど」

 この言葉を聞いて私は少しだけ心が軽くなった。今でも、この言葉が私を助けてくれている。彼女の話は続いた。
「咲が居なくなってから二ヶ月経って思うのは、本当は正しい人間なんてこの世のどこにも居ないんじゃないかって。みんなどこかでは正しいし、どこかでは間違っているんだよ。だから、あなたは死神ではないよ、きっとね」
「でも、世の中みんな正しくないのならば、だとしたらどうして私はこんなに苦しまなければならないの!」
 私は思わず叫んだ。すぐに冷静になってまた苦しくなってしまった。
「ごめんなさい……」
「いいのよ。こんなことになったら誰だって、苦しくなるよ。私もね、咲が居なくなってしまって今、とっても苦しいのよ」
 この時、私には彼女の目に涙が見えた。この時、彼女もまた苦しかったのだと思う。

 彼女は目をハンカチで拭うと再び話し始めた。
「私、ここ数日で咲も友美ちゃんもこんなことになったのは学校のせいもあるのかなと思ってね。実際のところはどうなのかわからないけど、そういう面もあるんじゃないかな」
 彼女の言葉を聞いて、私の中でぐちゃぐちゃになっていたものたちが少しずつ形を整えて言葉になり始めた。私の中でようやく言えそうな言葉が一つ見つかった。
「ありがとうございます。なんだか言いたくて言えなかった苦しいモヤモヤをようやく言葉にできそうです」
「そう、それなら良かったわ」

 私はここでようやく渡すべき物を渡そうと持ってきていた袋を差し出した。
「あの、これ前に咲から借りたままになっていた衣服です。今更かもしれないですが、お返しします」
 すると咲のお母さんは袋を受け取らなかった。
「これは、思い出としてあなたが持っていてください。その方がいい気がするの」
「そうですか。では、いただきます」
 私はそれを手元の方に戻した。

 日が傾き始めた頃に私は咲の家を出ることにした。
「じゃあ、気をつけてね」
 見送られた時、咲のお母さんは笑顔だった。
「本日はありがとうございました」
 私が頭を下げると彼女も頭を下げてくれた。
「いいのよ。また何かあったら連絡してね」
「はい、ではまた」

 帰り道で私は明日は学校に行こうと決めた。学校に行って真希ちゃんらと久しぶりに話がしたいと思った。それから、自分にできることを少しずつやっていこうとも思っていた。
 夕陽は既に落ちていて、辺りはほんのり暗かった。
 次の日、私は学校へと向かって全速力で自転車を漕いでいた。この数日の中では一番足取りが軽かったように思う。真希ちゃんと直接会って話がしたかったのだ。だが、久しぶりに教室に入るとそこはもう私の知っている教室ではなかった。机は綺麗に並んでおらず、クラスメイトの何人かは大きな声を上げて、ゲームか何かに夢中になっていた。また、一部のクラスメイトはその壊れてしまった空気が怖くてたまらなかったのか、死んだような顔をして机に突っ伏していた。私は自分の席を探したが、その席は既に壊されていた。同じように咲の座席だったらしき物も破壊されていた。どうして、こうなってしまったのだろうか。まるで彼らが抱えていた鬱憤が咲が居なくなったことで、表に溢れ出したような景色だった。私の存在に気づいたのか、クラスメイト達から壊れた状態に追い打ちをかけるような冷たい空気が伝わった。

 仕方なく、教室の隅にいるとやがて真希ちゃんが私の側までやってきた。
「久しぶり、由香里ちゃん!」
 彼女は私の存在を確かめると突然私を抱きしめた。その力はとても強かった。
「私、あれからずっと心配してたんだから……」
 そう言われると私は少しくすぐったい思いだったが、とても嬉しかった。
「ありがとう……」
 私はそう言うことで精一杯だった。それでも真希ちゃんに意思は伝わったようで、私のことを離すと彼女は安心したような顔をした。
「よかった、元気そうで」
 彼女は半泣きになりながらこう言った。彼女は話を続けた。
「友美ちゃんがあなたを襲ってから、どうだったの?」
 私は彼女にはちゃんと事の全てを伝えなくてはならないような気がしていた。だからこそ、私は自分の中で伝えられると思ったことを真希ちゃんに丁寧に説明した。彼女は何も言わずに私の話を聞いてくれた。
「そうだったのね……」
 説明を終えると彼女は少し寂しそうな顔をした。
「二人が死んじゃったと思うとやっぱり寂しいな」
 彼女は少しあっさりとした調子でそう言った。一瞬だけ私は彼女はなんて冷たいんだと思ったが、あっさりとした調子で言うのも仕方がないことだと私は考えを改めた。。なぜなら、彼女は二人の死を直接見てはいないから。死を見なかったことは良いことだと思う。私はそれを見てしまったせいで、未だに何かに囚われている。

 真希ちゃんが何かを言いかけた時だった。近くで誰かが舌打ちをした。舌打ちが聞こえた方を振り向くとクラスメイトの女子が私と真希ちゃんの会話を聞いていたようだった。それから少し大きな声でわざとらしく言った。
「かわいそうな人」
 その言葉が、私にとってはとどめだった。自分の中で無意識のうちに考えていたある事がついに噴き出した。
「かわいそう、だって?」
 私は彼女の顔を見る。彼女の顔はいかにも私のことを嘲笑していた。
「ええ、あなたはかわいそうな人よ」
 私は何も考えずに彼女の胸ぐらを掴みかかった。
「違う! 私はかわいそうでも何でもない! ただ、私は友美と咲、両方のただの友達! 二人にとって私は加害者であり被害者なの!」
 真希ちゃんを含め、周りにいたクラスメイトの何人かが慌てて私を宥めようとした。だが、それを私は無視して彼女の胸ぐらを掴み続けた。
「何よ、それ! 加害者でもあり被害者でもあるってどういうこと!」
 彼女は迷惑そうに言った。それでも私は訴え続けた。
「どういうことって、よくよく考えて! 私達が二人にしたことを。きっと、私達は加害者でもあり被害者でもあるんだ! 二人はもう居ない。だから本当のところはわからない。でもね、私達は決してそのどちらかという訳でないの。私達皆んなで二人を傷つけたし、二人に傷つけられたの。だから、自分は被害者だなんてこれぽっちも思わないで!」
「それじゃあ、まるで私まで悪いみたいじゃない!」
 彼女は半泣きで叫んだ。私ももしかするととんでもなくぐちゃぐちゃな顔になっていたのかもしれない。
「そう言っているんだ私は! 私達は皆んなで二人を失った罪を背負わなければならない! それは私達自身が招いてしまったこと。だから、この罪からは逃げられない!」

 この時の私は二人が居なくなったのは、この学校にあったヒエラルキーのせいでもあったと考えた。家族と上手くいかず、学校内ヒエラルキーの上位にいることに拘ってしまった友美。そのせいで、関わることそのものを疎まれてしまった咲。二人はナイフや孔雀といったものを頼って生きていくしかなかったのだと思った。だから私は叫び続けた。
「これは、私達が勝手に作って勝手に悩んだり困ったりしているヒエラルキーが招いたことよ! それに苦しんだ二人は心を壊して死んでしまった。だとしたら、二人が死んだことは私達全員が抱えるべき罪なのよ!」
 私は目が滲んで視界が悪くなっていた。それでも相手の女子がとても恐ろしげにこちらを見ていたことはわかっていた。
「はあ、あなたどうかしてる……」
「どうかしていて、結構! 私の心は死んだんだ! 二人が死んでしまった時に!」
「怖いよあんた……」
 その言葉を聞いた瞬間、ずっと耐えていたものがどうしてか耐えられなくなった。
「……ああ、ああ、うわぁ!」
 私はとうとう堪えきれなくなって泣き崩れた。周りは呆然として私のことを見つめていたように思う。やがて、事に気づいた先生が駆けつけた。
「おい、佐野何があった!」
 私は何も説明できなかった。様子を見ていた真希ちゃんが代わりに説明をしてくれたらしかった。
「わかった。とりあえずここじゃない場所に運ぼう。佐野、立てるか?」
 それからはあまり覚えていないのだが、私は先生と真希ちゃんに支えられて教室を後にした。この瞬間、クラスメイト達はどこか冷ややかな目を私に向けていたと思う。結局、私が言いたかったことはクラスメイト達には伝わらなかったのだろう。私は結局は一人でこの罪を背負うべきなのだと思った。
 この事がとどめとなって、私の心は完全に壊れてしまった。自ら抱えてしまったことに耐えられなかったのだと思う。しばらくの間は何もできず、どこにも行けなくなっていた。そうこうしている間にも時間は流れ、いつの間にか高校生ですらなくなった。あの時に私のことを呆然と眺めていただけのクラスメイト達とはそれきりになってしまった。

 二人を失ったことに整理がつけられずに時間だけが過ぎて三年が経った。
 寒々しい空の季節が今年もやってきた。自分の部屋の窓から見える空は晴れていたが、どことなく乾いた印象があった。もう少ししたらあの事件から三年が経ってしまう。私はあれから何もできずにいる。色々なことを試してはみたが辛い気持ちばかりが蘇ってしまうことの繰り返しだった。高校をちゃんと卒業できたでもなく、何か仕事をしているでもない宙ぶらりんな状態。私自身、この宙ぶらりんな状態がずっと続くことはあまり望んではいない。だが、結局はそうなっていて、それすらも嫌になってくる。
 お母さんやお父さんは「気が済むまで休みなさい。いつか、立ち直れる日が来る」と言ってはくれるのだが、私にとってそれはなかなか苦しいもので、申し訳ない気持ちになってしまう。いつか、この気持ちに整理がつく時は来るのだろうか。

 気が重くなってしまったので、外に出て気分転換をすることにした。時刻は午前十一時過ぎ。家の鍵と財布だけを持って玄関を閉める。私は外に出て歩くことが好きになった。特に理由や根拠がある訳ではないが、歩いていると落ち着けるからである。心の調子がなんとなく乱れた時は外に出てゆっくりと歩いている。そうして歩いているとたまに高校時代の同級生を見かけてしまう。その姿を見ると彼女らはこの三年間でだいぶ垢抜けたと思う。その一方で私はあの頃に比べて服装や化粧へのこだわりがなくなっていた。だからなのか、つい思ってしまうのは、彼女たちはそういう見せかけの美しさばかりをこだわって、心の中は綺麗ではないということである。私は彼女たちとは仲直りはできないだろう。それでいい。彼女たちのこれからに私は一切関わらないだろうから。

 外を歩き続けているとまた見覚えのある顔を見かけた。誰だろうか。そう思って目を凝らすと佐伯くんだった。
「さ、佐伯くん!」
 私は約三年ぶりに佐伯くんを見た。思わず大声で名前を呼んでしまった。私の声に驚いた佐伯くんだったが、向こうもすぐに気づいたようで「ああ!」と目を見開いていた。
「佐野さんじゃないですか!」
「お久しぶりです!」
 お互いにそばまで歩み寄ると私たちは挨拶を交わした。
「こちらこそ、お久しぶりです」
「三年ぶりくらいですよね?」
「そうですね。もうそんなに経つのですね……」
 三年ぶりに見た彼の外見は当時とあまり変わっていなかった。彼は、今は大学で心理学についてを勉強していると言っていた。軽く挨拶を済ませると私たちは二人揃ってなんとなく黙ってしまった。佐伯くんに対して何をどう話せば良いのかわからない。向こうもそんな感じだった。どうしようか、このままなのも気まずいのでそろそろこの場を離れようかと考えたところで、佐伯くんが口を開いた。
「あの、今お時間は有りますか……?」

 私と佐伯くんは近くにあった古めかしい喫茶店に移動をした。幸い店内にはあまり人が居なかった。静かな雰囲気の中で私はメニュー表を眺めている。佐伯くんの方も同じくメニュー表を見て考えているようだった。考え続けていると佐伯くんの方が決まったようだった。
「僕の方は決まりました。そちらは?」
 私の方はまだ決まりきらないでいる。
「決まっていないので、先にどうぞ」
「わかりました」
 彼は店員さんを呼んだ。すぐに店員さんがやってきて、メモ帳の用意をしていた。
「ご注文は?」
「コーヒー一杯にナポリタンを一つ」
「かしこまりました」

 店員さんはメモを取り終えると少し早足で奥の方へと行った。佐伯くんは先にもらっていた水を一口飲むと私の方を向いた。
「……あれからもう三年が経ってどうですか?」
 それが、彼が私を引き留めてまで聞きたかった最大の目的だろう。私はどこに目を向けて良いかわからなくなってコップの水を眺めた。しばらく考えてから私はようやく答えられた。
「どうと言われると私にとってはあまり良い三年間ではなかったです。彼女が死んでしまってから、どうしたら良いのかわからないんです」
 私がそう答えると彼は一気に沈んだ顔になった。
「僕もです。僕も、どうしたらいいのかわからないままです」
 よく考えると久しぶりに会った佐伯くんは三年前に初めて会った時から態度が丸くなっていることに気づいた。彼は何かをずっと小さな声で呟きながら悩んでいた。悩みに悩んだ末に彼は私に訊ねてきた。
「彼女の最期って、どんな感じでしたか」
 私は咄嗟に何も言えなかった。
「僕は、ずっと後悔しているんです。どうして彼女のことを助けることができなかったのだろうと。あの時、何で何もしなかったのだろう。今でも、夢に出るんです。彼女のことが。だから、僕は知りたいです。彼女と最後に一緒にいたあなたが見てきたことを……」
 彼の目は潤んでいた。この時、私はようやく彼の咲に対する想いをちゃんと聞けた気がした。彼の後悔を聞いて、私は彼に、咲と共に行動した最後の旅を伝えられるだけのことは伝えようと思った。私は考え続けていたメニューをようやく決めた。
「……まずは、料理を注文しても良いですか?」

 私は覚えている限りの全てのことを佐伯くんに伝えた。友美の亡骸の前で泣き崩れてしまったこと。二人で電車に飛び乗ったこと。誰も住んでいない民家に入って立て籠ってしまったこと。目的地には着いたが、目当ての孔雀座は見られなかったこと。最後に彼女が海に飛び込んだこと。私はそれを語るのはとても辛かった。だが、何としても彼に伝えなくてはという思いで私はどうにか語り終えた。佐伯くんは私の話を聞き終えると涙を流した。注文していたナポリタンは私が話している間にすっかり冷えていたようだった。私の方も頼んだカルボナーラは気持ちが落ち着いたところで口をつけると既に冷めていた。冷めてはいたが辛い話を終えた後に食べたカルボナーラは美味しく感じられた。
 佐伯くんはしばらく放心状態になった。時間は既に午後二時を過ぎていて、日の向きが変わりはじめている。彼が再び口を開いたのはさらに十分程が経った頃だった。
「まずは、教えてくださりありがとうございます」
 彼は頭を深く下げた。私も思わず頭を下げた。
「こちらこそ、ありがとうございます」
 私の頭の中でなぜかこの言葉が真っ先に思い浮かんだ。それ以上は何も言えなかった。
「おかげで、咲ちゃんがどんな最期だったのかようやくちゃんと知ることができました」
 彼は涙を流し続けていた。それが彼の咲に対する想いの強さを示していた。ふと、ここで私は彼はこの先報われるのだろうかと考えてしまった。このままだと彼の人生は辛いものになってしまうのではないか。彼に彼女が最後にどんなことを言っていたかを伝えようとした途端、私は急に彼女の最期の言葉を思い出した。

「ごめんね。大好きよ」

 思い出した途端に咲が私に抱いていた想いの一部をようやく理解できたような気がした。それから私は佐伯くんを見た。そうか、私も彼も咲のことが好きなんだ。だから今でも苦しんでいるんだ。私は彼女の最期の言葉を飲み込んでしまいたくなった。それは佐伯くんに向けられた言葉ではなく私に向けられた言葉だからだ。だけど、それはあまりにも卑怯な気がした。考えた末に私はようやく彼に言える言葉が見つかった。
「私も佐伯くんの様子を見てて咲は今でも愛されているんだなと思えました。私も今でも咲のことが忘れられないんです。忘れられるわけがない。だから、佐伯くんにはちょっとでも良いことがあって欲しいなと思いました」

 佐伯くんはこの時何を思ったのだろうか。途端に彼はさらに涙を流しはじめた。彼の嗚咽が私たち以外、客が誰もいなくなった店内に響き渡る。ようやく泣き終えた彼が最初に言った言葉は意外なものだった。
「それじゃあ……、それじゃあ、あなたはどうするんですか?」
「えっ……」
 一瞬、意味を理解できなかった。
「僕に良いことが訪れるのならば、あなたにも良いことは訪れるべきだ。今の言葉は、まるで自分だけで全てを背負い込もうとしているように聞こえましたよ。あなたはも少し自分を労るべきだ」
 私はそう言われて何も返す言葉がなかった。では、私はどうしたらいいのだろう。結局この日は、また会う約束をして佐伯くんと別れた。
 佐伯くんと久しぶりに会ってから数日が経った。彼に言われた言葉を私はうまく理解できずにいる。もう少し労わるべきとはどういうことなのだろうか。私は背負っていかなきゃならないことがある。それは咲と友美のことだ。二人とも辛い思いを抱えてそれに耐えきれずにいなくなってしまった。その辛い思いを抱かせてしまったのは無意識のうちに辛いことを強いていた私であり、私は他の誰も背負ってはくれない全ての業を背負い続けるつもりである。そうでもしなきゃ、私はいなくなってしまった二人に顔向けができない。辛い道だとはわかっているつもりだ。それでも、それを知っているからこそ背負い続ける気でいる。

 そう考えているうちにチャットアプリに久しぶりの着信があった。誰からだろうか。そう思ってスマホを開くと相手は真希ちゃんからだった。
『由香里ちゃん久しぶり! 突然だけど、もし良かったら今度会わない? 由香里ちゃんと久しぶりに会いたくなっちゃった笑』
 このメッセージを読んでからすぐに次のメッセージが届いた。そこには希望の場所と彼女の都合が合う日時が記されていた。どの日時も私は空いていたのと、集合場所に指定されていたパスタ屋さんのチョイスにも異議はなかったので私はこの誘いを受けることにした。

 真希ちゃんと会う当日。集合場所が少し遠かったので私は自転車を使うことにした。自転車を使うのはおおよそ一年振りだった。メンテナンスを少し怠っていたので、なんとなく走り心地が悪かったが、久しぶりに乗る自転車は気持ちが良かった。季節は冬になり道に沿って植えられている木々の葉は既に抜け落ちていた。季節は巡っている。私の気持ちなんて全く気にしないで巡り続けている。そう考えると友美と咲がいなくなった時点で私の時間は止まってしまったのだろう。あれからもう三年経つのかと思うと私にとって時の流れは早いような遅いような気がした。そんなことを考えながら自転車を漕ぎ続け、冷たい風は私の頬を切るように当たり続けていた。

 やがて集合地点のパスタ屋さんに到着した。近くの停められそうな場所に自転車を置くと私はチャットアプリを確かめた。どうやら真希ちゃんは予定よりも数分遅れて来るらしい。仕方がないので外で待つことにした。
 待っている間色々な人がここの前を通り過ぎていった。その人達の様子を観察しながら私はなんとなく寂しい気持ちになった。大した理由はないがなんとなく通り過ぎていった人々のような温かい日常は私には来ないような気がしてしまった。それは、なぜなのだろうか。私にはまだ真希ちゃんのような友達はいる。なのに私はいざという時に頼れる人が誰もいないような錯覚に陥っている。それが錯覚だとわかっているだけまだ自分のことをわかっている方なのかもしれない。それでもどうしてか私は独りぼっちだと思ってしまう自分がいる。

 考え続けているとどんどん気持ちが沈んでしまったのでぼーっとしていると真希ちゃんがようやく現れた。
「由香里ちゃん、久しぶり!」
 彼女の雰囲気は三年前からあまり変わっていない。けど、少しは大人っぽくなったような気がする。そう思うとまた少しだけ寂しくなった。私はその気持ちに蓋をして彼女に笑顔を向けた。
「久しぶり、真希ちゃん!」
「いつ振りだっけ?」
「おととし以来じゃない?」
「そっかー。なんかごめんね。二年も会えていなくて」
 彼女は深く頭を下げた。
「どうしたの? そんな深刻にならなくても……」
「いや、私この二年間由香里ちゃんのことをほったらかしにしてたような気がして……。由香里ちゃん、この三年ずっと辛い気持ちを抱えているはずなのに、大事な時に力になることができなくてごめんなさい」
 真希ちゃんはこのことをとても後悔しているように見えた。私は彼女の謝罪をどう受け取って良いのか、一瞬わからなくなってしまった。こういう理由で謝られるのは初めてだったからだ。考えに考えて私はようやく言葉を絞り出した。
「ありがとう。むしろ、ありがとうだよ。ずっと心配していてくれて」
 頭を上げた彼女の目は嬉しそうに潤んでいた。

 お互い落ち着いたところでようやく店内に入った。席に座ると私たちはすぐにメニュー表を開いた。
「何にする」
 真希ちゃんがメニュー表を見ながら聞いてきた。
「そうだね、カルボナーラにするよ。そっちは?」
「私はペペロンチーノで」
「オッケー」
「じゃあ、注文するね」
 そう言って彼女は店員さんを呼んだ。テキパキと注文を終えると私たちは明るい話をした。最近聴いている音楽のこととか、流行りのアニメの話で盛り上がった。
「私ね、今大学で心理学を勉強しているんだ」
 アニメの話が終わったところで彼女はこんなことを言った。
「そうなんだ」
「そうそう。内容が難しくて大変だけど楽しいよ」
 大変と彼女は言っていたが、それを言う彼女の顔は少し笑っていた。多分、彼女は充実した毎日を過ごしているのだろう。私は、それは良いことだと思えた。
「良かったね、充実している感じで」
「うん」
 そうしていると注文していたカルボナーラとペペロンチーノが届いたので私たちは何も喋らずに食べた。何も喋らず黙々と食べたのは、この後話すことがなんとなく決まっていて、それは私達にとって一番辛いことだからだと思う。しばらくして私達はそれぞれのパスタを食べ終えた。
「ごちそうさま」
「ごちそうさまでした」
 
 少しの間沈黙が続き、最終的に話を切り出したのは真希ちゃんの方からだった。
「あれからもうすぐ三年が経っちゃうんだね」
「そうだね……」
 彼女は窓から見える店の外を眺め始めた。私もその方向を向いて外を見始めた。
「二人が死んじゃってからさ、私ずっと考えているんだ。人の心の脆さについて」
 私はそれを聞いて、なぜ彼女は大学で心理学を学んでいるのかを理解できた。そうか、真希ちゃんは三年前どうしてあんなことになってしまったのかを心理学の力で少しでも理解しようとしているんだ。
「それでね、今勉強していることを使って少しでも、あんなことがもう起きないようにしたい。私はそのために今頑張っているんだ」
 その強い意志に私は何も言うことができなかった。真希ちゃんはあの時感じたやるせなさや悲しみを力にして、他の誰かが同じ思いをしないために頑張っている。それなのに、それなのに一方で私は何もできずにただ生きているだけだ。頑張っている真希ちゃんを見て、生きているだけの自分が許せなくなる。私はようやく声を出せた。
「私はさ、自分が許せないや。あの時誰も助けられなかったのに、二人ともいなくなっちゃたのに。今何もしてない自分が許せない。真希ちゃんや他のみんなは進むべき道を見つけて進み続けているのに自分だけが時間から取り残されているような気がする。どうしたらいいんだろう。私にできそうなことはもう何もないのに、どうしても求めてしまうんだ、自分にできることを」

 これを聞いた真希ちゃんは最初何と思ったのだろうか。彼女は飲みかけだった水を一口飲むと私の目を真っ直ぐに見つめてきた。
「数日前に佐伯くんから聞いたよ。由香里ちゃんがまだあのことで思い詰めているって。由香里ちゃん、お願いだから無茶はしないで」
「……」
 この瞬間、どうして真希ちゃんが久しぶりに私と会おうとしたのか納得した。数日前に会った佐伯くんから私の様子を聞いたからなのだ。それで私に話を聞きたくなったのか。私はそれを理解したが、彼女が言った「無茶はしないで」という言葉に何も言えずにいる。
「由香里ちゃんがあの時のことをとても悔やんでいるのはわかる。だけど、今のあなたは死に向かいそうで怖いの。何もできないからって言っていつの間にか居なくなっていそうで、不安になってしまう。あなたにできることならまだたくさんあるはずなのに」
 真希ちゃんは真剣な顔で言い切った。確かに、彼女の言う通りかもしれなかった。私は無意識のうちに心が死に向かっているのかもしれない。
「だから、お願い。死なないために生きていくためにあなた自身が望むことを見つけて。あなたまでいなくなったら、私はもう耐えられないから」
 彼女の願いに私は首を縦に振るしかできなかった。だけど、生きていくために何を望んでいいのか私にはわからない。彼女は「ゆっくりでいいから探してみて」と話を付け加えてくれたけど、私にはそれを見つけられる自信がなかった。それから私達は近いうちにまた会う約束を交わして解散となった。
 それは突然だった。目的もなく外に出て街中を歩いていると見覚えのある顔を見かけた。その顔は、三年前に居なくなったはずの咲にそっくりだ。私は一体何が起きたのか理解が追いつかないでいる。思わず立ち止まってしまう。女性のことを見つめ続けているうちに向こうの方が私に気づいたようだった。彼女は私のそばまで駆け寄ってくる。
「あのー、私に何かご用でしょうか?」
 彼女は恐る恐る聞いているという感じだ。私の方もどう答えて良いのかわからず何も言えずにいる。すると彼女は私の顔を少しだけ見た。
「何か幽霊でも見てるような顔ですが、大丈夫ですか?」
 その通りだった。私はまるで咲の幽霊でも見てるような心地だ。だが、そんなことはあり得ない。
「そうですね……。すみません、あなたの顔が昔の友達にそっくりだったもので」
 私は正直にこう答えることしかできなかった。彼女は一瞬だけ驚いたような表情を浮かべた。
「あ、なるほど。そういうことでしたか」
 彼女はどうやら納得をしたようだ。私はいたたまれなくなってその場を後にしようと決めた。だが、歩き出そうとすると彼女は私の手を掴んだ。
「何するんですか!」
 私は思わず声を荒らげる。
「ごめんなさい! ですが、せっかくですからお茶でもしませんか?」
 そう提案されて、なぜだか私は首を縦に振っていた。

 近くにあるカフェを見つけた私と彼女は、二人がけのテーブルで向かい合いながら椅子に座っている。彼女は要領よく注文を終えたところである。一方で私は何を頼もうか決まらなかったのでまだ考えている。そうしていると彼女はカバンの中から名刺入れを取り出した。
「そういえば、まだ名乗っていなかったですよね。私、こういう者です」
 彼女は礼儀良く私に名刺を一枚差し出した。それを受け取ると、そこには「研究員 真澄咲良」と書いてあった。どうやら彼女、真澄さんは大きな研究機関の研究者のようだった。
「真澄咲良です。さっきからずっと聞けてなかったのですが、あなたの名前は?」
 急に私の名前を聞かれて、私は一瞬だけ慌てた。
「佐野、佐野由香里です」
「由香里さんね。よろしくお願いします」
「よ、よろしくお願いします」
 真澄さんはハキハキとしていて優しい人なのだなと思った。その一方で、私はつい小さい声で返事をしてしまう。
「私は名刺にも書いてある通り、星の研究をしています。由香里さんは何をしているんですか?」
「…… 無、無職です」
 自信げに自らのことを紹介する真澄さんを見て私は自分のことを言うのが恥ずかしくなってしまった。だからほんの少しだけ自分が何もしていないことを言うのが躊躇われた。結果として、真澄さんの表情は何一つ変わらずにいた。
「そうなのですね」
 なんだか、真澄さんに対して申し訳なくなってしまった。
「なんか、すみません……」
 私は咄嗟に謝った。そうしたら真澄さんは私の目を真剣に見つめた。
「ええと、それは誰に謝っているのですか?」
「えっ」
 真澄さんは私が考えていなかったようなことを言ってくれた。
「だって、無職だからといって謝るべきことは何一つないですよね」
「……そうですね」

 しばし無言になる。それでも真澄さんは温かさのある真剣な目で私を見てくれた。だから、私は今まで思ってきたことをこの場で話しても良いのかもしれないと思った。
「あ、あの、私は実は友達があんまりいなくて、その、なんというか昔色々あったので……。もちろん今でも大事な友達は何人かいます。だけど、どうしても忘れられない友達が二人居て……」
 私は勇気を出して声に出してみた。真澄さんはそれをちゃんと聞いてくれたように思えた。
「もしかして、そのうちの一人が私に似ているという友達ですか?」
 真澄さんの問いに私は何も言わずに頷いた。
「その方々はどんな人だったんですか?」
 促されるままに私は彼女のことを思い出しながら説明をした。
「不思議な、人たちでした。なんと形容したらいいのかわからない感じなんです。どこか悲しげで、苦しげで。恐ろしい物たちに苦しめられていて、自分たちの身を守るのに必死だった二人なのだと思います」
 だめだ。私の中で当時のことを思い出してしまう。思い出して辛くなってしまう。でも、今言わなくちゃいけないような気がした。私はなんとか辛い気持ちを抑えた。
「だった。ということは今は?」
 今は……。それは私にとって認めたくないことだった。認めなければ、咲はまだどこかで生きているような気がするから。だけど、認めるしかない。
「……二人とも死んでしまったんです。三年前に」
「まあ……」
「その二人は咲と友美っていうんです。それで、今でも、今でも見つかってないんです。咲の死体が」
 私がそのことを話してから少々の間を置いて、真澄さんは口を開いた。
「二人はどうして、死んだのですか?」
 私は当時のことをどこまで言えばいいのかを悩みながら答えた。
「……友美は咲に殺されたんです。でも、咲が本当に友美を殺そうとしてそうしたのかはもうわかりません。友美も咲も学校の中で同級生たちとの関係で苦しんでいました。それで二人とも心が壊れてしまって、どうしたら良いのかわからなくなったのかな……。咲は友美を死なせてしまったのを自分で許せなかったのだと思います。だから、最期は逃げて逃げて逃げた先で海に飛び込んでそれきりです……」

 私は半ば泣きそうな顔でこのことを話していたと思う。真澄さんの顔すらも見れなかった。すると、真澄さんはこんなことを言った。
「あなたがその友達を大事にしていることは伝わりました。その方は多分、あなたにとってこれからも大事な存在であり続けると思います」
「私、私は二人のために何ができたんでしょうか。今でも考えてしまうんです」
「何ができたか、ですか」
「そうです。咲にはしたかったことがあったんです。結局それを果たすことはできませんでした。だから私は、今でも後悔しているんです。当時のことを……」
 私の話を聞き終えると真澄さんは考えるような姿勢をとった。それから程なくして、答えは出た。
「二人がしたかったこと、二人に代わってあなたが叶えてあげたらどうですか? それはあなたのためにもなる気がします」
「……」
 私は、私は真澄さんの提案に何も返す言葉が出なかった。
「由香里さん、私が思うにあなたは事の全てを一人で抱え過ぎてしまっています。だから、自分のことを蔑ろにしているんじゃないですか?」
 その通りだった。私は全てを一人で抱え込もうと自分のことを蔑ろにした。だからこそ私の時間は止まったままだ。だが、自分ではこれ以外の方法が見つからなかった。見つからなかったのだ。真澄さんにこう言われて私は心の核にあるやるせなさを突かれたような気がした。
「由香里さん、もっと自分を大事にしてください。死んでしまった二人のためとは言いません。私自身があなたには自分を労って欲しいと思っているのです」
「それは、それはどうしてですか? どうして、初めて会った私にこんなことを言うんですか?」
「直感的に言うべきだと思いました。でも、話を聞いてたらわかりました。あなたはここまでずっと、苦しいことややるせないことに立ち向かっているのだと思うんです」
 「もっと自分を大事にしてほしい」と言われて私は大事にできるほど器用な人間ではない。でも、私の心はもうぼろぼろで、だからこそ、このメッセージは心の奥底に痛いほど伝わった。
 真澄さんは真剣に言ってくれた。私はなぜだか急に、今までずっと忘れて感じないようにしていた辛さややるせなさが溢れ出してきた。

 何も言葉が出ない代わりに私は涙を流した。体の中にある全ての水分を使うんじゃないかと思う程の大量の涙を流した。それはしばらく止まらなかった。真澄さんは席を立って私の横で肩をさすってくれた。
「いつか、二人ができなかったことを叶えられる日が来ます。そうしたら、きっとあなたは自分を大事にできるようになると思うんです。まずは、ずっと抱えていた辛さをどうか、どうか手放してください。私からのお願いです」
 真澄さんは全力で私のことを心配してくれた。私はいつから自分を蔑ろにしていたのだろう。もっと、もっと自分を大事にしたいとようやく思えた。この苦しさややるせなさは全てを一気に手放すことはできない。だけど、今少しだけ手放せたような気がした。
 私の気持ちが落ち着いたところで真澄さんは私に一枚のメモを差し出した。そのメモには電話番号が書かれている。
「何かまた辛くなるようなことがあったら、ここに電話してくださいね。いつでも相談に乗りますから」
 私はそれを受け取ってポケットにしまってから精一杯の感謝を伝えた。
「ありがとうございます」
「良いんですよ、これくらい」
 気づいたら日は既に傾き始めている。私は真澄さんに今思っていることを全て伝えようと思った。
「あの、真澄さんのおかげで私、ようやく自分がどうしたら良いのか少しわかった気がします」
 これを聞いた真澄さんの顔は少し嬉しそうだった。
「それなら良かったです。どうか、どうかあなた自身のためにこれからも生きてたくさんのことをしてください。私から言えることでは決してないのですが、それがきっとお二人を弔うことにも繋がるはずですから。それが私があなたに願うことです」
 真澄さんは優しい顔を私に向けた。私はその笑顔を見て咲の笑顔を久しぶりに思い出せた。
「では、今度また会いましょう」
「そうですね。今日はありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました。実は私も悩んでいたことがあるんです。あなたの姿を見て私も何かが変われそうです」
「どんなことで悩んでいたんですか?」
 私は何気なく聞いた。
「それはまた今度お話ししますね」
 真澄さんはにこやかな顔で答えてはくれなかった。結局、次にまた会うことにして、その時に話を聞かせてもらうことにした。
 私と真澄さんはそこで別れた。また会う約束を交わして。真澄さんとはこれから長い関わりになるような気がした。それから、佐伯くんや真希ちゃんともまた会いたくなったので、私は二人それぞれとチャットアプリでまた会う日時を決めた。二人ともそれを快諾してくれたので私は心強かった。私には頼れる人達がいるのだとようやく思えた。私は迷うことなく道を少しずつ、少しずつ歩き始めた。

 家までの帰り道。辺りが暗くなりつつある道を私はゆっくりと歩いている。私は自分にできることが何なのかようやくわかりかけている。私の心に灯ったその小さな希望を私は大事にしたいと思えたのだ。それは佐伯くんから言われたことや真希ちゃんからお願いされたことにも繋がっている。私はもっと私を大事にしたい。そう思った時、私は急に思いついた。自分にできることが一つあるじゃないか。さらにそれは、咲が果たすことができなかったことである。思い立った私は歩くペースを上げて家へと急いだ。私は思い立ったその考えを止めらることはできなかった。

 家に着くと私は急いで準備を始めた。あの場所へ行こう。これから私が前を向くために。咲が果たせなかったことを果たすために。出発は翌朝にすることにした。それからできるだけあの時と同じ道を辿ってあの場所へと向かう。私はそれを決めるとリュック一つに収まる程の荷物を用意してリュックに詰めた。
 それからさらに必要な物を思い出したのでリビングで探し物をしているとお母さんが家に帰ってきた。
「ただいま、って由香里何してるの?」
 その時のリビングはいつも以上に散らかっていた。お母さんはそれを見て驚いていた。
「お帰り、お母さん」
「どうしたの急に」
 お母さんは少し怪訝な顔をした。誰しもが突然お小遣いを探してリビングを散らかしている娘の姿を見たらそういう表情になるかもしれない。
「いや、この辺にお小遣いあったかなと思って」
「お小遣い?」
「私、ようやく向き合えそうなの。自分の今と。だから、明日少し旅に出ようと思って」
 私が言い終えるとお母さんは一瞬だけ驚いたような顔をした。それから急に笑い出した。
「あははは!」
「え、お母さん大丈夫?」
 私は急に笑い出した母の姿を見て不安になってしまった。お母さんは笑い終えると今度は泣き出してしまった。
「そうか、ようやく向き合えそうなのね……」
 お母さんは嬉しそうだった。
「お小遣いを探してる理由は旅費なんでしょ? 良いよ、お母さんとお父さんが出すから行ってきなさい」
「良いの? ありがとう」
「良いのよ。親としてこれくらいさせて欲しいのよ。娘が久しぶりに元気そうな姿を見てお母さんは嬉しいから」
 それからすぐにお母さんはお金を渡してくれた。嬉しそうなお母さんの姿を見て私の方も嬉しい気持ちになった。

 夕食と準備を終えると朝の出発まで私は寝ることにした。眠っている間に私は久しぶりに夢を見た気がした。その夢の中には咲と友美がいたように思う。夢の中で私達は何かを喜び合い、いろいろな話をしているうちに二人は時間が来たと言って姿が消え始めてしまった。二人は最後に「ありがとう」と言い残して姿が完全に消えた。またどこかへと行ってしまったのだろうか。夢の中の私は不思議なことに二人をちゃんと見送れたと思う。目が覚めて気がついた。私はようやく三年前のことと折り合いをつけようとしているのだ。時刻は朝の四時。まだ日は登っていない。予定の列車に乗る時間まであと一時間程だった。私は起き上がって、身支度を始めた。リビングにあったパンを一つ食べ、着替え終えると荷物の点検をして私はリビングを出ようとした。するとお母さんが起きてきてリビングにやってきた。
「おはよう。もう行ってくるのね」
 寝起きのお母さんはまだ眠たそうだった。それでも見送ってくれるのはとても嬉しかった。
「うん」
 私は自信を持って頷いた。私が玄関まで出るとお母さんも玄関まで来て見送ってくれた。
「そうか。あなたが人生に希望を持てたようでお母さんは嬉しいわ。じゃあ、気をつけてね」
 私はその言葉が嬉しかった。靴を履いてお母さんの顔を見た。
「ありがとう」
 鍵を開けてドアを開く。
「良いのよ。いってらっしゃい」
 お母さんの声は優しかった。
「いってきます」
 私は玄関から外へと出た。家を出る足取りが久しぶりに軽かった。

 夜明け前、駅までの道を急いで歩く。時間が時間なので私以外に道を歩いている人は誰もいなかった。一人で道を急ぎながら私は三年前の日々を思い出した。正直に言ってあの日々を思い出すのはとても辛い。私はそれが辛すぎるあまりに過去に囚われ続けてしまった。だけど、佐伯くんや真希ちゃん、真澄さんの言葉を聞いて私はようやく過去と折り合いをつけて今に目を向けられそうな気がしている。それから、咲と友美がすることができなかった多くのことを考えた。二人が私に言った果たしたかったことと言わないだけで抱えていた夢や希望は沢山あったはずだ。私は自分の人生を生きることで二人ができなかったことを少しずつでも二人の分まで果たしたい。目線を上に向けると空はまだ暗いままだ。それでも、夜明けは近づきつつあるのが感じられた。

 駅に着いた私は切符を買った。目的地まではほぼ一日かかる計算だった。それは三年前とできる限り同じ道を辿りたかったからだ。その道順はあまりにも非効率だった。だけど、その道を辿ることにことにこの旅の意味はある。プラットフォームで列車を待っている間、私はスマホのメモアプリで日記を書いた。日記にはどうしてこの旅をするのか、その理由を記した。書いている間に日が登り始めてきた。空が少しずつ明るくなっていく。しばらく日記を書き続けていると列車が到着した。私はそれに急いで乗った。誰も乗っていない車内で席を見つけて座り込む。発車まで時間は少しあった。なんとなく車窓から見える街並みを眺める。この街も三年間で少しずつ変わってきた。私はこの三年間、何もできず、前を向くことができなかった。今、ようやく前を向けそうなのだ。これは私がこれから前を向いて生きていくための旅なのだ。車内アナウンスが発車を告げる。ブザー音が鳴り響くとドアが閉まり列車は走り出した。私はこれから前を向いて生きていきたい。その人生の中で咲と友美ができなかったことを私は二人の代わりに果たしていきたい。私がこれから生きるため、咲と友美ができなかったことを果たすための長い旅が始まった。
 思い立って列車に飛び乗り、私は三年前に果たせなかったことを一人で果たそうと当時とほぼ同じ道のりで南の方へと向かった。途中、大きな街で休憩を済ませてから最終的にあの場所に一番近い駅に着いたのは夕方を過ぎ、夜になった頃だった。近くに掲げられていた地図を見て目的地を探していると、すぐそばで話し込んでいた老人たちが私のことに気がついた。
「こんな時間にここで降りるなんて珍しい。何しに来たんだい?」
 老人の一人が私に訊ねてきた。私は迷いなく答えた。
「友人が見れなかった物を見にきました」
 すると老人たちは何かを察したような表情をして、それからお互いに見合ってから少し微笑んだ。
「そうかい。タクシーは無いから歩いて行くといい。ただ夜道は暗いから気をつけるんだね」
 そう言って、彼らは私にライトを差し出した。
「持って行くといい」
「ありがとうございます」
 ライトを受け取った私は頭を下げた。それから老人たちは口を揃えてこう言った。
「良い旅を」

 私は三年ぶりにあの道を今度は一人で歩いている。冬の夜にライトを持ってこんな所を歩いているのは私だけかもしれない。とても寒い。だけど、そんなことは気にならなかった。長いようで短い時間が経ったせいか私はあの旅のことを懐かしいとさえ感じている。咲との最初で最後の旅。彼女が崖から飛び降りてから私の時間は止まったままだ。だとしたらその時間を再び動かすには、あの日あの時のこの場所で見れなかった物を見ることが必要だと思った。だから今、こうして歩いている。孔雀座は見れるのだろうか。

 そう考えているうちについにあの場所へとたどり着いた。孔雀座を見ようと目指した場所。咲が海に身を投げた場所。ここはあの時と何も変わっていなかった。頭上にはあの時見ることができなかった星々が輝く夜空が広がっている。だが、肝心の孔雀座らしきものは見えなかった。私はそれから何時間もただ夜空を見上げていた。じきに夜が明けるだろう。それを待ってみようと思った。何かが変われるような予感がした。
 過ぎゆく夜空を眺めながら私はあの日々のことを思い返した。咲と友美がいた日々。それは決して全てが楽しかったとは言えない日々だった。二人はもう居ないし戻ってもこない。私はこれまでもこれからもあの日々のことを肯定することはできない。それでも、やはりあの日々に確かに有った孔雀とナイフとヒエラルキーこそが私にとっての青春である。私の青春はとても苦しいものだ。
 二人は私がこうして何年も過去に囚われていることを許してくれるのだろうか。いや、きっとあの二人なら笑って「進め」と背中を押してくれるような気がする。私はこの三年間何度も辛い気持ちが蘇って苦しかった。今、ようやく私は前に進めるような気がしている。あの日々にいた二人のために私はこれからを生きていきたい。いや、生きさせてほしい。それが、私にできることだと思うから。

 やがて夜明けが訪れた。私は登りくる朝日をまじまじと見つめる。これから何をしようか。今の私にはまだできそうなことが沢山あると思えた。ひとまずの目標は、いつか、咲に代わって孔雀座を見ること。生きる理由は見つかった。私の時間はようやく動き出した。

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