私たちは急いで電車に飛び乗った。乗った電車では幸い誰も私たちのことを気にする者はいなかった。それでも、いつかは警察に足取りを調べられて追いつかれてしまう可能性もあった。
私は車窓から外を眺めた。目の前にあるのは私の知らない土地で、そこにも誰かの日々があった。スマホは前日の夜に捨ててしまったので、ナビを見ることもできなかった。私たちは路線図と駅名だけを頼りにして九州の端まで行こうとしていた。
一方で咲はというとまたしても眠っていた。やはり友美のことがショックだったのだと後になって思う。改めて考えるとなぜ彼女は「私、もうだめみたい」と思ったのだろうか。さらに言えば彼女はなぜリスクを負ってまで急いで孔雀座を見に行こうと思ったのか。私は彼女の顔を見ながら考えた。この時の彼女の寝顔はとても苦しそうだった。私はその顔を今になっても憶えている。
目的の駅に着いた。だが、とうとうお金が底をついてしまった。ここからは歩いて九州の端まで行くしかなかった。駅から私たちは歩き始めた。私たちの旅はあとどのくらいかかるだろうか。私にとってはそんなのどうでもよかった。咲と一緒に歩くのが心地よかった。そこでふと、私が咲と交わした約束を思い出した。
「ねえ、今度さ、その孔雀座を見に行こうよ」
「いいね。約束してもいいかな?」
「うん、約束する」
たった二週間くらい前にした会話が頭を過った。私はこの時になってようやく気づいたのだ。この旅は私との約束を果たすためだったと。なんでそんな大事なことを忘れていたのだろう。私はとても悔やんだ。
「ごめん、咲。私、あなたとの約束を忘れてた」
気がつけば私は思っていたことを口に出していた。すると咲はすぐに理解してくれたようで、少し微笑んだ。
「いいのよ。私だって忘れてた」
「えっ?」
「だって、この三日で私たちの身に何が起こったと思う? この三日間のことで私は頭がいっぱいだよ」
「待って、じゃあこの旅はなんのためのことなの?」
咲はナイフを取り出した。折りたたみ式のナイフ。友美のことを殺めてしまったナイフ。彼女はそれの刃先を折り畳んだまま見つめた。
「昨日も言ったじゃん。私のサイゴの旅だって」
「最後って……」
私はどうして彼女がこれが最後の旅だと言っていたのかわからなかった。私の歩みが止まった。それに合わせて咲の歩みも止まった。彼女の顔が一瞬だけ物憂げになった。でもそれから彼女は普段の口調でこう言った。
「ねえ、私がどうして、今孔雀座を見ようとしているのかわかる?」
私は考えた。だが、すぐには答えは出なかった。
「ごめん、わからない」
「だよね。こんなこと聞いて突然ごめんね」
咲は再び歩き始めた。それに合わせて私も後をついて行った。旅はまだまだ続きそうだった。今日中に九州の端に辿り着けるのだろうか。そう思っていた矢先、咲の様子がおかしくなった。よろめく彼女。私は慌てて彼女を支えた。
「どうしたの!」
「ごめん疲れた……」
とても辛そうだったので近くの木陰で私たちは休むことにした。私は咲の額に触れた。
「あつい……」
彼女には熱があるみたいだった。
この時私たちは何もない田舎道を歩いていた。もちろん近くに大きな商業施設などはなく、道を通る車も少なかった。どうすれば良いだろうか。そう思っていると一台の車が通りかかり、すぐ近くに停車した。ドアが開いて中から一人の老人が現れた。こちらの方まで近づいてきた老人は私たちの様子を見つめた。
「どうかしたのかい?」
私たちは人に見つかるわけにはいかなかった。だが、今は人を頼るしかなかった。
「彼女、熱があるみたいなんです……」
老人は咲の額に手を当てた。
「うちに来なさい」
仕方がなかったが私たちは老人の車に乗せてもらって老人の家へと向かうことになった。
車を走らせること数分。車は一軒の大きな家へと到着した。老人は急いで布団や冷水などを用意してくれた。私は咲をおんぶして布団まで連れて行った。
「もう大丈夫だよ」
冷たい水に濡らしたタオルを彼女の額に当てた。
「ありがとう……」
横になった彼女は数分で眠りについた。よほど疲れてしまったのだろう。私も長距離の移動で疲れていた。
咲が眠ったことを確かめると、私は老人のもとへと行った。老人は台所で一人野菜を切っていた。
「彼女の様子はどうだい?」
小刻みな音を鳴らしながら老人は私に気づいたようだった。
「今は眠っています。すぐに良くなると良いのですが……」
「そうだよな。そりゃ心配だ」
老人は野菜を切り終えて、今度はフライパンに油を注いで、コンロに火をつけた。よく見ると調理用具はどれも使い古されている物のようだった。
「ところで、お二人はどこから来たんだい?」
火をつけてフライパンがあったまるのを待ちながら老人は私に聞いてきた。
「それは、き……、北九州市からです……」
私は近畿の方から来たとは言えなかった。言ってしまったら見つかる可能性が高まってしまうからだ。
「北九州からどうやってここまで?」
老人の問いが続いた。
「電車と歩きです」
私はこれくらいの内容なら大丈夫だろと思って、本当のことを答えた。
「何で歩いてたんだい?」
「お金が底をついちゃって……」
老人は豪快に笑った。大笑いしていた。
「ははは、お金が底をつくって、そりゃ大変だ、ははは」
「なんかごめんなさい……」
「いや、おまえさんが謝る必要はない。いやー、良いね。何も考えずに突っ走っている感じが」
「どうでしょうか……」
老人はフライパンに肉を入れた。途端に肉の焼ける音がした。
「若いうちは気づかないものさ。自分たちがどれだけ急いている存在なのかを」
老人のこの言葉がだいぶ経った今でも理解できずにいる。それは私が何かに囚われ続けているからだろうか。そのうち私にもこの言葉の真意が理解できる日が来るのだろうか。これを聞いた直後の私は何も言葉を返すことができなかった。
老人は料理を続けた。次第に良い香りがしてきた。私の方もお腹が空いていた。私のお腹が鳴ってしまった。
「すみません……」
「いいんだ、これができたらおまえさんたちにもあげるから食べていくといい。どうせ何も食べてないんだろ」
この老人にはお見通しのようだった。朝ごはんを食べたきりになっていた。部屋にある時計を見ると時刻は昼の十三時くらいだった。
「お待たせ」
老人は三つの皿に肉と野菜の炒め物を載せた。私はそれをテーブルに運んで、それから咲を起こしに行った。
「咲、どんな感じかな?」
咲の顔を見ると布団に運び込んだ頃よりは落ち着いた表情をしていた。私の声を聞いて彼女が起き上がった。
「ごめんね。もう大丈夫だよ」
「それなら良かった。ねえ、おじいさんが野菜炒めを作ってくれたみたいだからそれを食べてからここを出ようよ」
「良いの?」
「まだ、私たちのことに気づいてないみたいだから、とりあえず食べていくだけ食べていこうよ。お腹も空いたし」
彼女は少し考えて最終的には了承してくれた。
私たちは老人の手料理を食べた。老人の作った炒め物は美味しかった。
「どうだい? 美味しいかい?」
「美味しいです」
私が答えると老人は嬉しそうな表情をしていた。
「それはよかった」
咲も食べているうちに表情が明るくなっていった。どうやら体調が良くなっていたようだった。
食べ終えた私たちは咲の体調も良くなったのでここを出ることにした。長居して老人に迷惑をかけたくないという咲の意志もあった。
「もう行くんだね」
「はい、おかげさまで元気になりました。ありがとうございました」
咲が深くお辞儀をした。私もそれに続いた。
「いやいや、こう言うのもあれだが、久々にこういうことがあって俺は嬉しかったよ。良い一日を過ごせた」
老人はとても嬉しそうだった。
「じゃあ、良い旅をな」
そう言って老人は私たちに水と果物を手渡してくれた。私たちは初めは遠慮したが、老人がどうしてもと言って引き下がらないので、それを受け取った。事実、飲み水がなかったのでとてもありがたいことではあった。
時刻は昼の十四時過ぎ。私たちは老人の家を出た。とても優しい老人だった。いつか、また会えれば良いなと思いながら、私と咲は孔雀座を目指して道を急いだ。
その一方で、追手はすぐそこまで迫っていた。
道はどこまでも続いているかに思えた。目的地まではあとどれくらいあるのだろうか。歩いていると、人通りの多い場所へと辿り着いた。
「街の中に入ったみたいだね」
時刻は午後十五時。私たちはどこかもわからないような住宅街にいた。
「ねえ、見て。地図があるよ」
私はそばにあった地図を見た。咲もそれを確かめる。その地図によれば私たちが目指していた場所まではもうすぐとのことだった。
「あと少しだ」
「そうだね……」
目的地まではあと少しなのに彼女は浮かない顔をしていた。
「どうしたの? 浮かない顔して」
彼女はすぐにはっとした顔をして
「ううん、何でもないよ」
と明るい顔を作って再び歩き出した。もしかするとここが重大な分岐点の一つだったのかもしれない。ここで私が彼女のことに向き合えていたら、あんなことにはならなかったのではないか。今でも考えてしまう。
住宅街を歩いているとパトカーのサイレンが近くで鳴っていることに気がついた。
「ねえ、パトカーが近くにいるみたい」
「じゃあ、早くここを離れないと」
私たちは駆け足で道を進んだ。だが、パトカーの音はどんどん近づいていた。
やがて何台ものパトカーとすれ違った。どうやら私たちを探しに来たみたいだった。
「走れる?」
咲が真剣な顔をして聞いてきた。私にはもちろん走る選択肢しかなかった。
「うん」
私たちは走った。路地裏を通ったりしながらうまくパトカーたちの追跡をかわした。
だが、やはり足の限界が訪れた。咲の走る速度が遅くなって次第に私の速度も落ちていった。
咲は息を切らしながら走っていた。それを見て私はどうしたらこの状況を抜け出せるのかを考えた。考えていると、目の前に蔦が生えた古びた建物を見つけた。
「ひとまず、あの中に入ろう!」
私はその建物を指さした。
「そうだね……」
私たちは建物の玄関まで走った。玄関のノブを掴むと鍵は開いていた。私たちは急いで中に入った。
「ここで少し休もう。パトカーの音が聞こえないから多分気づかれていないよ」
咲は走り疲れたのかその場で座り込んだ。
建物の中をよく見ると蜘蛛の巣だらけだった。どうやら空き家のようだった。そのままにされたらしきテーブルに触れると沢山のほこりが手に付いた。息を整えてすぐに出ようとしていた私たちだったが、そんなにうまくはいかなかった。次第にパトカーの音が近づいてきた。私たちの行動は気づかれていたようだった。
窓の外を見ると何台ものパトカーが正面の道に停まっていた。警官たちがパトカーから降りて何か話し合いを始めていた。
「まずい」
私は座り込んだままの咲に状況を伝えた。彼女はどうしたら良いのかを考え始めたが、直後に男性の声が聞こえてきた。
「警察です! 大人しくこの建物から出てきてください!」
拡声器だった。うるさくて私は耳を少しだけ塞いだ。私たちは脱出方法を思いつくまでは警官たちのことを無視することにした。
十分ほど沈黙が続いたところで、再び拡声器の声がした。
「吉原よ。佐野、あんた自分が何しているのかわかってるの?」
どうやら吉原刑事が私たちのことを追いかけてきたみたいだった。
「佐野と一緒にいるのは倉持咲だね。あんた、サイテーね。人を殺した上に友達を連れて逃げるなんて」
この時、咲の顔に何か怒りのようなものが浮かび上がった。彼女は立ち上がって、建物の窓を少し開けた。
「サイテーなのはあんたの方よ! あんたのやり方が汚かったから友美は追い詰められた!」
「はあっ! 私はただ彼女を捕まえようとしただけよ。そのためならどんな手段だって使うわよ!」
咲は一旦窓を閉じた。
私には気になったことがあった。窓際から戻ってきた彼女に問いかけた。
「ねえ、友美と吉原の間に何があったの?」
「友美は今からあなたを殺すのは吉原っていう刑事のせいだって、叫び狂ってた……」
私は吉原刑事と友美の間に何があったのか未だにわからなかった。少し間を開けて拡声器で再び吉原刑事が叫んだ。
「ねえ、あなたたちをありもしない事件をでっち上げて捕まえることなんて簡単なのよ! あなたたちを捕まえるためなら殺人鬼にだって仕立て上げてやるんだから!」
咲は再び立ち上がって窓を開けた。
「だったら、犬に友美を襲わせたのもそのためだったの!」
初耳だった。まさか友美に殺された犬は吉原刑事が送りつけた犬だったなんて。
「ああ、そうよ! あいつを捕まえるために送りつけたらまさか殺すなんて! なんて恐ろしい子なのと思ったわ!」
「じゃあ、あんたその場にいたのに何で友美を捕まえずに犬を見殺しにしたの! 言ってたわよ友美が、あんたもその場にいてわざわざ名刺まで置いてったって! あんたの方が友美よりも何万倍も狂っている!」
「狂ってるだって! 私は人を追い詰めるのが楽しいだけよ! それが何か?」
「それが狂ってるんだって言ってんの!」
「あなたの方こそ、人刺しておいて逃げるなんて、私なんかよりもよっぽど狂っているわよ!」
「なんですって!」
咲と吉原刑事の言い争いは続いた。先のそばにいた私も、吉原刑事のそばにいた警官たちも何もできなかった。
私もあの狂った刑事に言いたいことは山ほどあったが、まずはこの状況から逃げることが先決だと思った。何か良い方法はないか。そう考えていると外に続いていると思わしき扉を見つけた。私は恐る恐る、扉に近づいた。ガラス張りの扉から外を眺めるとそこに警官たちはいなかった。
喋り疲れたのか咲が戻ってきた。
「あの刑事なんなの!」
「それより咲、あそこを見て」
私は扉の方を指で示した。彼女は私の意図を汲み取ったみたいで、頷いてくれた。
「今なら誰もいない。あそこから逃げよう」
「そうだね」
逃げようとした、その時だった。
「佐野! 出てきなさい! あんたが殺したんだろう? 何も喋らないのは卑怯なんじゃない!」
あの刑事は笑っていた。
私は許せなかった。窓の側まで近づいて叫んだ。
「あんた、こんなことしてそんなに楽しいの! 私が友美を殺しただって? ご想像にお任せするわ! あんたならなんでもでっちあげて私をと咲を捕まえるのでしょうね! 上等よ! 受けて立ってやるわ! だけど、その前に私たちには目的がある! 捕まえるならそれからにしてちょうだい!」
私は窓を閉じた。それから咲の手を握って急いで扉を開けた。それから気づかれないように裏の塀を登って後ろ隣の家の庭に忍び込んで、逃げた。
幸い警官たちは誰も気がつかなかったようだった。なんて手薄な警官たちなんだと思った。
逃げ切った私たちは道を急いだ。走った。走り続けた。通り過ぎた公園の時計を見ると時刻は午後の十六時だった。こうなった以上は急がなくては。走る足はどんどん速くなっていった。ある程度走ったところで私たちは茂みに隠れて休憩することにした。
「ねえ、友美は何で何も言ってくれなかったんだろうね」
咲が悲しげに言った。それは私も同じことを考えていた。どうして、頼る選択肢を自ら捨ててしまったのだろうか。
「わからないね、もう死んじゃったし」
「そうなんだよね、友美って死んじゃったんだよね……」
私たちは改めて友美の死を実感した。
「ねえ、私たちどうなっちゃんだろうね……」
私は咲に聞いてみた。彼女はこれからのことをどう思っているのか知りたかったからだった。すると咲は空を見上げて答えた。
「そんなこと、私はどうでもいい。人間いつかは死んだもの。だから今はこの瞬間を走るよ私は」
咲は友美が死んだ時点で自分が何をすべきなのかを決意をしていたのだと思う。だからこそのこの言葉だったのだろう。
この時の私にはそれがとても力強い言葉に感じられた。そうだ、今の私は彼女といられればそれで良いのだと思っていた。彼女が孔雀座をなぜ見たいのかなんて実は私にはどうでもよかったのだ。だからこそ私は、彼女の目を見た。
「そうだね。じゃあ、また走ろうか」
咲もまた私の目を見て頷いた。
「うん」
私たちは立ち上がって、走り出した。
時刻は夕方の十七時。私たちは九州の端の方までもうすぐのところまで到達していた。
「あと少しだ」
息を切らしながら咲が呟いた。彼女は覚悟を決めた顔をしていた。それに私は気がつかないふりをしてしまった。私が未だに後悔している瞬間の一つである。
もうすぐで目的地というところで突然、咲が足を止めた。
「由香里、私がどうして孔雀座を見たいのか教えてあげる」
「どうしたの急に?」
「私には、今ここで由香里に伝えなきゃいけないことがあるんだ」
「伝えなきゃ、いけないこと?」
咲は頷いた。この時の私はなぜ彼女がこのタイミングでこの話を切り出したのか意図が掴めなかった。
「良いかな?」
彼女は私に問いかけた。私は頷いた。
「まずね、私はいつか孔雀になりたいんだ。あの綺麗な羽が欲しいから」
「でも、孔雀の綺麗な羽って雄だけが持っているんでしょ?」
「それは知ってるよ。そこは私の夢なんだから聞かないで欲しかった」
「それはごめん」
咲はそれから再び歩き始めた。私もそれについていく。
「私が友美から嫌われた後でね、何気なく見た図鑑の孔雀が綺麗だったの。そこから調べていくと孔雀座っていう星座があるらしいって知った。孔雀座には何も物語がないの。私にはそれがちょうど良いと思えた。だって私にはどんな有名な星座も似合わないから」
「似合わないって、なんでそう決めつけるの? あなたにはまだまだこれから先の輝かしい未来が待っているのかもしれないのに……」
「いいや、それは私が認めたくないの。認めない方が楽なの……」
「どうして?」
「なんでだろ、あのきらきらしている割には中身空っぽで人を蹴落とすことばかり頭にあるクソったれどもに嫌気を感じたからかな」
これを聞いて私は咲が抱えていた影の一部を垣間見たような気がした。
私は自分の気持ちを見透かされたような気がした。
「それは言い過ぎな気が……」
「そうかな? 由香里だって本当は気づいているんでしょ。あいつらの醜さに」
それはその通りだった。当時の私には自分が抱えていた爆弾のような感情を認める勇気がなかった。
「なんかごめんね。こんなこと言っちゃって……」
「いや、いいの。むしろ、言ってくれてありがとう」
刹那、咲が驚いたような顔をした。それから私の答えがよほどだったのか、彼女は大笑いした。
「あはは、あはは!」
それに釣られて私も笑い始めた。
「ははは、あはは」
「何笑ってるの」
「そっちこそ、なんで笑ってるの」
「なんでって、咲が笑ったからだよ」
途中から私たちは半泣きになっていた。いつの間にか理由もわからなくなってただひたすらに泣き笑っていた。
「みんなのばかやろー!」
咲は夕暮れ空に向かって叫んだ。
「私たちのばかやろー!」
私も叫んだ。
「ばかやろーに祝福を!」
「乾杯!」
私と咲は拳を高く挙げた。
「私さ、孔雀の様に綺麗なドレスをいつか着てみたいんだ」
「それ、咲にとっても似合うと思う」
「ありがとう。着こなせるといいな」
「大丈夫だよ。私が保証する」
「それ保証になってないよ」
「そうだね」
そこから私たちは少しの間何も喋らずに道を進み続けた。その中で、私はこの先自分たちはどうなってしまうのかと考えた。
「ねえ、私たちこの先どうしようかな?」
何気なく私は咲に聞いた。
「どうするって?」
「だってさ、警察には追われているし、お金もないし、この先本当にどうなるのかなって思って」
「はは、それはそうだね」
「何か思いつくことある?」
「そうだね。そういえば、この先は海辺なんだけどさ。だったら船を盗もうよ」
「と言うと」
「盗んで、その船でどこか南の島にでも逃げよう」
「それは良いね」
「それでね、そこでカフェをやるの」
「どんな?」
「どんなって言われてもすぐには……、あ、思いついた」
「おお」
「コーヒーにこだわって良い豆を揃えておくの」
「品質重視だ」
「そうそう」
「それで大儲けしよう」
「だけど、それだけで大儲けできるかな」
「じゃあパイナップルジュースも売ろう」
「それは節操ないよ」
「じゃあ、もう少し工夫しないとね。由香里は何かある?」
「うーん。思いつかない!」
「ははは」
「あ、そうだ。ミックスジュースを売ろう」
「ミックスジュースね。それもありきたりじゃない?」
「うーん。やはり良いアイディアは出ないね」
「はは」
楽しくなってきたのか咲が話を続けた。
「あとさ、南の島に住むんだったら家にはブランコが付いているといいな」
「ブランコね。良いね」
「二人用のブランコでさ、二人で漕ぎながらその日のご飯のこととか話し合うの」
「すごい具体的だね」
「今考えたことなのにね」
「人間の想像力ってすごいね」
「同感」
私は南の島にある小さな家を思い浮かべた。その家には私たちが住んでいて、コーヒーやパイナップルジュースが売りのカフェを営んでいる。二人は毎朝、ブランコに乗ってその日の予定を決める。それからコーヒーやジュースの準備を始めて、時間が来たら店を開ける。店には馴染みのお客さんたちが来ていて、その人たちと他愛もない話で盛り上がる。そんな生活を思い浮かべた。
私は本当にそんな生活をしたくなってしまった。彼女となら楽しそうだなって思った。だが、そんな日が来ることはあったのだろうか。今でも幸せそうなその生活を思い浮かべてしまう。実は自分が一番乗り気になっていたのかもしれない。そう思う。
会話のキャッチボールが続いて、時間はどんどん過ぎていった。日が傾いた空を眺めながら私たちは道を進み続けた。旅のゴールはあとほんの少しのところまで迫っていた。
「ねえ、私たちなんでもできそうだよね」
咲の言葉には彼女の整理がついていない気持ちがそのままの姿で込められていたような気がした。
「そうだね」
私は深くも考えずに頷いた。この時、私は本当に自分たちならなんでもできると妙な自信を持っていた。
「私たちさ、友達だよ」
咲の気持ちが私の心に伝わってきた。私は嬉しかった。
「うん、私もそう思ってる」
「ならよかった」
そう言っていた彼女の顔は悲しそうだった。私はまたしても気づかないふりをしてしまった。この時、何か言ってあげられたら私たちの人生はどう変わったのだろうか。思い返す度にそんなことが頭を過ぎる。
私は彼女との時間がずっと続けば良いのにと思った。それでも、時間はどこまでも残酷だった。
「着いた」
「いよいよだね」
「そうだね」
ついに私たちは目的の場所へとたどり着いた。旅の終着点。私にとって一番忘れたくない一連の出来事の結末まであと少しだった。
私たちは空を見上げた。そこには私たちには似合わないくらい綺麗な夕空が広がっていた。私は空を見つめたままで言葉を発した。一瞬だけ白い息が見えた。
「夜まではまだ少しだけ時間があるね」
「そうだね」
彼女もまた空を見上げていた。だから、この時彼女がどんな顔をしていたのか私にはわからない。それでも楽しそうな声で彼女が嬉々とした気持ちになっていたのはわかっていた。
「見られるといいな」
「そうだね。どんなふうに見えるか私は楽しみ」
これは私の心の底からの言葉だった。
「私も初めて見るからすごい楽しみ」
「いよいよだね」
「うん、これで旅が終わる」
「そうだね……」
この時の私はやはり彼女のサイゴの旅という言葉がどうしても気になっていた。それが彼女にとってどれくらいの価値があるのか私には計りかねたからだ。
空はどんどん暗くなっていった。そろそろ空に星が見えるか見えないかの頃になった。私たちは何も言わずに空を見上げ続けた。このままの時間が永遠に続けば良いのに。そうすれば旅も終わらない。だから、お願い神様。終わらないで。と私は思っていた。
「ねえ、見れるまでまだ時間があるから、しりとりでもしようよ」
咲が唐突に提案してきた。
「急だね」
私は笑った。お互いの白い息が見えていた。
「いいよ。じゃあ咲の方から」
「ハサミ」
「ミスド」
「ドクター」
「た、太鼓」
「小鉢」
「ち、ち……、チアリーダー」
「ダイヤモンド」
「ドラマ」
「マリオネット」
「トイ、トイプ……」
その瞬間だった。どこか遠くの方からパトカーのサイレンの音が聴こえてきた。時間切れだった。
私たちは三十秒くらい何も言えなくなった。それから、咲の方がポケットの方からナイフを取り出した。
「時間切れみたい……」
「そうだね……」
「まだ夕方だね」
「夜まであと少しだったのに……」
この時、私は神様や世界の仕組みなどという存在に対して彼らはなんて残酷なんだと感じた。なんでこんなところで警察に見つかってしまうのだろうか。この世には残酷な運命があるということを痛感した。私たちにはこんな運命しか残っていないのか。悲しい結末しか残っていないのか。なんて悲しい世界なんだ。私は私たちの運命を悔やんだ。
私は悔しかった。ここまで来て、まさか孔雀座を見れそうにないことが。彼女もまた悔しそうだった。
「私はこうなった代償を払わなくちゃいけないのかもしれないね」
咲は苦しそうに空を見上げた。夜までにはほんの少し時間がありそうだった。それが悔しかった。
「ねえ、私は友美をさ……」
「言わなくていいよ。わかってる」
「ありがとう。でも、あなたを巻き込んでしまった……」
彼女には後悔の気持ちがあったのだと思う。結果的に友美を殺してしまったこと。私を巻き込んでしまったこと。それが彼女の罪である。とても十六歳の少女には背負いきれない罪だったと思う。一方で私にも罪がある。それは、友美を止めることができなかったこと。彼女をここまで連れてきてしまったこと。
「ねえ、由香里。あなたは何にもしてない。だからあなたが罪を背負う必要はないよ。私が全部の代償を払わなくちゃいけないんだ」
「でも、ここまで来たら私にも罪はある。だから、私も何か代償を払わなくちゃ」
咲は苦しそうだった。おそらく、頭の中でずっと悩んでいたのだ。私たちは何か代償を払わなくちゃいけない。それについて彼女はずっと悩んでいた。
咲は何かを確かめるような目で私のことを見つめた。
「ねえ、改めて言うけど、私たちは友達だよ」
「当たり前だよ。私たちは友達」
「ありがとう」
彼女は目を閉じて深呼吸をした。私も目を閉じた。決意しなくてはいけなかった。ここで全てを終わらせないと。私たちは知っていた。ここで自分達は終わりだと。だからこそ、最後の戦いが迫っていた。私たちの運命を賭した最後の戦いが。
咲は目を開けた。それから折り畳み式ナイフの刃先を出した。
「じゃあ、私たちでこの事件を起こした代償を払おう」
ナイフの刃先が私の方に向けられた。彼女なりに悩みに悩んだ末の決断だったと思う。私はそれに同意するしかなかった。私にも罪はある。だから、私はナイフを向けられなくちゃいけなかった。なぜなら、私は向けられるべき存在だから。
「ここから先は崖よ。端の方まで行きましょう」
咲はナイフをこちらに向けて歩き始めた。
「わかった」
私は崖の方を向いて歩き出した。
耳に残るサイレンの音が遠くから聞こえてくる。私たちを追いかけている警察官たちがすぐそこまで来ているという合図だった。星空が見え始めた一月の夕暮れ。広大な海が目の前に広がり、少し荒れた潮風が流れてきて塩っぱい味が口の中に入ってくる。私は両手を上げて背中を気にしていた。背後には血に塗れたナイフが突きつけられている。ナイフを突きつけている咲の表情は複雑だった。
私を連れ去ったことで逃げきれなかったことへの後悔と、もうすぐ楽になれるという安堵の思いが同時に込み上げているように私は感じる。彼女の顔は数時間前よりさらにやつれていた。一方で私も背中にナイフを突きつけられている恐怖と彼女の死の気配を察して複雑な顔をしていたのだと思う。私と咲は一歩ずつ前へと進む。暗がりから微かに見える彼女のナイフを握る手は汗ばみ震えていた。
「由香里、もうすぐお別れだね」
「お別れって、どういうこと?」
「飛び降りようと思うの。この先から」
「そんな……」
悲しげだけど喜んでいるような調子で彼女はこう言った。彼女の言葉には普段から多くの含みがあった。この時もおそらくいくつかの意味があったと思うのだが、私はすぐに彼女の本意には気づけなかった。なぜならば、私たちは断崖絶壁の先の方へと歩んでいるからだ。私はこのまま彼女と飛び降りることになるのだろうか? 少なくとも私はそう感じた。
死への恐怖が私の心に芽生えたが、同時に、ああ、私はこのまま彼女に突き落とされても仕方のない人間なのだとも考えた。だって、私は彼女の苦しみにずっと気づけなかったから。私たちは一歩、また一歩と崖の先へと歩んでいく。
「孔雀座は結局見れなかったな……」
彼女は残念そうにしながらも呑気な声で一言呟いた。咲がどうしてここまできたのかを私は知っていたが、この言葉に私は何も言えずにいる。なんて言えばいいのかが咄嗟に判断できなかった。一歩、一歩と進むと次第に崖の先の全てを飲み込むような荒波が下の方から私たちを覗き込んできた。
私はこのまま助かるのだろうか。それとも彼女と共に死ぬのだろうか。日が沈み、近くにある灯台の灯りだけが私たちを照らしている。日が沈んだことで彼女の顔が見えなくなっていく。その暗闇の中で彼女はすすり泣いていた。彼女の涙をすする音が聞こえてくるのだ。
サイレンの音がさっきよりも近づいてきた。数分後にはこの辺りは警察官たちに囲まれているのだろう。咲は私と一緒に崖の下へと飛び降りようとするかもしれない。まもなく全てが終わろうとしている。太陽が沈んでいった海の遠くの水平線を眺めながら私は彼女との死を覚悟した。
何台ものパトカーが遂に私たちの後ろまで到達し、取り囲んだ。私と彼女の周りは一瞬のうちに明るくなって、後ろに目を向けると彼女の覚悟決めた顔が見てとれた。パトカーの群れから大勢の警官が現れた。警官の一人が叫ぶ。
「警察です! こっちに来て話を聞いてください!」
咲はそれを聞くと、私の首元を掴んでから体を警官たちの方に向けた。それから私の体を自分の方へ近づけてナイフを首元に突きつけて、警官たちに向かって叫んだ。
「動かないで! 動いたらこの子を殺す!」
私たちの最後の戦いが始まった。
咲の叫び声が冬の夕暮れ空に響き渡った。パトカーのライトがとても眩しかった。
「早まらないで! まだ間に合う!」
「いやもう手遅れよ! 私が友美を殺したの! もう取り返しはつかない!」
「そんなことないよ! だから早まらないで!」
「あなたたちが動かない限りは殺さないよ!」
私たちと警察官たちの間で膠着が続いた。
空はどんどん暗くなって、限りなく夜に近づいていた。何台ものパトカーのライトがこの場一帯を照らしていた。警察官たちは何もできなかった。動いたら咲が本当に私を殺すかもしれなかったからだ。
「ねえ、この世は狂ってるって思わない!」
咲が叫んだ。
「私は友美に傷つけられた! 友達だって信じていたのに! でも、彼女もまた傷つけられた可哀想な人だった! ろくでもない家族と何の意思もないのに人を蹴落とすことだけ考えている学校の連中に!」
咲の言っていたことはその通りだったと思う。友美は様々なことに傷つけられた。ろくに向き合おうとしなかった両親。だからこそ、彼女は人からの愛情を欲していたのだと思う。それでも、それを求めた相手が悪かった。自分のことしか考えていない薄情な連中に愛情を求めてしまった。だから彼女はそれを手に入れるためにはヒエラルキーの上に登るしかなかった。いつのまにか彼女はそれに流されるように咲への妬みのような気持ちが沸いたのだろうと思う。友美は得体の知れない狂気に取り憑かれていたのかもしれない。
その一方で咲も狂気に取り憑かれていたと思う。友美に傷つけられてナイフを持つようになったのは彼女なりに理があるのかもしれないが、やはり狂っていた。
「落ち着いて! ちゃんと話を聞くから、大人しくナイフを捨てなさい!」
警察官の一人が説得を試みた。それでも咲は聞く耳を持たなかった。
「嘘だね! 私の話なんて聞いても理解できないよ! 私だって理解できていないもの!」
「君の心の問題はちゃんと向き合うよ! 治療が必要だったら手伝えることは手伝う!」
「心の問題? 私の心は正常よ! どこも問題ない! ただ、私はどうしようもない衝動を抑えられないだけ!」
咲の手は相変わらず震えていた。彼女は不安定だった。不安定だからこそ、彼女が一番わかっていた。私たちの世界の狂気を。
「ねえ、君にはまだ未来があるはずだ、なのにどうしてこんなことをするんだ!」
警察官が説得を続けた。やはり最悪の結末は避けたかったのだろう。
「教えてあげる! 私は私が一番嫌いなの! だから死んでしまいたい!」
「だからといって、友達を巻き込むことはないでしょ!」
この時、彼女が一歩だけ後退りをした。警察官の言葉が響いたのかもしれない。
「それはそうね……」
気がつけば夜になっていた。冷たい風が体に突き当たっていて寒かった。私の手は悴んでいた。私は何も言えずに咲と警察官のやりとりを聞いていることしかできなかった。私は臆病だった。ここで何かを言えば何かが変わっていたのかもしれないのに何も言えなかった。私は咲のことが好きだったが、一方で実は彼女のことを怖がり続けていた。私はこの場で何かを言うことが怖かったのだ。だから何も言えなかった。
私は殺されたがっていた。彼女に殺されてしまうのならそれで良いと思っていたのに、生への執着が私の心に恐怖を生み出していた。「私を殺して」と言えたら、この後の私たちはどうなっていたのだろうか。
私が何も言えずにいると咲は震えながら、叫んだ。
「もう終わりするわ! 何もかも!」
時が来た。私たちの人生の終わりが。ここから咲は私を連れて飛び降りるのだ。だったら私はそれについていくしかない。私はそう覚悟した。生の執着を捨て去った。
私たちの人生が終わりを迎えようとした時、咲がとても小さな声で私に呟いた。
「ごめんね。大好きよ」
その刹那、ナイフが私の首元から離れた。後ろを振り向くと咲はナイフを自らの胸のほうに突き刺した。
「咲!」
彼女の胸のあたりにナイフが刺さった。刺さったままで彼女は後退りをした。その先は断崖絶壁。彼女は自らの胸からナイフを引き抜いた。引き抜いた瞬間、両手を広げて崖の下へと落ちていった。私はこの瞬間の咲の顔がどうしても忘れられない。満足そうな苦しそうな笑顔だった。
「咲!」
私は崖の下の方を見た。下の海にはもう何もなかった。
「ああ、そんな咲……、あああ!」
私の目の前から彼女が消えた。
彼女があっという間に居なくなってしまった。
この瞬間、私は急に彼女が言っていた言葉を思い出した。
「ねえ、私と来て。私のサイゴの旅に付き合ってほしいの」
私は、なぜ彼女が最後の旅と言ったのかが理解できなかった。だが彼女が消えた瞬間に全てが理解できた。
「ねえ、私と来て。私の最期の旅に付き合ってほしいの」
最後ではない、最期だったのだ。彼女は友美が死んでしまった時から、最初からこうするつもりだったのだ。私を残して一人で死のうとしていたのだ。彼女はこの旅の目的を成し遂げてしまった。彼女なりの人生最期の大冒険だったのだ。
「探せ! まだ生きているかもしれない!」
警察官たちが慌てて動き出した。
「船を用意しろ!」
「どこの署の船が近い!」
「海上保安庁に連絡して!」
後ろを振り向くと警察官たちが無線機でどこかに連絡をしたり、地図を広げて何かを話し合い始めていた。私のことなどお構いなしに。
私は膝から崩れ落ちた。目が崖の下の方へ向けられたままだった。このまま飛び降りようかとも考えた。すると、警察官の一人が私の手を掴んだ。
「あなたまで死んだら、すべてが無意味になる!」
直前まで咲のことを説得していた警察官だった。
「無意味ってどういうこと! あなたも狂ってるの!」
「僕も何でこんなこと言っているのかわからないよ! でも、君が飛び降りるのを止めないと、さっき飛び降りた子が報われない!」
彼は必死に私の手を掴み続けていた。
「それを決めるのはあなたじゃないでしょ!」
私は手を離して欲しかった。だが、彼は離さなかった。
「そうだとも! でも、君はここから飛び降りるべきではない! 僕はそう思う!」
「死なせてよ! 私には何も残っていない!」
「いや、死なせない! それが仕事だから!」
「仕事だから? そんな理由で死なせないでよ!」
「僕は君を死なせたくない、だって死なせてしまったら僕が一生後悔するから」
この言葉が私を呪った。死んでもいいとさえ覚悟した私の心に再び生への執着を生み出した。
冬の夜空を私は見つめた。そこには雲がかかってしまっていた。星が隠れてしまった。
結局私たちは、孔雀座を見れなかったのだと気づいた。
「ああ、何で、何でここまで残酷なの!」
私は夜空に向かって叫んだ。彼は何も言ってくれなかった。
「私たちの旅はどこまでも無意味だったの? 誰か、わかる人、教えてよ!」
彼が本気で私の目を見た。
「それは誰もわからないよ。でもね、いつかはわかるんだ。それがいつなのかは僕にはわからないけど、いつかは意味があったって思える瞬間がやってくるんだよ」
理屈ではそうだと私は理解できた。でも、私の感情が追いつかなかった。
「ええ、そうなんだよね……、けどさ、追いつかないよ。気持ちがさ!」
「ああ、そうだよ。それでいいんだよ! それが人の気持ちなんだから」
私の目に涙が溢れた。私は嘆いた。この世界の残酷さに。
「ああ、ああ……」
私には何もできなかった。
無力だった。
「死なないでね。いいね」
警察官は私にこう言い残して、違う人に私のことを任せて向こうのほうへと走っていった。私はこの警察官のことを今でも忘れずにいる。
私たちの旅が終わった。
咲が崖の下に落ちてから数時間が経った。警察はありとあらゆる手を使って彼女を探したが見つからなかった。彼女は落ちる直前に心臓の近くをナイフで刺したため、仮に見つかったとしても生存の可能性は絶望的に低かった。私は何もできず、近くの岩にただ無心で座っていた。途中で警察官の一人が気を利かせて毛布をかけてくれた。冷たい夜空の下で時間だけが過ぎていった。
しばらくすると車が一台やってきた。降りてきたのは吉原刑事だった。吉原刑事は私を見るなり近づいてきて、私のことを平手打ちした。
「あんたね! 死人を二人も出してどうするんだ! お前の方こそ狂ってるよ!」
その場に居合わせ警察官の一人が吉原刑事を止めようとしてくれた。
「吉原さん……」
「黙れ、このヒラが!」
結局、その警察官も青木さんと同じく彼女のことを止められなかった。
私は何も言えなかった。そうだ、私なのだ。結果的に私が二人を殺したんだ。私が全部の責任を果たさなくちゃいけないんだ。そう思った。
「なんも言わないのね、お前。この死神が!」
吉原刑事は私のことを殴った。自分の思い通りに行かなくて嫌だったのだろう。私は抵抗も何もせずにひたすら殴られ続けた。だって、私が死神だからだ。
「あはは! 死んじまえこの死神が!」
私はその場で倒れ込んだ。吉原刑事はなおも私を殴り続けた。他の警察官たちが吉原刑事のことを止めようとするが、止められなかった。
私はひたすらに殴られ続けた。ここで殴られ続けて死んでしまっても構わないとさえ思った。
「ねえ、あんたなんで抵抗しないの……」
だが、次第に吉原刑事の方が殴る勢いを抑えはじめた。
「なんで、なんで抵抗しないの……、怖い……」
「だって、私は死神だから」
吉原刑事が初めて後退りをした。彼女の顔は恐怖で溢れていた。
私は残った体力を使って立ち上がった。
「死神だからさ、感じないよ痛みなんて」
「じゃあ、あの二人が死んでも痛みはなかったの!」
「あったよ。でもね、おかげで今は何も感じないの」
「おかしい、おかしいよあんた……」
「おかしいのはどっちもでしょ」
「私は、おかしくない。狂ってない。断じて違う!」
「あら、そう。じゃあ、この状況を見て楽しんでいたあなたは正常だって言うの?」
「そうだ! その通りだ!」
「じゃあ、私のことを心底恨みながら、死んでくれ!」
今度は私が吉原刑事のことを殴った。他の警察官たちはもうこの状況を見ているしかできなかった。
私は死神だ。こんな刑事なんて殺してやる。そう思って何度も殴った。
さらに一発殴ろうとした、その刹那。
「やめて!」
「これ以上はやめて!」
なぜか、どこからか咲と友美の声がしたような気がした。幻聴だったと思う。それでも、私には二人が私のことを止めようとしているような気がして、私は吉原刑事を殴るのをやめた。
「ああ、ああ、そうね。私が愚かだった……」
「どうしたの……」
吉原刑事が私に尋ねた。
「どこかから二人の声がしたの」
「二人ともここにはいないのよ!」
「そうね、もう居ない。もう居ないけど、私の中にはいるの」
「二人はいないのよ! 目を覚ましなさいよ!」
「だめ、そんなことしたら私の心が死んじゃうよ……」
「だったら死ね」
そう言い残して吉原刑事は車の方へと戻っていった。
「ああ、そうね。もう二人はいないのよ……」
私は立っているのが精一杯だった。それでも咲と友美はもう居ないという現実に気持ちが引きずり戻されて、私はついに倒れてしまった。
「あああ!!」
私は叫んだ。自分の叫び声だけが冬の夜空に響き渡っていた。
「死んじゃったよ! 二人とも死んじゃったよ! 落ち着いて! 落ち着いてられるか! 死んじまえ! 死にたくねぇよ! 私は誰? あなたは私! 咲よ! いや、友美だよ! そんなことない! 私は私は、誰?」
これ以降、三日間の記憶が私にはない。一時的に自分が誰なのかで混乱しはじめた。その場にいた人から後で聞いた話だが、私は一人で会話を続けて、それから自分のことを殴りはじめたという。やがて、気を失ってしまったようで、気がついた時には病院のベットで横になっていた。
「目が覚めた!」
目が覚めた時、私のそばには青木さんと両親がいた。
「由香里!」
「よかった! 目が覚めて本当に良かった!」
「ここは?」
私は混乱していた。目が覚めたら朝だったからだ。
「病院よ。目が覚めて本当によかった!」
お母さんとお父さんは抱き合って喜んでいた。
「至急、医者を!」
そう言って、青木さんは部屋を後にした。それから彼が昼過ぎまで戻ってくることはなかった。
医者が来て、私のことを診察した。
「名前わかるかな?」
「由香里です。佐野由香里」
「なら良かった」
医者は診察道具を置いて、両親の方を向いた。
「もう大丈夫ですよ。あとは体の回復を待てば退院できると思います」
「ありがとうございます!」
「本当にありがとうございます!」
両親は深々と頭を下げた。医者は一礼すると病室を出ていった。
状況が落ち着いたのを見計らって、青木さんが私の病室に再びやってきた。
「まずは、うちの署の吉原について詫びなければなりません……」
青木さんは地面に座り込んで土下座をした。
「青木さん、そこまでしなくても……」
「いいや、これくらいしないと、何も変わらない」
少しの間土下座をしてから青木さんは立ち上がった。
「吉原刑事は謹慎処分となりました。じきに正式な対応が決まると思います」
「そうでしたか」
「私は、あなた、いや、あなたと倉持さんと石崎さんに何て言ったら良いのかわからないのです。私はあなた方に許されようとは思いません。ただ、あなたたちに謝っておきたかった。私はあなた方のことをありのままに受け止めておきたい。事件の加害者、被害者という関係性ではなく友達同士の三人としてあなた方のことを見ていたい」
私は何も言えなかった。気持ちの整理がついていなかった。何も言えずに時間だけが過ぎてしまった。
「謝るのは早急過ぎたかもしれませんね。では、失礼します」
青木さんが病室を出ようとした。私は今は気持ちがまとまっていなくとも言えることが一つあった。
「あの、待ってください!」
青木さんがこちらの方に振り返った。
「あの、ありがとうございます。謝ってくれて。咲と友美が許してくれるのかわからないし、私も今は気持ちの整理がついていないです。だけど、これだけは言えます。私たちを私たちと認めてくれてありがとうございます」
青木さんは少し微笑んで、一礼してくれた。
「こちらこそ、ありがとう」
青木さんは私の病室を後にした。
私たちは私たちなのだ。青木さんはこの事を受け止めてくれたのだ。
夜になって、お父さんとお母さんは眠ってしまっていた。一人で起きていた私は窓越しに夜空を見つめた。ビル街の光のせいで星は何も見えなかった。看護師さんが運んできてくれたスープを飲みながら私は無心になっていた。何かをしようとする力がほとんど湧かなかった。いつの間にか眠くなってしまって、気がついたら目を閉じていた。私の中には何も残っていなかった。
病室で私は再び夢を見た。
夢を見るのは友美に切りつけられた日の夜以来だった。
ゾンビみたいな私は暗闇に差し込んだ光の方へと歩き続けていた。そこには何が待っているのだろうか。期待と不安を胸に私は、ついに光を掴んだ。光を掴んだ瞬間、それは眩く輝いた。私は思わず目を伏せた。
眩い光があたりを包み込んで、温かな世界を作った。温かな光に包み込まれた私の目の前には綺麗な羽を持った孔雀と綺麗な銀色のナイフがあった。
「孔雀とナイフ……」
私は孔雀とナイフに触れようとした。するとそれは形を変えて人になった。目前に居たのは、綺麗な孔雀色のドレスを着た咲とグレーのワンピースを着た友美がいた。
「友美……、咲……」
私たちは固く抱き合った。私の頬に思わず涙が溢れた。抱き終えると、三人そろって泣いていたことに気がついた。
「ごめんね、こんな結末になっちゃって……」
友美は涙を浮かべていた。
「私たちはあなたを傷つけてしまった……、本当にごめんね」
咲もまた頬に涙を流しながら謝ってくれた。
私は何も言えなかった。ただ、二人に会えたということだけで胸がいっぱいだった。
「友美と私は、これから行かなくちゃいけないところがあるんだ」
「だから、もうこれでお別れ」
彼女たちが残酷な事実を突きつけた。そうだ、二人とももう現実には居ないのだ。
「待って! これからどこに行くの!」
わかっていたのに私は聞いてしまった。友美は微笑んで答えてくれた。
「地獄よ。でも、安心していつかどこかで私たちに会える時が来るから。だから泣かないで」
「こんな状況で泣かないで言われても……」
涙が溢れた。二人が私の肩を握ってくれた。彼女たちも悲しそうだった。
「地獄でもどこでも、私たちは私たち」
「そう、またどこかで会いましょう」
二人が私の肩から手を離した。私の目は涙でいっぱいでよく見えていなかった。
「じゃあね」
「またね」
二人はそう言って、光になってどこかへと飛んでいった。
私は何も言えなかった。何も言えなかった。
「咲! 友美!」
目が覚めるとそこは朝の病室だった。朝日が窓から射し込んでいた。私の目には涙が溢れていた。
それ以来、咲と友美の夢を見ることはなかった。
事件の後、退院した私は警察からの聴取を受けた。事件に関するあれこれを聞かれた末、咎められることはなかった。どうやら、青木さんら事件に関わった警察官たちが私のことを庇ってくれたらしい。そうしているうちに事件から二ヶ月近くが経っていた。
三月の朝。私は久しぶりに学校へ行く準備をしていた。
「本当に大丈夫なの?」
荷物をまとめているとお母さんが私のことを心配してくれた。どうやらクラスのことが心配なようだった。
「まあ、無理はしないよ」
そう言いつつも私はこの時点で無理をしていた。あの事件以来、私はクラス全体のコミュニティーから追い出されていた。連絡がついたのは真希ちゃんをはじめとするほんの数人だけだった。私はそのことをお母さんには言えなかった。
荷物をまとめ終えた私は、制服を二ヶ月ぶりに着た。久しぶりに着ると少しの違和感があった。
「なんでだろ、あのきらきらしている割には中身空っぽで人を蹴落とすことばかり頭にあるクソったれどもに嫌気を感じたからかな」
制服を着た自分を鏡で見た瞬間、咲の言葉が頭の中で反響した。私はもう学校にいる何も知らない連中が嫌になり始めていた。だが、それは気のせいだと思って私は自分の気持ちに蓋をした。そうしないと私の日常が保てなくなってしまうのだから。
「じゃあ、行ってくるね!」
「気をつけてね!」
時間が来たので私は急いで家を出た。私は無理をして笑顔を作った。お母さんはそれでも笑顔で見送ってくれた。
季節が冬から春に変わろうとしていた。私はなんとなく寒さの残る道を自転車で走った。こうやって自転車で走ったのは二ヶ月ぶりだった。久しぶりに走る道は何も変わっていなかった。ただ、変わってしまったのは自分の心だった。咲と友美をほぼ同時に失ってしまった。この頃になると私は、これからどうしたらいいのだろうかとずっと考えていた。
学校に到着した時には、既に朝のホームルームが始まっている時間だった。私は下駄箱に靴を入れようと扉に手を触れた。
「痛い!」
取手に触れた瞬間何かが指に刺さった。私は慌てて取手の方を確かめた。そこにはカッターの刃先のような物がテープで貼りついていた。
「やーい、人殺し!」
「引っかかったね! きゃはは」
後ろを向くとクラスメイトの男の子と女の子が笑っていた。私の指からは血が出ていたのに。
「これで少しは人の痛みがわかったか死神め」
「しーにがみ! しーにがみ!」
死神という言葉を向けられたのはこれで二度目だった。確かに私は友美と咲を葬った死神なのかもしれない。そう思いながら私はただ二人のことを見つめることしかできなかった。
「何みてるの……」
「怖いんですけど……」
私の何に怯えたのかわからなかったが、二人は走り去ってしまった。
「おい、大丈夫か!」
担任の先生が駆けつけてきた。それからすぐに保健室で手当をしてもらった。手当が終わったところでカッターの刃が下駄箱に隠されていたことを伝えると先生は苦い顔をした。
「実はな、事件の後でクラスの仲がこじれてしまって、先生たちも手に負えないんだ」
「手に負えないって……」
「いろいろあるが、昨日は五人くらいで激しい口喧嘩をしていたよ。喧嘩を収めるのに一時間かかった……」
「どうして、そんなことに……」
「なんでだろうな……、クラスをまとめていた石崎があんなことになったから皆んなの何かが壊れてしまった。先生はそう考えている」
先生もまた苦しそうだった。二ヶ月前には目立っていなかった白髪がところどころ目立っていた。この二ヶ月での辛さが感じ取れた。
「佐野、俺はどうしたらよかったんだろうか……、何がいけなかったんだ……」
「それは、私にもわからないです……」
「そうだよな……、石崎と倉持の一番そばにいたのは、お前だもんな。佐野がわからないのなら先生はもっとわからないな……」
「ごめんなさい……」
「いいんだ、謝らなくて。謝るべきは先生の方だ」
先生の目は涙で溢れていた。私の方も心苦しかった。
「良い先生ってなんだろうな? 先生はわからなくなったよ。だから、今月で先生を辞める」
「そんな! それじゃ……」
先生はそれ以上は言わないでくれと言うように涙を拭いた。
「佐野、とりあえず今日は帰った方がいい。授業とかあれこれは気にしなくていいから、とりあえず帰れ」
「でも……」
「いいから」
私は誰にも気づかれないように学校を後にした。何もすることがなかった私はとりあえず、自転車を走らせた。街の中心の方へと自転車を漕いだ。並木道を眺めるとまだ桜は咲いていなかった。私は何気なくスマホのカメラで写真を撮った。
街の中心の方へと出た私は曇った心を少しでも晴らそうとそこで時間を潰すことにした。
まずはじめに立ち寄ったのは新年早々咲と行ったアクセサリーショップだった。
「ねえ、これ良くない?」
「うんこれで良いかも」
二人でアクセサリーを探した時のことを思い出した。思い出して楽しい気持ちになる反面、それから後のことを思い出すと悲しい気持ちにもなった。
途中で制服姿の私を見て怪しげに見てきた店員さんがいたのだが、何かを察したのかそのまま店の奥の方へと戻っていった。私にはそれがありがたかった。それから私は商品棚をしばらくの間見つめ続けた。
見つめ続けているとお腹が空いた。人間というのはどんな状況でもお腹が空いてしまうのかと悲しい気持ちになったが、仕方がないのでアクセサリーショップを出た。何かを食べられるお店を探すこと数分。空いていそうなハンバーガー屋さんを見つけられた。
私はそのハンバーガー屋さんでハンバーガーとポテトを食べた。どんよりとした気持ちなのに、ハンバーガーとポテトが美味しいと感じられた。なんでそう思ってしまうのだろうか。私は私自身のことが悲しくなった。
ハンバーガーを食べた頃には時刻は昼の一時を過ぎていた。私は一月に咲と一緒に行った場所を改めて回ることにした。
二人でシリーズ物の映画を観に行った映画館。
お腹が空いたからと食べに行ったイタリアン。
他にもその日のうちに回ったいくつかのお店。
咲との短くて幸せだった日々のことを思い出した。スマホの写真フォルダを見るとそこにはその日撮った記念写真が何枚かあった。それらを見ているとどうしてこうなってしまったのだろうと改めて感じた。どうして二人とも居なくなるようなことになってしまったのだろうか。もしあの日、友美がナイフを出さなければ。もし、友美が逃げなければ。もし、友美が咲を殺そうとしなければ。
疑問ともしもばかりが頭の中で溢れかえっていた。
場所を移動してベンチに座りながら私は咲と友美のことを考え続けていた。考えても仕方のないことなのにどうして考えてしまうのだろうか。
それは結局のところは私が二人のことを大切に思っていたからに他ならないのかもしれない。だからこそ、未だに私は二人のことでどうしたら良かったのだろうかと悩み続けている。
人がどんどん私の前を通り過ぎていった。私の気持ちなんてお構いなしに世界の時間は進み続けている。なんとなく通り過ぎていく人々を眺めていると一組の男女が隣に置いてあった別のベンチに腰掛けた。
「ねえ、このバック良くない?」
「良いよね」
隣の席で聞き覚えのある声がした。私はそれを思い出せずにどこで聞いた声なのかを考えた。
「ねえ、あいつが死んでからさ私達上手くいっていると思わない?」
女性の方が楽しそうにバックを見つめ続けていた。一方で男性の方も女性の様子を嬉しそうに見つめていた。
「そりゃそうさ。あいつは俺たちにとってめんどくさい存在そのものだったからな」
その瞬間、私はこの声をどこで聞いたのかを思い出した。テレビだ。テレビのニュースでカメラの前に向かって土下座をした夫婦の姿が頭に浮かんだ。それから目の前で話している二人が誰なのかもわかった。
友美の両親だった。彼らの言葉を聞いて私は彼らが自分の娘のことをめんどくさい存在と形容したことに強い怒りを覚えた。私はベンチから立ち上がって二人の前に立った。
「娘がいなくなって喜ぶ親がどこにいるっていうんだ!」
立ち上がるなり私は隣にいた男女に向かって怒鳴りつけた。私なりの全力の大声だった。
「あんた誰?」
驚かれつつも男性の方から問いかけられた。
「誰って、石崎友美の友達です」
私は堂々と答えた。
「ああ、君か。友美を殺した人の友達っていうのは」
彼は手に持っていたジュースを口に含んだ。
「どうしてそんな冷静なんですか……」
私は思ったことをそのまま口に出した。
「だって事実でしょ」
そう言う男性の言葉には自暴自棄のようなものが含まれているような気がした。
だが、この時の私にはそれを受け止められるほどの冷静さはなかった。
あまりにもいなくなった娘に対して失礼すぎる。私はこの二人に対して怒っていた。
「そうですけど、その態度は友美に失礼過ぎるのでは」
「失礼過ぎるって、それはあんたが決めることではないでしょ」
男性の意見には確かに一理あった。これは私が勝手に決めつけていいことではなかったし、ましてや死人の気持ちはわからないからだ。そう思いつつ私は彼らに対しての怒りがさらにこみ上げていた。
男性の方は平気そうな顔をしていた。もう一人の女性の方も平然そうにしていた。だが、二人の態度のどこかがおかしいと直感が告げていた。
「だって、私たちはあの子を産もうと思って産んだわけじゃないからさ、いなくなってもらって清々したのよ」
女性の方が私の目を見ながら軽い口調で語った。
「じゃあ、テレビで謝った時は何も感じてなかったってことですか」
私は思わず聞き返した。
「そうだよ。世間体を気にしてああしなきゃならないからああしただけ」
友美の両親は何も感じていないようだった。娘の死についてまるで他人事のように語っていた。彼らは平気そうにジュースを飲んだ。私の中でますます違和感が大きくなった。やはりこの大人たちを許せることができそうになかった。
私は友美の父親の頬を勢いよく叩いた。彼が飲んでいたジュースが地面にこぼれた。
「痛っ! 何するんだ!」
男性の方が私を怒鳴りつけた。私はそれに怯まないように強い口調で言い返した。
「何するんだって。当たり前のことをしたの!」
彼は拳を握って私のことを殴りかかろうとした。幸い友美の母親の方が彼の手を押さえてくれた。この瞬間、なんとなくだが彼が殴りかかろうとしたのは自分のことを責められたからだけじゃないような気がした。なぜなら二人の態度にはどこか矛盾したようなものがあったからだ。
「当たり前のことだって……」
「そう! こんなことになったのは何のせい? あなた達が友美のことを放っておいたからこんなことになったんでしょ! 私はあなた達を許したくない!」
私は全力で宣言した。私はこの二人を決して許したくない。そう固く思っていた。
「俺らのせいでこうなったって、言いがかりにも程がある」
友美の父親からは直前までの余裕が感じられなかった。言い返したいことがあるようだった。
だが、
「事実でしょ」
私がそう言った途端に彼は黙り込んでしまった。彼は頭を抱えて何かをか考え込んでいるようだった。彼は空を見上げて涙を浮かべた。その涙には何か苦しい物が感じられた。
やがて、友美の父親は空を見上げながら心の内を明かしてくれた。
「ああ、そうだな。確かに事実さ。もちろん、あんたの言う通り俺たちにも非がある。俺たちの無責任な態度のせいで友美を苦しめてしまった。だがな、あいつが苦しんでたのは俺たちのこともそうだが、学校のこともあったのじゃないかと今になって思うのさ」
彼は本当に悲しそうだった。
私は頭が真っ白になってしまった。
訳のわかならない感情が頭の中で駆け巡っていた。
その間に今度は母親の方が辛そうな顔をして、私に教えてくれた。
「私たちは友美のことをほったらかしにした。友美はだんだん壊れていったから次第に関わるのが面倒になってしまった。友美は気づいていたんだろうな、私たちがちゃんと自分と向き合ってくれていないことにね。心が壊れていく友美が怖かった。どうしていいのかもわからなかったから……」
はじめ、私は彼らは責任逃れのためにデタラメを言っているのではないかと思った。だが、二人の苦しそうな顔や言葉には嘘が無さそうだった。それに気づいた瞬間、私はその場で膝から崩れ落ちた。
「じゃあ、私はあの二人が死んだ責任をどこに求めたらいいの……」
思わず口に出してしまった。言ってしまった後で、これは許される言葉ではないと気づいた。友美の両親は私のことを怒ってもいいところだった。それでも彼らは怒らなかった。いや、怒れなかったのだと思う。
「責任か。俺たちにもこうなった責任はあるさ。頼むから俺たちのことを許さないでくれ。それが、君なりの弔い方なのなら」
彼らは友美が死んで苦しんでいたのだ。自分達の無責任さが原因でこうなってしまったと負い目を感じていたのだ。だからこそ、どうしたらいいのかわからなくなって、あんな態度になってしまったのではないか。私はそう思った。
そう思った瞬間、私の中で怒りが鎮まった。徐々に冷静さを取り戻して、やがて友美の両親に対して申し訳のないことをしてしまったと反省した。
「ごめんなさい。お二人のことを責めてしまって……」
私は彼らに向かって深く頭を下げた。
「いいんだ。友美が居なくなってから上手くいくようになったと言った俺たちの方も謝らないといけない。申し訳ない」
彼らは私に向かって頭を下げた。私はそれに対して何も返す言葉がなかった。
春の空は澄み渡って綺麗だったが私の心はぐちゃぐちゃのままだった。
友美の両親に謝られた後、自転車を押しながら私は考えた。
私たちにはああいう結末しか有り得なかったのか。
どうすれば、あの結末を回避できたのか。
この頃になると私の頭の中には、考えていても仕方のない、途方のないたらればしか出てこなくなっていた。
私は自転車に跨って、全速力で漕いだ。
「うわああ!」
行き場のない感情を叫びながら。
家に帰っても自分の部屋でずっと考え込んでしまった。
咲と友美の死には私たち全員が責任を負わなくてはいけないような気がしていた。私や二人の家族、学校の皆んなに刑事。その全員が最終的には二人を死に追いやってしまったからだ。二人のいた日々はもう戻ってこない。それが悔しかった。
「ねえ、二人とも。どうしていなくなっちゃったの……」
独り言だった。彼女たちがいなくなってしまった理由はなんとなくわかっていた。だけどどうしても納得することができなかった。
咲が死んでしまった直後に夢で見た、地獄へ向かうと言っていた二人の安らかな声がなんとなく頭の中で再生された。どうして、あんなに安らかそうだったのだろう。気がついたら夢の中の話なのにどうしても真剣に考え込んでしまっていた。
なんとなく思い立ってクローゼットの中に仕舞ってあった、咲から借りたままの衣服を取り出した。あれ以来着ることはなかったが、終ぞ彼女に返すことができなかった。それから更に思い返して、咲と一緒に買ったアクセサリーをタンスの中から取り出して机の上に置いた。
私はなんて大切な時間を彼女たちから貰ったのだろうか。二人との思い出の品々とスマホに保存されていた写真の数々を眺めて、あの二人が生きていた時間は二人がどれだけ喧嘩をしていようと、二人から傷つけられようと大切な時間だったと思う。
二人との日々を思い返して私は泣いた。泣いて泣いて、枕を濡らした。
一通り泣き終えて咲から借りた服を見つめた。
私は、彼女から借りたままだった服を今度こそ返そうと思い立った。